本作はヤギ様・作 【#ザビケ】逢魔が時に蛟は嗤う の第二話となります。
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──例えるなら、僕は。いいや、僕“達”と言った方がいいか。
だから言い直そう。
──例えるなら、僕達は、結局のところどこまでもガキだった。
そこに自覚なんてなく、僕も僕を取り巻く学友と言うべき彼らも、中学生になったところで何も変わりはしない。
それは当たり前のことだ。やれ大人としての第一歩だのやれ小学生の頃とは違うだのやれ義務教育最後の三年間だの言われたって、僕達は結局どこまでも僕達でしかなく、果たして小学校の卒業式、もしくは中学校の入学式というボーダーラインを以て途端に別の人間に変わったりはしない。それが人生において大したイベントではないという意味ではなくて、僕達はどこまでもそれ以前の僕達という人間の延長線上にいる僕達でしかない。
バブルと呼ばれた好景気が弾けて。
半世紀ぶりの大きな地震があって。
世間を騒がすような事件が起きて。
世紀末を間近に控えた今、最近の若い者は理解できないと大人達は言う。たった一つの命の大切さが叫ばれる今、テレビゲームに熱中する僕らを見てそれらを忘れた子供だと大人達は嘆く。都心部では大人達だって忘れているのに、隣人愛や信頼などをお題目に、取り返しの付かない命を無碍にしてはならないと大人達は叫ぶ。
それに反抗心なんてない。だって命は尊(とうと)ばれるべき、愛は尊(たっと)ばれるべき。そんなのは当たり前のことだから。
だからそれを叫ぶ大人達、テレビの中にいる批評家達に反発を抱くとすれば。
僕達にとってそれは、誰かから押し付けられ、植え付けられるものではなく。
きっと誰かと関わっていく中で、自然と自覚していくべきものと思うからだ。
デジタルモンスター。戦うたまごっちと呼ばれた電子生命体。
1997年、21世紀を間近に控えた僕達はそれと出会った。
デジモンは一度育てばやり直しが利かない。進化を重ねた果ての未来(すがた)はそれ以前の過去(すがた)があればこその到達点で、そこに己に都合の良い未来を選び取れるような機能は無い。ならば僕達と同じだ。常に満腹を是とする者やトレーニングに勤しむ者、規則正しい掃除や就寝に拘るか否かも千差万別、ドッグの中にいる彼らは間違いなくそんな僕らの人生(リアル)を映す鏡のようだった。
そんなデジモンもいずれ死ぬ。次に生まれ落ちるタマゴを前世と重ねて同様に育てるか、はたまた違う姿を目指して育て直すかさえ人それぞれで、そこに良い悪いはない。そこに唯一の共通項があるとすれば、どんな強く育てた命だってやがて尽きるという一点。僕らは否応なしに生と死に関わるようになり、それらを学んでいく。
その出会いが僕達を変えたなんて大仰なことは言えない。けれどペットを買ったことの無い僕にとって、たとえ電子の上のプログラムだとしても彼らの存在は間違いなく真実(リアル)であったし、デジモンを育てる中で交わす友人達との会話や出来事もまた、掛け替えのない絶対(リアル)なはずだった。
だけど本当にそう思えていたのか。
僕はデジモンによって育まれた人間関係(リアル)を思えていたのか。
後悔はしないように生きるべきと両親か友人に教わった。
無論、僕も可能な限りそうすべきだと思っている。
それでも今、きっと僕は後悔に苛まれている。
見るべきものがあった。
助けるべき命があった。
それなのに、僕は。
○
「………………」
洗面所の鏡を見れば酷い顔。
元々自慢できる容姿なんて無かったが、今日の僕は一段と酷いと思えた。
笑えるぐらい食欲が無く、意識すら覚束無い。食卓にいるだろう、そして間違いなく「何かあった?」と聞いてくるだろう母にどう取り繕ったものか考えただけでも憂鬱になる。とはいえ、理詰めで考えたところでどうにかなる問題ではないということは、悲しいかな僕自身が一番よく知っていた。
「何かあった?」
果たしてリビングで予想通りの言葉を発した母に、僕は震えそうになる口の端をグッと噛み締めて「何も」と返した。
誤魔化せているとは思えない。親子として十数年付き合ってきた身だ。されど両親に言ったところで解消される問題ではない。一切の食欲の無いまま、恐らく学校に着く前にどこかで吐き出してしまいそうな確信がありつつも、母を心配させたくない一心で用意された朝食を口の中へと掻き込んだ。
あの後のことは走馬灯のようだ。
這う這うの体で濃霧から抜け出した僕は、駆け付けた警察官に何を言えばいいかわからず、後からVTRで見せられたら爆笑しそうな程度にはしどろもどろになって小林君と土屋君の鞄を差し出していた。現れた未知の生物のことを伏せておけたのが奇跡なぐらい、その挙動不審ぶりは下手をしたら、警察からしたら僕自身が犯人だと思われた恐れすらある。幼い時分より努めて冷静であろうとしてきた僕だけど、いざという時にはこんなものだ。通報者として居合わせた西山にすら真実は言えていない。
だけど何て言えば良かったんだ?
