店の前を通る度、祖母は僕の手を引く力を少しだけ強めて、足早にその場から立ち去ろうとするのだ。
些細な違和感は回数を重ねる毎に徐々に大きくなり、ついに磨りガラスの向こうで何があの妖しげな光を放っているのかと好奇心を抑えきれなくなった僕は、ある時、祖母と繋いでいる方とは反対の手で彼女の服の袖を引いて、店について、問いただしたのだ。
「また、その内。もっと大きくなったらねえ」
なのに祖母は、気味が悪いくらいの猫なで声で僕の問いかけを有耶無耶にして、さっきよりも僅かに手の力を強めて歩き始める。
きっと、祖母は店の中身なんて、これっぽっちも知らなかったのだろう。ただ、ここに出入りしている人間の種類や、看板に刻まれた異国の文字だけを判断材料に、素晴らしい自分に対して劣った空間だと、勝手に見下していただけなのだ。
初孫でありながら『家の跡取り』という意図を読まずに生まれてきた姉を見る時と、同じように。
そう気付くには僕は幼すぎて、祖母は当時の僕にとって、ただただ優しいおばあちゃんだった。
だから幼い僕は馬鹿正直に彼女の言葉に頷いて、自分が祖母を追い越すくらいに背が伸びる日を待ちわびている内に、店への興味と祖母との虚しい約束も、この町の淀んだ景色の中へと溶け出していったのだった。
*
「やあ、よく来たね」
店の前で立ち竦んでいると、磨りガラスの扉が内側から開いて、あの白黒の老人――ハデスモンが、顔を覗かせる。
喪服の黒色は太陽の熱を悉く吸い込んで、汗と協力して僕を蒸し焼きにしているというのに、同じように黒装束のハデスモンは、まるで涼しい顔をしていた。
実際、足を踏み入れた店内は、空調が効いている風でも無いのに、暑さなど微塵も感じられなかった。
まあ、それもそうか。
ぐるりと店内を見渡せば、何列もの鉄製の棚いっぱいに並べられた、水槽を始めとした水を留められる入れ物。
今確認した範囲内では、その全てに。生き物……らしきモノが息づいていて。
アクアリウム。
生き物が生きる、小さな水の箱庭。
取り扱うモノの都合上、極端に暑くも寒くもするワケにはいかないのだろう。
ふと、水槽の内の1つの中にいる、赤色の生き物と目が合った。
それは緑色のトサカを持つ恐竜で、一見すると食玩のような、ひどくリアリティを欠いた造形と色使いをしているけれど、水中で鰭の代わりにくねらせている長い尾の滑らかな動きや、何よりも、暖かい地方の海にも似た鮮やかな青い瞳はとても作り物には見えなくて、だからきっと、こいつも人魚と同じ、『デジモン』というやつなのだろう。
「君のお姉さんも、店に入ってきた時、最初にその子――ティラノモンを見ていたよ」
「……」
単に出入り口に近いところに水槽が在ったからか。それとも、金魚にも似た赤色が目を引いたのか。
「ティラノモン、って言いましたよね」
「うん」
「あの、人魚だった彼女にも、そんな名前があるんですか?」
「ああ。あるとも」
さあ、おいで。と、ハデスモンは僕の問いには答えず、店の奥へと僕を手招きする。
後に続くと、壁際の棚の前にまで案内された。
ちょうど、僕が真っ直ぐと見据えられる位置。
大きな瓶――表面に波を象った飾りが施された、洋酒の瓶だ――が、古めかしい色合いの木の台座に寝かされていた。
中はなみなみと水で満たされ、底になっている面には僕の爪の先程も無い金貨や、色とりどりの宝石が敷き詰められている。まるで、映画で描写されるような、海賊の隠れ家みたいだ。
実際、それに近いモノなのだろう。
彼女は、確かに「海賊」と、そう呼ばれていたのだから。
「……」
彼女は、瓶の中央。金銀財宝の山を特に感慨も無さそうに足蹴にしながら、座り込むような格好で、眠っていた。
随分と小さくなってしまってはいるが、姿形はあの、リュウグウノツカイの頭を持つ半魚人だ。こんな魚? がこの世に2匹といる筈が無い。いいや、いるのかもしれないが、ハデスモンだってわざわざ別個体を招き入れた僕に見せびらかすような真似はしないだろう。……多分。
黒いかみさま――プルートモン、って言ったっけか。プルートモンに囓り取られていた右腕はすっかり元通りになっていて、身体には傷ひとつ見当たらない。僕が一瞬傷だと思い込んだものは、その全てが彼女の身体の模様らしかった。
「彼――君の言に合わせるのであれば、彼女か。彼女は、レガレクスモン。君が最初に見たあの姿はマーメイモンという名前だが、この姿の彼女は、レガレクスモンというんだ」
