◇
第5話:負ける気がしない
互いに息を切らすことも無く夜の街を駆けていく八雲と朱実。
既に駅前の灯りは酷く遠い。この時間帯では人気の殆ど無い住宅街だから、背後から殺気が迫ってくるのが面白いぐらいに読み取れる。自分達は幾度と無く抜け道を使って撒こうとしているはずなのだが、それでも人間を遥かに超える身体能力を持つ奴らとの差は一向に伸びない。あのまま不自由な場所でまともにやり合っていたら、確かにやられていたかもしれないと思う。
何かが始まろうとしている、そんな気がする。
二人が再会して以降、奇妙なことばかりだ。昨日のダスクモンと名乗る黒い騎士といい、つくづく厄介なことに首を突っ込んでしまったと思う八雲である。
「ん? 八雲、何で笑ってんの?」
隣を走る朱実の言葉に驚かされた。こんな奇妙な状況の真っ只中にいるというのに、無意識の内に自分は笑っていたらしい。
しかし考えるまでも無いことだろう。渡会八雲はこの状況を楽しんでいた。昨日あの巨大な鳥が変身した黒い騎士から逃げ延びたという妙な理由だけで、今日は更に奇怪な二体の化け物から言い掛かりを付けられて追われている。そんな珍妙極まりない状況だけれど、隣に彼女がいることが何よりも自分を楽しくさせてくれると思う。
言うまでも無いことだった。
長内朱実、彼女が隣にいる限り渡会八雲はどんな状況下でも楽しめてしまう気がする。
「さあな。……ちょっとペース上げるぞ、付いて来れるか?」
「ハッ! 誰に向かって言ってんのかねぇ、アンタは!」
ピッチを軽く上げても、朱実は苦も見せず追従してくる。女だてらに短距離走なら八雲以上の快足を誇った彼女だから、それぐらいは当然なのだろう。クラスメイトの三上亮には勝てないにしても、持久力にはそれなりに自信がある八雲だが、短距離で今の朱実に勝つ自信は、正直言って無かった。
そのまま大通りに出る。目的地はここから数百メートルといったところか。
「おっ、渡会じゃねえか!」
そんな時、唐突に声を掛けられ、八雲は思わず立ち止まってしまう。朱実もそれに合わせるようにして動きを止める。
「国見……!?」
「先生を付けろ、先生を」
「あ、ああ。国見……先生」
大通りの一角、ビルとビルの間に挟まれた場所に位置する小さな店から出てきたのは、八雲の担任である国見比呂だった。体育祭の翌日ということもあって今日は休みのはずだがスーツを着込んでいるということは、彼は学校へ行ってきたということなのだろうか。もしそうだとしたら、やはり教師という奴も楽ではないと思う。
それにしても、今国見が出てきた店は所謂その手のパソコンソフトを大量に扱っているような、そういう店だ。彼が小脇に抱えている大きなピンクの袋が妙に生々しい。思わず何本買ったのかと聞きたくなってしまう。
「……こんなところで何やってんだ?」
店の看板を見やりながら八雲が問う。そういえば、自分達の担任は生まれてこの方彼女がいないとかいう噂があったような気がする。
「俺のことは気にすんなって。……お前、今日は稲葉に誘われなかったのか?」
「……いや、断ったんだよ」
後ろの朱実の姿には気付いていないらしいが、それなら好都合だ。
「そっちこそどうしたんだよ。……アンタ、一緒に飲み会に行くんじゃなかったのか?」
「おうよ、確かにそのつもりだったさ。だから学校でちょいと雑務を終えたら店に向かうつもりだったんだがな──」
そう言ってニヤリと笑いつつ国見は続ける。
「──今日は安売りだったからな、こっちを優先した」
背後の店先に立つ『本日は50%オフの大特価!』という幟を親指で示す国見。そこには教師の癖に堂々とエロゲームを買い漁ることに対して恥も外聞も微塵も無い。もしかして、ここはガツンと言ってやるべき状況だろうかと何気なく思った八雲である。
尤も、こんな微塵も威厳の無い教師だからこそ、自分を含めクラスの生徒から慕われているのだろうと思うのだが。
「あはは、面白いね八雲、アンタの先生!」
「ぬおっ!?」
八雲の背後から突如として響いた少女の声に大袈裟なまでに仰天する国見。言うまでも無いことだが、それは長内朱実から出た声である。
「わ、渡会! この子は!?」
「……あ~、コイツは俺の……」
「今カノの長内ですぅ♪」
「違う。……そのネタ何度使う気だ」
冷静にツッコミを入れておく。とりあえずだが、その可愛い子ぶった言葉遣いだけはやめてくれと言ってやりたい。似合っていない上に何よりも気持ち悪いから。元から見た目や性格の割に可愛い声を出す朱実だけに、その手の口調をさられると本当に反応に困るのだ。
ちなみに国見は予想通り、盛大な勘違いをしてくれているようで。
「今カノだと……! 渡会、テメエ女に興味の無さそうな面して、ちゃっかり彼女を……!」
「違うっての! 何を勘違いしてんだ、アンタ!」
「そうだよ、国見先生とやら。……男の嫉妬は見苦しいと思うな、アタシは」
火に油ならぬ、言い争いに朱実である。
「朱実お前もう黙れ。……じゃあな国見!」
それ以上の言葉を喋らせまいと、強引に朱実の手を引いて走り出す八雲。
自分達が今まで何故走っていたのかをすっかり忘れていた。これ以上話していても墓穴を掘り続けるだけだし、何よりも今はグロットモンやらアルボルモンやらから逃げている途中だったのだ。こんなところで油を売っている場合ではなかった。
「きゃあっ、八雲ったら大胆っ♪」
耳元で妙に甘い声が響いてくるが無視する。だから、そういう可愛い子ぶった口調はやめろというのだ。何故かムラムラしてくるから。
「あっ、渡会! まだ話は終わって──!」
「もう終わったっての、また来週な!」
「テメエ! 彼女の作り方教えろぉ~!」
後方から国見の情けなさすぎる叫びが聞こえてくるが、それに空いている方の手を挙げることで答えて八雲は朱実を引いてその場を走り去る。彼女の作り方なんて、むしろこっちが聞きたいぐらいだとは口が裂けても言えない。それなら前にクラスでも彼女がいるという噂があった三上亮辺りに聞いた方が遥かに効率的だと思う八雲であった。
目的地は園田靖史の自宅、そこまで一気に駆け抜ける。
その数分後の出来事である。園田靖史は目の前の状況に困惑していた。
「え~と……」
この状況は、どう判断したら良いのでしょう?
