ある朝の事、僕は戸口の前で抜け殻ごと地面に転がった蝉を見つけた。
昨日の雨で壁から滑り落ちたのかもしれない。伸びきらないまま潰れた翅はアスファルトにへばりついていて、仰向けになった姿勢で弱々しく六つ脚で宙を掻き続けている。
いたたまれなくなった僕は、指に蝉を留まらせてやった。少し力は要ったが、引っ張ると翅は地面から剝がれたので、そのまま庭の木の幹に留まらせたのだ。
昼間には何匹もの蝉が留まってシャーシャー鳴いているこの木なら、どうせ長くは生きられないにせよ、多少なり木の汁を吸って生き永らえる事は出来るだろうと、そう考えて。
なのに、蝉は僕の指から木肌に移るなり、更に上を、上を目指して歩き続けた。
脚に半ば絡まった翅に引っかかってまた地面に転がり落ち、もう一度留まらせてやっても再び上を目指す。
たどたどしい足取りで、ふらふらと身体を揺らしながら、上へ、上へ。休むことなく、何度でも、何度でも。
嗚呼。と、僕は悟る。
きっとこの蝉は、自分が羽化に失敗した事にまるで気が付いていないのだ。
昔の人が、蝉の羽化にも生まれ変わりの概念を見出していたように。
このセミ自身、どこか、ここよりもずっと高いところに辿り着けさえすれば、黄緑がかった翅をまっすぐに伸ばすことが出来ると、信じているのだ。と。
僕はもはや見ていられなくなって、蝉から目を逸らした。
どうせすぐに死ぬ生き物だ。気まぐれに助けたからと言って、これから僕に直接かかわりのある生き物でもない。
そう思った。そう思っていた。
そう、思っていたのに。
今になって、またチラつくのだ。翅の不備に気付かずどこまでも登っていこうとする、愚かで哀れな蝉の姿が。
およそ1年前。あの朝とは真逆の、冬の夕暮れ時に。
姉が、フローリングの上で溺死して以来。
デジモンアクアリウム Episode:9 海賊
姉の1周忌は、祖母の1周忌と纏めてやってしまおう、というのが一族の総意らしかった。
この酷暑では、誰もどこかへ出かける気にはなれないのだろう。夏の昼間のローカル線はがらがらで、冷房がよく効いている。都会の満員電車に慣れた身が、僅かに今まさに向かっている故郷を焦がれたが、開いた扉から熱風や蝉時雨と一緒に遠くから飛び込んできたバイクの爆走音に、その気持ちも一瞬で凪いでしまう。
いつからこうなったのかは、自分でもよくわからない。きっとドブ川の臭いに毎日顔をしかめている内に、地元を眺める目つきも変わっていってしまったのだろう。
……姉さえ死ななければ、こうやって法事に際しても帰京するつもりなど、無かったのだが。
新幹線を含む電車を数本乗り継いで辿り着いた実家の最寄り駅(とは言っても、歩いて家に帰ろうとすると、ここから20分くらいかかる。そういうところも蓄積された嫌いなポイントの1つだと思う)を出ると相変わらず太陽はカンカン照りで、両側を田んぼと用水路に挟まれた道には当然遮蔽物の類も無い。あてにしていたタクシーも、やはりこの時間帯だと市街地の上等な客を引っかけに行っているのか、駅前にもかかわらず、影も形も見当たらなかった。
誰もいないのを良いことに、舌打ちをしてから駅の屋根の下から歩み出る。
それでもここからなら歩いて帰る事が出来ると。染み付いたように覚えている身体が、何よりも嫌だった。
そして、そうやって結局久方ぶりの見知った道を歩き始めてしまったがために、1年やそこいらでは変わらない景色の中に、とんでもない異物を見出してしまったのだ。僕は。
人魚が、田んぼの泥濘の中に、落ちていた。
「……」
背の伸びた稲の隙間に、この先稲が得る金の稲穂にも似た色合いの髪を浸した、白い肌と黒い鱗の、それはそれは美しい人魚だった。
何故、日本の、それも内陸の。中途半端な田舎町の田んぼの中に、人魚がいるのだろう。
もっと他に注目すべきポイントがあるような気もしたが、このうだるような暑さの中、僕の頭はそれ以上複雑な思考を纏められる程、回ってはくれなくて。
ただ――顔つきは、似ても似つかないけれど。
その姿もまた、どこか「あの日」の姉を、髣髴とさせて――
「今日は、あついですね」
――不意に、人魚の赤く柔らかな唇が、波を打つように動いて言葉を紡ぐ。