「レガレクスモン……」
「最も、『海賊』という通り名が、半ば個体名として作用していたのだけれどね」
レガレクスモンは僕らの話し声を聞きつけたのか、すぅ、と金色の兜の下にある目を開いた。
魚に瞼があるなんて聞いたことは無いのだけれど、半分くらい人の姿をしているのだ。不思議の内にも、入らないのだろう。
僕に気付いた彼女は、のそりと上半身を前に傾けて、そのまま足下の金貨をいくつか砂みたいに蹴り飛ばして、こちらに泳いで、寄ってくる。
ガラスの側面に右手を添えた彼女の口から鋭い牙が覗いて、こぽこぽといくつかの泡が立ち上ったところを見るに、何かを喋ったのかもしれないけれど、何を言っているのかまでは、わからなかった。
「話しに行くかい?」
「出来るんですか?」
「ああ。私達の力であればね」
「溺れたりしませんか」
姉みたいに。
駄々のように付け足した僕を、ハデスモンはじっと見下ろして、それからそっと、目を伏せた。
「君のお姉さんは、ルールを破ったんだ」
「ルール」
ハデスモン――ハデスからの「ルール」と言えば、オルフェウスの冥界下りぐらいなら僕も聞いたことがある。見るなのタブー、だっけか。
似たようなものかもしれないね、と、ハデスモンは僕の発想を曖昧に肯定してみせる。
「まあその点についても、私達の権能が関わっているからね。実際にやって見せた方が、説明もしやすいんだ。……少し、話は長くなるかもしれないけれど、構わないかい」
「それは、大丈夫です。もう、こっちでの用事は、終わったので」
親類や町の上役達は、僕を1時間や2時間、どころか1日2日と言わず、ずっと引き留めて、僕の結婚の予定や祖父への献身を聞いたり聞かせたりしたいようだったけれど、とても付き合う気にはなれなかった。
着替えもせずに、来もしないバスの時間だのなんだのを理由にして、僕は此処へとやって来たのだ。
「そうかい」
ハデスモンは薄く微笑んで、レガレクスモンに瓶の側面から離れるように促した後、僕に手を差し出す。
皺だらけの節くれ立った手は、握り返すと氷のように冷たくて、だけど無理に僕を引っ張っていこうとするような、どうしようもない力を感じることは無くて。
とぷん、と。
そうして、僕は自分が、水の中に落ちる音を聞いた。
*
「……また会いましたね。地味な色の、親切なお方」
次に目を開けた時には、彼女の逞しい巨体が目の前にそびえ立っていた。
青白い肌には金貨の輝きと水面の揺らめきが反射していて、きれいだった。
「……うん」
返事をすると、口の端から泡がこぼれて、昇っていく。
息は出来ているけれど、ここはどうやら、本当に水の中らしい。
「ですが、どうしてですか? かみさま」
と、彼女が視線を僕から隣にいるハデスモンへと移す。
金の瞳には、困惑をありありと湛えていた。
「この方は、デジモンではないのでしょう? 『メラモン』に、何か関係があるのですか?」
「彼、と言うより、彼のお姉さんが、ね」
ここで、僕も思わずハデスモンの方へと振り返る。
薄々そんな気はしていたけれど、レガレクスモンの前でその単語が出てくると、やはり嫌でも心臓の音は主張を強くして。
「結論……いや、結末から言おうか。彼のお姉さんは、君の言うところのメラモン――ピエモンのアクアリウムを私達の店で購入し、その器を壊した」
先程のティラノモンに、彼女――レガレクスモン(ここに来るまでに調べたのだけれど、リュウグウノツカイの属名らしい)。デジモンというのは、見た目というか、性質通りの名前がつけられているものらしい。メラモンというのは、きっと炎の擬音語だ。そういう、デジモンだったのだろう。
だとしたら、姉が出会ったという、メラモンから変わってしまったピエモンというデジモンは――ひょっとすると、ピエロの、デジモンだったのだろうか。
「改めて、自己紹介をしておこう。私達は、ハデスモン。デジモン達が暮らす世界――デジタルワールドの管理者の1柱さ」
そう言って、ハデスモンが右腕を持ち上げる。
途端、袖口からさらさらと金貨にも負けない輝きを纏う砂が零れ落ちて、それは僕のひざぐらいまでの大きさしか無い、フードを被った獣や、四角い頭からドライヤーを生やした青色の小人、全身を包帯で包んだ小さなナースの形を構築する。
「これは、力を行使し過ぎて壊れた『前の神』の破片。1つ1つは大して力を持たないが、同じような力の持ち主同士が組み合わさる事で、本来の権能を行使しているんだ」
