・
第9話:出会う宿敵
とにかく、グラウモンは消えた。これで話は振り出しに戻ったことになる。
「何か無性に苛々させる奴だったな……」
あの手の奴はどうにも苦手だ。他人を明らかに見下したような瞳が、この上なく苛立たせてくれると思う。
奴に聞かされた内容を簡単に整理してみる。ここは人間界、それだけは間違い無いようだ。しかし今この場所には、人間は一人として存在しないという。奴が言うところの【反転】とやらの効力によって。
当然、全くわからない。第一、その効果が果たしてどんなものか、如何なる意図を伴って行われるというのか。それらが不明である現時点では、これ以上のことを推測するのは無駄だと思われる。だが奴は言った。この世界の全てが入れ替えられた以上は、世界の崩壊は免れるのだと。
ならば、崩壊の危機に見舞われているという奴らが住む異世界とは果たして何なのか、また新たな疑問が生まれる。
「……とりあえず確かめてみるか」
そう、まずは自分の目で確認すること。そうでなければ、何もかも信じられない。
迷うこと無く八雲は走り出す。自宅までは1キロも無い。走れば五分と掛からないだろう。だが駅前の商店街にも閑静な住宅街にも人っ子一人見当たらない。一軒家を見る限りでは殆どの家に明かりが灯っているというのに、道端に人間の姿は見えない。いや、そもそも午後九時を過ぎた頃から鳴き始める梟の声さえ響いてこない。路地裏に立つ木々が風に揺れる音だけが無機質な音を奏でていた。
程無くして自宅に到着する。彼の自宅は住宅街の端っこにある小さなマンション。他の家と同じように殆どの部屋に電気が点いているが、果たして――。
「義雄さん、浩子さん!」
三階に辿り着くが、鍵を開ける時間すらもどかしい。一気に駆け込み、開口一番そう叫ぶ。
だが如何に義父母の名前を叫ぼうとも返事が返ってくることは無かった。今日は野菜炒めだったのか、キッチンではフライパンの上に散乱した野菜が小気味良い音を立てている。妙に食欲が湧いてくる光景だが、今は呑気に飯を食っている場合ではないだろう。火を消し、ガスの元栓を締めておく。
居間のソファの上には広げられたままの朝刊が見える。それが何よりも今の状況を説明してくれた。
「マジかよ……!」
消えている。全てが全て、元のままで消えている。
殆どへたり込みたい気分で周囲を見回す。ベランダから覗くことができる隣の部屋にも、テレビが点いていながらも人間の姿がまるで無い。この様子では、他の部屋も同じだろう。人間が生活している住居をそのままに、グラウモンが言っていた【反転】は彼らの存在を消滅させてしまった。窓の外には相変わらず巨大な鳥が飛行しているし、また竜のような獣のような咆哮が夜空に響いている。外は文字通り異形の者達の縄張りだ。冷静に考えてみれば、昨日の夜にダスクモンが現れたのは、この兆候だったのではないだろうか。
何も考えられず、ただ夜風に当たりたくてマンションを後にして、近くの川縁へと出た。
見下ろす川は殆ど下水道だ。この近辺から出る汚水や下水の全てが流し込まれるこの川は、夜の闇の中でも蛍光色に輝いている。小学生の頃は朱実を含めた友人達と共に毎日のようにザリガニ釣りに来たものだが、現在の状況ではザリガニも入れ替えられてしまったのだろうなとぼんやりと思う。良く見れば川にも奇妙な魚の影が見える。
考えてみれば、人間が全て消えた町というのは、この上なく不気味で危険な場所だ。
八雲は自宅のガスの元栓を直しておいたが、もしグラウモンの言う通り人間界に残ったのが自分一人だとしたら、他の家は放置されているということだ。流石の彼とて、ガスの元栓を締めるためだけに他人の家に潜入する気は無い。しかし、問題はガスだけではない。水道を出しっ放しの家があれば洪水になることも有り得るし、ストーブやヒーターを点けっ放しというのもよろしくない。
こうして考えると、人間の世界とは危険なものだらけだ。少しの放置で大事故が起きる可能性だってあるのだから。
しかしグラウモンは言っていた。この【反転】は世界を正すために行われるのだと。そもそも、何故世界を正す必要があるのかは知らないが、奴が嘘を吐いていないということだけは感じ取れた。ならば従うしかないだろう。奴が何を考え、奴の言うクラウドという存在が何者なのか、そんなことは知らない。多少の危険を孕むだけで世界を正せるのならば、自分には何も言うべきことは無いはずだ。
だが八雲はどこか納得できなかった。自分に言うべきことは何も無いなんてこと、やはり嘘なのだ。
何がおかしいとか、何が違うとか、そんなことわからない。ただ、八雲は嫌だった。誰もいない世界、何も無い町、そしてそんな場所に一人だけ残された自分。辛いし悲しいし、何よりも寂しい。だから【反転】なんて止めたい。けれど、それで世界が正されるのならば自分の欲望など捨て去らねばなるまい。自分一人の欲求のために世界を危機に追い遣るなど、あってはならぬこと。ならば自分のことは捨てるべきかもしれない。だが、それでも――。
「……どうすりゃいいんだか」
