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快晴
2021年4月03日
  ·  最終更新: 4月29日

『Everyone wept for Mary』第4話

カテゴリー: デジモン創作サロン

≪≪前の話       次の話≫≫


 数年ぶりに太陽を見上げたあの日、俺の目尻からは止めどなく涙が零れ落ち続けた。

 陽の光を美しく感じただとか、そんな感動的なシチュエーションでは無い。ただ単に、俺の目玉が天上の光球に耐えられなかったのだ。



 酒の肴にとせめてもの色彩を求めて外していたサングラスを、溜め息交じりにかけなおす。

 すっかり慣れてしまったこの疑似的な薄暗がりのせいで、今や俺の瞳には、常に『迷路』を満たす光すら負担になってしまっているらしかった。


 『迷路』に昼夜の概念は無い。強いて言うならデバイスが表示する時計の針だけは外の世界が基準になっているらしく、デジモン達は何故かその針の動きを順守していて、だから人間の側も、おおよそ彼らに倣って生活している。


 燦然と輝く太陽も夜の帳も無い世界での暮らしが長過ぎたせいで、俺の眼は光を調節する機能がきちんと働いていないのだそうだ。

 詳しい事はわからんが、昔一度だけ行った病院とかいう施設で偉そうな白衣がそう言っていたので、そうなのだろう。


「何が勝利の美酒だか」

 不味い酒だ。度数が弱いのか酔わずにむしろ頭が冴えてしまい、嫌な事ばかりを思い出す。

 レンコがゴブリモンに持って来させた俺宛ての報酬がそんな安物だとは思いたくなかったが、何にせよ、口に合わない事だけは確かであって。


 店の中で飲めば、お天道様にさえ見放されたクソガキからは目を逸らせるかもしれないが、店内で酔っ払っていいのは客だけだし、人を幸せに酔わせていいのは『絵本』だけだと決めている。


