◇
序章:太陽の無い世界で
さて。
くだらない英雄譚を一つしよう。
全てが溶け合う旨い闇が広がる世界、それが当時の魔王が知る世界だった。
『エンシェントスピリット、エボリューション!』
そこに射し込むのは、希望という名の光。
眩い輝きを放ちながら、この世界の最初にして最後の希望となった戦士達の体が一体化していく。後にダークエリアと呼ばれる暗黒空間に初めて射し込んだ輝きは、確かに生まれたばかりの世界を照らす道標に他ならない。
魅せられた。対峙する魔王もまた、その輝きに魅せられていた。
やがて出現したのは、金色のラインを全身に走らせ、朱に彩られた強固な鎧を身に纏う異形の者。火炎の龍と閃光の狼を両腕に宿し、戦士達全ての魂を力へと変えるその存在は、世界の支配と破滅を目論むとされる傲慢の魔王、ルーチェモンの前で英雄としての産声を上げた。
英雄の名は太陽の神人、スサノオモン。
その瞬間、世界には確かに光が舞い降りた。
「貴様は──」
「伝説の十闘士の魂を受け継ぎ、貴様を倒すために生まれた……スサノオモン!」
「スサノオモンだと? ……面白い」
「何が面白いものか……!」
軽く上唇を舐めるルーチェモンに、スサノオモンは怒りの炎を燃やす。
スサノオモン──正確に言うなら彼を形作る十人の英雄達──は、彼の魔王の手によって荒廃した世界を嫌というほど目の当たりにしてきた。仲間を失い泣き叫ぶ幼年期デジモン達、魔王の影響で凶暴化した大型のデジモンによって滅ぼされた多くの町々、そして自分達を信じて送り出してくれた〝仲間〟と呼ぶべきデジモン達。それら全てが、彼らに命じる。ルーチェモンを倒せと。そして、このデジタルワールドに真の平和を取り戻せと。
目の前の魔王を倒さねば、この怒りは決して消えない。そしてまた、この世界に真の平和が訪れることも無いのだ。
「貴様の存在は……全てのデジモンを不幸にする!」
「……貴様が我を倒したところで、結果は同じだと思うが? 貴様が我に成り代わるというのなら、それも良し。だが貴様にそれほどの器は感じられん。……世界を平和に運営するためには、優れたシステムと、それを実行する絶対者が必要なのだ。そして、その責を負うに最も相応しい者は我しかいない。……何故なら、我は最初からそうなるべくして生まれた存在なのだからな」
「勝手なことを言う……!」
「我の言葉は真実だ。全て……な」
謳い上げるように語るそれは、ルーチェモンの本心であった。
光輝と闇、相反する二つの力を己が体に内包する魔王、ルーチェモン。彼の目的はデジタルワールドの平和的運営であり、それ以上でも以下でもない。そして、彼は自分以外にその支配という名の運営を行うに相応しい存在はいないと信じて疑わなかったし、だからこそ今の戦乱を引き起こした。それも全て、ルーチェモンなりの〝愛〟に基づいた行動だったわけである。
そう、ルーチェモンはデジタルワールドを愛しているのだ。誰よりも、遥かに──。
だが同時にルーチェモンは気付いていた。本来なら自分と相見えることすら叶わぬはずの下々の存在に、いつの間にか自分の本音を語っていたことに。己が本心をここまで饒舌に語ったことなど、思い返せば自らと同等の存在である七大魔王相手にもしたことはなかったというのに。
その感覚が魔王に齎したのは甘美であり、また愉悦であった。
目の前に現れた自らを英雄と嘯く未知数の存在を、己にとって脅威であると無意識の内に感じ始めている自分に気付いたからだ。こんな感覚は、少なくとも今まで感じたことは無かった。同志として生まれた七大魔王達との関わりの中でさえ、これほどの込み上げるような楽しさは無かったはずだ。
だからこそ、魔王は戦いを望む。英雄を名乗る者の力を試してみたくなる。
「……我が間違っているというのなら、我を倒して、それを証明してみせよ」
「言われなくとも!」
一瞬にして間合いを詰めたスサノオモンが放つ右拳。
咄嗟に身を捩らせたルーチェモンであったが、完全に回避するには至らず、右背部の天使の翼を僅かながらも持って行かれる。だが白い羽根が舞い散る様に陶酔する暇も与えず、二撃目が来る。今度は強靭な右の足を振るっての蹴撃。右腕で受け止めようとするも、蹴りの勢いが凄まじいためそれは叶わず、弾かれるようにして大きく後退する。単純な体術だけなら、スサノオモンの攻撃力はルーチェモンのそれを遥かに上回っていると見た。
