◇
第3話:懐かしい顔
自分は彼女と出会えて嬉しかったのだろうか。
自分は彼女との再会を望んでいたのだろうか。
言うまでも無い、答えは是だ。
思わず綻んでしまう自分の表情が、それを何よりもハッキリと伝えてくれる。
「ふっ……」
思わず漏れた笑みと共に、手袋を身に付けた。久し振りである。酷く懐かしかった。
当時、まだ赤ん坊だった八雲には思い出すことすらできない自動車事故で残されたらしい、父親の唯一の遺品。所々に黒い染みが残されたそれは、不思議と如何なる時でも手放すことはしなかった。彼女と別れて以来、一度として填めたことは無かったのに。
自然と心が猛っている。自分らしくないのか、それともこれが本来の自分なのか。こんな状況だというのに、それすら理解できないでいる自分がおかしかった。
「……なあ朱実、アイツは何なんだ?」
「アタシは知らないよ? 別に興味も無かったしね」
「何か知らずに戦ってたのかよ、お前は……」
相変わらずの破天荒ぶりに、八雲は大きくため息を吐く。
「倒す相手のこと知ったところで何になるよ? やり辛いだけじゃん」
「それは……そうだけどな」
そう答えられると、ぐうの音も出ない。倒せるつもりでいることに安心もするわけだが。
別に口下手ではないつもりだが、彼女を相手にすると昔から弱い。これは要するに、自分と彼女は同じタイプの人間で、それでいて彼女の方が僅かに格上だということなのだろうか。そう考えると、少し悔しいものがある。自分は彼女に負けるつもりは無い。そもそも、負けないために今まで修練してきたのだから。
断じて惚れた弱みとかそういうことではない。うん、そういうことにしておく。
「何か得物は?」
「ナッシング」
朱実が両の人差し指で×を作る。文字通りの徒手空拳。怪物に相対するにはあまりに無力。
けれど怯まない、躊躇わない。彼女が隣にいれば自分達がやられることなど有り得ない、そういう確信がある。自分達はいつだってそうしてきた、正しいと思ったことを成してきた。
それはきっと朱実も同じだ。こちらを見てニッと笑う彼女の八重歯が眩しかった。
「それじゃ八雲……アンタの力、久々に見せてもらうとしよっかな?」
「……言ってろ!」
小さく吐き捨てながらも、二人が飛び出したタイミングは殆ど同時。
閃光の如きスピードで疾走する二人は、一切の言葉を交わさずしてコンビネーションを取っていた。八雲は怪物の右方から、朱実は左方から回り込む形だ。二人の攻撃の照準は奴の翼に完全に絞られており、そのこと以外の思考は既に掻き消えている。
如何なる手段を以ってしても、人間は空を飛べない。故に今相対しているような巨大な鳥との戦闘を行う際は、まず飛行能力を奪うために至近距離から頭部か翼を攻撃するのが定石だ。
無論、そんな定石は朱実と八雲にだけ通じるものであり、普通なら一般人が巨鳥と戦うことなど、まず有り得ない。だが当時小学生だった長内朱実は、それすら想定した訓練を自らに課し、何故か巻き込まれる形で八雲も同様の修練を行う羽目になった。朱実曰く「この戦闘方法を極めればプテラノドンも倒せるだろう」ということだったが、八雲には当然のように得るものは無かった。
しかし、不思議と体は覚えているもので、殆ど無意識の内に八雲の体は『対プテラノドン用フォーメーションB』を取っているのだ。
「一気に行くよ、八雲!」
「了解だ、朱実!」
これは良くないと思う。ノリが小学生の頃に逆戻りしてしまっている。
そんな思いを抱きながらも、八雲は沸き立つ心を押さえ付けることができずにいた。そう、自分は今の置かれた状況を心底楽しんでいたのだ。本来ならば如何なる人間に対しても恐怖の対象となり得る怪物の存在も、今の八雲にとっては己が血を滾らせる要因の一つに過ぎない。そして何よりも今、自分の隣には長内朱実の姿があるのだ。自分が唯一背中を任せられると認めた最高の相棒。そんな少女と共に戦えるのであれば、熱くならないはずが無い──!
鏡写しのように巨鳥に接近した二人は、両の脇腹に向けて鋭い廻し蹴りを一発。
だが手応えはまるで無い。むしろ、強固な鉱石を蹴り飛ばしたような違和感だけが足には走る。
「チッ! 朱実、お前よくこんな固い奴のこと平然と蹴ってたな!」
「心頭滅却すれば火もまた涼しよ、八雲!」
「人間如キガァ……ッ!」
「喋った!?」
「むっ! まずい八雲、一旦離れな!」
「何ぃ!?」
咄嗟に怪物の傍から飛び退き、大きく転がって距離を取る。
その次の瞬間、一瞬前まで八雲がいた場所を怪物が翼を一振りすることで巻き起こした突風が襲った。石版を容易く傷付けるその突風の威力は、最早カマイタチと呼んでも過言ではないほどに強烈なものだ。もしも朱実の声に反応していなければ、今頃はズタズタに引き裂かれていたかもしれない。
「……文字通りの怪物だな、おい」
「あははっ! 軽口叩いている暇があんの?」
間髪入れず、巨鳥の口が僅かに動いたように見えた。
「……ゾーンデリーター」
「今度は何だ!?」
静かに浮遊した巨鳥は、大きく円を描くように二人の周囲を飛び回る。
奴が通過した軌跡に漆黒の線が描かれ、それが次第に円の形を成していく。そして、その円が完成した瞬間、八雲と朱実は円の中に閉じ込められる格好になった。それがどういうことなのか、巨鳥の放った〝技〟の概要を知らぬ二人には理解し得ぬものだったが、とにかくまずい状況にいることだけは理解できた。
「まずいな……朱実、出るぞ!」
「皆まで言うな!」
地上に描かれた円が突如として盛り上がり、一条のブラックホールを形成して襲い掛かってくる。その漆黒の半球体に触れたものは、小石や木の枝なども含めて全てが一瞬にして消滅する。そう、これこそが彼の黒い巨鳥の、闇の闘士たるベルグモンの必殺技、全ての有を消し去り無と帰すゾーンデリーターなのである。
「あ、アンビリバボー」
「能天気な台詞はやめろ……」
首筋を嫌な汗が滴る。軽口を叩くだけの余裕こそあれ、判断が遅れていたら自分達も消し飛んでいたかと思えばゾッとする。
咄嗟に半球体から脱出しなければ、八雲と朱実も同じ運命を辿っていたはずだ。
「化け物……だね、うん」
朱実の正直な感想は驚くほど八雲の心を端的に代弁してくれる。珍しくシリアスな彼女の横顔に見惚れる余裕を、この状況は与えてくれないらしい。
甘く見ていたかもしれない。普通の鳥ではないことぐらい、最初からわかっていた。それでも、ここまでの化け物だとは考えてもいなかった。奴の闇が覆い尽くした部分には何も残っておらず、文字通り完全なる消滅。その空間だけを丸ごと切り取られたかのようだった。こんなことができる生物など知らない、存在するはずが無い。