「だから、『私達』」
ハデスモンはこくんと頷きながら、僕とレガレクスモンに披露した『権能の破片』を、時間を巻き戻すみたいにして再び袖口から自分の中へと仕舞い込む。
「前の神……我らの父・イグドラシルは、より良い世界を創ろうと願うあまり、世界に度を超えた干渉を重ね、そして壊した」
ハデスモンの笑みに、やるせなさが混じる。
「不要なものとして打ち棄てられ、もはやデジタルワールドに取り込み直す事も出来ない、しかし確かに我らの故郷に違い無い、粉々になった世界の欠片。……冥府の神と定義づけられた私達は、それを今のデジタルワールドでは生きられないデジモン達のために、再利用する事を考えた」
この空間の事だよ、と。
ハデスモンの指が、今まさに僕達が居る、瓶の中身を指し示す。
「私達の権能は、物質の変化。そして空間の改竄と支配。デジタルワールドで生きるために争い、殺し合うを拒んだデジモン達に、それ以外の生き方を――「人間と共に在る事」を提示することを考え、私達はこちらにやって来たのだ」
「人間と、共に」
「人間の精神から発生するエネルギーは、デジモンに対して強い影響力があるのだよ。私達はその力に、この世界へとやって来たデジモン達の、未来を託す事にしたんだ」
「では、メラモン――ピエモンは」
と、ここで。ハデスモンの話を黙って聞いていたレガレクスモンが、ぬっと僕と彼の間に割り込むようにして、首を伸ばす。
「この方のネエサンの力を、感情のエネルギーを必要としていたのですか? それがあれば、胸にあいた穴がふさがると考えたのですか?」
結末はもう理解しているはずなのに、一種縋り付くように、レガレクスモンは矢継ぎ早にハデスモンへと問いかける。
一方の僕は、嫌な予感に心臓が荒れた波のような脈を打ち始めていた。
この酒瓶のような、小さい空間に閉じ込めた『世界の欠片』。
こちらに来たという彼女のともだち。
そして、ネエサンが破ったという、ルール――『器』の破壊。
案の定、ハデスモンは首を横に振る。
「辛い話を繰り返す事になってしまってすまないが、君の友、ピエモンは、デジコア――人間でいうところの、心臓であり脳でもある器官さ――を破損していた。私達に出来たのは、彼を僅かに生き長らえさせる事だけで……死の運命は、変えられなかった」
「……っ。では、ピエモンは」
水の中でさえ潤んだ瞳の中で、白黒の影が揺らめいた。
「ピエモンは、ネエサンに何を求めたのですか?」
「自分の最期の観客であるを」
「それで何故、ネエサンまで死ぬのです!?」
……だが、僕の予想に少しだけ反して、レガレクスモンが問うたのは姉の最期についてだった。
最愛の友に止めを刺したのはそいつなのかと、そう問う事も出来た筈なのに。
そう、問えば。恨みという形で縋る相手も、怒りの矛先を向ける相手も、見つけられた筈なのに。
「レガレクスモン」
「だってそうでしょう? あたしのともだちは、あたしとちがってやさしい彼は、見ず知らずのデジモン……いいえ、ニンゲン、でしたか? わかりません。それはどうでもよいのです。大切なのは、彼は誰かを道連れに死ぬようなデジモンだとは、思えないという事です」
ああ、そうか。
彼女の必死の形相を前に、腑に落ちる。
彼女は、僕と同じ事を考えているのだ。
僕のせいで死んだ姉が、彼女の大切なともだちを殺したかもしれなくて。
彼女が致命傷を負わせたというピエモンが、僕の姉を連れて行ってしまったのかもしれなくて。
その責を、僕らは恐れているのだ。
自分達が、近しい人間どころか見ず知らずの他人にまで不幸を連鎖させる疫病神だと。そんな事実と向き合うのが、今更になって、ただただ怖かったのだ。
だけどほんもののかみさまは、それも違う世界からやって来た、死者のためのかみさまは、生きている僕達を優しく見渡して、首をゆっくりと横に振る。
「これが君達の救いになるかは、わからないけれど。……それは、お互いの望んだ結末だった。ピエモンは観客を欲していて、君のお姉さんもまた、そうなる事を望んだ。ピエモンのアクアリウムを割った――私が瓶の中に閉じ込めたデジタルワールドを解放したのはお姉さんで、だがそうするよう促したのはピエモンだ。彼らは自分達で自分達にとって最も望ましい選択をした」
だから、と。
ハデスモンが、自分自身の胸に、手を添える。