キーチェーンの中にいるはずのキャラクターが現れて。
それは僕の親友と呼べる彼が育てていたはずのもので。
実体化したそれがもう一人を食べてしまっただなんて。
言えない、言えるはずがない。信じられるわけがない。
隣にいた西山だって僕のことを気が触れたと思うだろう。僕だって実際に見ていなければ信じられない。だけど底なし沼から前半身を出して鎌首を擡げるシードラモンの姿が脳裏から離れないんだ。あれには食害した土屋君に対する明確な怒りがあった。野生動物にありがちな獲物に対するものではなく、己のテリトリーに踏み入れられたことに対するものでもない。デジタルモンスターが人間を喰うのかはともかく、餌としての人間もしくは人間の肉に対してではなく、あの土屋君に対してこそ見せる怒りだった。
それは、つまり。
「うっ……」
気分が悪くなる。いや悪いなんてものではなく、これ以上考えれば食卓に盛大にブチ撒ける。
台所に向かっている母に気付かれぬよう、よろよろとリビングを去る。いつも通りの「行ってきます」を発したつもりだが、それは驚くほどか細く響いた。
返事も待たず鞄を小脇に抱え、玄関を出ながら僕は思い出していた。
昨日の夕刻、警官を前に顔を青くして必死に取り繕う僕を嘲笑うように鳴り出した電子音。
ピピピッ、ピピピッ。
聞き慣れたそれは僕のティラノモンからの呼び出しではなかった。
ならば小林君のデジモンから鳴ったものかと思えばそうではなく。
警察官が怪訝そうな顔を浮かべて手を差し入れて取り出したのは。
土屋君の鞄、有名なイヤイヤのモーションを取るメラモンだった。
〇
「……何があった?」
家を出た僕の前に立ち塞がる西山の姿に、ヒュッと喉が鳴った。
千年の恋も冷めるとはよく言うけれど、半日ほど続いた吐き気と倦怠感は弁慶の如く仁王立ちする西山を前にして霧散した。尤も、この弁慶は九郎判官を守るどころか決して逃がさぬという意思がある点で、忠義の士どころかむしろ敵性勢力に類するのだが、そんな英雄も土足で逃げ出す幼馴染の威容と相対すれば自然と僕も心が決まる。言葉自体は母とほぼ同じだというのに、意図するものがまるで異なるという点だけ取っても日本語って奴は面白い。
だけど正確に言うなら、心自体はとっくに決まっていたんだ。
「おはよう、西山」
軽く咳払いをして一瞬だけ競り上がってきた胃酸を飲み込みつつ、西山の横を通り過ぎる。
彼女がついてくることなんてわかっている。振り返らずとも今にも爆発しそうな不機嫌な顔を浮かべていることも。
「何があった?」
疑問はダカーポ。メゾフォルテからフォルテッシモへ、いや元々西山は声が大きい方ではあるが。
「……言った通りさ。土屋君は鞄を遺して底なし沼に呑まれ、すぐ傍には小林君の鞄があった。それが意味することは一つだろう」
「トランシーバーが使えなくなったのは?」
「さてね。あんな濃霧が発生するなんて話は聞いたことが無かったけど、その所為じゃないか?」
これで西山が納得してくれるとは思えない。
しかし今はこれ以上言える言葉がないのだ。西山に協力を依頼したのはそもそも僕だったが、だからこそ不明瞭なこの先に立ち入らせるべきではない。
瞼の裏に焼き付いて離れないんだ。声にならない絶叫と共にシードラモンの口に呑まれていく土屋君の姿が。咀嚼すらされることなく海蛇の体内で消化されていくのだろう彼は、遺体が上がらないという結果だけを見れば底なし沼に呑まれたのと相違ない。そう考えなければ僕の心があの光景を昇華できない。
「警察は多分、アンタが二人を沈めたって思うよ」
「……だろうね」
そんな気はしていた。西山という他人の口から改めて言われると相応に来るものがあるけれど。
「私はそうは思わない。竹馬(たけうま)の友だしね」
「竹馬(ちくば)の友な」
「うっさい。……でも土屋もデジモン育ててたなんてね」
「残念だ。同好の士として存分に語り合えただろうに」
僕の顔を覗き込んだ西山の顔が、あからさまな嘘を吐くなと告げている。
