「ねえキミカゲ。……本当に行っちゃうの?」
「そりゃあ、まあ。そのために衣食住を提供されてた訳だしな」
俺の背中にぴったりと張り付いてぽつりと呟いたアカネに、俺は淡々と、事実で返す。
表情を窺い知る事は出来ない。ユニモンがヘマをするとは思っていないが、乗馬中の前方不注意は、それが障害物の無い空の上だろうと褒められたものではないからだ。
ナシロ家のご息女は、どうしてもユニモンに乗って空を飛びたいと両親に駄々をこねて。
余所者の少年との外出許可をもぎ取って来たらしかった。
……俺が『迷路』で暮らしている間に、とんでもないデジモンがこちらでは暴れまわっていたのだそうだ。
それがおおよそ、3年前。
件のデジモンは『選ばれし子供達』とかいう、デジモンの住む世界の側から選ばれた人間の子供達とそのパートナーとなったデジモン達によって、どうにかこうにか、倒されたのだと。
で、数日前。
突然の事だった。倒された筈の『とんでもないデジモン』が、再びこの世に、蘇ったのは。
各地からは再び『選ばれし子供達』とそのパートナーが、招集された。
俺にはデジモンの世界から選ばれた覚えなどとんと無いが、それでも、デジモンを連れ、数多の探索者を呑み込んだ『迷路』から生還した『奇跡の子』。
こういう事態に陥った時のために、俺とユニモンはこの街に、飼われていたらしい。
旅立ちは明日。
『選ばれし子供達』と共に蘇った化け物を討つために、俺達はこの街を出なければならないのだ。
「って言っても、仕事が終われば帰っては来られる筈だから。3年前にも倒されたデジモンなんだろう? なんとかなるよ。きっとね」
「でも、その3年前の時にも、何人もの……私よりも、小さい子が……」
「……」
アカネに気付かれないよう嘆息する。
彼女の濁した言葉の先を、俺は『迷路』で嫌になるほど耳にして、目にしてきた。
今更のようにそれが非日常だと突き付けられたところで、俺とユニモンが生きてきた日々は、その中にしか存在しない。
そしてアカネの両親--もっと言えば、アカネ以外のこの街--が、そんな化け物を連れた世間知らずの健康長寿など、望んでいる筈も無く。
死んでくれと、思っているだろう。
化け物は化け物同士で殺し合って、勝手に死んでくれと、そう願っているだろう。
それでも、もし。
俺とユニモンが生き残ってなお、許される術があるとするならば。
「覚えてるか、アカネ」
「? 何を?」
「初対面の時、俺がアカネに、なんて名乗ったか」
アカネの身体が僅かに俺の背から離れる。
視線を上げて、虚空から思い出を掘り返しているらしい。
しばらくの間うんうん唸って、彼女がようやく見つけてきた答えは
「え? えっと……洋風の朝ごはんみたいなお名前だったような……」
なんて、どうしようもないくらい、素っ頓狂なもので。
……多分、ハムレットの事だろう。おいしそうな名前って言ってた気がするし。
だがハムレットはたとえ話に使っただけで、俺の前の名前はデンマーク由来では無い。
「……そんな見事な記憶力を持つアカネには、哀れなオフィーリアも無言で白いヒナゲシを差し出すだろうさ」
「あっ! キミカゲったらまた私の事バカにしてるでしょ!?」
「そんな事無いよ。ヒナゲシには「陽気で優しい」って意味があるから、アカネにぴったりだって思っただけで」
「えっ……そ、そうなの?」
「白いのの花言葉は「忘却」だけど」
「やっぱりバカにしてるじゃない! ふーんだ! どうせ私は物知りのキミカゲと違って、忘れっぽいおバカさんですよーだ」
ユニモンがぶるると、咎めるようにいなないた。
俺との付き合いの方が長いだろうに、こいつったらいつもアカネの肩を持つのだから。全く、薄情な白馬だことで。
ただ――
「「馬だ、馬を寄越せ。代わりに王国をくれてやる」」
膨れ面でそっぽを向いていたらしいアカネは、しかし俺の唐突な引用台詞にこちらへと向き直ったらしい。
前方は引き続き注意しつつ、俺は少しだけ、視線を背後へと流した。
