こちらのお話はTwitterで不定期連載中の小説『宅飲み道化』のまとめとなります。
1話3000字前後ほどなので、よろしければちょっとつまんでいってください。
以下、本編です。
1.ブランデーとガトーショコラ
「そういえば、今のブランデーって手の平で温めないのが普通らしいぞ。逆に香りが飛ぶだとかで」
長く白い指でグラスのステムを挟み、琥珀色の液体を優雅に揺らす同僚の姿があまりにもサマになっているのが癪に触って、ついつい余計なひとことが口をつく。
最も、皮張りのアンティークチェア等なら兎も角、彼が腰を下ろしているのはすっかり綿の弱ったクッションの上。背もたれは狭い部屋の壁ときている。
役者が良くてもセットがこれじゃあ、なんて自嘲込みの掛け合いを済ませたのは、もうどのくらい前の出来事になるのだろう。
同僚ーーピエモンは、女性客に見せるような艶っぽい笑みとはまるで逆、小馬鹿にしたように赤い唇を尖らせた。
「あなたはご存知無いのでしょうが、私のようないわゆる暗黒系に属するデジモンは、人間よりもずっと体温が低いのですよ。そもそも安酒ですから、コレ。むしろ昔々と同じように、温めた方がいいレベルの」
安月給の身は辛いですねぇとピエモンは肩から伸びる空色の飾り布を揺らしながら笑ったが、今日の酒担当はコイツなので、つまりはお互い様だった。多分、業◯スーパーで特売品を買っておいたのだろう。
職場(サーカス)じゃ人間の姿に化けている状態でも漂う只者じゃ無い感や道化とは思えない程品のある振る舞いがウケて「ジェスター(宮廷道化師)」なんて呼ばれているものの、コイツの上司は王侯貴族じゃなくて、俺と一緒であの小太りでケチな座長なワケで。
だから、なんというか。
自嘲と愚痴で、五分五分といったところか。
「まあ」
そしてその切ないジョークは俺にも効くので、酒の席だが、お茶を濁す。
「つまるところ、安い酒をおいしく飲むには工夫次第、ってこったな」
そっと、切り分けた今日のおつまみをピエモンの方に差し出した。
「おっ、今日はガトーショコラですか。手間がかかったでしょう」
「チョコの湯煎さえ済めばあとは混ぜて焼くだけだから、大したことねーよ」
ブランデーのおつまみといえばチョコレートが定番らしい。
別に板チョコをそのまま出して齧らせても良かったのだが、「これがあなたのバレンタイン思い出の味なんですねぇ」だの鼻で笑われたら多分泣いちゃうので(何せ反論できない)、手間だけは見栄を張った形だ。
細長い型で焼き、薄く切ったガトーショコラは、しっとりとツヤのある断面も相まってケーキというより黒いチーズのようだ。甘い物なのに、なかなかどうして、おつまみらしい。
「これで食器が紙皿とつまようじで無ければねぇ」
「うっせ」
余計なひとことは先程の意趣返しだと言わんばかりに意味深な微笑みを湛え、グラスを置いたピエモンがガトーショコラの一切れを、一口。
……今度は、自然と綻んだような表情だった。
「舌触りが滑らかですね。甘過ぎず、苦過ぎず。有り体な感想しか言えず申し訳ないのですが、ふふっ、おいしいですよ」
「ふっ、そうかよ」
「きっとレシピが良いのでしょう」
「俺の腕だよ!!」
全くコイツは、油断すると……!
立てた目くじらから赤い瞳を逸らして、わざとらしいくらいニコニコしながら、ピエモンは改めてブランデーのグラスを手に取る。
と、ふと視線を下げると、彼はボウル部分を手のひらに乗せるではなく、ステムを指でつまむように持っていた。
……再び上げた目線の先には、もはや見慣れた白黒の仮面。その下の頬が、僅かに、赤い。
「酔ったのか?」
「お陰で少し身体が温まったようで」
ピエモンは俺と目を合わせなかったので、軽く肩だけ竦めて、それ以上は何も言わなかった。
デジモンとしてはかなり強い方らしいが、だからといって人間の世界に対する知識が力の強さで変わるわけでも無いし、そもそも俺だって、コイツに出会わなきゃ、デジモンの中にも酒の好きな種族がいるなんて、考えもしなかっただろう。
だから、これ以上はただの野暮、それこそ酒が不味くなるだけだ。
俺もブランデーを口に含む。
舌の上で転がした琥珀色は、この後つまむガトーショコラにまで、その芳醇な香りを教えてくれそうで、つまるところ、今の俺たちには充分な酒だった。
あとがき
ほろよいのはちみつレモンとアイスティーサワーの缶を間違えて購入した事があるアカウントはこちら、快晴です。
と、いうわけでこんにちは。Twitter不定期連載小説『宅飲み道化』(投稿当初の仮タイトルは『スナック『楽屋裏』』)の1〜7話までのまとめをご覧いただき、ありがとうございます。
最初は自企画用の短編を想定していたのですが、推しと酒を飲む小説を書きたい欲が爆発した結果こうなりました。何故。
1〜7話は誤字脱字の修正こそあれ基本的にTwitterにメモのスクショで上げていたものと同じ内容ですが、おまけの番外編が読めるのはデジモン創作サロンだけとなります。
逆にTwitterでしか読めない話も現時点で1つあるから、よかったら覗いてみてくれよな!(クソ宣伝)
今後も投稿はTwitterでやって、話が溜まったらこちらにまとめを投げる予定です。季節の節目とかに何か書けたらなと。
多少不穏香る事はあっても基本平和路線のまま行くので、他の連載の息抜きにでも使ってもらえたら嬉しいです。
まあこんな適当にぼちぼちやる話ではありますが、またお付き合いいただければ、幸いです。
デジモン創作サロンおまけ
ビールとバターチキンカレーとチーズナン?/ローズティーとホットケーキ
「なあピエモン。これ何に見える?」
「いわゆるホットケーキというやつに見えますね」
「俺もそう思う」
しかも、ちょっと焦げている。
やってしまったと、俺は皿にひっくり返した、若干黒寄りの茶色になるまで焼けた、ホットケーキにしか見えないものを前に頭を抱えた。
「ホットケーキミックスで作れるチーズナン」というヤツに挑戦したのだが、どうやらホットケーキミックスを焼くと、ナンではなくホットケーキが出来上がるらしい。
「まあ、摂理ですね。……それはさておき、あなたが料理に失敗するなんて珍しい」
「うーん、昔からどうにもホットケーキを作るのが下手でな……」
「ガトーショコラを手作りできる男の「ホットケーキを作るのが下手」はもはや何かのバグでしょう」
「いうてガトーショコラ焼くのは俺じゃなくてオーブンだし……」
原因、というか言い訳が、脳裏を過らなかった訳では無い。
ーーママに作ってもらったこと無いの?