中学三年間における最高の親友が、今まで色恋沙汰とは無縁だと信じてきた人間が、女の子の見た目には結構うるさいと自負している自分でさえ思わず目を見張ってしまいそうな可愛い女の子と共に自分の家にやってくるとは。しかも、かなり長い距離を走ってきたのか、人並み外れた体力を持つ彼が僅かに息を乱している。
そう、これはまるで──。
「……八雲、お前駆け落ちでもしたのか?」
「駆け落ちか……なるほど、言い得て妙とはまさにこのこと。そう言われればそうなるのかもしれんね……」
「お前は黙ってろ」
「酷い」
そんな夫婦漫才を繰り広げる二人だからこそ、靖史の声もつい苛立ちを帯びる。
「イチャイチャすんな」
「うっ」
何故か思わず言葉に詰まる八雲。何かあったのだろうか?
「冗談よ、駆け落ちなんてするわけないっしょ」
それに対して女の子の方は冷静である。彼女が顔を振る度に長いにも程があるポニーテールが軽やかに揺れる。
そこで靖史は改めて親友が連れ込んできた少女を見やる。上はトレーナーとジーンズジャンパー、下はジャンパーと同色のデニム。年頃の女の子のものにしては随分とラフな格好だ。彼女はその顔立ちこそ流麗そのものだが、胡坐を組みながら靖史が出してやった煎餅をバリバリと小気味良く齧っている様子は、むしろ少女特有の愛らしさを拒絶したようなワイルドさがある。なんとなく、あの佐々木綺音を更に暴力的にしたら彼女になるだろうと思えるような、そんな非凡な雰囲気を持つ女の子だ。
傍から見ると八雲とはお似合いに見えないこともないが、一概に美少女と形容するのは憚られるような少女が彼女だった。
「とりあえず初めまして……になるのかな? 姓は長内、名は朱実……まあ話すと長くなるから、一応八雲の友人ってことにしといて」
「あ、ああ。俺は園田靖史、よろしく……」
躊躇無く差し出された右手を、おずおずと握り返す。
どこか乱暴で投げ遣りな言葉遣いとは裏腹に、握った掌は細くて柔らかい、年頃の少女のものだった。だが不思議と恥ずかしさは覚えない。まだ出会って数分しか経っていないが、それでも靖史は既に彼女にはどこか男性めいたものがあると感じていた。そうでなければ、基本的に女の子が苦手な自分がここまで自然に対応できるはずも無い。それは要するに、目の前の少女を女扱いしていないということでもあったが。
他に話すことも無いため、やがて自然と沈黙が場を支配する。
「ほら八雲、事情を説明してやんなって」
「わかってるよ。……簡単に言えば……だ」
煎餅を齧りつつも朱実が少なくない真剣さを含んだ顔で促すので、思い切って八雲は事情を話すことにした。昔からの付き合いの朱実と遊んでいたこと、彼女と共に奇妙な生物と遭遇したこと、そして何よりも奴らから逃げるために靖史を頼らざるを得なくなったということ。それにしても、実際に経験した自分で話していても、あまりに突拍子が無さすぎて夢物語ではないかと思えてくる出来事だ。
尤も、八雲が事情を話している間、隣の朱実はいつの間にか呑気に口笛を吹きつつテレビゲームに興じていたのだが。
「……というわけだ」
話し終えた後、八雲は覗き込むように靖史と目線を合わせる。
中学生の頃に出会ってから、タイプこそ違いながらも靖史とは不思議と気が合った。親友と呼ぶのに一片の迷いもないし、朱実を除けば誰よりも信頼している。彼の剽軽なところをふざけた奴だと取る人間も多いが、それだけの人間ではないことも八雲は知っている。
現在は一人暮らしの彼だが、元々良家のお坊ちゃんだと聞くから、多分実家の躾が良かったのだろうと思う。尤も、実際には躾だけというではないだろうし、彼が単なるお人好しにすぎないだけなのだが、とにかく園田靖史にはそんな美点があるのだ。八雲が彼の家を選んだのは、そんな理由からだった。
だが今回ばかりは、如何に掻い摘んだ内容を話したところで靖史の顔は全く要領を得ないものだった。
「……つまりだ」
齧っていた煎餅を皿に戻し、靖史は八雲に向き直った。
「お前らは変な怪物に追われて、とりあえず逃げ込む場所が欲しかったと。そんでもって、親御さん達には迷惑を掛けたくないから、一人暮らしの俺の家に転がり込んできたって、そう言いたいわけだな?」
「ああ、そうだ。やっぱりお前ならわかってくれた──」
「……いや、悪いけど全っ然わかんねぇ……」
「は?」
返された言葉に目を見開く八雲を見て、靖史は「おいおい、マジかよ」と呆れ顔だ。
「女の子とデートしてる時点で羨ましすぎるんだよ、お前は!」
「……女の子?」
八雲と朱実は顔を見合わせた。どこに女の子がいるんだ?
