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第1話:渡会 八雲
蝉の声が響き渡る。
間も無く日が沈むという頃、厳しい残暑の中にあって涼やかな神社の境内で、その音色は異様なまでに騒がしさを演出する。
『八雲君、それに……朱実ちゃん』
声を掛けられて振り向いた俺達の視界には、どこか儚げに見える彼女の姿。隣に立つ俺の幼馴染とは正反対の育ちの良さを感じさせる仕草で、俺達が降り始めた階段の上から優しく微笑んでいる。
何故だろう、そこでふと俺は違和感を覚えた。
彼女は笑っている。そう、夕日を後ろから浴びて微笑む彼女は、まるで彼女自身の名前を表すかのように琥珀色に輝いているはずなのに、その彼女の姿が何故か俺にはどうしようもなく儚げで、どうしようもなく物悲しい存在に思えた。今にも壊れてしまいそうな、脆くて実体の無い曖昧な幻のようだった。
俺の隣に立つ女も同じ思いだったのか、不思議そうに首を傾げている。
『どうかした?』
『……ううん、気にしないで』
けれど彼女は首を振る。まるで俺達を拒むように。
『でもね』
彼女の目が俺を捉える。縋るような瞳だった。
『私も八雲君や朱実ちゃんに……けて欲しかったよ?』
『……えっ?』
『だから、さよなら、ね?』
それだけだった。彼女はその言葉だけを告げると、俺達にそれ以上の言葉を続けさせること無く、純白のワンピ─スの裾を摘んで恭しく頭を下げ、階段の向こう側に消えていく。俺達はそんな彼女の姿を呆然と見送ることしかできなかった。この時に彼女の後ろ姿に声を掛けることができていたのなら、もしかしたら運命が変わっていたのかもしれないのに。もしかしたら彼女を忘れることなどなかったかもしれないのに。
けれど、当時小学生でしかなかった俺達に、そんな運命などといった漠然とした概念がわかるわけも無く。
『帰ろっか、八雲』
『……ああ、そうだな……』
蝉の声が響き渡る。どこか空虚に、鳴り響く。
2003年9月某日。この日が、俺達が彼女の姿を見た最後の日だった──。
さて、空を見上げてみよう。
頭上には天まで届こうかとばかりに聳え立つ高層ビル、その窓ガラスに日光が反射して淡い美しさを漂わせている。そこまでは我々が知り得る世界と変わらない。僅かに異なるのは、そのビル街の間隙を縫って飛行していく車のようなヘリコプターのような奇妙な乗り物が見えることだけだ。
形状は近いけれど、車のようなタイヤは無い。空を飛んでいるというのに、ヘリコプターのようなプロペラも無い。排気ガスを出さず、殆ど騒音も無く、ただ静かにビル街を飛行していく幾つもの乗り物。それは明らかに過去の人間が夢見た乗り物に他ならない。どんな原理か、殆ど音も無く空を飛行できる、夢の車。
後ろを振り返ると、どこからともなく現れる大きな球体。当然、その中には幾らかの人間が乗っており、彼らは所謂〝時空旅行〟をして戻ってきたのだ。つまり、どう見ても大きなガチャポンカプセルにしか見えないそれは、その時代の人間から見ればタイムマシンと呼ばれる空想の産物が具現化した物体なのである。
だからきっと、そこは未来の世界。
その世界が西暦何年の世界なのか、はたまた本当に人間が夢見た世界なのか、そんなことはどうでもいいことだった。それ故に我々が気にすべきことは一つだけ。そこには我々と変わらない姿の霊長類の王が、相変わらず偉そうに生きている。結局、いつの時代も変わらないのは、その事実だけなのだ。
人間はいつだって尊大で、我が物顔で、全く変わらずに我が世の春を謳歌していた──。
そこでパタンと脳内の本を閉じる。
当然のことながら、そんなものは遠い未来の夢物語でしかない。空飛ぶ車とかタイムマシンとか、そんなものは今の時代には到底存在し得ない幻の道具にすぎず、いつまでも幻想を抱いているのも癪だ。とはいえ、子供心に時空を超えたり、生身では到達できぬ場所を制したりする乗り物が、想像上の中にでも存在するのだということには憧れたし、その憧れが今では完全に消え失せたというわけでもない。高度に知能を発達させたイルカが攻めてくるなんてことは、流石に無いと思うけれど。
今日で三日間はお別れとなる学校の体育館で、少年はそんなことを考えていた。ダラダラと続く校長の訓話に対する、現実逃避の手段と呼んでも差し支えは無い。
西暦2008年10月23日。首都圏、埼玉県二宮市立相葉高校の体育館だ。
「これにて、平成20年度相葉高校体育祭、閉会式を終了致します。一同、礼!」
禿げ頭の教頭の声が耳に響き渡り、八雲は手を口元にやって欠伸を一つ。
自分の属する白組は、結果的に四位中三位だった。すぐ傍の女子達が「悔しいね」とか話し合っている様が視界の端に映り、少しだけ申し訳無い気持ちにならないこともない。尤も、クラスメイトの女子がどうあれそれは建前でしかなく、単に自分は負けず嫌いなだけだとも思う。特に互いに毛嫌いし合っている、隣のクラスの坂本悠馬(さかもと ゆうま)の属する赤組に負けたという事実は無性に悔しく、また腹立たしく感じられる。
やがて吹奏楽部の「威風堂々」が流れ出し、八雲達は立ち上がった。
「生徒は先生の指示に従って、教室に戻ってください」
意外にも盛り上がった体育祭も、ようやく終了だ。
先月の学園祭と並ぶ高校の二大イベントの一つ。ようやく肩の荷が下りたような気分になって、渡会八雲(わたらい やくも)は大きく背伸びをした。特に打ち込んでいるスポ─ツも無く、ただ流動的に高校生活を送っている平凡な高校生。漠然とした夢こそ持っているものの、まだ明確なプランがあるわけではなく、将来の進む道やなりたい職業が見えているわけでもない。そして悲しいことに一緒に過ごして楽しいと思える可愛い彼女がいるわけでもない。そもそも進学校に在籍しながら受験するのかどうかさえ決めていない、そんな至って普通の高校生であった。