小学校の頃の家庭科の授業だったか。
ちょうどいい焼き加減がわからず、コレよりもひどく焦がした俺のホットケーキを見て、同じ班の女の子が心底不思議そうにそう呟いたのが、胸をチクリと刺したことをなんとなしに覚えている。
自然食と眉唾の健康志向を拗らせた母が用意するおやつと言えば、全粒粉のクラッカーかナッツの類が精々で。
お手本を見た事が無い、が理由になるというなら他の料理にしたってそうなってもよさそうなものなので、きっと原因では無いのだろうが。
あれ以来、ホットケーキに苦手意識を抱いているというのは事実だった。
「しかし苦手というなら、どうして作ろうと思ったんです?」
「チーズナンが食いたかったんだよ……チーズナンが滅茶苦茶食いたかったんだ……そしたらホットケーキミックスで作れるってレシピが出てきたから……」
「まあそんなに凹みなさんなよ」
言いながら、ピエモンが出してあったナイフでチーズナンにしたかった何かを1切れ切り出した。
とろーり糸を引く……予定だったチーズは、生地の表面の配分を間違えたがために今裏になっている面でカリカリのコーティングになってしまっている。
そんな、何から何まで、もどきにすらなれなかった失敗作を、ピエモンはひょいと手に取って口に運んだ。
「ふむ。まあチーズナンではありませんが、これはこれで美味しいですよ。焼きチーズの乗ったホットケーキみたいで」
「それ以外の何でもないんだよな」
「ナンだけに」
「……」
「ナンだけに!」
「…………」
「笑いなさいよ」
「ホラー映画の話の通じないピエロみたいなムーブやめろ」
とはいえ、少しだけ元気は出た。
一丁前に気は使ってくれたのだろうが、お世辞で料理を褒めるようなやつでもない。
ナンではなくても、食えるモノではあってくれたらしい。……まあ、ホットケーキミックスという商品の完成度の高さが成せる技には違いないが。
「さあ、冷めない内に食べましょう。きっとカレーとビールにも合いますよ」
カレーといっても、バターで炒めた玉ねぎのみじん切りと鶏肉をトマト缶で煮込んでカレー粉とコンソメで味付けしたばかりのものなのだが、シンプルな料理同士、味で喧嘩にはなる事はあるまい。
それに最悪、ビールはただそれだけで美味いものなので。
「ああそうだ」
と、よそったカレーを運びながら、ふとピエモンが口を開く。
「?」
「作るのが苦手なだけで、嫌いではないのなら。今度私が作ってあげてもいいですよ、ホットケーキ」
「お前が?」
「これでも故郷ではホットケーキ名人として名を馳せていたものです。私の作ったホットケーキを食べれば、あなたにもホットケーキの何たるかを理解できる筈でしょう。ナンだけに」
「滑ったネタを自分で擦るな。てか、それ本当なのか?」
「いやまあ嘘ですが」
「だと思ったわ」
「ただ、炎の魔術のクラスは主席で卒業しましたからね。火加減の類は得意ですよ」
得意げにウィンクして見せるピエモンに不安はむしろ深まったが……まあ、たまには趣向を変えて、というのも悪くは無いだろう。
……思い出が塗り変わって苦手意識が薄れれば、なんやかんやでコイツが一番得する流れになる訳だし。
「酒飲み同士でそんな機会作るか微妙だけど……ま、考えとくよ」
照れ隠しの咳払い代わりにカシュ、とビール缶のプルタブを引く。
失敗だとしても、準備はこれひとつで整う訳で。
「いただきます」
俺とピエモンは、チーズナンになれなかった何かへと、真っ先に手を伸ばすのだった。
/
「ホットケーキミックス、牛乳、卵。備考「その内友人にホットケーキを振る舞うので練習用に」」
提出された購入物のリストの内容をわざわざ読み上げた我が上司・ロードナイトモン様は、ぷるぷると肩を震わせた後、ふぅー、とでかでか長々とした息をお吐きになられました。
派手派手ピンクスーツお兄さんの姿をしていても、苛立たしげな仕草でも、今日も今日とてなんだかんだとサマになっておられます。流石はロードナイトモン様。
「奴は……奴には己れが究極体デジモンであるという自覚が無いのか? デジモンが親しみやすく戯けた存在であると軽視されれば、後に被害を被るのはニンゲンの方なのだぞ」
「貴方様がいる限りそのような心配は無用でしょう。むしろピエモンさんは規定に従って毎回律儀に購入品のリストを提出してくださっている分、大分セーフなお方かと」
「規定に従うのは当たり前の事だ。ルールを守った上で模範たるのが我々究極の位に至ったデジモンの責務だろう」
全く、と。眉間に寄る皺さえ絵になるロードナイトモン様。
己れにも他のデジモンにも厳しいその姿勢は、人間世界においてナイトモンどころか全てのデジモンの頂点に立つ者であるが故に。それこそ皆の模範となる、素晴らしいお方だと。今更疑いようなどありますまい。
とはいえ。
「しかしロードナイトモン様。ピエモンさんの行為を道化の戯れだと断じるのは、それもまた早計であるかと」
拙者の言葉にロードナイトモン様の指がぴくりと神経質に動き、射抜くように鋭い眼差しがこちらへと向けられました。
はぁ〜顔良。
「どういう意味だ?」
「いかんせん、我々は『ホットケーキ』なるものがもたらす効能を、知識としては有していても、体験としては理解しておりません。実際にニンゲンと食事を共にした際に得られる情報に関しては、ピエモン様の方が多く所持しておられると見て間違い無く」
「……」
「というか向こうの圧勝です」
ロードナイトモン様の顔の良さは周知の事実なのでいちいち報告するような真似はせず、淡々と所感を述べたところ、ロードナイトモン様にある程度は納得いただけたのか、彼はふむ、と口元に細く長い指を添えるのでした。
優美。
「貴様の言にも一理ある。確かにホットケーキおよびパンケーキに関する味覚情報は有してはいない」
そもそも嗜好品の類には疎いロードナイトモン様です。美しいものを美しいと愛でる優れた感性は存在するものの、食事についてはあくまで生命維持のための行為と判断している節があって。
「で、あれば。ロードナイトモン様も一度召し上がってみるのがよろしいかと」
「私に道化の真似事をしろと」
「ピエモンさんだけでなく、ホットケーキは幅広い世代のデジモン・ニンゲンに支持されるオーソドックスな甘味。少なくとも、知っておいて損をする事は無いと思われます」
「……」
ふぅ、と今度は艶やかに息を吐いて、ロードナイトモン様は腕を机に下ろされました。
「我が右腕たる貴様がそこまで言うのなら、ホットケーキとやら、試してみようではないか」
用意できるか、とお尋ねになるロードナイトモン様の前に、拙者は跪くのでした。
「このフウマモンにお任せあれ」
*
ホットケーキミックスに、牛乳と卵。
箱に記載された説明通りに材料をボウルに入れ、混ぜ合わせます。
「あまり混ぜ過ぎないように、と……」
軽くダマが残るくらいでいい、という説明書きを信じて指示に従いさっくりと混ぜ、事前に一度熱したセラミック加工のフライパンに生地をおたまひとすくい分。まあるくなるよう、流し入れていきます。
ふつふつと表面に泡が湧き上がってきたあたりでひっくり返せば、焼け目はお手本のように綺麗な狐色。
反対側も同じように焼き上げましたら、ホットケーキの完成です。
しかしこれだけで終わらないのがロードナイトモン様の右腕というもの。
こんな事もあろうかと事前に給仕室に仕込んでおいた、この薔薇の模様に切り抜いたシートをホットケーキの上に敷いて、粉砂糖を奮えばあら不思議。甘い大地に白薔薇が咲き誇りました。
さらにさらに、隣にホイップクリームと薄切りしたリンゴで拵えた薔薇、あと本物の薔薇の蕾を添えれば、フウマモンの『ロードナイトモン様に捧げる薔薇のパンケーキ』の完成です。
真っ白な陶器の器に注いだハニーシロップと、完成前にガラスのポットで蒸らしておいた紅いローズティーを並べて、スマートフォンで写真を1枚、ぱしゃり。
良い画です。いずれ造られるであろうロードナイトモン様とのコラボカフェのメニューで、是非参考にするよう伝えなければ。
ロードナイトモン様の右腕たるもの、常に主の躍進を支えるべく先手を打っておくものです。
とはいえ、まずは目先のことを。
写真撮影を一発で決めて、冷めない内にホットケーキとローズティーを、ロードナイトモン様の元へとお給仕します。
「む、ご苦労であったな」
執務室に戻ると、書類と判子を一度置いたロードナイトモン様は立ち上がり、来客用の机とソファの方に移動なさいました。
擬態した姿とはいえ、やはりロードナイトモン様のそれは、そもそものセンスが違いますね。足なっが。ほっそ。美。
「こちらが手作りホットケーキとなります」
「ふむ、なかなか美しい装飾が施されている。見事だ」
やったあ褒めていただいた!
「恐縮です。このように元がシンプルである分、トッピングを始めとした様々なアレンジを施す事が出来るのも人気の要因のひとつかと」
「なるほど、留意しておこう。……では、実食だ」
いただきます、と、すっと両脇に添えておいたナイフとフォークを手に取って、ホットケーキを切り分けるロードナイトモン様。
一番端を一口大だけカットする事によって、薔薇の模様は依然そのままです。
嗚呼〜〜、そういうところ〜〜〜〜。
「……ふっ、悪くない」
はわぁ〜! 笑ってくださった〜!! しゅき〜〜〜〜!!