「お前だけはそんな奴じゃないと思っていたぜ、八雲よぉ! それなのに裏切ったなぁ! こんな可愛い女の子とデートしやがって!」
一気に捲くし立てた。こういう物言いに八雲が弱いということを靖史は良く知っている。
「ええい! そもそも、無関係な俺が何でお前らの愛の逃避行に付き合わされなきゃならねえんだ!」
苛立ちの込められた言葉を聞き、ゲームに熱中していた朱実が「聞き捨てならんね」とばかりに振り返る。
「……八雲の言葉を僅かでも信じてくれるんなら、アンタはアタシ達に従って欲しいね。こちらが完全に巻き込んだ形になっちゃったことは遺憾なんだけど、本当に申し訳無く思ってる。だけど実際問題、今こうして巻き込んでしまった以上、アンタの安全の確保がアタシ達の責務でもあるからね。……それと、アタシが可愛いのは当然だから、今更取り立てて言う必要も無いっしょ」
「可愛い女の子? 見当たらないな」
「アンタは黙ってな」
「酷い」
さっきの仕返しをされた。
「……でっ、でも、さっきは──」
途端にしどろもどろになって八雲の方を見る靖史。
本人には決して言わないが、口調の微妙な古風さと性格の超銀河的な破綻さを除けば、確かに長内朱実という少女は八雲の人生の中でも五本指に入る美少女なのだ。それ故に、普段はおどけた印象の強い彼女に真剣な眼差しを投げ掛けられれば、誰でも今の靖史のようになるだろう。実際、子供の頃から散々慣れ親しんできた八雲さえ、昨日の戦闘の後に不意に向けられた彼女の笑顔には思わず目を見張ったほどなのだから。
そんな雰囲気を和ますため、朱実が真剣な一方で八雲は苦笑する。やはり朱実は、そして靖史も頼りになる奴だと思ったこともある。
「……悪いな。そういうわけだから、今回は付き合ってくれ、靖史」
「何か未だにピンと来ないけど、行けばいいんだろ、行けば……」
だから靖史は力無く首を落として、そう答えるしかなかった。
その一方、こちらは相変わらず駅前の飲み屋にて。
「へえ……前に噂になってた三上君の彼女って、環菜ちゃんだったの?」
話の内容が内容だけに妙に爛々と輝いている稲葉瑞希の瞳に対し、皆本環菜(みなもと かんな)は冷静そのものである。
「ええ、去年の六月……だったかしら? たまたま近所で道に迷ってる三上君のお母さんを助けたの、それが成り初め」
「はは、そういやそうだったなー!」
ちょうど向かいの席に座る三上亮は、豪快な笑い声と共にスクリュードライバーを口にしている。陸上部のエースでホープなのにそんなに沢山飲んでいていいのかと思う環菜であるが、わざわざ自分が口にするほどのことでもあるまい。しかし同時に半年ぐらい前の自分だったら恐らく諫めていたのだろうなと思いもするわけで。
自然消滅という言葉が一番合うのだろうか。それぐらい自然な形で、いつの間にか自分達は半年前から顔を合わせなくなった。それだけのことだ。
「環菜には何度か弁当も作ってもらったしな、あの時は学校に行くのが物凄く恥ずかしかったんだぜ!」
「てことは、三上君が妙に可愛い弁当箱を持ってきた時って、まさか!?」
「そうね、私のお弁当箱よ。半分は愛情……もう半分は嫌がらせ?」
「はっ、相変わらずズケズケ言いやがる! それでこそだぜ!」
酒が入っているから当然なのかもしれないが、瑞希にしろ亮にしろテンションが高すぎるのではないだろうか。素面の自分には少々付いていけない空気を感じる。ただ、こうした状況でもないと元カレと顔を合わせるのは気まずい部分が無いことも無いので、これはこれで良かったのかもしれない。
それにしても、自分がいつの間にか違う学校のクラス会に連れ込まれていることの意味がわからない。これは要するにトイレで偶然顔を合わせた稲葉瑞希に引っ張ってこられたからなのだが、他の連中も他校の女子が混じっていることを全く気にしないのはどうなのだと思う環菜である。尤も、そのおかげで居心地が悪くは無かった。
「あの……そもそも何で私、こっちに連れ込まれてるの?」
「はっはっは、小さいこと気にすんなっての、環菜。久々に会ったんだ、今日は友達として飲もうじゃねえか」
そうして亮はグラスを置きつつ、こちらの全身を舐めるように見渡して。
「最近は一段と可愛くなりやがったな……フッ、流石は俺の──」
「それやめて。……そもそもそこに繋がりが全く見えないんだけど」
「その可愛さ、万死に値する! ふはははは!」
「ああ、盛大に酔ってるのね、三上君……」
帰宅してから掃除やら洗濯やらが待っているので、環菜は酒には全く手を出していない。未成年だからどうだと良い子ぶるわけでもないが、そのことを考えて目の前のハイテンションな男を見ると少し気分が滅入ってくる。
けれど、同時に陸上部としての前向きで逞しく、誰よりも熱い心を持つ三上亮の姿を知るだけに、そんなベロンベロンの彼を前にして、思わず微笑んでしまった。そういう関係だったこともあり、両親を除けば彼の様々な顔を最も知っている人間は世界で自分なのだという事実には少なからず優越感を覚えないでもなかった。
「……昔の話、にしていいのかしら」
そう思う。申し訳ないが、もう彼のことは他人事でしかない。
それだけのことだった。一年前には確かに彼に対して存在した恋愛感情が今では全く感じられない。酔っ払っているとはいえ、友人として飲もうと前置きしてくれた彼には感謝だ。少なくない罪悪感があったはずだが、その言葉で自分としても良くも悪くも踏ん切りが付いたのだと思う。
「環菜ちゃん、いい顔してるね」
「……そう?」
覗き込む瑞希の言葉にも自覚はなかった。スッキリしたというのは事実だが。
「やっぱり高校生にもなると、皆彼氏とか彼女とか作るもんなのね。……でもまさか渡会君まで作るなんて流石の私にも予想外だったわよ」
「だから! 渡会のはきっと誰かの見間違いだって!」
「……ふふ、信じたくないのは私もわかるけどね、綺音ちゃん。これは真実なのよ……?」
「べ、別に私には関係無いって言ったでしょうが」
奥に座る背の高そうな女の子が瑞希の言葉を受けて妙に赤くなっている。その隣に座る小柄な女の子は酒の席だというのに妙に落ち込んでいる様子だった。
ただ、その会話の中で環菜には気になる名前が一つだけ出てきた。……渡会君?
