前回のお話
◇
ノイズに飛び込んだ先、広がる黒い海が嵐の如く荒れ狂っている。
荒廃とした陸地に激しく波が打ちつけて、下手をしたら直ぐに海に飲み込まれてしまいそうだった。
「ここが、ダークエリア……?」
ゆっくりと空から降り立つ羽衣香が、小さく言葉をこぼす。
バイタルブレスが柔らかく光を放ち、薄らと照らし出した光景は、ダークエリアに一身を構えていたヘカテモンですら予想出来ていなかったものだったらしく、仮面の下に苦い表情を浮かべていた。
「侵攻が思ったより早いね、……気絶してしまいそうだ!」
「う、ぐッ……」
羽衣香の腰を抱いていたアステリアーモンが小さくうめき声を上げる。
羽衣香には何も感じてはいないが、アステリアーモン、ヘカテモン、そしてフツコの辛そうな表情に何かが既に起こっていることは明白だった。
急いで足が着けられそうな高台へと降り立つ。
「みんな大丈夫……?!」
「あの海から出てる訳わかんねえナンカに当てられてンだよ、なんでお前だけ無事なんだ?人間」
突如掛けられた聞きなれない声に、羽衣香が反射的に視線を向ける。
紫の仮面に黒づくめの服、巨大な真っ黒の羽を羽ばたかせるその男は、赤い眼で鋭く羽衣香を品定めするように睨みつけている。
「暴食の魔王……?!しまった、いつのまにこんな近くに!」
動揺した声音のヘカテモン。
突然現れたデジモンに、フツコが素早く警棒を構え、アステリアーモンも庇うように羽衣香を抱きしめた。
羽衣香は赤い瞳をまっすぐに見つめ返し落ち着きはらって相手と対峙する。
「……こんにちは……!」
「あいよこンちは……なんだお前、チビのくせに割と肝が据わってンな?」
慌てる周りを他所に、動揺しつつも礼儀正しく挨拶をする羽衣香の胆力に、『魔弾の魔王』ベルゼブモンは悪い気はしないようで、軽く口笛を吹いて、口角を釣り上げる。
「羽衣香です、あなたは?」
「ベルゼブモン。……人間もだが、オマケに見たこともねえデジモンに、なんかキモい感じのやつ……。チビ、お前ここに何しに来たンだぁ?」
「忘れ物を届けに来たの。羽衣香の親友がここにいるから」
「なるほどなァ。……う"おい!」
羽衣香から視線を逸らし、ベルゼブモンは下に向かって声をかける。
ベルゼブモンの声が静かに反響したのち、下からキラキラと輝く光がこちらに向けて近づいてきた。
まるで星のように輝く光。まるで金星のようだが、ミカモンではないのは羽衣香にはよく分かっていた。
金髪を靡かせた美しい顔立ちの男が、白い羽と黒い羽を羽ばたかせてその姿を現す。
さァ、とヘカテモンの顔に青がさす。
多分この美形も魔王と呼ばれるものなのだろう。ふと、頭の中によぎる、星の伝説。
輝ける星の美貌がありながら、その身を地に落とした金星の天使。
「わたし羽衣香です、あなたは……ルシフェル?」
羽衣香以外の3人の空気が凍りつく中放たれた言葉。
その言葉に男は驚いたような表情を見せ、すぐに顔を柔らかくほころばせて小さく笑いをこぼす。
「……フフ!そうだけど、ちょっと違う。ぼくはルーチェモン。きみ人間だけど結構面白いかも。気に入ったよ。なんかアレに関係あるみたいだし、殺さないであげる」
「ありがとうルーチェモンさん。あのねルーチェモンさん、羽衣香達、星を探しているの。小さな……このくらいで、ミカモンっていう子なんだけどね」
「ふーん。見たことはないかも。でもあの海の中に答えはあるんじゃないかな」
崖下に広がった荒れ狂う黒い海が、更に激しさを増している。
落ちたらひとたまりもない。
ヒヤリとした感覚が身体に走った時、バイタルブレスが激しく脈打つような感覚を手首に感じて反射的に目をやる。
バイタルブレスの画面では、2つのパルスが激しく躍動していた。
ひとつはミカモンだが、あとひとつは先程現れたのだろうか。まるで、怒りを表しているかのような激しい脈動だ。
「……ミカモン……?」
海を見つめて小さく呟いた瞬間。
足元の海に渦潮が発生し始め、うねりは更に荒々しくなっていく。
「……ミカモンじゃない、あなたは誰、あなたは……?!」
「なにか、来るね」
ルーチェモンの言葉と、ピィー!と甲高いアラームがバイタルブレスから放たれると同時に、渦潮の中心から1体のデジモンが飛び出し、まっすぐにこちらへ飛び出した。