「生地そのものが充分に甘いのだな。そして柔らかい。何か混ぜたのか」
「いえ、卵と牛乳の他には。ホットケーキミックスに、既に必要なものが含まれているのです」
「つまり誰が作っても比較的同一のものが出来上がりやすい、という訳か。幼な子でも成熟した者との格差が発生しづらい以上、成長体験を感じさせるという意味でもうってつけの教材となり得るのだろう」
ホットケーキをひとくち召し上がっただけでこの考察! 聡明〜!!
「とはいえ、ある程度は作り手の腕があってこそだろう。この焼き加減は、評価に値するぞフウマモン」
「過分な評価、恐れ入ります」
普段は厳しいのに褒める時は素直に褒めて伸ばす〜!! そんな事していただかなくてもどこまでも着いて行きますよ我が主〜!!
そうしていくらかホットケーキを食べ進めてから、ロードナイトモン様はローズティーを一口。
ティーカップの似合うデジモンは何をしてもかっこいい。フウマの秘伝の忍術書にもそう書いてあります。書きました。
「ローズティーにもよく合うな」
「茶菓子、という単語もあるくらいです。お茶を嗜む際に菓子を楽しむというのも、ひとつの風情なのでしょう」
つきましては、と。外側の表情も一層に引き締めて、拙者はロードナイトモン様へと向き直りました。
「今後業務の合間に、菓子休憩、いわゆる「おやつの時間」を挟む事を推奨したいのですが、いかがでしょうか」
「……フウマモン、本気で言っているのか」
すぅ、と細まるロードナイトモン様の飴色の瞳。とっても切れ長。
……頂点に立つ騎士の鋭利さを持つ視線は、歴戦の忍者であるこのフウマモンさえすくみ上がらせる迫力がありますが、拙者の方もここまで来ればもうひと押し。引き下がる訳にはいきますまい。
「このフウマモン、ロードナイトモン様に冗談など申し上げません。適度な甘味の摂取は作業中のストレスを緩和する効果有りとの論文を拝見しました。デジモンにも適応可であるか、一考の価値はありましょう」
「……」
「加えて、恐れながら。ただの一度の体験で嗜好品を摂取する価値を判断するのは、それこそ早計かと。大衆と同じように習慣化してこそ、同様の思考に至る事が出来るのでは」
細めていた目に瞼を落として(まつ毛長ぁい)しばし沈黙した後、納得した訳ではないと表情に残しつつも、ロードナイトモン様は改めて、拙者の方を見やりました。
「他ならぬ貴様がそこまで言うのなら、試験的な導入を検討しよう」
「では僭越ながら、発案者として間食の調理は、拙者が責任を持って請け負いましょう。勿論他の業務にも支障はきたしますまい」
「当然だ。……しかし貴様が役目を受け持つのであれば、私も要らぬ心配を抱く必要が無い。今後も働きに期待しているぞ、フウマモン」
「はっ、勿体無きお言葉です」
その後、ロードナイトモン様が完食完飲なさったホットケーキとローズティーの食器を下げ、再び給仕室に戻った拙者は
「い〜よっしゃ〜っ!!」
誰を見ていない事を確認してからガッツポーズをかましました。
やった。やりましたぜ。拙者が忍者のデジタマ、略して忍タマだった当時から憧れのロードナイトモン様にお仕えし始めて早十数年。ようやく、ようやくここまで上り詰めました。
ロードナイトモン様。
強く、気高く、美しく。そして厳しく、恐ろしく。……こんな口実でも挟まなければひと休みも出来ない、不器用な方。
遠くで眺めていた時よりも、もっとずっと魅力的に感じるようになってしまったこのお方を、あらゆる手を尽くして影よりお支えするのが我が務め。
……別に、大好きなロードナイトモン様に手作りのお菓子を毎日お納めしたいだとか、そんなやましい気持ちなど微塵も抱いておりません。
ゆくゆくはロードナイトモン様が直接ニンゲンと交流する機会を設け、そうしてニンゲンにロードナイトモン様への畏敬の念を抱かせればそのうちロードナイトモン様グッズ等が製作されるだろうという目論見など全く立てておりません。
断じて。
断じて。
「……」
そしてこの先、ニンゲンの文化を建前にロードナイトモン様にお寛ぎいただく手段を増やしていくためにも、格好のサンプルケースとしてあのピエモンとニンゲンには今後も良好な関係でいてもらわねば。
忍者らしく、陰ながら応援しておりますし……何より、あれでいて。ロードナイトモン様も、あの者たちには期待していらっしゃるのですから。
「本当に、不器用なお方」
皿に付着したクリームを洗い流しながら、ロードナイトモン様がピエモンの言う「友人」と会って帰ってきた日の事を思い出して、拙者は思わず笑ってしまうのでした。
さあて、洗い物が済んだら残りの業務を片付けて、そしたら、明日のおやつを考えましょうか。
7.鍋の買い出し
「お待たせしました」
近くの公園のベンチに腰掛けていた俺の下に、ジェスター……人間形態のピエモンが駆けてくる。
事情が事情なので到着が遅れたのは仕方ないし、構わないのだが、顔の良い男が仕立ての良いダッフルコートを着込んでいる絵面は、その、シンプルに腹立つな。
「お前も大変だな。で、何だったんだ? 用事って」
2人して職場であるサーカス運営会社の事務所を出ようとしたその時、ピエモンだけが座長に呼び止められて、俺が先に目的地に向かう運びとなったのである。
「お察しの通り、むしろ用事があったのはあなたの方みたいですよ。究極体の足止めを任されるなんて、座長も気の毒に」
「……」
ピエモンは肩を竦めるが、気の毒なのは大した理由もなく引き止められていたコイツの方だろう。座長は究極体の「管理」と引き換えに、そこそこの補助金を国から支給されている訳だし。
「で、何か言ってましたか? ロードナイトモン」
ロードナイトモン。こっちに来たデジモンが問題を起こした際、その「処理」を行う機関のトップだと聞いている。
デジモンに襲われる確率が交通事故に遭う確率を遥かに下回っているこの国の現状は、彼の存在という抑止力が大きいんだとか、なんだとか。
で、そのロードナイトモンとやらが、先程ピエモンの現状を聞くためだけに、俺を訪ねて来ていたのである。
「小難しい話ばっかりだったよ。デジモンがお前みたいに面白い奴ばっかりじゃない、ってのだけはよーくわかった」
「向こうが退屈なデジモンなんじゃなくて、あなたがとびきりの面白人間なんですよ」
そうかもなと笑い合ってから、それよりも、と俺たちはスーパーに歩みを進め始めた。
全く、これで今日の特売品が売り切れていたら、国に賠償請求してやろう。
自動ドアを抜けた先の野菜売り場で、真っ先に目的のものを回収に向かう。
国の名誉は守られたようだ。ひと玉250円の白菜は、目立つところにまだ堂々と鎮座していて。
「よっしゃ。これで今日は予定通り鍋だな」
「やりましたね」
遅れてピエモンが持ってきた買い物カートに、白菜を転がす。
小ぶりではあるが、持った感じ中身はしっかり詰まっていそうだ。半分使ったとしても、今週いっぱい、何かと献立に回せるだろう。
と、俺が明日以降の献立に思いを馳せていると、ふいにピエモンが、妙に複雑そうな顔でこちらを覗き込む。
「ん?」
「火鍋ではないですよね?」
「……当分辛い料理は出さないから安心しろって」
前回の麻婆豆腐がよほど衝撃的だったようだ。「そうなんですか……安心したような、ちょっと残念なような……」と、ピエモンは道化にあるまじき曖昧な表情を浮かべている。
美味しかったけれどあの辛さはヤバい、というのが後日冷静さを取り戻したピエモンからの改めての感想で、それは辛党への第一歩なような気もするのだが、まあ、それこそ無理強いする事ではないので。
「今朝から鍋に昆布入れてあるからな。今日は水炊きだ」
「それはいいですね! して、主材の方は」
「とりもも肉も安くで出てた筈だから、今日はそれで……あったあった」
今日のお買い得品を確保してから、家にストックの無い食材を買い足す。
一番温めたいのは身体よりも懐な暮らしをしているとはいえ、鍋にはやはり、彩りが欲しいところだ。
個人的に外せないのはえのきだろうか。ポン酢に絡めたあの白くて細いきのこを啜るのは、麺類とはまた違った風情がある。水炊き以外にもあればとりあえず1品作れるので、アレは野菜室の常連だ。
今日も当然家にはあるのだが、買っておこう。
「〆はうどんと米どっちにする?」
「今日はお米の気分ですかね。ただそれはそれとして、くずきり買いません?」
「おう買っとけ買っとけ。……あ、そうだ。柚子胡椒も買っとこう」
「あー、いいですね。柚子胡椒と言えば、以前作ってもらった……」
談笑しつつ店内を一周して、最後にお買い得セットになっているビール缶をカゴへ。
支払いは一旦ピエモン持ちだ。帰宅後に半額を支払う事になっている。
会計を済ませて外に出ると、30分も経っていない筈なのに、あたりはすっかり暗くなり、気温はぐっと冷え込んで、絶好の鍋日和だ。
「うー、さっむ」
「また風邪引かないでくださいよ?」
「俺だって好きで引いたりしねーよ。はぁ〜、お前はいいよな、あったかそうな格好で」
ピエモンはふんと鼻を鳴らす。
「これ、見た目を変えているだけなので、別に暖かくはないんです」
「そうなんだ……」
「寒さには強い方なので、今はまだこれで大丈夫なのですが……ただ、人間の世界の底冷え感はまた質が違うので。今、割と真面目にこたつの購入を検討しています」
「安いの見つかるといいな」
吐き出した息が、俺の方は白くて、ピエモンのはそうじゃない。
体温は低いと、そういや前に言ってたっけか。
と、
「ロードナイトモン」
ふいに、ピエモンが俺に会いに来ていた究極体デジモンの名前を口にする。
「なんだよ藪から棒に」
「あなたに尋ねたんじゃないんですか? デジモンと親しくする上での、リスクについて」
「……」
ーー親しくするのは貴様の勝手だ。
ーーだが、万一奴が何らか事情で力を振るった際に、貴様は以降も、それまでと同じようにピエモンと接せられるか?