なるほど、一撃でも受ければ生半可では済まされまい。
汗のひりつく感覚は悦楽。だが負けてやるつもりも到底無い。
「……なかなかやるな。だが……パラダイスロスト!」
「ぐうっ……!」
かつて如何なる戦士をも退けた、ルーチェモンが誇る最強の連撃だ。目にも留まらぬスピードで繰り出される拳が、スサノオモンの胸部を幾度と無く打ち付ける。だが一発一発が軽い。スサノオモンに明確なダメージを与えられていないのは明白だった。
連撃で決定打を与えるには至らず、僅かながらも体勢を崩したルーチェモン。その隙を、スサノオモンは見逃さない。
「お前を倒し、俺達がこの世界を救う!」
瞬時にスサノオモンの腕に出現したのは巨大な究極蛇神器。
ZERO-ARMS(ゼロアームズ):オロチ。かつて人間達が開発したといわれるデータの屑が、デジタルワールドにて具現化した神器。その様は巨大な神剣か、それとも大砲か。禍々しさすら覚えるその威容は、世界の破壊と再生を司る者が持つ武器として相応しい威圧感を誇っていた。
「天羽々斬!」
神器から発せられた輝きが、眩い光の剣となってルーチェモンを襲う。受ければ自らにも致命傷を与え得ると瞬時に判断し、間一髪で回避する。
標的を見失った神々しい光の斬撃が空間を切り裂き、底の見えないほどに仄暗い大地が真っ二つに割れる。全てを超越する圧倒的な破壊力にルーチェモンは魅せられる。光と闇の力を一つにし得る自分を倒さんとする強き意志、そして目の前で見せ付けた破滅的な戦闘力。その二つを併せ持つ眼前の存在が宿す力は自分とも同等か、もしかしたらそれ以上かもしれない。長らく侮蔑の対象でしかなかった存在が我と同じ場所まで来たということか、と敵ながらルーチェモンは対峙する英雄を称賛していた。
無論、敵は攻撃の手を緩めようとはしない。
「これで終わりだ! 八雷神!」
間髪入れずにスサノオモンが左腕を掲げると、闇に包まれていた空に雷が迸り、黒雲の中から八匹の巨大な竜が出現した。猛々しい雄叫びを上げながら、雷を全身に纏った光の竜の群れは一直線にルーチェモンへと襲い来る。凄まじいスピードだ。流石に回避困難と見たルーチェモンは、両腕からエネルギー弾を放ってそれを迎撃する。
その時だった。この世界の歴史を左右する決定的な刹那が訪れた。
乱れ撃たれるエネルギー弾の内の一発が狙いを外れ、ぼんやりと彼らの戦いを見上げていた幼年期デジモンへと飛来した。
見覚えのないデジモンだった。少なくともルーチェモンの配下ではなく、かといって目の前の太陽の闘士の仲間とも思えない。故に彼がダークエリアに迷い込んだのか、それとも元よりこの場所に生まれ落ちたのか、そのどちらかはわからないが、魔王と英雄の戦いに巻き込まれて死ぬのなら構うまい。傲慢の魔王に相応しい思考を以って、ルーチェモンは彼の者が砕け散るだろう様を見据えていた。
だがスサノオモンの行動は、魔王の予想の上を行く。
「危ない!」
「……なに?」
思わず飛び出したスサノオモンの行動に、魔王の口から発せられたのは純粋な疑問の色。
魔王が呆然と見つめる先で、太陽の闘士はその幼いデジモンを庇うように身を投げ出し、そのエネルギー弾の直撃を受ける。自身が認めた敵の全く予想外の行動に戸惑うルーチェモンの目の前で起こる大爆発。圧倒的な爆煙が周囲を覆った。
「──────」
物心つかぬ幼子のように、魔王の心は疑問で満たされていた。
理解できなかったのだ。伝説の英雄の魂を結集させた太陽の闘士の力は、十二分に自分を倒して余りある。己の全力を出して戦う歓喜、絶対的な力を持つ己が敗れ得るという恐怖、初めて味わう二つの感覚に身を委ねたルーチェモンは、気付けば彼になら敗れることも致し方ないとさえ思い始めていたのに。自らと同じ高みに辿り着いた人の子が、もし自らを打倒できたなら、その後に如何なる世界を築き上げるのか、楽しみでさえあったのに。