 店の壁に預けていた身体を持ち上げ、酒をデータに変換してデバイスの中に仕舞った。

 口を付けてしまったが、こんなものでもルルに渡せば二束三文には変えてくれるだろう。


 今日は、もう寝よう。

 流石に聖騎士狩りは疲れた。絶対に、もう二度とごめんだ。

 どうせそういう訳にもいかないんだろうが、兎に角今日はもう眠って、忘れたい。



 そう、思っていたのだが。



「……」

「……」


 店の扉の方を向くなり、そこから半身だけを覗かせたリンドウが、じっとこちらを見つめていた。

 ご丁寧に、背後には彼女の姿勢を真似たモルフォモンまでくっついている。


「どうした、リンドウ」

 歩み寄ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。

「もしかして、眠れないのか」

 こくり、と小さく頷くリンドウ。

 一方でモルフォモンは、パートナーに付き合っているだけなのか普通に眠いらしい。ふあ、と口を広げて大あくびをかましている。


 まあ、こんなナリでも根は怪物のモルフォモンと違って、リンドウは子供だ。

 メアリーの食事は見ていられても、同じ舞台に立たされるのは、流石に堪えたのかもしれない。


 あるいは、単純に。

 何時まで経っても暗くもならない『迷路』の壁が、彼女に夜を知らせてくれないのだろうか。


「じゃあ、絵本でも読んでやろう。店の商品じゃないヤツだ」


 中身は電脳麻薬と言えども、パッケージが美しい方が客にもウケが良い。

 普段リンドウを住まわせている部屋の本棚にあるのは、『絵本』という名の薬の装丁の試作品兼本物の『ただの絵本』だ。

 文に関しちゃ童話集から引っ張って来たモンだが、絵だけは全て、俺が描いている。


 絵は、唯一の特技だった。もちろん、何の役にも立ちはしないんだが。



「さ、どれにする?」

 部屋に戻った俺の前で、リンドウが本棚から迷いなく一冊の絵本を取り出す。


 『しっかり者のすずの兵隊』の絵本だ。


「お前、いっつもこれ読んでないか?」

「だって」

「うん?」

「バレリーナが、お母さんの顔。してるから」

「……」


 受け取った絵本から、先に該当の箇所を確認する。


「アカネはもっと愛嬌ある顔してただろ」

 無邪気に笑う女だった。間違っても紙のバレリーナのような、張り付いた笑みは浮かべていない。

「でも、似てる」

 しかしリンドウは頑なに譲らない。


 ……ガキだった俺の知ってるアカネは当然子供の姿なので、トゥシューズで1本足ポワントしている八頭身程スタイルは良く無かった訳で。

 大人になったアカネは、こういう女になっていたのだろうか。


「まあ、そういやアカネもこの話が好きだったな。『しっかり者のすずの兵隊』が」

 だから俺の方も未練が投影されてしまった、と。

 頭が痛い。

 酒のせいだと片付けるには、己が気色の悪さに心当たりが有り過ぎた。


 しかしリンドウの方はと言うと、『しっかり者のすずの兵隊』よりむしろ、俺の口から出た母親の名に興味が向いているのがありありと見て取れて。


「お父さんは、お母さんのどこが、好きだった?」

 ベッドに腰かけちゃぁいるが、リンドウは当分眠気とは縁の無さそうな顔をしている。


 おい、モルフォモン。

 頼むから寝る時は一緒に寝てくれ。寝かしつけてくれ。パートナーだろ。

 おい、先に寝るな。おい待て。


「……」

 髪を引っ掻くが、リンドウからの視線の種類が変わる事は無かった。

 俺は観念して、彼女の隣に、腰かける。


「どこが好きか。一々考えなくてもいい程度には、俺はアカネが好きだったよ」


 どちらかと言えば、素朴なタイプの少女だった。アカネは。

 申し訳ないが顔だけなら間違い無くルルに軍配が上がる(なお念のために言っておくが、胸のサイズは年相応しか無かったアカネの圧勝である)。

 良くも悪くも田舎のお嬢様で、おっとりしてんだかお転婆なんだか判断に困る、好奇心旺盛で、夢見がちで--だから、周囲の目なんてこれっぽっちも気にせずに、俺なんかにも平気で話しかけてくるような少女だった。


 ……いつも、屈託無く笑う女だった。


「じゃあ、どうして。お母さんの事、置いて行っちゃったの?」

「アカネが俺の事を好きだとは、思わなかったんだ」


 あくまで興味だと思っていた。

 『選ばれし子供』でもないのに『迷路』から出てきたってだけでデジモンを連れている俺が、物珍しいから構っているのだと思っていた。

 思うようにしていた。


「お母さんは」

「うん?」

「お父さんの事、大好きだって」

「……」

「そう言ってた」


 ああ。

 そうかい。


 でもよ、アカネ。

 だからって他人とこさえた娘まで、よりにもよって『迷路』の『絵本屋』とまで伝えて寄越すだなんて。

 そんなのは、美談にするにしてもちょっとばかり、虫が良すぎるんじゃねえか?


「まあ面倒見る俺も俺なんだがな……」

「?」

「いいや、なんでもない。……アカネの話は、また追々、な。今は『しっかり者のすずの兵隊』だろ? ほら、ベッドに横になった。俺ァ絵本を描くのは兎も角読む方はからきしなんでね。つまらないと思ったら、さっさと夢の世界に逃げちまいな」

「……」


 リンドウはまだ絵本よりも聞きたい話があるようだったが、それは俺の喋りたい思い出では無く、俺にもこの娘にも今必要なのは、身体を休めるための寝物語だった。


 無言は貫きつつ、しかし指示にはやはり素直に従って横になったリンドウの肩へと、俺はブランケットを引き上げた。

 隣じゃ既に、モルフォモンがすうすうと寝息を立てている。デジモンの分際で人様のベッドで、飼い主よりも先に寝るとは。本当に、厚かましい事この上ない奴だ。


 一度脇に置いていた絵本を開く。

 材料不足で1本足として作られた鉛の兵隊の、ほとんど受け身の冒険譚。

 一説によれば、無機物に人格を与えて主人公にした童話の先駆けがこの物語なのだという。


 挿絵の兵隊は役職よろしく相応に精悍な顔つきをしていて、片足が無いとはいえ装いは立派。と、俺とは似ても、似つかない。


 紙のバレリーナがアカネに似ていると言うのなら――最期に彼女と結ばれたコレは、やはり、俺とは違う男だったのだろう。



「今日はクリスマス。子供達は、プレゼントを抱えて帰って来たお父さんに飛びつきました」



 冒頭に並んだ俺が知らない世界の言葉に、軽い吐き気を覚える。

 酒のせいだと、そう、片付けようとしたのに。

 現実逃避のつもりで下した視線の先には、忘れようも無い女性の顔しか無かった。


*


「グロスター? 変な名前」

 少女――『迷路』から出てきた俺を(恐らく嫌々)引き取った家の一人娘は、俺の名前を訊ねて答えを得るなり、首を傾げながらそんな言葉を返してきた。


 失礼だな、と思った。

 生憎外の世界の常識など何も覚えちゃいないのだが、俺がこれまでに読んだ本を基準にしていいなら、人の名前は出会い頭に侮辱して良いもんじゃない。


「……例えば、どこが?」

 とはいえ文字通り「右も左もわからない」『迷路』の外じゃあ、こいつの両親は俺とユニモンの命綱だ。

 立場の偉い人間の機嫌を損ねるのは自分の感情を蔑ろにするよりも避けるべき事で、俺が現在の名前の参考にした物語の主人公も、全てが成就するまでは自分の考えなど腹に隠してうまく立ち回っていたのだから。