「ねえ稲葉さん、渡会君って……?」
「ん? ああ、環菜ちゃんは知らないんだったよね、さっき話題に出てた男の子のこと」
振り返った瑞希の頬もそれなりに赤く染まってきている。女の子が相手だが、息がかなり酒臭くなっているということは言ってあげた方がいいのだろうか。
「ああ、女の子とデートしてたっていう……?」
「うん、渡会八雲君。……あ、ここには来てないんだけどね」
「渡会……八雲」
半ば噛み締めるようにして、環菜はもう一度だけその名前を反芻する。
「八雲……」
知っている名前だ。そして同時に、思い浮かべると不愉快になる名前だ。
やっと理解に及んだ。自分達のクラス会であの問題児、長内朱実が駅前で男と並んで歩いていたという目撃情報を聞いてから、環菜にはその相手の男に心当たりがあるような気がしていたのだ。心当たりがあるというよりも、あの長内朱実が一緒に歩くような男は一人しかいないという確信があった。女子高の上に誰よりも没交流な長内朱実が出会う可能性のある男といえば、それはきっとアイツしかいないのだから。
「そうそう。ちょっと変わった男の子でね、誰の泣く顔も見たくないとか大真面目に語っちゃうような──」
瑞希の言葉もどこか遠い。環菜が思い出すのは五年前、小学生の頃の記憶。
脳裏を過ぎる思い出。それは断じて自分にとって良いものではなく、むしろ不愉快になるような記憶ばかりだったけれど、それでもどこまでも楽しそうに生きる男の子と女の子の姿は、悔しいが自然と眩しく思えてならなかった。
「そっか。あの子、アイツと……」
環菜の中で全てが繋がったような気がした。
同時刻、荒れ果てた小さな広場にて。
そこが果たしてどこに存在するのかはわからない。そう、そこは決して人間界には存在し得ないだろう異質な空気を漂わせていた。
闇が這い出したように薄暗いその広場の中心に、一体の異形が座り込んでいる。体は青空を思わせる蒼と白に彩られ、頭部には立派な角が二本見えている竜だ。何故かような外見を持つ者が俗に犬と勘違いされ得るのか、その逞しい外見からは理解しかねる。それほどまでに蒼き竜は清爽な雰囲気を漂わせていた。
竜の名はブイドラモン。名前の通り、腹部には大きなVの一文字が刻まれている。
「………………」
吹き荒れる風を受けても、ブイドラモンは黙したまま動かない。
彼の視線の先にあるのは、一体の巨大な石像。日輪の輝きを身に纏い、烈火の龍と閃光の獣を各々の腕に宿したその存在は、かつて彼らの世界を守った救世主と呼ばれる存在であった。既にその存在はある種の講談と化しているが、それでも下々の者達にまで深く浸透した戦いの記録は、俗に『十闘士伝説』として延々と語り継がれてきた。伝説というだけあり、十闘士とはこの世界に生きる者達にとってはヒーローの代名詞でもあった。
また、周囲には石像を取り囲むように十本の円柱が立っている。長らく風雨に晒された影響からか劣化が激しく、まさに遺跡の如き様相を呈していた。
その円柱には各々に世界を司る十種類の属性が刻まれている。だが十本の内で炎、土、水、闇、木、鋼の六本は眩いばかりの輝きを見せているものの、風と雷、そして氷の三本は薙ぎ倒されたかのように、根元から無残にも圧し折られている。
また、残る最後の一本、光の属性を宿す円柱は──。
「……アイツらが動き出したみたいだ。でもジャンヌ、悔しいけど僕は君がいないと何もできない……!」
そのブイドラモンの呟きには、懇願にも似た色があった。
場所は戻って、再び八雲達。
相変わらず項垂れている靖史を引っ張って八雲と朱実が訪れたのは、近所にある空き地だった。恐らく80メートル四方はあろうこの場所なら、如何なる化け物染みた生物が相手でも周囲に被害が及ぶことはあるまい。周囲は好景気時代の影響か、買い手の付かない空き家が多く、騒音の被害を気にせねばならないようなマンションやアパートも無い。それでこそ、八雲も朱実も思う存分力を奮うことができるというものだ。
今まで強引に引っ張ってきた靖史の体を、そこでようやく解放してやる。
「あのな、お前らどういうつもりだ!? 何で追われてるってのにこんな目立つ場所に来てんだよ!」
「理由は後で教える。だから悪いんだが、今はとりあえずその土管の後ろにでも隠れていてくれ。……朱実、来た!」
「……心得てるよ」
言われるまでも無い。そう言いたげな横顔を見せる朱実は、既に臨戦態勢に入っている。
二人が感じ取ったのは、住宅街の屋根を飛び回って接近してくる者達の放つ殺気。如何なる理由があろうとも自分達の命を奪わんとする恐ろしいほどの意志を、そこからは感じ取ることができる。だが当然のことながら、八雲も朱実も何もわからぬままに黙って殺されるつもりは無い。そもそも、どれだけ強い殺気を放ったところで、あの程度の連中に負けるつもりさえ、今の二人には無かった。
やがて目の前に降り立ったのは先程と同じ二体。ブリキ人形のような木偶の坊と、でかっ鼻のゴブリンの二体だ。
「……やっぱり来たか」
「そう来なくちゃね」
朱実が口の端を僅かに上げて、本当に楽しそうに笑う。
どう見ても人間には見えないし、また遊園地の着ぐるみのようにも見えない。だからこそ、背後に積み重ねられた土管の影に隠れている靖史が「な、何だよアイツら!?」と疑問の声を上げるのも無理は無いと思えた。しかし、今の状況では敢えて説明する必要性は感じられないし、説明している暇も無い。巻き込んでしまったことは確かに悪いと思うが、とりあえず従ってもらうしか無かったのだ。
ハンマーを背中に担ぎながら、でかっ鼻の方が意気込んで叫ぶ。
「手間を掛けさせやがって! 今度は逃がさねえぞ、クソガキども!」
「逃げるが勝ちと言う。でもお前達は負けだなぁ」
「逃げたつもりは無いよ。……アタシに背中を見せさせたことは賞賛に値する。故にアタシ達のホームに誘い込んでやっただけのこと」
そう、朱実の言う通り、ここは八雲と朱実にとってホームグラウンドなのだ。
小学五年生になる頃から急激に身長が伸びた二人は、時折中学生や高校生にすら絡まれるようになった。仮にも女である朱実は率先して暴力を振るわれるようなことは無いのだが、彼女の性格が性格だ。相手を挑発した挙句、最終的に喧嘩になってしまうのが常だった。そして、どちらかといえば彼女を諌める立場にいた八雲でさえ、結果的に乱闘に参加してしまうのであった。尤も、朱実は八雲が参戦してくることを理解した上で、喧嘩を吹っ掛けている嫌いもあったわけだが。