そう。完全なまでに、奴は化け物だった。
渡会八雲と別れた後、三上亮と佐々木綺音は遅れてやってきた稲葉瑞希と合流することにした。容姿だけで無く人徳もある瑞希は友人も多く、驚くべきことに十人弱の男女混合のグループを伴って姿を見せた。
そんな彼女を前にして綺音が「敵わないなぁ」と呟いているのが妙に亮には印象的である。
「これはこれは……三上の親分、お勤めご苦労さんでごんす」
瑞希がふざけて手を差し出してきたので、亮もニヤリと微笑んで。
「いえいえ、どう致しまして。……こちらが稲葉一家のご一同さんでござるか?」
「如何にもでごんす。どいつもこいつも三度の飯より喧嘩が好きな連中ばかり……明日の出入りに備えて血気に逸っているでごんす」
「それは頼もしい……くっくっく、それで例の物は……?」
「……無論、ここに」
「稲葉さん、あんたも悪でござるなぁ……くっくっく」
そんな悪趣味な会話に、隣に立つ綺音は少しだけ顔を顰めて。
「アンタ達、何がしたいの?」
「ふふん、積極的にコミュニケーションを取ることは重要なのよ、綺音ちゃん」
「取り方がおかしいでしょうが……」
思わずツッコミを入れてしまう綺音であるが、瑞希にはそんな言葉など全く届いていない様子である。
「それで? その様子だと大体誘えたみたいだけど?」
「任せときなさいって!」
偉そうに胸を張る瑞希ではあるが、実際にその通りだったので綺音としても何も言い返すことはできない。
文武両道とはいえ共に中の上の域を出ていないし、学年中から美少女として名高い癖に実際の性格はガサツで粗暴な面が強い。稲葉瑞希とはそんな少女であるのだが、それでも彼女の周りに多くの人が集まってくるのは、偏に彼女の人柄が為せる技なのだろうと綺音は勝手に思っている。彼女には人を引き付ける不思議な魅力、要するにオーラがあるのだ。
「でもね……えっと、野尻君に荒木君、それと園田君と渡会君は誘えなかったのよね」
「園田に渡会……」
何故だろうと自分でも思う。綺音はその二人の名前が妙に気になってしまうのだ。
園田靖史。一年半前の入学式の日、いきなり告白してきた男子生徒。初めての経験だったからか、それとも不意打ちだったからか、恐らくはそのどちらでもあるのだが、それに思わず顔を赤くしてしまったことは佐々木綺音、一生の不覚であろう。その所為で園田靖史の姿を見る度にあの時のことが思い出されて心苦しくなる。奴の顔面を蹴り飛ばさなければ収まらないほどに。
渡会八雲。そんな園田靖史の友人として常に隣にいる男子生徒。彼のどこか世の中を冷めた目で見ているような態度が、綺音には無性に癪に障る。本人にそんなつもりは毛頭無いのかもしれないが、何故かそんな感じがする。そんな奴に何故クラスメイトの瀬戸口楓が好意を抱いているのか、綺音には全くわからない。中学生の頃に助けられたということだったが、自分だったら奴に助けられたところで惚れることなど断じて無いと言える。
そんな風に二人の同級生の顔を思い浮かべ、自身の中に思考を埋没させていた綺音は、瑞希が自分の顔を楽しげに覗き込んでいることに気付かなかった。
「綺音ちゃん、何考えてるのかな~?」
「ひあっ!? な、何も考えてないわよっ!」
「やっぱり綺音ちゃん、園田君と渡会君がいなくて寂しいんだ……?」
「ち、違うってばっ!」
顔が真っ赤になるのが自分でもわかる。否定すれば否定するほど墓穴を掘っていく感じ。
瑞希が連れてきた連中もそんな自分を眺めて凄まじく嫌な笑顔を向けてくる。そう、何か物凄く勘違いされていそうな生温かい笑顔。しかもその中には他の連中と打って変わって寂しげな表情をこちらに向けた瀬戸口楓の姿まである。
「か、楓ぇ……?」
「やっぱり佐々木さん、渡会さんのこと……」
「ちょーっ!?」
そもそも自分達は何故この場所に集まったのか。今日中の飲み会は無理なので明日に延期するということから、その店を決めるために集まったのではなかったのか。それなのに自分が何故からかわなければならない?
そんなことを考えていると肩に手が置かれた。思わず振り返ると、同じような笑顔を見せる三上亮の姿が。不覚にもカッコいいと思ってしまった。
そういえばこの男、バレンタインで貰ったチョコの数が学年一だとか。
「頑張れよ、佐々木。俺は応援するぜ」
「アンタも勘違いよ! ……あら?」
その瞬間、綺音は気付いた。ちょうど亮の肩越しに見える西部の小山で今何かが煌めいたことに。
綺音自身は訪れたことは無いのだが、あそこには小さな神社があると聞く。今煌めいたのはちょうどその辺りだ。木々に覆われた山肌を何か大きな物体が高速で移動しているといった雰囲気。猪や狐でもいるのだろうかと思ったが、同時に恐らく感覚的ながらもその物体はそれらより遥かに巨大だとも思えた。
「……ま、いっか」
気に留めるほどのことでも無いだろう。それきり、綺音はそちらの方角へ目を向けることはしなかった。
ゾーンデリーター。そう聞こえた技の影響は今も尚残り、大気をチリチリと焦がしている。
地上でしばらく微動だにしなかった巨鳥は、突如としてその禍々しい口を開いて呟いた。
「人間風情ニシテハヨクヤル……仕方ナイ、俺モ本気ヲ出スコトニシヨウ」
「また喋った……」
「本気……だと?」
喋ることは知っていたが、その言葉は怪物が初めて発した明確な日本語だった。
「ベルグモン、スライド進化──ダスクモン!」
「うおっ、眩しっ!?」
一瞬だけ光に包まれたかと思えば、既にそこに巨鳥の姿は無い。
代わりに二人の前に超然と立ち尽くしていたのは、漆黒の鎧に身を固めた謎の騎士。その姿を目の当たりにしただけで八雲は体温が一度下がったような錯覚すら感じる。胸部と両の肩口には巨大な目玉を思わせる文様が描かれており、それが目の前の存在が放つ異質さを一層高めているようだ。
そう、それは明らかに人の形を成している。だが、同時に明らかに人ではなかった。
「人になった……!?」
「人間如きに我が愛剣を用いるまでもない。……来い」
八雲の声に肩を竦め、手招きするような態度。
先程とは打って変わった流暢な日本語を以って、黒き騎士は二人を挑発する。そのどこまでも男性的な外見に反し、異形の者が発する声音は意外にも涼やかな雰囲気を宿しており、むしろ女性的とすら感じられた。それも随分と若い女性の声にも思える。年齢にして20代か、もしかしたらそれ以下の──?