「俺が『迷路』で名乗っていた名前は、『グロスター』。俺の好きな『リチャード3世』って物語の、主人公の名前さ」
正確にはグロスターはイギリスの地名及び、そこから取った公爵位の事だが、そこまで説明すると多分アカネの頭がパンクする。
俺だって、彼女と過ごして、何も学んでこなかった訳じゃ無い。
「そいつは醜くて、卑怯者のひねくれ者で、残酷で嘘吐きで本当にどうしようもない嫌われ者だったけど――強くて、賢くて、どんな手段を使ってでも国の王様になるっていう野心があった」
そうやって、本当に王様になっちゃったんだ、と、俺は続ける。
俺と成長期だった頃のユニモンにそんな野心があった訳ではないけれど。
『迷路』で生き残るには、それだけの気概が必要だった。
こけおどしでも王様の名前を名乗って、持てる全てを駆使して相手を殺して、奪って生きる。
そうやってユニモンが今の姿になった時、自分の計画が軌道に乗り始めたグロスター公が、自分の醜い容姿も本当は見れたものかもしれない。と、姿見を買い求めようか。と、笑ったように。……俺達も、少しくらいは、自分の事が、嫌いでは無くなって。
なにせ--
「まあ、卑怯者の嫌われ者だったからさ。徐々に孤立して、追い詰められて。結構善戦したんだけど、最終的には正義の味方に殺されちゃうワケ」
「……死んじゃったの?」
「うん。で、その最後の台詞が、さっき言った「馬を寄越せ」」
思わぬ結末だったのか、途端に声を震わせるアカネとは対照的に、俺は笑う。
「逆に言えばさ。馬さえいれば、きっと彼は負けなかったんだよ。さっきも言った通り、グロスター公は強かったんだ。……ましてや、傍に空を駆れる愛馬が居れば--負けたりなんて、すると思う?」
--進化という形で、俺は最高の愛馬を与えられた。
俺達はグロスター公の生き方に憧れたけれど、その結末まで忠実に辿る訳じゃ無い。
俺とユニモンは、『リチャード3世』のIFだ。
それはいわゆる『メアリー・スー』モノのように、都合よくねじ曲がった、馬鹿馬鹿しい二次創作のようなものかもしれないけれど――事実として、現実として。俺は生きて『迷路』を抜けて、惨めな捨て犬から『奇跡の子』に成った訳で。
アカネの産まれた街を一望できる、小高い丘へと、ユニモンは着地した。
草木がざわざわと風に吹かれている他に、周囲に、俺達以外の影は無い。
俺だけユニモンから降りて、ここに来るまで背中で感じるしかなかったアカネと向き合った。
「まあそういう訳だからさ、心配するなよアカネ」
きっとぎこちなかっただろうが、それでも俺は、アカネに微笑みかける。
応えるように、ユニモンも短くいなないた。……こいつは俺の、自慢の愛馬だ。
「……ねえ、キミカゲ」
対して、なおも不安を拭いきれない、今にも泣き出しそうな眼差しを、しかしアカネは、まっすぐに俺へと向ける。
彼女は口の中で転がすようにして、言葉を探している風で――やがて
「その、『リチャード3世』ってお話には、ええっと……私がキミカゲに贈る言葉に、ちょうどいいセリフとかって、無いのかしら?」
「贈る言葉?」
「「さよなら」とか「いってらっしゃい」とか、そういうのじゃなくて……その……」
「……」
ふうむ、そう言われると少し弱る。
何せ『リチャード3世』は言いくるめと罵倒が交互に来て、謀殺で進んでいく話だ。
基本的に、主人公に向けられるのは憎しみと呪いの言葉ばかりで、ようは、縁起でも無いのだが。
だが、まあ。アカネがお望みと、言うのなら。
「じゃあ、俺の台詞の後に、続けてくれる? 「それは私の口からは言えません。でもあなたに教えられたお世辞をまねして、もうそう言ったと思いなさいとだけ、言っておきます」
「え? ちょっと、長いんだけど……でも、ええと。「それは私の口からは……」」
何度か練習を繰り返して、数分後。ようやく台詞が頭に入ったらしいアカネがユニモンから降りようと足を持ち上げる。