それにしても、そんな自分も既に高校二年生。来年には受験生として忙しくなる以上、実質的にまともに参加できる最後の体育祭となるわけだ。そう考えると少しだけ寂しさを覚えないでもなかった。
「ねえ渡会君」
体育館を出た廊下で、隣の女子が「お疲れ様だね」と声を掛けてきた。
「これからクラスの皆で打ち上げに行くんだけど、渡会君は来る?」
「打ち上げ?」
「そうそう、お疲れ様会って奴だよ!」
ニカッと笑う彼女の顔が眩しくて目を逸らした。照れたわけではない、断じて。
「……いや、悪いけど俺は遠慮しとくよ」
「そっか、まあ仕方ないかな。渡会君にだって用事とかあるもんね」
一瞬だけ不満そうな色を見せるも、彼女はすぐに表情を笑顔に戻した。ノリの悪さには自信のある自分にもこの対応、前々から知っていたが稲葉っていい奴だ。
クラスの中でも一番──いや、むしろ学年でも一番だろうか──の美少女として名高い稲葉瑞希(いなば みずき)。そんな少女からのお誘いを、八雲はやんわりと断る。
そう、彼女は確かに可愛い。気立ても良いし正義感も強く、何事にも真っ直ぐで、何かと自分のように他者との交流が薄い男子の世話を焼いてくれることもある。薄茶色のショートカットは透き通るように綺麗だし、スタイルも良いと見える。八雲だって彼女のことは好ましい存在だと思っているけれど、だからこそ自分とは釣り合わない少女だと思う。いや、正確に表現するなら、この学校にいる女子は全員自分とは釣り合わないだろう。
ともすれば、少々尊大になってしまう自分の思考。そんな自分の汚さを振り払うように、八雲は話題を変えてみた。
「でもさ、稲葉。そんなに堂々と飲み会行くなんて言って、国見の先公に怒られないのか?」
「大丈夫だって。国見先生は『俺も連れてけ』だなんて嬉しそうに言ってたよ」
「……うわ。黙認どころか自分まで参加する気かよ」
何て教師だアイツ。高校生の飲酒を平気で容認しやがった。
正直、まだ八雲は酒を美味いと思ったことはない。それでも、一口飲んだだけで自分が大人になったような心持ちにはなれると思う。だから、本能的に酒が大人の飲み物だということは理解しているつもりだ。とはいえ、そんなことを言っている彼も何度か友人と飲みに行ったことはあるのだが。
「そこが国見先生のいいところじゃない?」
「……いや、そこは問題点って言った方が正しいような……」
半ば呆れたように呟く八雲。あの担任教師は高校生より人生を楽しんでいる節すらある。
それでも、瑞希は「気にしない気にしない」と笑って、大して問題に捉えていない様子である。そういう顔を見ていると、流石にクラスNo.1の美少女の二つ名は伊達ではないなと思う。彼女の笑顔は不思議と見ている者を元気にさせるエネルギ─に満ち溢れているように感じる。こんな彼女が、実は合気道の有段者だというのだから、人間というのは外見では計れぬものだ。
「でも渡会君が来ないんなら面白くないかなぁ」
「……そ、そうなのか?」
いきなり気落ちした様子を見せる瑞希に、八雲は少しだけ怯んだ。素でドキッとしてしまったと言い換えてもいい。断じて照れたわけではない。
まさか学年でも屈指の人気を誇る彼女が、自分に気があるというわけではあるまい。
「だってね、楓ちゃんとか佐々木さんも呼んでるのよ?」
「なに……?」
瑞希が出した二人の同級生の名に、八雲は思わず周囲を振り仰いだ。
瀬戸口楓(せとぐち かえで)と佐々木綺音(ささき あやね)、二人とも隣のクラスの女子だ。ゾロゾロと異様な人口密度で教室へ向けて歩く生徒達の中、ちょこちょこと自分の後ろを歩いている小柄な女の子の姿を八雲は認めて声を掛けた。
「お疲れ」
「わ、渡会さん?」
多分、自分から声を掛けられる女子は彼女だけだと思う。当の彼女はビックリした様子で少しだけ声が裏返っていた。
「稲葉から聞いたんだけど、瀬戸口もウチのクラスの打ち上げ来るんだってな」
「えっ? わ、私ですか?」
150センチあるかないかの小柄な彼女は、八雲の中学時代からの同級生である。基本的に女子と自分から関わることのしない八雲にとっては、数少ない気兼ね無く話せる女子生徒と言える。気が弱く大人しいため、中学時代に酷いイジメに遭っていたのだが、それを助けたのが八雲だった。
楓は少しだけ頬を染めて首肯してみせた。頭に付けたカチュ─シャが彼女には良く似合っていると八雲は思う。
「わ、渡会さんは来られないんですか?」
「……あ~、悪い。今日はちょい両親と食事に行く約束があってな……」
「そう……ですか」
「ごめんな。また一緒にラ─メンでも食いに行こうぜ、靖史と一緒に」
「は、はい。是非お願いします」
明らかに彼女の顔が輝くのがわかった。そういう表情は、八雲には少し眩しい。瑞希のことは置いておくにしても、自分は女の子が苦手なのだろうなと思うのは、大抵こんな時だ。小学生の頃からだが、どうにも女の子と話す時は赤面するのを抑えることに必死になってしまい、普段の調子が出にくいと思う。
そんな八雲と楓の会話を聞いて瑞希は何を思ったのか、妙な口調で呟いている。
「あ~、見てられない……甘酸っぱくて見てられないってばよぉ!」
「……稲葉、お前は今何か物凄い勘違いをしてるからな……って、痛っ!?」
その言葉の途中で、八雲はいきなり後頭部を小突かれて前のめりに倒れそうになる。