そして、この空き地で戦えば二人に敵はいなかった。それは、相手が如何なる化け物であろうと例外ではない。
「……八雲、覚悟は決めたね?」
「この状況じゃ決めるしかないだろ。……右側のでかっ鼻は朱実、お前に任せた。左側の木偶の坊は俺がやるから」
そう返しながら、八雲は両手に手袋を嵌める。
長らく愛用していた手袋だったが、中学入学からの四年間を通して一度として嵌めたことは無かった。朱実の方がどうだったかは知らないが、八雲が単独で喧嘩を吹っ掛けられることは無かったのだ。それが朱実と再会した途端、二夜連続でこれだ。
誰の所為だと自問したところで、さも当然のように自分の隣を見る。
「やっぱりお前は、俺にとっての疫病神だな」
「褒め言葉……かな?」
「そうなるのな。……不思議と悪い気分じゃないし」
彼女と話していると心地良い。こうであることが極めて自然だと理解できる。
冷静に考えれば人間が生涯に関わるであろう不思議体験の大半をこの二日間だけで経験してしまっている気もするが、そこに朱実がいたからこそ自分は全く取り乱すこともしないでいられたのだろうと八雲は思う。
彼女といる限り、渡会八雲は如何なる状況下でも決して負けないし逃げないし崩れないと確信できる。
「もうどうにでもしてくれ……」
そんな二人の後ろで、靖史は息も絶え絶えに、そう呟くしかなかった。
◇
コロナで大変な中、いかがおすごしでしょうか。夏P(ナッピー)です。
少し遅れてしまいましたがようやく5話と6話を投稿させて頂きました。基本的に当時のせりふ回しは変えないようにしていますが、今回に関しては冒頭の先生の台詞周りをちょいちょいイジってしまいました。読み返した時に恥ずかし過ぎて戦慄したのでしゃーない、許せサスケェ……。
相変わらずまだ登場デジモンが三体という恐るべきスローペースですが、またよろしくお願い致します。
第6話:たとえ獣が相手だとしても
「ハッ、正気かガキども! 人間風情が俺達に生身で立ち向かおうって……ぐほぁ!?」
言い終える前に、朱実の飛び蹴りがゴブリンの顔面に突き刺さる。
「言いたいことはそれだけ? ……笑止!」
長きに渡る夜間の疾走で僅かに乱れた上着を直し、朱実は再び突撃を掛ける。
躊躇い無く人ではない存在に躍りかかる姿は、明らかに普通の女子高生のものではなかった。慌てて立ち上がった敵が振るうハンマーなど「蝿が止まるよ!」とでも言いたげに紙一重で回避し、今度は長い足を撓らせての後ろ廻し蹴り。咄嗟に顔面をガードするべく構えられたハンマーごと、ゴブリンの体を弾き飛ばす。
常人なら失神するほどの蹴り。だがゴブリンは痛みに顔を顰めながらも、なんとか立ち上がった。
「な、なかなかの蹴りじゃねえか」
「……どうやらタフさだけはなかなかのもんじゃない?」
素直に感心した。そう言いたげな朱実の笑み。たとえ人ならざる怪物が相手でも恐怖など微塵も覚えない。ただ、自分達と連中は絶対に相容れないと実感しただけだ。
それに何よりも、今の朱実は気が高ぶっていると八雲は感じる。ダスクモンと名乗る黒い騎士に明らかに見逃されたという事実は、今まで逃げたことも負けたこともない彼女にとって相当応えたと見える。
そしてそれは、恥ずかしながら自分も同様だった。
「なら……これでどうよ!?」
一息吐いた後、挑発的な言葉と共に再び突進する。
「ぬっ、小生意気な! 喰らいやがれ!」
それを無策で愚直で単純な戦闘パターンと取ったのか、グロットモンは先程とは異なりハンマーを横薙ぎに一閃させる。奴の持つ巨大なハンマー、グロットハンマーは柄の部分がとにかく長い。それを自由自在に操っているというだけで、奴の技量は確かに高いのだろうと朱実には予測できる。尤も、そうでなければ面白くないし戦い甲斐も無いのだが。
ハンマーという武器はその形状を見る限り、単純な打撃武器だと思われがちである。だが実際問題、戦闘においてハンマーを用いる場合、小振りな頭部での打撃は標的が決定的な隙を見せねばまず当たるまい。それ故にグロットモンがこの場で多用してくるのは長大な柄による薙ぎ払いだ。頭部による打撃が点の攻撃だとすれば、その柄を用いた払いは面の攻撃。半端に距離を取ってギリギリで回避しようなどという考えでは先端の頭部によって殴り飛ばされ、反対に不用意に懐に潜り込んできた相手はその柄によって脇腹を粉砕されるだろう。故に奴の攻撃は確かに理に適っていた。
しかし問題が無いわけではない。ここでの問題は、現在戦っている相手が長内朱実だということだった。
「き、消えやがっただとっ!?」
「隙ありィ!」
楽しげな叫びと共に、ハンマーの軌道から朱実の体がフッと消える。それにグロットモンが驚きの声を上げた瞬間、彼の腹に重い衝撃が走った。
「ぐほっ!? さ、逆立ち蹴り……!?」
「陸○圓明流・孤月……」
瞬間的に己が身を地に沈めた朱実は、腕の力を利用して一気に自らの足を跳ね上げることでグロットモンに強力な蹴りを見舞う。その俊敏な動きはまさに雌豹、土の闘士には一切見切ることができなかった。
蹴りを浴びたグロットモンの体が無様に宙を舞う。そこに素早く態勢を立て直した朱実の中段蹴りが炸裂する。その惚れ惚れとする動きは、まるで格闘ゲームのコンボのようだ。
だが空き地の土塀に叩き付けられながらも、グロットモンはまだ立ち上がる。
「な、舐めた真似しやがって……だがな! 俺はまだ、俺はまだ戦える!」
「まだ立つの? ……タフさは大したもんじゃん、見直した」
苦々しげに舌打ちしつつ、背後を気にする朱実。そこでは渡会八雲と木偶の坊の戦いが行われているはずだ。
別に八雲のことは心配していない。彼が本気になればどんな奴を相手にしようとも──自分以外には、という注釈は必要だが──負けないだろうということは、朱実が誰よりも知っているつもりである。それでも自分の助けが必要なのだとしたら朱実は黙ってフォローするし、逆に朱実がピンチになれば八雲の方が何も言わずに助けてくれる。それが自分達の関係であり、だから余分な言葉はそこには要らない。
このゴブリン自体は相手にもならないと直感した。だから同程度の強さだろう木偶の坊も八雲に掛かれば相手にはならないと、そう思える。
「人間が俺達に歯向かおうだなんて、百年と五ヶ月早いんだなぁ」
「チッ……舐めんな!」
自由自在に伸縮して襲い掛かってくる木偶の坊の攻撃は軌道が読めず、一息の元にこちらの間合いまで詰め寄ることができない。
