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第7話:起きる異変
「ハリケーンボンバー!」
竜巻と化したギガスモンが突撃してくる。
奴の速度、パワー、その全てが文字通り一撃必殺の威力。
否、そもそも彼奴らの技は人間に向けて放たれることなど想定されてはいない。それ故に、まともに喰らったなら、下手をすれば即死、運が良くても骨折ぐらいの大怪我は避けられない。そんなこと、八雲と朱実には眼前に迫ってくる竜巻を見ただけでも理解できる。人間では奴には勝てない、それは火を見るより明らかな事実だと確信を持って言えるだろう。
それでも一歩も退く気は無かった。それが摂理だろうと、自分達は負けたくないのだから。
「ヌンチャクを返しな、八雲!」
「くっ……悪い、任せた!」
咄嗟に八雲は右方、朱実は左方に飛び退いて事無きを得る。
暴風は一瞬にして動きを止め、その中からギガスモンの巨体が現れる。奴は自慢の攻撃を回避されたことに苦々しげに舌打ちこそしていたが、その顔に浮かぶ絶対の自信の色は微塵も揺るがない。その表情はお前らでは俺には勝てないと雄弁に語っているようで、八雲と朱実の闘争本能をこの上なく揺り動かしてくれる。
それに気付かないのはギガスモンだけだ。奴は自らの勝利を全く疑っていない。
「よくかわしたな。だが、これならどうだ!? アースクエイク!」
「八雲、あれが来る! 右だよ!」
闇夜に跳躍するギガスモンを前に響く、思春期の少女そのものといった甲高い朱実の声。
促されるままに八雲は再び右に飛ぶ。振り下ろされる丸太のような腕が大地を穿ち、周囲が凄まじい地震が起きる。体感震度は震度4強、マグニチュード5.6ほど。しかし常人なら直立不動の態勢を保つことさえ難しい地揺れを前にしても、なお長内朱実は腕を組んだまま不動である。
即座に拾い上げ、彼女がギガスモンの顔面に投げ付けたのは石礫。それが一瞬だけ目晦ましの効果を齎す。
「くっ、目潰しだと? 小癪な真似を──」
「小癪も御酌もあるかっ! 勝つための戦術と呼んで欲しいねっ!」
真実、彼女は目潰しなどという姑息な手段を使ったことを後悔していなかった。
振るわれたヌンチャクが流麗な弧を描き、ギガスモンの脇腹に入る。それらは全て八雲が飛び退き、態勢を立て直す間に行われた出来事。ギガスモンが本気で攻撃を放ち、朱実はそれに敢然と挑み、目潰しなどという彼女らしからぬ戦法を用いながらもクリーンヒットを決めた。いや、彼女らしからぬという表現は誤りかもしれない。何故なら、朱実は単に拳を打ち合わせるのが好きだというだけ、そして真っ向勝負というものが好きなだけで、いざという時の彼女は戦闘の手段など選ばない。勝利を得るためには卑劣な手段とて厭わぬ人間が長内朱実という少女なのだ。
やっぱり勝てないかな、アイツには。その光景を前にすれば、流石の八雲も渋々そう思うしかない。元々自分が強くなりたいと願うようになったのは、偏に自分以上の強さを持っていた彼女がいたからだ。それを鑑みればこそ、自分もまだまだ強くならなければならないと思う。
そういう意味で、やはり長内朱実は渡会八雲にとってのヒーローなのだ。
「チッ、何て硬さよ、アンタの体ぁ!」
だが勝利の余韻にも似た八雲の思いは、朱実の舌打ちによって掻き消される。
咄嗟にヌンチャクを手元に戻した彼女に、唸り声を上げたギガスモンの容赦無い連打が打ち込まれる。瀑布のように打ち込まれる乱打の応酬を朱実は辛くも紙一重で回避し、また振るったヌンチャクで受け流していくが、標的を失った土の闘士の拳は大地を、空き地の壁を、土管を次々と粉々にしていく。その荒々しい姿はギガスモン、つまりギリシア神話にて大地の女神から生まれた巨人族、ギガンテスの名を持つ怪物に相応しい。
あんな拳を一撃でも受けたら、容易く体が粉砕されてしまう。当然のことではあるが朱実とて肉体は普通の女の子、あの攻撃に耐え切れるわけが無い。
「くっ……!」
それに柄にも無く焦った。不覚にもそんな光景を想像してしまったから。
そういえば靖史は──というと、空き地の隅っこで丸くなって震えている。確かに情けない姿だが、それを笑うことはできまい。多分、ギガスモンを前にした一般人なら誰でもああなるだろう。面と向かってギガスモンに相対することができる朱実や八雲の方が異常なのだから。
「朱実、下がれ!」
連打に見舞われる朱実を見兼ね、鋭く放たれる八雲の飛び蹴り。
ゴスッという確かな手応え。ギガスモンの右の肩口に決まったはずだが、相手は僅かによろめいただけでダメージを受けた様子は殆ど無い。むしろ、軽く右腕を振るっただけで攻撃したはずの八雲の方が木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
60キロ強の八雲の体が吹っ飛ばされる。
そのまま地面を転がるかと思いきや、吹っ飛ばされた先では柔らかな衝撃が彼を襲う。同時に八雲の腰と胸の辺りに回された手。ジーンズジャンパーに袖を通されたその腕は、明らかに長内朱実のものだ。つまり、彼女は同年齢の男子の体を軽々と受け止めたのである。
吹っ飛ばされた八雲を抱き止めた体勢で、朱実は皮肉そうな笑顔を浮かべた。
「……随分と早いお帰りね、八雲」
「あ、朱実お前、俺を受け止めやがったのか……?」
その細い腕のどこにそんな馬鹿力が!?