「メラモンね。アグモンとベタモン、どっちから進化させたんだろね」
「ベタモンじゃないか?」
彼が規則正しい育成を行うとは思えない、たとえ冗談でもその台詞は口にしなかった。
そんな程度には死者──いやハッキリと死んだと知っているのは僕だけなのだが──を悪しきに言うものではないという認識はありつつ、僕の中で土屋洋介君が決して褒められた人柄ではなかったという認識もまた変わることはない。もし彼がデジタルモンスターを愛でる同志だったとしても、恐らく僕や小林君とは相容れなかっただろうことは断言できる。
でもだからこそだったのだろう。土屋君がデジモンを持っていたという事実に驚かされた結果。
「そういえば小林の鞄にはデジモン無かったらしいじゃん? 小林、学校には持ってこない派だっけ?」
最も大切なその情報を、僕は忘れていた。
〇
小林君に加えて土屋君まで行方を晦ました。
担任の早田先生から正式な発表があったわけではないが、そんな情報が瞬く間にクラス中に広がっていた。早田先生が始業時間に姿を見せて「すまないが自習時間で頼む」とだけ告げたことが真実味を増していた。先生は去り際に「後でまた職員室に来てもらえるか」と僕に言ったことで、教室の注目がこちらに向いたことだけは想定外だったけれど。
なるほど、小林君はともかく土屋君の顛末を僕は知っている。現時点では口外するつもりはないが、それを目途が立つまで誤魔化し続けなければならないと考えると、西山の言う警察が僕を怪しむ流れも強ち間違いではないのかもしれない。少なくとも形式上、僕が犯人を庇っているのは事実なのだ。
「昨日、あれからどうだったんだよ?」
田村君の言葉には伺うような色がある。
「……先生に話した後で言うよ」
顔を上げるとこちらを見ていた西山と目が合い、どちらともなくプイと逸らした。
西山は昨日から既に六割程度関わらせてしまっているが、一方で田村君は現時点ではまだ聴講者(オーディエンス)止まりだ。ならば僕の方から安易に情報を提供すべきではない。
暫し事件関連の話題は避け、他愛のない会話に花を咲かす。本来なら常にこうできているはずなのに、たった一日で随分と変わってしまった。先週までならおずおずと会話に入ろうとする小林君もまた、確かにクラスの一員だったはずなのだ。
「そういえば弥浦のそれ、時計じゃなかったんだよな」
だからこれは確認だ。
「そうだね。先生には時計ってことで誤魔化してるけど」
「ずる賢いなぁ……で、この恐竜みたいな奴って何?」
「ティラノモンっていうんだ。小林君も持ってたのは覚えてるかな」
他愛ない話の中での、ただの確認だ。
「おー、そういえばブツブツ言ってたな。シー……なんたらモン? に進化したとかどうとか」
そこには別に、何の意味も無い。
〇
職員室は昨日と変わらず早田先生一人、ではなかった。
「初めまして」
恭しく頭を下げた初老の男は挨拶通り初めて見る顔だったが、薄汚れたトレンチコートと鋭い眼光からして刑事だなと直感できた。というより、あまりにも刑事ドラマに出てくるような老刑事そのものといった風貌だった。
「和久刑事だ」
先生の言葉にどこかで聞いたような名前だなと思いながらも、僕はその某刑事の握手に応じた。
「あの後、周囲一帯を調べてみたんですがね」
おずおずと切り出す和久刑事。飄々としながらもこちらを試すような老獪さがある。だけどそれを素人で小僧の僕に悟らせる辺り、それすらも撒き餌なのではないかと不安になる。
気押されてはいけない。少なくとも僕は犯人ではないのだから。
「どうも小林君は何かを沼に落として、それを引っ張り上げようとしたみたいですなぁ」
「何かって、何でしょう」
「それがわからんのですわ。あそこは底なし沼、いや周辺を幽霊区画なんて呼ばれてますがね、実際あの沼に沈んで上がってこないホトケさんが昔から沢山いるって話で……」
気付けば喉がカラカラに渇いている。