蛇のように不規則な攻撃を掌底で捌きながら反撃の機会を伺うも、踏み込もうとしたその時に逆方向からもう一発が襲い来る。奴が繰り出してくるのは伸縮自在な両足のみ、この数秒の攻防で八雲にはある種の固定観念があった。故に両足の攻撃を凌ぎ切ったことで少なからず反応が遅れてしまった。
迫ってきたのは木偶の坊の右腕。咄嗟に海老反りの体勢になって避ける。
「うおっ!?」
そのまま四肢の乱打が来た。慌てて体を転がして元の距離を取る。
「おまっ……腕まで伸びるのかよ! 反則だ!」
「だから言ったんだなあ。人間が俺達に勝つなんて無理だってぇ」
鞭のように鋭く撓りながら、木偶の坊の右足が迫る。完全には回避できず、咄嗟に顔面を庇った右腕で受けた。
だが敵の蹴りは、老朽化していたとはいえ電信柱を一撃で圧し折るほどの威力だ。打たれ強さには自信のある八雲でさえ大きく吹き飛ばされてしまう。下手に顔面に貰っていたら、もう頬が陥没していたのではないかと思える威力である。右腕の骨が大きく軋むのが自分でもわかった。
「ぐっ……! こ、この馬鹿力め……!」
「これを使いな、八雲!」
「朱実……って、なにぃ!?」
背後でゴブリンと戦っているはずの朱実から、何かが投げ渡された。
回転しながら八雲の腕に収まったのは、鮮やかな朱色に彩られた大型の武器。二本の棒状の物体が長い鎖で繋がれているその武器は、確かヌンチャクといったはずだ。一瞬だけ朱実を振り返った限りでは、どうやら彼女が懐に忍ばせていたらしい。どうやってこんな大きな武器を持っていたんだよとツッコミを入れたくはなるのだが、どんな時でも戦闘に対する心構えを忘れないところは、何と言うか侮れない奴だと思う。
少なくとも、今は感謝すべきだろう。
「……相変わらずドラ○もんのポケットだな、お前の体は」
「文句は後で聞く。今は絶対に勝ちなよ!」
この年齢でド○えもんも無いものだ。まあ朱実は今でも好きなのかもしれないが。
そんなわけで、朱実に「おう!」と勢い良く返した八雲だったが、彼もまた普通の高校生、ヌンチャクの使い方など全く知らない。朱実と違って中国のアクション映画には全く興味が無かったし、そもそもヌンチャクなんて武器が実在することを知ったのは、朱実が使っていたからという理由である。
そんな彼に、ヌンチャクで戦えというのは酷以外の何者でもない。
「何を余所見しているんだなぁ」
「どわっ!?」
鈍い音が響き、八雲は咄嗟に受けたヌンチャクごと弾き飛ばされる。
そのまま地面に叩き付けられたが、義父仕込みの受身を取ることには成功したので、痛みは大したことは無かった。だがそれよりも、電信柱さえ叩き折るほどの攻撃を受けてビクともしないヌンチャクの方が八雲は気になった。尤も、朱実の持ち物だから何の変哲も無いものだとは微塵も思っていなかったわけだが──。
改めて握り直してみると、この手触りはプラスチックでもカーボンでもない。重さから判断して鉄だろうか?
「ふふふ、これで終わりなんだなぁ……ぐあっ!?」
迫る木偶の坊だったが、突然背後から衝撃を受け、大きくよろめいた。
まるで殴られたようだとそんなことを考えていると、木偶の坊の背後から思ってもいなかった人物が顔を出す。
「靖史!?」
「へへっ、どうだ? 俺だって、ただ見てるだけじゃないんだぜ」
鉄パイプを片手に、どこか自慢げに笑う親友。その姿が何より頼もしく見えたのは、恐らく今日初めてだと思う。実際、あのままだったら八雲はやられていたのだから、彼には心の底から感謝を述べたいぐらいだ。まあ、それは今の相手が相手でなかった場合なのだが──。
「ぬう、後ろからとは卑劣な……」
つまり、木偶の坊はよろめき、僅かに顔を醜く歪めただけで、決して倒れることはしなかったのである。
「げっ、効いてない!?」
「真剣勝負の邪魔した。許せないんだなぁ」
明らかに怒気の含まれた声で、木偶の坊は背後の靖史へと振り返る。
異形の怪物から突如殺気を向けられて腰を抜かしたのか、靖史は「うわああああ!」と情けない悲鳴を上げるだけで木偶の坊から逃げることができない。八雲が立ち上がって駆け寄るにも、距離が遠すぎる。だとすれば、八雲にできることは一つだけ。
このために朱実はヌンチャクを渡したのだろうか。だとしたら、大した奴だ。
「ぐっ、これでも!」
咄嗟に握り締めたヌンチャクをダーツの要領で、更に大きく振り被って木偶の坊の後頭部に投げ付ける。
既に靖史の方へ標的を変えている木偶の坊は、闇夜を切り裂いて飛来するヌンチャクに当然のように反応することができず、まともに後頭部への直撃を受ける。静寂の住宅街に響いたのは鈍く重い音。だが木偶の坊は間抜けな声で「うあああ!」と悲鳴を上げるも、それが化け物の意地なのか、なんとか踏み止まった。人間なら失神する程度では済まないほどの衝撃を受けたはずなのに。
しかし、言うまでも無くその隙を八雲が見逃すはずも無く、そもそも投擲したヌンチャクは全て次の攻撃の布石でしかないのだから。
「うおおおおーーーーっ!」
策も無く、次の手も考えていない。ただ奴が見せた最大の隙を逃すまいとする無謀な突撃。その隙を作ったのは八雲自身であり、その機会を与えてくれたのは靖史の援護であり、更に言えば朱実が投げ渡してくれたヌンチャクこそが今の状況を作り出したとも言える。それらの全てが全て、自分を勝利へと導いてくれる感触が確かにある。
そもそも、敵を欺く奇策や能力を利用することも最初から自分には必要無かった。だから渡会八雲の戦い方は愚直なまでの力押し、それで十分だ。朱実のように華麗で格好の良い戦い方などできはしない。どんな敵が相手だろうと、そうすることこそが己を最も高められると信じているし、自らの力を最大限まで発揮することさえできれば、自分は誰にも負けないと信じられるのだ。理由など知らない、もしかしたら最初から存在しないのかもしれない。それでも、そんな確信が確かにある。
そう、望みさえすれば自分は誰にも負けない。どんな化け物が相手だろうと、決して負けないのだと。
木偶の坊までの距離は5メートルほど。その距離が今は何よりも遠い。一秒が永遠へと転化される。だがそれでも八雲は必死に駆け、距離が縮まる。残り2メートルというところで、八雲は大きく前方へ跳躍する。その勢いを殺さずに、むしろ勢いをも自身の中に取り込んで、一気に右足を振り抜く。俗に言う飛び廻し蹴りである。
側頭部に直撃した八雲の蹴りが、木偶の坊の体を軽々と弾き飛ばす。