だが朱実が八雲の疑問に答えるより早く、再び竜巻と化したギガスモンが突っ込んでくる。先程も見せたハリケーンボンバー、ギガスモンの得意技だ。それを前にして朱実は投げ飛ばすかのように八雲の体から離れると、その竜巻に対して身を捩らせながらもヌンチャクを投げ付ける。しかし到底ダメージを与えるには到るわけも無く、幾度の激突で磨耗していたヌンチャクは竜巻に容易く弾かれ、その身に激しい亀裂を走らせながら八雲の傍に落ちた。
「八雲!」
「……えっ?」
耳に届いた鋭い叫びに思わず目を丸くした。だが自分を見据える朱実の鋭い目付きを前にしただけで全てが理解に及んだ。
「ああ。……わかった!」
咄嗟にヌンチャクを拾い上げつつも、未だに留まるところを知らないギガスモンのハリケーンボンバーに真正面から相対した。
明確な武器を手にした八雲の方を脅威と断定したのか、奴は信じられないほどのスピードで素早く方向転換を掛け、再度突撃してきた。その回転速度は先程より大きく上がっており、その迫力と来たら、文字通り暴風と化している。だがそんなもの、既に八雲には恐れるに値しないものだった。その理由など、言うまでも無いだろう。つまるところ、八雲は朱実が目で語った言葉を信じただけ。既に朱実は奴の技の弱点、言い換えれば狙い所を完全に把握しているというのだから。
故に顔色を変えることも無い。そうして暴風が自分の体を引き裂かんと迫った瞬間。
「今だ、朱実!」
横っ飛びで暴風を回避しながら、手にしていたヌンチャクを朱実へと投げ渡す。
「OK!」
またも攻撃を避けられたギガスモンは竜巻の中で小さく舌打ちするも、三度方向転換を行って攻撃を再開しようとする。これでは切りが無いだろう。八雲と朱実は攻撃を回避し続け、ギガスモンは自らを暴風と成して幾度と無く攻撃を敢行する。だが一撃でも当てれば自分の勝ちが確定する。その事実がギガスモンの自信の裏付けとなっている。
尤も、その自信は間も無く打ち砕かれることになるのだが。
「パワーは段違い……けど!」
ヌンチャクを受け取りつつ、朱実は不敵に笑う。そう、既に彼女は勝機を見出していたのだから。
「悲しいけど、脳天は隙だらけなのよね!」
そんな言葉と共に高々と放り投げられたヌンチャクが、迫るハリケーンの中へと飲み込まれる。こう何度も同じ攻撃を繰り返されれば、恐らく誰でも気付くはずだ。故に気付かなかったのはギガスモン自身だけだったろう。
確かにハリケーンボンバーは凄まじい速度を誇る。八雲や朱実でなければ一撃目で回避もできずに体を粉砕されていただろう。そして彼ら二人であろうとも、そのスピードを前にすれば回避以上のことはできなかった。けれど、そのスピードが僅かに落ちる瞬間があったのだ。
「アンタのは自信じゃない……慢心ってことよ」
「……自分の技の弱点ぐらい知っとけよな」
そう、言うまでも無いだろう。スピードが落ちる瞬間、それは方向転換するタイミングに他ならぬ。
それさえ理解できれば造作も無いことだ。八雲を囮にして方向転換を誘発させ、そこに敵の攻撃エネルギー自体を利用した攻撃を叩き込む。それを行うことに関して、八雲のすぐ隣にいる朱実の横顔にはまるで迷いが無い。自分が為したことに心の底から自信を持っており、また自分自身の勝利を確信しているような、そんな顔。先程からの彼女は戦士としては凛々しいものだったけれど、それは長内朱実という少女のものではない。故に朱実を朱実たらしめているのは、今のような自信満々な表情だ。迷いも無く躊躇いも無く恐怖も無い、一切のマイナスな感情をかなぐり捨てた、そんな表情。
竜巻の中でヌンチャクが粉々に破壊される音が響き、それに続いて聞こえてくるのは。
「ぐっ、ぐわああああああああああ!」
耳障りにも程があるギガスモンの悲鳴だった。
晴れていく竜巻を見やった八雲や朱実の視界には、大きく息を乱しながら現れた巨人の姿が映る。全身に先程は見られなかった無数の醜い擦り傷が走っており、その姿は表現が難しいほどに痛々しいものだ。殆ど死人のような足取りで一歩か二歩前に進んだかと思えば、ギガスモンの巨体が地響きを立ててその場に崩れ落ちた。
当然、八雲は顔を顰めるしかない。自分達の攻撃によるダメージとはいえ、自分や朱実の蹴りでも全く揺るがなかったギガスモンが物の見事に倒れ伏した以上、その攻撃は半端では無かっただろうと予測できるから。
「が、ガキども……い、一体何をしやがった……!?」
「……ははん、折角だから説明してあげよっか?」
見る者の全てを恋に落としそうな──と本人は思っているらしい──可愛らしい笑顔で、朱実は這い蹲ったギガスモンに語り掛ける。
ハリケーン、つまり竜巻には固有の性質がある。つまり外部から触れてくるものに対しては絶対的な障壁となる反面、内部に位置するものに対しては一切の攻撃が行えないということである。故に大地を砕くほどの竜巻であろうとも竜巻の内部に潜むギガスモンはダメージを全く負わない。それから示される答えは一つだけ。竜巻を突き崩すには内部からの一撃を、つまりギガスモン本体に強力無比な直接攻撃を行わなければならないというわけだ。
怒涛の攻防の中でヌンチャクに亀裂が入ったのは想定外だったけれども、朱実はそれすらも戦闘に利用したのだ。
最早ヌンチャクとしては用を成さないながらも、それは極めて強固な鉄の塊。一度目の攻撃で、奴の起こす竜巻には頭上という決定的な抜け穴があることを、朱実は既に看破していた。竜巻の中に投げ込まれたヌンチャクは、高速回転するギガスモンには何のダメージを与えることもできず、一撃で破砕されるだろう。
しかし、それこそが朱実の狙いだったのである。砕け散ったヌンチャクは即座に鋭利な無数の破片へと変貌を遂げ、竜巻に取り込まれる。そして、それらの破片が竜巻の内部にいるギガスモン自身を串刺しにするというわけだ。全てが全て、長内朱実の卓越した戦闘スキルに拠るものだった。
流石と言うべきか、戦闘に関する判断力と直感に関して、朱実のそれは八雲を遥かに凌駕している。
「そんな手を……俺のハリケーンボンバーを完璧に見切ったってのか!」
「馬鹿だね、アンタは。……どんなに強力な技だって、この短時間で何度も見せられれば、アホでも対抗策の一つや二つは思い付くっての」
軽く言う朱実ではあるが、その対抗策を思い付くまで回避し続けることこそが最も難しいことであるという事実には気付いていまい。
「……まあ、こんなことは初歩の初歩だろうけど」
「朱実お前、相変わらず戦いに関しては冴えてんのな……」
小学生の頃は80点以上取ったことが無い癖に、なんてツッコミは迂闊にしない方が身の為だろう。命が危ない。
無論、ギガスモンとて鉄片如きで屈するほど軟ではない。全身を串刺しにされたとはいえ、その傷口はどれも非常に浅いものだ。全身を泥で塗れさせながらも、流石は土の闘士と言うべきか、その瞳は未だに衰えることを知らぬ闘志を宿しているように見えた。
立ち上がると憤怒に満ちた表情で八雲と朱実を睨み付けてくるギガスモン。まるで親の仇とでも言わんがばかりの表情である。
「よっ、よくも俺をここまで虚仮にしてくれたなぁ……!」
「……チッ。少しタフすぎよ、アンタ」
小さく舌打ちを返す。流石の朱実にも、最早有効な攻撃手段は無い。
『……人間の子供如きを相手に、存外に苦戦していると見えるな、ギガスモン』