ーー貴様との友好関係が崩壊したピエモンが暴走するような事があったら。貴様は、軽率な情の責任が取れるのか?
今時芸人でも着ないような派手なピンクのスーツがおっっっそろしくよく似合う長身痩躯のイケメンに化けたロードナイトモンは、あんまりに長い股下に呆気に取られる俺に、高圧的な口調でそんな事を問いかけてきたのだった。
「あまり悪く思わないであげて下さい。実質汚れ仕事の担当なので、そういう事例も嫌という程見てきたのでしょうから。それに」
ーー奴の相手は、この私でも、骨が折れる。
「私、強いですからねぇ。警戒されるのは、仕方の無い事なので」
ピエモンは足を止め、ジェスターの顔の上に、いつもの白黒の面だけを出現させて、こちらに向き直る。
「おいしいものを食べる前に、胸のつかえは取っておきたいんです。……彼に何と答えたか、正直に話してもらえますか?」
仮面越しの赤い瞳は、彼が人間とは全く異なる生き物である事を、いつもよりも強く主張しているようだった。
「俺は」
……案外
「「知らん」っつった」
気にするタイプなんだなぁ。
「……はい?」
「大体、お前がデジモンじゃなくて人間だったとしても。例えば、包丁持って暴れ出したりしたら。普通にドン引きするし、事情によっては縁切るっつーの」
……その、言われてみればそれはそう、と言わんばかりの顔、俺はさっきも別のデジモンで見た訳なのだが。
「それに……そうだな、ええっと」
良さそうな例えを思いついて、俺は手に下げた袋から、買ったばかりの白菜を取り出した。
「知ってるか? 白菜って、時々黒い斑点がついてるんだけど。……これは無いけどまあいいか。兎も角、その斑点はいわば、糖度が高い証なんだ」
何故俺が急に白菜の話をし始めたのか理解できず、ピエモンは怪訝そうな顔をしていたが、黙って聞いてはくれているので、俺は構わずに話を続ける。
「でも確かに、知らなかったら傷んでるように見えるから、嫌がる奴も多いんだとさ」
「……それは、勿体ない話ですね」
「ん。……で、何を言いたいのかと言うとだな」
白菜を仕舞い直して、改めて。
俺はピエモンと向き合った。
「俺はお前が強いデジモンだってのは一般常識として知ってるし、だけど他の奴と違って、酒好きな事も知ってるんだ。……そこを知ってるか知らないかで、だいぶ印象が違うっていうのもな」
「……」
だから、と。言葉は紡ぎつつ、だんだん照れ臭くなってきて、俺はさっとピエモンに背を向けた。
「もし俺がお前にドン引きしたり怖がるような事があったら、暴走する前に、俺が納得するまで事情を説明してくれ」
そのまま、我が家に向けて、歩き始める。
「お前がそれをしてくれる奴だっていうのは、少なくとも、知ってるからさ」
……。
ちょっと。いや、だいぶ恥ずかしくなってきたな。
「……ありがとう、ございます」
後ろのアイツが、笑って言ってくれていれば良いのだが。
どうだろう。ロードナイトモンは、呆れている風にしか見えなかったけれど。
なんて思っている内に、中身はデジモンの道化が隣に並ぶ。
「さ、早く帰ってお鍋にしましょう。そろそろ私も身体が冷えてきました」
「お前が足止めたんだろ? 全くよ〜」
結局俺たちは、お互いの顔を伺ったりはしなかった。
同じ鍋をつつくときに、どうせ向かい合わせる顔だ。
俺たちは残りの夜道を急ぐ。
今日の酒も、きっと美味しく、飲める筈だ。
6.ハイボールと麻婆豆腐
「そういえば、あなたの得意料理は何なのですか? それを食べたいのですが」
問いかけに俺が固まったのを見て、人間姿のピエモンは怪訝そうに眉を寄せる。
この前の礼、とまでは言わなかったが、奇をてらわずに食べたいものをコイツに尋ねたところ、返ってきたのがこの疑問。
別に質問を質問で返すのは云々等とは言わないが、礼儀に関係の無いところで、俺の得意料理にはちょっとした問題があって。
「お前の返答によっては」
しばらく悩んだ後、俺はつたなく言葉を選ぶ。
「俺の答えは変わる事になる」
「初めて見ました。返答によって得意料理が変わる人」
いやそりゃまあ普通変わらんし、俺だって本当に変わる訳じゃないんだが。
「お前、辛いものって、イケるクチか?」
*
微塵切りにした生姜とニンニク。それから長葱。
どれもこれも平時ならチューブやパックのもので済ませるところだが、今回は俺も本気を出さねばならんので、潔く材料は揃えてある。
多めに引いたごま油にしっかりと香りを移してから、合い挽き肉を投入。軽くほぐして塩胡椒、最初の花椒を少々。半ば揚げ焼きのようにして、肉の表面がカリカリになるまで火を通す。
この工程がちょっと長くかかるのだが、こうする事で肉の旨味が引き立つのと、食感にメリハリを楽しめるようになるのだ。
「うわぁ、既にいい匂いがする……」
「気持ちはわかるけど味見は厳禁だからな。後で入れる片栗粉は、唾液の成分でとろみがつかなくなるんだ」
リスクは避けたいからな、と肉が焦げ付かないよう、しかし弄り過ぎないよう神経を尖らせる俺に、心なしかピエモンは引き気味である。
「ニンゲンが趣味の料理を拗らせる時って、大概ラーメンかカレーと聞いたのですが」
その知識はその知識で、どこで拾ってきたんだ。
「まあ両方手ぇ出した事あるけど」
「あるんですか」
「どっちも光熱費がかさむし、何より何時間も手間暇かけたやつよりレトルトの方が遥かに美味くてだな」
「まあ……真理でしょうね」
何時間も、とは言うが、企業はその何百倍、何千倍もの時間をかけて商品を開発している訳であって。
ちょっと休日を割いた程度で敵うと考えるのも、なかなかにおこがましい話だ。
「ただ麻婆豆腐はほら、好みの辛さってなると結局自分で調整する事になるから。レトルトでもひき肉は炒めるやつがほとんどだし、その辺を拘っていたらあれよあれよと……」
「なるほど」
それで、と。ピエモンは出入り口の際からフライパンを見下ろす。
「あなた好みの辛さというのが、俗に言う激辛の部類なのだと」
正直「激辛」とまで言われてもぴんと来ないのだが、辛党の「辛い」とそうじゃない奴の「辛い」に程度の差がある事くらいは知っている。
市販品の辛口より辛いんだったら、それは激辛に分類されるのだろう。
「もう一回聞いとくけど」
そろそろ肉が理想の焼き加減になってきたので、俺は調味料一式を調理台に並べつつ、ピエモンの方を見やる。
「本当に辛いの、大丈夫なんだな? 今ならまだ間に合うぞ」
「辛味って、つまるところは痛覚でしょう? 以前片足が吹き飛んだ時は思ったより耐えられたので、多分大丈夫だと思うのですが」
「ごめんちょっとその理屈というか感覚俺わかんない」
「まず熱い、という感覚が先に来てですね」
「あ、説明もいいデス」
というか、デジモンって手足が吹き飛んでも生えてくるものなのか。
まあ普段も見た目を変えて生活している訳だし、そういうのの応用でできちゃったりするのだろう。多分。
全く気にならないと言えば嘘になるが、まずは、今日の料理に集中だ。
トマトケチャップ、蜂蜜、オイスターソース、醤油。そしてシナモンをほんの、ほんの微量ずつ。それから花椒と一味唐辛子をお好みで振って、肉に馴染ませる。
「……入れて大丈夫なもの入れてますよね?」