「この馬鹿渡会! 楓に色目使ってんじゃないわよ!?」
「……いきなり痛いだろうが」
後ろに立っていたのは八雲より長身の女子生徒、先程名前も出てきた佐々木綺音である。乱雑に縛り上げた長い髪を揺らして八雲を睨んでいる彼女は、入学して以来妙に八雲を毛嫌いしている節があった。尤も、八雲としても彼女は自分が苦手としている男子生徒と仲が良いこともあって、少々近付きたくない存在であることは同様なのだが。
腰に手を添えて仁王立ちする綺音は、長身なこともあって、結構な迫力があると思う。というか、自分より身長が高い彼女は実際に迫力がある。その上、体操着の所為で肩やら胸やら腰やらのメリハリが目立つので、八雲は思わず彼女から目を逸らしたくなる。
「まあまあ渡会君、綺音ちゃんの暴力は愛情の裏返しだってば」
「んなっ! な、何を勝手なこと言っちゃってくれてるのかな、瑞希は!」
「……愛情は感じないけどな、少なくとも俺の方は」
「渡会っ! アンタも本気にするんじゃねえわよっ!」
「佐々木さん、渡会さんのこと好きだったんですか? 私はてっきり坂本さ──」
「だぁぁぁぁ! 楓ぇ、余計なことは喋るんじゃねえわよっ!?」
ギャーギャーと騒がしい綺音。確かに苦手だということは苦手だけれど、彼女は性格的にも自分にとって話しやすい人間ではあった。それは恐らく彼女が自分の幼馴染に似ているからだろう。少々乱暴で何事にも乱雑ではあるけれど、明朗快活で裏表の無かった彼女と、佐々木綺音は確かに似ていると思えた。
無論、だからといって好意を抱くかと言われれば、それはまた別問題なのだが。
「あれま? 八雲、そんなところで何やって──」
「決まっているじゃないか、園田。渡会は女性陣と友好を深めていたのさ」
そんなことを話していると、後方から八雲の友人にしてクラスメイトである園田靖史(そのだ やすし)が同じく友人の藤平陽平(ふじひら ようへい)が並んで追い付いてきた。なお、平凡な生徒である靖史はともかくとして、陽平は剣道の関東大会で上位に食い込むほどの実力の持ち主で、クラス内ではミスター武蔵というニックネ─ムで呼ばれている。最近始まったばかりのアニメに似たような名前の仮面の男がいたが、それは偶然だろう。
そんな靖史の姿を見た途端、綺音の目の色が明らかに変わった。そして靖史もまた、綺音の姿を確認して硬直する。
「……あら園田、偶然ね。少し運命感じちゃうわ、私」
「あっ、綺音……ちゃん? な、何でこんなところに……」
「綺音ちゃん言うな」
僅かに数歩だけ後退する靖史。けれど、逃がさないとばかりに綺音が同じく一歩踏み込む。
今から一年半前の入学式の日、靖史は「今日から生まれ変わるため」という理解し難い理由から初対面の綺音に告白した。彼女もそういったことに免疫が無かったのか、綺音の方も顔を真っ赤にしたことから上手く行くと思われたが、靖史がうっかり誰でも良かったという旨をバラしてしまったために全てが無に帰した。
それ以来である。綺音は靖史に対しては八雲に対する以上の嫌悪感を見せる。出会い頭に膝蹴りを叩き込むことなど日常茶飯事である。
「ひ、ひいっ! 八雲に藤原、助け……!」
「くたばれ園田ぁぁぁぁーーーーっ!」
惚れ惚れするような動きであった。しなやかな体躯を翻して、綺音の飛び廻し蹴りが靖史の顔面に叩き込まれる。
「げふっ、理不尽っ!」
吹き飛んだ靖史は後頭部からリノリウムの床に叩き付けられ、やがて昏倒して動かなくなった。
「お~い、靖史~、大丈夫か~?」
「園田なら大丈夫だろう、渡会。彼は殺しても死なない人間だからね」
「あのな藤原、お前今何気に酷いこと言ってるからな。それに佐々木、少しはお前も手加減しろよな……」
「ふんっ!」
不機嫌そうに顔を逸らす綺音は、女の子の純情を弄んだ靖史が悪いとでも言いたげな態度。すぐ隣で瑞希や楓が苦笑している。
だから思わず、靖史には悪いと思いながらも八雲もまた破顔してしまっていた。隣の陽平も同じ様子である。高校生活には色々と問題もあるわけだけれど、こうして誰かと笑い合えるということが何よりも楽しいと思えることは事実なのである。こういう時、自分達は各々の悩みや不満も忘れて同じ感情を共有することができる。これが学校という空間の持つ美点なのだろうと思う。
だからこんな毎日がずっと続けばいいと、八雲は思っていた。
時刻は午後4時。ここは少し離れた私鉄の駅のホーム。
朝の通勤ラッシュほどではないが、会社帰りのサラリ─マン達で俄かに混み始めるこの場所で、柱に凭れ掛かる一人の少女の姿がある。相葉高校から二駅離れた場所にある名門校、二宮女子高校の制服を着たその少女は、音楽でも聴いているのか、右肩に引っ掛けた学生鞄から白いコードを伸ばし、それが彼女の耳のイヤホンへと繋がっている。
とはいえ、少女は決して音楽に没頭している様子ではなかった。
全体的に気だるそうなのだ。スラッとした肢体と長いポニーテール、その端麗と呼んでも差し支えない容姿にも関わらず、鋭い視線を油断無く周囲に向けているその少女は、年相応の瑞々しさや柔らかさといった女子高生特有の雰囲気を一切拒絶しているような、そんな刺々しい雰囲気があった。
時折その色素の薄い瞳に宿す冷たい輝きは、むしろ見る者を射抜くような鋭さに満ちている。気だるそうな雰囲気と鋭利な視線という矛盾した概念を同時に孕む少女の姿は、少なからず可憐な女子高生といった様相ではなかった。
「そこの柱は汚いですよ?」
「……ありがとうございまぁす」
見兼ねた駅員が注意を促してきたので、少女は小さく頭を下げる。
