「浅学なお前にひとつ教えておいてやる」
顔面に向かって投げつけたUSBを、段差に腰かけていたネガは事も無さげに受け止める。
「スナッフフィルムの頭文字はAじゃなくてSだ。覚えとけ」
「んふふ。いくら博識なストゥーさんとはいえ、あんまりな言い方じゃない? あれはボクとバーガモンにとって、一番気持ちよくなれる写真を選りすぐったモノなのに」
ああ、でも。と。
ネガは艶やかな唇を弓なりに歪めて、僅かに頬を赤くする。
「その様子だと、最後まで見てくれたんだね。……それは、嬉しいな」
はにかむネガに向かって、俺は力いっぱい舌打ちした。
*
「ネガ? ……ああ、『レンタルビデオ』くんちゃんね。へえ、ゲイリーの事まで口説きに来たんだ。残念! 見る眼だけはあるなーって思ってたのに」
「ホントに女の趣味悪ぃのな、アイツ」
丸椅子に腰かけ、ヘラヘラと笑うその女の顔はひどく良い。
だが彼女の胸は相も変わらず、一枚板風のカウンターに合わせて分度器を置けば正確な角度を計測できそうな程度にはまっすぐな面に仕上がっていて、男にも見えるネガの方が、よほど凹凸を感じられたような印象は、本人を目の前にしても変わる事は無かった。
俺は渋々店にルルを呼び、
ルルは至極面倒臭そうにそれに応じた。
「まあ」
いつもの無駄話は早々に切り上げて、本題を急かすように俺はルルへと1冊の『絵本』を差し出す。
「絡みがあったってンなら話は早ぇ。売ってもらうぞ、ルル。あの変態野郎について、知ってる情報を全部寄越せ」
『絵本』の表紙に描かれた壮年男性の横顔を見止めるなり、ルルがヒュウと口笛を鳴らす。
「『青髭』じゃん! へぇー、けちんぼでいやしんぼのゲイリーが! ホントに良いの? この店の最高級品でしょ? これ。返せって言われても返さないよ?」
「見合う情報を売るならそれでいい」
「はぇー……。ゲイリーがこんなにも潔いだなんて。不覚にも行商人ルルちゃん、ちょっと怖くて震えちゃった。くわばらくわばら、明日はきっと雨が降るね、血以外の」
「それじゃあ弾丸か毒くらいしか無いだろうが。縁起でも無い事言ってねェで、さっさと出すもん出しやがれ」
「んもう、待ってよせっかちなんだから! 人より早くコンニチハしちゃうゲイリーくんの息子と、あたしのカワイイ売り物ちゃんを一緒にしないでよね」
と、茶化しはするものの、情報の対価として十分な品だとは認めているのだろう。ルルは僅かに目を細めて、貪欲な商人としての眼差しに鋭さを帯びさせた。
「ネガ。通称――いや、自称か。『レンタルビデオ』。国籍年齢性別全部わかんないけど、趣味だけは確か。あたしみたいな可愛い女の子をモデルに、18歳未満お断りのムービーを撮る事だね。で、それを人に売りさばいて、生計を立ててるみたい」
最も、そっちの方こそ趣味だろうが。
人の皮を剥ぐ前に身ぐるみでも剥いでりゃ、ものを売り買いするよりも遥かに楽かつ速やかに稼げるワケで。
加えて、奴のパートナー――
「なんかお察しって感じの顔してるけど、続けるね。彼、兼業でバーガーショップもやってるみたい。こっちは『レンタルビデオ』くんちゃんのパートナー、バーガモンの趣味みたいだけど」
「はっ、そりゃイイ。倫敦旅行の気分でも味わえそうだ。フリート街の理髪屋の隣にあるっていう、ミセス・ラヴェットのパイ屋さながらじゃアねえか」
「どこ。誰」
「……」
「っていうかイギリスって、フィッシュ&チップス以外に食べ物あるの?」
「それはあンだろ」
ふーん、ゲイリーくん物知りぃ。と、ルルはひどく適当に流して話を続ける。
下手な合いの手を入れた俺も悪いがな。そういうお前の胸並みに薄い反応は、一番人を傷つけるぞ。
「で、この辺が一番ゲイリーの欲しがりそうな情報かな。件のバーガモンの、進化ルートについて」
ルルは自分のデバイスを取り出していくつかの入力を済ませると、その画面を上に向けて、こちらへと差し出した。
途端、左から進化順に並んだデジモンの立体映像が、宙へと浮かび上がる。
バーガモンと、シェイドモン。
その隣に続くのは――白い蛇。
「サンティラモン?」
意外な姿に、思わず疑問符付きで名前を口にしてしまう。
シェイドモンはその特異かつ凶悪な能力もさることながら、食い溜めしたデータによって進化先の凶悪さが増す、という特徴を有している。
あの変態野郎が、生半な物を文字通り「喰わせている」とは思えないのだが。
……いや、シンプルな畜生の姿に引っぱられたが、よく考えれば元ネタは『十二神将』の珊底羅大将か。しかもかの神将は、本地が「明けの明星が化身」とかいう、デジタルモンスターの世界においては超ド級の厄ネタ持ちだった筈。
強力なデジモン、という印象こそ希薄だが、元ネタ云々を抜きにしても単純に、サンティラモンは陰険かつ残虐なデジモンだと聞いている。
がっつり滲み出てるじゃねえか。ネガの人となりが。
「データがあるって事は、交戦したのか?」
「一応ね。でも、ゴキモン出したら即逃げてっちゃった」
「……腐っても中身はバーガモンなんだな」
そこに関しては、なんだ。気持ちは解らんでは無い。
「それに、ゴキモンも深追いしなかったしね。だから、戦闘データは無いの。そこはちょっとゴメン」
「……」
ルルに害意を向けたにも関わらず、ゴキモンは--否、ゴキモン「も」追跡しなかった。となると――
「究極体には、まだ成れないんだな」
「多分ね」
メアリーがああも簡単に連中を見逃したのは、ネガの商品が琴線に触れただとか、そんな理由じゃあ無い。
アイツらは、果実だ。
熟れる寸前だが、まだ青い。
あの大飯喰らいの悪魔でさえ行儀よく待てが出来るような、蕩けるように甘くなる果実なのだ。
「ふうん」
ルルは細い指で『絵本』・『青髭』の、軽くウェーブのかかった長い髭のラインをなぞった。
画材にモルフォモンの鱗粉を用いた昏く煌びやかな青色が、彼女の指先を追うようにしてきらきらと光る。
「そっかぁ、メアリー・スーのためだもん、奮発しちゃうよね。なんかつまんないの」
「あのなァ……もらうモノもらっといて、こっちの事情にまでケチつけんなよ」
「だって、アレががっつり絡んでる時のゲイリー、面白くないんだもん。いや、ゲイリーは最初から自分にはユーモアのセンスがあると思ってるタイプのクソ薄っぺらい男だけどさ」
「お前の胸部の厚みには負けるが?」
「でも、今日はなんか違うかなーって思ったのに……はーあぁ、つまんなーい!」
ガキのように両腕をカウンターに投げ出して(なお実際に子供であるリンドウは、こんな真似して見せた事は無いのだが)、胸周りに分けてやりたい程度には頬を膨らませるルル。
こいつからの急な罵倒は今に始まった事では無いのだが、それにしたってこうも幼稚に振る舞われると、こちらもなんだか、居心地が悪い。
全く……。
「大枚叩いてお前から聞き出さなくても、その時が来てその気になりゃあ、メアリーは勝手にジャンクフードを喰いに行くだろうさ」
「うん?」
「言ったろ、あの『レンタルビデオ』とかいう若造は、女のシュミが最悪なんだ。ロリコン野郎が挽肉臭いカメラ片手に歩き回ってると思うと、おちおち娘に留守番もさせられねえ」
「……」
ああもう、いつになく察しが悪い。
俺はちらちらと、リンドウがモルフォモンと過ごしている筈の俺の私室の方へと目配せする。
最初は引き続き、何やってんだコイツと冷めた眼差しが俺を刺していた訳なのだが――しばらくしてようやく、ピンときたらしい。
呆けたように半開きだった口は、ついににんまりと、半円を描く。
「へえ。へえ! 何何? ゲイリーってば、割と真面目に父親やってるってワケ!? リンドウちゃんのためってコト? えー! ウケるんですけど!?」
どっちにしても酷い奴だなコイツ。胸の次くらいに情が薄い。
「でも、ふうん。それは確かにいただけないね。イエスなロリータにはノータッチがジェントル。『絵本屋』で得た知識にもそう書いてあったって、ゲイリー常々言ってたもんね」
「言ってねえ」
初めて聞いたわそんな知識。
「ふふふ、いいよいいよ、あたしもちょっと興が乗って来た。それに、リンドウちゃんは将来の顧客になる可能性もあるからね。出血大サービスって程じゃ無いけれど、もうひとつイイコト教えてあげよう」