「ぶっちゃけ前半の調味料はみんな大好き自己満足隠し味の類だが安心しろ。市販の麻婆にも入ってるもんだ。あ、ただシナモンはガチだぞ。完成時の香りが良くなるんだ」
「どうして1人暮らしの男の冷蔵庫にシナモンが置いてあるのかずっと疑問だったのですが、これ専用だったので?」
「昔は同じ理由でクミンも置いてたんだけど、あれ、ちょっと入れるだけで全部カレーの匂いになるから、麻婆には使わなくなったんだよな」
「知りませんよ」
俺の言葉数が増えるとピエモンがツッコミに回るらしい。下っ端サーカス団員同士の掛け合いは、普段とは役割があべこべになっていた。
俺は鶏がらスープの素をフライパンに振り入れる。
「あ、そこはそれなんですね」
「それこそ長時間煮込んだ鶏がらスープも、あとホタテとか海老の出汁も試したんだけど、やっぱりこれが一番美味しかったんだよな……」
まあ、真理でしょうね。と、ピエモンは先と同じセリフを繰り返した。
料理酒と水を肉が浸るくらいまで入れて、沸騰したら火を止める。
赤味噌、甜麺醤、豆板醤を溶けば少し濃いめの肉味噌スープといった様相だ。豆腐を入れれば良い塩梅だろう。
再び沸騰させてから水溶き片栗粉を回し入れ、とろみがつき始めたのを確認してから、あらかじめ大きめに切った絹ごし豆腐を塩茹でしておいたものを入れる。
煮立ったところにラー油と追い花椒をミルで挽いて、完成だ。
「待って」
ゴリゴリ
「待ってください」
ゴリゴリゴリゴリ
「さっきもそこそこの量入れてましたよね? まだかけるんです?」
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリ
「ねえ、ちょっと」
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ
*
「昔こういう必殺技を出してくるデジモンと戦った事があるような気がします」
鉢によそった特製麻婆豆腐を見下ろして、ピエモンが一言。
何故か今日は正座である。別に構わないのだが、ただでさえでかい身体が更に嵩高い。
「でも香りは無茶苦茶いいんですよねぇ」
「と、いうわけで。今日の酒は麻婆豆腐の風味を邪魔しないハイボールだ」
うちで一番大きなガラスのコップにからんからんと氷を入れて、黄金の酒が描かれた缶と共に運ぶ。
中身を注げば、準備は完了だ。
「いただきます」
と、言いつつ、俺は麻婆とハイボール、そのどちらにも手をつけずピエモンの様子を伺う。
言い出しっぺはコイツの方なので、早々に腹を括ったのだろう。恐る恐る、スプーンで一口。
「……あれ? 思ったよりは辛くないんですね。しっかりと味に奥行きがあって、普通に美味しげほっ! げほげほげほっ!?」
山椒の痺れるような辛さは、後からくる。
一口目の印象に油断して運んだ二口目が喉に効いたのだろう。ピエモンはお手本のように咳き込みながら身悶えし始めた。
その様子をBGMに、俺も自家製麻婆豆腐を一口。
あー、これだ。この辛さだ。鼻に抜ける花椒の香りと舌の痺れに、風邪の時とはまた別の熱が、カッと全身を駆け巡る。
辛さだけじゃなく、味の方も上々。あんに絡めた後でもしっかりと火を通した挽肉には歯応えがあって、混ぜてある赤味噌の風味が親しみやすいコクをプラスしてくれている。
「でももうちょい山椒足してもいいかな」
「嘘でしょう……?」
一度席を立ってキッチンスペースから花椒を持ち帰ると、既にピエモンの顎からは汗が滴っていた。
グラスを持つ手がぷるぷると震えている。
「おさけまでさんしょうのあじがひゅる……さわやかでおいひいですね……」
いい酒飲んだ時以外もバグるんだなぁと思いつつ、ティッシュの箱を差し出すと、ピエモンは白黒の仮面を外して目元にティッシュを当てる。
着脱可なんだ。
「大丈夫か? キツいなら卵取ってくるぞ」
とはいえ、多少申し訳なくはなってきた。
足が千切れても大丈夫なら山椒の痺れも大丈夫だろうと完全に自分の好みで作ってしまったのだが、口の中は割合デリケートだったらしい。
一応お礼のつもりだったのに趣味の押し付けになってしまって。そうなると罪悪感を覚えなくはなくて。
が、
「いえ、お構いなく。……おいひいのは本当においひいんです。クセになる、というヤツでしょうか。辛いのに、手は止まらなくて」
普段使っている人間の姿よりもはっきりとした白塗りの顔立ちで、ピエモンはふにゃりと力なく笑う。
「得意料理と言うだけはありますね」
舞台用の、笑みではなかった。
……ちょっと瞳の焦点が定まっていないけれども。
「……食後にアイスも用意してあるから。まあ、その、なんだ。がんばれよ」
「わあいやったー」
俺も花椒を足した麻婆豆腐の続きを食べ進める。挽きたてはさらに香りが強く、そこに流し込んだハイボールの炭酸が痺れた舌の上で弾ける感覚は、普段の酒とはまた違った風情がある。
だからと言ってこれ以上の辛さは勧められないなと、反省混じりの苦笑を浮かべながら、後で昔の怪我とこの麻婆豆腐、どちらがキツかったか尋ねてみるべきだろうかと、ずっと鼻を啜っているピエモンを見ながら一考するのだった。
5.甘酒とうどん
「あなた、馬鹿じゃなかったんですね」
開口一番のシンプルな罵倒に、俺は思わず鼻をすすった。
もちろん涙を流しての事ではない。単純に鼻水が止まらないのだ。
「お前の冷たさで熱引いてきたわ」
「それは何より。はいこれ○えピタ」
「ちべたぁい」
わざわざ買ってきてくれたらしい冷却シートを額に張り付けて、改めて固いベッドに身を横たえる。
少し動いただけなのに、関節がぎしぎしと軋んでいるような気さえした。
着ぐるみの内と外の寒暖差は入社したての頃から身に染みていた筈なのに、むしろ慣れからついつい油断してしまったらしい。
ちょっと喉に違和感を感じたと思ったら次の日には38°超えときた。身体の丈夫さは、数少ない取り柄だった気がするのだが。
「悪い、わざわざ来てもらって」
「構いませんよ。ニンゲンの風邪はうつらない筈ですし」
薬局の袋がカサカサ揺れたかと思うと、こつん、と固いものが卓上に置かれる音が響く。
顔を向けると、紅白の配色がなんかめでたいっぽい感じがしないでもない、飲み物の缶が置かれていて。
どうやら、甘酒のようだった。
「安かったのと、栄養があると聞いて買ってきました」
「たすかる。もうちょっと寝たら飲ませてもらうわ……」
額が冷えてきたのが功を制したのか、また徐々に瞼が降りてきた。
しっかり休んでくださいね、と、アイツにしては気の利いた台詞を、聞いたような、聞かなかったような。
判別もできない内に、意識が微睡みに飲まれていく。
*
風邪を引いて家に1人残される平日の昼間を、幼かった俺は、むしろ好いていたようにさえ思う。
偏食の過ぎる父と、自然食志向を拗らせた母。
俺たちは家族なのに、これっぽっちも食べ物の好みが合わなくて、俺の好きな食べ物を両親がおいしいと言ってくれる機会が訪れる事は終ぞ無かった。
共働きの両親が家を空けている最中、台所から調味料をこっそりと拝借して、昼食としてテーブルに置かれた、夕飯や母の弁当からあぶれたおかずなんかに俺独自の味付けを施すのがちょっとした楽しみになる程度には、俺はどうやら、腹以外の部分に餓えを覚えていたらしく。