だが彼女の表情は全く変わらない。明らかに感謝している人間の顔ではなかった。駅員の方もこれ以上言っても無駄だと判断したのか、大きくため息を吐いて立ち去っていく。そんな駅員の後ろ姿を見送る少女の瞳には、自然と憎しみのような色が宿っていた。
事態が起きたのは、そんな時だ。
「んっ……?」
突如として、駅の上空を巨大な飛行物体が通過したのである。
壁に貼られた広告が舞い、頭上の電光掲示板がガタガタと揺れる。まるで身を切るような突風がその空間を襲った。
「うっ! な、何が起きたんよ……?」
舞い上がるスカ─トを押さえることもなく、少女はその飛行物体を見上げた。
だが一瞬遅く、既に目標の物体は空の果てへと消えていくところだった。それ故に飛行物体の姿がハッキリと見えたわけではない。ただ、何か大きな鳥のような雰囲気を持つ物体だということだけは認識できた。それも、普通の鳥ではない。体長は10メートルを優に超え、自然界には存在しないほどに禍々しい雰囲気を持っていたように思える。一瞬の光景を即座に記憶できる少女の動体視力は、それだけでも凄まじいものだと言えよう。
周囲の人々がざわつき始めるのと同様に、少女もまた僅かだけ脅えたような表情を見せる。だが彼女が周囲の人々と決定的に異なったのは、即座に行動を開始したことであろう。その腰まで伸びた恐ろしく長い髪を風に揺らし、少女は僅かに顔を上げる。
「ふふ、何か……面白そうじゃん?」
その顔に浮かぶのは、初めて浮かべたこの年代の少女相応の純粋すぎる笑み。
そう、彼女は今あの飛行物体に対して明確な興味を覚えていた。そのことに大層な理由など要らない。少女はただ、あの存在を面白いと思った、それだけのこと。そして、彼女の考える面白さとは、奴が自身の〝力〟を奮い得る相手であるか否かということにすぎない。それ故に叩き潰す。そうでなければ飽き足らぬ。戦うことこそ、彼女の存在意義なのだから。
徐にイヤホンを耳から外すと、彼女は改札口に向けて走り出した。
数時間後、学校を後にした八雲は、靖史と共に家路に着いていた。
靖史は中学の入学以来、三年間連続で同じクラスになったこともあり、八雲とは大の親友と言える関係である。根本的に八雲とは正反対の性格の持ち主である彼だが、不思議と馬がらは汚いと思います合うらしく、特に喧嘩することも無く付き合ってきた。ただし、成績は八雲より数段低く、クラス内でも三馬鹿の一人として認識されている。
とはいえ、成績のことを然程気にしない八雲は、彼とは普通に付き合えていたのだが。
八雲や靖史が現在通っている高校は、彼らの最寄り駅から私鉄に乗って鈍行で何個目かの駅にある。所要時間、約二十分。十分に近いと言える距離である。そんなわけで最寄りの駅へと戻ってきた二人だったが、夕暮れの駅前は異様に混雑しており、殆ど押し蔵饅頭だった。
自分達と同じ制服がちらほら見えるのは、流石に体育祭の帰りだからといったところだろうか。相葉高校といえば県内有数の進学校でもあるので、近隣住民からはそれなりに一目置かれている節もある。尤も、実際に在籍している生徒にはそんな実感など無いだろうが。
大勢の人々に揉まれる中で、靖史が腫れた頬を摩りつつ呟く。
「……ったく、綺音ちゃんの暴力には困ったよ」
「それには同感だな、俺も」
普段から一緒にいる相手が不良だからだろうか、綺音は妙に暴力的なところがある。それも学年の女子の中ではトップの体格を誇る彼女なだけに、その威力も半端でないから困るのだ。
「でも元はといえば、お前が軽々しく告白なんかするから悪いんだけどな」
「うっ……そ、それは確かに悪かったさ……綺音ちゃん以外にしときゃ良かったんだけどよ」
「それを人は反省していないって言うと思うんだが……ん?」
ふと何かに気付き、八雲は目を留めた。
ホ─ムの人混みの向こうを一人の少女が駆け抜けていく様が見える。腰までありそうなポニーテールを微風に靡かせたその少女は八雲や靖史とは違うものの、制服を着ていることから恐らく中学生か高校生だろう。顔はハッキリと見えなかったので正確なところはわからないが、身長は先程の綺音と比べれば大分小さく、恐らく160センチ前後に見えた。
「アイツ……!?」
だが、そんなことは関係無かった。彼女の姿を見た瞬間、八雲は全身に電撃が走ったような気がしたのだから。
「……悪い靖史、ちょっと俺行くわ」
「え?」
「ちょっ……すみません! 通してください!」
「おっ、おい! 八雲、いきなりどうしたんだよ?」
突然大声で叫び、人混みを掻き分けて走り始めた自分の様子に靖史が後ろから疑問の声を投げ掛けてくるが、八雲はそれ以上の言葉を返さない。既に彼の頭には先程の女の子の姿しか見えていなかった。革靴が軋むのにも構わず、夕暮れの雑踏の中を八雲は駆け抜けていく。とはいえ、下校・退勤時間に当たることもあり、なかなか前に進むことができない。
しかし八雲は「すいません!」を何度も繰り返しながら、必死に少女の後ろ姿を追う。見る人が見れば、恐らく今の八雲は表現するのが憚られるほどに必死な形相をしていたのかもしれない。あの少女が自分にとって何であるのか、そんなことは考えもしなかった。
楽しそうな横顔、風に揺れるポニーテール。彼女の全てが八雲を突き動かしていた。
だが駅の外まで走ったところで、八雲は少女の姿を見失ってしまう。そこでようやく、彼は自分が異様な行動をしていたことに気付く。駅で見かけた少女を目の色変えて追いかけるなど、そんなことは愚の骨頂だ。そもそも、当の彼女を捕まえて自分は何をしようとしていたのだろうか。