思わず後退る僕の前で、続けて人魚は瞼を持ち上げた。
「あついと、昔の事を思い出します」
人魚の瞳は、海の浅いところと同じ色をしていて。
「そして、あなたも昔を思い出す地味なお色の方。あなた、おさかなだったら、きっとおいしいおさかなですよ」
人魚はその目で僕を見ている風で、どうにも、ひどく遠いところを、ぼんやりと見つめているようだった。
*
「感謝します。地味な色の、親切なお方。ここは、先程よりかは、いくらか涼しい」
日陰になっている橋の下の土手にもたれかけさせると、泥まみれの人魚はふう、と息を吐いてから、歌い上げるように言って僕を見上げた。
何故近くの(とは言ってもそれなりの距離だったし、人魚は存外に重かった)川まで人魚を運んだのか。自分でもよく分からなかった。既に服も靴も人魚に負けないくらい泥だらけになっていて、後ほどこの歳にもなって親に「転んで田んぼに落ちた」的な言い訳をしなければいけないのだと思うと、なおの事、気が重い。
……昔から。僕はこういう、生き物に対して余計な真似をしてしまう人間だった。
優しさや人の好さといった良心に基づいた行動であれば少しは胸を張れたのだろうが、僕の場合は見捨てた後の罪悪感や、それを見た赤の他人に不誠実や薄情を指摘される事に怯えている、臆病者に過ぎなくて。
僕は、少しでも「良い人」で在りたかったのだ。
「どうして、あんなところに?」
乗り換えのあった駅で購入した、割高な天然水を差し出しながら、問いかける。
このまま人魚を川に投げ込むなりしても良かったのだが、枝にいくつも引っかかったビニール袋の類や汚らしい茶緑の藻を目の当たりにしてしまうと、そんな気も失せてしまった。陸地にいるのがそう苦痛ではないのなら、飲みさしの水の方がいくらかマシに思えたのだ。
田んぼで寝ていた人魚に、今更な話だが。
「どうして、とは?」
「どうしてとは、って……その……君は、あまり、ああいうところにいる生き物には、見えないから」
ああ、と、得心したように人魚は頷いて、僕から受け取った天然水のペットボトルを掲げた。
何度かちゃぽん、ちゃぽんと中身を揺らして、それが水であるのを確認してから、人魚はペットボトルの蓋を開けるではなく、指の力だけで真っ二つにそれを引き裂いて、零れてきた水を頭から被る。
人魚の頬を、泥をわずかに巻き添えにしながら、水は伝い、零れていった。
「たしかに、あたしは少し前まで、塩辛い水があるところで暮らしていました」
これも、塩の水ではないですね、と、人魚は裂けたペットボトルをまじまじと眺めてから、それをぽい、と投げ捨てる。
不法投棄になる前に、僕は慌ててそれを回収する。間近で見ると、透明なボトルの裂け口は引き延ばされた結果白んでいて、ものすごい力がかかっていたのがよく解った。
「ですが、もうあそこにいる理由もありませんでしたので」
だからせめて、こちらで死のうと思いました。
人魚の言葉に、僕はゆっくりと振り返る。
彼女は相変わらず、僕を見ている風で、もっとずっと、違うところに眼差しを投げかけていた。
「……田んぼは、身を投げるのには向いてないと思うんだけれど」
「タンボ、というのですか。あの背の高い水草だらけの、浅い水辺は」
「あれは稲っていって……米は分かる? 兎に角、穀物を育てる畑だよ」
「はあ、畑。あたしのいた世界とは、いろいろと勝手が違うのですね」
ただ、あそこに落ちたのは偶然です。と断りを入れてから、人魚はさらに続ける。
「あたし、追われていたのです。怖いかみさまに。手ひどくやられました。退化して、このありさまです」
「かみさま?」
まだ続きがありそうだったが、どうしてもその単語が引っかかって、僕は彼女の台詞に割り込んだ。
やはり人魚は特に気にする素振りは見せず、それも「勝手の違い」なのだろう軽くと受け流した様子で、ぼんやりと、更に高いところを――彼女の弁を信じるのであれば、落ちてきた、という話だ。きっと彼女が投げ出されたに違いない場所――もうもうと雲の広がる、青く眩しい空を見上げる。
「冥府のかみさまです。死後の世界のかみさま。悪いことをしたデジモンをゆるさない、裁きのかみさま」