きっと和久刑事は敢えてこちらが喰い付きそうな情報を投げている。少なくとも未解決事件の話題をその辺の中学生に振るはずがないのだから、それがわかるのに喉の渇きが抑えられない。この刑事は間違いなく僕が警察の持ち得ない情報を有していると確信していることが一つ、もう一つは警察が本格的にあの底なし沼を調査することになれば彼らが再び現れたシードラモンと遭遇することになるのではないかということ。
「刑事さん、そういう話を生徒にするのは……」
早田先生はいい教師だと思う。そこで刑事を嗜めてくれるのは実に常識的だ。
だけど今、必要なのは常識じゃない。少なくとも教師よりも警察よりも情報を持っているだろう僕が、更に先に進む為にはどうしても警察の持ち得る情報も必要となる。
「……多分ですが」
だからこれは駆け引きだ。
覚悟が要る。これは親友との関係や思い出に泥を塗る行為かもしれない。それでも今朝忘れたはずの吐き気を再び催しそうな不快感に耐えながら、僕は鞄から外してきたそれを和久刑事に差し出す。
これで一歩進めるとしたら、身や魂を削るような感覚にも耐えてみせよう。
「小林君が沼に落としたのは、これだと思います」
デジタルモンスター、縮めてデジモン。
僕の相棒であるティラノモンが、ウンチを一つした状態で吼えていた。
「おや、これは一体……?」
「電子ペット……のようなものです。小林君と僕は共に育てて、対戦するなどして交流していました」
隣で早田先生が「時計じゃなかったのかぁ」などと呟いているが無視した。
「小林君の鞄の中に、これは無かったですよね?」
「……確かに無かったように思いますな。いやしかし、土屋君の方の鞄には……」
「土屋君も持っていたようですね。それは僕も知りませんでした。ですが、少なくとも土屋君の鞄に入っていたデジモンは土屋君のもので間違いないと思います」
「何故そう言い切れるのですか?」
「育てているデジモンが違うからです。僕のこれはティラノモン、土屋君の育てていたのはメラモン、小林君のものは……シードラモンのはずです。現状、本体間でデータをやり取りする機能はありませんし、それぞれ最低でも五日ほど育てないと今の姿にはなりません。ですから土屋君の鞄の中に入っていたものが、小林君から取り上げたものであるという線は消えるはずです」
ふむと顎に手をやって考え込む和久刑事。
とはいえ、僕としてはデジタルモンスターの作りやシステムを刑事に語るつもりなど無い。
「僕からも一つ、お聞きしたいのですが宜しいでしょうか?」
「ええ、私に答えられることでしたら」
この件にデジタルモンスターは重要ではないのだ。そう思わせなければならない。
和久刑事の言う通り、小林君が何かを底なし沼から引き上げようとして逆に落ちたのなら、それがデジモンであると考えれば合点が行く。合点が行くのは実際にシードラモン、小林君が育てていたはずのそれを目にした僕だけかもしれないけれど、とにかくその流れは理解できる。現時点で警察には小林君はデジモンを拾おうとして沼に落ちた、ただそれだけの事件だと認識していてもらわなければならず、そして僕が考えなければならないのは何故シードラモンが現れたか、であるがそれを考える為にはまだ情報が不足し過ぎている。
だから駆け引きであり取り引きだ。友人との思い出を売った以上、僕にも相応の対価を貰う権利がある。
「和久さんは先程、あの沼には沢山の死体が沈んでいると仰いましたが」
僕の言葉にしまったと言いたげな仕草を取る和久刑事だが、それはもう演技だと丸わかりだった。
「後々になって上がることはないのですか? 沼の底を調べたりとかそういったことは……」
〇
夕焼けの教室。
「ふぁ……」
大あくびをしながら窓の外を眺めている西山の背中に、僕は声を掛ける。
「多分だけど、その内西山に頼る時が来ると思う」
「今度はバーガーだけじゃ割に合わない奴だ?」
不貞腐れた様子はなく、冗談めかして僕の悪友は顔を向けずに言う。