……初めて? 心に浮かんだ単語に八雲は疑問符を浮かべる。
たった今、自分を突き動かした衝動の正体は八雲自身にさえわからない。ただ、彼女を追わなければならないような気がしたとしか言い様が無い。それは半ば本能的な、また内在的なものであったからだ。言い換えれば、それは脅迫の観念と言ってもいい。
「何やってんだ、俺……?」
駅前の雑踏の中で、八雲は呻くように呟くだけだった。
とはいえ、その感情こそが始まりだ。
この時から平凡な生活が終わる。そのことをまだ、八雲は知らない。
同じ頃、都心部の大スクリーンでは緊急のニュースが報じられていた。
『ただ今入りましたニュースです。17時30分現在、首都圏上空に巨大な飛行物体が出現したとの報が入りました。この飛行物体は全長数10メートル以上の鳥だという情報も入っており、ただ今政府が詳細を調査中です。繰り返します、17時30分現在──』
変化はゆっくりと、だが確実に起き始めていた。
◇
一週間ぶりの投稿となります、夏P(ナッピー)です。
冷静に書きながら考えてみたところ、なんとデジモンのモンの字が一度も出てこないという恐るべき始まりとなっていました。次回からは出てくるかと思いますので何卒宜しくお願い致します。
あと10年前のものを改訂しつつ、けれど過去の自分を尊重する意味でもネタやふざけている部分は踏襲して変えずにいるのですが、お〇スタ始まるよって何だよ。
Twitterの方で予告とかキャラ紹介とかを挙げていければとも思いますので今後ともお願いします。
>快晴さん
感想を頂きまして誠にありがとうございます。そしてめっちゃ鋭い。
スサノオモンとルーチェモンに関しては大好きな主役VSラスボスなので、割と作者の好みが入ってカッコ良く書こうという気概があります。メギドラモンの名前を出したことも含め、基本的に本作はテイマーズとフロンティアのオマージュ多めで行く予定ですのでまたよろしくです。
第2話:長内朱実
香坂神社。二宮市の西部に位置する小山に存在する小さな神社。
渡会八雲と彼が目にした少女、二人がそこに引き寄せられることは運命だったのだろうか。だがその答えがどちらであろうとも、そうなるよう望んだ者が存在することは事実である。それはある意味では神であり、またある意味では八雲達自身であったのかもしれない。
だとすれば、そこに『もしも』や『たら』及び『れば』は存在しない。
八雲も少女も覚えていないことであるが、今彼らがその場所を訪れることこそが全ての始まり。彼ら二人が遠き日に置いてきた幻影との再会を意味していた。あの夏の日、夕日を浴びて微笑んでいた一人の少女。
彼女は誰だ。彼女はどこだ。
その全ての答えは香坂神社、そこにあるのかもしれない。
少女は脇目も振らず、街中を駆けていた。
その疾走たるや、100メートルを12秒弱で駆け抜けるほど。彼女を高校二年生の女子という範疇に置けば、それは信じ難いもの以外の何者でもない。風のように駆け抜ける少女の姿に通行人が次々と振り返るが、彼女のスピードは一向に緩むことはない。驚嘆すべきは運動神経や反射神経の良さというより、雑踏の中を一切の迷いなく突き進む彼女の思い切りの良さだろう。
風に靡くポニーテールを振り乱して駆ける少女の姿は、最早ある種の芸術的な気品に溢れている。
「おのれ、腹立たしい……!」
足を踏み出す度に膨れ上がるスカートがもどかしく、少女は悪態を吐く。
正直に言えば、彼女は別にスカートが嫌いというわけではない。少女は女子高に通う生徒の中でも一概に自惚れても許される容姿──本人は世界で一番可愛いと思っている──を持っていたし、現在一緒に暮らしている従姉妹から褒められた制服姿の自分を少女が嫌うはずも無かった。だから何故そんな悪態を吐くのかと言えば、それは何よりも今は少女としての自分が求められている時ではないからに他ならない。
獲物を狙う鷹の目。油断無く周囲を見回しつつ、街中を駆けていく。
「あの黒い鳥……どこに行ったんよ!?」
拳を握り締め、苛立たしげに叫ぶ。
駅前の街頭で目にして以来、少女はずっとあの鳥を追っていた。無論、ニュースなど見てはいない彼女だから、あの鳥が何か人知を超えた生物であることなどは知らない。ただ、彼女は感じただけだ。奴の放つ殺気を、そして奴が纏う異質な雰囲気を。
高校に入って──否、この血が滾るような感覚は中学入学以来だろうか──初めての高揚感、これこそ彼女の求めて久しい感覚だった。
隣にアイツがいないことだけが、少々残念ではあったが。
「むっ、あれは……?」
疾走の中、目に留まったのは町外れにある神社。
小高い丘の上に立つそこが、今では不可思議な霧で包まれているように見える。ここは日本の首都たる東京都の北西部に位置する埼玉県二宮市、標高が低く雨も決して多いとは言えない乾燥地帯である周辺では、霧が出ることなど殆ど無い。そんな場所に立つ神社が、このタイミングで霧に覆われている。だとすれば、気にならない方がおかしいだろう。
そして、決めたら即座に行動を起こすのが少女の信条。脇目も振らずに神社に向かって駆け出した。
「チッ……ったく、面倒だねぇ!」
吐き捨てながらも、今日の体育祭の疲労など全く感じさせない速度で少女は駆ける。
体育祭は退屈だった。クラスメイトの皆本某が飲み会を企画しているだの勝手に帰るなだの言っていたが、別に同窓の徒と交わす親睦もない。半年前に留年の危機から救ってくれた彼女にだけは感謝しているが、だからといって自分の行動を束縛される筋合いもない。
誰にも指図されず、楽しいことをやって自由に生きる、それが本分!