「ま、まさか人間に負けるとは……油断大敵、マッチ一本火事の元……がはぁ」
「はぁっ、はぁっ……や、やったのか?」
地面に横倒しになった木偶の坊は、最早ピクリとも動かない。
殺すつもりの蹴りではなかった。いや、そもそも如何に殺す気で蹴りを放ったとしても、人間のキック程度では奴の命を奪うことはできまい。半ば本能的に八雲はそう感じた。だから恐らく、奴はただ気絶しただけだ。偶然朱実から武器を受け取っていて、偶然靖史が奴に隙を作ってくれて、偶然自分の蹴りが意識を奪うのに効果的な場所にヒットした。それだけのことだろう。
だから、これは偶然が生んだ勝利。だとすれば、その余韻に浸っている場合ではない。
「……くっそ、今日は朝からハードな一日だよ」
思わず愚痴が漏れる。けれど不思議と嫌な気分ではなかった。
信じられなかった。それが園田靖史の正直な思いだ。
「マジかよ……」
中学校に入学した日に出会った無二の友人。何をするにも一緒で、どちらかと言ったら劣等生気味な自分を馬鹿にすることなく付き合ってくれた相棒。文武両道で女子からの人気も十分高い彼が、自分のような凡人の友人でいてくれるだけで、靖史は満足だった。
先程、突然尋ねられた時に悪態は吐いたが、そんな八雲が自分のことを頼りにしてくれたことが少しだけ嬉しかったのも事実だ。だからこそ、文句を言いながらも八雲に従い、わざわざこんな空き地まで来てやったのだ。
けれど今、靖史は明らかに不快感を抱いていた。
「……俺、助けられちまったのか」
漏れたのはそんな呟き。きっと八雲には聞こえていない。
その対象は言うまでも無く渡会八雲その人。鉄パイプを以ってしても化け物を一瞬だけ怯ませることしかできなかった自分に対し、彼はヌンチャクを受け取ったとはいえ、殆ど生身の状態であの化け物を退けてみせた。それが何よりも悔しかった。自分は守られるだけの存在でしかないのだと、八雲がそう語っているような気がして。
だから彼の強さに嫉妬した。八雲の元々の運動神経から考えれば当然のことなのに、その強さを今まで一度として誇ろうとしなかった親友の姿に、そして自分を守るほどの強さを見せた八雲自身に、彼は嫉妬した。
そんな思いを抱く自分を、靖史は少しだけ醜いと思った。
そこで気分転換に外に出ることにした。
正直に言って、酒臭い雰囲気はあまり好きではない。それに以前醜態を晒してしまったこともあり、酒自体が苦手なことも理由の一つだった。店の外に出てもまだ店内の騒がしさが十分に耳には届くのだから驚きである。あの連中は果たしてどこまで騒いでいられるのか、ある意味では見物かもしれないと思う環菜だった。
「渡会……いいえ、仙川君……彼、変わってないのね」
思わず漏れたのは先程聞かされた、今日女の子とデートしている姿が目撃されたという、一人の男子生徒の名前だった。そして同時にかつて同じ小学校に通っていた少年の名前だ。この何年かは開いたことすら一度として無かったが、恐らく卒業アルバムを見れば同じ集合写真に写っているはずだった。何度か隣の席になったこともあった気がする。
実を言えば、環菜は渡会八雲のことは殆ど知らない。けれど、仙川八雲のことならそれなりに知っているつもりだった。
あの長内朱実と共に毎日のように馬鹿をやっていた男子生徒。彼からすれば大抵は暴走機関車のように猪突猛進な朱実に振り回される形だったのだろう。だが本人は嫌々付き合っているような素振りを見せていたけれど、そんな彼こそが何よりも誰よりも朱実と関わり合うことを楽しんでいたことは明白だった。
朱実に比べると根は真面目だし授業にも真摯な姿勢で臨んでいた。けれど結局のところ、彼は朱実と似た者同士でしかない。
それにしても、稲葉瑞希から聞かされた今の渡会八雲は、昔とは少しも変わっていないらしかった。誰の涙も見たくない、だから誰も悲しまない世界になればいいと、そんな馬鹿げたことを彼は真面目に口にしていたという。酔っ払っていた瑞希や亮には気付かれなかったことは幸いだったのかもしれないが、それを聞いた瞬間に思わず環菜は鼻で笑ってしまっていた。そんな幻想じみたことを、そんな夢物語以上にはなり得ないことを、あの馬鹿は本気で願っているというのか。
ああ、馬鹿だ。確かにあの渡会八雲は、長内朱実と十分に肩を並んで歩けるぐらいの大馬鹿だったらしい。
「何考えてんだか、私ってば……」
最後に顔を合わせたのは小学校の卒業式の時だから、もう四年も前になる。今となっては向こうは自分のことなど覚えていないだろうし、実際に当の環菜とて今この場で稲葉瑞希の話を聞かなければ彼のことなど思い出すことも無かっただろう。それ以上でも以下でもなく、繋がりと呼ぶかも定かではない関係である。単なる小学校時代の同級生、それだけだった。
ただ、仮にも長内朱実の友人であるらしい自分としては、是非とも彼女の生態に関して少々伺ってみたいと思うわけである。
そんな時。
「……お星様?」
見上げた空が僅かに瞬いたような気がして、思わず目を擦った。だがそんなはずは無い。この二宮市は東京に近いこともあり、星など殆ど見ることができない。実際、見上げている空は漆黒の雲に覆われており、月さえ隠れがちである。実際、修学旅行以外でこの町を離れたことの無い環菜は、夏の大三角も冬の大三角も見たことが無かった。滅多なことでは一番星を見つけることさえ困難なのだから、唐突に星が見えることなど有り得ないはずなのだ。
けれど今の環菜の目は、そこで眩い輝きを放つ物体を確かに捉えていた。
コンタクトレンズを装用した、お世辞にも視力が高いとはいえない目を凝らして空を見つめる。蜘蛛のような形をした雲、ドーナツ型の雲、大小様々な雲が存在する夜空。そこに環菜の見つけた一番星は確かに存在しているのだ。
ぼんやりとした輝きを放つその星。そこから放たれるのは銀色という珍しい色の光。
「あれ……は」
そんなはずは無いのだが、何故か環菜にはその輝きの中心に一人の人間がいるように思えてならなかった。銀色の髪を夜風に靡かせた、一人の少女の姿がそこに在るように見えてならなかった。半ば頼りなさそうにも思える痩躯に巨大な双翼を備えた狗神を伴い、まるで自ら神であるかのように地上に住む人間達を見下ろしている、遥か高みに立つ存在。
そんなはずは無い、そんなはずは無い、そんなはずは無い──のだが。
「……!」
次第に背中を悪寒が上ってくる。見てはいけないもの、関わってはいけないものに触れている感覚。