堂々巡りになる論理展開。この思考の果ては、今はまだ見えなかった。
空を見上げれば結構な数の星々が煌めいている。
とりあえず車道に沿って森を出た結果、意外と労せずして市街地へ辿り着くことができたことは僥倖であろう。木々に囲まれた空間というのはとにかく視界が悪いし、結局のところ都会っ子である自分にとっては少々落ち着かない場所でもある。確かクラスメイトに森林浴が趣味の女子がいた気がするが、そんな彼女に言わせれば空気がおいしいとか心が休まるとか、そんな言葉が返ってくるのだろう。
何はともあれ、今はどうでもいいことである。人っ子一人いない街中を歩いていくだけだ。
「……十闘士?」
そんな傍から見れば異様とも言えなくもない状況の中、皆本環菜は隣の獣人から発せられた言葉に目を丸くしていた。
「そうだよ、十闘士……あのベルグモンって奴は、その中の一体なんだ」
「それって……どんな奴らなの?」
聞き返しつつも周囲の警戒は怠らない。物音一つ聞き漏らすまいとして、東西南北陸海空三界四方に自意識を拡散させていくイメージ。
環菜は今、ブラックガルゴモンと共に夜の街を進んでいる。何やら【反転】とか呼ばれる事態の影響を受けて、現在この世界に人間はまず存在しないのだという。代わりに溢れ出したのが、この黒い獣人に代表される異形の生物達。正直に言えば、彼らのような生物が犇めき合っているという今の世界で生き残る自信は環菜には無かった。
だからこそ、このブラックガルゴモンが先程自分に力を貸すのだとと申し出てくれたことは意外だった。そもそも今の状況下において人間界に残されている人間は異物であり、存在すること自体が奇妙なのだと彼は語った。故に消去することが必然なのだとも語ってくれた。だがブラックガルゴモンを含め彼らにとって人間は同時に憧れの存在でもあるとのことだった。
「凄く昔に……僕達の世界を救ってくれたっていう連中さ、伝説のヒーローだよ」
「……そう。人間と同じくらい?」
そう、人間は幾度と無く彼らの世界を救ってくれたのだという。
長きに渡る彼らの世界の歴史の中で多くの魔王と呼ばれる悪しき存在が姿を現し、世界を闇で包み込まんとした際、その英雄となるべき人間は必ずどこからか降臨し、自らのパートナーと共に闇を打ち滅ぼして彼らに光を取り戻してくれた。どんな状況でも諦めず、折れること無く彼らでは誰も起こすことのできぬ奇跡を、人間は必ず起こしてみせたのだ。
だから人間という存在自体が彼らにとっては憧れだった。危機に際して現れ、ただ見返りも求めずに世界を救って去っていくだけの存在。
「そうだねぇ、僕としては今こうして環菜といるだけで嬉しいんだけど」
「……!」
思わず綻びそうになってしまった顔を引き締める。ゆっくりと深呼吸。
そう、ブラックガルゴモンはいい奴だ。まだ数時間の付き合いだがそれは確信を持って言える。自分のことを憧れていた人間という生物学上の分類では無く、ただ皆本環菜という個体として見てくれる。その事実は半年前まで三上亮と付き合っていた頃のことを思い出させて、環菜としても少なからず嬉しくなってくる。けれど、だからこそ彼の言葉に糠喜びしている場合ではない。
この世界では油断など許されない。そんなことをすれば、死ぬだけだ。
「……後ろ」
「了解!」
環菜にとってもブラックガルゴモンにとっても、それだけの指示で十分だった。漆黒の獣人は素早く反転すると、掲げた右腕の銃口から一条の火花を散らす。それだけで背後から迫ろうとしていた大きな芋虫のような生物は小さな悲鳴を上げるだけで無様に倒れ伏す。毒でも吐こうとしていたのか、僅かに悪臭が漂っている気がする。早く離れた方が得策だろうか。
この世界ではこれが全てだ。殺さなければ死ぬ、先に倒さなければ倒される。この数時間だけで自分はブラックガルゴモンと共に、こうして屍の山を積み上げてきたのだから。
「ふぅ……でも環菜は凄いねぇ、さっきから僕より先に敵に気付いてる」
「何故かしらね。良くわからないけど……わかるのよ」
自分でも妙な物言いだと思うが、実際その通りだった。
アニメや漫画のように敵の気配やら殺気やらを読むなんてことが、平凡な女子高生である自分にできるはずも無い。故に今の自分が感じているのは単純な違和感でしかないのだと思う。それにブラックガルゴモンはどうやら気付いていないようだから、これは人間ならではの能力ということになるのだろうか。
とはいえ、大したことではない。敵が近付いてくると、ただ先程も感じた胸が締め付けられるような不快感が沸き起こる。それだけのことだった。
「あはは、環菜と契約できて良かったよ、本当にね。……ほら、こんな状況になったじゃん? だから環菜と会うまでは心の休まる暇も無かったんだから」
「それは……お役に立てて光栄だわ」
できるだけ回りくどい言葉を選ぶ。いや、自分は元よりその手の言い回しを好む人間だっただろうか。