瞬間、ナイフで首筋を撫でるような声が響いた。
だが周囲に殺気は無く、何者かが現れた気配も無い。ただ淡々と事実だけを告げるような無機質な声。立ち上がったギガスモンが僅かながらも硬直した様子からして、恐らく奴の知り合いと見えるが、それ以上のことはわからない。故に八雲も朱実も様子を見るしかなかった。
「……新手か?」
「多分違うね。アタシの勘が正しければ──」
その声の主は、この場所にはいないのだろう。実際のところ、それは正解だった。
「そっ、その気障で無償に癇に障る言葉遣い……テメエ、アグニモンだな!?」
『……そうだ。久しいな、土の闘士よ』
「根無し草のテメエが何で人間界に干渉する?」
『………………』
声の主は答えない。
だが朱実や八雲の耳に届くその声色から判断すれば、恐らく声の主は20代の男性である。ギガスモンがアグニモンと呼んでいることから判断して、恐らくギガスモンやアルボルモン、そして件のダスクモンと同じような存在なのだろう。そういえば、奴らは一概に自らのことを『~の闘士』と名乗っていたと記憶しているが、あれは果たして何を意味するのだろうか。
尚もギガスモンに響く冷たい声。
『我が身が可愛いのであれば退け。お前が如何に猛ろうとも、全ては徒労に終わるのだから』
「なっ、どういうことだ!?」
『わからないのか。……間も無く【反転】が発動するのだぞ?』
【反転】。その言葉を聞いた瞬間、ギガスモンの顔が凍り付く。
アグニモンとやらの声が聞こえ始めてからも必死に気丈を保っていた巨人の表情は、今度こそハッキリとした恐怖に打ち震えていた。土色の顔は情けないながらも青白く染まり、奴に血が通っているのかは知らないが文字通り血の気が失せたような表情を見せている。それは如何なる言葉よりもアグニモンとやらの恐ろしさを体感させる、そんな声だった。
既に八雲や朱実の姿は奴の視界には存在しなかった。ただ一心不乱に裂けた大地の中へと飛び込み、モグラのように姿を消した。
「どうしたんだ、アイツ」
「……わからないね。何か【反転】がどうとか話していたみたいだけど……」
何気なく振り返った先では、アルボルモンとか呼ばれていた木偶の坊も消えている。ギガスモンが連れ帰ったのか、それとも自分自身で逃げたのかは定かでない。だが何はともあれ、自分達は生き延びたらしい。そのことに流石の朱実もホッとしたのか、大きく胸を撫で下ろす仕草が印象的だ。
しかし、ある部位はそこそこ女らしくなったのではなかろうか。そんなことを言ったら絶対に殺されると思うわけだが。
「まあ、何はともあれ助かったみたいだな、俺達」
「……ふむ。多少解せん箇所もあるけど、特に気にする必要はあるまいよ」
「お前な、その古臭い口調はどうにかならんのか?」
突っ込んでも無駄だということはわかっている。こんなこと、昔からだ。
そろそろ説明する頃合いかと思って靖史の方を見るが、そこで気付いた。空き地の隅っこでへたり込んで茫然としている様子の彼の体が、背後の土塀が見えるぐらいに透けているのである。彼の存在そのものが希薄になっていくような感覚。去っていく間際に、奴らが靖史に何かをしたというのなら理解できる。しかしそれをさせぬよう、八雲は細心の注意を払っていたつもりだ。故にグロットモンもアルボルモンも靖史に手出しできたはずが無い。
だからこそ理解できる。これは連中の仕業ではないのだと。
「や、靖史?」
「あれま、何が起きてるん?」
「……朱実、お前も」
平然とした声を上げているが、そんな朱実の体も半透明化している。
「おおっ!? アタシも!?」
透明人間になっていくかのようだ。状況がよく掴めぬ内に、空き地の隅っこで相変わらず座り込んでしまっている靖史の体、また八雲の隣に憮然とした表情で立っている朱実の体も、一瞬にして霧散する。まるでデータの塵芥と化していくような、そんな感じだった。
だから理解できることは一つだけ。その場には八雲しか残されていない。
「嘘……だろ?」
たった今、自分の前から消滅したのだ。朱実も靖史も、そして世界の全てが。
埼玉県二宮市から少し離れた東京都新宿区。ここは高田馬場駅周辺。
「こら間抜け暁、ウチを置いてく気!?」
「文句を言うなら、まずテキパキと動いてくれないかな。……僕は暇じゃないんだ」
半ば耳障りな声で騒ぎ立てるコギャル風の少女と、心底呆れた様子の眼鏡を掛けた青年。
パッと見た限りでは年齢は同じくらいのようだが、どこか親密さには欠けているようで、少なくともカップルには見えなかった。それもそのはず、これ見よがしにため息を吐いたり、また騒ぎ立てる少女のことを鼻で笑ったりと、青年の態度には露骨に少女を小馬鹿にしたような様子が見え隠れしている。明らかに彼女を自分より下に見ていると、そんな雰囲気がある。
暁と呼ばれた青年は後ろで叫び散らす少女を鬱陶しげに一瞥し、また夜空へ目を戻す。
「おや……?」
その瞬間、暁は違和感を覚えた。
目の錯覚だろうか。突如として視界がグニャリと歪んだ気がする。無論、それは錯覚などではない。次第に歪んでいく暁の視界の中、往来する人々の姿が次々と消えていく。うんざりしたような表情を浮かべて改札口で切符を買っているOLも、酔い潰れたのか真っ赤な顔でホームへ向かう足取りの覚束無いサラリーマンも、文字通り全ての人々が消滅しているのだ。
だから数秒後、その場に残されたのは暁ただ一人、のはずだったのだが。
「ちょ、何これ!? 何がどうなってんのぉ!?」
「!?」
隣から響いてきた声に思わず振り返ってしまっていた。
そこにはショートカットを揺らしながらも、先程と同じように素っ頓狂な声で騒ぎ立てる少女の姿がある。そのことに流石の暁とて驚きを隠せない。この奇妙な異変の中で彼女は如何なる理由か、消滅すること無くこの場に留まったということなのか。自分のことを棚に上げつつも、それは腑に落ちないと思う暁である。
そう、往来の人々が消滅して自分、館林暁(たてばやし あかつき)が残される。これは即ち今し方消滅した者達は全て凡人であり、逆に残された自分こそが特別な人間であるという、暁自身が普段から抱いている自身への優越性を確信に変える事態であったのだが。
「ちょっと間抜け暁、これどういうこと!?」
「……こっちが聞きたいね。そもそも、何故君まで残されているのさ……?」
それなのに誰よりも凡人であろう隣の少女、谷河内葉月(やごうち はづき)まで残されているのが何よりも気に食わない点であろう。
「かぁーっ! 男の癖に頼りにならないわねぇ、アンタは!」
「むっ……」
「あれま、怒った?」
「今の言葉は聞き捨てならないね。……誰が頼りにならないって?」
「アンタだっての! きゃははははっ! よ~し、決めた! 一緒に調べるわよ!」
「相変わらず勝手なことを言うね、君は。……わかってたことだけど」
無人となった街中へ駆け出す葉月の後ろ姿を見やり、ため息を吐く暁。
「どうしたのよ、早く来なさいってば~!」
「一緒に行動しなきゃならない必然はあるのかい? それぞれ単独行動って考えは──」
「却下! きゃははははっ!」
「本気……なんだよね、君の場合は」
ウザい。敢えて俗物的な物言いをすれば、今の自分はそんな気分なのだと思う。