そんな傲慢の魔王が初めて認めた英雄は、取るに足らぬ幼年期を守る為に、勝利の機会を逸したのだ。
「愚か……な」
小さく絞り出した魔王の声は震えていた。その理由は魔王にもわからなかった。
噴煙が晴れた時、そこには激しく損傷したスサノオモンの姿がある。幼年期デジモンを庇うように彼の上に覆い被さった太陽の闘士は、無様に亀裂の入った鎧と砕け散ったオロチの残骸──見たことの無い剣だった──こそ残されていたが、既に死に体と言えた。少なくとも先程の魔王と伍する戦闘力は最早期待できまい。
「……己の身を投げ出して弱者を救うか。それもいい。だが──」
やはり貴様は、神にはなれない。
刹那、ルーチェモンの心中に宿った感情は落胆であった。少なくとも魔王自身はそう結論付けた。大義の為に少数を見捨てることのできる心の強さ。それを持つ存在でなければ、この世界を治めることなどできはしない。膨大な世界のシステムの頂点に立つ存在から見れば、地上に這い付くばって生きているデジモン達など、蚤以下に見えても致し方無いのだ。
所詮、奴と自分は違う。人の子が世界の頂点に立つ魔王と同じ場所に至ることなど有り得ない。改めて突き付けられたその事実が、ルーチェモンの胸に僅かに寂しささえ宿らせる。
「スサノオモンよ。やはり貴様にこの世界を治める権は無い。……デッドオアアライブ!」
掲げられた堕天使の掌底から眩い光のエネルギー、そして続け様に禍々しい闇のエネルギーが放たれ、傷付いたスサノオモンの体を覆い尽くした。やがて、一体化した光と闇の力がその内部に想像を絶する超重力を発生させ、その場に存在するもの全てを粉々に叩き潰していく。
そのエネルギー体の中から響いてくるのは、英雄になれなかった者の悲鳴のみ。
「ぐ、ぐあああああああーっ!」
「我を一瞬でも驚嘆せしめたことは賞賛に値する。……さらばだ」
ルーチェモンの言葉と共に、デッドオアアライブ内の超重力が一層強力なものとなる。
光と闇を融合させ得る魔王であるからこそ放つことのできるその技は、内部へと取り込んだ敵を決して逃さず、確実に押し潰す。如何なる強さも、この技の前には意味を成さない。そして、それは傷付いたスサノオモンとて例外ではなかった。
光と闇の融合体の中で、スサノオモンの体が四散する。先程まで傲慢の魔王を敗北寸前にまで追い詰めていたとは思えないほどの、極めてあっさりとした最期だった。元よりこの世界には存在していなかったはずの十闘士とは一体何者であったかなど、最早ルーチェモンには関係の無いことだ。
太陽の闘士は敗れ、データの塵と化した。ただそれだけが事実なのだから。
「──────」
聞き取れないほどの小さな声がして、ルーチェモンはそちらに目を向ける。
見れば戦いの決め手となった不躾なギャラリーは、大きな目を丸くして消え失せた英雄がいた場所に向けて何事かを叫んでいた。傲慢の魔王ですら見たことの無かったその幼年期デジモンもまた、間違い無くデッドオアアライブに巻き込んだはずだが、彼が生きているということは太陽の闘士は最後の力を振り絞って超重力の外へと投げ出したということなのだろうか。
「……大した甘さよ、そこまで行けば本物よな」
精一杯の侮蔑を込めたつもりだったが、自らの声に自然と称賛の色が混じったことに魔王は気付く。
愚かしいにも程がある。魔王を倒さなければこの世界に真の平和は訪れない、太陽の闘士はそう言った。そして彼は、彼らは十分にそれを実現できるだけの力を手に入れた。そうであるにも関わらず、取るに足らぬ幼年期を見捨てられず、彼を守る為に勝利を捨てた様は、ルーチェモンから見れば愚者以外の何者でもなかった。
それなのに、そのはずなのに。
「スサノオモン……!」
その名を噛み締める。忘れぬように、胸に刻み付けるように。
美しいと感じたのだ。素晴らしいと感じたのだ。たとえ見る者に愚かだと嘲笑されたとしても、決して魔王にはできぬその在り方は、紛れもなく英雄そのものであると。
「……さらばだ」
せめてもの手向けの言葉。
最後に残された彼らの“魂”が静かに粒子化していく様を、ルーチェモンは静かに見つめていた。
そして、世界は闇で満たされた。
くだらぬ英雄譚だったろう?
