光が丘団地を抜けた先。三角の感覚からすると、この相違点の果て、とでも言うべきだろうか。
『聖地巡礼』と、そんな文言を添えてSNSにアップロードされているその地の写真を三角はこれまで何度も目にしてきた。
そこは、デジタルワールドから東京に帰還した選ばれし子供達が、最初にヴァンデモンの配下と―――マンモンと激突した場所。
そしてそれよりももっと、ずっと前。グレイモンとパロットモンの激突した、デジタルワールドが選ばれし子供達を見出した事件の舞台―――始まりの地。
道路の果て。
崩れ落ちた歩道橋を背に、『勇気』と共に在るべき橙の機械竜は、全身に深淵の気配を漂わせながらも、一種気高ささえ覚える程、しかし同時にあまりにも威圧的な佇まいで、三角達の事を待ち構えていたのだった。
メタルグレイモン。
選ばれし子供達のリーダーにして、今なお人とデジモンを繋ぐべく尽力し、2つの世界を奔走し続ける外交官、八神太一のパートナーデジモン。
「あれが……」
シフが声を震わせる傍らで、三角も、そしてヘレーナも、額に玉のような汗を浮かべながら、ごくりと唾を呑み込んだ。
今までのシャドウエインヘリヤル達とは次元が違う、と。そう感じずには、いられなくて。
「……メタルグレイモンは、オレに任せてほしい」
ワーガルルモンは、ここに辿り着くまでに立てた作戦の内容を、今一度繰り返した。
*
場所さえ判れば、とラタトスクに残る名城達が解析を行った結果、メタルグレイモンの足元に、巨大な地下空間が広がっている事が判明したのだ。
そしてその奥には、強い反応が―――膨大なエネルギーを発する物体と、強力なエインヘリヤル。そしてもう1体、成熟期相応のデジモンの反応が確認できたのである。
「十中八九、聖解とエンジェウーモン。そしてこの事件の黒幕に該当するデジモンでしょう。……本当に『成熟期でしかない』と言わざるを得ない解析結果が出ている点はひっかかりますが、まあ、成熟期でも特殊な力を持つデジモンなんて、ざらにいますからね」
とは名城の弁だ。
成熟期でしかない。即ち、完全体や究極体に進化できる個体では無い、というのが観測結果らしいが、名城が続けた通り知能特化のデジモンであれば、その点においては究極体にも匹敵する可能性はあるし、聖解の力で自身の能力を偽っている可能性も否めない。
油断は禁物だと、ヘレーナは自身やマタドゥルモンにも言い聞かせるようにして、三角達に言い含めたのだった。
そして、それらを踏まえて彼らが立てたのが、二手に分かれての、メタルグレイモンとエンジェウーモンの同時戦闘。
元はと言えば兄妹のパートナーデジモン同士だ。合流され、連携されれば、その脅威度はエンジェモンとガルダモンの比ではないとは、想像に難く無い。
で、あれば。この相違点においてはメタルグレイモンと互角の力を持つと考えられるワーガルルモンが彼を相手取り、高い回避能力を持つシフとマタドゥルモンがエンジェウーモンの撃破―――を目指すのではなく、聖解を奪取する。という作戦は、まあ、それなりに合理的ではあって。
「……私に、そのような大役が務まるでしょうか」
俯くシフを鼓舞するように、三角は力強く頷いて見せる。
「ガルダモンの攻撃だってすごい速さだった。それを躱せたシフなら、きっと大丈夫だよ」
「ばう!」
「先輩。バウモンさん」
そうとも、と、マタドゥルモンも三角達に続く(バウモンは少々嫌そうな顔をしていたが)。
「加えて、私がいる事も忘れないでくれたまえ。こう見えてドラクモンの頃には、世代差のあるデジモンや天使達にもしょっちゅう悪戯を仕掛けていたものだ。『あの』エンジェウーモンとの正面衝突だなんて流石の私でも御免被りたいが、隙を突いてのお宝の奪取なら、ふふ、久々に血の滾る。……任せてくれたまえ」
「「こう見えて」も何も無いし、全く褒められた話では無いわよ、マタドゥルモン」
呆れ顔を浮かべつつ、しかしパートナーの実力そのものには疑問を呈していないようだ。ヘレーナも改めて、「だけど」とシフに微笑みかける。
「彼の言う通り、正面から戦う必要は無いわ。聖解さえ手に入れば、その力を使って相違点を修復すればいいのだから。そうすれば、エンジェウーモンも元に戻る筈」
「……はい!」
ここまで背中を押されれば、シフも決心がついたのだろう。
迷い、立ち止まりこそすれ、シフのそれは停滞では無く、確実に前に進むための確認行為だ。それを理解しているからこそ、彼女の周囲の者達も、彼女の応援を惜しまない。
こうして、方針も定まったところで―――三角達は団地沿いの道路に出て、メタルグレイモンと向かい合ったのだ。
*
「『カイザーネイル』!!」
早速、ワーガルルモンが仕掛けた。
鋭い鉤爪を振り被り、一瞬でメタルグレイモンに肉薄した人狼は、メタルグレイモンのクロンデジゾイド装甲が薄い箇所にその爪を突き立てる。
だが、防御がやっとであったシフと違い、このメタルグレイモンは既に歴戦の猛者。
彼はむしろ前に踏み込む事でワーガルルモンの爪を自らに喰い込ませ、攻撃をわざと受ける事で、この身軽な獣人を自らの肉で捕まえる。
「ッ!」
胸の発射口がギラリと光り、次の瞬間放たれるのはエネルギー波『ジガストーム』。
だが、いくら腕を取られたとはいえ、その全身まで簡単に掴まってやる程ワーガルルモンもやわではない。
彼は橙の表皮に沈み込んだ手首を素早く折り返し、メタルグレイモンの腹を蹴って側転の要領で身を持ち上げる。
熱線を掠めはしたものの、大したダメージではない。文字通りの痛み分けで、2体はお互いから飛び退いた。
「行って!!」
そのまま深い前傾姿勢を取った彼を見て、第二撃に備えて構え直したメタルグレイモンを前に、彼の意識が完全に自分に向けられていたと確信したワーガルルモンは声を張り上げる。
刹那、機動力ではこちらに軍配が上がるメタモルモンに姿を戻したシフと、そもそもがスピードに特化しているマタドゥルモンが、それぞれお互いのテイマーを抱えてメタルグレイモンの両脇を駆け抜ける。