1人で食う飯が、気楽で良かったのだ。
……だから、1人で食う飯が好きなんだとばかり、思って生きてきた訳なのだが。
*
「ん……?」
いうて昼間ずっと寝ていたせいか、眠りが浅かったのだと思う。
コンロのスイッチを押す音が目覚ましがわりになって、俺の瞼は自然と持ち上がった。
「おや、起きましたか。ちょうど良かった」
等言いながら、寝ている間に帰ったとばかり思っていたピエモンが、キッチンスペースから顔を覗かせたので、なんだなんだと俺は重い身体をどうにか起こす。
「帰ってなかったのか」
「どうせ施設に戻っても暇なだけなので。うどんを作るなどしてみました」
「うどん……」
ぼんやりする頭で料理の名を繰り返すと、片手鍋を持ったピエモンが部屋に戻ってきた。
微かに判別できる鰹っぽい香りから察するに、恐らくうちに常備してある市販の出汁が使われている。
「冷蔵庫に入っていた刻みネギ、今日までだったので全部入れましたよ」
「ん」
見れば見るほど、シンプルなうどんだ。出汁にカット済みのネギを散らしただけ。
なので、コイツの指が絆創膏まみれになる理由が無いのだが。
「そういうムーブは普段つんけんしてるタイプのヒロインがやるから価値があるんだぜ……」
「きっとあなたには一生縁が無いのだと思うと憐れで仕方がなかったので、気分だけでも味わって欲しかったのですよ」
「もうこの際つっこまねぇから絆創膏無駄遣いするなし」
「あ、これはニンゲンに化ける技術の応用で、テクスチャが貼り付けてあるだけです」
そんな勿体ない真似はしませんよと手を振ってみせるピエモンの指をよーく見ても、ぶっちゃけ本物との違いはよくわからない。
というか、なんでそう、料理以外の部分に無駄な力が入ってるんだ。
「それで、どうですか。食べられそうですか? 無理そうなら自分で食べますが」
「いや、食べる。ありがと」
やさしい出汁の香りは、即席のものだとしても日本人の食欲を刺激する。
腹が空いた感覚自体は無くはないのだ。ここはありがたくいただこう。
「いただきます」
いつの間にか添えられていたお椀に鍋から適量を移して、ずるずると啜る。
1玉推定20円前後のうどんは茹でると軽く持ち上げただけでぶちぶち千切れるぐらいやわらかくなり、体力低下中の身体にはむしろありがたかった。
せっかくなので、先程もらった甘酒の缶も開ける。
ゆっくりと口に運ぶと、日本酒の香りにそのままの味を付けたような、名前の通りの甘い味と、どろりとふやけきった米のような感触が、腫れた喉に心地良い。
カシュ、とプルタブを引く音が聞こえて顔を上げると、自分の分も買ってきていたらしい。ピエモンが同じデザインの缶を開けていた。
「甘酒って、アルコール飲料ではないのですよね」
「ちょっとは入ってるらしいけどな。……別に、お前は好きなやつ飲めばいいのに」
そもそも、ここまで気を遣ってくれなくてもいいのにと視線を食べさしのうどんへと落として付け足すと、ピエモンは珍しく神妙な面持ちで息を吐く。
「そうは言っても、脆弱でしょう? ニンゲンって」
「うわぁ、上位種族のもの言いだ。腹立つ」
「哀れなり、定命の者よ……」
「いやデジモンも寿命自体はあるだろうが」
でもまあ、結局ふざけたやり取りになってはしまったが、コイツが俺を心配してくれていたのは、十分に伝わってきた。
「ありがとな」
その事を一々追及したりはしなかったけれど、お礼の言葉は、素直に伝える。
ピエモンはクスリと微笑んで、それから
「べ、べつにあなたのためにやった訳じゃないんですからね!」
と、わざとらしく顔を手で覆って、絆創膏風テクスチャを見せびらかすのだった。
雑ながら一貫性のあるキャラ作りに、道化としてのプロ意識を感じる。いや、やっぱり感じない。
……と、そうこうしながら普段の倍以上の時間をかけてうどんを完食すると、ピエモンは鍋と食器を洗った後、どう考えても指に絆創膏を貼り付けるような手合いが作るものとは思えない程見事な薔薇のリンゴ細工を残してさっさと帰っていった。
「早く良くなってくださいね。あなたがいないと、つまらないので」
とは、アイツの去り際のセリフである。
こんなに甲斐甲斐しく世話を焼きにきたあたり、本当に今日一日、退屈でたまらなかったのだろう。
……俺がピエモンと、『ジェスター』でしかなかったアイツとどうにか仲良くやってみようと決めたのも、アイツがあんまりにもつまらなさそうに、1人で飯を食っているのを見かけたからで。
1人で食う飯は、気楽でいい。
でも、孤独が好きだったわけじゃない。っていうのは……なんというか、その昔。主観で見聞きしたような話だったので。
「……」
甘酒の後のリンゴはどうしても酸味が勝っていて、あと実のところ、うどんはほとんど味が判らなかった。
鼻が詰まっているせいか、アイツが出汁以外に調味料を入れていなかったか。
「でも、おいしかったな」
ごちそうさまでしたと手を合わせる。
お礼に次回の宅飲み時に手の込んだものを用意してやらなきゃならんので、この後もしっかり、休ませてもらおう。
4.赤ワインと3種のポテトサラダ
「解禁だー!!」
「解禁ですよー!!」
俺たちは2人して、買ったばかりの赤ワインのボトルを掲げた。
11月の第3木曜日は、休みでなくとも酒呑み待望の記念日だ。
待ちに待った、ボジョレー・ヌーヴォの解禁日。
愛想を振りまく着ぐるみの中身とミステリアスな雰囲気を売りにしている二枚目ピエロの脳内が、今月初頭からこの日でいっぱいだったという真実はちびっ子達には気の毒な話だが、きっと彼ら彼女らも、大人になれば、解ってくれる事だろう。
目的の品を入手後はピエモンを連れて家賃4万円の俺の城へと直帰。手洗いの後、シンクの前へと降り立った。
「シェフ、本日のメニューは」
部屋に上がるなり擬態を解いたピエモンが、廊下と半ば一体化したキッチンスペースを覗き込む。
人間形態の方が広々と空間を使えそうなものだが、やはりくつろげるのは、本来の姿の方らしい。
「今夜我々がいただくのはポテトサラダです」
舞台に立つには半人前未満として、職場じゃ着ぐるみの中か物販のカウンター前かの裏方担当だというのに、ここじゃリングの花形でさえ、俺に向かって手を叩く。
ワインに口をつける前から、俺たちは浮かれ切っていた。
ピーラーで手早くじゃがいもの皮を剥き、濡らしたキッチンペーパーで包んで電子レンジへと仕事を託す。
皮付きのままの方が良いのは百も承知だが、切り込みさえ入れれば火を通したじゃがいもの皮がするりと剥けるなんていうのは恐らく都市伝説だ。そちらに手を取られるよりも、こちらにはやりたい事がある。
フライパンに厚めに切ったベーコンを並べて、火を点ける。油が染み出して弾けだした頃に、スライスした玉葱もぶち込んだ。
そうこうしている内に、じゃがいもの加熱が終わったらしい。
俺はキッチンペーパーを剥がしたじゃがいもを、フォークを添えてボウルごとピエモンの元へと運んだ。
「荒めに潰しといてくれ」
「私に圧砕を任せるとは、あなたも命知らずですね。私、その気になれば地面も割れちゃうんですよ?」