自尊心が強い。館林暁の性格を一言で表せばそうなるだろう。彼は自らを誰よりも優秀で価値のある人間だと信じて疑わなかったし、実際に勉学においてもスポーツにおいても常にトップを走り続けてきた彼である、そんな思いを抱くのも致し方無かったとも言えよう。だからこそ、彼が全人類の中で最も見下している谷河内葉月と共に行動をしていること自体が奇妙なことなのだ。
その理由は偏に腐れ縁という言葉に集約するのだが、こんな奇天烈な事態に陥っても行動を共にしなければならないとは、既に縁というより呪いの類ではないだろうか。
「やれやれだね。……おや?」
再びため息が漏れる館林暁であるが、その時自分の視界の隅で小さな生物が走っていることに気付いた。
身長は50センチも無いだろうから人間であるはずが無い。そいつは暁の視界の隅、ちょうど路地裏の方向へと駆けていく。薄紫の切れ込みが入った大きな両耳を揺らしながら走り去る姿は、まるで魔法を掛けられて動き出したぬいぐるみのようだった。
「あれは……?」
「大変でクル、世界が変わっちゃったでクル。とてとてとてとて……」
「は……?」
気の所為だろうか。不意に聞いたことの無い声が聞こえたような気がするのだが。
目を擦って見直してみるも、やはり視界には路地裏に駆けていく奇妙な生物の姿しか見当たらない。つまりその異様なまでに可愛い子ぶった声は、まさか奴から発せられていたというのだろうか。しかし奴は人間ではないし、まさか宇宙人やオカルトの類とも思えなかった。故に奴が人語を解す存在と判断することはあまりにも非科学的であまりにも非論理的だ。端的に言ってしまうなら、自分の空耳だと片付けてしまった方が得策だろう。
だが暁が心中でそんな結論を出すのと時を同じくして、隣の少女が騒ぎ出す。
「きゃははははっ! 間抜け暁も聞いたでしょ!? 何か変な生き物がいて、しかも何か喋ってたわよぉ!?」
「ちょ……落ち着くんだ、谷河内君。今のは──」
そんな暁の言葉を最後まで聞こうともしない。葉月は自慢の快速で謎の生物が消えていったと思われる路地裏へと駆け出してしまう。
「追うわよ暁! きゃははははっ!」
「……最後まで聞くべきだよね、人の話は」
思わず嘆息した。本当に今日は厄日だと思う館林暁である。
また同時刻、遠く離れた静岡県静岡市。
「ちょ……二階堂君、どこへ行くんですか!?」
「トイレです。……僕にはお構いなく授業を続けてください」
駅前にある学習塾の教室の一角。理知的な風貌を持つ少年は講師が放つ制止の声も聞かずに教室を出て行く。それを見やり講師は大きくため息を吐き、同じ教室にいた子供達もひそひそと囁き合い始める。当然のことだろうが、その対象は今教室を後にした少年である。
つまるところ、彼はこの塾において腫れ物扱いであった。
無論、そんなことは少年自身もわかっている。友達も相談相手もいない自分ではあるが、それに関して寂しいとか辛いとか思ったことは無い。低俗な連中との馴れ合いなどは彼が最も嫌いとするところであったし、そんな馴れ合いや傷の舐め合いに頼らなければいられないことこそが低俗な人間であることの証左であろうと彼は思っている。だから自分はこんな低レベルな連中などと関わること無く、一刻も早く良い大学、良い会社へと進み、そこで自身に見合った人間と付き合わなければならないと思う。少なくとも今ここにいる連中は、自分と対等に付き合える人間ではない。
それがおかしくもあり、また同時に虚しくもあった。
「……ふん」
鼻で笑うような音を漏らしつつもトイレで用を済ませ、教室に戻る。またあの低俗な学友達のところへ戻らなければならないというのは非常に億劫で気を滅入らせてくれると思う。それでも両親や近所の方々の間では良い子で通っている自分だからこそ、そうした優秀な生徒でいることは己が責務であろう。半ば厄介者扱いされている学習塾にわざわざ通ってやっている理由は、結局のところその程度のことでしかないのだ。
そもそも自分は塾など来なくても勉学の面で隙は無い。勉学だけでなく、スポーツにおいても学年で自分以上の逸材は存在しないだろうと確信している。だからこの少年、二階堂昴流(にかいどう すばる)は自画自賛することに何の気後れも覚えない。それに見合うだけの努力を自分はしてきたし、これからも一切怠るつもりは無いからだ。
けれど、だからこそ彼はこうまで冷めた人間として今ここに在る。
友達というのは決して馴れ合うためだけに存在するのではないということを、昴流はまだ知らない。自身がなまじ優秀すぎたが故に他者と関わることを嫌い、己を殻に閉じ込めてしまった。言うなれば、彼こそが真の意味での引きこもりなのかもしれない。友達と共に笑い合えることも、共に高め合っていけることも、彼は知らないのだから。
「ん?」
教室の扉に手を掛けた瞬間、妙な違和感を覚えた。扉を一枚隔てた向こう側が妙に静かなのである。適度にユーモアの利いた小話を織り交ぜて授業を行う――昴流が退室したのは、偏にこれを聞くのが嫌だったからだ――講師のソプラノ声も、そんな講師の話にドッと笑う低レベルな他の生徒達の声も全く聞こえてこない。常にこんなに静かだったなら自分も退室することは無かったのだろうと昴流が思ってしまうぐらい、教室は静寂に包まれている。
抜き打ちの小テストでもやっているのだろうか。そんなことを考えつつ扉を開く。
「これは……?」
そしてそのまま、扉を開いた態勢で硬直した。
「……どういうことだ?」
明晰な頭脳で一瞬にして十の可能性を提示してみせる昴流だったが、教室を見渡す度にその可能性が否定されていくのが自分でもわかった。それも当然だったのかもしれない。教室には荒らされた形跡も無ければ何か騒ぎがあった様子も全く無い。あの退屈な授業を行っていた先程と全く変わらない。ただ誰もいないことを除けば。
理解できないことが目の前で起きたことがわかる。だから彼が浮かべた表情は、言うまでも無い。
「面白いかもね……」
数秒前の違和感が確信に変わる。誰もいない教室の中で、昴流は思わず笑っていた。
「えっ……?」
皆本環菜にとって、それは僅かな違和感でしかなかった。胸の中心に何か小さな物体が触れているような、そんな些細な感触でしかないはずだった。けれど一度知覚してしまった途端、その違和感はまるで波紋のように留まるところを知らずに放射状に広がっていく。それを押さえ込むことなど人間にできるはずもない。
それは人の身である以上、決して抗えぬ絶対的な力。言うなれば世界それ自体が彼女を塗り替えようとしているのだから。
「痛っ……!?」
足元がふらつき、頭がシェイクされているように揺れ、更には心臓を鷲掴みにされているかのよう。その何者かが少しでも力を強めれば、皆本環菜の体は中心からスイカのように破裂して、アスファルトに真っ赤な花を咲かせることになるだろう。
それに本能的な恐怖を覚えた。そんなことは嫌だと、自然と思えた。そのことに最も驚かされたのは環菜自身である。アニメや漫画のヒロインが叫ぶ「助けて!」とか、その手の台詞は自分とは最も縁の無い事象だと信じて疑わなかった。けれど今、皆本環菜は明確に助けを求めていた。誰でもいい、この際誰でもいいから、今の状況から自分を救い出して欲しかった。
そんな思いが通じたのか、自分を苛んでいた痛みは唐突に消える。――いや、環菜の体そのものが消滅を始めていた。
「う、嘘……!?」