デジモン、という単語は初めて聞いたが、それが彼女を含む言葉であるとはなんとなしに理解できた。今度は質問を挟まずに、ただ、彼女の言葉に耳を傾ける。
「あたしは、いたずらに同胞を殺し過ぎたのだそうです」
傾けて。
そうして知りえたかみさまに追いかけられていた理由は、確かに人間の倫理観からすれば、間違いなく罪と取れるもので。
「どうして?」
なのに、今更嫌悪感や恐怖が湧き出ては来てくれなかった。
人魚がどれだけの同胞(デジモン、とやらか)を殺したのかを、僕は知らない。知ったところで、こうも現実味のないやりとりの中では、具体的な数字を聞いたとしても、僕の中では絵空事に過ぎないのだ。
だから、単純に。僕は――自分のせいで、姉を死なせてしまったかもしれない僕は――ひと殺しの気持ちを、知りたかったのだと思う。
「気に入らなかったからです。何もかもが」
「何故?」
「わかりません。でも、きっかけは。いちばんはじめに腹が立った時の事は、今でもよく覚えています」
「何があったの?」
「ともだちを、ばかにされたのです。あたしのいちばんのともだちを」
なので、村のみんなを殺したのです。
そう告げる人魚には、やはり悪びれた様子など、かけらも感じられないのだった。
「ともだち?」
「ええ」
ここで人魚は空から視線を落として、自分に影を落とす橋の裏側を見据え、力なく微笑む。
「この空のようにあついのに、この日陰のようにやさしい方でした」
いちばんのともだちでした、と。人魚は再び、繰り返した。
「いちばんのともだち、だったのに」
そうして、彼女はすうっと目を細める。
「すがたかたちの変わってしまったあたしたちは、お互いがお互いに気付かなくて。……あたしは、彼を殺してしまいました」
その時ようやく、人魚が表情を歪めた。
痛々しい横顔だと思った。それだけが、確かに己の罪であると、告白しているかのように。
「かみさまにお願いしたけれど、彼に空けてしまった胸の穴は、もう塞がらないと言われました。……その後、彼はこちらの世界で息絶えたとも」
「……」
「だから、せめて。……彼がこちらで、最期に何を見て、何を感じたのか。知りたかったのです」
何か解ったのかと問いかけると、人魚は頭を横に振る。
濡れた髪から、雫が滴り落ちた。
「なにも。かみさまは、教えてくれませんでしたから」
「……そうだね」
うちの家系は、いわゆる田舎の名士だ。そういう家は、所謂家族葬というやつを許されていない。その家の人間が死ねばそれは一種の催し物。ぞろぞろとやかましいのは葬儀を口実に集まってきた、同じくらいの家柄の老人同士ばかりだ。
こちらの場合はホトケサマになるワケだが。
彼らも半分笑ったような顔でだんまりを決め込むばかりで、死んだ人間の気持ちなんて、ひとつも教えてくれはしない。
「……君の気持ちが」
「?」
「少し、解るって言ったら、怒る?」
人魚は顎に人さし指を当ててしばらく宙を仰いでから、「内容によりますね」と僕に向き直る。
ようするに、もしも人魚の心情と僕の考えが嚙み合っていなかったら、僕は人魚に殺されてしまうかもしれないワケだ。
苦笑する。
それでもいいかもしれないと、そんな考えが頭を過った自分に。
「1年前、姉さんが死んだんだ」
「ネエサン」
「家族だよ、3つ上の姉。ちょっと……普通じゃない死に方をしたのだけれど」
僕は、軽く息を吸って、吐いた。
「あれは、自殺だったんじゃないかって、僕は思ってる」
「ジサツ」
「自分で自分を殺す事さ。……姉さんは、ずっと苦しそうだったから」
僕のせいで、と。口の中で転がした言葉が、人魚の耳に届いたのかは分からなかった。
何せ、人間でいう耳の位置に、先の鋭く尖ったヒレがあるものだから。
*
周囲からの姉と自分の扱いが全く違うものだと気付いたのは、いつごろの話だっただろうか。
姉はいつも都合よく無視されて、僕はいつも必要以上に構われていた。
それが、僕が男で、姉が女に生まれたからだと理解できた頃には、姉はもう、心の大切なところが錆び付いて、軋んでしまっていて。