「おうおう気をつけてくれよ。ここ賃貸だし、耐熱ボウルはそれだけなんだ」
了解しましたよと愉快そうに口角を上げたピエモンを背に、キッチンへと戻る。
この後使うマヨネーズのメーカーが提供する約7分の料理番組のテーマが聞こえてきたあたり、いっぱしに料理人気分のようだ。
俺は焼き色のついたベーコンと玉ねぎを転がしてから、今度は既に調理済みのポテトサラダが入ったタッパーを冷蔵庫から取り出して、食卓の方へと持っていった。
「出来上がったものがこちら」
机に置くと、マッシュ済みの芋と俺を二度見するピエモン。
にやりと笑ってみせてから、いい具合に潰してもらったじゃがいもを回収した。
「って、緑……?」
明らかに普通のじゃがいもとは色が異なるのに気付いたようだが、中身のお披露目は食べる直前に、だ。
炒め終わったベーコンと玉ねぎをマッシュポテトのボウルへと移し、マヨネーズは控えめに、マスタードをアホほど投入。混ぜ合わせれば、完成だ。
「お待たせ」
もう1つの作り置きが入ったタッパーも一緒に運んで行くと、机には既に紙皿とワイングラスが並んでいた。
「シェフの気まぐれ3種のポテトサラダだ」
「料理自体はお洒落ですが、盛り付けすら破棄したおもてなし精神の薄さは残念極まりないですね。星3つです」
「おう3つくれるのかよありがとな」
席に着いて、どちらかがポテトサラダを盛っている間にどちらかがワインを注ぐ。
お互いに準備が整ったところで、手を合わせた。
「いただきます」
できたてのホットポテトサラダをまずは一口。まあ組み合わせからして不味い筈も無く
、粒マスタードの刺激がまた心地よい。
いよいよ口に含んだボジョレーのフレッシュな酸味とも、相性は上々だ。
「いいですね、恐らく100年に1度の出来です」
去年だったか一昨年だったかに聞いたフレーズを口ずさむように呟きながら、朗らかな表情でグラスを傾けるピエモン。
相変わらず、若干悔しくなるくらい、本当に洋酒がよく似合う。
その次にピエモンが口に運んだのは、後から出した方の作り置きだ。
こちらは芋を潰さずキューブ状にカットして、何種類かの豆とマヨネーズ、胡椒で和えてある。
「このポテトサラダに入っている緑の豆は、ひょっとして」
「ん。この前冷凍しといた枝豆の残り。あとはミックスビーンズの水煮缶だよ」
「彩りが鮮やかで、食感も楽しいですね。尚のことタッパーと紙皿なのが悔やまれます。星3つ」
「おうサンキュー」
雑な天丼を挟んで覚悟を決めたのか、少々恐る恐るといった様子で、ピエモンは件の緑色のポテトサラダをスプーンの上に乗せた。
こちらは粒が目立たなくなるまで丁寧に芋を潰した冷製のサラダだ。
さて、口に合えば良いのだがと、俺も一度ワイングラスを置いて反応を見守る。
赤い唇の向こうに緑のポテトサラダが消えると、ピエモンは少し驚いたかのように目を瞬いた。
「口当たりがすごくまろやかなのに、ぷちぷちした食感と辛味が……。あ、これ、明太子ですか?」
「そ。明太子と、それからアボカドだ」
アボカドと明太子がパンに合うという話を聞き齧ったのだが、なら芋にも合うだろうという俺の勘はやはり正しかったらしい。
未知のポテトサラダの正体を知ったピエモンの表情は徐々に綻び、赤ワインの進みも目に見えて良くなった。
「どれも結構なお点前です。今世紀最高の出来といったところでしょう。後はお酒と料理の雰囲気に合わせた調度品が欲しいところ」
「で、総合評価は?」
「星3つですね」
「やりぃ」
俺たちは今年も最高のワインを注いだグラスを軽く打ち合わせて、それから、にやりと笑い合うのだった。
3.日本酒と油揚げ
「ちょっといい日本酒が手に入ったんだが」
「大丈夫ですか? 日本の警察は優秀だと聞いているのですが」
「法に触れるほど酒カス極めてねぇよこの歩く銃刀法違反が」
それでも信じられないものを見るような目をしたピエモン(今はジェスター……人間に化けた姿だ)に、「懸賞だよ、懸賞」と俺はことの経緯を説明する。
「隣町の酒屋でやってたんだ。購入金額に応じて応募できるやつ。当たったのは酒じゃなくて半額クーポンなんだけど、折角ならたまにはいいやつ飲みたいだろ?」
「ああ、なるほど。景品そのものを当てたと言われたらまだ信じられないところでしたが、それなら納得できる範囲ですね」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「……」
「せめてなんとか言えや」
育ちの良さそうな青年の顔で無駄に意味深に微笑んだ後、ピエモンはおどけた道化らしく肩をすくめる。
「でもまあ私、犯罪者と付き合いがあると判断されたら即デジタルワールドに強制送還なので。だからあなたはこれからも、清く正しい酒カスでいてくださいね」
「なんか嫌な響きだなぁ」
「それから、時に酒カス」
「なんだよ酒カス」
こほん、と勿体ぶった咳払いを挟んでから、ピエモンは作り物の顔で、コイツ本来の笑みを浮かべる。
「その半額になった日本酒を、さらに半額で飲む方法を知っているのですが」
「俺の飲む量も半分になりそうなんだが」
「いわゆる天使の取り分というやつですね」
「よく言うよ暗黒系」
とはいえ、俺がコイツに声をかけた時点で、それは決まっていた事でもあって。
「ま、最初からそのつもりだよ」
*
「ほんとだ……ほんとのほんとにちょっといいお酒だ……」
小刻みに震えながら卓上の純米大吟醸の文字を指でなぞる様はその手の中毒を彷彿とさせたが、この酒を店から持ち帰った時の自分の姿を振り返ると確実に人(デジモンだが)の事は言えなかったので、俺は沈黙を貫いた。
この手の酒は少し冷やすといいらしいのだが、室温が低いのでその点はクリアだろう。隙間風吹き荒ぶボロアパートの数少ない美点である。という事にしよう。
と、そんな風にピエモンが日本酒に引き寄せられている内に、俺は部屋の隅に鎮座する、使い古した小型のオーブントースターのコンセントを挿して、机の上まで持っていく。
「おや、スルメでも炙るんですか?」
「いや、もっといいもんだよ。俺的には」
一度キッチンスペースに戻って冷蔵庫から取り出した「もっといいもん」をピエモンに向かって見せびらかすと、大層な襞襟に隠れた彼の喉元が、それでもごくりと生唾を飲み込んだのが伺えた。
「油揚げ……!」
しかも、こっちも普段より少しだけいいヤツだ。
20円ほど。
トースターの網にアルミホイルを敷き、4つに切り分けた油揚げを並べて、約5分。
急いでキッチンに戻った俺は適量切り取った大根の下側をすり下ろし、ピエモンには醤油とネギ、生姜を運ばせた。
ネギはパック、生姜はチューブだが、流石にそれらにまで調理工程求めるような真似はしてこなかった。省ける手間は適度に省くのが料理を作る側も食事を楽しむコツなのだと、以前言った事を覚えてくれているのかもしれない。
おろし金とセットになっているタッパーとガラスのコップを運んでいると、ちょうどチン、と、トースターが焼き上がりを知らせる小気味良い鐘の音を鳴らす。
蓋を開くと、香ばしい匂いがふわりと溢れ出した。
「もう……もう匂いがおいしい……」
アルミホイルごと取り出してそのまま皿代わりにしても、ピエモンがいつものようにずぼらを突っ込んでくる事は無かった。