まるで焼け落ちるかのように虚空へ伸ばした両腕が消えて無くなる。続けてスカートから伸びる足、手入れが行き届いていると周囲から称賛される長髪。その感覚は残っているというのに、視界にはもう存在しないという矛盾。手足の感覚は確かに存在するのだが、もう何かを掴むことは無い。もう何かを踏み締めることは無い。
それは先程の激痛よりも、遥かに明確な恐怖だった。
視認できない蛆虫に全身を食い尽くされているかのようだ。足も腕も腹も胸も肩も首も、その浸食は留まるところを知らずに続けられ、数秒後には既に彼女は頭以外が消滅してしまっていた。
そして当然、その頭部すらも食い尽くされていく。全てが全て、消えてしまう。
「誰か──!」
誰を呼んだのだろう。誰に向けたのだろう。
頭に浮かんだのは家族でも友人でもなければ、当然元カレでもなかった。それが果たして誰だったのかを理解するより前に、皆本環菜の体はこの場所から完全に霧散する。今この場で起きた事実はそれだけだ。誰に聞いたところで、数秒前までこの場所に一人の少女が立っていたことを信じる者などいないだろう。尤も、それを聞ける者もまた存在しないのだ。
今この瞬間、人間界の全ての生物が消滅したのだから。
環菜の消滅と共にハラリとアスファルトに落ちたハンカチ。それだけが彼女がここにいたことを物語っていた。
その大異変の中心に位置する場所、埼玉県二宮市の上空にて。
眼下に広がるのは明々とした輝きを放つ町並み。あの魔王が引き金を引いた災厄によって一斉に世界から消滅していく人々の姿を遥か上空にて見下ろしながら、その全てを引き起こした元凶である少女は楽しそうな笑みを浮かべていた。
この世界から消えていく人々の中には先程自分を見上げていた黒髪の少女、皆本環菜の姿が見える。この【反転】の対象となり、悲鳴を上げることもできずに無様に消滅していく彼女の姿を見下ろしながら、少女の笑みは一層濃くなる。
「ふふっ……バイバイ♪」
そう告げてやった。もう会うことも無いだろうし、その姿を見ることすら嫌だったから。
その姿は明らかに人間でありながら、何の道具を使うことも無く空に浮かんでいるという矛盾を孕むこの少女こそが、数刻前に皆本環菜が気付いた流れ星の正体である。別段ハッキリ見えたわけではなかったが、環菜のイメージは正しかった。その少女は翼など持っていないというのに、音も無く地上数百メートルの場所に滞空している。
闇夜に煌めく妖しき銀髪。あまりにも長い頭髪が彼女の細い肢体に絡み付き、まるで髪自体が彼女の衣服を成しているような疑似感覚に囚われる。その瞳に宿す穏やかな輝きは頭髪と同じ白銀。一見して明らかに非人間的な様相を呈している彼女ではあったが、同時にその存在は決して人間以外の何者でも有り得なかった。
夜風に吹かれて少女の長髪が揺れる。その状況や場所とは不釣り合いな、純白の巫女服がそこからは覗いている。
「また……会えたね?」
その言葉は誰に対して紡がれたものなのかは、言うまでも無いことだった。彼女の姿をこの人間界で唯一視認した皆本環菜に対してではなく、今この場にはいない彼女にとっての大切な者達に対してでもなく、この世界に生きる全ての生物達に対してでもない。無論、彼女の隣に並んで滞空している黄金色の狗神に対してでもない。
そう、彼女の言葉は世界自体、この人間界と呼ばれる世界そのものに対して紡がれたものだった。
「何か言いたそうね、アヌビモン」
「では一つだけお尋ねしましょう。貴方の望みは彼らを苦しめる、貴方の行為は彼らを傷付ける。そのことに……後悔はありませんか?」
「……!」
その瞬間だけ少女は僅かに怯んだように見えた。
そう、彼女はこれから起きる出来事の大半を知り得ている。これから世界に何が起ころうとしているのかを知っている。また彼女にとって大切な存在がこの後、如何に苦しむのか、如何に痛め付けられるのかを知っている。そこに如何なる悲しみや憎しみが生まれるのかを、知っている。
それでも、そこで彼女が悲しげな様子を見せることこそが偽善だろう。彼女はこうなることを望んだ、そして傲慢の魔王が彼女の望み通りにこの事態を引き起こした。それだけが絶対の真実なのだから。
だから全てを振り払い、再び無表情に戻った少女は静かに告げる。
「ええ、無いわ。……さあ、楽しいゲームを始めよう?」
その言葉と共に少女の姿は、一瞬にして掻き消える。
西暦2008年10月24日午後8時24分。
そうして世界は塗り替えられた。
今この瞬間より、歪みに満ちた世界を巡る最後の物語が幕を開ける。
◇
第8話:邂逅
気付いた時、そこはどこかの山奥だった。
「えっ……?」
よろよろと体を起こす。砂利道に倒れていたらしく、お気に入りのブラウスとスカートが泥だらけになっていることに顔を顰めつつも、周囲の状況を確認する。鬱蒼と茂った森の中に自分はいる。こんな場所に見覚えは無いし、そもそも自分は商店街の真っ只中にいたのではなかったか。それがどうして、こんな場所にいるというのか。
それで思い出す。先程感じた全身を引き裂かれるような激痛と、自身の存在が希薄になったような恐怖を。
「あっ、目が覚めたぁ?」
「!?」
唐突に背後から響いた能天気な声。咄嗟に振り返ると、そこには見たことの無い生物が立っていた。
「死んじゃったんじゃないかって焦ったよ……」
「あなた……何?」
思わず『誰』ではなく『何』と尋ねていた。街灯も無い森の奥は殆ど光が当たらず、更にその生物自身が漆黒の体を持っているためか、自分の目の前にいるはずの彼の全貌が未だに把握できない。ただ、自分より遥かに大柄で二足歩行、そして何よりも大きな耳を持っているのだろうということだけは理解できる。人語を自在に使いこなしているが、その生物は決して人間ではないし、またオカルトの類でもあるまい。
人間ではない何か。環菜にとってその存在は、それ以上でも以下でもない。
「何って……どうでもいいよ、そんなことは。そもそも僕が何かなんて関係あるの?」
「それって、どういう……?」
「こういうこと♪」
楽しげに笑ったそいつは、唐突に背後の木陰へと右腕を向ける。
それを何の行為か疑問に思うよりも早かった。上がる撃鉄、響き渡る乾いた銃声、そして木陰から聞こえてくるのは同じく人間ではない何かの悲鳴。一拍置いた後、コテンと妙に可愛らしい音を立てて倒れ伏したのは派手な色の毛皮を被ったトカゲのようでそうでない生物。正確に言えばその死体。
殺した。この何かが、あの何かを撃ち殺した。
「サイケモンか。……でもまあ、こういうことだよ? 殺さなきゃ殺される、今君がいるのはそういう世界なんだ。僕が何者かなんて気にしてる場合じゃ、ないんじゃない?」
「………………」
別段嫌悪感など覚えない。ただ、乾いた心で『ここはこういう場所なのか』と思うだけだ。
両腕を投げ出す形で倒れ伏し、既に息絶えたらしいサイケモンと呼ばれた生物の口内には、青白い炎の奔流が渦巻いている。どうやら木陰に隠れつつこちらに狙いを定めていたらしい。
程無くしてサイケモンの体が粒子となって消えていく。それはまるで、世界に食われていくかのようだった。
「コイツ、こっそり闇討ちしようとしてたんだよ……ったく、のんびり話もできないよねぇ」
「そう……そうなの」
何も殺すことは無かった。そんな綺麗事を言うつもりは無い。
ここは弱肉強食という言葉がピッタリ当てはまる世界だということらしい。油断すれば殺されて当然なのだという、この黒い獣の言葉は真実なのだろう。実際、こうしている間にも耳には不気味な竜のような獣のような生物の唸り声が届いているし、何気なく空を見上げてみれば巨大な鳥やら竜やらが飛び交っている。