僕のことを意外にアツい奴だと昨日西山は言ってくれたけど、実際のところはきっと違う。僕はどこまでも怜悧で冷静で冷淡だ。感情では動けず理詰めでこそ初めて行動できる、でもだからこそ理屈の上であの時ああできたこうできたと後悔ばかりを口にする。もう変えられない過去ばかり見ている癖に、ただ淡々と自分の思考が正解であると信じて動き出す。
だからそれが間違っていたとしても、せめて。
「デートって奴はどうかな? 勿論僕の奢りでね」
死亡フラグって奴を、建てておこうと思う。
〇
確証があった。
理由はわからずとも理屈は理解した。
だから僕は太陽が落ち始めると同時に動き出す。二日連続で塾をサボってしまいどうしたものかという悩みがないでもないけれど、少なくとも今はこちらを最優先しなければという確信がある。それが正義感とか西山の言うアツさだとか、そういった僕という人間の善性に根差すものなのかはわからなかった。というより、考えただけで気恥ずかしくなってくるから考えないようにした。
「……さて」
景色に影が落ちる。時刻はまさしく逢魔が時。
商店街を抜けて駅前へと向かう。目的地は決まっているから僕の足の進みは淀み無い。きっとこの街で僕だけが答えを得ていた。デジモンを育てており、シードラモンが土屋君を喰らう様を見届け、和久刑事から情報を得た僕だけが理解できた。それを思えば西山にも話せるはずが無い、言えるはずが無い。そしてその果てにどうするのかなど決めないまま、僕は動き出してしまった。
周囲を濃霧が覆い出す。二回目であり覚悟ができていた以上、それに驚きはない。
歩き慣れた駅前通りなら濃霧が覆ったとて迷うことはない。しかし今の時間なら往来の会社員や主婦で賑わうはずの道に人っ子一人いないというのは実に不気味だった。
ドゴン。
盛大な爆発と共に、前方へ薄っすらと浮かび上がる建物の何階かの窓が、周囲の壁ごと弾け飛んだ。
まるで内側から何者かに殴り砕かれたかのような、というかまさしくその窓を壁ごと殴り砕いて現れたそれの姿がぼんやりと僕の視界には収まっていた。遺留品──と呼んでいいのかは知らない──はあの辺りで保管されているのかと漠然と思った。
言うまでも無く、その建物は警察署だった。
ピピピッ、ピピピッ。
予想通りアラームが鳴る。僕の腕の中、育てた相棒が激しく吼えている。
濃霧と同様、二度目となれば慣れたもの。それでもティラノモンが伝えたい感情は一度目とは違って見えた。引き返せ、お前がこんなことをする必要はない。僕を急かすように吼えていた一度目とは違い、そんな雰囲気を感じるのは僕の心構えの違いだろうか。16×16のドットで何がわかるんだと大人は言うだろうが、それでもまだ未熟なガキである僕は、自らが育てた相棒の感情を信じたいし感じたい思いがあるんだ。
そしてそんな相棒の咆哮に呼応するかの如く、警察署の壁を破壊したそれが振り向き跳躍、僕の正面に降り立った。
「……メラ、モン」
考えていた通りとはいえ、濃霧の中いざ対峙すると冷や汗が止まらない。
いやチリチリと全身から吹き上がる炎に数メートルの距離で焙られている今、果たして僕から出ているのは冷や汗なのか。
その肉体を炎のみで構成、まさに火の神(アグニ)の化身と呼ぶべき威容を持つデジタルモンスターは、僕とその手に握られたティラノモンを見据えて動かない。それでも僕らを見つめる炎の化身の顔に在るのは、昨日対峙したシードラモンのような怒りと憎しみではなかった。人間とデジモン、共に在る僕らを目の当たりにして目を細める彼の胸に去来する感情は、きっと。
「オオオオオオオオオン!!」
嘶く。それはまるで月夜に吼える狼のよう。
僕らに手出しをすることはなく、メラモンは再び跳躍して去っていく。行き先はわかっているから焦る必要はない。
それでも謝罪しよう。
確かに褒められた生徒ではなかったかもしれない。小林君を苦しめていたのも事実なのだろう。
だとしても明確なのは、あのメラモンの顔にあったのは育成者への哀悼と寂寥。
土屋君。
君は少なくとも、メラモンにとってはいい親だったんだな。