 だったら、俺も。そうするべきなのだろう。


 少女はふふっ、と。おかしそうに微笑んだ。

「だってだって、普通お名前に伸ばし棒なんてつかないもの! 他所の国ならそうでもないかもだけれど、あなたも私と一緒で、この国の生まれでしょう?」

「多分ね」

「だったらお名前もそれっぽい方がいいわ。だってナシロ グロスターだなんて、ふふ、ふふふふ! 私、あなたのお名前を呼ぶ度に、笑っちゃうかも」


 別に、彼女と同じ苗字を名乗るつもりは無いのだけれど。


 まあ、どうにせよ。

 これからこちらで暮らさなければならないのなら、違和感の無い名前を名乗るに越した事はないのだろう。

 別に愛着がある訳でもないし、毎回のように、知らない人から笑われるのも、嫌だから。


「じゃあ、好きに呼んでよ。君の好きな物語の登場人物とか、そういうのでいいから」

「え? 私が決めていいの?」

「いいよ」

「わかった! とびきり素敵な名前を考えてあげるわね」

「そりゃ嬉しい」


 社交辞令として言葉のみで表現した喜びを額面通りに受け取って、顎に人差し指を当てたアカネはうんうんと唸りながら、ああでもないこうでもない、と俺の呼称を思案する。


 デジモンは楽でいいよな。呼ぶ時は種族名で良いんだから。

 気晴らしにポケットの中のデバイスを指先で小突くと、中に居るユニモンは、返事代わりにぶるりと端末を震わせた。


 やがてアカネは顔を再びこちらに向けたが、肝心の表情は、思案顔のままであって。


「私、『しっかり者のすずの兵隊』が好きなの」

「はぁ、結局作者は外人だな。好きなのかい? デンマーク。それならハムレットとでも名乗っときゃ良かった」

「ハムレット? なんだかおいしそうなお名前ね。でも、小さい「つ」もらしくないわ。……だけどいくら私が『しっかり者のすずの兵隊』が好きだからって、『スズ』って名前じゃ、女の子みたいでしょう? だから、悩んでいて」

「俺は別に構わないんだが」

「私が納得できないの」

「じゃ、言い換えてナマリとかでいいだろ」

「それも嫌。重りみたいで。お馬さんに乗れなくなっちゃうわよ?」


 俺はこの「面倒くせぇ」という感情がけして顔に出ていないよう祈る他無かった。

 万が一表情を咎められたら、そろそろ昼間の陽光に耐えられなくなった事にしよう。


「スズ。スズねぇ……」

 とはいえこのままだと名前が決まる前に陽が沈みそうで、そうなると言い訳も出来やしない。

 連想の枝葉を広げて、それらしい名前を探す。

 スズ違いではあるが、幸い俺が『迷路』の『絵本屋』で得た知識の中から、引っ張り出して来られるものは比較的すぐに見つかった。


「キミカゲ、とかどうよ」

「へ?」

「スズランの別称が君影草だから、キミカゲ。これなら国的にも性別的にもそれっぽいかな、と思って」


 途端、似合いもしない皺を眉間に刻んでいたアカネの顔が、ぱあ、と輝かんばかりに綻んだ。


「キミカゲ! いいわね。私、スズランも好きよ。可愛くて! それに私の名前もお花の名前なの」

 その顔のまま改めて寄って来たアカネは、ポケットに突っ込んでいた俺の両手を、それぞれの手で引っ張り出し、包んだ。


「お揃いね、私達!」


 この日、俺は。

 女というのがこんなに笑う生き物なのだと、初めて知った。


*


「君が生きていると知れば、すぐにでもご両親が迎えに来てくれるだろう」


 俺に、と言うよりは自分に言い聞かせるように繰り返していたアカネの父親の台詞は、まあ、案の定。終ぞ現実となる事は無かった。

 そりゃそうだろう。父親はそもそも記憶に存在すらしていないし、俺が最後に見た母の瞳は、幼い俺を『迷路』の入り口へと突き飛ばした女の酷く冷めた双眸だった。

 不法投棄を平気でやるろくでなしだとしても、自分で捨てたゴミを漁り直すほど落ちぶれちゃいなかったのだろう。


 今でこそ『迷路』から生きて、デジモンを連れて出てきた少年として。期待や畏怖を込めて『選ばれし子供』ならぬ『奇跡の子供』だのなんだの呼ばれてはいるが。

 あの女にとっちゃ、ただ単に。捨てたゴミが、処分されていなかっただけの話なのだ。


 この地域を牛耳る老人の腰巾着達の中で一番若手なもんだから、俺なんて貧乏くじを押し付けられてしまったアカネの父親には心の底からご愁傷様と言う他無いが、まあ、その分甘い汁も啜ってきたのだろうし、いい加減俺の親探しは諦めてほしい。