その手伝いに、と俺は手を伸ばし、ユニモンの方も足を曲げて彼女を補助する。
俺の手を握って跳ねるように地面に降り立つアカネ。
俺はその手を離さないまま、彼女の前に、傅いた。
「「お別れに、私の幸せを祈ると」」
ぽかん、と口を開いたアカネは、だがすぐにそれが『俺の台詞』だと気付いたらしい。自分の察しの悪さにか、あるいは別の何かにか。ほんのりと頬を赤らめて
「そ、「それは私の口からは言えません」! でも、えっと、……そう! 「あなたに教えられたお世辞をまねして、もう言ったと思いなさいって、言っておきます」」
やけに早口で、言葉を返してきた。
情緒も何もあったものではないし、俺が先に言ったものとはいくらか違っているのだけれど。
言い終えて。アカネが安心したように、可笑しそうに、ふにゃりと笑みをこぼして。
「なあに、コレ。私だったら、普通に幸せを祈るわ。昔の人って、変なの」
「まあそういうシーンだから。その内読んでみればいいよ。機会があれば、舞台を見るのもいいかもしれない。どっちもアカネにはちょっと長そうだけど」
「まあ! そうやってすぐにいじわる言うんだから。でも、確かに長いご本もお芝居も、ちょっと苦手。……そうだ! キミカゲ、絵が上手よね? 絵本にしてよ。そうしたら、私もきっと読めるわ」
「ははは、天下のシェイクスピア作品を絵本にだって? ……ま、前向きに検討しておくよ」
ユニモンが鼻を鳴らす。
おいおいお前まで軽く言ってくれるなよ。15世紀の王侯貴族の衣装だとか、絵に起こすだなんて考えただけでも眩暈がするんだが。
……とはいえ、何にせよ。所詮は口約束。
こうは言っても、俺にもしもの事があったとして。
その時は、いつか本当にアカネが『リチャード3世』を見てくれれば、俺の事はその程度のクズ男だったと、そう見切りをつけてくれる事だろう。
何せ先の台詞は、グロスター公が散々に貶めた女性を惨々に利用するために口説き落とした時のもの。
それで良いんだ。そんなもので良い。
俺とアカネの関係は、簡単に切ってしまえる程度の物で――
「私、待ってるからね、キミカゲ!」
俺の手を取り直したアカネの髪が、そよ風にたなびいた。
「紙のバレリーナみたいに、ずっと待ってる」
『しっかり者のすずの兵隊』の紙のバレリーナは、そんな風にさらわれるようにして、一本足の鉛の兵隊が投げ込まれた火の中へと落ちてきたというのに。
そうやって、結局アカネは、自分の好きな絵本の話をする。
ああ、もう――やはり縁起でも無い事ばかりいうな、この女は。
敵わない。
俺はもう、饒舌な舞台俳優の真似事は出来なかった。
彼女につられて笑ってしまって、もう、それどころでは無かったのだ。
*
その日の夜の事だった。
ナシロの家に、この街のえらいさんらしい年寄りが、俺に向けた甘言を携えてきたのは。
もしも明日からの戦いで武功を上げれば、正式にこの街の住人として迎え入れると、信じがたい程、甘い言葉を。
そう。軽々しく信じていい話でもないのに。
世の中、そんな上手い話が転がっている筈も無いのに。
俺の、俺達の人生は、これからより良い方向に向かって行くと。
そんな希望を、俺は、俺達は、抱いてしまって。
*
だが残念。
『迷路』を訪れるのはいつだって、英雄を夢見る身の程知らずか、要らない物を捨てに来たろくでなしか、捨てられた方の、人でなしだ。
『迷路』を抜けたところでその人となりが変わる筈も無く、重ねて夢まで見始めた俺に、やはり救いようなど、無かったのに。
*
俺とユニモンが、その他の『選ばれし子供達』が対峙したそのデジモンは、想像を絶するような、正真正銘の化け物だった。
『迷路』で得た『絵本屋』の知識にも無い、異形の怪物。
3年前に暴虐の限りを尽くしたデジモンが、更に進化したのだと、3年前にもかのデジモンと対峙した子供が言っていた。
だがそれ以上に俺の心を揺さぶったのは――選ばれたという、子供達の方で。
こいつらは、一体、何だ?