ルルがデバイスを持ち直し、操作するなり、俺の手元の端末がぶるりと震える。
目の前の女から送信されたデータを開くと、『迷路』の地図と、赤いマーカーが表示された。
「マンモンの千里眼があればすぐだろうけど、ひとつくらい手間、省いてあげる。それ、『レンタルビデオ』くんちゃんの拠点だから」
恐らくまだ軽くあしらえるだろうが、ルルにとってネガは身に振る火の粉の類だ。やはり、多少は調査してあったらしい。
「一応礼は言っとくぜルル。ウドの大木は見上げるだけでこめかみが軋むからな」
「……」
俺の発言には振れず、しかし軽く肩を竦めながら、ルルは席から立ち上がった。
「以上、ルルちゃんの情報提供なのでした!」
とはいえ、と、ルルはカウンター上の『青髭』を、持ち上げるでなく、手を重ねる。
「あたし今機嫌良いし、この『絵本』、絵も綺麗だから。ちょっとしたモノならオマケしてあげてもいいかなーって思ってるんだけど」
「なんだ、お前の方こそ珍しい。鼠の巣穴に握り飯でも落とした気分になるな」
ま、貰える物なら貰っておくが。クソみたいな腐れ縁だが、お互い化かし合うような仲でも無いし。
「そうだな……。あー、じゃあ酒はあるか。安物でいい。あんまりいいヤツは口に合わなかったからな」
「あらまあゲイリーくんったら根っからの貧乏舌なんだから。ちょっと待っててね、あったと思うから。ゴキモ」
「おうパートナー経由しないでデバイスから直接出せ」
何さ、注文の多いゲイリーくんなんだから、とルルが唇を尖らせるが、茶バネは山猫のレストランでもNGだろう。仮にも飲食物なんだから、その辺はしっかりしてほしい。
と、ふいにルルが端末を操作する手を止めたかと思うと、デバイスの画面から、彼女の選んだ品物が実体化する。
「?」
それは瓶でも紙パックでもなかった。
袋だった。鮮やかなデザインの四角い袋。酒はおろか、とても液体が入っているようには見えない。
「何だコレ」
「飴ちゃん」
「俺は酒を注文した気がするんだが」
問いかける俺を尻目に、中身のサンプル品だろうか。ルルが新たに取り出したのは、赤い球状のロリポップだった。
「こっちの方が、今のゲイリーには必要かなと思ってさ」
「……」
俺はそれ以上何も言わず、飴の袋を受け取った。
余計なおせっかいではあるが――実際、これなら多少なりリンドウの気を引けるだろう。棒付きのキャンディーは、なんというか、見栄えもいい。
そんな俺の様子に目を細めて、ルルはキャンディーの先端をマイクのようにこちらに差し出す。
「ねえ、ところでゲイリー。最後に一つだけ聞いて良い?」
「あん?」
「『レンタルビデオ』くんちゃんはロリコン、ってさっき言ったじゃない」
「言ったな」
「ちょっかいかけられて追い返しただけのビデオ屋さんの性癖を、どうしてゲイリーくん、知ってるのかな?」
「……………………」
俺はやっぱり、それ以上何も言わなかった。
言えなかったし、目も逸らした。
「ははっ、ちょっと感心してたあたしが馬鹿だった。ゲイリーくんってば、やっぱりサイテー」
ルルは笑顔で、俺の唇にロリポップをねじ込んだ。
不意打ちのように穿たれたそれは、甘い展開を呼ぶ筈も無く前歯に叩き付けられる結果に終わり、そうして俺は鋭い痛みの中、キャンディーの破片で苺と自分の血の味を知った。
凶悪な死亡フラグの乱立に俺歓喜。夏P(ナッピー)です。
前回も言ったかもしれませんが、レンタルビデオ屋はなかなか良い趣味をしておる。ゲイリーさんがおかしいのはレンタルビデオ屋なのか自分自身なのかわからなくなる気持ちもわかる。敵デジモンのチョイスに難航したとのことですが、逆転のきっかけと末路からしてバンチョーリリモンだったかはともかくとして、今回やられるのが女性型になることは必然だったように思える……バーガモンの必殺技(ルビ:リョナ)も含め。そっち系までありかよ! 何でもありだな!
あと上ではああ言いましたが、割とエグい戦いの中でサンゾモンのバスト気にしてる余裕があるゲイリーも結構キてるぜ! 肉体ダメージ与えないだけで人間に苦痛移すの含めてな! くまがルフィから弾いた疲労と苦痛をゾロに味わわせたみたいな理不尽さである。
というわけで、そっから強烈な勢いで「あ、俺これから死にます」と言わんばかりの死亡フラグ乱立させ始めたゲイリーさんですが、今回の内にああなってしまうとは。ギャー! 俺のマンモンがやられてる! やめてくれカカシ……この術は俺に効く。
それでは次回もお待ちしております。
悪趣味な自称同業者こと『レンタルビデオ』のネガ。教育に悪いどころか直接被害が出そうなヤベー奴に対して、ゲイリーがどうでるかと思いきや、取引材料としての餌を用意して一線引いたうえで泳がすとは、いかにもアウトローらしいやり方でしたね。
餌として引き渡す女には究極体のバンチョーリリモンがついているため奴を討伐するため共同戦線を張ることに。弱者のために戦うという定義から弱者の味方であるほど強くなるというのはなかなか面白い設定です。メアリーの究極体を晒したくない以上、二体で絶好調の格上に挑む状況。それを「胡蝶夢経」と「クリシュナ」の特性を活かした即席コンボで攻め立てるのはテンション上がります。一瞬の油断を突くシメ方もベネ。女の末路については太ももを素材にするバーガモンの技のえげつなさとコンビの癖を考えると……やめておこう。
帰宅して一息ついたのもつかの間、リンドウちゃんに寄りつつあった心の隙を突かれて、一杯喰わされ絶体絶命。生死や如何に……。
結末とは言ったが、ゲイリーの物語はもうちょっとだけ続くんじゃ。
と、いう訳で。こちらでは随分とお久しぶりです。見返してみれば約1年と1ヶ月ぶりの投稿となりました。
この度は『Everyone wept for Mary』第5話をご覧いただき、誠にありがとうございます。とあるソシャゲ界隈(サ終済)から帰還し、デジモン垢で別ゲーの話ばかりしている快晴です。皆様、お変わりはないでしょうか。
今回のお話はいかがでしたでしょうか。
投稿にこれだけの空きが出ている点からもお察しかもしれませんが、5話はかなり執筆が難航しました……。お話の大筋自体は最初から決まっていたのですが、肝心のボ(コ)スデジモンがなかなか決まらなかったんですよね。
最初はミタマモンを予定していたのですが(『クリシュナ』と『胡蝶夢経』で範囲攻撃してデジコアをなますにする予定でした)、「2連続でクダモン系統のデジモン酷い目に遭わすのはちょっと……」とキャスティング担当快晴が言って聞かず、散々悩んだ末にバンチョーの「GAKU-RANの物理防御力は89.9%」の一文が目に留まり、「大分調子に乗った設定やないかい! Fuu~!」と、そこからも5体の中で色々悩んで、バンチョーリリモンをチョイスした次第であります。
バンチョーリリモン、いいですよね。攻撃範囲がオールレンジに対応していて、無難に手堅く強いデジモンだと、図鑑を見た時から思っていました。その時の印象がこんな結果を招くだなんて……。
あと地味に「薬物依存」を意味する某単語を使い辛くなったのがマジで手痛かったです。腹が立ったので親子丼を食べました。おいしかったです。
さて、戻って来て早々に何ですが、実を言うと『Everyone wept for Mary』は次回から最終章に突入します。恐らく残り3話。ひょっとすると、話の調子次第ではあと2話になるかもしれません。
ゲイリーは一体どうなってしまうのか。リンドウちゃんは無事なのか。
次回の『Everyone wept for Mary』第6話はまた過去パートから入る予定ですが、どうか続きをお待ちいただけると幸いです。
……もしかしたら先に『デジモンアクアリウム』の方に手を付けるかもしれませんが。
どうか今後とも、よろしくお願い申し上げます。
以下、感想返信です。お待たせしてすみません……。
夏P(ナッピー)様
折角投稿スペースを褒めてもらったのに本当に申し訳ない……お久しぶりです、感想をありがとうございます!