いつも無気力で、両親や祖父母に言われた事だけをこなし、事あるごとに結婚を促されるけれど、外に出る機会は与えてもらえない、濃霧のような自覚の無い悪意に雁字搦めにされた、機械人形のような人だった。姉は。
自分で考えろ、と姉はよく言われていたけれど、姉はそれが無駄だとよく理解した目をしていたし、周囲も口ではそう言いながら、姉にそんな事は何も求めていない風で。
……だから僕は、あの日、羽化に失敗した蝉に姉を重ねたのだ。
生まれた世界は周りと同じ筈なのに、翅を伸ばすために必要な環境をことごとく奪われて、それでもずるずると上に向かって登り続ける事しか知らなかった、哀れな蝉。
だけど姉は、ある時ふと――警察の現場検証をもってしても、具体的な方法は終ぞ判らなかったのだけれど――木の枝から手を放せば、地面の代わりにぽちゃんと落ちて沈んで行ける水辺があると、気付いてしまったのだろう。
そこに落ちれば、もう、苦しみながら木を上り続けなくてもいい、と。
……お棺の中でうっすらと化粧をした姉は、そんな風に、どこかほっとしたような顔をしているような気がしたのだ。
*
「僕さえ生まれてこなければ」
ドブのような川でも、せせらぎの音だけは清流と大差無い。
姉を吞んだ見えない水の気配をその音に重ねながら、水の底からやって来たに違い無い人魚の隣で、座りこんだ僕は膝を抱えて独白する。
「姉さんの扱いは、もう少しマシだった筈なんだ。姉さんしかいなかったら、周りだって、姉さんをもっと尊重した筈なんだ」
でも、僕が生まれてきたから、姉さんは透明になってしまった。
跡継ぎじゃないんだからって、誰にも見向きをされなくなってしまった。
死んだ後ですら、その弔いの行事を祖母の「ついで」に纏められてしまう程に。
……僕だって、窮屈でたまらなかった。だから、就職にかこつけて逃げ出したんだ。
でもあの家にいた日々を思い返すと、何かにつけてちやほやしてもらえる自分の立場に、姉よりも重きを置かれる自分の立ち位置に、ほの暗い喜びを全く覚えなかったと言えば――それは、確かに、嘘になって。
そんな僕に対して、姉が何を思っていたのか。
……知りたいと言うのも、知りたくないと言うのも、やはり、嘘にしかならないのだ。
「人を不幸にするような人間が、生まれてきて、生きていて、生き続けて……いいのかなって。……時々、そんな事を考えてしまう」
だからと言って、蝉の例えを続けるなら、空を飛ぶ手段を知った僕は、木から手を離したところでもう、地面や水辺に落ちていく事も出来ない。
文字通り、甘い汁を啜る事も知り過ぎた。この世への未練を帳消しにできる程、大きな罪悪感も抱けない。……そんな事を考えると、心の中の波紋ばかりが、どんどんどんどん大きくなって。
「……とりあえず」
人魚が土手に預けていた身体を起こす。
「殺してしまいたくはなりませんでした。あなたのおはなしを聞いても」
「……良かった、って言うべきかな」
「あなたがそう思うのであれば、そうなのでしょう」
あたしさえいなければ。
人魚は僕の言葉を、自分に置き換えて繰り返す。
「彼は死ななかった。不幸にはならなかった。彼と過ごした日々は、あんなに素晴らしかったのに。焼いたお魚はおいしくて、彼とのおはなしは楽しくて。毎日毎日、おひさまが目の前に現れたみたいに、きらきらしていたのに。あたし、お礼も何も言えないまま、彼を殺してしまった。彼は……あたしが村のみんなを殺したから、あたしが殺されたと思って、かたきうちに来てくれたのに。ぜんぶぜんぶ、あたしのせいで……!」
人魚の生きてきた世界観は、平和な日本で生きている僕にはわからない。口から出てくる全てがフィクションの世界で。
だけど、これだけはフィクションとは。童話作家が言ったのとは違っていた。
人魚は、瞳からぽろぽろと大粒の涙を流していたのだ。
真珠でも何でもない、水の粒。時にはずず、とすっかり赤くなった鼻を啜って、整った顔立ちをしている筈なのに、少しもきれいには見えない顔で、泣いていた。
……かける言葉も見つからない。
僕は、人魚の後悔に自分を重ねたけれど、やっぱり根本的な部分が違う。
人魚はすれ違い故にともだちを殺してしまったけれど、その人物(デジモン)をずっと想っていた。
だけど、僕はどうだった?