国に、世界に、戦いを強要された兵隊だとばかり思っていたのに、どうにもそうでは、無いらしい。
彼らは、ただの子供だった。
真っ当に愛してくれる家族が居て、純粋にデジモンを友と呼び、戦場の中でさえ緊張感の無い能天気な振舞いをして見せる、誰にでも--俺のような存在にも――親切で、未来への希望に満ちた瞳の子供達。
そんな、お伽噺の住人みたいな彼らは
ただ、祈るだけで。あるいは応援するだけで。それだけで、デバイスを通じてパスを繋いでいるデジモン達を、簡単に究極体に進化させる事が出来た。
それも、『迷路』で見たような連中とは、比べ物にならないような、強力な個体に。
そんな戦場で
たかだが空を飛べる程度の成熟期が、何の役に立つというのだろう?
本物の『力』を前に、『奇跡』が何の、意味を成す?
「ユニモンッ!!」
だが、俺達は死ぬ気で戦う他無かった。
武功を立てる必要があった。
名声が、名誉が必要だった。
そうしなければ、俺達には帰る場所が無い。
幸い、雨のように降り注ぐ敵の攻撃は、広範囲であるものの味方の多さ故に分散を余儀なくされていて、回避する事自体は可能だった。
選ばれし子供達の力を以ってしても、やはり敵は規格外の怪物らしい。
デジモンの粒子化と子供の散らばったパーツを見た回数は、既に両手では足りなくなっていた。そんな中で俺なんかが未だ生きているのは唯一、俺とユニモンが『迷路』を生き抜いた経験が活かされている点だろう。
ただ、それだけ。
必殺技でさえ、かすり傷すら負わせられない。
ああ、それでも。
「目だ、目を狙いに行く!」
『ホーリーショット』は関節部への攻撃には不向きと言い聞かせるように判断して、天馬を敵の正面へと駆る。
当然危険度は跳ね上がるが、もう他に手段は無い。リスクに見合う効果を期待するしか無かった。
「行けっ、ユニモン!!」
もう何度目かも判らないまま黒い雨の中を掻い潜り、勢いを殺す事無く旋回したユニモンが、『ホーリーショット』を敵の目玉へと炸裂させる。
着弾の瞬間、弾けたデータ片の煙が上がる。
つまり――ダメージが、入ったという事だ。
「続けろ! 片方だけでも潰すんだ!!」
いななきと共に、『ホーリーショット』が連射される。
幽かながら、活路が見出せた。
半分とはいえ視野を潰せば、攻撃の精度は格段に落ちる筈。
手綱を握り締めている手の平が汗ばんだ。
ユニモンが攻撃に集中している分、敵からの攻撃の回避は俺からの信号を頼る形になる。
攻撃が発射される敵の背中を注視しながら、手綱の操作とユニモンの脇腹への合図を繰り返す。
俺の意図に気付いたのか、飛べる味方が何体か加勢に来た。
途中撃ち落とされた奴も居たが、自分達の面倒は、自分達で見るのが、精一杯で。
――やがて、時が来た。
巨大な水風船が潰れるようにして、
弾け飛んだのだ。敵の、翡翠みたいな、深い緑色をした目玉が。
「やった!」
苦しい戦況の中に、『目』に見えた成果。
俺だけでは無い、他の選ばれし子供達からも歓喜の声が上がって
すぐに、潰えた。
「え?」
消し飛んだ目玉の奥から、夕陽のようなオレンジ色の目玉が。いくつも、いくつも。数えきれないくらい無数に。
沸き上がってきたのだ。蕾が開きでもするみたいに。
瞬きの間に、敵の目玉は元通りになって。
当たり前みたいに、ぐるりと世界をねめつけて。
首がぐるんとこちらを剥いて。
かぱっと、大きな、口が開いて。