「……五年ぶり、かな」
やがて二分と待たずに神社の麓まで到達する。中学入学以降は来ていない場所である。
そのまま一段飛ばしで境内へ続く階段を平地と変わらぬスピ─ドで上がっていく。無我夢中とはまさにこのこと。少女の目には自分が行き着く先、霧で覆われる神社の境内しか映っていない。それぐらい必死だった。それなのに、彼女は息一つ切らしていない。
かつて散々遊んだ懐かしい場所だ。数少ない友人というか家族というか、とにかく一人の男子と日が暮れるまで遊び通した思い出の境内。五年しか経っていないのに、何故か当時の記憶は曖昧であまり思い出せなかった。
階段を登り終えた瞬間、唐突に周囲の霧が文字通り霧散した。
「むっ?」
霧の晴れた神社の境内で、少女は木々の中に佇む異形を視認した。
夕焼けに染まるのは、神社の境内に生えた雑木林。クヌギやらブナやらの広葉樹林が立ち並ぶその奥に、見たことも無い生物が音も無く君臨しているのだ。数えるほどしか動物園に行ったことの無い自分にはライオンやキリン、象などといった大型動物は百科事典などでしか見たことが無い。目の前の存在は、明らかに鳥類図鑑に載っている鷲とか鷹とか、そんな大型の鳥を連想させる姿を持っていた。
しかし問題は大きさである。こちらを見下ろす程に、その生物は巨大であった。
「ほう……」
感嘆の声と共に静かに歩み寄り、彼女はその存在と対峙する。
「これはこれは……アタシが望んだ通りの化け物だね、コイツは」
グルルルルと不気味な唸り声を上げる目の前の怪物を、少女は臆することなく見やった。
恐らく翼長は10メートル以上、高さだけでも少女自身の体の五倍はあろう。怪しく輝く瞳孔に明確な意志は無く、ただ意思を宿さぬ白き双眸が覗いているだけ。全身を自然界に存在し得ないほどの邪悪な色に染め、骨格に皮を張り付けただけのようなその怪物は、龍のような鳥のような生物である。
刹那、怪物が初めて自分の意思らしきものを見せた。
「誰ダ……?」
「……普通、他者に名を聞く時は己から名乗るのが道理だけど……まあいっか」
化け物が人語を解したということに、彼女は何ら驚きを覚えない。
「アタシの名は──」
口紅などしていないにも関わらず真っ赤な唇を、少女は不敵に歪めた。
少女を見失って以降、八雲は目的も無く駅前をうろついていた。
渡会八雲は元々、何らかの趣味に没頭したり、部活動に打ち込んだりするタイプではない。今の高校を選んだ理由もレベルが自分に合っていて、その上で県内有数の進学校だったという有り体な結果だ。尤も、義父母の財布を考えれば大学に行くか否かはまだ決めていない。行けたら行けばいいし、金銭的に不可能であれば潔く諦めるつもりだ。
どこか冷めた人間、それが自他共通の渡会八雲に対する評価だった。
故にそんな彼がこうまで何かに一心不乱になることは珍しい。それも、女の子のことでというのであれば尚更だ。悲しいことに渡会八雲は17歳になって年齢=彼女いない暦にして、また携帯電話に登録されている女の子の数も男子校に通っている友人より少ないというのだから、彼が如何に没交流であるかがわかるというものだ。
「……おっ、渡会じゃんか」
そんな駅前で、唐突に声を掛けられた。振り返ってみれば、そこには同じクラスの三上亮(みかみ りょう)が学生服姿で立っていた。八雲にとって数少ない友人の一人でもある彼は、学内では言うに及ばず、この関東を見渡しても追従できる人間の殆どいない快足の持ち主であり、既に推薦で大学へ行くことは殆ど確実な状態だとすら聞く。明朗快活という言葉を形にした人間である彼は、八雲に対しても何ら遠慮すること無く接するタイプの人間で、恥ずかしい表現だが間違いなく親友の一人だと言えた。
その隣には先程こちらを殴ってくれた佐々木綺音の姿もあり、何というか意外な組み合わせだと思う八雲だった。
「三上に佐々木……お前ら、何やってんだ?」
「ああ。ちょっと稲葉に頼まれてな、佐々木と一緒に飲み屋の下見に来たところだ」
「でも今日はどこも混んでるのよ……明日にした方がいいかもね」
しかし会話の様子は自然である。特に男女の関係など匂わせず、ただ仲の良い友人同士といった雰囲気があった。全く以って下世話な考えかもしれない。
三上は身長が高い方だから、170センチある綺音と並んでも何ら遜色無い。そんな姿が八雲にとっては少し羨ましい。もう少し自分も頼むから身長が伸びて欲しいと思う。流石に女の子である綺音と殆ど目線が変わらないというのは嫌であるし、何よりも身長が高い方が色々と便利だと思うから。
そんなことを考えている八雲を横目で見やり、三上は小さく告げる。
「渡会は……明日だったら来れんのかな?」
「明日?」