「君達が責めるべき相手が居るとすれば、そんな結末を黙認した、私達の他にいないのさ」
「姉は」
僕はハデスモンに問いかける。
「姉は、どうやって死んだんですか」
問わずには、いられなかった。
どう、言語化して良いのかはわからない。わからないけれど、それは別に、姉の死因を聞きたくて尋ねた訳では無かった。
その意図を、やはりかみさまはきちんと汲んでくれたらしい。ハデスモンは少しの間、黙祷のように目を伏せて、それから、静かに言葉を紡ぎ出す。
「アクアリウムが割れると、内包したデジタルワールドは、現実のテクスチャを侵食する。君のお姉さんは、ピエモンと一緒に海に呑まれた。……海、と言っても、我々デジモンにとってそれは、膨大な情報の集合体だ。肉体はこちらに残したけれど、彼女の精神は、その情報の中に溶けたと、表現するべきだろう」
「……」
「苦しみは、無かったと思う。末の弟は、あの海をそういうものだとは定義していないから」
「姉は、最期に僕を憎んでいましたか?」
「いいや」
冥府の神は、首を横に振った。
「彼女は君を憎んで死んだ訳じゃ無い」
「ピエモンは? ピエモンは、あたしを……いいえ、彼を殺したデジモンを、恨んでいましたか?」
「いいや」
同じ仕草が、繰り返される。
「彼の目的は、あくまで親友の仇討ちにあった。『海賊』が自分に致命傷を負わせた事自体を、恨んで死んだわけじゃ無い」
「……」
「それに。ピエモンは最期まで、君からの贈り物である白い珊瑚を手放さなかった」
レガレクスモンの鋭い牙の隙間から、嗚咽が漏れて、零れ落ちる。
全てを知っているかみさまがそう言うのなら。
それが、姉と、レガレクスモンの『ともだち』の死の全てだった。
*
「レガレクスモンのアクアリウムは、お幾らですか」
ハデスモンに連れられて元の店に戻った僕は、無骨なコンクリートの床を踏みしめているのを確認してすぐ、この店の店主としての彼にそう尋ねた。
ハデスモンが大きく目を見開く。プルートモンと違っていくらか目立たないようにしているようだけれど、ハデスモンの瞳もまた深い赤色で、それは何よりも血の通った色だった。
「あの後ずっと考えていました。……どれだけ説明してもらっても。それが神様の言葉でも。やっぱり理解できなかったり、納得できない事はいっぱいあって。……レガレクスモンも、そうなんじゃないかな、って」
「うん」
「それに――姉を連れて行った人……デジモンが、どんなデジモンだったのか。知りたいんです。それも、レガレクスモンも、同じなんじゃ無いかな、って」
「……うん」
ハデスモンが、老人の顔で微笑む。僕がこれまでに見たどんな人間の笑みよりも、それは穏やかで、優しげな微笑みだった。
生きとし生けるもの全てを、死せるもの全てのために慈しむ者の微笑み。
「そう言う事なら。……お代は結構だよ」
「……このアクアリウムに使われている瓶、それだけで滅茶苦茶高そうなんですけれど」
「お金には困っていないよ。これでも、かみさまだからね。……レガレクスモンは君の思っている通りの事を考えているし、何より、君にはお姉さんの事で、辛い思いをさせてしまった」
「……」
「そんな人から、せめて、お金は取りたくないよ」
そう言う事なら、と。
僕の方も、神の厚意という奴を無碍にする事は出来なかった。
ハデスモンは二言三言レガレクスモンに話しかけて、それから、アクアリウムの瓶を台座ごと、入り口のほど近くにあるレジカウンターへと運んでいく。
後に続いて、ふと視線を感じて振り返ると、最初に見たアクアリウムのティラノモンが、僕に向かって小さな手を振っていた。
僕も同じように、軽く手を振って返す。……姉さんも、同じようにしたのだろうか。
そうこうしている内に、ハデスモンはてきぱきとレガレクスモンのアクアリウムに緩衝材を巻き付け、あっという間に梱包を終わらせてしまった。
「水槽内部の空間は固定されているからね。上下左右、持つ際の向きや、多少の揺れは気にしなくて構わない――とはいえ、景色はある程度動くから、あまり激しく動かすと中で酔う子も居る。レガレクスモンは大丈夫だとは思うが、その点は注意して欲しい」
「わかりました」
「それから、君にはもう言うまでも無いだろうが……けして、アクアリウムを割ってはいけないよ」
「繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れ出すからですか」