「変身した……か。なるほど、それがアンタの真の姿ってわけね」
「おいおい。朱実、これは流石にまずいんじゃないのか?」
なんとなくとしか言えない。ただ、八雲からしても今目の前で奴が変化した人型は、それまで戦ってきた巨鳥以上の脅威であると直感した。同じ人間の形を取っている存在であるからこそ、対峙するだけで自分達とは遥かに違う高みに立つ者なのだと理解できてしまう。
とはいえ、八雲はそんな自分に朱実が返す言葉もわかっていた。
「関係無いね。相手に戦意がある以上、アタシらはそれを叩き潰すだけよ。……違う?」
そう返されると、八雲も「そうだよな」と返さざるを得ない。
苦笑するが呆れ以上にそう来なくてはという思いが強い。そうだからこそ、八雲は昔から長内朱実という少女を最高の相棒だと思えてきたわけだ。互いに互いの気持ちがわかるというのとは少し違う。ならばどうなのかと言えば、それを表現するのも難しい。それを承知で敢えて端的に表現しようとするなら、要するに自分達は家族なのだ。同じ釜の飯を食い、同じ街で日が暮れるまで遊び、同じ孤児院へと帰って寝る、そんな関係。それ故に思考回路も似通っているらしく、自然と同じ方向を向いてしまう。
故にタッグを組めば無敵。故に直接対決では決着が付かぬ。
だが小学校時代、如何なる敵をも蹴散らしてきた二人でさえ、目の前の敵は違うと実感できる。身に纏う無機質な雰囲気は冷徹な暗殺者そのものだ。まだ実力を見てもいないというのに、奴が本気を出せば自分達など一瞬で肉塊に変えられてしまうだろうことが容易に想像できた。
とはいえ、それでも八雲と朱実に退却の意志は無かった。彼らの辞書に「戦略的な意味を成さない撤退」という言葉は無い。そもそも、隠れる場所も殆ど無い境内では、逃げるなど文字通りの愚行だ。
そんな二人を前に黒き騎士は僅かに目を細め、小さく呟いた。
「……退かぬか。人間にしては、なかなかの心意気だ」
「そんなことより……アンタ、名前は?」
それでも、そんな気負いなど全く感じさせぬ表情で、朱実は黒き騎士に問うた。躊躇せず敵とのコミュニケーションを図ろうという行為は蛮勇であり、同時に愚考とも感じられ、八雲は自分にはできない行為だと思わされる。
それに黒き騎士は僅かに目を細めた様子だ。そんな姿もまた、どこか女性的に感じられる。
「……良い目だ。俺は伝説の十闘士の一人……闇のダスクモン」
そうして奴は名乗りを上げる。流麗かつ鮮明な声音は謳い上げるかのようで。
「やみのだすくもん?」
だから多分、奴の用いる『俺』という一人称に違和感を覚えたのは八雲だけではなく、朱実も同じだと思う。それぐらい、奴の声は女性的に感じられた。
「十闘士って……何よ、それは」
「話しても無駄だとは思うが……貴様ら人間には知る由も無く、到達する術も無い世界、その創世記に起こった大いなる災厄を沈めた存在がいる。その魂を受け継いだ十闘士と呼ばれる十人の戦士達……俺はその内の一人だ」
奴の言う通りだった。そんな説明をされたところで、八雲と朱実にはさっぱりわからないことであることに変わりは無い。
「尤も、こんな説明など不要だろう。貴様らは今ここで──むっ?」
その瞬間、ダスクモンは何かに気付いたように天を振り仰いだ。
「な、何だよ?」
「……残念だが時間切れのようだ。命拾いしたな、人間ども」
「逃げんの?」
内心ではホッとしている癖に、朱実は飽く迄も相手を挑発する。
「……精々そう思っておくがいい。手袋の小僧、そして長髪の女。……また会う日を楽しみにしている」
そこまで呟くと、ダスクモンと名乗る黒い騎士は神社の背後の雑木林に伸びる夕闇に溶け込むようにして、その姿を消した。
嘆息を漏らした。それも全くの同時にだ。
「はぁ……」
「……ふぅ」
そんな自分達がおかしくて、顔を合わせてすぐに逸らした。
あの闇の騎士が完全に姿を消した後、やれやれとばかりに額を伝う汗を拭う朱実だが、その表情は自然と晴れない。
当然だ。ダスクモンと名乗る闇の戦士。こちらの命を取ることなど容易かったろうに、奴は時間切れだと理由を付けて自分達を見逃してくれた。それが朱実には恥辱と感じたのだろう。奴の正体などに、彼女は微塵も興味を示さない。自分よりも強い奴がいて、今回は情けを掛けられた。苛立たしさの理由など、それだけで十分だ。
だが、一方の八雲には奴の正体の方が気になっていた。
「……何者だ、アイツ」
どう見ても普通の人間ではなかった。奴は明らかに人間を超えた存在だった。
戦闘力とか身に纏う威圧感とか、そういった類のものだけではなく、何か奴の存在そのものが人間を超越している、そんな雰囲気を感じ取ることができた。人型へと変化した奴と対峙した時、八雲には生まれて初めて心の底から敵わないという確信があった。あの漆黒の騎士に対して、情けなくも半ば本能的な恐怖を覚えていたのである。
「世の中にはまだまだとんでもない奴がいるもんだな……」
「それ、アンタが言う?」
そんな八雲の言葉に、朱実がらしくない呆れたような表情を見せた。
らしくない。その認識がそもそもズレている。よく考えれば二人が顔を合わせたのは八雲が里親に引き取られ、朱実が従姉と暮らすようになって以来、時間にしてほぼ五年ぶりなのだ。そのはずなのに妙なタイミングで再会を果たしたからか、今までそのことに二人とも気付かなかった。