姉を想っていたか?
想っていたなら、僕は少しでも姉の負担を減らせるよう、あの人の近くに居た筈だ。他の親類と同じように祖母の介護を押し付けたりしなかった筈だ。
姉が死んだから見えるようになっただけで、僕にとっても姉は、結局、水とおんなじ透明な色で、だから、誰も、あの人が水の中に消えていこうとしても、気付きもしなくて――
「……ですが」
思考が現実に引き戻される。
……現実の筈なのに、人魚の声と、川のせせらぎ以外は、何も聞こえなくなっていた。
おかしい。
往来は少ないとはいえ、近くには道路もある。それに、それこそ蝉だって、当たり前にあちこちで鳴いていたのに。
何よりも。日陰と水辺だけでは説明できない程に、あたりがひんやりと冷え込んでいるのだ。……僕の思い違いで無いことは、口から漏れた息が僅かに白い事が、証明してくれた。
「あなたと違って、あたしには裁きが向こうからやって来ますから」
人魚が身を起こし、そのままうつぶせになるような格好で這いつくばる。
そのまま彼女は、手で地面を押して、前へ、前へと。……いつの間にかその場に佇んでいた、黒い影へと、にじり寄っていく。
「……!」
それは、モノクロ写真からそのまま歩み出てきたような、白黒の人影だった。
夏の景色からはあまりにも浮いた黒装束に、紙みたいに白い髪と肌を持つ老人。
ただ、瞳だけが。猛り狂う炎のような、赤色で。
肌が粟立つ。
呼吸が荒ぐ。
あれが「かみさま」だと、本能が訴えかけてくる。
人魚を呼び止めようとして、だけど僕は、彼女の名前すら知らなかった。
何の言葉も出てこなくて、手だけが宙で制止する。
「さて、やさしくは無い冥府のかみさま」
人魚が身体を持ち上げる。黒い魚の下半身をくの字に折り曲げて、直立している風に上半身を支えさせた。一見すると、突然人魚の背が伸びたようにも見えて。
「あたしはたくさん悪い事をしたのでしょう」
……いいや、違う。伸びたよう、じゃない。伸びているんだ。
「でも、あなたが。殺してきたデジモン達がどう思おうが。あたしにとっての『罪』は、ひとつだけです。答えてください、かみさま。……あたしの罪とは、何ですか?」
伸びているどころではない。身体全体が盛り上がり、長い髪はひとまとまりになった状態でずるりと伸びて、色も金から銀に変わっていく。
「『海賊』。貴様は同胞を殺し過ぎた」
全身がびりびりと痺れるような、低い声。
その声を発した老人もまた、姿を変貌させていく。
全身に牙の意匠のある黒い鎧に、赤いマントを纏った巨大な人型へと。
「そうですか。では、もう少し抗いますね」
あたし、ともだち以外には、なにも悪いと思っていないので。
その罪以外で、裁かれたくはないので。
そう言ってのけた人魚は、もはや人魚というより、半魚人と言った方がしっくりくる姿へと変わり果てていた。
「……!」
リュウグウノツカイに似た頭を持つ、巨大な甲殻類の鋏と鋸のようなギザ歯のナイフで武装した、筋骨隆々の大男。
さっき人魚は「すがたかたちの変わってしまったあたしたち」と言っていたけれど、いくら何でも変わり過ぎだ。向こうも違う姿で彼女? 彼? の前に現れたのだとしたら、確かに、気付けと言う方が無理な話だろう。
「『リアクターディスチャージ』!!」
次の瞬間、彼女が左腕に装着した大鋏から、青い稲妻を黒いかみさまに向けて放つ。
向かいの土手が、凄まじい音を立てて爆ぜた。
「っ!?」
咄嗟に身を庇う。こちらにも小石やら土の塊やらが飛んできた。そんないくつかの粒が、泥の乾いた腕の上で跳ねる。
生き物を殺すには十分。いや、十二分の力だと。心臓がばくばくと早鐘を打つ。
そんな胸の内をかき消す、ばらばらという音が止んでから。僕は恐る恐る腕を下す。
怖いもの見たさとは、まさにこの事だ。……目を逸らす方が、怖かったのだ。
「!」
そうして見据えた視線の先。
彼女の『抵抗』には、既に決着がついていた。
かみさまが、全身にある牙で、彼女のあちこちに食らいついていたのだ。
彼女の右腕に至っては、振り上げた姿勢で、あの巨大なナイフごと消し飛んでいる。迎撃しようとして、間に合わなかったのだろう。