思わず目を白黒させてしまう。普通に喋ったつもりなのに、ざらりとただ鼓膜を震わせるような、意味の解らない言葉が喉から飛び出したのだ。
こちらでは発音できないのだよ。と、そこだけは、心底可笑しそうに、ハデスモンは僕を見てくすりと笑った。
「これが、デジモンの世話をするためのアプリになる」
その後、促されるままスマホを差し出すと、ハデスモンは手をかざしただけで、僕のスマホの画面に胸の刺繍と同じマークの刻まれたアプリを出現させる。(普段は私達もスマホ風端末を使うよ、と補足された。まあ、そりゃそうだろう)
「それとね。……君には、このアプリの隠し機能を教えておこう」
「隠し機能?」
頷いたハデスモンが指示する通りにアプリを操作する。
数秒後、画面に『扉』としか言いようのない画像が表示された。
「これを使えば、君は繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝に行く事が出来る」
レガレクスモンのアクアリウムの中にでも、レガレクスモンの、そして我らの生まれ故郷にも。
付け足されたその言葉に、僕はまじまじと彼の赤い目を見つめる他無かった。
「どうして」
問いかける声が震えた。
だってそれは、本当に。世界と世界の移動だなんて、神の御業というやつだ。
「そんな機能を、僕に?」
「前々から、考えていたんだ。少し前に、踏ん切りをつけるきっかけもあったしね。……私達がデジモンにこちらの世界を教えるように、人間にも、少しずつでも、我々の世界を教えられたら、と。そんな事を」
ハデスモンが僕から視線を動かし、ぐるりと店内を――アクアリウムの列を。彼にとっての、冥府を見渡す。
「向こうでは無くこの世界こそを美しいと感じるデジモン達が居るように。こちらではなく向こうこそを美しいと感じる人間もいるかもしれない、と」
「……」
「そうやってお互いに交流を続けていけば、どちらの世界も、いつかはより良くなるんじゃないかと。……私達はそう思いたいし、そう、願っているという訳だ」
かみさまのお節介に過ぎない夢物語かもしれないけれど、とハデスモンは付け足して、僕自身、それを否定できるだけの材料を持ち合わせてはいなくて。
だけど、同時に。
このかみさまの理想を否定するのは、とても醜い行為だと。
僕は平凡で普通の人間だから。そう、思った。思いたかったのだ。
「それに、ね」
と、ハデスモンの言葉には続きがあったようだ。
気が付くと、彼は改めて僕と目を合わせていて。その目はやはり優しく、どこまでも真摯な眼差しを投げかけていた。
「いつになるかは私達でさえ判らないし、本当にそんな奇跡が起きると、確信を持って肯定はできないのだけれど――――」
そうして、僕はレガレクスモンのアクアリウムが入った箱を抱えて、店を出た。
薄暗い店内に居たせいか、夏の日差しが痛い程に眩しい。よせば良いのに、その根源である太陽を睨み付けようとでもしたのか、半ば反射的に顔を上げる。
見上げた空はどこまでも高く、青く、美しかった。
「……」
唐突に、理解する。
いや、理解した、とは言っても、独りよがりな押しつけだ。解っている。解っているけれど、僕は無性に、そう思いたくなったのだ。
あの日、木肌を自らの境遇にめげる事無くよじ登っていた、羽のねじれた蝉に対して。
あの蝉はただ、空があんなにも高くて青くて綺麗だから、少しでも近くで見たいと、そう思っただけだったんじゃないかって。
羽を伸ばせなくて、何も成せずに死ぬことが解っている世界でも、せっかくあんなに美しいものが見えているんだから、自分が出来る方法で目指したっていいんじゃないか、って。そう、願ったんじゃないかって。
「姉さん」
熱気で噴き出した汗に混じって、目尻から同じように塩辛い水が溢れ出す。
「姉さんがさいごに見た世界は、きれいだった?」
問いかけは、蝉時雨に飲み込まれる。
それで良かった。
*
結局こっちに来ても愚痴ばっかりで悪いなと、青年は狭いマンションの一室で安いビール缶を傾けながら、スノードーム型のアクアリウムに向かってため息を吹きかける。
中の小石に腰掛けた、紫色の肌を持つ蓮の妖精は口元に呆れを隠さなかったが、それでも彼の言葉を一言一句聞き漏らさないよう、注意深く耳を傾け続けていた。