赤い燕尾の向こうに左右に揺れる狐の尻尾でも幻視してしまいそうだ。油揚げはお稲荷様だけでなく、道化師にもウケがいいらしい。
油揚げにネギと生姜醤油だけ先に散らして、それからコップに透き通った酒を注ぐ。
文句なし。準備は万端だ。
「それでは今日の良き酒に」
「乾杯」
今回ばかりは儀式みたいに軽くコップを掲げあって、それからくいと中身をあおる。
際立つ米の酒特有の香りが舌に甘みを錯覚させ、しかし同時にすっきりと引き締まった風味が喉を突き抜けて行く。
「料理酒じゃない……!」
「普段も一応料理酒じゃねぇよ」
しかしピエモンから飛び出して来るのはそんな感想で、俺自身も割と似たような事を考えていたので、俺たちはとことん残念な酒飲みだった。
一種涙ぐむような表情で、ピエモンが今日の肴である油揚げを齧る。
焼き立てを頬張った故に見るからに熱そうな息を漏らす事数回。それからしばらくざくざくという音が響いて、その後に。嚥下を済ませてもう一度酒を口に含んでから、ピエモンは白黒の仮面越しに眉間を押さえた。
「おいひい……」
普段の饒舌はどこへやら。ついに語彙力を見失ったらしい。
ハンカチ代わりにそっと真っ白な大根おろしを差し出すと、ピエモンはそれを油揚げの上に盛れるだけ盛るのだった。
大根に熱を逃して食べやすくなった油揚げ1切れをぱりぱり食べ切って、酒の残りを喉に流し込むピエモン。
瓶に手を伸ばしたので次の1杯を注ぐのかと思いきや、彼はむしろ瓶の側に自分の身体を引き寄せた。
「ここに住む……!」
「……がんばれよ、住所の変更手続き」
限界を迎えた同僚を眺めながら、値の張る酒をもったいぶってちびちびと口に運ぶ。
焼いた油揚げが最高の食べ物であるのは解り切っていたが、ピエモンの取り乱しようが思わぬ肴になり過ぎて、今日のおつまみを食べるのは、生姜醤油が狐色にもう少し染み込んでからでもいいかと、俺は軽く頬を緩めるのだった。
2.缶ビールとガーリック枝豆
枝豆の処理は時間との勝負だ。
いかに早くさやの両端を切り落とし、汚れとうぶ毛を洗い流し、茹で上げるか。かかった時間によって味にまで影響が出るという話だが、反面、かかる手間は野菜の下処理の中でもトップクラスと言っても過言ではない。
「『トランプソード』!!」
なので、うまい豆とビールが欲しけりゃ手伝えと同僚のピエモンを焚き付けたところ、コイツ、普段は国に預けてある自分の武器を持ち出して、よりにもよって枝豆のさや切りに使いやがったのである。
そこまでしろとは言っていない。
言っていないが、滅茶苦茶時短になったのは事実だった。
「でかしたピエモン」
「これきりにしてくださいよ? 武器の持ち出しには申請書類が5枚も要るんですから」
「いや、こっちは普通にハサミとかで手伝ってもらうつもりで……ううん、いや、助かったよ。悪いな、手間かけさせて」
でも、書類は兎も角申請がよくこんな短時間で通ったなと、枝豆を塩でもみ洗いながら問いかけると、彼は軽く肩を竦める。
「そこは、アレです。究極体の圧で」
「究極体の圧」
国のお役人も大変なんだなと、いちサーカス団員たる俺は遠くを眺めた。
「ちなみに、持ち出しの理由は何て書いたんだ?」
「「野菜の下処理」」
「野菜の下処理」
まあ、うん。
嘘ついてないもんな。国も解ってくれるさ。
「それだけ私も本気だったんですよ。枝豆は、私も思い入れが深いので」
そういや、コイツと最初に宅飲みした時のおつまみも枝豆の塩茹だったっけか。
「ならひとつ残念なお知らせだぞピエモン」
「え?」
「あの時の豆は黒枝豆。薄給なりに奮発した、ちょっといい豆だ」
「……今回は?」
「一袋98円だった」
道化の唇が真一文字を描く。
「ふぅ〜ん? 多少私と親しくなったからって、出費を抑えた上で私の事こき使っちゃったりするんですねあなた。へぇ〜? はぁ〜。かわいそうな私のトランプソード。こんなに枝豆のうぶ毛塗れになって」
「それは知らん。知らんし、その分ひと手間加えるつもりだったんだが、宮廷道化殿が安物の枝豆は嫌だと仰るなら」
「あなたはやる時はやる男だと信じていましたよマイフレンド」
コイツ、笑顔でいけしゃあしゃあと。
……ま、先にも言った通り、枝豆の処理は時間との勝負。
ピエモンとの小芝居はここいらで切り上げて、俺は茹での作業に取り掛かる。
大きめの鍋で沸騰させたお湯に、塩と枝豆をぶち込んで、茹でている間にニンニクをみじん切りにする。
3分程で豆の半分をざるに上げ、粗熱を取る。こいつらは冷凍して、後日別の料理に利用する予定だ。
残りも通常の茹で時間より少し早めに回収し、空いた鍋底でニンニクとごま油を炒め始めると、匂いに気づいたピエモンもにわかに目の色を変え始めた。
水気を切った枝豆も一緒に炒めて、最後に軽く回し入れた醤油が馴染んだら皿……ではなく、水切りに使ったざるへと、枝豆は逆戻りだ。
「そういうところ風情が無いですよね、あなた」
「洗い物を減らす知恵と言え」
料理の完成を嗅ぎつけたピエモンが、冷蔵庫からビールを2缶回収していく。
気を使ったというより、ニンニクの香りにそそのかされた食欲の仕業だろう。
かく言う俺も作りながら唾が湧いて来たので、急いで食卓へとざるを運んだ。
「どーぞ、ガーリック枝豆だ」
「ありがとうございます。それでは早速」
いただきます、と、手を合わせてから、揃ってカシュ、と、2人して手が伸びたのは銀のプルタブ。
特に乾杯等することも無く、俺達はぐびぐびと、缶の口から溢れかけた白い泡を流し込んで、その喉越しを楽しんだ。
そうしてから、どちらともなくニンニクで香り付けした枝豆を口に運ぶ。
美味しい豆を食べている時無言になるのは、人もデジモンも共通らしい。部屋を支配するのは咀嚼音ばかりで、つまりはそういう事だった。
……初めてコイツを部屋に招いた時も、この静けさに酒飲みとしての共通点を見出して、それが心地よかった事を覚えている。
人と違う事をやってみたいと息巻いて地元を飛び出した若造と、ヒトと同じ事をしてみたいと世界を飛び越えてきたモノ好きと。
真逆の事を考えた、種族の違う似た者同士。誰にせよ何にせよ、やっぱり、ビールと枝豆は美味かったのだ。
「不思議ですね」
ざるの中の豆が半分程になったあたりで、ようやく手を止めたピエモンが口を開く。
「何がだよ」
「さやごと炒めているのに、中にもしっかり香りが移っているなんて。以前のシンプルな塩茹でも最高でしたが……はぁ、自分の完全体がヴァンデモンでは無かった事と、明日の休みにこれ程感謝した事はありません」
「ヴァンデモン?」
「吸血鬼のデジモンですよ」
「ああ、なるほどね」
ピエモンは新しいさやを手に取って、唇で中身を口の中に押し出す。そしてまたビールをあおってから、彼はサーカスの観客も他の団員も知らない、ただの笑顔を浮かべるのだった。
「この豆は、まるで私達みたいですね」
「その心は?」
「特に考えてません。適当言いました」
「だと思ったよ」
なんとなく、彼の言わんとせん事もわかりそうな気がしたのだが、ごま油とニンニクの香り、そしてビールの泡立ちを前にはあまりにも些細な話過ぎて、俺たちはまた、無言でガーリック枝豆をつまむのだった。