咀嚼音と一緒に、ぼたり、ぼたりと血の零れる音がして、2人の足元には、既に赤色の水たまりが出来ていた。
「……やっぱり、ダメでしたね」
なのに彼女は、なんてことも無いように、当初と変わらぬ様子でぽつりと呟く。
そうして、彼女に代わって青い顔をしている僕に、金の兜で覆われたリュウグウノツカイの頭を向ける。
魚の目。だけど無機質ではなくて。黄金の瞳は、人魚の青い目と同じ『色』を宿していた。
飛び散った赤い色のなかでもくっきりと光る、ぐしゃぐしゃの涙の色を。
「最期にあなたとおはなしができて良かった」
おはなしは、たのしいものです。と、彼女は泣きながら、笑って見せる。
「あたしのおはなしを聞いてくれる、あなたみたいな、……あたしのともだちみたいな。やさしいもの好きがいる世界なら。きっと『メラモン』が見た景色も、そんなに悪くはなかったでしょうから」
泣きながら笑って――
「――っ、僕の話、聞いてた……!?」
――見当違いな、事を言う。
あんなに身が竦んで、恐怖と混乱でせり上がってきた物に塞がれていた喉から、突然声が飛び出した。
優しいわけがないだろう。姉を見殺しにした、僕が。この世界が。
震える膝を抑えて足を踏み出す。
止めなければ。どうにかかみさまを止めなければ。彼女を助けなければ。
誤解を解かなければ。ちゃんと話をしなければ。
話を聞く限り。あの姿を見る限り。恐ろしい、ひどい、まさしく怪物に違いない生き物だろうけれど。
それでも、僕よりもずっとずっと、大切な人を想って生きられる、ともだちにとってはきっと優しい存在だった彼女に、
まだ、死ぬ事なんて無いんじゃないのかって。
そう、言いたいと。僕は――
「待って、『かみさま』――」
「もういいだろう、『私』」
手を伸ばす僕の前で、突然、彼女とかみさまの間に爆発でも起きたみたいに、2人がお互いから弾き飛ばされる。
「!」
気が付けば、いつの間にやら。僕の隣には、1人の男性が立っていた。
かみさまがあの姿になる前に取っていた、モノクロ写真から抜け出してきたような白黒の男と瓜二つの老人。
ただし、同じ顔なのに、この老人は優しい顔をしていて――そして、黒い服の胸元には、きらきらと鮮やかに光る金の刺繡が施されていて。
刺繍の模様は、三日月に似ていた。
「裁く必要は無い。確かに彼は『海賊』と恐れられる程にたくさんのデジモンを殺したけれど、殺して食らうことは、デジモンにとってけして罪ではないだろう。末の弟だって、そんな事は望んではいない。『海賊』もまた海の在り方のひとつだと、そう言っている」
「お前自身は本当にそう思うのか、『私』。ならば何故私はここに在る。私はお前だ。より善い繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝を望む者だ。もう二度とバラバラに壊されて捨てられずに済むような、美しい世界を望むお前自身だ。……『私』が望む世界に、こんな罪びとが必要だと、心の底からそう思うのか」
同じ声の、対照的な声音。真逆の主張。
三日月の刺繍の老人は、小さく頭を横に振った。
「それでは、我らの父と同じだ」
世界は美しくなくていい。
世界を美しいと言える者達を育めれば、それでいい。
三日月の刺繡の老人は、そう言って黒いかみさまの方へと歩み寄る。
一歩ごとに、彼もまた、ひとつずつ姿を組み替えていく。
「私達は、繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝で生きる事を拒んだ者達のために、こちらの世界をひとつの冥府と定めたのだ。だから……もう、いいんだ、『私』。もしも私達が悪を暴き立て、彼らを暗がりに呑み込む事を望んでいるとしても。我らの世界の理は、システムとしてのその行為をもはや是とはしていない」
それは、白い竜だった。
いわゆるケンタウロス――半人半馬の形をした、しかしその全てが竜のもので構成された、三日月を背負い、黄金の翼と爪を持つ白い竜。
「……ハデスモン」
重々しい口調で、黒いかみさまが、白い竜の名と思わしき単語を紡ぐ。