だから彼女は、青年の語調が以前よりもずっと明るい事を知っているし、愚痴ばかりと言いつつ、時には彼がきらきらした目で、とても楽しそうにものを話す事も知っているのだ。
*
最近本当に明るくなったよね、と。『彼女』の友人達も、『彼女』の家族も、彼女の変化に好意的だった。
そんな時彼女は嘘の笑みを浮かべて、そんなことはないよと本当の事を言った。
時々、彼女はいっそ、裁かれてしまいたいと思うことがあった。
あったが、『彼女』を覚えていられるのはもはや彼女だけで、だから彼女は、もう戻らない日々に押し潰されそうになりながら、今日も嘘を貫き通す。
*
投稿済みの文章中にとんでもなくしょうもない誤字を見つけて、女は頭を抱えた後、天を仰いだ。傍らで見守る竜の騎士も、見慣れた光景に全てを察して、いたたまれない視線を鮮やかなグリーンの瞳から向ける。
2人の描いた冒険譚はそれなりの量になって、ここまで来たのなら一度本にしてみようか、という話になったのだ。
しかし注意深く読み返せば読み返す程――もちろん、投稿時にそれをしていなかった訳ではないが――出るわ出るわ、誤字脱字の山。前半になればなるほど文章の拙さも目立ち、女はとうの昔に慣れたつもりでいたのに、何度も何度でも、身悶えする思いで推敲を繰り返す。
生みの苦しみかぁと、竜の騎士に対してはかなり悪趣味なジョークであると理解しつつ、彼女はそう呟いて。
竜の騎士は、それを嗤わなかった。
*
少年と愛犬、そして兎は、今日も元気に、楽しく公園の中を、転がるみたいにして遊び回っている。
ここは平和で幸せな世界だ。彼らの笑顔が絶える事は無い。
それは、これからもずっと、変わらない。
*
記者のデジモンは上機嫌だった。何せ、ずっと探し回っていた『海賊』への取材が叶ったのだから。
最も取材を受けた『海賊』は始終不機嫌だったし、側に居た人間の男が宥めていなければ、かのデジモンの実力を、身を以て体験する羽目になっていたかもしれない。と、彼女は記事を纏めながら軽く肩を竦める。
ただ、たくさん面白い話を聞けた。だから、大事な友人にも聞かせてあげなければと、今日も彼女は展開した電子キーボードを、きらりと光るがらくたの指輪をはめた指で叩く。
……件の友人は彼女の無茶を思って目を回す事になるのだが、それはまた、別の話。
*
絶望的だと思っていた文芸部の存続は、しかし新入生が2名入ってきた事で叶う運びとなった。
もちろん2年生になった少女は喜んだが、同時に先輩、そして部長という責任ある立場になった事に若干の息苦しさも覚えていて、時折、1年前が恋しくなる事もあった。
そんな時、彼女は帰宅してから、今日も悠々とタッパーのプールで泳いでいる水色の鮫を、心ゆくまで眺めるのだ。
そして、あの不思議な夜の出来事を思い出す。それから久々に『幽霊部員』だった先輩に連絡を取ろうかなと考えて、夕食や宿題を済ませている間に、タイミングを見失ってしまうのだった。
*
火山を模したような見た目の竜は、そのいかつい見た目に反してとても人懐っこかった。
結局青年はこの竜がとても気に入って、だけど青年の彼女もよく竜を構うものだから、時たま妬いてしまう自分に苦笑いする事もあった。
青年と彼女はそれからも色々なところに出かけて、出かけなくても、一緒に居る時間を楽しく過ごした。
青年は彼女が好きで、彼女も青年を好いていた。だから、今のところ――そして、しばらくの間は、少なくとも。余計な話をする時間は、2人には無さそうだった。
*
ばあ! と。
キャンドモンがゴースモンに出会ったのは、彼がプチメラモンだった頃、暇を持て余した彼女に驚かされたのがきっかけだ。
だが、そんなきっかけの割に、2体はすぐに仲良くなった。
火炎型として、触れるだけで相手を傷つける身体を持って生まれてきたキャンドモンは、同郷の同世代デジモン達に疎まれたが、触れようとしても透けてしまうゴースモンだけは例外で、だから彼は、彼女にだけは、気兼ねなく接する事が出来た。
ゴースモンもまた、触れられはしないとはいえ、キャンドモンの本体の熱をなんとなしに感じる事は出来た。ゴースト型である彼女にとって、その確かな温かさは、どうしようもなく心地よかったのだ。
2体はその種族にしては珍しく、海にほど近い村で暮らしている。
だから同世代のデジモン達は皆海を遊び場にしていて、2体はけしてその輪には混じれなかったが、しかしお互いが居るから、寂しくは感じていなかった。