焦点が定まり、徐々にハッキリとしていくそれの輪郭は、自分の直感を嘘ではないと伝えていた。
まるで従者のように彼女の隣に控えるあの狗神は、明らかに人間とは思えない。そもそも、地球上のあらゆる生物とも違う。狗の頭部を持ちながら、その肢体はどう見ても人間である。その時点で奴は有り得ない存在だった。まるで神話に見るアヌビスのようだ。死者を死後の世界へと誘う役を担ったと言われる、エジプト神話における冥界の神。
そんな未知なる存在を従えた少女はその瞬間、静かに振り返った。他でもない皆本環菜のことを見返した。
「そん……なこと……!」
目を疑った。それは有り得ないはずのことだから。
知っている顔に見えた。誰かもわからないのに、何かもわからないのに、自分はその空に浮かぶ少女のことを知っているような気がした。そして知っているはずなのに、それが誰なのか全くわからなかった。慣れない酒の匂いにあてられたのではなく、相反するその感情こそが猛烈な吐き気を競り上がらせて環菜は立っていられなくなる。
「気持ち……悪い……」
喉元を押さえて蹲る環菜。そんな彼女を遥か高みより見下ろして。
ば~か。
蔑むように、煽り立てるかのように、天空の少女はそう呟いたかのように見えた。
朱実の方の戦況は、当然のように八雲が心配するほどのものではなかった。
彼女は全く傷を負っていない。それどころか、息一つ乱していないというから驚きだ。対するゴブリンは幾度と無く地面に叩き付けられた所為か、顔面が泥だらけだった。それを見ただけで、振り下ろされるハンマーを易々と回避して懐に潜り込み、閃光の蹴りを放つ朱実の姿が容易に想像できた。当然のことかもしれないが、朱実にただの一撃も与えられず、ゴブリンは半ばサンドバックにされていたということだろう。
それでもホッと一安心したことは言うまでも無い。
「……ふん、どれほどのものかと思えば、その程度とはね!」
「こ、このクソガキが……」
でかっ鼻のゴブリンは、悔しそうに歯噛みする。
だが実際、八雲にも朱実が侮るのも無理は無いとも思えた。大振りなグロットモンの攻撃では蝶のように舞い、蜂のように刺す朱実を捉えることすらできないだろう。朱実の強さは少女の範疇を超えた怪力と凶暴性はもちろんのこと、何よりも特筆すべき点として敏捷性が凄まじいのだ。かつて実際に目にした八雲だからこそ言えるのだが、達人の域に達した柔道家でさえも彼女を掴むには数十分を要するのだから。
大きく振るわれるハンマーを紙一重で避け、瞬時に接近すると再びゴブリンの顔面に鋭い廻し蹴りを浴びせる。
「ぐへぇ!?」
「竜巻○風脚!」
空中で鋭く回転しつつ、更に追い打ちを仕掛ける朱実。容赦など全く感じさせぬ連撃は八雲をして、十分に空恐ろしさを感じさせ得る。あんな蹴りを人間が喰らっていたら一撃で病院送りにされることは間違い無いだろう。
地面に叩き付けられたゴブリンの体が大きく跳ねる。緊迫した戦闘時に不謹慎だということはわかっていながらも、八雲はその姿を「ゴムマリみたいだな」と思う。実際、あのグロットモンとか名乗ったゴブリンは外見だけなら愛嬌が無いことも無いのだ。朱実が言った通り、大道芸人にでもなれば人気者になれるだろう。
そこで初めて、グロットモンは肩で息をしながらも現れた八雲の姿に気付いた。
「むっ、その小僧……情けねえ! アルボルモンの奴、やられやがったのか!」
「ありゃ八雲、どうやら無事に勝ったみたいだね。流石じゃん、それでこそアタシの見込んだ男!」
「……悪いが、そのフレーズは勘違いされるから勘弁してくれ」
背後の靖史を気にしながら八雲は返事を返す。あと少し照れる。
流石に仲間の木偶の坊がやられたとあっては、グロットモンとやらにも思うところがあったのだろう。僅かに思案するように腕を組み、何事かをブツブツと呟いている。その瞬間、何故だかわからないが、グロットモンの体が肥大化したように見えた。
「……?」
そんなはずは無い。思わず八雲は目を擦る。あのグロットモンやアルボルモンと対峙した瞬間から周囲に満ちていた異質な雰囲気が、更に増大したような感覚。連中の迫力や威厳は先程まであのダスクモンやベルグモンに遠く及ばないと感じていたが、それが少しだけ奴に近付いたようなイメージ。
やがてグロットモンがどこからともなく取り出したのは、鈍く輝く妙な形状の胸像。
「あれは……?」
「ハッ! 人間界では使わないつもりだったがなあ、ここまで虚仮にされたとあっちゃあ、もう我慢ならねぇ!」
「……何する気?」
「へっ、こうするのよ!」
高らかに笑うと、グロットモンはその胸像を大きく掲げた。
瞬間、グロットモンが眩い鈍色の光に包まれ、その体が急速に巨大化を始める。今までの小人のようだった外見は瞬時に屈強な巨人へと変化を遂げ、その短い腕も丸太のように太く変貌する。やがて閃光が晴れた時には、半ば化け物と化したグロットモンが、朱実の前に姿を現していた。
否、それは既にグロットモンではない。
「グロットモン、スライド進化──ギガスモン!」
「変身した……やっぱりコイツ、ダスクモンと同じ……?」
「喰らいな! その生意気な顔、一撃でサンドイッチにしてくれる!」
大きく跳躍したギガスモンが、朱実の体ぐらいはあろう太さの腕を地面に叩き付ける。
瞬間、先程のハンマーを遥かに凌ぐ勢いで大地が砕ける。咄嗟に飛び退いていなければ、朱実は瓦礫の下へと消えていただろう。それほどまでに深く抉られた大地は、最早底が見えないほど。だが、そんな中でも朱実の顔は至って平静そのものである。それ故に、今の彼女の表情が強がりであることを理解できるのは八雲だけだ。
内心は焦っているのだろうが、それを億尾にも出さないところが、彼女の強いところだと思う。だからこそ躊躇い無く告げることにした。
「俺も手伝うぞ、朱実」
「……止めはしない。でも多分、アイツは強いよ?」
それはわかっている。先程まで息を全く乱していなかった朱実が肩で息をしている。そのことが何よりの証拠だ。
贔屓目に見て、自分の戦闘力は良くて朱実と互角といったところだろう。そして、目の前に現れた巨人は恐らく先程の木偶の坊を超える強さを持っている。だとすれば、まともにやり合ったところで勝てる見込みがあるとは思えない。だがそれでも、絶対に負けたくない。そんな思いから出た言葉だ。
朱実も恐らく同じ思いだったのだろう。八雲の顔を見返し、小さく笑った。
「それじゃ、見せてやろうか。アタシ達の力を」
「……ああ」
笑う八雲の心に、迷いは無かった。