「ふん、とにかく久し振りだね、仙川八雲」
「……今更かよ。ていうか、人をフルネームで呼ぶのはやめろ。調子が狂う」
八雲が軽やかに返すと、朱実はニカッと笑う。
「いいじゃないの、いいじゃないの。……その格好を見るに、アンタも今日は体育祭だったように見えるけど?」
「お前二宮女子だっけ? そっちも今日体育祭だったのか?」
「そゆこと。で、どうなのさ? アンタは活躍できた?」
「ま、まあな……」
珍しく──これもおかしな表現だが──グイグイ来る朱実に調子を狂わされる。
しかし、言われてみれば自分の格好は異常だ。暑苦しいブレザーを上から羽織りながらも、その下には土埃で薄汚れた体育着が見え隠れしている。言うまでも無く、ズボンもジャージのままなのである。わざわざワイシャツに着直るのも面倒だったので、着替えてこなかったというわけだ。
そこで初めて、八雲はまともに朱実の顔を見た。
「まあ、また会えてアタシは嬉しいよ……八雲?」
「!!」
にこやかに笑うその顔が、とんでもなく可愛く見えたのは多分気の迷いだ。
そうだ。この女が自分にとって恋愛対象になるなんてことは有り得ない。そもそも、そんな感情は小学校に上がった時に全て捨て去ったはずだ。目の前の女は美少女という毛皮を纏った猛獣だ。人間扱いすること自体、どこか間違っているような気さえするのに。
色々と失礼なことを思考するが、どれも確信には至らなかった。
◇
毎週2話ずつ投稿すると宣言しておきながら、三回目にして二週間空いてしまいましたが夏P(ナッピー)です。
というわけで、3話及び4話となります。この時点でデジモンが四匹(ベルグダスクは同一存在なので個体数に限れば三匹)しか出てきていないことには実は作者が一番ビビっておりますが、ここから徐々に増えていくかと思いますので何卒宜しくお願い致します。
第4話:土と木と
憧れていた。いつも笑ってくれていた彼女の姿に。
大切だった。いつも共にいてくれた彼女のことが。
友達でもない。恋人でもない。強いて言うなれば家族になるのだろうか。
一緒になって馬鹿をやった。毎日のように喧嘩をした。今になって思えば失笑してしまうような思い出ばかりだけれど、あの頃はそれが堪らなく楽しかった。自分は今よりも遥かに笑えていたと思うし、日々の生活も輝かしいものだった。そして言うまでも無く、そんな日々を彩ってくれたのは彼女の存在なのだ。
だからこそ憧れたのだし、大切だった。
家族として、相棒として、彼女のことが好きだった。
それが渡会八雲にとっての、長内朱実という存在だった。
窓の外からチュンチュンと雀達の鳴き声が響く、穏やかな朝。
昨日体育祭を終えたばかりだから、これから三日間振り替え休日というわけで学校は無い。休み中は十時ぐらいまで寝ていようと、昨夜に八雲は決めていた。義父母にもその旨は伝えてあるので、余程の緊急事態にでもならない限り、起こしに来ることは無いはずだ。
その甲斐もあって、今日は穏やかな眠りを楽しめるはずだったが──。
「ごふっ!?」
「……起きな、アタシだよ」
──そんな夢は一撃で粉砕された。
「間抜け顔で寝ちゃって……くっくっく、アタシを待ち惚けさせる気なの、アンタは」
「お、お前、どうやって俺の部屋に入ってきたんだ……!?」
「あはは、アンタの義母さんに『元カノの長内ですぅ♪』って言ったら簡単に入れてくれたんだけど?」
「元カノって誰だ……?」
義母は優しい女性だから騙されるのも無理はないと思うが。
「そもそも、寝てる奴に踵落とし喰らわすか、普通……」
とはいえ、そんなことよりも女が自分の部屋にいるという事実を受け止められない。
目の前にいるのは彼女の幻影。そう思いたいのだが、踵落としを喰らった腹は凄まじい痛みを訴えており、幻などと誤魔化せるものではない。八雲が目を何度擦ってみても、やはり目の前には上から下までひたすらに群青色のジーンズ系の服装で固めた蒼い悪魔が憮然とした表情で立っている。
名前に反して朱実は青系の服が昔から好きらしかった。彼女のしなやかなイメージには合うと思わないでもないが。
「とりあえず着替えたいんだが」
「ん~?」
そんな八雲の思いなど露知らず、朱実はグッと顔を近付けてきた。寝巻き姿の男に顔を近付けるのは如何なものかと思うのだが。
「久し振りにデートしよ? 付き合ってよ、八雲」
「デートぉ!?」
普通の状況なら喜ぶべきなのだろう。しかし当然、そんな気にはなれない八雲である。
デートというと恋人同士の甘い一時を想像するかもしれないが、朱実がここで言うデートとは決してそんな甘酸っぱい代物ではない。八雲にとってはとにかく振り回されて散々な目に遭ったような覚えしか無いし、だからこそ自然と体が委縮してしまうのが自分でもわかる。簡単に言えば、拒否反応という奴である。
思わずベッドの上で身を引いてしまうが、朱実は顔を綻ばせてそこに乗り込んでくる。
「……お、おい」
「ふふ。……逃がさないよぉ?」
そんな彼女を前にして瞬時に顔が赤くなっていく自分は、どうやら真っ当に男の子であるらしかった。とはいえ、その赤面の要因である目の前の存在は決して真っ当な女の子ではないはずなのだが。
「言うまでも無いことだけど、アンタに拒否権は無いからね?」