整った顔立ちに不釣り合いの伺うような色は、如何にも良い答えが返ってくるのを待っているといった感じの目だ。こういうところが、コイツが良い奴なのだと思える所以である。
「どうだろう。……鋭意、努力はするけど」
「げっ、アンタ来るの!?」
その一方で露骨に嫌そうな顔をする隣の女は無視しておく。しかし毎度のことながら、本当に人のムカつかせる態度を取る女だと思う。容姿はともかくとしても、こんな性格の悪い女はきっと一生独り身なのだろうと考えて気持ちを楽にする。綺音は学校指定のスポ─ツ用品店の娘でもあるのだが、娘がこんな女では跡取りもできまいなどと勝手なことを思っておく。
少なくとも、自分の知る限りこのじゃじゃ馬と対等に付き合える男はいないように思えた。
「……何か失礼なこと考えてるわね、アンタ」
「人の心を読むなっての」
結局その後で軽く会話を交わして八雲は三上や綺音とは別れた。
綺音が自分のことを嫌悪している理由はわからない。けれど、もしかしたら自分の方はそれほど彼女を嫌ってはいないのかもしれないと何気なく思った。むしろ逆に彼女のようになれたら、彼女のように明るく振る舞えたらと思う。そんなことを考えてしまうのも結局、自分が内向的な人間だからなのだろう。そう結論付けた。
そんなことを考えながら、駅前にある電気屋の前を通った時だった。
『先程のニュ─スの続報です。千葉県に在住の男性が、先程お伝えした飛行物体を偶然捉えたとされる映像を入手しました。ご覧ください』
「飛行……物体?」
興味深いニュ─スを耳にして、八雲は何気なく足を止めて画面を見やる。
映し出されたのは一昔前のハンディカムで撮影された映像。恐らく森を散策していたのであろう撮影者が偶然頭上に視点を変えた際、木々の間を飛び去っていく巨大な飛行物体の姿が一瞬だけ映り込んでいる。スローモーションで再生されるそれを見た限りでは、巨大な鳥に見えないことも無かった。
だが万が一にも鳥だとしたら大きすぎる。付近の木々との距離を換算すれば、その鳥の体長は10メートルを優に超えているのだから。
「そんなこと、有り得ないよなぁ。……あれ?」
小首を傾げた八雲の目が、不意に町外れの神社の方に行った。
香坂神社。二宮市の中で最も標高の高い──と言っても高々100メートルぐらいだが──場所にある、千年来の由緒正しき神社。その一帯が、白濁色の霧で覆われているのだ。この都心部で霧が発生することなど滅多にあるわけではない。八雲自身、霧を見たことなど久方ぶりである。
なんとなく気になった。行動の理由など、それだけで十分だった。
「くそ、何だってあんなところに……」
悪態を吐きながらも、何かに急かされるように神社へと向かう。
程なくして到着すると、境内へ続く階段を一気に駆け上がっていく。濃霧と呼んでも差し支え無いほどに立ち込める霞に突っ込んだ所為か、普段なら苦にもならないその一段一段が今は無性に苛立たしい。だが仮にも急な勾配で有名な階段だ。油断して転倒でもしたら洒落にならない。スピ─ドは最速で、それでいて目線を足元に向けてただひたすらに階段を駆け上るという超絶的な矛盾。脹脛や膝頭に乳酸が溜まっていくが、それを意識せずスピードだけは落とさない。ただ、気に留めていないでいられるのは精神的なものだけで、情けなく口の端が引き攣っていくことだけは自然と実感できた。
そうして階段を登り終えた瞬間、突如として霧が晴れた。
「……マジかよ」
その境内を覗き見て、八雲は絶句する。
一人の少女と馬鹿でかい巨鳥が、真っ向から対峙していた。
巨鳥の方は、間違い無くニュースにもなっていた奴だろう。全身を白骨化させたような醜悪な外見を持ちながら、その体色は毒々しいまでの黒。自然界にこんな生物が存在するのかと思えるほどに邪悪な空気を孕み、その醜悪な外見と相俟って神社の境内を一層の不気味さで包んでいる。
一方の少女の表情は、こちらに背を向けているので窺い知れない。だが近隣にある女子高の制服を身に纏い、怪物の前に仁王立ちしている少女は、どこから見ても先程八雲が追いかけようとして、結果的に見失ってしまった女の子である。
これは偶然か、それとも運命か。
「ああ、そういうことか……」
得心と共に苦笑が漏れた。
少女の後ろ姿を見た瞬間、八雲は彼女が只者ではないと直感で悟る。それは背中から発散される雰囲気だけでも明らかだった。というか、自分は彼女を知っている。彼女がどれだけの化け物なのかも知っている。
八雲の額を一滴の冷や汗が伝う。自分が何故あの少女の姿に見覚えがあったのか、追わなければならないと思ったのか、その全てを思い出した。自分が何故彼女を目に留め、また必死で追わねばならぬほど切羽詰まっていたのか。
人知を超えた怪物が眼前にいるというのに、八雲の目には彼女しか映らなかった。
「五年ぶりか……」