そもそも契約とやらに関しても、ブラックガルゴモンが詳しくなかったこともあってか、環菜もまだ良く知らないでいる。とにかく彼が自分に協力を申し出てくれた途端、環菜の左腕にブラウスの上から強固なガントレットが装着され、その後は何故か先程よりも体の調子が楽になったような気もするが、それ以上のことは何もわからない。
「うん、頼むよぉ? 君がいると僕は安心できるから」
「……!」
その無垢な瞳を見ていられず、咄嗟に目を逸らす。結局のところ、ブラックガルゴモンとて自分とは相容れない生物でしかないのだ。知らず知らずの内に彼に心を許してしまいそうになる自分の心に、必死にそう言い聞かせながら。
自分達は協力者、また彼の言葉を借りるとしたなら契約者。それ以上の関係には決してなり得ないのだから。
「……それより、十闘士って奴に関して詳しく聞かせて?」
「ああ、そうだったね」
「十闘士ってことは十人いるのよね? ……どれもあの、ベルグモンみたいな奴らなの?」
咄嗟に話題を変えようとしてしまう自分が情けない、彼と真っ直ぐ向き合おうとしない自分のことが情けない。そんな風に考えてしまう自分の心に蓋をする。そう、皆本環菜はロボットになると決めた。下手な感情を抱けば死ぬ、余分な感傷はいざという時の妨げになる。感情を封じれば怖くない、感傷が無ければ恐怖も狼狽も覚えない。そして何よりも、今更カマトトぶって怖がったり慌てたりできるはずもない。
だって、そうだろう? 既に自分はブラックガルゴモンと共に数多のモンスターを倒してきている。そうして何体もの敵を退けられたことに一度でも達成感にも似た喜びを感じてしまった以上、もう今更元に戻ることなどできない。
自分の前に立ち塞がる敵はブラックガルゴモンと共に、一切の躊躇などせずに払い除ける。今の自分にできるのはそれだけだ。
「そうだね、人と獣の二つの姿を持つって聞くよ。あのベルグモンは獣型ってことになるね」
「人型(ヒューマン)と獣型(ビースト)……」
「うん。どいつも結構な強さを持ってるらしいね、中でも炎と光の闘士は――」
ブラックガルゴモンの言葉に相槌こそ打っているが、実際のところ彼の話す内容は殆ど耳に入ってこない。
環菜はただ全身に意識を集中させて周囲から敵が迫ってきていないか、何か敵の隠れるような場所は付近に存在しないか、そのことだけを考えている。言うなれば常に臨戦態勢、いつ敵が襲い掛かってきても対処できるように呼吸も乱さないように心掛け、更には背後にも対処すべく歩を進めながらも踵に力を込めておく。
「だから遭遇したら速攻で逃げた方が頭いいかもね。普通にやり合って勝てる相手じゃないだろうねぇ」
「……そう」
「でも……それも難しいかもしれない。人間相手でも容赦しないって聞くしね、あいつは」
「あいつ……?」
「そう。十闘士の中でも一番強いって言われてる奴……炎の闘士、アグニモンは」
それが本人でも気付いていない、皆本環菜の孕む矛盾。
この世界に対する漠然とした死の恐怖。それを意識しないように努めれば努めるほど、その恐怖は己を蝕んでいくということに、環菜はまだ気付いていない。彼女自身はもしかしたら自分は恐れてはいない、恐れてはいけないと思っているのかもしれないが、今の彼女の異様なまでの周囲への警戒こそが、今の状況に恐怖していることの証左に他ならない。
ブラックガルゴモンにしても同様だ。この獣人に心を許してはならない、頼ってはいけないと思っているにも関わらず、実際は彼の力が無ければ環菜は数刻とて生きてはいられまい。
それらの矛盾に環菜は気付かない。今はまだ、気付いていない。
どれくらいそうしていただろう。不意に冷たい声が響いた。
「……意外だな。まだ人間が残っているとは」
「誰だ!?」
妙に耳に引っ掛かる冷たい男性の声。思わず八雲が振り返った先には、視界の端に気配も無く立つ青年の姿がある。
身に纏うのは珍妙なローブ。まるでマントのように夜風に翻る様が印象的だ。頭髪は流麗でありながら不愉快にも感じられる白銀。その腰に差している巨大な杖状の物体は、ひょっとしたら大太刀と呼ばれるものだろうか。しかし外見の雰囲気からして、そいつを侍とは思えない。そもそも、21世紀のこのご時世に侍がいてたまるかというのだ。
それに、その青年の声には聞き覚えがあった。あれは確か、ギガスモンにアグニモンとか呼ばれていた――?
「お前、人間じゃ……ないな」
「……ほう? それがわかるということは――」
そこで言葉を切ると、静かに口の端を上げる謎の男。
「――お前がグラウモンと会ったという小僧か。……なるほど、それなら確かに頷けないことも無いというものだな?」
「グラウモン? てことは、お前はクラウドとかいう……?」
八雲の疑問に男は癪に障る微笑で返した。無論、それは肯定の意に他ならない。
皮肉そうな笑みを浮かべた男は、音も無く歩み寄ってくる。奴の両腕に、極めて奇妙な形を持つガントレットが装着されているのが見えた。鈍く輝くその手甲は、恐らく強固な金属で形成されているのだろうと容易に予測できる。側面に刻まれた〝火〟の文字が妙に気になるが、それには果たして如何なる意味があるのだろうか?