「はぁ。……わかったよ」
だから一つ大きなため息を吐きつつ、やれやれと立ち上がる。彼女が決して自分の意見を曲げようとしないことは八雲が一番良く知っている。これ以上こちらが粘ったところで、更なる暴力に移行する口実を与えるだけだ。悔しいことに男である渡会八雲は、女以外の何らかの生命体である長内朱実に相性が凄まじく悪いのか、口喧嘩でも実際の殴り合いでも勝てた試しが一度も無い。叩きのめされて、結局は彼女の意を通されるだけだ。
だから彼女には逆らわない。そうした方が利口なのだ。
「わかればよろしい。それじゃ早く用意しな」
「……楽しそうだな、お前」
「あはは、そりゃアンタに久々に会ったからじゃん?」
恥ずかしくなるようなことを平然と言ってくれる奴だと思う。昔から羞恥心が無いのかと思えるほど彼女にはとにかく遠慮も忌憚も無い。けれど、そんな彼女といることが何よりも楽しいと思えることもまた否定できない。
渡会八雲にとって、長内朱実は最凶の悪友にして宿命のライバルである。
八雲には実の両親がいない。彼がまだ赤ん坊の頃、交通事故で命を落としてしまったのだと聞いている。奇跡的に一人助かった八雲は、以後孤児院に預けられ、12歳になるまでそこで過ごした。その孤児院の院長は武道の達人らしく、ちょっとした道場みたいなものも経営していたわけだ。別に道場といっても、何を教えるのか定まっていたわけではない。基本的に最低限の護身術を習うことが多く、八雲はその一番弟子だったのである。
だが八雲が小学校に上がる頃、喧嘩も含めて同い年の人間には負けたことが無かった彼を、真っ向から打ち倒した少女がいた。
『……アンタ、男の癖に弱いねぇ』
情けなく吹っ飛んだ八雲を見下ろして、酷薄に笑う少女。
別段悔しさは覚えなかった。むしろ、自分を負かした彼女の舞うような戦いぶりに、八雲は無意識に見惚れていたのかもしれない。華麗というのは彼女のためにある言葉だと、子供心に思った。彼女の戦い方は、まるでダンスだった。当の彼女だけではなく、自分まで踊らされているような、そんな感覚を覚えた。
自分を見つめる少年の眼差しに、少女は怪訝そうな表情を浮かべる。
『あれ? ボロ負けしたっていうのに泣かないの?』
『……次は俺が勝つからな。だから泣く必要も理由も無いんだ』
『へえ、面白いこと言うのね。……アンタ、名前は?』
興味深そうに笑う少女が当時6歳の、後に同じ孤児院で暮らすことになる少女、長内朱実だった。どうして彼女が孤児院に現れたのかは知らない。朱実の方から話すことも無かったし、八雲としても彼女が話さないのであれば、詮索するつもりも無かったのである。
けれど、それが八雲にとって運命の出会いだったことは間違い無い。
そんなわけで、長内朱実という少女に仄かな憧れを抱いた八雲であったが、その憧れは小学校入学と共に脆くも崩れ去った。
普段の彼女は戦闘時の流麗さなど微塵も感じさせない、単なる暴走屋だったのである。学校の窓ガラスを割った回数は数え切れず、核弾頭の如く廊下を走り回って周囲の者を恐怖のどん底に陥れたり、突然意味も無く二階の窓から飛び降りて教師を半狂乱にさせたりと、文字通り彼女の一挙一動に誰もが冷や汗を掻くようになったほどだ。
家が同じということもあり、八雲は殆どお目付け役のような立場で彼女と行動を共にすることが多くなった。
『お前なぁ……もう少し自分を抑えようとは思わないわけ?』
『あのねえ、人生って一度しかないのよ? だったら、楽しまなきゃ損じゃん?』
『それは同感だ。ただ……お前は楽しみ方を少し間違っているような気はするけどな』
そんな会話は六年間、毎日のように続いた。
そして、互いに気に食わないことがあると即座にストリートファイトを始める始末である。高学年になる頃には八雲も力を付け、朱実と互角に戦えるぐらいには成長したので、彼女の方も喧嘩へと持っていくために八雲を挑発していた節もあったようだが。廊下で軽い口喧嘩をしていたかと思えば、唐突に「ラウンド1、ファイト!」の掛け声と共に戦闘を開始する二人の姿は、ある意味では当時の小学校の有様を露呈していたのではなかろうか。
故に八雲も十分危険人物扱いだったと言えた。四年生の頃、友人の兄が苛められていたことを知った二人が六年生のイジメっ子集団を壊滅させたという事実は、今でも在りし日の伝説として母校に残されているはずだ。
無論、その後で教師から呼び出されて大目玉を喰らったわけなのだが。
そんな不可思議な二人の関係も孤児院の院長の死、また八雲に引き取り手が現れたことで終わりを迎える。彼の里親となるべき人物は、子供を望んでいた貧乏な老夫婦だった。渡会と名乗る夫婦は八雲を引き取った後、郊外に引っ越したため、彼は朱実と同じ中学校に通うことはできなくなってしまった。風の噂では朱実もまた、八雲に遅れること数ヶ月の後に従姉と共に暮らすことになったということだったが、詳しくは知らない。
幸か不幸か、互いの家の距離は数kmほどしか離れていなかったが、以後二人の関係は疎遠になった。会う必要性を感じなくなったというのが正しいかもしれない。そんなわけで、学区が変わったこともあって中学校にはかつての八雲を知る者も殆どおらず、中学での三年間と高校での一年半は至極平和な日々だったわけだが──?