 俺だって、好きで世話になってる訳じゃ無いんだから。


「ってワケだから。まあ、当分俺はこの家にまだ居ると思う」


 先の父親の言葉の何を不安がってかはしらないが、俺とユニモンの住まいとして(隔離、と言った方が正しいのかもしれないが)提供されている離れに浮かない顔でやって来たアカネに事情を説明すると、彼女の顔は余計に曇ってしまい、俺はアカネが底抜けに明るい表情以外も出来るんだなと割合失礼な感心を覚えるのだった。


「どうして?」

「うん?」

「どうして、キミカゲのお母さんは、キミカゲの事……」

「……」


 捨てちゃったの? とストレートに問うてこないあたり、やはり何だかんだと育ちは良いのだろう、アカネは。

 そんな彼女が、俺の身の上に勝手に同情は出来ても理解を示せる筈も無い。


「こんなご時世だ。そう珍しい話じゃないとは思うんだけどね」


 一応はそう前置きしながら、俺はデバイスから絵を描く機能を起動させた。

 狭いが真っ白なキャンパスを指で撫でて、適当にとある動物の絵を描く。


「アカネは、この生き物は知ってるか?」

「え? えっと……象、よね? 本物は見た事無いけれど、鼻が長くて、大きなお耳。こんなのって、象だけだもの」

「そう。象。……思うに俺の母親は、象みたいな女だったんだと思う」

「へ?」

「ああいや、末摘花みたいな女だったとかそういう話じゃ」

「すえつむはな?」

「何でも無い。顔が象に似てるとかとんでもない巨女だったとか、そういう話じゃないってのだけ、解ってくれれば」


 人との会話は比喩表現があればあるほど良いと思っていたのだが、実際のところ、全然そんな事は無いらしい。

 全く。『絵本屋』は『迷路』生き延びるための知識とそれ以外の無駄知識を何かと仕込んじゃくれたものの、一般常識はからきしだ。

 経験が物を言う部分は、どうしても、どうしようもない。


 ……今から教える生き物の生態くらいは、どうにか、呑み込んでくれればいいのだが。


「象って生き物は、頭が良いから、産まれてきた我が子を一瞬、憎むらしい」

「え?」


 頭が良い、と我が子を憎む、に因果関係を見いだせないのだろう。

 アカネの声に疑問符が付いていたのは解っていたが、俺は構わず続ける。


「象は子供の段階でもゆうに100キロを超える身体で親の外に出てくるんだそうだ。だから出産時滅茶苦茶痛いんだって。人間でも「鼻からスイカを出すくらいの痛み」とか言うんだっけ? ……象の出産は、それ以上なんだとか」


 今度はアカネは何も言わなかったが、彼女の顔は彼女自身の豊かな想像力によってしかめられていたので、俺も話を止めたりはしなかった。


「で、その痛みの原因を、象は「自分の胎から出てきた何か」だと理解できる程度には頭が良いらしい。「それ」が落ちたと思われる場所を、執拗に踏みつけるんだと」

「でも、そんなことしたら」

「うん、子象は死ぬ。……そうならないように、自然界じゃ先輩母象が、人間の飼育下だと飼育員が、いわゆる産婆の役割を果たすんだそうだ。ただまあ、それでも死亡例の報告は結構あるらしいよ。少なくとも、俺が『絵本屋』で読んだ象の飼育に関する資料にはそう書いてあった」


 パートナーであるユニモンのコンディションを保つために目を通した大型草食動物の飼育に関する本を、そのまま流れで馬の項以外も読み進めて。

 そうしてたまたま辿り着いたこの記述のお蔭で、俺は母親が俺に向けていた眼差しの理由について、ようやく腑に落ちたのだった。


 母さんは、産まれてきたから、俺が憎かったのだと。


「親が子を殺したい程憎む理由なんて、そんな単純なモンでいいんだよ。……まあ、象よりかは多少賢かったから、子供が「勝手に迷子になってそのまま居なくなった」って言い訳の効く歳になるまでは我慢したんだろうけど」