その男はにこやかな――八雲には胡散臭いものにしか見えない――笑みを形作り、こちらへ歩み寄ってくる。
「いや、こいつは失礼をした。名前を聞かせてもらえるか?」
「……わ、渡会八雲……」
「八雲……ああ、渡会八雲か。……ふふ、どうやら本当に俺の望みは叶ったらしい――」
渡会八雲。噛み締めるようにその名を反芻する男の姿は、まるで八雲という名前に何らかの聞き覚えがあるかのような雰囲気がある。そうして静かに顔を上げた瞬間、男は楽しそうに、本当に楽しそうに唇を歪めた。
何故か八雲には、奴の目に揺るぎ無い殺気が灯ったように見えた。
「――――――!?」
ゾクッと来た。直感に任せて咄嗟に飛び退く。
刹那、一瞬前まで八雲が立っていた場所を剣風が薙いだ。所謂居合い斬りという奴だろうか。半端ながらも心得のある八雲だからこそわかるのだが、今奴が振るった剣のスピードは最早達人の域だと直感できる。まさに音速のスピードで迫った鉄の刃は、確実にこちらの首を飛ばすべくして一閃されたのだから。
そもそも、奴の腰に差された太刀は通常の日本刀より遥かに大きく、そして重さも半端でないと判断できる。騎兵を馬ごと叩き斬ることを目的とするような、つまり斬馬刀という奴だ。そんなものを軽々と振るえる奴の筋力もまた、並大抵のものではない。少なくとも、今の八雲には同様にあれを扱える自信はない。
そして何よりも鼻先を掠めた剣筋に八雲は驚愕する。だが同時に「やっぱりな」と冷めたように納得している自分もいる。こんな状況に追い込まれることは当然だと理解している自分もいる。
そう、最初からわかっていたのだ。目の前の男はこちらを殺しに来ているのだと。
「いきなりかよ……!」
「……なかなかの読みだ。尤も、そうでなければ面白くないが」
静かに紡がれる男の声には一切の迷いが無い。さも避けることが当然と言った表情。
そう、男は自分を殺すことに対して何の感情も抱いていない。悲しみも怒りも楽しみも、少なくとも八雲が知り得る限りの感情表現では、今の男の心情を表すことなどできまい。だが奴が身に纏っている空気は暗殺者そのものだ。僅かでも隙を晒せば、油断無く躊躇い無く八雲の首を落としに来るだろう。外見は確かに人間だというのに、今の奴から向けられる殺気は、明らかにアルボルモンやグロットモンの比ではない。
戦わなければ死ぬ、奴を倒さなければ死ぬ。奴との戦いに勝利しなければ、渡会八雲にこの先は無い。そのことを直感で理解する。ギガスモンと相対した時などとは比べ物にならない、本物の死の予感に心が打ち震える。
だから思わず舌打ちしていた。つくづく今日は災難な日であるとばかりに。
「やっぱり敵かよ……くそ」
「渡会八雲。お前は先程、俺が人間ではないのかと聞いたな? ……結論から言えば、それは間違いだ。俺は飽く迄も人間で在り続けるし、元より奴らの仲間入りをすることなど考えたことすら無い。尤も、正確に言うなれば、俺はかつて人間だった者にすぎんのだが……そんなことは死に行くお前には関係の無いことだ」
奴の言葉など殆ど耳に入らない。聞く価値もない。
眼前に斬馬刀を構えた殺し屋がいる。それだけで十分だ。その事実を受け入れられずとも、胸にしこりが溜まり、理由のわからない衝動が八雲の体を切り苛む。奴と対峙した瞬間から、自分の体がどこかおかしくなっている。自分の心の中に棲む、鳥のような獣のような生き物が叫んでいる。奴を殺せと、殺される前に殺さねば後悔するのはお前なのだと告げている。
それなのに、体の芯が痺れていて思考が上手く纏まらない。余計なことは考えるな、目の前の敵にだけ集中しろ。でなければ死ぬ、でなければ壊される。
「だが奴と契約した以上、その務めは全うせねばなるまい。……悪く思うなよ、渡会八雲」
静かに斬馬刀が振り上げられる。それは確かな、死の宣告。
「ふざけんなっ!」
「むっ!?」
それを前にして、精神と肉体が同時にスパークした。振り下ろされる大剣を軽々と回避し、男の脇腹に一撃を見舞う。
その動きだけで理解する。奴は確かに腕が立つようだが、それは飽く迄も剣道の、つまるところ竹刀の領域の上だ。如何に実戦で鍛え上げられていようとも、その流麗な剣舞は明らかに汚れを知らぬ。血に濡れたことの無い、誰かの命を奪ったことの無い者の振るう児戯にも等しい剣技だ。ならば条件は同じ。攻撃を避けることに関してだけは、八雲は誰より上を行く自信がある。故に剣の一閃など容易に回避して反撃をお見舞いするだけだ。幼い頃から長内朱実という名の死地を散々潜り抜けてきた自分が、その程度の剣に膝を屈するはずが無い――!