それなのに昨日、偶然から彼女と再会してしまった。無論、それは決して夢でも幻でもなく間違い無く現実なのである。逆に考えれば、朱実と再会したことが現実なのだとしたら、それこそ夢か幻ではないかと思えるあのベルグモンやらダスクモンやらも確かな現実ということになるわけだが。
そんなわけで体を起こした八雲は自室を出てリビングへと向かう。予想済みだったらしく、既に義母が朝食を用意していた。仕事に出掛けている義父の分を抜いても三人分あるので、どうやらそういうことらしかった。
「長内さんは良く食べるわねぇ……八雲君にも見習って欲しいぐらい」
「……あのなぁ浩子さん、コイツに朝飯出す必要なんて……ふごっ!?」
ここで嫌味の一つでも垂れてやろうかと思えば、堂々と朝食の場に同席している朱実に思い切り足を踏まれた。
「うっさいねぇ、アンタは。……食事の時は食事に集中しなっての」
「昔は食事中に五秒と黙っていられなかったお前が言うのか……」
「そりゃアタシはあんたの元カノだからね。……あ、今カノでもある?」
「だから誰が誰の──いぎっ!?」
また踏まれた。しかも今度は踵、容赦など全く無しである。
そんな自分達の姿を前にして義母の渡会浩子が妙に楽しそうにしているので、そのことがまた八雲の調子を狂わせる。実際、少し惚けたところのある義母は朱実のことを本気で自分の彼女か何かだと勘違いしているに違いない。今まで自分が女の子を連れてくることなど一度も無かった所為か、少し興奮しているようにも思える。
「早く食べて行こうよ、八雲。まずはゲーセンだね!」
「飯ぐらいはゆっくり食わせてくれ……待て、腕を引っ張るな」
「……本当に仲良しなのね、二人とも」
「浩子さん、それは勘違いだ。俺とコイツは……」
「はぁ~やぁ~くぅ~!」
食事中の人の腕を引っ張ってギャアギャア騒ぐ朱実。
だから自然と八雲の箸のスピードは上がった。決して朱実は彼女などではない。そう言うことは簡単なのに、何故かハッキリと言い出すことができない上、何かと気遣ってしまう。それは彼が少なからず今の状況を楽しんでいる証左であるということに、本人だけが気付かないでいた。
結局、喉を通った実感の無いまま朝食を終える羽目になった八雲である。
正午近くの商店街、買い物客で賑わう大通り。様々な自営業の店が立ち並ぶその一角の屋根の上に、二体の怪しい影が立っていた。
その身に纏う異質な雰囲気は紛れも無くダスクモンと同質。だが体格や外見はダスクモンほど人間離れしてはおらず、シルエットだけを見れば二体とも人間に近しい外見をしていると言えた。それも人間の子供程度の体格である。あの八雲や朱実を震撼せしめた闇の闘士と比べれば、明らかに迫力不足だと思える。
だが行動を始めた二体は、即座にその異常性を明らかにする。商店街の屋根の上を己の跳躍力のみで飛び移っていく二体は、確かに人間では有り得ない。
「ダスクモンから逃げ延びたってぇ小僧と小娘……どこにいやがる!?」
「急がば回れ。……慌てたところで良い結果が来るとは限らないんだなぁ」
威勢の良い声はハンマーを背負った影から。そして能天気にすら聞こえる声は奇妙な形状の手足を持つ影から。
その言葉通り、彼らの標的は闇の闘士と昨日遭遇した二人の人間、即ち渡会八雲と長内朱実である。二つの影は人間より遥かに優れた視覚と聴覚を以って、商店街を埋め尽くすかのようにごった返す人々の中から瞬時に目標の二人を見つけ出す。
女の方に男が引っ張られる形ではあったが、彼らは並んで歩いている。一見して仲も良さそうだ。
「見つけたぜ、ガキども……!」
獲物を前に舌舐めずり。鬼人の蛇の瞳が、妖しく輝く。
時刻は午後七時、相葉駅前商店街に並ぶ飲み屋にて。
「かあああああっ! 渡会君の奴ぅ、全く電話に出る気配無し!」
その一角で稲葉瑞希が携帯電話を片手に絶叫していた。
結局、空いている店が無いということで今日に延期されたクラスの飲み会。正確には何人か別のクラスの連中も混ざっているとはいえ、少なくとも来年には受験生となる面々には数少ない懇親を深める良い機会となるはずだった。
今回の計画者である瑞希自身は家庭の事情から大学へ進学する気は毛頭無いため、常にこうして皆を盛り上げる何かを考えていた。その上での今回の飲み会であるから、なんとかして盛り上げなくてはと必死なのである。それなのに何人かのノリの悪い生徒は来ないだけでなく、こちらからの電話に出ることさえしない。
これって何? 何なのよ? そんな理不尽な苛立ちだけが募っていく。
「なに? 渡会の奴、電話にも出ないって?」
携帯電話を懐に戻すと、一番端の席に座っていた三上亮が訝しげな目線を送ってくる。
「そもそもケータイ持ってねえからな、アイツの場合は」
「はんっ! 渡会や園田なんて呼ぶ必要も無いってのよ!」
「……とか言っちゃって綺音ちゃん、本当は寂しかったりするでしょ?」
「そんなわけあるかっ!」
クラス会も兼ねた今回の飲み会の席で一番騒がしいのが、隣のクラスの佐々木綺音であるということは凄まじく奇妙な光景である。
何はともあれ、普段は勉強ばかりに気を取られているような本の虫達もなんとか約束を取り付けて連れてきた今回、不参加なのは渡会八雲と園田靖史を含む数名しかいない。特に八雲と靖史は塾やら部活やらの都合で来ていないわけではないだけに性質が悪かった。
電話を掛けること数度、両親も外出中なのか渡会家には全く連絡が取れない。一人暮らしをしている靖史もまた同様だった。
「……何よ楓、あんたさっきから元気無いわね?」
「そ、そんなことはありませんよ……?」
成り行きから一番奥、つまり上座に座っている瀬戸口楓が妙に消沈しているのを見て、綺音は首を傾げる。
「……でも渡会さんなら、今日お昼過ぎに駅前を女性と一緒に歩いていましたけど……」
「ぬわんですってぇ!? あの渡会に彼女が!? 嘘ね、嘘に違いないわ!」
女の子とは思えぬぐらいに凄まじい顔で絶叫する綺音。なるほど、どこか楓の顔色が優れないのはそういう理由からか。
「あの超絶無愛想男に彼女ができるなんて、広島が日本一になるくらいに無理ってもんだわ! だから見間違いに決まってる!」
「佐々木。今の言葉は俺が怒るぞ」
「あら三上、アンタ広島ファンなの」
「地元がそっちなんでな……しかし佐々木、何故お前が焦る?」
「ギクッ! そ、それは……」
「やっぱり佐々木さん、渡会さんのことを……」
「それ勘違いだから! あのねマジ、マジでやめてくれます!?」