見るに堪えぬ愚かしさだったろう?
魔王を倒した十闘士(えいゆう)などいない。
邪悪なる者と戦い続ける聖騎士集団など存在しない。
そこに在るのは世界だけ。
ただ、愚か者達(デジタルモンスター)が生きる世界があるだけだ。
◇
ルゥくん、アナザーミッションみたいな声してそうですね
なんかルゥくんがちょっとだけ可哀想になって
どうも、いつも感想をありがとうございます。快晴です。
おそれながら、今回は逆に、私が感想を投げる側でございます。……いつも頂いている素敵な感想にはとても及ばないのですが、どうかお納め下さい。
謎めいた序章の前日譚。記憶を失っていく、あまり良い人生過ごしてきた訳では無さそうな女の子・琥珀さんと、彼女の傍らに在る、怪しさ満載ながら琥珀さんの事は大切に思っているらしいアヌビモンとのやり取りからするに、次の序章は2008年から始まるのかな? と思っていたら最初からクライマックスでびっくりしました(小並感)。
戦闘描写、そして初めて追い詰められていく感覚に高揚を覚えるルーチェモンの姿にこちらもドキドキと、手に汗を握りながら拝見したのですが、ルーチェモンも述べていた通り驚くほど呆気ない幕切れとなり、しかしその後の世ではルーチェモンは封印された事になっているっぽい……? と、謎が謎を呼ぶ展開。
その後として語られるデジタルワールドの歴史もすんなりと受け入れやすく、終焉の物語の始まりだという不穏な言葉に急かされて、ここにある世界がこの先どうなっていくのだろうと次のコメント欄に画面をスクロールさせていったところなんかクライマックスっぽくてびっくりしました(2回目)。
冒頭の文章や最後にあった主人公? の決心を見るに、彼は炎の闘士なのか。だけど滅ぼしたって一体……? 最初のメギドラモンは……? と、どんどん謎が募るばかりで、しばらくは続きが気になって夜しか眠れそうにありません。
ただ、謎は重なるものの、描かれる情景はくっきりと目に浮かぶような鮮やかな物ばかりで、それだけに今後の展開を想像するだけでドキドキしてしまいます。
ルーチェモンが、スサノオモンの庇った幼年期の事を「見覚えの無い」「見た事が無い」と言っていたり、この主人公? さんの回想? に傲慢さの滲み出る台詞があったり……もしやこの1体と1人は同一人物なのでは? 等々勝手に想像しまくっているのですが、こればっかりはリブート前未読の特権かなと楽しんでいます。
12年前の作品をリメイクした物、との事ですが、自作品リブートは過去の自分との戦いですよね……私も数年前のでさえ結構ひーひー言ってます。
大変な執筆だとは思いますが、この先の展開を、続きを楽しみにしております!
それでは、つたないものではありますが、以上を感想とさせていただきます。
というわけで、滑り込みで一週間に一度投稿を守り抜いた夏P(ナッピー)です。この作品いくつ序章があるんだ。
12年ほど前に書いていたものを少しずつ改訂し、やっと世に出すことと相成りました。HPを作る際にも序章に追記したりしていたので、今回はそれを一つに纏めたものとなります。基本的に過去の自分を尊重する意味で、当時の雰囲気を可能な限り残すよう努めております(しかし回りくどい表現が好きすぎる)。
次回からやっと本編が始まりますので何卒宜しくお願い致します。
>羽化石さん
前回感想ありがとうございました。ピッピは最強だ!