だが奴は僅かなりとも怯む様子すら見せず、平然とした表情を浮かべている。
「……流石と言うべきか。その技の切れ、躊躇い無く剣の間合いに踏み込んでくる蛮勇……平時であれば、全てが賞賛に値するだろうな」
「き、効いて……ない?」
「驚くのも無理はあるまい。だが断言してやろう。……今のお前では、単なる人間以上にはなり得ない今のお前では、残念だが俺に勝つことなど夢のまた夢だ」
笑う。勝利を確信した目、先程のグラウモンと同じ目で奴は笑う。
「……気付いていないだろうがな、所詮この世界においてお前は異物にすぎん。筋力も視力も聴力も、全て今のお前は本来の力の半分も出すことはできまい。それが分不相応に世界と関わった愚か者の……そう、それがお前の限界だ」
そう言い捨て、奴は納めた斬馬刀を鞘ごと放り投げる。
小次郎敗れたり。思わずそう叫びたくなるところだが、状況はむしろ逆だった。奴の両腕の手甲が静かに赤い輝きを放ち始めていたのだ。それは文字通り、烈火と呼ぶに相応しい閃光。そう、奴の手甲に刻まれた〝炎〟の刻印は、奴が司る属性を示していたのだと、今更ながらに八雲は理解する。
「あの世で後悔するがいい。不用意に世界の理に首を突っ込んでしまった己が愚かさを」
「なっ、何を――?」
「……スピリットエボリューション」
輝きが増し、奴の体そのものを飲み込んでいく。
溢れ出した烈火の輝きの中で混濁する0と1の配列。急速に書き換えられていくそれらは、まるでプログラムのようにも見えた。故に奴が身に纏うのは烈火のデータ。異世界に存在する全ての炎の事象を司り、己が身に転移する。それこそが奴の両腕に装着されたクロンデジゾイド製の手甲、D-CASが持つ力だった。
つまり奴の属性は炎。全てを焼き、新しきものを生み出す創造の力。
「炎の闘士、アグニモン!」
瞬間、八雲の眼前に現れたのは業火の化身。
その頭部に見えるのは、肩まで流れるように伸ばされた黄金の頭髪と揺るぎ無い意志の灯る双眸。全身を覆う鉄壁の鎧は所々に真紅と黄金のラインを走らせ、ある種の神々しさすらも漂わせている。だが奴の全身から放たれるオーラに圧倒されながらも、八雲の目に余分な感情が宿ることは無い。その顔付きは嵐の前の静けさを漂わせている。憎しみは全く覚えない。
八雲はただ、奴を倒すべき敵として認識しただけだ。
「悔いろ。俺とて鬼ではないからな、それぐらいの時間はやろう」
「……悪いが、後悔する気なんてないけどな」
人間と十闘士。本来なら戦闘にすらならぬ組み合わせ。
それこそが最初の戦い。この世界の最期の煌めきを彩る、最初の戦いだ。
・
・
第10話:埋められない差
「……眠れ、永久に」
響くアグニモンの冷たい声。それと共に迫るパンチはまさに音速の閃きを宿す。
間一髪のところでかわした拳が空を切る。ギリギリの攻防に心の底から恐怖を抱いている自分に驚愕もするのだが、同時にその恐ろしき愉悦が紛れも無い快感となって自分の体を駆け抜けていく。そうだ、確かに今の渡会八雲は戦いを楽しんでいるのかもしれない。だけど、それが何だと言う――?
屈んだ勢いを殺さず、逆立ち蹴りの要領で槍のように足を突き出すが、手甲で軽々とブロックされ投げ飛ばされる。
「フッ、そんなものか。その程度では俺に傷一つ付けることはできん」
「うわっと! くそ、やっぱり……」
「尤も、それも無理も無いことではあるが。……やはり所詮はこの程度、素手の貴様では勝負にもならんようだな」
何故知っているのかはわからないが、確かに奴の言う通りだった。元来、渡会八雲は長内朱実と異なり、無手の芸の使い手ではない。
無論、無手の戦いでも大抵の相手なら圧倒できる。だが本当の意味で実力が伯仲した相手、今の時点では朱実ぐらいしかいないわけだが、その手の相手には遠く及ばない。故に彼が真価を発揮するのは武具を用いた戦闘だ。赤ん坊の頃から学んできた甲斐もあって、剣術や棒術に関しては達人の域に達していると言われたほどだ。つまり、どこかに手頃な武器さえあれば、少しはまともな戦いになるかもしれない――。
ハッと気付かされる。右方数メートルの場所に転がっているのは、奴が放り投げた斬馬刀。
「選ぶがいい。首を圧し折られるか、それとも炎で丸焼けになるか――!」
「ぐっ! どっちも……お断りだ!」
「ならば無残にその身を散らせ! それがお前にはお似合いだ!」
こちらは人間だというのに、先程の言葉通り奴には容赦など全く無かった。左足を軸足として、右足による目にも止まらぬ後ろ廻し蹴りが繰り出された。まともに喰らえば渡会八雲の体は脇腹から真っ二つになり、蹴りを受けたのに両断されるという奇妙な光景を見ることになるだろう。
とても受け止め切れる威力ではない。そして当然のことながら人間にそれを回避する術は無い。故に繰り出された時点で勝負は確定するはずだった。
「くっ――!?」
「むっ――!?」
だが直撃の寸前、唐突にアグニモンの動きが止まった。まるで何かに気付いたように、奴は右足を振り上げた状態で硬直している。理由など知らないし、知る必要も無い。その僅かな隙こそ八雲にとっては最大の好機である。故に逡巡も躊躇も殴り捨て、素早く右方の斬馬刀に飛び付いた。
その有事に際しての咄嗟の判断力こそが、今の渡会八雲が炎の闘士に勝っている僅かな部分だった。
「なにっ!?」
「武器さえあれば――!」
「させるかっ! ファイヤーダーツ!」
そうはさせないとばかりに、アグニモンが小さな火の玉を無数に放ってくる。如何に小さいとはいえ、それは一発でも喰らえば火傷では済まないほどの熱量だ。
それを横転して避けつつ、起き上がる流れのまま斬馬刀を両手で掴み上げる。
改めて手にしてみると、それは外見以上の重さを有していた。そこまで非力ではないと自負している八雲でさえ、両手で保持しないとまともに振ることはできないだろう。まさに敵将を馬ごと斬ることを目的とした斬馬刀の名に相応しい。そういえば、自分の好きな漫画では過去に扱いこなせた者は誰もいないとか言っていたような。
何はともあれ、今はこの剣を以って戦いに挑むのみ――!