昨日、彼が喰われた直後に鳴り響いたアラームを思い出す。
メラモンのイヤイヤはきっと親を、相棒を失ったことへの哀しみだったのだ。
〇
昨日と同じように濃霧に満ちた幽霊区画を僕は進んでいく。
どうしたわけか既に人払いは済んでいた。警察がたった一日で捜査を切り上げて去るとは思えないから、理屈など全くわからないがこの濃霧には何かしら人間を遠ざける機能があるのだろうか。警察署の周辺、メラモンが現れた際にパニックが起きなかったことからもそれは伺える。そしてもしそうだとしたら、僕がそれに振り回されず濃霧の中に足を踏み入れられている理由は何なのだろう。
「……いや、答えは出ているな」
ドッグをグッと握り締める。するとティラノモンは再び甲高いアラームを鳴らした。
アラーム、警告音。
これ以上進むと戻れなくなるぞとティラノモンは告げている。
知っているが止まるつもりはない。
後悔がある。最後に小林君に会った親友として、彼がこうなったことに責任があると思っていた。
そして本当に僕の考えている通りなら、あのシードラモンを止めるのは僕でなくてはならない。
「オオオオオオオオオン!!」
濃霧の奥よりメラモンの嘶きが響く。戻ってきてくれ、もう一度会いたい、そう思わせる哀しい咆哮。
油断なく足音を立てぬよう慎重に近付いていく。
そうして底なし沼の前、予想通りメラモンはそこにいた。彼はブクブクと泡立つ沼の前に跪いて必死に手を伸ばそうとしている。炎そのものである彼は入水することはできないが、それでもそうせずにはいられない。そこには確かに人間とデジタルモンスターの絆というものがあって、状況が平時であれば涙ぐましい光景だったかもしれないけれど。
ザアッ。
沼の水面が弾けると共に、予想通り“彼”が姿を現した。
「小林、君」
木陰に隠れて状況を伺いながら僕は呻いた。
ああ、どうして忘れていたのだろう。
何度目かのティラノモンが死んだタイミング、僕は小林君と彼のデジタルモンスターを求めて商店街を回って最後の一つを手に入れた。そうして彼とデジモンについて語らうこととなったのだが、まさしく同時期に次のデジモンを育て始めた僕がアグモン、ティラノモンと進化させていく中で、小林君もまた僕と対照的なデジモンに進化させていたではないか。
即ちベタモン、シードラモン。沼より現れた巨大な海蛇は、僕の親友が育てたモンスターだった。
「──────!」
声にならない咆哮と共に、シードラモンがメラモンに襲い掛かる。
咄嗟のことで反応が遅れたメラモンは、素早く態勢を立て直すも大口を開いて噛み付こうとするシードラモンの顔を拳で弾いた直後、続いて迫る胴体には反応できず一瞬でその体を絞め上げられてしまう。
だがメラモンとて高熱の塊。それに自ら巻き付いたとなれば、シードラモンは体表を炎に焼かれるに等しい。
そのはずなのに。
「──────!」
止まらない。鱗より煙を上げながらもシードラモンはメラモンを絞め上げることをやめようとしない。
そこにあるのは多分、憎悪と憤怒だった。
シードラモンは、小林俊夫君は、目の前のメラモンを土屋洋介君としてしか認識していなかった。
「オオオオオオオオオン!!」
そしてそれはメラモンも同様。
絞め上げられながらも自由な両腕で、シードラモンの胴体を必死に殴り付ける。
返せと、吐き出せと、そう叫ぶように自分を育てた親が吞まれたであろう海蛇の胴体をただ殴る。
その瞳は涙すら流しているようだったが、灼熱の肉体は己のそれすら一瞬で気化させてしまう。
「小林君……土屋君」
魅せられることなんて無い。
初めて見る本当のデジタルモンスター同士の戦いは、哀しい殺し合いでしかなかった。
とはいえ、戦いは一方的であった。長大な肉体を持つが故に自力で勝るのか、メラモンを絞め上げたシードラモンは徐々に彼を沼へと引き摺り込もうとしていく。メラモンの足が大地から離れた瞬間、彼の体は一瞬で水中へと沈められて勝負は決する。それはまさに昨日の同時刻、シードラモンに丸呑みとされて一緒にこの沼へと沈んでいった彼の親と同じように。