ゲイリーにも甘酸っぱい青春があったのです……いや、今となってはほろ苦い思い出でしょうが。
ユニモンの頃は、ゲイリーはまだパートナーの事を大事にしていました。よく背中に跨って、空を散歩したりしていたかもしれません。あとやはり戦闘は上を取った者が制しますからね……。
モルフォモンちゃんは本作の癒し枠ですよ。本当なんです信じて下さい。
今回のお話でも、ネガくんちゃんとバーガモンには好き放題ヤってもらいました。ちなみに強いて言うなら、彼にとってバーガモンは弟のように愛らしく、心強い同好の士のようなものですかね。
書いていて楽しかったです。
改めて、感想をありがとうございました!
パラレル様
お返事お待たせしてすみません。感想をありがとうございます!
なんだかんだ言って、男女関係についてはこういう王道モノが好きなのかもしれません。思い出はいつも綺麗なモノではありますが、結局ゲイリーはそれを取りこぼして、今になってその事実を突きつけられる悲しい生き物なのでした……。
一方ネガは全力で今を生きているキャラクターで、解り易くヤバい奴です。安っぽいキャラになっていないか心配ではありましたが、まあ作者が書いていて楽しいのでいいか、と世にお出しされた次第であります。
リンドウちゃんが可愛いのは本当ですしね。
改めて、感想をありがとうございました!
「ぎゃっ」
地面に転がった女が間の抜けた悲鳴を上げる。
花にたからなきゃ生きられない点も含めて、その姿は芋虫を彷彿とさせた。
そして彼女を守護していた紅い特攻服の妖精は、拾った『クリシュナ』で残っていた腕も切り落とされて、ゆっくりゆっくり、サンティラモンに呑み込まれている最中だ。
伊達にバンチョーを名乗っちゃいないな。大した気概だ。バンチョーリリモンは、まだ足をばたつかせている。……もっとも、ここまで来たら、いくら蹴りの必殺技を持つ究極体とはいえ、相手に当てられない以上意味は無い。
虚しい抵抗に、過ぎなかった。
「ひ、ひい……ひい……ぎッ」
そんな中、唯一未だ状況を把握できていないらしい(把握できる程の思考力が残っているのかはさておいて)酔っ払いがよろよろと身体を持ち上げようとしていたので、俺はすかさず歩み寄って、彼女の頭を踏みつける。
普段なら自前の足じゃなくマンモンに踏ませるところだが、生憎、アイツはリンドウと一緒に留守番だ。
こんな時にしか役に立たないクセに、こんな時に限って居やしねぇ。
俺自身が命じた事とはいえ、無性に腹立たしくなって、俺は女の頭に踵をぐりぐりと押し付けた。
「ちょっとちょっと、ストゥーさん。今のストゥーさんはワイルドで素敵だとは思うけれど、その子、顔は良いんだから。ボクにくれるんでしょう? あんまりやると、撮影に支障が出ちゃうから、ほどほどにね?」
「オウ悪かったな。いいぜ、あらかた気は済んだ。……後はテメェらの好きにしな」
「あ、ストゥーさん。ちょっとだけ動かないで」
「あ?」
カシャ、と無機質なシャッター音。
ネガはデバイスのカメラをこちらに向け、この上なく上機嫌そうに目を細めていた。
「んふふ、記念写真」
「……」
こンの盗撮野郎……。
とはいえ、この女のバンチョーリリモンに止めを刺したのはコイツのサンティラモンだ。人の仕留めた獲物で遊んでいたのは俺の方なので、ここは何も言わずに引き下がる。
ただ
「写真ぐらい好きにすりゃアいいが、約束は守れよ、『レンタルビデオ』」
「娘さんの事?」
頷く俺に、わかってるよと柔和に微笑むネガ。
……どうだか。と、疑う心は無いでも無かったが、追及したところで解決する話でも無い。
「メアリー」
ネガから目を逸らし、振り返る。
……メアリーは本日の戦果、バンチョーリリモンの腕を、片方は小脇に抱え、もう片方をしゃぶっていた。
サンゾモンの姿のままで。
生臭坊主も、ここまで極まるといっそ清々しい。
「食事中に何だが、もう一仕事だけしてくれ」
愛らしく小首をかしげたところで肉食を誤魔化せてはいないのだが、何と言ってもメアリー・スーだ。彼女は可憐で在ればいかなる罪をも許される。
何だかんだと、長い付き合いだ。言うまでも無く仕事の内容を察したらしい。
バチあたりにも口に肉の欠片を含んだまま、サンゾモンの声なき経が、芋虫女に施された。
途端。阿鼻叫喚を口ひとつだけで再現したかのような、ひび割れた絶叫が『迷路』の壁にこだまする。
「い、いやっ! いいいいい痛いっ!! 熱い!! やめっ、や、ややめてっ! 来ないでっ、いやあっ!?」
「あ、かわいい」
好意的な感情を全て「かわいい」で表現する若者の語彙力不足に警鐘を鳴らす文献に目を通した事があるが、ひょっとすると、今がその実例なのかもしれない。
顔をくしゃくしゃにしてのたうち回る元客は、先程にも増してますます芋虫じみていて、少なくとも、愛らしさとは無縁というのが俺の印象なのだが。
ぴろん、とやや甲高い機械音を拾った気がする。
気のせいでなければ、デバイスの動画撮影モードを起動した音だ。
人様の趣味に口出しするつもりは無いが、別に俺の趣味でも無い。この先、ネガから映像作品を借りる機会は、絶対に訪れないだろう。
「『胡蝶夢経』の簡易版だ。サービスで付けといてやる。肉体にダメージは無い筈だから、そっちの方はどうとでもしな」
「んふふ。ストゥーさんは何でも知ってるんだね。……酸いも、甘いも。『迷路』での苦しい事、たーっくさん」
「解ってくれたみたいで、助かったよ」
ダメ押しの保険だ。
『胡蝶夢経』は、サンゾモンが受けた苦行の再現。
抜けてきた修羅場の数が違うと――せめて、伝われば。それでいい。
「その子の事は嫌いだけど、性能が確かなのは認めるよ。……だから、こっちもお詫びと――餞別に」
バーガモン、と。
優しい猫なで声が、食事を終えたらしいパートナーの名を呼んだ。
悪寒が背筋を駆けて行く。
余計な事をせずに、さっさと引き上げておけばよかった……等々、後悔しても、もう遅い。
あの禍々しい大蛇が嘘のような二頭身にまで縮んだバーガモンが、モルフォモン同様のとてとてとわざとらしく愛らしい足音を立ててネガのもとへと駆けてくる。
「よろしくね」
ネガの合図を受けるなり、こくり、と健気に頷いて、バーガモンはバンズ風の帽子の中から、白交じりのピンク色をしたクッション大の塊を取り出した。
バーガモンは愛想よくニコニコ笑いながら、その塊を、投げ出された芋虫女のふくらはぎへと、包み込むように押し付ける。
ひと際大きな悲鳴と、骨が無茶苦茶に砕ける音。
ぶちぶち小気味良く鳴っているのは、恐らく筋繊維が千切れる音だ。
成長期デジモンの必殺技の中でも、1、2を争う程エグい技だとは聞いていたが――誇張でも何でも無かったらしい。
『デリシャスパティ』
美味しいパティに、対象を練り込む必殺技だ。
物理法則を無視して、じっくりと時間をかけて。女の膝から下がパティの中へと混ざり込んでいく。
泡を吹きながら泣いている女と真顔の俺以外はみんな笑顔で、俺は自分が『迷路』基準じゃ比較的まともな感性の持ち主なのか、それともむしろ頭がおかしいのか、判断できないままぼんやりと虚空を見上げていた。
「さて、こんなものかな。バーガモン、お疲れ様」