なのに2人して、時折お互いでは無い誰かを、夜の夢や、昼の陽炎の中に見いだすのだ。
そんな日はどちらともなく夢の話をして、不思議だね、ところころ笑い合うのだった。
ある日のこと。
海の神――この世界の管理者の1体だという、黄金のデジモンが村を訪れた。
相当な騒ぎにはなったが、海の神に害意が無い事はすぐに伝わって、彼は村長に指示をしてキャンドモンとゴースモンを呼び出すと、村のすぐ側の海へと連れ出した。
不安と好奇心で胸をいっぱいにしながら、2体が滅多に足を運ばない砂浜へと足を踏み入れると、そこには、1体の究極体――巨大なリュウグウノツカイの頭部を持つ水棲型デジモン・レガレクスモンと、1人の人間の男――最も、2体は人間を知らないので、見たことの無いデジモンと片付けられたが――が待ち構えていて。
「きみは?」
ダミーの台座部分で器用に砂の上を跳ねて、キャンドモンが何の迷いも無くレガレクスモンへと歩み寄る。
レガレクスモンは、その凶暴そうな魚の顔で出来うる最大限に柔らかな表情を浮かべて、彼の前に膝をつく。
初めて出会った、世代も住む世界も何もかもが違うこのデジモン同士は、しかし意外にもすぐに意気投合したようで、思いの他話を弾ませ始めた彼らに、ゴースモンはこてんと首を横にかしげた。
と、
「……はじめまして」
ふと顔を上げると、人間の男の方が、ゴースモンの前に立っていた。
はじめまして、と。ゴースモンも挨拶を返す。
「あなた、だあれ? おなまえは?」
「……」
男は一瞬、躊躇して。
それから、意を決したように。眉間に皺を刻みながら、半ば吐き出すように
「ミフジ」
自分の名前を
「ミフジ、リョウジ」
口にする。
モン、とつかない、珍しい種族名。……ゴースモンがそう判断したのかは、誰にもわからない。
わからないが、何にせよゴースモンは、友人に見せるのと同じように、ころころと笑った。
「なんだか、なつかしいおなまえ!」
と、ひとしきり笑った後、ふとゴースモンは、ミフジリョウジと名乗った男の顔をのぞき込む。
「どうしたの? どこかいたいの?」
「うん……ううん。ごめん。ごめん、僕……」
砂浜に、いくつもの塩の水が滴る。
それは海の神にとって、自分の領域以外から零れたものではあったが、なにせ、一番上の兄がそれを許容したのだ。大目に見てやろう、と。そしてここまで彼らを案内した以上、自分の「お節介」はここまでだと、元来た道――海中へと自分の身体を沈み込ませていく。
沖合まで泳いで、くるりと身体を仰向けにすると、随分と柔らかくなった太陽の光が、波の揺らめきを受けながら海中にまで差し込んでいて。
彼は。あるいは彼らは、その光景を。
その光景を生み出すこの海を。
この海が育む世界の全てを、今までも、これからも。ずっとずっと、愛している。
おわり
取り急ぎ完結お疲れ様でした。あらゆるWeb小説において最も大切なものは完結することだからよ……と四半世紀ぐらい提唱している気がする夏P(ナッピー)です。
ゲェーッ! 一番最初のピエモン!? そこ繋がってたんか!? と思うと同時に、エピローグで次々と端的に触れられる数多の人々にき、貴様らアアアアアとなるのでした。世界の成り立ちにつきましても、前回と今回で簡潔ながらも纏められて、まさしくアクアリウムを眺めているような心地良い読後感。
ハデスモン、折角なので極アプモンの設定を確認し直すかァとなるぐらいピッタリとハマっており、なかなかアプモン単独ではなくデジモンとも絡めた世界観の作品を読んだことが無かったので新鮮な気持ちで読み終えることができました。多くは語られなかったので感じ入るが華ですが、わざわざデジタルな情報の中に溶けたと言ってからのアレなので、姉さんはまあそういうことなのでしょう……これもまた救いか。
成長期デジモンがあの見た目のレガレクスモンといきなり対峙させられたら失神するわとか思ったのは内緒。そして絶対なんか悪いこと企んでると思ってたのに、ハデスモンの最後の台詞+エピローグの最後からして「テメエそーいうことかよ!(歓喜」となるのも良し。あの台詞とラストシーンが無かったらこの心地良さは無かっただろうので恐るべきハデスモン。隠し機能も含めてそーいうことかよ! 互いではない『誰か』を時々思い出す……。
海の神。ネプトゥーンモンか……? いやでも金色って……と思ったら一番上の兄と不意打ち気味に凶悪な文言で正体が示唆されて噴く。お前かァーッ!