それで、
光って、
ぱん、と。空気が削れるような音がして。
どうしてだろう。アカネの悲鳴が、聞こえたような気がして。
隣に居た奴らと一緒に、ユニモンの片羽が、消し飛んだ。
「あ――」
痛みに泡を吹きながらも、ユニモンの蹄が宙を掻き、羽の根元をバタつかせるが、片方しか無い翼では飛びようも無い。
世界がくるりと一回転。
俺とユニモンは身体が逆さになって、そのまま天から、突き離された。
どこに、という訳でもないのに、俺は手を伸ばした。
何も掴めない。
何も無い。
何が『奇跡の子』だ。
何が「負けたりなんてしない」だ。
ああ、何も。何も無い。
もう――何も。
……ああ、そういえば。
王になったグロスター公は最期の戦場に赴く前に、貶めた人々の亡霊に、「絶望して死ね」と何度も吐き捨てられるんだっけか。
俺も。
俺に相応しい最期も、そうなのか?
「ごめんなさい」
誰に言ったんだろう。
何に言ったんだろう。
でも、ただ
もう、許してほしくて。
俺は、絶望して死ななきゃいけない程、悪い子だったのか?
……母さん。
「……リー……イリー、ゲイリー、ゲイリーくんってば!」
「ん……っ」
「起きた!? 起きたよねコレ!! ゲイリー、ハイこれ見て、解る? あたしの指! 何本立ててるか見える?」
「まな板の上の鯉……」
「なんだ、ゲイリー思ったより元気そうじゃん。おはよ」
「……」
内容はほとんど頭に入ってこなかったが、女かんの高い声は、割れ鐘を叩くように痛む頭にさえ良く響いた。
それはまるで、虫の這うカサカサという音が、必要以上に耳に届くのと、似たような話で。
加えて寝かされている位置のせいか、朦朧とする視界の中、それも片目だけでも、俺を覗き込む彼女の顔は、はっきりと見えた。
なんたって、遮るものは何も無いからな。
「ルル。なんで、うちの店に」
頬の上で血が固まっているのか、動かすとぱりぱりと嫌な感触が皮膚を引っ張って、不愉快だった。
……とはいえ、ルルに膝枕で寝かされているという現実味の無い状況に比べれば、多少目を瞑れるものではあったが。
まあ、無いんだけどな。目。片方。
ついでに刺さっていた筈の矢も無いらしいので、多分、一緒に引き抜かれたのだろう。
ルルは答えを口に出さず、俺の視界が欠けている方をちょいちょいと指差した。
嫌がらせか。
なんとか無事な右目を動かすと、白い法衣の裾が、辛うじて目に映る。
嗚呼、なるほど。
ルルの嫌がらせと言うより、単純にアイツが見せたくないんだな。
目の前の、手ごろに嬲れる獲物に夢中なあまり、隠れ潜んだもう一方を見逃すという失態をやらかした上に、その尻拭いに大嫌いな女を頼るしか無かったメアリー・スーが、自分の顔を。
「お前のような僧侶がいるかバディのメアリー・スーが1体であたしの商売先に来たからびっくりしちゃったよ。しかも渋々ついて行ったらドアの向こうは趣味の悪い逆さ吊り人形と顔面血だらけのゲイリーくんときた。なにこれ。何プレイ? 『レンタルビデオ』くんちゃんと今度こそ意気投合したの?」
「……節穴なら分けてくれ、その目玉。っていうか、怪我人にいちいちツッコませるような真似するんじゃねェ」
「ゲイリーが勝手にやってるんでしょーもぉ。っていうか」
半身を起こそうとする俺を、やんわりとルルが制した。
「死にたくないなら、動かないで」
「……アクション映画以外で聞くとは思わなかったよ、ンな台詞」