プライスレスのスマイルで取り出した時より大きくなったパティを運んで来たバーガモンを、こちらも穏やかに微笑んだネガが迎えて、撫でる。
また、ぴろんと音が鳴った。今の今まで、カメラは回っていたらしい。
「本当は一度拠点に帰って器具を使いたいところだけれど、ストゥーさん、娘さんが待ってるだろうから。デバイスで簡易調理するね」
言うなり、今度はレンジの調理完了を知らせるような、短い鐘の音が鳴った。
気が付けば、バーガモンの手の上には木製のトレイが乗っていて、瞬きを挟んで次の瞬間、タワー状に連なった包装済みのハンバーガーが、行儀よく一列に、トレイの上に落ちてくる。
「んふふ。どうぞ、召し上がれ」
バーガモンは、接客業の鑑のような笑みを湛えて、こちらにトレイを差し出した。
俺にはもう、何も言う気力も残っていなかったが、メアリーは普段の姿でそうするように、スカートの代わりに法衣の裾を軽く持ち上げて一礼すると、一先ず一番上の包みを受け取った。
柄にも無く上品に包装を剥いた先から現れたのは、きつね色のバンズに挟まれたしゃきしゃきのレタスに、色鮮やかな赤いトマト。そして焼きたてのパティに、蕩けたチーズ。
どこからどう見ても、文句なしのハンバーガーだ。
悍ましい事に、良い匂いがする。
ぱくりと、一口。
経典の首巻を下ろして齧り付けば、きらきら輝く肉汁が、深い谷間に滴り落ちる。
味は本当に良いらしい。珍しく少し驚いた顔をして、メアリーは夢中で続きを頬張りだした。
あれだな。
美女が小さい口でジャンクフードを齧ってる様は、なんというか、絵になるな。
だがそれだけだ。
俺の感想は、それだけだ。
「今後とも、バーガーショップ兼業の『レンタルビデオ』をご贔屓に」
「二度と顔を見せるな変態野郎」
結局俺の台詞は振出しに戻り
ネガは「また遊ぼうね、ストゥーさん」と、何一つとしてこっちの話を聞いちゃいなかった。
*
「……疲れた」
ひとりごちる。
正確には隣に、ちゃんと胸周りも程よいサイズの皮を被り直したメアリーがいるが、メアリー・スーに端役の意図を汲む機能など最初から期待していない。
彼女は姿を仮の物に戻しても、引き続き腕一杯に抱えたハンバーガーの包装を次から次へと剥がしては、次から次へと、頬張っている。
コイツ、あろうことか食べ差しだったバンチョーリリモンの腕も、バーガモンに調理を頼みやがった。
種族として、腹の減ったデジモンにハンバーガーを振る舞う事を至上の歓びとしているのだとかで。バーガモンはメアリーの頼みを快く承諾し、ネガも「これはあくまで趣味だから」と何も請求してこなかった。
してこなかったが、アイツらに借りを作るのは死んでも御免なので、俺は適当に代金を支払った。
何一つとして、割に合わない1日だった気がする。
「頼むから、帰るまでに食い切るか、店で食べるにしてもリンドウの居ない所で食ってくれよ」
誰にも渡すものか、とでも言いたげに、メアリーがバーガーの山を抱え直す。
是非そうしてくれ。
……ただ、少し意外ではある。
「お前、味とか気にするんだな。量だけかと思ってた」
そこに関しては本人も考えてもみなかったのか、メアリーは軽く肩を竦めていて。
まあ、思えばメアリーに人の食事を食わせた事はほぼほぼ無かったし――そういやぁ俺自身、『迷路』の適当な自販機で手に入る、出来合いばかりの生活だ。
まともな食事をしたのは、アカネと別れたあの日が最後か。
「……ダメだな」
何がだ、と、両頬を膨らませたメアリーが視線で問いかけてくる。
「リンドウの事だよ。俺は兎も角、アイツにはもっとまともな飯食わせねェと」
あの娘が食べ物について文句を言った事は無かった。
出された飯は黙って食べるし、モルフォモンが意地汚く欲しがれば分け与えていた。
アカネは――そうじゃなかった。嫌いな野菜をこっそり押し付けてきたのは1度や2度じゃなかったし、好きな菓子を分け合った余りが出た時は、上目遣いでこちらを見つめていた、なんて事もあったっけ。
アカネが死ぬ前は。
リンドウにも、それが許されていたんじゃないだろうか。
とは言ったものの、『迷路』じゃ既製品より食材の方が入手難易度が高い。ルルに頼めば仕入れちゃくれるだろうが、こればっかりは絶対にあのゴキブリ使いを頼りたくはない。
「まあ、良い子で留守番してたなら、ご褒美くらいはあってもいいだろ」
必要以上に親のフリをするつもりは無いが、言いつけを守った子供に見返りを用意しないのは、それはただの、薄情の類だ。
……母さんとそういう意味で同じになるのは、嫌なので。
と、メアリーが夕日と暁の瞳でジト目を拵えて、訝し気な眼差しをこちらに向ける。
柄にも無いと言いたいのか、俺に料理が出来ると思っていないのか。
「うるせェ。……知識だけなら『絵本屋』で見たから、多分、大丈夫だ」
必要な材料と手順はわかる。料理とかいうのは、素人考えのアレンジさえしなければ、一応はどうにか形になると、そういうモノだった筈だ。
……ただ、本の中身を試した事が無いのは事実だ。
何せあの頃の俺「達」は、視覚情報で空腹を紛らわせるのが精いっぱいで--
――いいや、それこそ止めておこう。
思い出の中からとはいえ鼠なんぞを持ち込んでい居ては、ルルの事をとやかく言えたものでは無い。
白馬を駆ったキミカゲが『あの日』死んだように、桃色の鼠と一緒に身体を丸めて惨めに暮らしていたグロスターも、もう居ない。
「お前の方こそ、味が良いだけの飯に絆されてくれるなよ。ようやく1つ見つけたが、アレも含めてまだ5つも喰わなきゃならねエんだぞ?」
忘れるものかと、メアリー・スーが唇で三日月を描く。
いつか彼女の物語が、都合良くこの世の理を歪めるように。
忘れちゃいないなら、それでいい。
それならこの俺、ゲイリー・ストゥーも、とびきりクソみたいな物語を、来るべきその日までに仕上げて見せるさ。
……なんて、まあ当分は訪れない壮大な与太話に思いを馳せている内に、俺達の根城、『スー&ストゥーのお店』の前に辿り着く。
壁に大穴は空いちゃいないし、ドアノブにかかったCLAUSEの札はそのまま。見慣れた我らの、『絵本』の店。
メアリーがハンバーガーを咥えたまま、顎をくい、と動かした。
「今開けるからちょっと待ってろ」
デバイスを取り出し、外出から帰った際はいつもそうするように、セキュリティを解除しようと――
「……」
――鍵は、かかっていなかった。
閉め忘れ? そんな筈はない。
万が一そうだったとしても、中にはリンドウとマンモンが居る。内側からなら、『迷路』の外と同じ要領で鍵を閉められるよう設定してあるし、いくらマンモンが役立たずとはいえ、こんな見落としをする程間抜けでは無い。
「メアリー、構えろ」
解析したが、扉自体に罠は無い。面倒臭そうにメアリーが投げてよこしたハンバーガーどもはデバイスに回収して、俺はドアノブに手をかけた。
扉を引く。
こちらに背を向けたリンドウが、天井から逆さ吊りになっていた。
「っ」
踏み出しそうになるのを堪えて辺りを見回す。
カウンターの側に、マンモンが転がっている。サングラス越しにも眩しい光の矢が、その巨体を床に縫い付けていた。
天使型の攻撃か? ……だが形がある以上は生きている。後回しだ!