「なるほど、考えたものだな。……だが剣さえあれば俺と互角に戦えるとでも?」
「なに……?」
「だが一つ聞こう。……お前、その右腕のバンダナをどこで手に入れた?」
こちらの右腕を示しつつも、アグニモンは無表情だった。奴が指差した場所は、あのギガスモンとの戦いで上着が裂けた部分であり、現在そこには先程商店街で拾ったハンカチが巻かれている。奴の言う分にはバンダナなのだが、どちらでも良いだろう。
だからどこでと聞かれたら、普通に答えるしかない。
「拾ったんだよ。……あっちの商店街でな」
「そうか。……ふっ、時系列が狂ったわけではなかったか」
「は? 何て言った?」
奴の答えは意味を成さない言葉だったが、それ以上の問答を続けるつもりは無いらしい。一瞬の穏やかさを消し去り、アグニモンは飽く迄も不敵に嘲笑うだけ。
そして奴の体から発散される炎のエネルギーが増大する。それは最早ただの人間でしかない八雲にも知覚できるほどに激しい。次第に奴の体を覆い尽くしていく炎は、巨大な竜巻を形成してアグニモンをその中へと包み込ませる。
「さて再開と行こう。……お前が真の強者を名乗るならば、これを受け止めてみせろ!」
「なに……!」
炎の竜巻が迫る。八雲にはその中で高速回転するアグニモンの姿がハッキリと見えていた。そう、奴の放とうとしている技はこの回転力と炎エネルギーを利用した一撃だと理解できる。
だから問題は単純だ。奴の攻撃に合わせて剣を出す、ただそれだけ。
「サラマンダーブレイク!」
「この――!」
攻撃は見えた。炎を纏った蹴りが自分の体を襲うのが見えたのだ。
けれど、奴の技の威力の程までは知らなかった。防御するべく八雲が構えた斬馬刀は、アグニモンのサラマンダーブレイクの威力に耐え切れず軽々と弾き飛ばされ、後方数十メートルの場所にカランという音を立てて転がった。
だから当然、八雲も態勢を大きく崩す羽目になる。そして、その隙をアグニモンは決して見逃さない。
「これで終わりだ……さあ、この一撃を以って消えるのだな!」
強い意志を籠めた叫びが、必中の拳と共に八雲の顔面に迫る。
回避し切れない。喰らえば当然のように死ぬ。頭蓋は破砕され、下手すれば首ごと持って行かれる。そしてアスファルトに脳漿を散らすことになるだろう。如何に人間離れした運動能力を持つ渡会八雲であろうと、それは人間離れであるが故に人間の域を逸脱していない。そんな八雲が目の前の怪物に勝てる道理は最初から無かった。それが世界の摂理であるし、何よりも目の前の魔人は〝人間離れ〟程度では済まされない存在なのだから。
圧倒的な、如何なる執念を以ってしても埋めようの無い、決定的な格差。少なくとも渡会八雲では奴に太刀打ちすることはできない。それでも奴には負けられない。また負けたくない。だが負けないためには、どうすればいい? ……そう、武器だ。あいつに対抗できるぐらいの強い武器が必要になる。
咄嗟に脳裏に思い浮かべたのはグロットモンが持つ武器。奴のハンマーがあれば奴にも対抗できる――!
「そうだ……!」
今ここに無いのなら呼べばいい。瞬時に武器を創造するなんてこと、脆弱な人間の自分にできるわけがない。そんなことができる奴がいるとしたら、そいつは魔法使いだ。だから自分がすべきことは望むことだけ。それでも、望みさえすれば、いつだって世界は自分に微笑みかけてくれるはずだ――!
瞬間、八雲の両腕が眩い輝きを放った。それが有り得ないことだとわかっていても、目の前の魔人に対抗するために彼はその武器を望んだ。その思いに彼の腕が答えたような、そんな感じだった。
刹那、周囲に響くのは金属と金属が奏でる協奏。
先に口を開いたのは、八雲自身の思いを代弁するアグニモン。
「なに……!?」
痺れるような感覚を四肢に走らせながらも、八雲は自分の右腕に保持した〝ソレ〟を必死に支える。自分にはあまりにも不相応な武器だった。奴は軽々と担いでいたが、実際に手にした〝ソレ〟はあまりにも重い。流石に化け物が使っていた武器だけのことはある。人間が望むには、些か傲慢すぎたようだ。
拳を弾かれたアグニモンの顔には、僅かながらも焦燥の念が見える。
「その武器はグロットモンの……。なるほど、奴と戦ったのだったな、お前は」
「ほ、本当に来た……来てくれた……!」
当然、八雲はハンマーの使い方など知らない。
だから棒術の応用で遮二無二ハンマーを振るうだけだ。だが重さに逆に振られている感覚はどうしようもなかった。眼前のアグニモンが放ってくるパンチにハンマーを合わせて、奴の拳を弾き返すことしかできない。当然、一度ハンマーを振るうだけでも腕の神経は千切れるような痛みを訴え、腕が引き抜けてしまいそうな錯覚すら感じてしまう。元々人間が扱うことなど想定されてはいないのだから、それは当たり前のことだ。
それでも確かに、グロットハンマーは八雲にとって救いとなっていた。
「やはりお前は召還師ということか。……まあ、最初からわかっていたことだが」
「しょ、召還師?」
「……俺の最も嫌いな人種のことだ。だが、それもここで潰える!」
大きく後退したアグニモンが、20メートルほどの距離を取った。