「キミカゲは」


 あくまでからからと軽薄に笑う俺に、アカネの方が堪えられなくなったらしい。

 喰い気味に、詰め寄るように。しかし震える声で、彼女は俺へと問いかける。


「キミカゲは、キミカゲのお母さんの事、憎くないの?」

「……さぁ」

「さぁ、って」

「少なくとも、子象に母象を憎む権利は無いよ。一々そんな事考えてたら、生きていけなくなっちゃうから」


 実際、『迷路』に迷い込んでほとんどすぐにパートナーを得る、という幸運を以ってしても、俺達は生きていく事ただそれだけに精いっぱいだった。

 あの眼差しだけは今になっても脳裏に焼き付いているけれど。

 あの女の顔は、気が付けば思い出せなくなっていて。


「……も……」

「うん?」


 と、アカネはまだ何か言いたい事があるらしく。

 青い顔をして俯く彼女の方を覗き込めば、今にも泣き出しそうな表情で、アカネは自分の手の平をじっと見つめていた。


「私も。もし赤ちゃんができたら、そうなっちゃうのかな」

「……」

「象さんみたいに、好きな人との子供の事まで、嫌いになっちゃうのかな?」


 ふっ、と。

 鼻で笑った音が、うっかりアカネの耳にも届いたらしい。

 勢いよく顔を上げたものだから、こちらも表情を取り繕えなかった。

 そのままの顔で、俺はアカネへと、また笑いかけてしまう。


「なんで笑うの!?」

「そうはならないんじゃないかな、って思ったから」

「え?」


 青かった顔は怒りで赤くなりかけて、しかし俺の返答で呆けたのか、変化はそのまま止まる。


「だってアカネは、象より頭が良さそうには見えないし」

「まあ!」


 最も、続きを聞いてしまえば当初の予定通り、熟れた林檎のような赤色に、彼女の顔面は染まってしまったのだが。

 全く、表情どころか、顔の色までよく変わる女だ。


「失礼な人! 私、本気で心配してるのに」

「そうは言っても、アカネは象っていうより愛らしい小鳥って感じの女の子だから」

「む、今更おべっか言ったって……」

「鳥は空を飛ぶために身体を軽くする必要があるから、脳みそも小さい」

「キミカゲのいじわる!! もう知らない!!」


 ぷい、と大袈裟なくらい俺から顔を背けてから、立ち上がったアカネは勢いをそのままにわざとらしい足音を立てながら部屋を飛び出していく。

 ポケットの中のデバイスが、俺を嗜めるようにまたぶるりと震えて。思わず俺は、肩を竦めた。

 と。


「罰として」

 不意に足音が引き返してきたかと思うと、アカネは開けっぱなしの扉の隙間から身体の半分だけを覗かせて、ジト目で俺の方を見つめていた。


「子供の名前は、キミカゲが考えて」

「どんな罰だよ」

「いいから」

「……青色の花の名前がいいんじゃないかな。その子と鈴蘭と赤根とで、トリコロールみたいになって、なんというか、お洒落だ」

「なぁに、それ」


 ふん、と。

 また、大袈裟に。しかし何故か先程より幾分かご機嫌な調子で鼻を鳴らして、そうして今度こそ、アカネは俺の部屋の前から去っていく。

 去り際に見えた横顔が、未だに彼女と同じ名前らしい植物の根と同じ色をしていたように見えたのは、見間違いだと、そう片付ける事にした。

4件のコメント
快晴
2021年4月03日

「……もっと真面目に考えりゃ良かったな」


 気が付けばモルフォモン同様寝息を立てていたアカネを前に、頭を抱えて嘆息する。

 リンドウもまさか、俺のその場しのぎの口から出まかせが自分の名前に採用されただなんて思ってもいないだろう。俺だってアカネがあんな適当な案を採用するとは夢にも思わなかった訳で。