長い烏帽子に、手に持った巨大な錨。目元は烏帽子に隠れて見えず、まるで幽鬼のような血の気のない肌色に白い髪の毛を持つ痩躯のデジモン。
シャナモンのような人間に近い姿でありながら、生を感じない。船幽霊のようだ。
ボロボロの袴に纏う、山型をした星座だけが、ゆらゆらと妖しく光を放っている。
そのデジモンの姿を見た瞬間、アステリアーモンの腕に力が入る。
酷く動揺したように、大きな瞳が震えていた。
「羽衣香!気をつけて!多分狙いはお前さんだ!」
『 emuzis oy ihsoh emuzis emuzis !! 』
水の中で喋るかのような響きで船幽霊デジモンは叫ぶと、碇を振り回して羽衣香達に襲いかかる。
巨大な碇を避けたベルゼブモンがすかさず二丁拳銃を構えて発砲するが、船幽霊デジモンはゆらゆらとまるで実体のないように動きまわり弾が当たらない。まるで本当に船幽霊のように。
「気持ち悪ィ奴だ……」
「油断は禁物だよ」
「気をつけて!そいつ消えるわ!」
アステリアーモンが叫ぶ。
魔王2体が警戒を高めるのを察したのか、船幽霊デジモンの姿が突如ブレ始め、そのまま姿が消えた。
「消えちゃったよ?!」
「ステルスさね、気をつけなッ」
ぶん、ブゥ、ン……
船幽霊デジモンは不気味な音と同時に残像を映しながら周りを回遊する。
姿を現したかと思うと、片手に持った碇を振り回し、再び姿を消し……執拗に魔王2体とヘカテモン達を狙い続けた。
『 esokoy omorogah esokoy !! 』
耳に響く叫び。
羽衣香を抱いたアステリアーモンの眼前、強襲をかけてきた船幽霊デジモンが現れた。
隙をつかれた。
記憶データに過ぎる惨劇。
咄嗟に反応ができずに目を見開くしかできない。
羽衣香が声を上げるより先に、アステリアーモンの顔面に一撃が放たれた。
強烈な一撃に耐えられず吹き飛ばされる体から、小さな羽衣香の体が呆気なく離れてしまい、船幽霊デジモンはそのまま三つ編みを乱暴に掴みかかった。
髪を無遠慮に引っ張られる痛みに、羽衣香から小さく悲鳴が上がる。
「羽衣香ちゃんに触るなァーッ!!!!」
ヘカテモンが動くより先に、フツコは身を乗り出し、勢いのまま飛び出した。
「ウオオオオオーーーッ!!!!!!」
裂帛の声を上げ、胸に手を当てた瞬間、激しい光がフツコを包み込む。
進化の光だ。
「『迅雷廻天戟』ッ!!!!!」
力強い踏み込みから、鮮やかな蛍光グリーンの雷光を振り払って姿を現したバウトモンの一撃が船幽霊デジモンの左頬を捉えた。
羽衣香の三つ編みから手を離した船幽霊デジモンに、勢いのまま電気を纏う拳と蹴りを叩き込み続ける。
まだふらつくアステリアーモンを受け止めたヘカテモンも、第3の巨腕を伸ばして落ちそうな羽衣香を掌で受け止めた。
「許さないッ!お前だけは!お前だけは絶対に許さないッ!お前だけは俺が絶対に殺してやる!!!」
反撃の暇も与えない。
船幽霊デジモンに容赦なく拳を叩き込む気迫に、流石の魔王2体と魔女も手が出せない。
羽衣香はその様子を呆然と眺めるしかない。
「死ねッッ、死ねェッッ!!!!!」
最後に顔面に一撃を叩き込まれた船幽霊デジモンは、そのまま黒い海へと叩き落とされていった。
静まり返るその場に、バウトモンは肩で息をしながらその場で膝をつく。
あまりにも衝撃の強い展開に、流石の魔王も顔を見合せる。
「ドキモンちゃん」
羽衣香が静かに声をかけるが、名を呼ばれても、バウトモンは振り返らない。
「ドキモンちゃん、ありがとう。羽衣香を助けてくれて」
「……」
「……ドキモンちゃん」
「違う、俺は、私は、フツコ。香取経津子」
頭を垂れて、耳をそばだててようやく聞き取れる声でバウトモンは答える。
「……人間の器の中に入っていたわけか。人間の姿なのにデジコアの鼓動を感じたから妙だと思ってはいたけど」
「違う!私は人間だ!私は……」
「ドキモンちゃん、もういいんだよ」
ルーチェモンの言葉を遮るかのように叫ぶバウトモンだが、羽衣香の小さな手が肩に触れたと同時に身体を大きく震わせた。
「羽衣香ちゃん、」
「羽衣香ね、知ってたよ。フツコさんがいなくなってたこと。ドキモンちゃんがフツコさんの代わりになってたこと」
背中を撫でる優しい手。