「これはそこそこ真面目な話。……毒、塗ってあったから。動くと余計に広がるよ」
「……」
まあ、そんなこったろうとは思ったが。
俺はルルの忠告を受け入れる事無く、両腕で床を押した。
「ちょ、ゲイリー!」
立ち上がろうとするだけで世界がぐにゃぐにゃと歪んで見えて吐き気がしたが、それでも身体はどうにか動いた。
そして失った平衡感覚と元から機能していない光度調節機能のせいで狂った視界の中でも、見慣れたデカブツはひと際目立つ。
光の矢はルルがどうにかしたのか、見当たらない。行幸だった。サングラス無しじゃまともに目も開けなかっただろうからな。
酔っ払いみたいなおぼつかない足で歩み寄って
大きく、息を吸い込んだ。
「こンの」
横たわるマンモンの脇腹の前で、俺は片足を大きく持ち上げた。
「役立たずがッ!!!!」
力いっぱい、蹴りつける。
自分の中で、ぶちぶちと何かが千切れるような音が聞こえた気がした。
構わず、俺はマンモンを蹴り続ける。
「留守番も! 碌にできねェのか!? リンドウを看てろっつっただろ!! 傍観してろって意味じゃねェ面倒を看ろつったんだこのボケ!! そんなコトもわかんねえのか、ああん!? 図体だけのこけおどしで俺を苛立たせるのも大概にしろこのクズ!! ゴミ!! 無能の木偶の棒がよぉっ!?」
言葉と一緒に、喉からごぽりと何かがせり上がる。
不意を打たれるみたいに咳き込んで、吐き出した。
マンモンの毛皮に、赤い染みが広がる。
塗り潰すみたいに、誤魔化すみたいに唾を吐きかけて、もう一度、足を持ち上げようとして
……よろめいた俺を支えるみたいに、マンモンが、俺の身体に長い鼻を伸ばして、添えた。
「そんな……」
拳を叩きつける。
……叩きつけたつもりだったが、大した衝撃も起こせずに、象の鼻の表面を撫でてずり落ちていっただけだった。
「余計な、事を、してる暇があったら」
「おーい。ゲイリー」
「千里眼の情報を、デバイスに送れ」
「ゲイリーくんってばー」
「さっさとしろよ、このうすのろが……」
「ゲイリー」
昔馴染みの腐れ縁は、ひどく静かに、俺の今の名前を呼んだ。
「もう、いいでしょ」
「……」
「リンドウちゃん、ゲイリーの子じゃないんでしょ? もう、いいじゃん」
「……あの子は」
「何年付き合いがあると思ってるの? 知ってるよ。あんたが子供なんてつくれない歳から『迷路』に居る正真正銘・純正の童貞野郎だって事も……クソ野郎なりに、こんなところで子供をつくる程、無責任な男じゃないって事も」
本当に嫌になる。
確かにルルとは、コイツの胸の薄さを年相応だと主張できる頃からの付き合いだが――だからと言って、人の内面まで解った気になられるのは、癪に障るのだが。
なのに、マンモン相手に声を振り絞り過ぎたせいか、漏れ出るのはぜいぜいと、肩を上下させて吐き出す息が精一杯で。
手を出さなかったのは、お前に色気が無いだけだ。とか、言ってやりたい事は、何かとあるモンなんだがな。
「家族ごっこは楽しかった? ゲイリー、一丁前にそういうの、好きそうだもんね。自分が出来なかった事をするのは、人にしてあげるのは、気分が良かったんじゃない?」
「……」
「でも、前々から言ってるけど、ゲイリーくんのそう言うところ、見ててイタいんだよね」
「……」
「せめて、どっちかにしなよ」
いつの間にか隣に寄って来たルルが、マンモンと代わるようにして、俺の背中に手を回し、支えてくる。