「本当に……」
二の句が告げない。確かにこの場所は異様だったが、むしろ今この状況下においては脆弱な人間としてここにある皆本環菜こそが最も異様な存在であるとも言えた。
「何が起きてるっていうの……?」
だから感じたのは恐怖だ。自分だけがこの世界に取り残されてしまったような、自分だけが戦う手段も持たずにいつ殺されるか戦々恐々としているような恐怖。それは何かに心臓を鷲掴みにされて今にも握り潰されるのではないかと情けなく怯えていた先程の状況に似ていた。
だから今この場で彼女が救いを求めるのは当然だったろう。
もう一度周囲を見回してみた。自分が倒れているのは森の中だったが、良く見れば生い茂る木々の向こう側に車道が確認できる。それはどう見ても人工物であるので、どうやらアニメや漫画のように異次元やら別世界やらに飛ばされたというわけではないらしい。いつまでも森の中にいるのは御免なので、とりあえずそちらへ向かうことにする。
「ちょ、ちょっと待ってよぉ!」
後ろから黒い獣が駆けてくるのにも構わず車道へ出た。あのトカゲを瞬殺したこの獣に掛かれば自分など無力すぎると思ったことが、却って気を楽にしてくれた。怖いことは隠し様の無い事実だったが、ここで下手に抵抗したところで黒い獣が自分を殺す気であれば、それから逃げることはできないだろうという開き直りにも似た思いが、不思議と心を軽くしてくれているらしい。
車道へ出て頭上を振り仰ぐと、標識には『前橋まで5キロ』という表記が見つかった。
「飛ばされた……嘘、群馬まで……!?」
「どうしたのさ?」
追い着いてきた黒い獣の声。雑木林を出るに伴って月の光が一層強くなり、彼の全貌が明らかとなる。闇夜に溶け込む黒い体色と両腕に備えられた冷たい銃口こそ冷徹な狩猟者の雰囲気を漂わせているが、下半身を覆うジーパンと飄々とした面構えがどこか冷たいイメージを緩和させているように思えた。自分にはあまりその手の感性は無いのだが、普通の女の子なら思わず可愛いと思ってしまいそうな外見をしている。
群馬にこんな生き物がいるなんてことは聞いたことが無い。もちろん先程のサイケモンとやらも同様なのだが。
「あ、自己紹介が遅れたね。……僕はブラックガルゴモン、君は?」
声は明朗で敵意はない。こちらから友好的になることはできないが、敢えて険悪に接する必要も無いと思えた。
「……環菜、皆本環菜よ」
悪い奴には思えなかったからこそ、あっさり名乗り返すことができた。真実、彼が悪い奴だったのなら環菜は道路に出ることも無く、背後から射殺されていただろうから。
「環菜かぁ、いい名前じゃん!」
「そう? ……ええ、一応ありがとうと言っておくわ」
彼の言葉を聞いていると、次第に恐怖に怯えていた気分が和らいでくるような気がした。
このブラックガルゴモンとやらは、どうやら随分と純粋な性格をしているらしい。まるで弟を見ているようで微笑ましかった。三上亮と付き合っていた頃から漠然と感じていたが、もしかしたら皆本環菜という女は自分より精神年齢の低い、自分が世話を焼いてあげなければ駄目なタイプの奴に心惹かれるのかもしれないと思った。
そんな時、猛烈な突風が襲い、思わずスカートを押さえた。
「きゃっ……!?」
「黒か、ニヤリ」
「黙って。……でも、あれ……!」
顔を顰めながらも環菜は闇夜を引き裂いて飛び去る、その突風の原因を見据えていた。
それは巨大な鳥だった。翼長30メートルは下らないだろう、環菜の知る限り世界のどこを探しても見つからないと確信を持てる鳥。まるで地獄の底から這い出してきたような不気味な体色を持つ、禍々しき闇の鳥。奴が飛び去っていったのは南方のようだから、方角的にはちょうど自分の住んでいる埼玉の方へ向かっているということになる。
ズキン。何故かそんなことを考えた途端、心臓に軽い痛みが走った。
「……な、何……?」
「あれってベルグモンかぁ……初めて見たよ」
「ベルグ……モン」
理由など知らない。けれど、和らぎ始めていたはずの恐怖が再び強固となるのを感じた。知らない内に体が震え、それを自分ではどうすることもできない。
奴には勝てない。皆本環菜という個体が人間である以上、あのベルグモンは自分にとって恐怖の対象としかならない。何の根拠も理由も無く、それはただ絶対的な真実としてそこに在った。言うなれば、それは摂理。
お前など俺にとっては餌でしかない。飛び去るベルグモンの後ろ姿が、まるでそう語り掛けてきているように思える。
「くっ……!」
今にも飛び出てきそうな心臓を気力だけで押さえ込み、自らをロボットだと思い込ませる。ロボットなら何も怖くない、ロボットなら躊躇わない、ロボットなら殺されない。この異様な世界では、そうでもしなければ生きていけない。ブラックガルゴモンのように戦闘力があるなら違うだろうが、人間である以上の力を持たない自分は、そうでもなければ一日とて生きていられまい。
だから。
恐怖など感じるな、恐怖など覚えるな。それだけを必死に環菜は自らに言い聞かせていた。
同時刻、埼玉県二宮市にて。
「……どうなってんだ、これは……?」
純粋な疑問の声から、八雲はそんな言葉を発していた。
すぐ隣にいたはずの朱実も、空き地の隅で情けなく震えていた靖史も、既にこの場所には存在していない。まるで霧のように掻き消えてしまった。それなのに、何故か自分だけが残されている。何が起きたかわからないし、何故自分だけが残され得る状況になったのか、その理由もわからない。
周囲を覆っていた光も、既に収束している。町は普段通りの静寂さを以って八雲の視界の中に佇んでいた。
「朱実も靖史も……消えた」
だがその場に残されているのは自分一人だけだ。先程までは多少なりとも街中の喧騒が聞こえてきていたのだが、それすら途絶えている。
嫌な予感がした。理由はそれだけだったが、八雲は本能的に市街地の方へ走り出していた。程無くして到着した場所には、やはりと言うべきか人っ子一人いなかった。駅前に立ち並ぶビルのネオンは明々と点灯しているというのに、その下には会社帰りのサラリーマンも、クラブの広告を配っている兄貴も、分不相応にアルコールで顔を真っ赤にしながら歩く学生の姿も何も無い。
八雲だけを残し、この町の全ての生物が霧のように消滅していた。
「くっ……本当に誰もいないのか……!?」
稲葉瑞希から「来れたら来てね」と言われていた飲み屋の前も通ったが、やはり誰の姿も無い。試しに店内に足を踏み入れてみたが、そこには賑やかな飲み会が行われていたのだろう空間があるだけだ。お節介な学級委員も我が校期待の快速ランナーもツンデレ系デカ女も昔自分が助けたイジメられっ子も、誰の姿も無い。
店を出て夜空を振り仰ぐ。偶然にもそれは数刻前に皆本環菜がしていた行為だったのだが、彼女とは異なり八雲が空に浮かぶ少女の姿を見ることは無かった。
「……ん?」
不意に足元を見てみれば、そこにはハラリと落ちた一枚のハンカチ。随分と大きめの物だが柄から判断して恐らく女物だろう。何故こんなところに落ちているのかと疑問にも思ったが、当然のことながら付近を見回したところで持ち主の姿は無い。恐らく誰かの落とし物だろうと勝手に判断することにした。