「メアリー!」
念のため退化はしていなかったメアリーが、再び美女の皮を脱いで美女の姿――サンゾモンの姿を現して、武器を構えて上から高速で飛び降りて来た影をいなし、素早く背後に回って馬乗りになったかと思うと、長い数珠で相手の首を締め上げる。
影の正体は白い一対の翼が生えた男の姿をしたデジモン――ピッドモンだ。
不意打ちをスカすような成熟期に、マンモンが後れを取る筈が無い。完全体以上で戦った末に退化したのか、まだ余力を残しているのか。
何にせよここなら手札を惜しむ必要は無い。
「任せていいな!?」
返事は聞かずに、リンドウの方へと向き直る。
その時――あの娘の手が
飯の文句もそれ以外も、これっぽっちも口にしないクセに。
ネガに会わせたくないばっかりに、店での留守を言い渡した時だけは――何も言わずに、俺の服の袖を引いた、あの小さな手が
何かを探すように、空でもがいていた。
「リンドウ!」
痙攣の類じゃない。まだ生きている人間の動きだ。
だったら早く、早く下ろさないと。ぶら下げられてた時間によっちゃ、何らかの機能不全を起こして死にかねない。
まだ、そんな惨めな死に方で
アカネの所に行かなくてもいいだろうが。
「リン--」
だがまあ、『迷路』はそういう場所だ。
気を抜いた奴から順番に、どうしようもなく、死んでしまう。
「?」
視界の左側が、突然弾けた。
残った右側の世界も、ぐるりと半回転。
それから、びっくりする程長い一瞬が流れて、背中に強い衝撃が走る。
仰向けに、倒れたらしかった。
「あ……っ」
明滅する視界の中を、小馬鹿にしたような鳴き声と共に、不格好なカラスが一羽、飛び去って行く。
次の瞬間全てを理解して、サングラスを突き抜けて抉られた左目の奥が、蝕むような痛みで俺を責め苛んだ。
「うぐううぅっ」
矢を、射られたのだ。
なんて事は無い、手が動いたのは予備動作。服の間にでも隠しておいた、弓矢を取り出すための下準備だ。
案山子でなくても別に良い。本体は、あくまで超能力を操るカラスなのだ。
例えば、特定の女児に姿を似せた人形でも。問題無く、動かす事が、出来るらしい。
なんとまあ、不用意で、自業自得で、……因果応報な結末だろう。
持てる手札で小手先の小細工を繰り返してきた小悪党が迎えるには、相応し過ぎる、報いと末路だ。
激痛と伝う血涙の生暖かさに包まれながら。薄れゆく意識の中見上げた『リンドウだと思ったもの』は、カラス--ノヘモンの操り人形で。
呆れるくらい雑なへのへのもへじは、しかし嘲笑うかのように、への字を逆さに、曲げていた。
「あれあれ? ストゥーさん、唇ちょっとケガ、してる? んふふ、殿方の顔のケガって少しそそっちゃうな。でも、万が一バイキンが入って腫れたりしたら、それは不格好だもの。ボクで良ければ、診てあげましょうか?」
「菌がどうのこうの言うなら、それ以上生臭い手を近付けるんじゃねえ」
残念、と、特にそうは感じさせない表情で、ネガは艶やかな自分の唇に指先を当てた。
「それはそれとして、んふふ。ストゥーさん、ストゥーさん。……また会えて、嬉しいな」
「俺は会いたかなかったンだがよう。貸しビデオ屋の延滞料金はシャレにならないモンだからな。見返りを理由に悪い妖精に付き纏われるのは、お伽噺の中の怠け者だけで十分だ。そのUSBは返すから、二度と俺の店に足を踏み入れるな」
「うぅん、これは無料のサンプル品なんだけどなぁ。でも、ストゥーさんがお気に召さなかったなら仕方が無いよね」
次はもっとストゥーさん好みの子で、撮ってあげる。
ネガが全てを言い終わらない内に、彼の白い首筋に、ぴたりとナイフがあてがわれる。
と同時に俺の足首にも、ネガの足元から不自然に伸びた暗い影が纏わりついていて。
片や頭上から、片や地に這いながら。
ピーターモンのメアリーとネガのシェイドモンが、俺達越しに、睨み合っていた。
「娘に欲情する程人間終わっちゃいねェよ」
「んふ、んふふふふ。嬉しいな、嬉しいなぁ。やっぱりストゥーさん、ボクのコレクション、全部見てくれたんだね。好きな人にはね、ストゥーさん。たとえ気に入られなくても自分の作品を見てもらえたら、とってもとっても、嬉しいんだよ?」
「盗撮野郎が一丁前に芸術家気取りか? 俺もズブの素人じゃアあるが、芸術の心得については一つ面白い話を知ってるぜ。曰く、芸術は爆発だ、との事だ。お前の頭が弾け飛ぶ様は、さぞかし迷路の壁にも映えるだろうな」
「んふふ、それは一理あるかも。今度かわいい子で試してみようっと。でも――それをボクでやるのは、無理なんでしょう? ストゥーさん」
ネガはそう言って、事も無げに首元のナイフを押しのけた。
俺の店からの帰る時のように、瞳には俺宛てでは無い、細やかな侮蔑が灯っていて。
「絵の描き手に、やる気が無いんだもの。……つまらないんだよね」
対照的に、メアリーは口元が隠れているにも関わらず、いつものように品無くにんまりと笑っているのが見て取れた。
ああ、もう。だろうとは思ったけど、おめーのせいで台無しだよ。
「だから、ね」
と、ネガは打って変わって優し気に微笑むと、しゃがみ込んで俺の足元を見下ろした。
「大丈夫だよ、シェイドモン。ストゥーさんに悪戯しちゃ、ダーメ」
しばらく赤い目玉で俺とメアリーを交互に睨んでいたシェイドモンは、しかし飼い主の有無を言わさぬ微笑みに折れたのだろう。
丸っこいフォルムのバーガモンへと瞬く間に退化して、ただしネガの影からは離れないようにしているかのように、ひし、と彼の足にしがみついた。
「んふふ、いい子、いい子」
バンズに似た帽子越しにバーガモンの頭を撫でながら、立ち上がりはせず、ネガは俺の事を見上げる。
「それで? ストゥーさん。作品の返却だけには見えないし、ボクと遊びに来たでもない。結局、今日は何の御用なの?」
俺の代わりに、ネガの背後のメアリーが、雑に折り畳んだ1枚の紙をバーガモンの頭の上にすっと投げた。
ひらひらと落ちたそれをネガは怪訝そうに摘み上げ、バーガモンにも覗き込める位置で開く。
「似顔絵?」
それは、女の横顔だ。
俺が昨晩急ピッチで仕上げたものだ。メアリーに本人を撮りにいかせても良かったが、ネガと同じ真似をするのは癪だったし、単純に両者にデバイスを触らせたくは無かった。
だが、自分で言うのも何だが、よく描けていると思う。
よく描けていると思うし――
「誰かは知らないけれど、かわいい子だね」
――案の定、ネガのお眼鏡に叶う女だった。
*
「へえ、品物に対価を支払わないだなんて、酷い人もいるものだね」
目的地に向けて歩きながら、ネガはどことなくあざとく、首を傾げる。
お前以上の(色んな意味で)酷い輩はそうそう居ないだろうがな、と、俺はわざわざ言わなかった。
似顔絵の女は、メアリーと俺の店の客だ。客だった。
安い『絵本』に手を出して溺れ、まともな思考力を失くし、こと『迷路』においても最低限の人間性を保つための作法である「金銭のやり取り」すらこなせなくなった、掃いて捨てる程居るような阿呆だ。
ただひとつ、その他の愚か者と彼女が違ったのは、連れているデジモンが単純に強かった点である。
「でもお友達も同じくらいチャーミングで素敵だな。本当に、人・デジモン揃ってタイプだよ。んふふ、流石ストゥーさん。人の好みを抑えるのも、『迷路』で生きていくための大事な術なんだね」