「!」
「よそ見を―――するなッ!!」
流石に一瞬気を取られたメタルグレイモンに向けて、ワーガルルモンが回し蹴りを叩き込む。
ぐらりと身体を傾けたメタルグレイモンは、しかし完全には倒れ切る事無く、道路を陥没させながらその場に踏みとどまり、改めてワーガルルモンだけを真っ直ぐに見据えた。
「「久しぶりに勝負できるな」だったかな。……やろう、メタルグレイモン。オマエの相手は、このオレだ」
「……」
ぐるる、と唸るばかりで、いつか自身のパートナーがそうしたように、メタルグレイモンが「負けないぜ」と応じる事は無かったが。
しかしもはや、彼の眼中には、ワーガルルモンの姿しか無かった。
胸のハッチが開く。
核弾頭一発分とまで例えられる威力の必殺技『ギガデストロイヤー』が、ワーガルルモン目掛けて飛び出した。
*
「ひゃあっ!!」
地下深くに伸びる階段の最中。地上での激戦を伝える大きな揺れに、ヘレーナが悲鳴を上げる。
「おっと。大丈夫かい? レナ」
「あ―――当たり前です! 少し驚いただけよ!」
ふん、とわざとらしくマタドゥルモンから顔を背けるヘレーナ。だが、ワーガルルモンを残してきた事にも、ワーガルルモンという戦力が離れた点についても、やはり思うところは有るのだろう。彼女の表情は、僅かに曇っていた。
メタルグレイモンの背後に回った一同が目にしたのは、折れた鉄橋の、その先だった。
鉄橋は途中から階段に代わり、地面に突き刺さっているように見えていたそれは、そのまま地下へと伸びていたのである。
「まさか、あそこが地下への入り口だったなんて」
まるで、デジタルワールドの景観のような理不尽さだと、ここが実際に極小のデジタルワールドであるとは理解しつつ、思わずにはいられない三角なのだった。
息を吐くがてら、三角は腕を持ち上げる。
地下とはいえ、電波が阻害されている様子は無い。引き続き、ラタトスクとはきっちりと通信が繋がっているらしかった。
「えっと……名城さん。反応まで、あとどれくらいですか?」
「正確な距離までは解りませんが。そろそろ開けた空間が見えてくる筈です。警戒を怠らないよう」
名城の言葉通り、地の底へと潜っているにも関わらず、やがて、遠くに光が覗き始めた。
メタモルモンの表皮がぶるりと震える。……ここまで来れば、ただの人間に過ぎない三角にも、彼女と同じものが感じられた。
肌を突きさすような、とは、今まさに彼らを苛む感覚の事を言うのだろう。
やがて、階段が途切れる。
「……!」
足を踏み入れた空間では、シャドウエインヘリヤル達と同じ色の靄が空のように天上に張り付き、岩山のように盛り上がった最奥からは、止めどない光が噴き出していた。
直感的にその光の源こそ聖解だと察し、目を凝らした瞬間―――
「……ッ!!」
気付いた順番こそややばらつきがあったものの、気付いてしまった瞬間、三角達は、呼吸の止まるような思いでそれを見つめる他に無かった。
成熟期でしかないデジモンの反応。
その正体。
「そんな……」
シフの声が。この相違点の中で、何度も心を揺さぶられていた彼女が、これまでで最も悲痛な震えを宿す。
聖解。旧管理システム・イグドラシルの破片。世界を改変する程の力を持つ聖遺物。
相違点の作成だけでは無い。奇しくもヘレーナが回収した聖解の『力』を使ってラタトスクに帰還しようと考えていたように、聖解には、不可能を可能にする力がある。
「……」
聖解と、成熟期デジモンの光の前に、8枚の翼を持つ女性の姿をした天使が降り立つ。
本来優しい薄桃の色合いを持つ羽衣を闇の色に染め、何よりも忌み嫌う筈の暗黒の気配に全身を蝕まれてなお、最後のシャドウエインヘリヤル―――選ばれし子供達の中である種巫女的な役割を担っていた少女・八神ヒカリのパートナーデジモン・エンジェウーモンは、慈しむような雰囲気をその身に纏い続けていた。
実際、彼女の心は、この上なく穏やかであるのだろう。
この瞬間、相違点Dの『物語』が、三角の中で全て繋がった。
登場デジモン本人の口から語られても、拭いきれなかった違和感。
エンジェモンの時と、同じである。
『ウイルスに侵されたからと言って、かの光の申し子とも言える八神ヒカリのパートナー・エンジェウーモンが、果たして仲間を、パートナーの兄を。そして何より、ずっと探し求めていたパートナーそのものを手にかけることなど、在り得るのか』
そして、もう1つの疑問。
『何故エンジェウーモンは他のデジモン達のように打って出ず、ずっと聖解の傍に居るのか』
その答えは、何よりも明確に、何よりも簡潔に、何よりも残酷に、三角達に、提示される。
聖解の力によって出力されていたその成熟期デジモンの名は、『ウィザーモン』。
エンジェウーモン―――テイルモンの、唯一無二の友。
ヴァンデモンから、ヒカリとテイルモンを庇って死んだ。
「そんなのっ、あんまりじゃないですか……!?」
シフの言葉―――否、悲鳴、あるいは糾弾は、その場の誰にでも無く、エンジェウーモンから聖解を奪い取らなければならない自分自身に向けられていた。
もしも『闇』が、願いを叶えてやる、と。
その方法も含めて「ウィザーモンを生き返らせてやろう」と、エンジェウーモンに囁きかけたとしたら。
そんなifが、『相違点D』の起点だったのだ。
「ッ」
「今のシフは使い物にならない」と、早々に判断したのだろう。
人間のパートナーを得ているとはいえ、マタドゥルモン―――グランドラクモンは、闇に属するデジモンの頂点に立つ1体。情や感傷で動きが鈍るような手合いでは無い。
彼は単騎、その場を蹴って、聖解目掛けて、しかしジグザグと不規則な軌道を描きながら、高速で地下の巨大空間を駆け抜ける。
だがこの吸血鬼の王の手が、当初の目論見通り大天使の護りをすり抜けて、聖解にまで届く事は、終ぞ無かった。
「が、は……っ!?」
ただの、一射。
エンジェウーモンが音も無く放った『ホーリーアロー』は、たったの一発でマタドゥルモンの胴を地面に縫い付けたのである。