風は炎に、氷牙は剣に──。
その青年の辞書に、誰かを「見捨てる」という単語は存在しなかった。
それは当然のことだ。青年にとっては世界の全てが愛すべきものであり、また世界の全てが自分自身であった。それ故にそれらが危機に陥ったとなれば助けようとした。救いを求められれば当然のように駆け付けた。それが彼の在り方だったし、そう在り続けようとした。
だからこそ、皆から憧れられるのではなく、愛される“英雄”を目指そうとした。
『……お前のその在り方は醜くも美しいな。だがいずれお前自身を殺すかもしれんぞ?』
そう言った者の姿が、今ではもう思い出すことができない。いや、その言葉すら曖昧だ。
皮肉そうな笑みを浮かべた“彼”は、恐らく自分の親友だったのだと思った。親友であると同時に、最高の相棒でもあったはずの“彼”と別れてから、既に十数年の時が経っており、既に“彼”と関わっていた頃の記憶すら不確かだ。とはいえ、それも当然のことだったのかもしれない。元来、自分と“彼”は最初から相容れないはずの存在なのだから。
自分が救わんとしたのは、二つの世界。自分自身が生きる表の世界と、彼にとって関係すら無い裏の世界。それでもその二つの世界こそが彼の全てであり、それ故にどちらかを救うためにどちらかを捨てるということは、彼にはできなかった。
それなのに、そのはずなのに、最後には見捨てることしかできなかった。他に方法があったかもしれないのに、何か救う手立てがあったかもしれないのに、全てを見捨てることしかできなかった。それも、自分にとって何よりも大切だった少女の命を糧にしてまで。
そうだ、ならば最初から世界など救う必要は無かった。大好きだった少女を死なせてまで、自分に何を守る必要がある?
「……ごめんな」
己の腕の中で息絶えた女を見やる。二度と動かないそれ──ああ、もう“それ”でしかない──を前にして、偽善と知りながらも涙が落ちた。
どうやら自分は最後まで自らの理想を自らの手で汚してしまったらしい。今度こそ守ろうと誓ったのに、今度こそ理想を貫き通そうと決意したのに、自分はそれすら叶えられなかったというのか。自分には非凡な力があるなどと思ったことは一度として無いが、それにしたって無力が過ぎるのではないだろうか。何か一つぐらい、誰か一人ぐらい守らせてくれたっていいのではないだろうか。
そんな時、記憶の底からある言葉が蘇る。
『それが貴様の傲慢だ、小僧。』
その声はそう言って嘲笑っていた。恐らく自分がこうなることを知っていて、嘲笑っていたのだ。
それが許せなかった、憎かった、何よりも信じたくなかった。世界を滅ぼした自分、自分に彼女を殺させた世界、世界をそう仕向けた傲慢の魔王、そして魔王を存在させた運命それ自体を。だから今の彼はただ、自らが歩んできた道を否定することしかできなかった。
それが悪しきことだとは知っている。けれど、それしかできなかった。
「……許サナイ」
憎悪に満ちた声が頭上から響き、自然と顔を上げた。
生まれ育った街を焦土へと変えた悪鬼がそこにいる。その憎悪と憤怒の炎で世界の全てを燃やし尽くすと言われた邪竜は、空をも覆い尽くさんばかりの威容を以ってこちらを見下ろしている。カタカタと鳴る牙の間から滴り落ちる涎がアスファルトを焼き、血走った瞳は今すぐにでもこちらを食い殺したいと告げている。大切な女性の命を自分に奪われたとなれば、彼の怒りもまた当然だったろう。
討たれてやるのも道理だ。自分がそれだけのことをしたという自覚はある。
だが。
「メギドラモン……」
彼の名を呼ぶ。最初から気に入らなかった彼の名を、多分出会った時から最後には雌雄を決しなければならないと思っていた憎きデジタルモンスターの名を。
憎しみ、今まで否定してきたその感情。
「……殺してやる」
それを知覚した瞬間、誰よりも清廉潔白だったはずの彼の魂は、何よりも悪しき存在へと転移した。
今でも時々、夢を見る。
階段から足を滑らせた男が、踊り場で倒れている。両目は見開いたまま、足は大きく広げられ、右膝が奇妙な方向へ捻じ曲がっている。ただ、右の腕が頭上へと突き出されている様は、まるで「自分はまだ死ねない、死にたくない」と訴えているように見えた。きっと男自身にも、自分に何が起きたのか全くわからなかっただろう。その意味では彼は幸せとは言えまいか。