「お前が畜生にも欲情する節操無しだって知ったのは今しがただよ」
「見た目「だけ」の女に興味は無い」となれば、女性型のデジモンも当てはまりそうなもんなんだが。
女性型――ネガに紹介した女の従僕は、バンチョーリリモンだ。
バンチョー、と名の付くデジモンは、聖騎士型に負けず劣らずの希少種であり、実力もそれらに引けを取らないとされている。
特殊な精神構造、『GAKU-RAN』なんぞというふざけた名前に反して、物理攻撃を約9割カットする装甲、純粋に高い戦闘力。
前述の共通事項に加え、バンチョーリリモンは攻撃力こそ他のバンチョーに劣るが、近~中距離戦闘のエキスパートであり、非常に面倒臭い特質持ちなのである。
女はデジモンの強みを盾に、あろうことかこの絵本屋から、『絵本』代を踏み倒して逃走したのだ。
「ん~、だけど少しだけ不思議。バンチョー系デジモンって、とっとても気難しいんでしょう? そんな、優しいストゥーさんに当然の対価も支払わないような、ズルい人に従うものなのかな」
「ハッ、そもそも『番長』にゃア「非行少年の頭」以上の意味なんてねぇよ。若気の至りを飾り立てた酔っ払いのホラ話が、たまたま世間にウケただけの話さ。始めっからそんな夢物語をキメてんだ。連中、クスリの取り扱いくらい喜んで、平気な面で美談か武勇伝に仕立て上げるだろうさよ。それに」
「それに?」
「『絵本』に頼らなきゃいけない程度のクソ雑魚ナメクジだからこそ、余計にバンチョーリリモンが強いんだよ」
バンチョーリリモンの特質。
それは、かのデジモンが常に『弱者の味方』である点にある。
『弱者の味方』。言葉だけを捉えれば聞こえはいいが、デジモンは所謂データで構築された生命体。バンチョーリリモンは、弱い者を守護している時に、最も効率よく思考・行動できるようプログラミングされている、と言えば解りやすいだろう。
人間はデジモンと比べればひどく弱い生き物だ。
例外は無いでは無いだろうが、大概の場合。多少鍛えた人間程度では、世代で言えば成長期のデジモンにも基本的には劣る存在。
この前のスレイプモンの場合、その『弱い生き物』を頭脳にしていたばかりにそこから崩されてしまった訳だが。
バンチョーリリモンの場合は『弱い生き物』が傍に居ればむしろ、自分の頭脳さえ強化する事が出来るのだ。
……誠に遺憾ながら、その厄介さは女を取り逃した際、嫌と言う程身に染みている。
無論、メアリー・スーは全ての因果を捻じ曲げて、彼女にとっての悪を断罪する権利を持つ女。やろうと思えばどうにでもやりようはあったが、先にも述べた通りバンチョーリリモンの連れが手を出していたのは安物の『絵本』。
無慈悲な取り立て屋の真似事は、単純に割に合わなかったのだ。
だから、見逃した。その時は。
どうせこの先『絵本』に頼らずには生きられないだろうから、今度顔を出してきた時にでも、と。
ただ、まあ。そのおかげで。
件のジャンキー女はどうやら、思わぬ形で俺の--あるいは、リンドウの--役に立ってくれるらしい。
「だから、この客はお前にやる。勿論、半ば押し付ける訳だから、撮影の手伝いはしてやるよ」
「その代わり、リンドウちゃんが素敵なレディに育つまでは、ちょっかいをかけてはいけません」
んふふ、と。
気色の悪いが、同時に妙に色っぽい笑い声を漏らしながら、ネガがこちらへと振り返った。
「我が儘なストゥーさん。ボクらに厄介事の始末をさせて、その上「お預け」だなんて。……んふふ。んふふふふ。でもでも、やっぱり女の子は食べごたえだからね。もっと可愛くなるまで待つっていうのは、確かに、それも一興だもの」
それに、と、ネガは更に艶やかに微笑んで、続ける。
「尊敬するストゥーさんと、初めての共同作業……。間接的にとはいえキスは済ませたし、ボク達、本当に固ぁい絆で結ばれてると見て、いいんじゃないかな?」
「絆の語源は畜生を繋ぐ縄にあるらしいな。そういう意味じゃア、お前はどっかに一生繋がれてるべきだとは思うぜ」
「わあ、特殊プレイ。ボク、そういうのも嫌いじゃないよ」
「……」
なあメアリー、今からでも遅くないから、コイツやっぱり殺しておかないか。
ダメですかそうですか。他人事だと思ってニヤニヤしやがって。
で、バーガモン。そんな顔しなくてもこんな(暫定)男、こっちから願い下げだ。
恐らくお前が俺に向けている感情は、俺がネガに向けている感情とほぼ等しい。デジモンごときと同じ事を考えていると思うと癪に障るから、こっちを見るな。
……ただ、仮に。もしも俺達が手を貸した上で、その上でネガが件の女と相打ちするようであれば、。メアリーも、その程度の存在だったと諦めるだろう。
この果実が熟すのは諦める事になるが、待てばその内、必ずどこかで、同じものが実る。
俺としては、そうなってくれれば一番良いとさえ考えているのだが――
「そろそろ静かにしておきな。似顔絵の女はこの先だ」
――どう転ぼうが、その時はその時だ。
『レンタルビデオ』。自称、俺の同業者。
仮にも『迷路』で歌い継がれる、迷える者の救い手たる『絵本屋』と立ち並ぶを豪語すると言うのなら。
そのお手並み、拝見させてもらおうじゃないか。
「んふふ、わかってるよストゥーさん。『レンタルビデオ』の仕事の流儀、恥ずかしいけど、いっぱい見せてあげるね」
『迷路』の角を曲がった先。
壁際に、黒い花の妖精をもうひとつの壁代わりにしてしゃがみ込んでいた女が、過敏になった神経で気配でも感じ取ったのか。
ふと上げた視界に俺を見止めて、ぶるりと震えたのが確認できた。
*
「え、絵本屋……!」
ヤク中特有のたどたどしい上ずった声。俺は至って真面目な接客用スマイルを、サングラスと立ちはだかるバンチョーリリモン越しに、女へと投げかけた。
「よう、久しいなアお客さん。あんまり長いこと店に顔出さないモンだから、亀でも助けて竜宮城に高跳びしたのかと思ったぜ」
息災のようで何より、と。
純真無垢で素朴な青年のように、俺はただただ、微笑んだ。
女の手は、小刻みにぶるぶると震えている。
「とはいえそろそろ、鯛や比目魚の舞踊りはお開きって所だろう。遊びに飽いた訳じゃねえなら、海亀を慈しむような良心で、このゲイリー・ストゥーに施すといい。そうすりゃ俺とお前さんは引き続き、相も変わらずお友達だ。御馳走を振る舞う乙姫様のように、絵にも描けない美しさの『絵本』を、可愛そうなお前さんに提供してやるぜ」
まあ、ああは言ったが。
もしも、万が一。こいつが前回踏み倒した『絵本』の代金と逃げる前に壊した店の修理費、ついでに新規の『絵本』に対価を払うというのなら、ネガとの契約はご破算だ。俺にだって、客を売らない矜持くらいはある。
「『絵本』、『絵本』……『絵本』、欲しい。え、ええ、絵本屋……さん、今、『絵本』、持って、るの?」
「勿論。今日のこの俺、ゲイリー・ストゥーは出張版だ」
「だから、『薬剤師』ともい、いっしょ、なの?」
「んふふ、ボクの事?」
アレと一緒にしないでほしいのだけれど、と、そこだけは不機嫌を交えてネガがひとりごちる。どうせ俺の背後のメアリーは、対照的ににまにま笑っている事だろう。
だが、女にそれを気に留める様子は無く――そして既に、バンチョーリリモンは構えていた。