それこそが、『デジモンアドベンチャー』の『ヴァンデモン編』において、最も重要な役割を果たしたデジモン―――それによってこの相違点に、最優にして最強のエインヘリヤルと認められたエンジェウーモンの、力。
現実の肩書など関係無い。
この物語の世界では、エインヘリヤルでもないデジモンがエンジェウーモンに太刀打ち出来る筈が無いのだ。
……ようやく事態を視認したヘレーナから、絹を裂くような悲鳴が上がった。
「……っ、シフ!」
だが同時に、味方の負傷という非常事態が、三角と、そしてシフの思考を眼前の状況という意味での現実に引き戻す。
無機質な銀の仮面からすら感情が滲み出ているように見えていたシフは、ここでどうにかいくらかの冷静さを取り戻し、『レーザートランスレーション』でメタルグレイモン:アルタラウスモードへと姿を転じる。
―――私が。私が、どうにかしなければ。
エインヘリヤルとして。今度はシフが、打って出る。
マタドゥルモンの名を呼ぶヘレーナの悲鳴は、未だ響き渡り続けている。三角の膝が震えていたのも、シフは見逃さなかった。
だが、顔を上げれば。やはりエンジェウーモンが守護するかのように立ちはだかる向こうに、聖解が輝きを放っていて。
「もしも、戦いが終わった後も、彼女の隣にウィザーモンがいたら」と。『デジモンアドベンチャー』の一ファンとして、どうしてもこの『相違点D』が迎えようとしている結末と同じことを、考えずにはいられないシフ自身が、彼女の動きを、鈍らせていて。
……視界に飛び込んできた『光』が、聖解由来のものでは無く、自分に向けられた『ホーリーアロー』だと気付いた瞬間には、もう遅かった。
*
一方、その頃の地上。
「ぐ……っ!」
衝撃を殺すように宙返りして、それから地面に降り立ったワーガルルモンだったが、その息は荒く、毛皮のあちこちが焼け焦げ、抉れ、己が動きが鈍り始めている事も、自覚せずにはいられなくて。
一方で、同じだけの傷を負っているにも関わらず、メタルグレイモンが消耗している手応えは、未だ感じられなかった。
―――体格の差。
確かに、傷の量は同じようなものである。メタルグレイモンの方が多く負傷しているくらいだ。
だが、仮に全く同じサイズの傷を同じ個所に負ったとして、ワーガルルモンとメタルグレイモンではメタルグレイモンの方が、一回りも二回りもワーガルルモンより大きい。
傷の数は同じでも。
傷の比率は、必然的にワーガルルモンの方が、大きくなってしまう。
だが。
「『カイザーネイル』!!」
払った対価はけして少なくは無いものの、時間経過と共に、優れた獣戦士であるワーガルルモンは、体躯の差の分小回りの利くその身体で、立ち回りそのものを見直し始める。
傍にパートナーがいるなら兎も角、メタルグレイモンというデジモン自体は、その種族上、機械の性質に引っぱられる。プログラムされた最適解は徐々にワーガルルモンに読み取られ、有機体系ミサイルでもエネルギー波でも、クロンデジゾイド製の鉤爪でも、跳ねる人狼を捉えられなくなっていく。
代わりにワーガルルモンの爪はメタルグレイモンの皮膚を捉え、鋭い蹴りは肉を穿つ。
負傷率が逆転するのも、時間の問題と思われた。
「な―――」
故にメタルグレイモンは、やはり機械であるからこそ、的確に必要なカードを切る。
エインヘリヤルとしての、必殺技を。
メタルグレイモンが前傾姿勢を取った次の瞬間開いたのは、胸のハッチでは無かった。
背中から腰にかけてが全て裂け、めりめりと嫌な音を立てながら、筒状に変形した背骨が飛び出す。
背骨―――否、脊髄の砲身からは、『ギガデストロイヤー』の比では無いサイズの有機体系ミサイルが顔を覗かせていた。
……メタルグレイモンは、青い肌を持つウイルス種の個体が存在する事が知られている。否、むしろ本来はこのウイルス種のメタルグレイモンこそが本種であり、選ばれし子供の力で改造による肉体への負担を帳消しにしたのがこのワクチン種のメタルグレイモンである、というのが、一般的なデジモン研究者達の見解だ。
故に、仮にウイルスに侵されたとしても、ただそれだけでは『この』メタルグレイモンがウイルス種のメタルグレイモンに転じる事は無い。『デジモンアドベンチャー02』でならデジモンカイザーの『イービルスパイラル』による支配を受けてこの姿に成っているものの、ここに居るのは『デジモンアドベンチャー』のメタルグレイモンである。
では、そのメタルグレイモンがウイルスに呑まれ、『勇気』という概念を歪められていたとすれば。一体如何なるデジモンの力を用いるようになるのか。
答えは『ヴァンデモン編』の以前、『エテモン編』の中に、既に描写されている。
セイバー・メタルグレイモンの宝具、『間違った勇気への信望(オブリビアンバード)』
ワーガルルモン目掛けて放たれた巨大有機体系ミサイルは、彼のみならず、廃墟と化した街を更に炎の渦へと、呑み込んだ。
*
「っ、う……!」
どうにかスキル『今は淡き脚光の標』の力で致命傷は避けたものの、光の矢に左の肩口を大きく抉られたシフは、その場へと倒れ込んでしまっていた。
「だめ……もうだめよ。私達、ここで死ぬんだわ……!」
完全にパニックに陥ったヘレーナを、しかし三角も宥める事が出来ないでいた。
彼女の言葉は、もはや目と鼻の先にまで迫った自分達の『結末』の1つに違いなく。
「わう……!」
「落ち着いて下さいヘレーナ所長! 貴女が取り乱しては」
「この場に居ないからそんな無責任な事言えるのよ!! 死ぬの! 私達死んじゃうのよ!? 嫌、嫌ッ!! 私まだ死にたくない!! 助けて、助けてよグランドラクモン……! ノルエル……!!」
仮に三角が何か彼女に声をかけられたとしても、名城の呼びかけにさえこの様子なのだ。きっと意味は無かっただろう。
そしてヘレーナが助けを求めるグランドラクモン―――マタドゥルモンは、光の矢の拘束から未だ抜け出せず、ノルエル・フローストは、この場にも、そしてラタトスクにも居ない。
俺、死ぬのか?