自分はその様を無表情で見やっている。
『死んだの……?』
口から出たのは、そんな当たり前の言葉だ。
それと殆ど同時に、男に駆け寄る兄弟達によって横から突き飛ばされ、自分は転がる。視線の先には既に骸となった男の体を抱いて、虫唾が走るくらいに泣き喚く兄弟達の姿。鬱陶しいと思いながらも、どこかそんな彼らの姿を美しいと思っている自分がいた。
自分にとっては義父であり、また同時に師でもあった人物の死を前にしても、自分の心は驚くほどに冷静だった。
大切な人の死を前に涙するなんて、そんなことは当たり前だと思っていた。けれど、自分は泣けなかった。言われてみれば男の骸を前にした今、確かに悲しいという思いは湧き上がっている。それなのに、何故か涙腺が刺激されない。故に彼の死そのものには自分は何ら悲しみを覚えていないのだと、殆ど絶望に近い思いを抱くしかなかった。
けれど、数秒後に自分は涙を流していた。
その理由は簡単だった。遺体に縋り付いて泣き喚く妹、悲しみに耐えるようにキッと唇を噛み締めている兄、状況が読めずとも他の兄弟達の雰囲気に飲まれて涙を流している弟。そんな彼らの姿を見ていたら、自然と涙が溢れてきた。義父の死にすら泣けなかった自分が、彼の死を悼む兄弟達を前にして、初めて涙を零したのだ。理由など簡単だった。自分はただ、悲しむ兄弟の姿を見ていたくなどなかったというだけのことだ。
そう、誰かが泣くのは嫌だった。
故にその時、自分は決心した。自分は誰かを守れる人間になろうと。もう誰かに二度と悲しみは抱かせない、誰かに二度とあんな顔はさせない、そんな人間になろうと。正義の味方でも悪の権化でもなく、ただ自分の意志を貫くために強くなろうと決めた。
そんな時、不意に背後に誰かが立つ。
『……へえ、死んだんだ』
何か冷たいものを感じて、自分は振り返る。義父が死んだというのに、その口調は先程の自分よりも遥かに冷酷だ。故に振り返った自分が見た者は、確かに義父に引き取られた人間だった。けれど、何故か男だったか女だったか、大人だったか子供だったか、その辺りのことを殆ど覚えていない。印象が薄かったのか、それとも何らかのアクシデントがあったのか。そもそも、単純にこれが夢だからかもしれない。
それでも、あの時の“アイツ”の表情だけは覚えている。
端整かつ流麗なその顔は、自分にとって愛すべき家族であるはずのその顔は、恐ろしいほどに歪んでいた。
ゆっくりと視界が開けていく。
「んっ……」
最初に感知したことは、何か眩しいということだった。
恐る恐る目を開けてみる。すると、視界には自分が暮らしていた都会では見ることのできないほどの綺麗な青空が広がる。雲一つ無いまさに快晴とでも呼ぶべき天気である上、鼻に付く匂いも随分と綺麗に感じる。少なくとも、排気ガスの影響は全く無いように思えた。
そこで何気なく思った。自分は死んだのではなかったか?
「おおっ、ようやくお目覚めかぁ、寝坊助の兄ちゃんよぉ」
「……お前は?」
陽気な声と共に視界に飛び込んできたのは一人の少年。声音の通り、陽気な笑顔を浮かべている。
「俺か? 俺はアンタの仲間だよ。……まあ、そう言うと語弊があるかもしれないけど、とにかく同じ立場に立つ者さ。名前はロビン。ロビン・フッドのロビンだ、よろしくな」
「ああ、良くわからないがよろしく。………………っ!?」
腰を払って立ち上がった途端、思わず目を擦って再び見てしまった。その少年の連れている一体の小竜を。
背丈こそ少年の腹ぐらいまでしかないようだが、二本で体全体を支えるその後ろ足は強靭に発達しており、思い切り踏み込んで体当たりでもされたら一溜まりもあるまい。額に装着されたインターフェイスの意味は良く知らないが、とにかくその小竜は彼の良く知る生物の一種であることに間違いは無いはずだった。
そして、だからこそ聞いていた。
「デジモン……なのか」
「当たり前だろ。ここ、デジタルワールドだぜ?」
「デジタル……ワールド」
気付けば、信じられないといった口調で呟いていた。周囲を見回してみると、自分達がいるのは小高い丘の上らしい。そこからは視界全体に広がる広大な草原の様子が容易に見渡せた。