「欲しい。『絵本』、欲しい、欲しいよう……!」
女の息が荒ぐ。額からは玉のような汗が噴き出し、それらに混ざるようにして、目尻からは涙が零れ落ち始めた。
犬の涎のようなモノだ。目の前におやつをぶら下げられて、いよいよ理性の糸が、切れたのだろう。
「たすけて、バンチョーリリモン」
弱き者の味方は、意思薄弱な主の懇願を聞き入れた。
真紅の特攻服が翻り、鞭のように腕が振り下ろされたかと思うと、棘付きのヨーヨーが、瞬きの間にこちらへと伸びる。バンチョーリリモンの必殺技『アブソリュートテリトリー』だ。
絶対領域を意味するその名の通り、あのヨーヨーが届く範囲はバンチョーリリモンの独壇場だ。当たれば例外なく、俺の胴はおろか、メアリーの身体も真っ二つだろう。
だが、予備動作自体は武器持ちのデジモンの例に漏れず、解り易い。
故にこの展開を見越して、連中よりも僅かに早く、『レンタルビデオ』の同好の士は動いていた。
黒い身体と赤い瞳は、パッと見は拗らせた学生のファッションセンスを彷彿とさせたが、高速で服の表面を駆け上がる模様など存在する筈も無く。
影という特性故に優れた隠密の力は、究極体のテクスチャの上だろうと例外では無いらしい。
流石に直に皮膚の上ともなれば隠し通すには無理があったようだが、それでもやはり、気付くのは少しだけ、遅かったようだ。
黒い影を脱皮の要領で脱ぎ捨てて、神の御使いを彷彿とさせる巨大な白蛇が、バンチョーリリモンの細腕に絡みついた状態で顕現する。
進化前と進化後の体格差を活かした奇襲は見事に嵌まり、白蛇――サンティラモンの重みにバランスを崩したバンチョーリリモンは、『アブソリュートテリトリー』の軌道をあらぬ方向へと逸らしてしまう。
刃と化したヨーヨーは文字通り空だけを裂き、一瞬『外』の景色を俺達に覗かせた後、回転の勢いをそのままにバンチョーリリモンの手元へと戻って行った。
全く、デジモンには空間に干渉する手合いが居るからこそ、『迷路』とその外を繋ぐ門は、比較的頻繁に開くのだろう。
と、まあ。不意打ちはキメたがその次を許すほど、バンチョーリリモンは甘くは無い。
ゼロ距離で口内から宝鉾『クリシュナ』を発射しようとしていたサンティラモンを、かなり無理な体勢であるにも関わらず、バンチョーリリモンは鋭い一閃で蹴り上げて、引き剥がす。
『トゥインペタル』。近距離に対応したバンチョーリリモン必殺の蹴りだ。
とはいえほとんど倒れかけの姿勢に加え、蛇の身体はよくしなる。あらかじめ蹴りの衝撃が飛ぶ方向へ、いつでも甲羅の付いた重い頭を逸らせるようにしていたらしい。
ノーダメージ、とはいかないだろうが、戦闘続行には一切問題の無いレベルで『トゥインペタル』の威力を殺し、サンティラモンは地面に着地するなりずるりと涎まみれの『クリシュナ』を吐き出す。
尾で絡め取って持ち上げた宝鉾を構えながら、白い大蛇は挑発するようにちろちろと赤い舌を出し入れしていた。
「……」
こちらへの初撃は逸らし、不発に終わりはしたものの不意打ちの精度は高く、追撃は回避した。
不本意ながら、及第点だろう。
「メアリー。手伝ってやれ」
戯曲の主役が舞台へと躍り出る。
だが、本日の演目は永遠の少年の冒険活劇では無い。いや、冒険譚は冒険譚かもしれないが、その舞台はネバーランドからはがらりと変わる。
ピーターモンだったメアリーは帽子を脱ぎ捨て、髪を解く。
ふわりと広がった金糸が腰元に落ちる頃には、鮮やかな緑衣は死装束とも見紛う白い着物に変わり、だが死にゆくものにしてはやけに豪奢な黄金の袈裟がその上から被さる。
赤い経典の巻物が、若草色のスカーフに代わって風も無いのにはらはらと舞った。
サンゾモン。
メアリーの、完全体の姿だ。
……マフラー代わりの経典以外にもすっごい揺れている部位がある点については、ここでは割愛しておく。
某行商人のような完全な『無』はどうかと思うが、それはそれとして、デカければいいというものでも無いのだ。
こんなンに僧侶型が務まってたまるか。
「……アレがサンゾモンになるんだ?」
「意外に思うかもしれねェが、『西遊記』の三蔵は、原典だと案外俗っぽいんだ」
そこに関しては俺もネガと同意見ではあったが、そんな事はおくびにも出さず、俺は出来る男かつメアリー・スーの物語の端役故、すかさず奴のフォローに回る。
どうにしたってこんなビーチボールみたいな代物ではなかっただろうが、映像作品において生白く線の細い三蔵法師を女性の役者が演じる事自体は、もはや手垢のついた手法だろう。
「それに、メアリー・スーは誰よりも清らかで、人々に愛される女だぜ。これ以上の当たり役も、そうそうありゃしないだろうさ」
じゃら。と。
サンゾモンの左手に巻き付いた無駄に長い朱い数珠が、音を立てて広がる。
空いた右手は中身からすれば柄にも無く、しかし僧侶型としてはこの上ないくらい「らしく」、指を揃えて立てられていた。
坊主が祈る相手の似姿は、ちょっと前にマッシュモンの姿で片付けたって言うのにな。
次の瞬間、音を伴わない読経が、『迷路』の空気を制圧する。
ヨーヨーを構え直していた筈のバンチョーリリモンが、その場から跳び退いた。
こちらからは、何も起きていないように見えるにもかかわらず、だ。
『無限弾幕心経』。
サンゾモンの技は基本的に、敵を直接傷つける術を持っていない。
『無限弾幕心経』も例外では無い--が、究極体デジモンは大概の場合、目が良い。良過ぎるのだ。
目で追わずにはいられないのだろう。四方八方から無限に降り注ぐ、朱い数珠玉の幻を。
「パートナー共々トリップしてろ」
とは言ってみるものの、所詮は幻覚。加えてバンチョー系デジモンは基本的に物理攻撃が効かないときている。
案の定、バンチョーリリモンは真紅の『GAKU-RAN』の裾を持ち上げ、被弾を覚悟で特攻の構えだ。ハッタリを見破られ、突破される未来はものの数秒後に迫っていた。
だから、その僅かな隙を無駄にせず、メアリーはその場から跳び上がる。
半回転して素足を天に突き上げ、背中から落下するのは――サンティラモンが垂直に構えた『クリシュナ』、その矛先。
肉と絹を裂く音がして。
メアリーの腹を、黒鉄の鉾が貫いた。
「本物の女の子ならそこそこそそる光景だけど……彼、一体何してるの?」
「まあ黙って見てろ。そんでもって合わせろ」
驚いたサンティラモンがメアリーを『クリシュナ』から振るい落としたのと、こちらに足を踏み出したバンチョーリリモンが数珠弾幕の手ごたえの無さに目を見開いたのは、ほぼほぼ同時だった。
自ら飛び込んだ以上、当然、デジコアは避けてある。
今更痛みに泣き喚くような手合いでも無し。そも、サンゾモンというデジモンは苦行が日課のマゾヒストだ。
何でも無い風にふわりと地面に降り立ち、穴の空いた腹部からきらきら光るデータのカスを零しながら、サンゾモンは今度は、慈母のように両腕を広げ、首に巻き付いた経典を揺らす。
今度の『経』の効果は、俺やネガの瞳にもくっきりと映った。
『迷路』を囲む壁よりも上。
無数の『クリシュナ』が、偽物の空を埋めていた。
『胡蝶夢経』
サンゾモン自身に直接相手を傷付ける必殺技は存在しない--が、けして無力で無害なデジモンという訳では無い。
『胡蝶夢経』は、サンゾモンがこれまでに味わった苦行を具現化させる必殺技だ。