それを僕はきっと、ただ見ていることが正しい。
時刻は逢魔が時、それを過ぎれば戦いは終わり人間の世界は元通りとなるだろう。人の身で対抗できるはずもない二体の怪物がいて、それらが互いに潰し合って一体に減るのならそれが最も効率的だ。
ピピピッ、ピピピッ。
それを良しとしない。許容できない。
最早耳障りと言っても差し支えないほど甲高く鳴り響く相棒をその場に放り捨て。
僕は底なし沼へと飛び込んだ。
〇
先の職員室にて。
「あの沼ね、最近できたばかりのはずなんですが噂が絶えないんですわ」
和久刑事は僅かに目を細めて言う。そこに演技も冗談もなく。
「刑事としてファンタジーめいたことを言うのはアレなんですがね」
「……ファンタジーとは?」
「沈んだ者は決して上がってこないとか、引き摺り込まれたら帰れないとかだけならともかく」
そこでフゥと肩を竦める和久刑事。笑わんでくださいよ、そう言いたげに僕を横目でチラリと見た。
「別の世界に繋がってるんじゃないかなんて与太を、周囲の住民達が語っとるんですわ」
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大地に立つ。
三度生まれ変わっても叶わなかった感触に全身が震える。
やめろと警告した。止まれと助言した。
それでも止まらなかった自らの親の蛮勇を嘆く。
だとしても、その無謀さの果てがこれなら称えよう。感謝しよう。
そよぐ風。足元で肌を薙ぐ草。沼地特有の湿った空気と踏み締める土。
全てが全て、ドッグの中では味わえなかったもの。
そして視線を正面に向ければ、何よりも得難いもの。
自分と同様に実体化した二体のデジタルモンスターの姿。
しかも一体は決着の叶わなかった宿敵と来れば、これに勝る幸運があろうか。
GYAOOOOOOOOO!!
吼える。世界の全ては我が手にあると見せ付けるように。
GYAOOOOOOOOO!!
吠える。自分にこの実体を与えてくれた親に届くように。
GYAOOOOOOOOO!!
咆える。だからこれは歓喜の声。だからこれは感謝の声。
親友とそのモンスターがこれ以上暴れるのを止めねばならない。
そんな一人の少年の勇気を依り代に。
ティラノモンは、大地に立つ。
【後書き】
タイトルはこのタイトルでいいのか!?
というわけで、年が明けちゃいましたがザビケ二話投稿させて頂きました。97年の初代デジモン発売当時なら任せろーバリバリ。なんて言いつつも、マメモンに進化するティラノモンシードラモンメラモンの三竦みを全く逆に覚えていたのは内緒。
当時はコロコロで「育て方次第で違ったデジモンに進化する! 持ち寄ってバトルだ!」なんて煽られてましたが、いや実際に育ててみるとクラスにグレイモンかヌメモンしかいねえなんてのがザラでしたが、まあやはり理想としてはクラスの皆が違う成熟期に進化してバトルする姿が見たいというのがありますよね。そんなわけで、あっさり死んだ土屋君も「実はデジモン好きだった」なんて設定を勝手に付けてしまいました。だが私は謝らない。
初代発売時点だと“テイマー”って単語はあまり出てきてなかった気がする(自分が聞いたのはペンデュラムの頃)ので、作中では敢えて親とか相棒という表現にしておきました。西山さんは一話時点だと弥浦君に対する感情がよくわからんかったので、まあ比古師匠みたいなジョーカーキャラなんだろうということで脇に置いておく所存。女の子優遇したくなる(酷い目に遭わせるという意味でも)自分としては奇跡の扱い。
ところで弥浦君の下の名前って、一話で出た……? 主人公の名前が出ない涼宮ハルヒ形式なのか!?
そんな感じで二話でした。
え? 和久刑事?
97年だし湾岸署の〇かりや〇介に決まっとるやろ!
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