木陰では二体のティラノモンが昼寝をしている。草々が高々と生い茂った場所でモノクロモン同士が角をぶつけ合っている。トリケラモンの群れが地響きを立てながら高原を移動し、その上空にはエアドラモンが何体も飛行している。そんな合間を未だに成長過程であろう小さなモンスター達がはしっこく走り抜けていく。
それは確かに、デジタルワールドだった。
かつて他ならぬ自分が自らの手で滅ぼしたはずの、デジタルワールドだった。
「──────」
だから。
「……兄ちゃん、何で泣いてんだ?」
「泣いてる……? ああ、俺は泣いているのか」
そう言われるまで、頬を伝う液体に自分は気付けなかった。
自分はその世界の実状を知らなかった。ただ他者に断片的に聞かされていただけで、また他者が苦しむ姿を断片的に見せられていただけで、その世界そのものを見たことは一度として無かった。それなのに偉そうな大儀を並べて戦った。結局は己が欲望と一時の感情に身を任せて皆が生きている世界を滅ぼした。そのはずなのに、滅ぼしたはずの世界が目の前にある。
だから自然と涙が出た。ただ嬉しかった。きっとその時の男は、そんな感情しか持てなかった。
「ロビンと言ったな。……お前はこの世界、好きなのか?」
「あ~、まあな。昔は嫌いだったけど、今は大好きさ。……兄ちゃんは?」
その言いよどむロビンの様子に少しだけ違和感も覚えたが、大して気にも留めずに答える。
「……無論だ。愛している、誰よりもな」
だから戦おう、この世界を守るために。その身に宿る炎の力と共に、この世界に害を成す全ての者を排除してやる。そう決意した瞬間、唐突に自らの役割が理解できた。そう、元々がそうなのだ。自分はそう在るためだけに生み出された英雄。決して消えぬ炎を身に纏い、世界を守護する闘士。
世界を守る、何て単純な答えだろうか。だがそれ故に心強く、その答えと共に自分は全ての邪悪を消去することになるだろう。
闇は光に、雷牙は砲に──。
ふと、そんな不思議な言葉が思い出された。
己と対になるどこか懐かしいそれは、果たして誰の言葉だっただろう?
小さな世界の終焉の話をしよう。
そこに奇妙な世界が在った。
いつから在るのか、どうして在るのかもわからず、その世界はただ存在していた。人間の住む世界とは全く以って異なる生物が生まれ、暮らし、そして死んでいく世界。弱き者は強き者によって容赦無く駆逐され、その強き者も更なる強き者によって淘汰されていく、そんな弱肉強食をこの上なく体現した、単純明快な世界。
故にその世界で生きる者達もまた、その至極簡単な理から解き放たれずにいた。
彼らは互いに憎み合い、食い合い、滅ぼし合うことしかできない生き物である。それ以上でも以下でもない。けれど、考えてみよう。その弱肉強食の理が存在する限り、そこに必要以上の戦いは生まれない。餌として、糧として互いの存在を求めるのであれば、それ以上の戦いは決して起こるはずが無いのだ。だからこそ、その世界はそうして歪ながらも安定した時の流れに身を委ねていく。
そう、そのはずだった。
しかし一体の魔王の降臨により、世界は変わり始めた。
その魔王の名はルーチェモン。聖なる白き翼と邪悪な黒き翼を兼ね備え、世界を光へと導く天使族としての力と全てを闇と成す悪魔族としての力を併せ持つ、自らこそ世界の支配者と嘯く傲慢の魔王だった。
彼の魔王には一人の部下すら存在しなかったというのに、世界の全てが瞬く間にルーチェモンの手に落ちることになる。当時の世界にはルーチェモンに対抗できるような強者は存在しなかった。そもそも、魔王の攻勢に対抗するという考えすら当時の彼らには浮かばなかった。何故なら彼らにとって、その『考える』という行為自体が全くの想定外の事象であったからだ。
だから当然の帰結だった。上に立つ者に歯向かうことすら知らぬ者達が、その圧政を退けられるわけも無い。程無くして世界は闇に包まれ、ルーチェモンによる暗黒の支配が開始されたのだ。
そしてその時を迎えることで初めて、今まで世界で弱肉強食という名の平和を享受してきた無知なる者達はようやく悟ったのである。これは良くないことなのだと、あの魔王による支配は決して自分達の望んだ世界ではないのだと。
言うまでも無い。これは皮肉であろう。今まで自分達がある意味では平和であり、また同時に幸福であったことさえ知らなかった者達は、ルーチェモンという名の脅威の下に晒されたことで初めて、己の頭脳を以って考えることを学んだのである。