三角は、自分自身に問いかける。
こんなところで? と。
そして、その問いに答えたのは、シフでもヘレーナでもなく、未だ岩山の上に立ちはだかる、エンジェウーモンだった。
「……エネルギー反応増大。これ、は」
ラタトスクに居る名城でさえ、機器に表示される数値を目にしただけで、言葉を失う。
エンジェウーモンは、両腕を天上に向けて構えていた。
そして次の瞬間、その手から光の環が広がり、彼女の頭上に燦然と輝き始める。
……その輪の中に、シャドウエインヘリヤルの塵が―――ここまでに三角達が倒してきた、選ばれし子供達のパートナーデジモン達の残滓が、どこからともなく集まり、吸い込まれて行く。
色こそ、属性こそ違えど。
それは他ならぬ、エンジェウーモンの最愛の友の仇・ヴァンデモンを裁き、滅ぼした一矢への布石。
仲間の力を集わせた『セイントエア』から繋ぐ、アーチャー・エンジェウーモンの宝具―――『その罪の重さを知れ(ホーリーアロー)』
裁きの紫電が極大の矢となって、エンジェウーモンの左手に番えられた。
「……っ!」
どうにか、シフは立ち上がる。
直線上に居る三角達を背に庇い、アルタラウスを構える。
弓に対しての、砲台。その威力は比べるまでも無い。現実とはさかしまに、英雄の矢に、ただの兵器は敵わない。
だが、それでも自分が立ち向かわなければと、痛みを堪えながら、しかし未だエンジェウーモンを取り巻く物語に心揺さぶられたまま、シフは、彼女と対峙する。
と―――その時だった。
「……」
シフの足に、そっと手の平が添えられる。
驚いて視線を落とすと、三角が、彼女の傍に、佇んでいて。
―――ああ、先輩。
シフが口を開く。
言葉が、弱音が、こぼれそうになる。
―――怖い。
―――怖い、怖い、怖い!
―――初めて戦った時から、怖くて怖くてたまらなかった。
―――その上に、辛くて、苦しくて……悲しくて、たまらない。
――――――助けて。助けて、先輩……!
「シフ」
三角が、彼女の名を呼んだ。
「ごめん……たすけて……! 死ぬのは、怖いよ……!!」
涙をボロボロとこぼしながら、弱々しく肩を震わせ、声を絞り出した三角を目にしたその瞬間。シフの中で、世界の全てが制止する。
―――どこから。何を、勘違いしていたのだろう。
―――この人は、勇敢なんだと。エインヘリヤル相手にも立ち向かえる、立派な人だと。
―――違うじゃないか。この人は、あまりにも普通の、ただ善良なだけの人間で。
―――だからこそこの人を、模範として、先輩と定めたんじゃないか。
―――恐怖に震えながらでも、なけなしの勇気を奮って、誰かを助けようとできるこの人を!!
シフの胸の内。『メタモルモン』のデジコアがどくん、どくんと人間の心臓のように脈を打つ。
彼女の全身を、隅から隅まで。今までにない『熱』が駆け巡った。
―――それを、私の弱さで、私の感傷で、危険に曝して。
―――そんな事は、許されない。そんなままじゃ、いられない。
立ち上がれ。立ち向かえ。と、デジコアを構成する全てが、彼女に訴えかける。
「……シフ!?」
彼女の間近にいたからこそ、真っ先に異変に気付いた三角が顔を上げる。
―――戦うんだ。エインヘリヤル、シェイプシフター・シフとして。
シフの身体は、今や大天使にも負けないばかりの輝きを纏っている。
それは、進化の光にも似ていた。
―――先輩(テイマー)を、先輩の『物語』を守るんだ!!
『選ばれし子供』のパートナーが当たり前のように持ちうる本能を、今この瞬間、真の意味で自分の胸に刻み込んだシフが叫ぶ。
「宝具、展開ッ!!」
まるで彼女の決意を迎え撃つかのように、裁定の矢は、放たれた。
*
「あの子達がこんなに頑張ってるんだ。オレだって負けてられないさ……!」
辺り一帯を更地に変えたメタルグレイモンが、にもかかわらず高々と響き渡ったその声に勢いよく顔を上げる。
応えるように爆炎を突き抜けて飛び出してきたのは、濃紺のボディに薄紅色のラインが煌めく、大型のバイクだった。
ワーガルルモンのライダーというクラスは、本来パートナーである石田ヤマト込みのものだ。
とはいえ1999年の選ばれし子供達の中に、パートナーに乗って、あるいは運ばれて移動した逸話を持たない者は存在しない。
そんな中、何故石田ヤマトとガブモンが、エインヘリヤルとしてはライダークラスに割り振られているのか。
その答えは、『デジモンアドベンチャー』から少しだけ未来。大学生になった石田ヤマトとガブモンの前に訪れた、別れの間際に起きた奇跡にある。
「これが最後になっても、一緒に戦ってくれ」
その際パートナーにかけられた決意の言葉を詠唱に変え、ワーガルルモンが使用したその宝具の名は―――『友情の絆(ラストエヴォリューション)』
パートナーが当時愛用していたバイクの形態を取る事も出来る、成長し、変わり続けても、ただ一つ変わらない石田ヤマトとガブモンとの不滅の友情を体現化したような究極体デジモン―――ガブモン‐友情の絆‐への進化を行う宝具である。
「行こう、ヤマト!!」
呼びかけた所で、この相違点Dに石田ヤマトは、もういない。
だが、エインヘリヤルである彼は、それが宿命であっても運命の別れでは無いと理解している。
彼の優しいハーモニカの音色を、いつかはまた耳にする事が出来る、と。それを確信している。
別れが訪れる度に再会を約束し、それを何度だって果たしてくれた最愛のパートナーと、もう一度巡り合う。
その決意が、ワーガルルモンの―――ガブモンの『未来』を宝具として、手繰り寄せたのだ。
乗り手の居ないバイクは、人に近い形状の時にはフォトン光翼の役割を果たすホイールで空を疾駆する。
そのまま彼は、全身の重火器の照準を、本来であれば同じように絆の進化を得る筈だった双翼の片割れに設定する。
「アグモン。……今、助ける」
ガブモン-友情の絆-は、自分の発した「助ける」の意味に胸を締め付けられながらも、メタルグレイモンから目を逸らす事はしなかった。
「『フルメタルマシンガン』!!」
鉄の豪雨が、涙の代わりにメタルグレイモンへと降り注ぐ。
あっという間に全身を貫かれ、半ば弾けるように霧散する間際。ふっとメタルグレイモンが、あの見慣れた明るい笑顔を浮かべたように思えたのは、流石に都合の良すぎる幻覚かもしれないなと、人狼の姿に戻った彼は寂しげに鼻を鳴らすのだった。
*
「『アルタブレード』―――ッ!!」
陽電子の剣が、いよいよ放たれた『その罪の重さを知れ』を受け止める。