真っ赤になって首を振りつつ否定する綺音であるが、三上亮や瑞希は面白そうな目線を向けるだけである。
「それにしても渡会め、密かに彼女がいたとは……大した奴だ」
「……ふふ、まあ僕も渡会はやる男だと思っていたよ」
「そうだな藤平。……じゃあ渡会の彼女発覚を祝って、乾杯しようじゃねえか」
「ふっ、乾杯……!」
何故かノリノリで互いの杯を当て合う三上亮と藤平陽平、相葉高校の誇る二人のスポーツマン。
「って、三上も藤平も! アンタら楓の気持ちを考えろってのよ!」
「……いいんですよ、佐々木さん。どうせ私なんかは渡会さんとは釣り合いませんし……」
「ずああああああ、殺す! 渡会……今度会ったら絶対に殺してやる!」
物騒なことを叫んでいる綺音を尻目に、瑞希は立ち上がってお手洗いへと向かう。
「渡会君に彼女……か」
我ながらなんとも不思議な声が出たものだと思う。
しかし実際問題、綺音が言う通り渡会八雲に彼女がいたとは驚きだった。あの不器用で無愛想で朴念仁な男と付き合う女の子とは、恐らく相手の方も相当の物好きなのだろうと思う。成績は優秀だしスポーツも得意な彼だけれども、その他の部分はからきし駄目な人間こそが渡会八雲であると、瑞希はこの二年弱の付き合いの中で感じている。そんな男に彼女がいて、明るく優しく気立ても良い自分には未だに彼氏ができないということが、世界の理不尽さなのだと勝手に結論付けておく。
そんな瑞希がお手洗いの扉に手を掛けた瞬間、扉が唐突に開いて瑞希の鼻先に直撃した。
「ふぐおっ!?」
「あっ……ごめんなさい」
中から出てきた女性に頭を下げられる。肘ぐらいまでの漆黒の長髪と涼やかな瞳が印象的な、どこか怜悧な外見を持つ女性だった。いや、良く見れば年齢的には瑞希と大して変わらないように思える。そもそも、目の前の女性は瑞希の知り合いだった。
違う高校に通う友人。同い年のはずなのに遥かに大人びている女の子。
「か、環菜ちゃん……ふぐっ、鼻血が……!」
「稲葉さん……大丈夫?」
「大丈夫! べ、別に環菜ちゃんの所為じゃないから……」
滅多に顔色を変えない彼女が少々狼狽しているようだから、どうやら今の自分は相当酷いことになってしまっているのだろうと考える瑞希である。鼻に戻った血が喉の方へ流れ込み、奇妙な甘ったるさが充満する。
そんな彼女に、目の前の少女は黙ってポケットティッシュを手渡してくれる。
「……ありがと……」
「いいえ。……もしかして、稲葉さん達もクラス会なのかしら」
「あ、環菜ちゃんもそうなの?」
そういえば、後ろの方で自分達と同じくらい騒がしい女子のグループがいた気がする。
「そういうこと。でも同じお店になるなんて、偶然って怖いわね」
「環菜ちゃんは女子高よね? どんな話をしてるわけ?」
「今はクラスの問題児が昼間に男の子とデートしてるのを目撃されたって話題で持ち切り」
はて。今さっき、自分達は同じような話題をしていたような──?
そんな風に自分達が話題になっていることも知らず、次第に漆黒の闇に包まれていく街を並んで歩きながら、八雲は隣を歩く朱実に問う。
「……激しく今更だけどな、何でいきなり俺の家に来たんだ?」
「色々と暇だったんよ。別に不思議じゃないっしょ? アタシだってアンタと同じで、今日は休みなんだし」
そう言って、朱実はけらけらと笑った。
コイツはどんな時でも本当に楽しそうに笑う。それが少し眩しくて、八雲は顔を逸らさざるを得ない。可愛い可愛くないを取っ払ったところで、彼女の持つ太陽の如き雰囲気は決して揺らぐことは無いのだ。そして、そんな彼女の笑顔を見ていると、不思議とこちらも楽しくなってくる。彼女には散々振り回されてきたが、少なくとも辛くはない。
その思いを振り払うように、八雲は昨日から気になっていたことを告げる。
「それと……昨日から思ってたけど、今の俺の苗字は渡会だからな……」
「ああ、そうだっけ? まあ、よくあることよ。気にするほどのことでも無いっしょ」
仙川というのは八雲の本当の苗字。十六年前に事故死した彼の両親の苗字だ。
現在名乗っている渡会という姓は小学校六年生の十月、今の義父母に引き取られた時からの苗字であるわけだから、朱実から見れば馴染みが薄いのも無理は無いと言えた。それでも八雲自身は中学以降、渡会の姓で通してきたので今更過去の苗字で呼ばれてもピンと来ない。その意味では、朱実の中での自分は小学生の仙川八雲のままなのだとも思う。そのことが少し悔しいかもしれない。
結局、半日行動を共にして回った場所はゲームセンターとカラオケ、それと流行りの喫茶店だけだ。
「……何か俺達、行くとこが小学校の時と全然変わらないのな」
「ハッ、構いやしないわ。要は楽しめりゃいいのよ、楽しめりゃね」
小学生の身で上記の場所に入り浸っていたこと自体がおかしいという常識を、生粋の問題児であった彼らは持っていない。
その意味では、手厳しい親御さんから見れば八雲も朱実も明らかに不良の類に入る。小学校時代には「仙川君や長内さんと付き合うのはよしなさい」と言われた同級生が何人いたのか、数えるのも嫌になるほどだった。無論、彼ら二人はそうした自分の在り方に何ら疑問を抱くことは無いし、これからも同じように在り続けるだろう。
彼らが自分に絶対の自信を持てるのは、如何に自分が暴力的であるとはいえ、他者を無意味に殴ったり貶めたりしたことは一度も無いという絶対の自負があるからだ。
そう、彼らは一度として意味無く他人を傷付けたことは無いのだ。江戸っ子という単語を具現化したかの如く三度の飯より喧嘩が大好きな朱実でさえも、相手は彼女自身の価値観の中で「許せないことをした奴」に限られる。苛めっ子はもちろんのこと、万引きを笑い話にしている奴、軽々しく「死ね」だの「消えろ」だの口にする奴など、その手の輩に対して、朱実は一切の容赦を加えない。泣こうが喚こうが親に言い付けられようが、そんなことは一向に構いやしない。許せないことは許せないと明言し、その断罪は自らの手で下す。
要するに、長内朱実という少女は正義感が異常なまでに強いのだ。ある意味では、その純粋さが八雲には少し羨ましい。
恋愛対象というわけではないかもしれないけれど、そういった意味では未だに渡会八雲にとって彼女は憧れの存在と言えた。
「……ところで朱実」
そろそろ自宅が近付いてきた頃、八雲は声を潜めて言う。
「皆まで言わない、わかってる。……尾行っしょ?」
流石は朱実。他人の気配を感じることに神懸かり的な才能を持つだけはある。