「粗悪な『メアリー・スー』の作者か、安っぽいホームドラマの大根役者か。……あたしとしては後者の方が多少は見れたものだったけど、命懸けでやるには、向いてないよ」
「……言えてるな」
そうなんだよな。
リンドウは、恐らく殺されてはいない。
絵本屋としての俺を脅したいだけなら、あんな人形より本物のリンドウの死体を吊るしておいた方がよほど効果がある。わざわざ死体を運び去るメリットがあるとは思えない。
十中八九、彼女の『力』を狙っての事だ。
悪いようにはされないだろう。ひょっとすると、むしろ俺の元にいるよりマシな暮らしが出来るかもしれない。
「『メアリー・スー』を続けるなら、なんとかしてあげる。不本意だけど、あたしも一枚噛んでるからさ。……多分、毒、治療できると思う。それなりに長い間、大人しくしてもらう事になるけどね。……その間に、リンドウちゃんは、マンモンの千里眼を使ってもゲイリーの手の届かないところに行っちゃうだろうけど」
そして、襲撃者が俺とマンモンを、確実に殺さなかったのは。
見極めているのだ。ルルが今問いかけてきているように、どちらを選ぶか。
青髭公に秘密の部屋の鍵を渡された7番目の妃のように、今まで通り従順な隣人で在り続けるか--鍵を開いた先にある、いらぬ秘密に首を突っ込むか。
賢い選択肢は、解っているし。
ルルの言うところの「家族ごっこ」にしたって、ほんの僅かな期間の話だ。
最初は恋しがってくれるかもしれないが――どうせ、じきに慣れる。
俺はそういう子供を、よく知っている。
「……」
腰を下ろした俺は、そっと人差し指で床を撫でた。
未だに鮮烈な痛みに掻き消されそうではあったが、幽かにぴりりと、痺れるような刺激が走る。
眼前に持ってきた指先には、茜色の鱗粉が付着していた。
俺はその指で服のポケットからデバイスを取り出した。
更にその中から、一冊の『絵本』を。
『しっかり者のすずの兵隊』を、腕の中に落とす。
力を振り絞って、勢い良く開く。
半ば顔を埋めるようにして、むせかえりそうになりながらも、飛び散った粉を出来得る限り、余す事無く肺へと取り込んだ。
粉を吸い込むごとに、徐々に痛みが解らなくなっていく。
失った左目はどうしようもないが、痛覚の警鐘が止んだ故か、見える景色も、見慣れたものへ。
メアリーと俺の、『絵本』のお店。
これできっと、見納めだ。
「よう、ルル。多少粉吸ったかもしれねぇが安心しろ。ただの痛み止め兼アドレナリン剤だ。自分用に調合させたから、お前には効果も副作用も無い筈だ」
多分、と保険として付け加えると、ルルは呆れたように眉をひそめた。
「……行っちゃうんだ」
「おおっと、勘違いしてくれるなよ。俺の役目はメアリー・スーの影。古今東西のお伽噺において大概の場合不甲斐ない役目を背負わされる父親の演目なんてまっぴらごめんだね」
立ち上がる。もう、ふらつきはしなかった。
ガタが来るのは時間の問題だろうが、であればなおの事、急がねばなるまい。
「綺麗に運んだ素敵な話を、台無しになるまで引っ掻き回すのが俺達の『物語』だ。……そうだろ、メアリー」
顔を上げれば、サンゾモンのままのメアリーは、苦虫を噛み潰したかのように険しい顔。
どうせ口直しするんだろうから、このくらいは勘弁してほしいものだ。
俺は改めて、ルルの方へと向き直る。
急ぐとはいえ、言っておくべき事はあった。