真っ二つに割れた紫電は三角やヘレーナ、マタドゥルモンをも逸れ、バリバリと凄まじい音を立てながら背後の壁を削り取っていく。
「ああああああああああッ!!」
シフが咆哮する。
刃は徐々に、ではあるが未だ止まらない光の濁流に沈み込み―――やがて、この場の全てを呑み込もうとした文字通り『必殺』の一撃を、完全に押し返した。
「……!」
矢が砕け散った先で、エンジェウーモンの表情が僅かに歪んだのが三角にも見て取れた。
だがすぐに、視線は『その罪の重さを知れ』を打ち消した、シフの方へと注がれる。
「シフ……!」
右腕こそ、アルタラウスのままであるが。
そこにはもう、メタルグレイモン:アルタラウスモードの姿は無かった。
いや、正確にはアルタラウスもそのままの形では無い。砲身の付け根が、メタルグレイモンの頭部に変形しているのだ。
そしてその反対側―――右腕は、水色の電子的な光を帯びた、二連のレーザー砲になっている。そしてその付け根も、デジモンの頭部―――こちらはガルルモン……否、傷の位置等から推察するに、ワーガルルモンのものとなっている。
そんな、2つの異形の腕を構える胴は、目元を緑色のバイザーで覆った、光り輝く白い人型の実態を取っていて。
「……オメガ、モン?」
左右は逆、両腕の世代は1つ下、本体も騎士の姿とは似ても似つかない―――とはいえ、組合上、想起するなという方が無理な話だ。
だが、新たな形態を取ったシフは、「いえ」と首を横に振る。
「この姿は、先輩にお答えできるような名をまだ持ちません。……ですが、ひとつだけ確かな事があります」
表情は、伺えない。
しかし三角は、やはりその顔に、あの儚くも頼もしい笑顔を見出すのだった。
「この宝具(ちから)なら、先輩をお守りできる!!」
刹那、ワーガルルモンの頭部を持つ右腕と同じ水色の光が、翼のようにシフの背に伸び、彼女の身体を一瞬にして遥か前方へと運んだのである。
「!」
『サジタリウス』。
それはガルルモンから進化するに際し、俊敏性を犠牲に他のステータスを上昇させたワーガルルモンに、いまひとたび、否、進化前以上の機動力を与える機動装置。
この装置を装備したワーガルルモンもまた、特別にサジタリウスモードの名を冠する。
メタルグレイモン:アルタラウスモード
ワーガルルモン:サジタリウスモード
選ばれし子供達の双翼とも言える2体、その強化種のデータを左右に纏ったシフの力は、先程の比では無い。
それが、宝具。
物語の適応者として召喚されるエクストラクラス・シェイプシフターの真価。
シフは否定したが、歪められた『デジモンアドベンチャー』を終わらせる者として、歪ながらにかのデジモンをなぞったこの姿ほど、相応しいものも無いだろう。
終の騎士。
瞬く間に、シフはエンジェウーモンの眼前へと迫った。
女性の姿をした大天使はもう一度弓を番えようとするが、それが間に合わないとは誰の目にも明らかであった。
「エンジェウーモンさん」
シフがワーガルルモンを模した腕の二連砲をエンジェウーモンに向ける。
……彼女の位置からは、エンジェウーモンの背後に居るウィザーモンの姿が、よく見えた。
「ごめんなさい」
謝って許されるものではないとは、シフも理解はしていた。
それでも、言わずにはいられなかったのだ。
自分が今から踏み躙る、エンジェウーモンの『願い』に対して。
それだけは。それだけは真の意味で歪められた物語では無く―――今なおテイルモンが「もしも叶うのならば」と思い描く望みに違いないのだから。
「『アルナスショット』ッ!!」
その上でシフは、自分のテイマーの未来(ものがたり)を選んだのだから。
「―――!!」
二連レーザー砲が、寸分狂わず同時にエンジェウーモンの胸を貫く。
どう、とエンジェウーモンは背中から崩れ落ち、そしてきっと、そこからは友の顔が、よく見えた。
「……」
艶やかな唇が、悲し気な弧を描く。
文字通り全ての望みを失い―――しかし親友が絶対に望まない手段で彼を蘇らせずに済んだ事実に微かな安堵を浮かべながら、大天使は闇色の塵に変わって果てた。
*
ヘレーナ・マーシュロームは回想する。
彼女の父、ベレン・マーシュロームは、穏やかな物腰ながら優秀な人間であった。
彼の周りには彼と同じように優秀な人間やデジモンが集い、彼の志は、すぐに彼らの志となった。
人間はデジモンだけでは創設し得ない文明の維持や管理を。
デジモンは人間の文化や歴史を己が力に変える代わりに彼らの保護を。
リアルとデジタル、その差異はあれど、人間の繁栄がデジモンの新たなる進化を約束するという点においては、彼らの志はひとつになり得たのだ。
そうして出来上がったのが、電子人理守護機関ラタトスク。
リアルワールド・デジタルワールド双方を脅かす脅威をあらかじめ予知し、その芽が小さい内に処理を試みる、その名の通り2つの世界を守護するための組織。
もう、幼い子供達に戦いを押し付ける時代は終わりだ、と。
そんな理念を掲げて、実際にそれを形にしたベレンは、ヘレーナの自慢の父親で―――しかしそんな彼が病に倒れて帰らぬ人となり、若いヘレーナが彼の理想を継がざるを得なくなったのは、なんたる皮肉であっただろう。
だが、父の想いを継ぐ事そのものに対しては、ヘレーナに迷いは無かった。
父の背中をずっと間近に見ていた自分こそが、父の理想を引き受けるに相応しいとさえ考えていた。
……理想と現実は、どこまでも異なるというだけで。
彼女の立場を親の七光りとしか思わない周囲の目。
事実として足りていない実力。
自分を侮る職員に対して高圧的にならざるを得ない己の態度。その悪循環。
加えて、現在の三角程ではなかったとはいえ、当時既にマイノリティに傾き始めていた『パートナーデジモンの居ない人間』という立ち位置と、『コネクトダイブ適性を一切持たない』という、呪いにも等しい自身の性質。
唯一の理解者であるノルエルを除けば、周囲も、自分も。全てが彼女の敵だった。
(「パートナーの居ない人間は、これだから」だなんて。……私が言える台詞じゃなかったのにね)
シフの疑似テイマーになっているがために、宝具に消費されるリソースをいくらか肩代わりした故か、単に緊張の糸が切れたのか。エンジェウーモンとの決着と同時に気を失った三角を介抱しながら、ヘレーナはそっと目を伏せる。
何も、出来なかった。
エインヘリヤルにマタドゥルモンが敵わなかった点については、仕方のない事だと割り切る事が出来る。エンジェウーモンに対して吸血鬼の王だなんて、この相違点においては自殺行為以外の何物でも無い。