明確な殺意を己が肌で感じ、八雲の全身の毛が逆立つ。奴が如何なる技を繰り出すのか、何故か自分にはわかっていた。その名もバーニングサラマンダー、爆熱の火蜥蜴。アグニモンの持つ最大の必殺技にして、その勢いは全てを焼き尽くす烈火の如く。喰らえば即死、しかし生身の人間では逃げる術も無い。そもそも、この戦いに生身の人間が介入すること自体間違っている。
八雲にとって、それは撃たせてはならぬ技だった。だが既に遅い。
「後悔するのだな。俺と出会ったことを」
「何度も言わせるな! 誰が後悔なんか――」
「バーニングサラマンダー!」
放たれる烈火の魔弾。それを前にして、八雲は思い切りハンマーを振り被り――。
「――するかぁぁぁぁーーーーっ!」
己の全精力を以って勢い良くコンクリートに叩き付けた。
その瞬間、八雲の体は確かにグロットモンそのものであった。無論、それは決して外見上のことではない。そのハンマーの振り方、筋力や聴力など身体能力の全て、そして何よりも叩き付けられたハンマー自身が、彼がグロットモンであることを体現している。グロットモンの〝魂〟を八雲が一瞬だけ借り受けたような、そんな感じだった。
叩き付けられたハンマーが大地を打ち砕き、破砕されて巻き上げられたコンクリートが八雲を守る防壁となる。
放たれた火球を無数の砂塵が受け止めた。だが完全に相殺するには至らず、その余波が熱波となって八雲の体を襲う。それでも、八雲は全身を黒く爛れさせながらも退くことはしない。熱さなど感じない。そんなものはグロットハンマーを手元に呼び出した時から感じていたのだから。
炎が晴れた途端、グロットハンマーは自らの役目を終えたとばかりに霧散した。
「ぐうっ……!?」
瞬間、八雲の頭に激痛が走る。まるで背後から鈍器で殴打されたような、そんな感じだ。一瞬にして全身の血液が逆流しかけ、心臓が喉下から競り上がりそうな感触に打ち震える。恐らく麻酔無しで内臓の手術を受ければ、きっと今のような痛みを受けることになるだろう。どこか他人事のように、八雲はそう思った。
その痛みに耐え切れず、思わずその場に膝を着いて蹲る。
「……まさか、俺のバーニングサラマンダーに耐え切るとはな。全く以って見事だ、と言いたいところだが――」
その声はアグニモンから放たれた言葉ではない。
無理も無いことではあったが、八雲は魔人の必殺技を受け止めることだけに意識を奪われており、彼の者が既に先程とは全く趣を異にした生物へと変貌を遂げていることに気付きもしなかった。そう、力を失って膝から崩れ落ちた八雲を見下ろしている炎の闘士は、最早人の形を成してはいないのだ。
そこに立つのは龍。天を突くほどの威容と双翼、そして悪魔の如き醜悪な牙を覗かせた、巨大な龍だった。
「――お前の敗北は揺るがない」
紅蓮の龍が静かに紡ぐのは、問答無用の死刑宣告。
その言葉を最後に、渡会八雲は意識を失った。
何故か嫌な予感がした。
「ありゃ……八雲?」
不意に幼馴染の顔を思い出し、朱実は振り返る。
彼女が進まんとしている方向に見えるのは、紛れも無く日本アルプスの山々だ。そう、八雲の前から姿を消した朱実が気付いた時、何故か朱実は東海地方、正確に言えば名古屋まで飛ばされていたのである。当然、この場所にも人間は一人として存在していない。金こそ持っているが、人がいない所為で新幹線が動かないため東京に戻ることもできないでいた。
そんなわけで、無謀にも朱実は徒歩で東京へ向かおうとしているのだが――。
「これは少しばかし前途多難かもしれんねぇ。……少なく見積もっても200キロ近くはあるだろうからねえ」
別段歩くこと自体は苦ではない。ただ、話し相手もいないというのは退屈なのだ。
彼女の背後には山のように積み上げられた怪物達が倒れている。棍棒のようなものを装備した緑色の奇妙な怪物達は自らをゴブリモンと名乗り、文字通り身包みを剥がさんとばかりに朱実を襲撃してきたのだが、当然の如く三割程度の力しか出さない彼女によって一蹴された。
「ふむ……邪魔っ!」
「ごへっ!?」
また一匹、棍棒を振り翳して襲い掛かってきたゴブリモンの顔面に冷静にカウンターを決めながら、朱実は思案する。
今までに倒してきた怪物の数は、優に二十匹を超えている。その中で彼女は傷一つ負っておらず、また息を乱してもいない。それなのに違和感は隠せないでいた。どうも調子が悪い。あの程度の敵、普段の自分なら裏拳の一撃で倒せるはずなのに、今は相手の力を利用したカウンター以外一撃では倒し得ない。
握力が普段の半分ほどしか入らない。握力計が無いから正確な数値はわからないが、今は多分30キロ無いだろう。
「奇妙だね。まるでアタシがアタシじゃないみたい……」
恐怖からではなく、文字通り肌が粟立っている。何らかの要因によって体がバラバラにされようとしているような、それでいて己の体はその圧力に耐えようとしており、その軋轢から身体能力が全体的に弱体化している、そんな感覚だった。これは突然名古屋に飛ばされた時からずっとだ。
力が出せないというのはもどかしい。けれど、ひとまず身を守ることに不安は無いようだ。
「……まあ、そこらは追々考えていけばいいのかな。せっかく人もいないのだから、新幹線の線路を行くことにしよっか。夢の超特急の線路を歩いていくというのもまた、面白いことかもしれないしね」