バウトモンは目を見開き、ひゅう、と冷たい呼吸を吸い込む。
「だって、フツコさんはいつもブラックコーヒー飲んでるし、スーツはいっつもタバコのにおいがするんだもん。
ドキモンちゃんはいつもフツコさんに、ミルクがいっぱい入ったカフェオレが胃に優しい、タバコは体に悪いって言ってたもんね」
あの時。
アリスモンに負けた羽衣香達を助けに来たフツコから、コーヒーとタバコのにおいが混じった苦くて煙たいにおいがしなかった。
少しぎこちなく笑う顔、ぎこちなく振る手。
フツコは、そういうことをするような愛想の良い女ではなかった。
「もしかして、ママとアステリアーモンを助けに行った時にフツコさんに何かあったのかなって思ってたの。でも、ドキモンちゃん、羽衣香が不安にならないように……」
「違う!!!」
バウトモンが髪を振り乱し叫ぶ。
「俺は!あの時アステリアーモンのテイマー……君のお母様を助けられなかった!その上、俺が、俺が弱かったせいで、進化できなかったせいで、フツコが俺を庇って……」
あの時。『デーロス』で起きた惨劇。
腹部を碇で潰され、事切れた羽衣香の母・オリコを必死で起こそうとするアステリアーモン。
相棒を庇った碇の一撃でデータ体の半分を破壊され、目の前でデータ崩壊していく大切なテイマー・フツコ。
「フツコは、」
敵をどうにか退け、縋り付くバウトモンにフツコはいつもの鉄仮面を向けて、既にデータ崩壊が始まっていた指先をそっとバウトモンの手の甲に乗せた。
『無様だな。誰が相棒になるデジモンはいくらでもいる、だ。
お前がデリートされるなんて、考えただけで肝が冷える。
……バウトモン、私をロードしろ。
もうこの体はもたない。
お前にロードされたなら、お前のデジコアの中で私は共に居られる。
私は、羽衣香を守る使命を、果たさなければならないから。
今まで奪い続けて、何も守れなかった私の最期の願いだ。
頼むよ、バウトモン。
……
私は……お前の経津主神になれなかったな。
……ごめんね』
「フツコは君を守るって、ずっと言ってたから、俺はフツコの残った体でフツコになって君を守らなきゃって。……でも俺は未だに進化ができない。進化出来たら、フツコに、君のお母様を守れた、こんなことにはならなかったのに……!」
自責の念に駆られ蹲るバウトモンの話に、羽衣香はただ耳を傾ける。
「ドキモンちゃんはアステリアーモンも守ってくれたし、フツコさんの約束守ってくれたよ。……羽衣香のことも助けてくれたよ。ちゃんとフツコさんみたい」
「羽衣香ちゃん……。ごめんね、俺……」
『ソラ、……モドリ、タイ……ハゴロモ、ヨコ、セ……ッ!』
バウトモンを労っていた羽衣香のバイタルブレスが甲高いアラームを放つと同時に、辺りに水にくぐもる声が響く。
バウトモンが羽衣香を急いで抱き寄せ、海を睨みつけると、落ち着いていた黒い海が再び波を起こし、荒れ狂っていた。
太い柱のようなものが突き出し、更には強風が羽衣香達を今にも吹き飛ばさんと吹き荒れ始める。
黒い海の中心を竜巻が舞う。
その真ん中に、誰かがいる。
「どうやら殴られ足りないみたいだぜ」
「ふぅん、一筋縄じゃいかないわけね。船幽霊くん」
ルーチェモンが腕を振り、目の前に魔法陣を展開する。
「『マリシャス・スネーク』」
パキン、と軽快に指を鳴らせば、巨大な蛇のようなビームが魔法陣から複数放たれ、変則的な軌道を描きながら竜巻へと直撃した。
ルーチェモンの攻撃で、竜巻が勢いを失い、無数の柱が突き出す黒い海が凪を取り戻す。
そして竜巻の主はゆっくりと、柱の1本に降り立った。
星型を逆にしたような黒い大きな笠から伸びる真紅の短冊飾りが風に揺れる。
長く幽鬼や海月のように揺れる白髪。
鮮血のような赤からどす黒くグラデーションする長い袖からは、腕の存在が見受けられない。
まるでコンパスのような脚の装甲。
痩躯でありながら、放たれる威圧感は凄まじく、笠の下からこちらを見つめる紅には、憤怒と憎悪が宿っているのは明らかだった。
「船幽霊くんといい、君といい、見たことないね。……名乗りなよ、魔王の前だよ」
『……ワガ、ナ、ハ……カカセ……カカセモン……。カイヨウ、ニ、シズム……ホシガミッ……!
キンセイ、ト、ツルギノ、カミヨ……ミナソコ、ヘ、……シ、ズメッ……!!!』