だが、そんな中でも出来る事はあった。冷静にシフに指示を出すなり、三角にサポートの方法を伝えるなり。マタドゥルモンに刺さった光の矢を解析し、消去する事だって不可能では無かった筈だ。
だというのに、自分はずっと、恐怖に喚き散らしていただけ。
パートナーデジモンを持たない三角が、震えながら、泣きながらでも、シフの隣に並んで立っていたというのに。
『生まれて初めての』コネクトダイブで、……微小といえども、デジタルワールドで。もしかしたら、これからは何かが変わるかもしれないと、そう、思っていたのに。
「だが、そうやって後からでもきちんと反省できるところは、君の美点に違いないさ、レナ」
「……心を読むような真似は止めてくれないかしら」
「仕方がないだろう。なんて言ったって、私は君のパートナーなのだから」
そう、笑うように囁いて、ヘレーナの隣に傅くマタドゥルモン。
「……」
強張っていたヘレーナの表情が、パートナーを前にようやく、僅かに、ではあるが、緩んだ。
―――君がコネクトダイブの力を持たないのは、きっと全ての世界に繋がりながら地の底に潜み続けるしかない私と足りない部分を補いあって世界を救うためだったのさ。
自分の前に姿を現したこの吸血鬼種の王は、そう言ってパートナーの証として燦然と彼女のデジバイスを輝かせた。
―――大丈夫だよ、レナ。これからは私が傍に居る。
彼の言葉が、それからの行動が、存在そのものが。傷だらけのヘレーナの心を救い上げた。柔らかい物腰と静かながら確かな志を感じる声音は、彼女が喪った父の面影を感じさせた。
ヘイムダルが電子人理の存続を観測できなくなった際も、ノルエルとグランドラクモンが隣に居てくれたから、ヘレーナは立ち上がり、各所からの抗議にも部下達からの困惑にも、立ち向かう事が出来たのだ。
―――君は、こんなに頑張ってるじゃないか。
グランドラクモンが、そうやって、自分を、認めてくれるから。
「……そうね」
ヘレーナはパートナーに向けて顔を上げる。
「これ以上の醜態は曝さないわ。ラタトスクに戻ったら、私にしか出来ない仕事が山のようにある。例え―――」
―――現時点で確認できるこちらの生存者は人間・デジモン含め20名に満たず、その中に、ノルエルは含まれていません。
「―――ノルエルがそこにいなかったとしても。……あなたの肩を借りて、なんとか、がんばってみるわ、マタドゥルモン」
「……うん。その意気だとも。これからは、出来るようになったコネクトダイブだって、積極的に使って行かなきゃいけないんだから」
そうして、ヘレーナは寂しそうに、ではあるが、パートナーへと微笑んで見せた。
と、
「ヘレーナ所長! 先輩は」
宝具が解除された影響か、メタモルモンの姿で戻ってきたシフに、大丈夫よと表情を切り替えて、ヘレーナは地面に寝かせた三角を指し示す。
「大丈夫、バイタルに問題は無いわ。それよりもあなたは? 随分と戻って来るのが遅かったけれど」
「すみません、宝具の反動か、しばらく動けませんでした。……聖解の回収も、まだ行っていません」
「いえ。それだけの大仕事をしたのですから、その点を気負う必要は有りません、シフ。独断で聖解を回収せず、一度戻ってきたのも良い判断です。……名城から、メタルグレイモン消滅の連絡が届いています。こちらに向かっているワーガルルモンと合流してから、全員で聖解のところに向かいましょう」
「……はい!」
力強く頷くシフ。……しかし彼女は、ふと自身の、すっかり元に戻った鉤爪へと視線を落とした。
「シフ?」
「あ……いえ。すみません」
腕。……宝具使用時に、最も変化が顕著だった部位だ。
「……宝具を使った感想は?」
ヘレーナの問いかけに、シフは小さく首を横に振る。
「無我夢中、でしたから。……宝具の真名さえも、解らなくて」
「仮展開だったって事かい?」
銀の仮面に覆われていても、シフがその事に気を落としているのはヘレーナにもマタドゥルモンにもよく解った。
だからこそ、ヘレーナはあえてくすりと彼女の落胆を笑い飛ばして、シフへと微笑みかける。
「ただ、私達を守ろうとした。完全なエインヘリヤルでなくとも、物語が無くとも、一生懸命立ち向かったあなたにシェイプシフターとしての性質が応えたのであれば。……それって十分に、『お伽噺』みたいじゃない? シフ」
きょとん、と。
きっと少女の姿をしている時なら、目を見開いていそうな雰囲気で、シフは小さく首を傾げ―――しかし、すぐさま彼女の言わんとせんことに気付き、こくん、と大きく首を縦に振って見せる。
お伽噺のようだ、と。
それもまた、1つの物語だ、と。肯定されて。
「『電子人理の支柱(ロード・ラタトスク)』……呼び名が無いのは不便でしょう? 一先ず、あなたの宝具はそう名付けておきましょう。それに、名は体を表すもの。……あなたがラタトスクを支えるエインヘリヤルになってくれる事を、所長として祈っています」
そうしてシフは、本当の意味でエインヘリヤルとなる。
「私の、宝具……『電子人理の支柱』……!」
鋼鉄の手の平を見下ろしたシフは、やがて再び大きく頷いた。
……直後、ワーガルルモンがこの地下の巨大空間へと降りてきた。
それを見て、シフは姿を、赤毛に蜂蜜色の瞳の少女へと切り替える。ワーガルルモンが合流した以上、三角を起こす必要があったからだ。
最初は、不意に目覚めた彼を驚かせないよう、咄嗟に。
そして次からは、この誠実で優しい青年に、恥じない姿であろうと、自発的に。
彼に対しては最適解だと判断した少女の姿で、彼女はテイマーに微笑みかける。
「先輩、先輩。起きて下さい」
「ばう!」
「ん……」
割り込んできたバウモンと、起きたは起きたが寝ぼけ眼の三角を見下ろして、シフはにこりと、普通の少女のように笑って見せるのだった。
*
「……そっか。エンジェウーモンは、このために」
とうとう聖解を眼前に見据え、そしてその前に残されたウィザーモンの『残滓』を目の当たりにして、ワーガルルモンは悲し気に橙の瞳を細めた。
聖解の使用者であるエンジェウーモンが消滅したためか、聖解は既に、ウィザーモンの構築を取りやめたようだ。ウィザーモンと定義され損なったそのデータ塊は、もはやその大半が分解され、あの特徴的な杖の飾りだけが、辛うじてここに魔術師のデジモンが作られかけていた事実の証人となっている。
「オレ……いや、オレ達。テイルモンとは、仲間になったばっかりだったけれど……これだけは判るよ。この相違点の話を聞かせたら、きっと怒るだろうなって」