 だけど――思い返せば、俺達の思い出は、そんなモノばかりだった。


 所詮は子供の恋愛ごっこで。

 興味と好奇心と、幾分かの憐みで成り立った恋心は、しかし俺に向けられる唯一の、そして初めての好意的な感情で。だから、心地よかったのだろう。


 同時に、アカネが最後に縋りつけたのがこの程度の思い出しか無かったのだと思うと、たまらなく、虚しかった。


 何もかもに見捨てられ、何一つ成し遂げられず、何から何まで諦めた俺なんて、最初から彼女と釣り合う訳が無かったのに。


「……うるせえ」

 あの頃を再現するかのように、ポケットの中で咎める言葉の代わりに震えたデバイスに向けて吐き捨てる。

 象の瞳は、たとえ千里眼で無かったとしても、全てを見透かしているかのようで。想像するだけで気分が悪かった。


 立ち上がる。

 気の迷いで、一瞬リンドウの頬を撫でそうになった右手は、すぐに引っ込めた。

 この子はアカネの娘だとしても、俺の子じゃない。


 この子が起きている間は父親を演じる義理があるとしても。

 無意識下でまで、そんな風に振る舞う資格など無いのだ。



 と、その時。

 再びポケットの中身がブルブルと震えた。


「しつけェ……ん?」


 まだマンモンが何か言いたいのかと思ったが、奴が等間隔で端末を震わせている時は来客の合図だ。


 リンドウを起こさない程度の音量で舌打ちしてから、更に慎重にドアノブを回して俺は部屋を後にする。

 示し合わせたように、店の入り口から控えめなノックの音がした。


 がちゃり、と。

 こちらに関しては、そう遠慮なく扉をあけ放つ。

 腕でも額でもぶつけてくれと思ったが、生憎、手ごたえは感じられなかった。


「ようこそようこそいらっしゃい。目の前に下げてある『CLOSE』の札も読めない程の愚か者には付ける薬も無いと相場が決まっちゃァいるものの、お伽噺の妖精は、真夜中にこそ愉快に歌って踊るモンだ。お前さんが働き者の小人を労う靴職人のように相応の対価を用意するのならば、俺はこんな時間だろうと喜んで、好きな寝物語を用意するからとっとと帰って早く寝ろ」



「んふふ、そう? じゃあ、お酒を1杯、いただきたいのだけれど」



 思わず閉口する。

 コンマ数秒遅れて、何も知らない輩がメアリーのガワを見た時と似たような反応になってしまっていると気付いて、結んだ唇がへの字に曲がった。



 それこそ、妖精のような。

 この世の者とは思えない、しかし少なくともデジモンでは無いらしい性別不明年齢不詳の人影が、扉の前に、立っていた。



 いや、ホントにわからん。男か、女か。

 ヒールを履いているせいもあってか、背丈は俺よりも幾分か高い。纏った衣装は上も下も身体の線をぼかしているかのようにゆったりと余裕があって、だがいわゆる「服に着られている」感は微塵も感じられなかった。肉体の均衡が異様に整っているのだ。

 瞳の大きい幼げな顔つきも。今しがた酒を要求して来たどこか甘ったるい声音も。どちらとでも判断できるものに仕上がっていて。


 多分。

 多分、胸はルルよりもあるのだが。

 ここに関してはあいつが平面世界の住民過ぎて、何一つとして、参考に出来ない。


「……生憎」


 サングラスのブリッジを軽く持ち上げて、気持ちを切り替える。

 見た目の事もあるが、先の発言も。警戒度を跳ね上げるには、十分だった。


「酒場じゃねェんだよ。この店は」

「知っているよ。『スー&ストゥーの絵本のお店』。『迷路』で暮らす人々に幸せな夢を見せる素敵なお店でしょう?」

「……」


 マンモンからの合図は無い。

 余程のジャミング能力かステルス系の技能が無ければ、奴の千里眼と獣の勘を掻い潜る事は不可能だ。


 だから、どれだけ意味深な振舞いをしていようとも。

 今のところは、敵対者にカテゴライズする根拠が無い。


 なので――こいつは、とりあえずは、客だ。

 気乗りは一切、しないのだが。


「んふふ。そう警戒しないでよストゥーさん。貴方はね、ボクにとって憧れのヒトなんだ。嬉しいよ。志を同じくする貴方と、こうやって直に会えたことが」

「志だァ?」

「そう、志。ボクもボクのパートナーも、手段は違えど貴方と同じで、みんなに笑顔で、気持ちよくなってもらうのが大好きなんだ」


 いや、人様の笑顔だの快楽だの、俺はこれっぽっちも好きじゃないんだが。


 反論する前に、突如(とりあえず便宜上)彼がこちらへともたれかかってきた。

 反射的に足を引いて躱そうとする俺の肩を両手でがしりと掴み、彼は抱き着くような姿勢でこちらの耳元へと唇を寄せる。

 なんか、無茶苦茶良い匂いがした。



「ねえ、ストゥーさん。Aから始まるビデオ作品に、興味ある?」



 耳にしているだけで奥歯の痛む、甘ったるくて妖艶な囁きも一緒に引き剥がすようにして、俺は彼を突き飛ばす。

 力いっぱい弾いたつもりだったのだが、アホみたいに細いピンヒールの癖に、彼は一切バランスを崩す事無く元居た位置に後退するのみで。


「さっきも言ったがやっすいショーパブじゃないんでね。糸車の針くらいなら触らせてやってもいいが、この手のおさわりはご遠慮願いたい」

「おやおや、それは大変な失礼を」

「ただまあ、新規の客を袖にしたとなりゃァ、如何なる迷い人をも受け入れる『絵本屋』の店主、ゲイリー・ストゥーの名が廃る。『絵本』に触れさせても無い以上俺とお前さんとはまだお友達でも何でもないが、義理立てとして先の質問には答えてやろう」