そんな風に勝手な結論を下し、無人の名古屋駅を我が物顔で歩いていく朱実。しかし、律儀に自販機で切符を買って改札を通っている辺り、真面目と言えるのか言えないのか。
・
・
第11話:誠実なる騎士
新幹線。
20世紀後期、つまり1960年代に開通したそれは、未だに夢の超特急として名を馳せている乗り物である。近頃では俗に言うところのリニアモーターカーの開発・実用化が進められているようだが、そんな未来の産物よりも現実問題として現役で利用される新幹線の方が憧れの頻度は高い。
当然、今の時代になっても時速250キロを軽く超える新幹線は、最も便利な交通手段として認知されている。
「しっかし、いくらなんでも味気無さすぎじゃないのかねぇ……」
その線路の上を黙々と進みながら、朱実はうんざりした声を出す。
前方には一直線に線路しか見えず、また夜であるために高架下の街頭の明かりも殆ど届いてこない。新幹線の運転手というものは、こんな暗い場所でよくも事故を起こさずに運転できるものだと思う。それとも、時速数百キロの速さで走っている時には、そんなものなど気にならないのだろうか。
そんなことを考えながらも、確実に足は進んでいる。とはいえ、まだ距離に換算したところで5キロほどしか進んでいないのだが。
「……あ~、もう十時を過ぎているのかぁ。今日はここいらで寝るとしよっかねぇ」
大きく欠伸をして、朱実は線路脇のコンクリートに腰を下ろす。
電柱に寄り掛かって眠れば、なんとか夜を越せないことも無いだろう。元々サバイバルの能力には自信がある。未だに晩飯を取っていないこともあり、体が何度も空腹を訴えてくるが、それに眠気だけで蓋をする。ここから高架下へと飛び降りれば、コンビニぐらい無数にある。けれど、それは飽く迄も最終手段だ。今は動ける内に動いていた方がいいだろうし、また無人のコンビニから食べ物を拝借するのは気が引ける、そう判断しただけのことである。
「うぅむ、明日中に東京に戻るのは少し厳しいかもしれないねぇ……」
その言葉を最後に、朱実は新幹線の線路の上で眠りに落ちた。
夢を見ていた。
『人殺し!』
遠くで泣き喚く遺族の女。遺影を抱えて騒ぐ彼女の姿を前にして、自分は無性に腹が立つ。
元々そっちが悪い癖に責任を転嫁して、自分にとって大切な人のことを散々人殺し呼ばわりして。大体、どうして母さんも不当なことを言われ続けて黙っていられるのか理解できない。あいつらの言っていることは全て偽りだ。本当だったら、あの遺影には母さんが映っていて、遺影の男が今の母さんの立場にいるはずだったのに。
そう、母さんは誰よりも強かったのだ。殺されそうになったから仕方なかった。それだけなのに。
『………………』
『その年でそんな大きな娘さんがいるなんて余程のことよね、この人殺し!』
やめろ、その先を言うな。母さんが黙っているのに。
『 !』
女が放ったのは封印したはずの禁句。その瞬間、意識が断線した。
同時に素早く繋げられていく感情は怒りという名の形を成す。隣には何も言い返せず、悲しそうに俯く母さんの姿。それなのに、あの勘違い女はそれすらわからずに「娘さんが可哀想」だの「殺すことはなかった」だの見当違いな叫びを繰り返している。
全身の血液が沸騰しそう。まずい、自分ってこんなに短気だったっけ?
『……ふざけんな! あんたに母さんの、何がわかるっていうのよ!?』
怒声一喝。自分の声だけで周囲の空気を凍り付くのがわかる。齢5歳の小娘が突如としてそんな台詞を吐いたとなれば、そうもなるだろう。
当時の年齢を考えれば神速とも呼ぶべきスピードで、自分はあの女に向けて突進する。女が思わず息を呑んだのは、多分その時の自分が幼稚園児とは思えぬほどに、鬼気迫る表情を浮かべていた所為だ。実際、次の瞬間に母さんが泣いて止めなかったら、5歳の自分は本気であの女を殺していた。
それぐらい憎らしかった。苛立たしかった。彼女の存在そのものを疎ましく思い、あんな奴なんか消えちゃえばいいのにと心の底から思った。殺しても飽き足らないだろう。自分の存在の全てを引き換えにしようとも、あの女の身も心も全て破壊し尽くしてやらなければ気が済まなかった。
そう思考したことには、今でも後悔は無い。当時の自分にはあれが最も自然だったし、正しいと思っている。
誰にだって一度は誰かを本気で殺したいと思ったことはあると思う。だけど、実行に移そうとした者は数少ないだろう。それを自分はした。母さんに止められていなければ、あの女を絶対に生かしてはおかなかった。己の血の海に沈めてやりたかった。
だから長内朱実は人殺しらしい。人殺しの娘である以前に、人殺しであるらしい。
誰かにジーンズの裾が引っ張られている。
「ん……?」
既に日は昇っている。嫌な夢を見たというのに、太陽の光は相変わらず眩しい。
足元を何気なく見やると、丸っこい生き物が自分のジーンズの裾を口に咥えて引っ張っていた。銀色の仮面のような帽子のようなものを被った生物だ。明らかに人間界にいるべき生物ではないから、恐らく昨日のゴブリモンとかいった化け物と同じ存在なのだろうが、不思議と嫌な感じは覚えない。それは多分、目の前にいる生物が赤ん坊めいた雰囲気を醸し出しているからだろう。
「起こしてくれたの?」