ズキン。拾い上げたハンカチを何気なく眺めた途端、不意に先程ギガスモンとの戦いで横っ飛びした時に擦り剥いた腕に軽い痛みが走った。アルボルモンの蹴りを受けた上、砂利だらけの大地に飛び込んだのだから無理も無いかもしれない。着古した所為もあってか元よりボロボロだった上着も裂けており、そこから軽く出血しているのが見て取れた。
「……悪い。誰のだか知らないけど、少し借りるな」
相手が誰なのかもわからないが、無断で使うのも気が引けるので、とりあえず断りを入れておくことにした。ハンカチを軽く捩じると上着の裂けた部分に巻き付けておく。これで少しは楽になるだろうと勝手に思いつつ。
そうして再び歩き出す。ひとまず我が家へ向かうことにした。
「あれ……?」
だがその時、視界の中に嘘のような生物が次々と飛び込んできた。
星一つ見えぬ夜空の中を、巨大な竜が飛んでいく様が見える。目を擦ってもう一度だけ見やる。すると、今度は虫のような鳥のような奇妙な生き物が同じように飛んでいく。頬を抓ると確かに痛い。つまり、目の前で起きているのは夢ではなく現実だということ。限り無く夢に近い現実ということだ。
まるで、どこかのテーマパークにあるCGアトラクションにでも迷い込んでしまったかのようだった。そう考えると気が楽になってくる。そもそも、ビル街を巨大な竜や鳥が飛んでいく光景など、そんな場所でなければ目撃することはあるまい。雄々しい体躯を翻しながら高層ビルの合間を行く彼らの姿は、それだけで非現実的すぎた。
「……俺、夢でも見てるのか?」
わけがわからない。答えを求めて街中を再び走り出す。
すると、子供の頃に朱実と散々遊び倒した公園にも異形の怪物が存在していた。
それも二体。互いの巨体がぶつかり合い、大地を激しく揺らす。激突しているのは決して人間界には存在し得ない二体の異形。そんな馬鹿なことがあってたまるかと思いつつも、八雲は目の前で行われる一大スペクタクルから目を離すことができない。
外見は恐竜に近いものだ。腕に鋭利なブレードを装備した赤い竜が、頭部に一本角を持つ四足歩行の黒い恐竜を攻め立てている。パッと見ただけで、黒い恐竜の方には戦う意志すらも無いように感じ取れた。叩き付けられるブレードを避けることも無く受け、凶悪なまでの拳の乱打を喰らって後退する。鎧のようだったのだろう全身は、既にズタズタに引き裂かれていた。
これは戦闘ではない。八雲の目には一方的な殺戮にしか見えなかった。捕食のための狩りですらない。事実、真紅の魔竜は鎧竜を殺すことしか考えていない。全てが全て、命を奪う為の攻撃にしか思えなかった。
だから当然、自分が為すべきことは決まっている。
「や……!」
口から出かけた言葉。やめろと言いたいのか。一瞬だけ八雲は自分の思考を疑った。
八雲の視界の中で繰り広げられているのは、この世にはあってはならぬもの。そう本能では理解している。それ故にどちらかとはいえ消えてもらった方が、こちらの方としても都合がいいのではないかと思う。けれど、それでは気分が悪いのだ。誰がなどという質問は言うまでも無い、それは渡会八雲自身しかいないのだから。
そう、八雲は昔から誰かが傷付くことが嫌いだ。誰だろうと傷付く姿なんて見たくない。
「やめ……!」
一瞬の躊躇い。その合間にも幾度と無く強力な拳の連打を受けて既に体力の限界を迎えた鎧の恐竜は、真紅の魔竜に向けて苦し紛れに炎を吹き掛ける。だが魔竜は真っ向からその火炎の中に身を投じ、怯むこと無く突進してブレードを叩き付けるように右腕を一閃。それだけで恐竜の頭部の角が吹き飛んだ。血とも汗とも付かぬ、奇妙な色を持つ液体が飛び散る。醜さは覚えない。ただ、止めなくてはならない。本能的に思った。
故に無意識の内に腹の底から叫んでいた。
「やめろーーーーっ!」
「エキゾーストフレイム!」
だが先程の躊躇いが仇となる。静止は間に合わず、角を失った恐竜に向け、無情にも熱線が放たれた。
放たれたのは人間など容易く消し飛ぶだろう爆熱の火炎。それが容赦無く鎧の恐竜に横腹に直撃する。耳を貫くかのような猛々しい悲鳴が響き渡ったかと思えば一瞬遅れて大爆発が起こり、刹那の間に鎧の恐竜は己の存在を霧散させていた。慈悲など一切与えぬ炎は、その温度に比して極めて冷酷なものに感じられた。
思わず視線を逸らすようにして片目を閉じる。無意識に舌打ちしていた。
それは明らかに非現実的な光景だった。火炎を吐く竜などはSFかファンタジーの世界での話。確かに男子たる者、一度はその手の幻想の生物に憧れなかったのかと聞かれれば、当然首を横に振らざるを得まい。そんな生物がこの世にいて欲しい、この地球のどこかに自分達の知らない未知の存在が確かにいる。そう思うことこそが浪漫なのだから。
そんなことを考えていた所為だろうか。いつの間にか魔竜が自分を見下ろしていることに、八雲は気付く。
「………………」
何も喋らないし、相手に喋らせることも無い。
エキゾーストフレイムという技名──何故だかそう思えた──を叫んでいたことから判断して、魔竜も人語を解するほどの知性はあるらしいので、恐らく喋れないということは無いだろう。ということは、奴がいきなり攻撃してこないことにも何か思惑があるということ。魔竜に対して恐怖を覚えないのは八雲にとって当然のことなので、別段目の前の生物は存在自体が異質だとか、誰もが気になるようなことを問い質すつもりは微塵も無い。そもそも、そんな真っ当な考えが今の自分にあるはずもない。
ただ、最後の一撃以外には殆ど抵抗らしい抵抗を見せなかった相手を容赦無く殺した、その在り方が許せなかった。
「……おい」
「何か俺に用か、人間?」
思い切って声を上げると、あっさり返事が戻ってきた。巨大な竜だというのに、その声は明るい青年のようだった。
魔竜は笑みを浮かべているように見える。先程は気付かなかったが、胸部には原子力発電所や核爆弾に刻まれている放射能マークに酷似した刻印が見えた。鎧の竜を容易く切り裂いたブレードは収納式なのか、今の魔竜の両腕は図鑑や百科事典などで見る恐竜と何ら変わるところは無い。強いて言うなら、ティラノサウルスを少し小さくしたような感じだろう。
だが目には明確な意志が見える。コイツは敵だと、八雲の勘が告げていた。
「……人間が何でこの世界にいるのか、理解に苦しむけど。もしかして……」
「それはこっちの台詞だ」
それでも、できるだけ嫌悪感は出さないように努めた。少なくとも今この場でコイツと戦うことは得策ではないと思えるから。
「……お前らこそ何者だ? 何でここにいるんだ」
「あらら、そんなことにも気付かない野蛮人が残っちまったわけか」
「むっ……」
無性に気に食わない口振りだと思った。確かに野蛮人との表現は言い得て妙にも思えたが、朱実と比べれば自分は幾分か文明的であるはずだ。
「……俺のことはグラウモンとでも呼んでくれ。まあ簡単に言うとだな、俺達はお前ら人間が知る世界とは違う時空に住んでいる生き物だ」
露骨に見下した声音。恐らく自分達は徹底的に噛み合わない。
「これ以上無いぐらいの簡潔なご説明をありがとな、グラウモンとやら。……それで、異次元の化け物が俺らの世界に何の用だ? 観光目的とかだったら笑うぞ?」
笑うぞと言いつつも、八雲は自分の顔が引き攣っていることを感じていた。