「立ち去りなさい、プルートモン。……いつか私達が、本当の意味で君を責務から解放できる、その日まで」
竜が、ハデスモンが、違う名前の同一視される神の名を持つ黒いかみさまに向けて、手を翳す。
途端、プルートモンの前に、『裂け目』としか呼べない大きな穴が開く。
「……」
だが、プルートモンはその裂け目には飛び込まず、両手の平から頭上に巨大な円の牙を取り出して、それに飲み込まれるみたいにして、姿を消した。
それが、せめてもの抵抗であるかのように。
「……」
ハデスモンはしばらくプルートモンの消えた場所をどこか悲し気に眺めた後、指でなぞるように穴を塞いで、腰を抜かして一連の流れを見守る他無かった僕の方へと振り返った。
「巻き込んでしまってすまなかったね」
「え……あ、いや……はい」
容量の得ない1文字ばかりを返す僕に、ハデスモンはただ、優しく目を細める。
外見の事を言えば、プルートモン以上に異形である筈なのに、不思議と、恐ろしいとは感じられなかった。
「そして、ありがとう。君がこの子の生存を願ってくれたから、私達はここに辿り着く事が出来た。『私』にまた、父と同じ過ちを、今回は重ねさせずに済んだ。……生への望みが無ければ、死もまた存在しないようなものだからね」
言いながら、ハデスモンは、どうやら気を失っているらしい人魚だった彼女の身体を、優しく抱え上げる。
竜の翼が、ばさりと音を立てて広がった。
「どこへ、行くんですか?」
「君も知っているところさ。……目印は、海の色をした屋根だ」
「海の色の屋根……」
覚えている。
あそこに違いないと、そう思った。
青い屋根。
怪しい明り。
僕の手を引く祖母。
「君とこの子には、知る権利がある。だから特別に、かみさまは答えてあげよう」
「っ、それって」
全てを見透かし、全てを知っていると明かし、しかしハデスモンは、それ以上何も教えてはくれなかった。
翼が地面と水面の両方を打ち、白い巨体が大空へと舞い上がる。
あっという間に、ハデスモンは流れ星のように見えなくなって。だけど彼が消え去った方角には覚えがあって。
僕が、今から帰る場所だ。
20分程歩けば――青い屋根も、見えてくる。
「……」
思い出したかのように蝉時雨が帰ってくる。途端に元通りになった気温に、冷や汗を押し流すような脂汗が噴き出した。
リュウグウノツカイの半魚人が吹き飛ばした川の土手は、何事もなかったかのように元に戻っていて。気付けばこの当たり前の現実に取り残されているのは、泥塗れの僕と、僕の傍らに落ちた1枚の羽根だけだった。
そっと、震える手で、根元の部分をつまんで持ち上げる。
僕の肘から指先ぐらいまであるその羽根は、夢幻のような金色をしていた。
名前出るまで全く気付かなかったぜェ、アプモンじゃん! 夏P(ナッピー)です。
そういえば次回で一区切りみたいなこと仰ってたなと後書きで思い出しましたが、確かに一区切りは付いてない……い、いや色々と結構なことが明かされはしたが……マーメイモンが『かみさま』言うからイグドラシル、でも確かイグドラシルって大変なことになったみたいなこと前に言ってたな……エンシェントマーメイモンだろうから、太陽っつってるしスサノオモンもしくはルーチェモンなのかな……とか色々と読みながら考えてましたが全部外してあの神アプモンでした。というか、よく考えたらエンシェントマーメイモンですらなくレガレクスモンだった! しかも速攻でドグシャア、なんて時代だ。
主人公の“彼”は次回も据え置きだそうで。この自殺した姉、立場こそ違えどめっちゃリューカちゃん思い出させましたが、不意打ちで死んだと見せかけ貞子なことになって襲い掛かってくるんじゃとずっと警戒していたのは内緒。プルートモン出てきたのはちょうど1周年を迎えたサヴァイブを思い出してサキさんを感じる。
言われてみれば後書き通り「本当に次回で終わるのか!?」感がひしひしと湧き上がってきた。アクアリウムなのにアクアリウムが出てきてない! いや水の要素が多いのはアクアリウムっぽいが! ペットボトルは割られた! 何故だ!