「……そうですね」
テイルモンは、強いデジモンだ。鍛え方が違うと、自分でも言っていた。
ヴァンデモンからの虐待に耐え続け、どんなに辛く苦しい思いを重ねても、八神ヒカリと巡り合う事を諦めなかった彼女が、仲間を手にかけてまでこんな真似をする筈が無い、と。ここでワーガルルモンがエンジェウーモンの狂気を否定してくれた事は、三角達にとっても救いだった。
さあ、と。ワーガルルモンはその爪で、光の奥にある聖解を指し示す。
それは、白いUSBの形をしていた。
「聖解を。あれは、キミたちが手にすべきものだから」
「その……本当に、良いの? ワーガルルモンの協力が無かったら、俺達―――」
「気持ちは嬉しいけれど、オレが使っちゃ本末転倒だろう? キミ達が聖解を回収して元の世界に帰れば、オレ達の『デジモンアドベンチャー』も帰って来る。オレの望みは、それで叶うんだから」
それに、と。この期に及んでお人よしな三角とシフを茶化すように、ワーガルルモンはその手の平で、2人の頭を雑に撫でる。
「わっ!」
「2人とも、こんなに頑張ったんだから! キミ達は、選ばれし子供にも負けないくらい、ステキで、立派なエインヘリヤルとテイマーさ。オレが、保証する」
「あ、ありがとう……」
「ございます……」
誰かに頭を撫でられたのなんて、あんまりにも久しぶりで、三角は顔を赤らめる。
だが、ぐしゃぐしゃになった髪の毛が、今はなんだか、嬉しかった。
「それに、さ」
だが、不意にワーガルルモンの身体が透け始めた事に気付いて、慌てて三角は顔を上げる。
「エンジェウーモンが消滅した事で、オレの……相違点へのカウンターとして呼ばれたオレの役割も、終わったみたいだ」
「終わりって」
そんな、急に。と眉を寄せる三角に、ワーガルルモンはやはり、静かに首を横に振る。
「エインヘリヤルとの別れなんて、いつだって急なものだよ。……でも、大丈夫。オレに会いたくなったら、タケルの書いた本を読んであげてよ。きっとあの子も、喜ぶから」
「ワーガルルモンさん!」
たまらず、シフは消えゆくワーガルルモンに向けて、一歩前に出る。
これだけは、伝えなければと。そう固く決心した瞳で。
「私、『デジモンアドベンチャー』が大好きです! 『デジモンアドベンチャー』シリーズが、全部!! 短い間でしたが、あなたと一緒に冒険が出来て、私、私……幸せ、でした………!!」
ワーガルルモンが、目を見開く。
……だがすぐに、彼はまた優しく目を細めた。
「ありがとう。キミのお蔭で、この相違点(ものがたり)も無意味じゃ無かったって、そう思えた」
ありがとう。と。
もう一度、繰り返して。
またね。と『読者』との再会を約束して、ワーガルルモンは、相違点Dから退去した。
「こちらこそ、ありがとうございました……!」
彼の消え去った方に向けて、シフが深く頭を下げる。
三角も彼女に並んで、それに倣った。
「……」
そんな彼らの背中を眺めながら、視線を落としたヘレーナが小さく息を吐く。
嗚呼、解ってはいたけれど。
私は、褒めて―――認めてはもらえなかったな、と。
「さあ。いつまでも別れを惜しんでいる場合ではありません。聖解を回収しましょう」
誤魔化すようにして、ヘレーナは彼らに次の作業を促す。
慌てて振り返った2人は、しかしどこか爽やかな表情を浮かべていて、それが余計に、ヘレーナの胸の奥をちくりと刺すのだった。
だが、それこそそんな事を考えている場合では無いと、彼女は聖解へと向き直る。
ウィザーモンの残滓は完全に消え去り。あるのは白いUSBだけ。
今度こそ、これで終わりだと。彼女は聖解に手を伸ばす三角の姿を見届け―――
「実に冗長で、くだらない物語だったよ」
―――その最中、天上から気だるげな拍手の音が、鳴り響いた。
「え?」
聞き覚えのある、否、聞き間違える筈の無いその声に、思わずヘレーナは顔を上げる。
宙に浮いたノルエル・フローストが、三角達を見下ろしていた。
「ノルエル!!」
違和感をすべて無視して、ヘレーナが声を弾ませる。
ノルエル・フローストが、生きていた。その事実だけで、彼女の頭の中は一杯に埋まってしまったのだ。
「無事だったのねノルエル! 良か―――」
「待て、レナ」
彼に向けて駆け出そうとしたヘレーナをマタドゥルモンが制止させる。
「? マタドゥルモン?」
「よく見たまえ。……様子がおかしい」
「はい」
三角とバウモンを背に回し、シフもそれに同調する。
「近付いてはなりません。あれは、私達の知っているノルエル教授とは、何かが違う」
「シフまで……何を、言っているの?」
言いつつ、徐々に戸惑いが浮上し始めている様子のヘレーナ。
……三角も、交流はほんの短い間であったとはいえ、今、自分達の頭上で薄ら笑いを浮かべているノルエルには、途方もない違和感を感じずにはいられなくて。
「……生きていたのですね、ノルエル」
ピピ、と短い音を挟んで、三角のデジヴァイスから響く女性の声。
「ああ」と、僅かに意外そうに片眉を持ち上げて、ノルエルは軽く肩を竦める。
「ラタトスクからの通信か。それに、その声は名城じゃないか。生きていたのかだなんて、君の方こそだ。折角所長にサボりを咎められないよう、時間に間に合うよう呼んであげたのに」
全く、と。
その台詞の意味を理解して凍り付く一同を今ひとたび見下ろして。
「どいつもこいつも、統率の取れないクズばかり……ッ!!」
次の瞬間、ノルエルは目玉と牙を剥き出しにするような、あの穏やかな好青年と同一人物とは到底思えない凶悪な表情を露わにして見せつけた。
「何も知らぬからと見逃してやった48番目。エインヘリヤルと化したシフ。私の言う事も聞かずにのうのうと生き残った名城明音。あれだけやったのに当たり前のように生きている不死者の王。本当に想定外の事ばかりで頭にくる……! ああ、ああ! しかし滑稽な出し物もあった。想定外だが、嗤えるハナシは」
そう言って、常に献身的に支え続けてきたヘレーナ・マーシュロームを見下ろしたその時。
ノルエルは、いつも通りの優し気な青年の顔を、彼女に向けていた。
「可哀想なヘレーナ。自分が死んだことにすら気付かないなんて、どこまで頭が弱いんだい?」
その穏やかな口調で、疑いようのない罵倒を、ヘレーナに投げかけながら。
「……は?」
呆けるヘレーナを、ノルエルがさらに鼻で笑う。
「何、言って」
「ああ、いいよいいよヘレーナ。一から説明してあげるから。黙って耳を傾けたまえ。莫迦は見ている分には滑稽だが、喋ると非常につまらないんだ」