「まあ、謝るは謝るさ。お前との約束も、台無しにしていく訳だから」
「何さ。別に、気にしないよそのくらい。台無しになる程の器も無いでしょ。ゲイリーくんってば、いつだってサイテーのクソ野郎なんだし」
「言ってくれるなクソ女。……詫びに、と言っちゃア何だが、奥の部屋から、好きな『絵本』を好きなだけ、在庫処分だ。くれてやるよ。……ああ、本棚に入ってる奴は至って普通の絵本だ。リンドウのだから、触るなよ」
「……ねえ、仮に、リンドウちゃんを取り戻したとしてさ」
「うん?」
「どうするつもり? ゲイリーが居なくなったら、あの子、『迷路』にひとりぼっちだよ?」
「……」
「あたし達と、一緒でさ」
そっちの方こそ、似合いもしないそんな顔するんじゃねぇよと、俺は鼻で笑う。
「だったらなおの事、お前も知ってるだろうがよ」
突き放す手と、冷たい瞳の恐ろしさを。
伸ばした手が、どこにも届かない惨めさを。
「別れる間際にゃ、せめて手を握ってやるものさ。……俺は、そうして欲しかった」
そうしてくれた人が居たのに。
俺から放して、置いて来た。
先延ばしにしていた因果が巡って来たのだと言うのなら。
今から始まるのは、そのやり直しで。
「あっそ」
対して、ルルの態度は打って変わって平常運転。情も胸元も軽くて薄い行商人は、既に俺から視線を逸らして、自分のデバイスを覗き込んでいた。
「もはやゲイリーっていうよりワナビーだよね。君の願望なんて知ったこっちゃないから、好きにすれば?」
「お前本当に酷い奴だな。そっちが引き留めてきたクセに」
「馴染のよしみで忠告してあげたんだけどね。でも、意味無いみたいだから、やーめた」
ゴキモーン! と。
彼女は、パートナーを召喚する。
デバイスから茶色い翅が飛び出すなり、メアリーのわざとらしい舌打ちが響き渡った。
「ま、それでリンドウちゃん奪還が間に合わなくなったら寝覚めが悪いから、近くまで送ってあげる」
「ここにきてゴミ扱いかよ」
「ずっとゴミだと思ってるよ。ほら、早く目的地。出して」
メアリーを倣って舌打ちしてから、俺はマンモンの方を見やる。
「行くぞ、マンモン。……さっさとしろ」
マンモンの身体が光に代わり、デバイスの画面へと呑み込まれて行く。
そのまま俺のアドレスを介して、千里眼で探ったリンドウの位置情報が、ルルの元へと送信された。
「ほら、メアリー。お前も機嫌直せって」
「……」
「いいもん、食わせてやるからよ」
しかめ面を正さないまま、しかしメアリーは首元の巻物を少し下ろして口元を露出させる。
ずるり、と赤い舌が唇を這った。
器用な顔面の使い方しやがって。……正直者だよ、お前は。本当に。
「じゃあね、ゲイリー」
準備が整ったらしい。
ゴキモンの背後で、ルルは俺に背を向けていた。
「おう、じゃあな、ルル」
デバイスから予備のサングラスを取り出して、装着する。
覗けない事も無いだろうが、多少は眼窩を隠せるだろう。これにてめでたく、『スー&ストゥーのお店』は営業再開。……今日は早めに閉める予定だったのに、どうしてこうなっちまったんだか。
ゴキモンが宙に前脚を伸ばす。
俺とメアリーの足元に、穴が開いた。
ゴキモンの必殺技。指定した座標にゴミを降らせる『ドリームダスト』だ。
「……ばいばい」
白兎を追いかけたアリスみたいに落ちていく最中だ。
きっと、聞き間違いだろう。
もう一度、ルルが俺に別れを告げた気がしたのは。