とにもかくにも完結お疲れ様でした。他作品もお待ちしております。
(※8話以前の連中のこと確認したくなったので読み返させて頂き、追記するかもです)
あとがき
Twitter……じゃなかった、Xでも呟いたのですが、最終話という概念は、何度書いても慣れません。
え? これ終わるの? 終わらなく無い? 終わる? あ、終わりそう。おわ……終わりよったわ……。みたいな感じで毎回困惑しっぱなしです。まさか終わるとは思っておらず。……いや、最終回までの構想は物語が始まった時点で大体決めてはいるのですが、それでも終わるとなると、いつも変な気分です。『デジモンアクアリウム』もそんな感じで終わってみたのですが、いかがでしたでしょうか。
『デジモンアクアリウム』シリーズは再三言っていた通り「ピエモンをアクアリウムに詰めたいぜ」という欲望からスタートしてまあそれが全てで、故に10話はある意味「1話の決着編」としての側面も強いと言いますか。
とはいえ全体を通してテーマみたいなのはうっすらとありまして。「世界は基本クソだけど、そこにデジモンが居たら良くも悪くもちょっと違うかもね」的な。そんな感じです。デジモンの側からすれば逆もしかりで、9話で店主ことハデスモンが言った通り「世界は美しくなくて良いけど美しいと感じる子達は育てられたらいいね」がこの物語に託した全てだと考えています。……いや、全ては言い過ぎかな……8割くらい性癖じゃないかな……。
まああんまり語っても余韻を台無しにするので、ひとつだけ。9話と10話の主人公について。
ミフジリョウジ。漢字で書くと海藤良志。別の企画で使ったキャラクターの名前で、この名前にピンときた人用に言っておくと、生い立ちは若干違いますが別世界の同一人物というヤツです。悪い先輩との付き合い回避ルート。
あくまでモブとして出したキャラクターでしたが、彼の背景を壁打ちだけでさらっと流してしまうのもなとは考えていたので、アクアリウムで彼と彼の姉については採用を決めていました。長かったなぁ……ここまで……。
誰だっけ。もしくは誰やねんと思った方は、まあ、そういうキャラがいるんだなぁと思っておいてもらえたら、と。
『デジモンアクアリウム』の簡潔を以て、完結を迎えた長編作品はこれで4作目。先に連載を始めた『Everyone wept for Mary』を追い抜く形になったとはいえ、あっちも次回から最終章だし『宅飲み道化』も年内に完結予定だし……めっちゃ終わるやんけ……。
でも『エリクシル・レッド』と、別アカウント名義ではありますが『Digimon/Guranddracmon Order』も始まったばかりなので、引き続きサロンを引っかき回す所存の快晴です。覚悟せよ。(隙あらば宣伝)
まあ最後までぐだぐだしてしまいましたが、これをもちまして『デジモンアクアリウム』、完結となります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
以下、感想返信です。
夏P(ナッピー)様
このたびも感想をありがとうございます!
はい、この物語における神様達は、アプモンなのでした。ようやく設定を明かせて、快晴もスッキリです。
マーメイモン→レガレクスモンは、お互い海賊要素持ちだしアリなんじゃないかと、こちらも出す機会を眈々とうかがっておりました。
リューカちゃんは自作品における基礎というか、起点というか、そういう部分があるので、属性はかなり近いかもしれません。というか快晴が手癖で書いた女、リューカちゃんか『牛鬼』の美魚ちゃんみたいな属性になりがち。
ペットボトルは犠牲になったのです……マーメイモンの人外っぽさを出すための犠牲に……。
それはそれとしてなんとか終わりました。終わりましたね……?(困惑)
アプモンを絡めるやり方は、支部の方で参加していた企画がアプモン可だったので、そこで学んだことを活かしたいなと思いまして……。ちなみになんですが、ut様がnext時代にアプモンの方のハックモンが出てくるお話を書いておられまして、そちらも少し参考にした形です。
最終回もなんとか完成しましたので、楽しんでもらえれば、それ以上にうれしいことはありません。
改めて、感想をありがとうございました!