違う時空とか異次元とか、そんなSFめいた単語を真面目に語る奴がいて、それも自分がそんな存在と直に関わっていることに対する違和感と怖気。背筋に冷水を浴びせられたようだった。
それを見て取ったのか、グラウモンは心底楽しそうな表情を浮かべる。
「笑わせられないで残念だが、全然違う。世界征服なんて曖昧なものでもない。お前ら風に言えば引っ越しって言うのかな?」
「引っ越し……だって?」
状況に合致しない言葉に目を丸くする。それにグラウモンは肩を落として首を振った。ため息を吐くポーズらしい。
「……物分かりが悪いんだな、お前。やっぱり野蛮人か、いよいよ以って不安になってきたぜ?」
「悪かったな、頭の回りが悪くて」
「ああ、十分悪いから直すように努力しろよな。……っとまあ、それはともかく今度も簡単に言うから頭に叩き込めよ。……要は、俺達の世界に生きる全ての生物をこの世界に移したってことだ。当然、俺もその中の一体」
「なっ……!?」
思わず目が点になったと思う。足元がふらつくのが自分でもわかった。
グラウモンは言うに及ばず、先程の鎧の竜も外見こそ温和そうだったとはいえ、人間から見れば恐怖や脅威の対象でしかない。異世界から全ての生物を八雲達の世界に移したということは、奴らのような怪物が大挙して世界に参上したということだろう。冷静に考えれば、これは世界恐慌に並ぶくらいの衝撃ではなかろうか。
いや、単なる経済問題のそれよりも遥かに直接的な恐怖かもしれない。
「それってまずいだろ……! あんな化け物が徘徊したら、街の人達は大変なことに──」
「待てって。だから物分かりが悪いって言ってんのさ」
思わず走り出そうとした八雲を、グラウモンがやんわりと押し留める。
「むっ……」
「……これは例えばの話だけど、もし引っ越した先の新居に先約がいた場合はどうする?」
表現こそ曖昧にしていたが、グラウモンは明らかに八雲の反応を楽しむかのように皮肉そうな笑みを浮かべて呟く。やはりと言うべきか、この魔竜は性格が最悪に悪い。朱実も十分最悪と呼べるほどの破綻さを持っているが、この魔竜とは明らかに違う。この魔竜と相対していると、何故か自分が負けたような気分に苛まれて、最悪な気分になってくる。理由はよくわからないが、その悔しさは口喧嘩で負けた時のそれに似ていた。
けれども、八雲は驚きを隠すことができなかった。
「出ていって貰うだろ? ……力ずくでもさ」
「まさか──」
「ご名答。これが【反転】って呼ばれるのは、そういうことだ。お前みたいな一部の人間を除いて、地球上の九割九分九厘の生物は全て俺達の世界の最下層、ダークエリアって呼ばれている場所に転送される。……ああ、安心していいと思うぞ? あの場所は居心地こそ最悪だが、冷凍保存には最適な場所だからな」
「冷凍保存……!?」
八雲の脳裏を義父母に学校の皆、そして朱実や靖史の顔が掠めていく。
思わず怒りで頭が沸騰しそうになるのを必死で堪えた。もう少しでグラウモンに殴り掛かっていたところだ。無論、そんなことをすれば魔竜は容赦無く炎で反撃してくるだろうし、その時点で自分が死なずとも大火事だ。そんな無益な破壊を八雲は望んでいない。
負けるつもりはない。だがただで済むとも思えないのが実情だった。
「落ち着け、落ち着け。別に命を取ろうってわけじゃないんだからさ」
「……じゃあ何で俺は今、ここにいるんだ。お前の言う通りだったら、俺だって消えてなきゃおかしいだろ」
怒りを押し留めて呟いたその疑問は、尤もなものだった。
グラウモンの言う【反転】は、人間どころか地球上の全ての生物を向こうの世界に転送する術だと予想できる。朱実や靖史が目の前で消えたのが良い例だ。だが、そうだとしたら八雲だけが消滅しなかった理由がわからない。喧嘩なら朱実以外の誰にも負けない自信があるが、それを除いた自分は純粋なる人間だ。何の特異体質も持っていない、平凡な高校二年生に過ぎない。
それにグラウモンは呆れたように答える。
「時折いるらしいんだよ。数億人に一人の確率で、俺らの世界に転送されない異物が」
「……異物かよ、俺は」
「そう。……この際だからいいことを教えてやろうか?」
いいこと。奴の言うそれが自分にとってプラスになるかは知らない。けれど、今は少しでも情報が欲しいこともまた事実であるからこそ、八雲は目線だけでその言葉の先を促した。
「はっは、いい心掛けだ。……この【反転】の後も元のまま人間界に残される奴は異物だって言ったよな? だけど異物として残される奴も、大抵は一度俺らの世界に飛ばされて、その上で世界に拒絶されたからこそ、こっちに放り出されるんだ。だからお前みたいに、本当の意味で【反転】の影響を受けない奴は珍しい。だから野蛮人、お前は俺らの世界に相当嫌われてるらしいな?」
「……そうかよ」
どうでも良かった。そのグラウモンの住む世界がどんな世界だろうが、そんなことは渡会八雲には何の関係も無いことだから。
「とはいえ、残った人間が俺達に善行を尽くしてくれたって例も……まあ無いことも無いんだけどな」
そこで言葉を切るとグラウモンは横目で八雲を眺め、大きくため息を吐く。
「だけど、その意味では今回はハズレだな。俗人じゃなくても野蛮人だし」
「……お前な、さっきから喧嘩売ってんのか?」
「あはは、わかりやすくて面白いね、お前。……だったらどうする?」
刹那、グラウモンの双眸に明確な敵意が宿る。
それは「お前が仕掛けてくるならわかりやすくていい」とでも言いたげな、そんな表情だった。実に安い挑発だ。実際、八雲が僅かでも敵意を見せれば、グラウモンは問答無用で戦闘を開始するだろう。相手が如何に巨大な魔竜だろうと負ける気など更々無いが、だからといって素手で簡単に勝てる相手でもあるまい。何より下手に炎を吐かせて公園を火の海に変えてしまったら大事だ。
それでいて、奴の目には同時に絶対の自信がある。下手に刃向えば殺すと、そして何よりも人間如きが自分に勝てるわけがないと、その野獣のような瞳が告げている。
明らかに自分を格下だと思っているその態度に憤慨するが、この場で奴と相対するのは得策ではない。奴は今の自分にとって貴重な情報源だし、実際に話を聞かせてもらった以上、その恩を仇で返すこともまた八雲が望むことではなかった。見知らぬ者に恵んでもらったら感謝するだけでなく、その恩義に答えろというのは、確か義父の言葉だったか。
「……どうもしない。それで、世界はどれくらいで元に戻るんだ?」
「そうだな。今までの【反転】は大抵数ヶ月ぐらいで……あれ?」
不意に天を仰ぐグラウモン。何かに気付いたような感じだった。
「おっと悪いな。クラウドの奴が来るっぽい。アイツに怒られると腹立つからな、俺はそろそろ消えるぜ。バイバイ♪」
「お前、質問の答えは!」
「……じゃあ一つだけ教えといてやるよ。この【反転】が行われている間の記憶は、ダークエリアに封じられている俗人どもには一切残らない。だから俺達が人間界でどんな破壊行為を行おうが、いずれ世界が正された際に〝あるべきこと〟として処理される。つまり最も自然な形で記憶修正をされるわけだから何も弊害は無いのさ。だから【反転】を止めようなんてことだけは思わないことだな。……全ての世界は、必ず正されるんだから」
バイバイと言ってからが長い。そう文句を言ってやりたかったが、それを待たずしてグラウモンの体は幽霊のように霧散していた。
その場に残されたのは渡会八雲だけだった。