懐かしい記憶に思いを馳せていると、巨鳥が地響きを立てて飛翔し、少女へと襲い掛かる。
だが相対する少女は動揺する様子も見せず「おは○タ始まるよ~」(確か彼女はあの番組が好きだった)とでも言いたげな悠然とした笑顔を浮かべながら回避し、そのまま地面に突き立てられた翼へと飛び移ると、その怪物の脳天に容赦無く踵落としを浴びせた。それも、飛び切りの気合が入ったものを一発。
人間が喰らえば失神では済まない。それを受け、怪物が聞くもおぞましい奇声を上げて仰け反る。
その隙を突き、素早く怪物の体から飛び降りると、鋭く身を翻し、顎にサマーソルトキックを放つ。
「おいおい……」
八雲が唖然とする前で、ヒラリと地上に降り立った彼女は間髪入れずに傍にある木の幹を蹴って再び飛び上がり、怪物の側頭部に肘打ちを浴びせる。尤も、そんな少女の攻撃など怪物は殆ど蚊に刺されたような痛みとしてしか効かないだろうが、それでも少なくとも怯ませるには至っている。それは少女が的確に奴の急所へと攻撃を加えているからに他ならない。
全く以って恐ろしい戦闘力だ。何の策も弄せず、真正面から人知を超えた怪物と渡り合っている。
刹那、自分の頭の中で弾け飛びそうな感覚が走り始める。それは殆ど本能的なものだ。化け物と渡り合う少女の姿を前にして、ゆっくりと八雲の頭には封印していた感情が甦りつつあった。中学三年間を通して、八雲は喧嘩など一度もしたことは無かった。基本的に暴力は好きではなかったし、何よりも彼女が隣にいない以上、他人に手を上げていいはずもなかった。
だから真面目に生きてきた。至らぬ部分も多々あるが、優等生でいようと努めてきた。そんな自分もまた間違いなく渡会八雲であるから、高校での自分が嘘というわけでもない。
けれど一つだけ、高校の友人達にも隠してきた真実がある。
そう、自分は戦うことが好きなのだ。彼女と一緒に、戦うことが好きなのだ。
「むっ……!」
振り返った少女と目が合う。知らず知らずの内に、身を乗り出してしまっていたらしい。
「……やっぱりお前かよ、おい」
知っていたが、敢えて皮肉めいた声音で返す。
「八雲……!?」
訝しげに眉を潜める彼女が小さく呟く。あれを女子と認識していいのかはわからないが、きっと女子で自分を名前で呼ぶのは彼女だけだ。
怪訝そうな少女の顔は八雲が今まで見てきた女性の中でも五本指に入るほどに整っていたけれど、同時に彼にとっては最も見たくない顔の一つでもあった。化粧が薄い癖にハッキリした双眸、もう秋だというのに小麦色に焼けた肌、そして何よりも女子らしからぬ風に不機嫌そうに曲げられた唇。全てが全て、当時の記憶のままだった。小学六年生に別れた時以来の約五年ぶりの再会だが、もう少し体だけではなく心も成長していろというのだ。
(こいつを追いかけていたのか、俺は──)
刹那、八雲の心を占めたのは再会の喜びよりも遠き日の悪夢が再来する落胆の方が遥かに大きい。対する少女の方は一瞬だけ八雲に目を留めて、小さく「ほぅ」と笑みを浮かべた。どこか満足げな笑みだ。それだけで、八雲の背筋には悪寒が走るほどの。
「フッ、五年ぶりだね仙川八雲! ……ちょうどいいね。アンタも手伝いな!」
「……挨拶も抜きでいきなりかよ? 相変わらずだな。でも──」
余分を全て省いた彼女の言葉に自然と八雲の方も笑顔になる。相変わらずの彼女の姿を前にして、自分はもう仙川八雲じゃないとか、それ以上に話すべきことは色々あるだろうとか、そんな些事は全て吹き飛んでいた。
嬉しかったのだ、顔がニヤつくのを止められなかったのだ。何が嬉しかったのか、それは自分でもよくわからなかったけれど、とにかくワクワクが止まらない。
「──お前らしいけどな、朱実」
長内朱実(おさない あけみ)。懐かしいその名を呼ぶと共にもう一度だけ苦笑し、八雲は唇を噛み締める。
世話焼きの稲葉瑞希とスプリンターの三上亮、一緒に馬鹿をやれる園田靖史や藤方洋平、喧嘩相手の佐々木綺音や三上悠馬、そんな学友達との日々に不満は無かった。また五年前にできた新しい両親は優しく、まだ父さん母さんと呼べてはいないが生活面で困ったこともなく、自分はそれなりに充実した毎日を送ってこれているという自負がある。このまま穏やかな日常を過ごしていけたら、きっと十分幸せなのだろうという確信もある。
けれど、何か足りないものがあった。自分の中に欠けているピースがあった。
今の自分に嘘はない。実践できているとは言い難いが、可能な限り誰に対しても誠実で裏表のない人間で在ろうとしているし、そう在ることに対しての不満も苛立ちもない。それでも自分には彼女が必要だった。
そう、言うまでもないことだが。
渡会八雲は。
仙川八雲は。
長内朱実のことが好きなんだ。
ずっと、ずっと前から、好きなんだ。