彼らが最初に得た感情は、理不尽な支配を強要する魔王への怒り、元の平和だった世界を回顧することによる喜び、そしてこんな世界は嫌だと全てを否定する悲しみの三つ。
そう、この三つの感情を得たことで彼らは真に生物として存在し得た。所詮は原始的な構造しか持たない肉体で活動しながらも、その頭脳は極めて我ら人間に近しいと言える生き物となったのである。
故に彼らは一心不乱に求め続けた。自分達をこの支配から解放してくれる英雄の到来を。魔王の手で暗黒に包まれた世界を打破し、自分達に光を齎してくれる勇者の降臨を。
そうして、その願いは聞き届けられた。どこからか十体の戦士が現れたのである。この世界に存在する十の属性を各々に宿した彼らは、光と闇の力で世界を牛耳らんとするルーチェモンに敢然と戦いを挑んだ。かつての平和を取り戻すため、そして自らの手で新しい未来を掴むために。
それはこの小さな世界に伝わる、創世記の超決戦。
嘘か誠かはわからない。仔細も不明だ。
けれど戦いの果て、この十闘士と呼ばれる者達の活躍によりルーチェモンは封印されたのだと、伝説にはそう記されている。
それから程無くして世界は静かに回り始めた。
ルーチェモンが姿を消し、平和を取り戻した世界は全ての者達に感情が生まれたことから、以前とは違う形での発展を開始した。見渡す限りの荒野だった大地には多くの町が建設され、その町と町とを結ぶ線路が敷かれた。かつては生物を拒んだ砂漠の中心に集落が築かれ、旅をする者達の心のオアシスとなった。そして大陸の南部には弱肉強食という理を嫌った周囲に住む者達の手で作られた平和の楽園が誕生しようとしていた。
彼らには生殖機能が無く、天寿を全うした後は自動的に卵となって生まれ変わる。そんな新たに転生の時を待つ卵は有志の手によってその平和の楽園に集められ、そこで平和な誕生の時を迎えることになる。それからだろうか。その平和の楽園は全ての者達が生まれ、そして天寿を全うした後に戻ってくる場所として親しまれるようになったのは。
そう、だからその場所は、いつしか始まりの町と呼ばれるようになっていた。
その頃からだろうか。世界には定期的に魔の者が姿を現し、世界の全てを手中に収めんと勢力の拡大を図るようになった。そして、それに呼応するかのように世界には彼らの知り得ない知的生命体が訪れた。そうして後にこの世界の者達と協力して幾度と無く世界を危機から救う生命体こそが何であろう、人間である。
色欲の魔王、リリスモンが世界を闇で覆い尽くそうとした時は、四人の人間が聖なる四体の獣と共に立ち上がった。
地獄の業火で全てを焼き払わんと猛威を振るった憤怒の魔王、デーモンを倒すべく三人の人間の手で後に守護者と呼ばれるべき最後の聖騎士が誕生した。
空白の席の主とされる漆黒の聖騎士の暗躍を食い止めるべくして、数人の少年少女は伝説とさえ呼ばれたデジメンタルの力を借り受け、誰一人として悲しむことの無い未来へとこの世界を導いてみせた。
天使軍と悪魔軍の未曾有の大戦争にて世界が最大の危機を迎えた際には、一人の少女が光竜と共に敢然と戦火の中へ飛び込み、その強き意志と圧倒的な力を以って、永久に続くとも言われた戦争を終結させた。
邪悪な心を持つ人間達が怠惰の魔王、ベルフェモンの力を利用しようと動き出した時には、同じ人間の青年と女性がその野望を打ち砕き、復活した魔王と竜帝の力を押さえ込んだ。
そう、この世界は混乱、終息、平和のプロセスが幾度と無く繰り返されてきた。そして、その影には必ず人間の存在が垣間見えるのである。人間がいなければ世界は終わっていたかもしれない、人間がいなければ混乱は起きなかったのかもしれない、人間がいなければそもそもこの世界は成立し得ないのかもしれない。
その意味でこの世界は人間の影響が無ければ、ただ回り続ける螺旋でしかない。
記憶は次第に風化し、色褪せていく。しかしそうだとしても、人間がこの世界に何かを為したということが、人間こそがこの世界に大きな影響を与えるのだということが、彼らの記憶から消えることは無い。
そうして、いつからか人間という存在自体が、この世界では英雄として崇められるようになっていった。
これは、そんな世界の片隅から始まる終焉の物語である。