天然水「俺は何も罪を犯してないのに割られたんだが?」
マーメイモン「フッ……私が圧倒的過ぎただけのことよ」
こ、こんな理不尽が許されていいのか……メラモン……クリスタルガイザー……。
そういえばデジモンにアプモン絡めた小説って拝読したの初めてかもしれないですね。アプモン単独だったらあるのですが、これに関してはサロン含めて初めてだったはず。
それでは最終話、お待ちしております。
前回のあとがきのぼく
「物語としては、そして(多分)店主さん達の正体やアクアリウムそのものの謎については、9話で全て決着がつくと思います。むしろ10話何するの? って感じになると思います(ドヤァ)」
今回のあとがきのぼく
「おい、なんも片付いてないぞ、おい。これ10話で纏められんのか」
というわけでこんにちは。最近庭の木についた蝉を数えていたら、枝の1本がクマバチの巣にされている事に気づいてちょっとテンションが上がった快晴です。細い枝を空洞にしてあるんですよ。すごいですねぇ。
この度は『デジモンアクアリウム Episode:9』をご覧いただき、まことにありがとうございます。予定していた謎の答え合わせについては半分も触れられていないお話になっていたのですが、いかがでしたでしょうか? 快晴は焦っています。
とはいえアクアリウムの店の店主の正体についてはようやく明かす事が出来ました。
ハデスモン。この界隈にいる読者相手なら心配は無いと思いますが、念のため言っておくとオリデジではありません。神アプモンです。
そう! この世界の繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝ことデジタルワールドは、イグドラシルがやらかしまくった(※Episode:4参照)後、その権能の残りカスでできた並アプモン達が集まって生まれた5体の神アプモンが管理しているデジタルワールドだったのです!! イグドラシルのリブート機能から生まれたやりなおしの神様も、そのまんまリブートモンだったり。
このリブート機能がリブートモンになってしまう、というネタは、自作の続編用に温めていたネタのひとつだったのですが、温めるだけになりそうだし他に回すかぁと『デジモンアクアリウム』に流用された形です。
とはいえ流用しようとなった理由自体は、アクアリウムの設定にハデスモンの能力を使いた過ぎた事からの逆算です。物質やデータを思い通りに変化させ、広大な空間すら自由に操作・支配する、冥府の神の名を持つアプモン。ピエモンをアクアリウムに詰めたいぜ! という欲望から始まったこの物語にも理屈は必要で、ハデスモンはその理屈にぴったりだったというワケです。
そして、1話から存在をにおわせていた『海賊』。
こんな感じのキャラでした。
彼(彼女)については今年の5月に発売した『デジモンアクアリウム』の1話とその裏話を収録した同人誌にも登場するから良かったら買ってくれよな(促販)(※『デジモンアクアリウム』が完結したらサロンにも投げます)
彼のともだちとは? については多分お察しorご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、とりあえず次回をお待ちください。
さて、次回予告です。
次回は前回宣言したとおり、最終回です。主人公はEpisode:9からの据え置きになります。
ハデスモンの目的とは? デジモンの入ったアクアリウムとは何か? 主人公の姉とは? 姉の真実、ともだちの真実の果てに彼と『海賊』が得るものとは? 快晴はマジでちゃんと10話で本作を纏められるのか!?
……最後までお付き合いいただければ、幸いです。