 俺は改めてサングラスのブリッジを調整する。

 ズレて視線が露わになっては、たまったものでは無いからだ。



「有るか無いかで言えば、有る」



 彼は、花でも咲いたみたいに微笑んだ。

 悔しいが、理想的と言っても過言では無い程美人の笑みだった。


*


「そういえば自己紹介がまだだったね。ボクはネガ。貴方が『絵本屋』だとしたら、『レンタルビデオ』という事になるのかな? 名前でも、役割でも。好きな方で呼んでくれたら」


 それから、と続けつつカウンター席に腰を下ろした彼--ネガは、気が付けば当たり前のように、足元にパートナーを呼び出していて。

 ネガとはまた違った意味で良い匂いが、少し離れているのに俺の鼻孔をくすぐった。


「この子はボクのパートナーで……種族は御存知?」

「バーガモンだろ。ウチの品物が挽肉臭くなる前にとっとと仕舞え」


 無邪気そうに振る舞うモルフォモンとはまた違った意味でにこやかに、言うなれば愛想良くこちらに微笑みかけていたネガのパートナー・バーガモンは、俺がひと睨みするなりしゅんと肩を落としてネガの長くて細い脚にしがみついた。


 そんなあざとい見た目と振舞いしててもな。知ってんだぞ。

 てめぇの能力が成長期の中だと指折りにえげつない事くらい。


「うーん、この子はボクの大切な相棒だから、是非ともストゥーさんにも見てほしかったのだけれど……でも、確かに白雪姫からハンバーガーの香りがしては、毒林檎も立つ瀬が無くなってしまうもの。ごめんね、バーガモン。ちょっとの間だけ、良い子にしててね」


 そしてやはり、ネガに敵対の意思は(今のところ)無いらしい。

 キャスケット帽を深くかぶり直しながらこくんと頷いたバーガモンを、彼は素直にデバイスへと戻した。


「……」


 色々思うところはあるが、ひとまずは、置いておこう。


 ネガがデバイスそのものを懐に仕舞うのと入れ違いに、俺はポケットから引き抜いたデバイスを前に掲げる。

 カウンターの上に、音も無く開封済みの酒瓶が現れた。


「わぁ」

 途端、ネガは顔をほころばせた。

「ホントに本物のお酒だ! んふふ。それも、ストゥーさんが口を付けた後の」

 彼の細い指が、瓶の表面を撫でる。


「ねえ、ストゥーさん。……間接キスしていい?」

「飲みたきゃ飲めや」


 一々思わせぶりな奴だなと頭を抱える俺の傍ら、「ありがとうストゥーさん」と礼もそこそこにネガは瓶の蓋を開ける。

 そのまま彼はぐい、と一息に。

 ラッパ飲みの手本みたいな格好で、瓶の中身を傾けた。


 ……。

 そこに関しては上品でも何でも無いのか……。


「ぷはぁ、おいしい!」

 やがて、飲んだというよりは胃に流し込んだと言った方が良さげな勢いで酒を飲みほしたネガは、今更のようにことり、と控えめな音しか立てずに瓶を元の位置へと戻す。

「んふふ。ごちそうさま、ストゥーさん」

 驚くべき事に顔色一つ変わっていない。呂律も至って正常だ。

 俺はこの手の酒飲みの事を『ザル』と呼ぶ理由を、この歳になってようやく理解した気になった。人間、幾つになっても何かと学べる機会は在るもんだ。


「……飲んだからには」

 酒瓶をカウンターを手元に引き寄せる。中身は空だが、空き瓶には空き瓶なりの使い方がある。

「飲んだ分のお代と、それからお前さんの『レンタルビデオ』としての仕事について、聞かせてもらおうか」

「勿論。喜んで、ストゥーさん」


 そう言ってネガが小銭と一緒に差し出したのは、黒いUSBメモリーだった。


「とはいえ百聞は一見に如かずだもの。ストゥーさんにだけ、特別だよ? これがうちの商品。の、サンプル。映像じゃ無くて、画像データだけれど。良ければ、後でご覧になって」

「……」


 両方受け取って、デバイスを入れてあるのとは逆のポケットへと滑り込ませる。

 俺がそうするのを待ってから、酒に濡れた唇を弓なりに歪めたネガは更に続けた。


「素人が撮っているものだから、保険を掛けるみたいでお恥ずかしいのだけれど、過度な期待はしないでくれたら助かるかな。でも、モデルはみんな、ボクとバーガモン2人で吟味した一流の子達ばかりだよ」