交戦を重ねれば重ねる程、学習し、強くなる。
この上なくシンプルかつ、機械じみた性質は、姿形は聖人だろうが、やはりデジモンであるからこそ、だ。
ネガの方も解り易く例を見せつけた故、意図を読んだのだろう。
デバイスを介してコマンドを送られたらしいサンティラモンが、メアリーを刺し貫いたばかりの『クリシュナ』を宙に投げ--その後にも、無数の宝鉾が続いた。
『クリシュナ』もまた、シンプルな技だ。
切れ味の鋭い鉾を、口から取り出す。撃ち出すなり、尾で振り回すなり、その辺は個体次第ときている。
どう扱うかは自由だし――いくつ取り出すかも、好きにしていい。
サンティラモンの気力が持つ限りは、鉾は無限に、湧いて出る。
そういう特質がある限り、メアリーもまた、気力が続く限りは好きなだけ、『クリシュナ』を降らせられる事だろう。
行商人ルルの天気予報は大当たり。
本日の天気は晴れ後雨。ただし弾でも毒でも無く、黒光りする、刃の雨だ。
「I'm singing in the rain. Just singing in the--」
ネガの鈴を転がしたような歌声は、『クリシュナ』のゲリラ豪雨に掻き消される。
強いて言うならジャンキーの悲鳴が幽かに耳に届いたが、つまるところ、それは女の無事をも知らせている訳で。
瞬時にこちらの狙いを嗅ぎ取ったバンチョーリリモンは女の眼前にしゃがみ込み、真紅の特攻服の裾を身動きなどとても取れそうにない彼女に被せている。
『クリシュナ』は見た目こそ普通の鉾ではあるが、その実光で出来ているという話だ。
『GAKU-RAN』の防御力はあくまで物理攻撃に対応するもの。当たればバンチョーリリモンはともかく、パートナーの方はひとたまりも無い
筈、だが――
「流石に捌きやがるか」
バンチョーリリモンのヨーヨーは、『クリシュナ』の雨にも負けず劣らずの唸り声を上げて、回転により円刃の傘を編み上げている。
舌打ちする。そのつもりではいたが、ここからは持久戦だ。
あらゆる理不尽の権化たるメアリー・スーと、シェイドモンの特性上、恐らく半端では無い量の絶望を蓄えてきたであろうサンティラモンの肥大化した『気力』が勝つか。
バンチョーリリモンの『弱者の味方』とかいう、強く美しい『信念』が勝つか。
……こういう根性論で決着をつけなければいけない展開は嫌いなのだが、四の五の言ってはいられまい。
最後の手段としてメアリーの究極体を使う手はあるが、こちらも世代を揃えれば、ジャンキー女との格差が広がり、バンチョーリリモンにいらぬバフがかかる可能性も高い。
ネガにこれ以上の手札を曝したくないというのが本音ではあるが、今回に限って言えば、進化して戦うメリットが薄いのも事実だった。
幸い、現時点ではバンチョーリリモンは動けない。
頃合いを見て、『胡蝶夢経』を別の『苦行』に変えるか--
「ねえねえ、ストゥーさん」
金属がぎゃりぎゃりこすれ合わさる騒音の中でも、耳元で囁かれてしまっては言葉を拾い上げる他無い。
俺はふいにもたれかかってきたネガを『クリシュナ』の降り注ぐ方向へ突き飛ばしたい衝動を堪え、なるべく低めた声で「なんだ」と短く返す。
「イイコト思い付いちゃったから、ボクとサンティラモンで、ヤってもいい?」
「あ?」
「んふふ、見ててねストゥーさん」
合意した覚えはないのだが。
ネガは俺に肩を寄せたままデバイスを操作し
次の瞬間、サンティラモンは『クリシュナ』を吐くのを止めて、地面に頭を突っ込んだ。
「っ」
『迷路』のそこそこ固い地面を、泥水にでも飛び込むように沈んでいくのは、サンティラモンの能力だろう。
本来は地中での移動を得意とするデジモンだと聞いている。
地面の下から奇襲をかければ、勝敗を決する事も不可能ではないだろう。
「おい、馬鹿っ!!」
ンなもん通用しないから、こんな回りくどい方法で仕掛けてるんだろうが。
サンティラモンの吐く分の『クリシュナ』が無くなった以上、攻撃は手薄になる。
急いでメアリーに『無限弾幕心経』の追加コマンドを送るが、既にタネの割れた手品だ。何度も引っかかる程バンチョーリリモンは阿呆では無い。
バンチョーリリモンは素早く女を抱え、『胡蝶夢経』の刃を撃ち落とすのではなく回避し、防御に回していたヨーヨーを、攻撃に転じる。
狙いは今まさにサンティラモンの尾が吸い込まれていこうとしている『迷路』の地面。
目の前から仕掛ける不意打ちがどこにあるって言うんだ。
腕の振りというラグが発生する『アブソリュートテリトリー』なら回避できたかもしれないが、バンチョーリリモンにはもう1つ、もっと出の早い、かつ地中の相手だろうと引き摺り出せる必殺技が存在する。
『ナイトメアアッセンブル』
撃ち出されたヨーヨーのボディは地面を突き破り、側面の棘がサンティラモンの身体に食い込む。
バンチョーリリモンのもうひとつの必殺技は、ヨーヨーの持つ性質を利用した吸引技だ。
攻撃そのものの殺傷力は『アブソリュートテリトリー』に比べて低いが、相手を引き寄せさえすれば『トゥインペタル』を確実に決める事が出来る。
初撃を引き剥がすために無理くり放たれたような、不完全な一撃では無い。
蛇の鱗など粉砕しかねない一閃を繰り出すために、バンチョーリリモンは既に、片足を持ち上げていた。
ヨーヨーの回転に引き込まれ、サンティラモンが、空中でとぐろを巻く。
……終わった。
ネガ達が死ぬならそれでもいいとは思ったが、ここまでバンチョーリリモンを消耗させられないのは想定外だ。
俺の脳内はこの後の処理と、不機嫌を拗らせたメアリー・スーをなだめすかすための手段で埋め尽くされ――
――だから、そんなものは必要が無い、という目の前の事実を受け入れるまでに、たっぷり数秒、かかってしまった。
「は?」
べっとりと蛇の唾液に塗れた『クリシュナ』が、バンチョーリリモンの胸のど真ん中を、真っ直ぐに貫いていた。
鉾先に引っぱられて倒れ行くバンチョーリリモンの長い脚が、虚しく空振りの蹴りを繰り出した。
だが脚の動きが狂っても、一度引き戻したヨーヨーの速度は変わらない。
大口を開いたサンティラモンが、巻き取られるヨーヨーを利用しながら、螺旋を描いて、バンチョーリリモンに迫る。
……なんて事は無い。
ネガはバンチョーリリモンの反撃を予測して、サンティラモンが地面に潜ったその瞬間から、『クリシュナ』を撃つ体勢に入らせていたのだ。
サンティラモンもまた、ネガに応え、自身の損傷を厭わずに作戦を実行したまでの話。
相手を確実に殺せると、僅かにだろうと慢心を覚える、その刹那を。その昏い希望を。
握り潰せば、極上の絶望を喰らえるが故に。
俺の動揺までそのスパイスとして添えられていたと思うと大層癪に障るが、何にせよ、このジャンクフード好きのビデオ屋は、その辺の手間暇は惜しまないらしい。
何とも厄介で――酷く、メアリー好みの話じゃアないか。
「クソッタレ」
溜め息交じりに、サングラスのブリッジを持ち上げる。
「テメェらの勝ちだよ」
ネガは丸く目を見開いて、それからにこりと、花のように笑った。
天から落ちた『胡蝶夢経』の『クリシュナ』が、パートナーを抱えた方のバンチョーリリモンの腕を切り落としたのと、サンティラモンの大口が闇色の花を呑んだのは、ほとんど同時の、出来事だった。