市街を抜け出た辺りからだろう。自分達の背中をずっと何者かが尾けられているような気はしていたのだ。振り返らずとも、それぐらいは瞬時に察することができる。無論、一流の探偵とか暗殺者とか、その世界のプロフェッショナルが相手となれば流石の彼らでも認知することは不可能だ。だが、今回の相手は酷くお粗末だったから、自らの気配を絶つという尾行における基本中の基本すら徹底できていなかったからこそ、八雲や朱実にとって気付くことは容易かった。
言ってしまえば、彼ら自身の気が逸っており、気配を抑え切れていないのだ。
「どうする?」
「……ここまで来ちゃった以上、ちと形勢はアタシ達に不利かもね。何しろ、この辺りは閑静な住宅街だから……大声を出せば迷惑が掛かるかも」
ストーカーには大声で助けを求めましょう。そんな当たり前の常識すら、今の彼らからは吹っ飛んでいる。
尾行された以上、犯人は自分達の手で叩きのめす。銃器以外なら如何なる武器にも対抗できる彼らにとって、それは当然の答えだ。だが叩きのめすにしても、今は場所が場所だ。時刻は午後七時。大抵の家庭では家族の団欒が行われている時間帯。そんな時間に騒ぎを起こして家族の時間を邪魔したくない。そんな気遣いは長内朱実の優しさである。
故に二人は黙って住宅街から離れる道を歩いていく。そして、やがて交通量の少ない並木道に出た時──。
「あのねストーカーさん、いつまでもコソコソしてるのは体に悪いよ?」
「……同感だな。いくら暖かいって言っても、もう十月だ。風邪を引いても知らないからな」
背後の何も無い空間に向けて、二人はため息混じりに呟く。
「チッ、気付いてやがったのか。なら仕方ねえ。行くぞ、アルボルモン!」
「……了解なんだなぁ」
案の定、妙に癪に障る声と共に木陰から二体の異形の影が飛び出してきた。
片方は巨大なハンマーを背負ったでかっ鼻のゴブリンを思わせる生物だ。微妙に愛嬌のある動作で鼻を掻く仕草は、まるでガキ大将のようにも見える。もう片方は生物と呼んでいいのだろうか? 子供が遊ぶブリキ人形に命を与えたらこうなったと言われれば納得できる、そんな異形の生き物だった。
彼らの間抜けな姿は、どう見ても──。
「……アンタら、大道芸人?」
「そうそう、大玉廻してへいさ、ほいさ……って、誰がだ!」
一瞬だけ浮かんだ幻想を振り払うように叫ぶゴブリンもどき。どうやら、見た目通りノリはいいらしい。
だがボケを噛ました朱実とて、隣の八雲と同様に彼らから放たれる殺気を感じていないわけがない。そう、彼らは明らかに自分達に対して敵意を向けているのだ。それも、二人が昔から嫌というほど感じ慣れている喧嘩や諍いの類ではなく、明確な殺しの欲求を持って。
そんな奴らに抜け抜けとボケを噛ませるとは、朱実も流石にいい心臓を持っている。
「……覚えとくつもりは無いけど、一応名前ぐらいは聞いてやるよ?」
「俺様は土のグロットモンでぃ!」
「……俺は木のアルボルモン。よろしく」
偉そうに鼻を鳴らすゴブリンと、礼儀正しく頭を下げる木偶の坊。
「俺達はダスクモンの野郎とは違うぜ。確実に息の根を止めてやらぁ!」
「……今日の教訓。二兎追う者は、二兎とも取れ」
ダスクモン。忘れるはずもない、その名前は昨日対峙した黒い騎士の名前だった。
「グロットハンマー!」
「マシンガン・ダンスゥ~」
振り下ろされるゴブリンの巨大なハンマーと、横薙ぎに振るわれる木偶の坊の長大な足。
朱実は後方に大きく跳躍し、八雲は右に横っ飛びすることで辛うじて回避に成功する。標的を失ったハンマーは足元のコンクリートを一撃で粉砕し、鋭く撓って襲い掛かってきた木偶の坊の足は道路の脇にあった電柱を圧し折るほどの威力を見せる。
「げっ! 半端じゃないぞ、コイツら!?」
「チッ、今は分が悪い! 悔しいけど八雲、ここは一旦退くよ!」
「逃げるのかよ!?」
鋭く突っ込みを入れながらも、体は朱実に従う。
少なくとも、この連中がダスクモンと同様に只者ではないということぐらいは、流石の八雲にも理解できる。外見が人間とは掛け離れているというだけではない。この世界に存在してはならないような、そんな異質な雰囲気さえ感じるのだ。朱実の言う通り、この場で相対するのは得策ではないと思えた。
即座に回れ右をして、一気に駆け出す。
「あっ! ガキども、待ちやがれ!」
「待てと言われて待つ馬鹿がいるかっての!」
朱実の声は闇夜の街に高らかに響く。
数分前に大声を出すと周囲の住民に迷惑が掛かると言っておきながら、それを物の見事に実践してくれる辺り、大した女である。
しかし逃げるだけとなれば、この町で八雲と朱実に敵う生物は存在しない。幼い頃から嫌と言うほど探検し尽くした町だ。彼ら二人だけしかわからない抜け道や隠れ家など、そんなものは無数にある。たとえ厨房のドアを器用に開けて迫ってくるヴェロキラプトルのような敵が相手でも、この町でなら悠々と逃げ切れる自信があるのだ。いや、むしろ彼らぐらいの実力の持ち主なら逃げる必要すら無い。どうやって侵入したかわからないロビーに現れた暴君竜の力など借りずとも、自らの力のみで撃破してみせる。
そんなこんなで、なんとか奴らを振り切った後、息一つ乱さずに朱実は問い掛けてくる。
「さて、問題はここからどうするかだけど……」
「はぁ? 普通に帰らないのか」
そう言い返すと、朱実は「馬鹿ね、アンタ」とでも言いたげな表情を見せる。当然だが八雲はイラっとした。
「家に逃げたところで、奴らは追ってくるよ。アンタだって、義父さん義母さんに迷惑を掛けたくないっしょ?」
「お前、相変わらずだけど意外と結構考えてんだな」
「……相変わらずと意外が噛み合わなくない?」
「日本語って不思議だよな」
言いつつ、八雲は少し安心した。昔から知っていることだが、何だかんだ言っても、朱実は他人を思い遣る奴なのだ。
「ならどうする?」
「そうだね。ひとまず一旦はどっかに避難するとしようか。そこで一息吐いたら、次はこっちから打って出てやろうじゃないの」
何故朱実が笑顔なのかは不明だが、今はとりあえず彼女に従っておいた方が利口だろう。
「できれば一人暮らしの奴がいい。それでアタシ達が二人で押し掛けても迷惑に思わないような奴が」
「そんな都合のいい奴が……あっ」
「どうしたの?」
朱実が顔を覗き込んでくるのにも構わず、八雲が思い出したのは親友の顔。
「……気が進まないが、一人だけ心当たりはあるな。すまん、靖史」
朱実を除けば最も親しいと言える友人の顔を思い出しつつ、八雲は静かに呟いた。