「はぁ、吟味……ねぇ」

「んふふ。気に入ってくれると、嬉しいのだけれど」


 絵画の貴婦人のように笑みを湛えたまま、ネガは今度は、懐から再び取り出したデバイスの表面を人差し指でなぞる。


「さっきも言った通り、ボクも、バーガモンも。みんなに気持ちよくなってもらうのが大好きなんだ。衣食足りて礼節を知る、だったかな。意味は少し違ってしまうかもしれないけれど、でも『迷路』の人々はみんな、身も、心も、貧しい思いをしているように見えるから。自分達のやり方で、彼らを幸せにしてあげたいと思って」

「成程。目の付け所は悪くないんじゃねェの? 困ったね。コイツはおっかない商売敵が出て来たもんだ。見ての通り『絵本屋』の経営は火の車。三途の川の奪衣婆も天を仰ぐような素寒貧と、万年金欠商売あがったりの業界じゃアあるが、ま、お前さんらがそれでいいなら、いいんじゃないかね」

「んふふ、ストゥーさんのお墨付きを頂いちゃった。明日からがんばろうっと」

「……」


 これは墨じゃ無くて味噌というんだよ、とでも言いながら味噌色しているマンモンをぶつけてやりたいくらいだったが、生憎若者……若者? のやる気の芽を進んで摘むような歳のとり方はしたくなかった。

 一種の敵情視察だとしても、この俺を『絵本屋』だと知った上でこちらの縄張りに乗り込んで来た気概くらいは買ってやらねばならない。


「じゃあ、財の分配もそこそこに家を追われた三男坊のように、知恵とやる気だけはありそうなお前さんにひとつ、老婆心からアドバイスをくれてやろう」

「あら、なにかしら」

 俺は酒瓶の口を掴んで持ち上げた。

「この業界は敵も多いからな」

 そのまま瓶を、床へと叩きつけた。


「気を付けろよ」


 ガラスの砕け散る甲高い音に混じってぎゃっ、と短い悲鳴が上がる。

 途端、ガラス片の突き刺さった俺の影が、蠢いた。


 影は高速で這いながらカウンターを飛び越えたかと思うと、あっと言う間にネガの隣でぷっくりと丸みを帯びたフォルムを形成して、再び彼の脚にしがみつく。

 宥めるようにソイツ――シェイドモンからバーガモンに退化したパートナーの頭を撫でて、ネガはバーガモンの身体のあちこちに刺さった透明な棘を丁寧に抜き始めた。


「おおっと、悪い悪い。つい手が滑って」


 残った破片を靴底で払う。見ればネガの両肩が小刻みに上下していた。

 笑っているのだ。


「んふふ。流石はストゥーさん」

 俺同様、ネガに悪びれた様子は無い。

「今のでよーく解ったよ。『迷路』の心の貧しい人達は、本当にあらゆる形での『人の幸せ』を望まないんだね。すごく苦労してきたんでしょう? 気付いちゃうなんて。この子、スニーキングには自信がある方なのだけれど」

「バカ言え、お前がにおわせ過ぎなんだよ」


 よりにもよって『絵本屋』に酒を強請りにきた時点で情報収集能力に長けたデジモンを連れている事は開示しているも同然だし、リアライズした・していないにかかわらず、デジモンが人の傍に居る事を疑うのは『迷路』を生き抜く上では基礎の基礎だ。


「そもそも、その様子だと俺の手持ちくらいは割れてんだろ。『目』が自慢のデジモンは、シェイドモンだけじゃねーんだよ」

「ストゥーさんのマンモンを知らないだなんて、そんな筈がないじゃない。んふふ。貴方達はとても固くて素敵な絆で結ばれているんだね」

「ぶっ殺すぞ」


 俺がデバイスを引き抜くなり、異物混入にめそめそ泣いていたバーガモンが、大粒の涙を浮かべたままではあるがネガの前に立ち塞がってこちらを威嚇してくる。

 ネガだけが変わらぬ調子で、「まあまあ」と俺達の間に割って入った。


「そう怒らないで、ストゥーさん。ボクは嬉しいんだ。貴方がボクの理想通りの人で。そうじゃなかったら、貴方のお店も、他のモノも。貰ってしまおうかと思ったのだけれど……ううん、そんな事をしては、逆に勿体ない。ボクは、貴方と仲良くしたいよ」


 デバイスを支える指先に余分な力が入る。

 千里なんてとてもとても。目の前すらまともに見えちゃいない。やはりうちの象はクソ役立たずだ。

 悪意が無いからそこまでは察せなかったとでも言うのか、愚図め。


「お断りだ。客なら兎も角、ドアインザヘッドしてきた押し売りセールスマンの首は捩じ切って捨てると決めてるんだ。ここいらじゃ馴染は無いだろうが、象の踏み付けは一昔前の東南アジアじゃポピュラーな処刑法だったんだぜ」

「んふふ。嫌だなぁ、それはとても痛そう。地面に叩き付けられるのと、それはどちらが痛いかな?」