管制室で起きた爆発は君の足元が起点だ。何故なら私がそこに、爆弾をしかけた。
ノルエルはなんでもない事のように、あっさりと犯行を告白する。
ヘレーナのみならず、あの爆発に巻き込まれて危うく死ぬところだったシフの顔からも、どんどん血の気が引いていく。
「咄嗟にパートナーが庇ったようだが……グランドラクモン。不死の君は知らないだろうが、人間は半身が消し飛ぶと死んでしまうのだよ」
「それはひとつ勉強になったね。レナがこうして普通に隣で活動しているから、全く気付かなかった」
「そ、そうよ、私、生きて」
「事故で下半身不随になった人間が、デジタルワールドでは元気に走り回る事が出来る。なんて感動的な事例を聞いた事があるだろう? この電子の世界では、五体の『情報』さえあれば、肉体そのものは必要無い」
ノルエルはあくまでもヘレーナの反論を許さない。
諭すように、着実に。どこまでも彼女を追い詰めていく。
「コネクトダイブの仕組みくらいは流石に理解しているな? 肉体と精神のデータスキャン、観測したものを数値通りの電子情報に置き換える変換装置―――通称『ゲート』の展開、そうしてデータ化した情報をデジタルワールドに書き込む一連の行為の事だと。……もしもコネクトダイブを行う『だけ』なら、意識だけをデータ変換および書き込んだ方が、遥かに手間が少ない」
わかるかね? と、小馬鹿にした調子でノルエルはさらに畳みかける。
「人間の肉体情報とは、デジタルワールドからすれば大なり小なり異物(バグ)の類だ。その数値が偶然にもデジタルワールドにとって致命的なものと重なる肉体。それが、君のコネクトダイブを妨げていたものの正体だ。そんな君がコネクトダイブをしているのは、君に『肉体』と観測できる情報が存在していなかったから。と考えるのが自然なのさ」
「違う、違うわよ」
ヘレーナの瞳から、こらえきれなくなったものが零れ落ちる。
今まで必死で、留めてきたものが。
「だから君は、ラタトスクには戻れない」
「違う……!」
「何故ならラタトスクに戻っても、君には生命活動を維持できる肉体が存在していない!」
「違うって言ってるじゃない! そんないじわる言わないでよ、ノルエルッ!!」
「君はもはや、「幼稚な二次創作」の上に落ちた、惨めで矮小な『インクの染み』でしかないのだよ!!」
だが、と。ノルエルはまた大口を開けて嗤うと、大きく両手を広げてみせた。
途端、その動きに付き従うかのように、彼の背後に映像が投射される。
「それではあまりに君が不憫だから、特別に見せてあげようじゃないか。これが、君が生涯を捧げたラタトスクの、今の姿だよ!!」
そこに浮かび上がったのは、真っ黒に染まった『ヘイムダル』。
リアルワールドと、デジタルワールド。観測を切り替えるその瞬間にだけ表面に光の帯が走るものの、それ以外に光はひとつも、確認できない。
人間と、デジモン。双方の生存が、確認できない。
「嘘。……嘘よね? シフ、三角」
「……」
「あんなの、ただの虚像でしょう?」
三角も、シフも。
コネクトダイブの寸前に、既に目にしていた光景だ。
何も言えない2人に、ヘレーナは全てを察するしか無かった。
ただでさえ引きつっていた顔が、もはやひび割れてさえ見える。
「人類及びデジタルモンスターは、滅亡した」
ノルエルが、ひどく静かに言い渡す。
「聞こえているな? Dr.名城。共にデジタルワールドについて研究した学友のよしみだ。最後の忠告をしてやろう」
しかしその宣告すらも、もはやヘレーナを相手にしていない。
「ラタトスクは用済みになった。未来は観測できないままだろう? 外部との通信は繋がったかね? 外の様子を見に行った職員は元気にしているかい?」
「……っ」
「結末は、確定した」
人類及びデジタルモンスターは、滅亡した。
ノルエルは今一度、名城達に言い聞かせる。
「嘘よ!!」
そんな彼に前面から降り注ぐ刃の雨。
マタドゥルモンの『サウザンドアロー』が、ノルエルの全身に穴を空ける。
どう、と、複数のレイピアに押さえつけられるような形で、ノルエルの身体が地に投げ出された。
「っ」
デジモンでは無く人間―――少なくとも、人間の姿をしたもの―――に向けられた殺意の具現に、思わず身が竦む三角。いくらノルエルの暴虐を目にした直後だとはいえ、一般人である彼に許容できる光景では無かったのだ。
「先輩……!」
「はっ、はは……口程にも無いわねノルエル。……あなたの悪ふざけもここまでです」
倒れたノルエルの脇を抜け、光の中に駆け込んだヘレーナが、その中心に座す聖解を取り上げる。
途端、周囲の光は白いUSBに集約した。
「聖解を、回収しました。オーダー・コンプリート……私は、私はやったのよ!!」
ぐちゃぐちゃになった感情で、無理くりに作り上げた笑顔を張り付けて。ヘレーナは聖解を高々と掲げる。
「『聖解』よ! ヘレーナ・マーシュロームが命じます。私達をラタトスクに転送しなさいッ!!」
「……!」
「わふ!?」
三角の身体を、あの独特の浮遊感が包む。
三角だけでは無い。シフ、バウモン、そしてマタドゥルモンにも、同じ感覚が訪れているようだ。
ただ1人、ヘレーナ・マーシュロームを除いては。
「……え?」
「『インクの染み』」
また、ノルエルの身体が浮かび上がる。
それだけは、コネクトダイブの力では無い。彼は自分自身の力で浮遊しているのだ。
突き刺さったレイピアは虚空へと溶け、空いた穴は渦を描くようにして再生していく。
「君は、ラタトスクには帰れない」
彼はもはや、ヘレーナの名すら呼ばなかった。
「これが、君の選んだ結末だよ」
「ち、がう。違う違う違う!! 私のせいじゃない! 私の責任じゃない! 私は失敗なんかしてない! 死んでなんか、いないって言ってるじゃない!!」
ノルエルに飛び掛かるヘレーナだったが、彼はもう、彼女の手が届く位置にはいない。
余った勢いは彼女の身を地面に投げ出したのみだった。
「さて」
そこからはもうヘレーナに一瞥もくれず、ノルエルは改めて、三角達を見下ろす。
「私は失礼するよ。結末は確定した。もう目を通す価値も無い。この物語は英雄譚では無い。君達は『闇』との戦いに敗れるでも、進化の行き止まりの末衰退するでもなく、自らの無意味さ故に、自らの無能さ故に、我らが『神』の寵愛を失ったが故に!」
ノルエルは、心底退屈そうに、げらげらと笑った。
「何の価値も無い紙屑のように、ゴミ箱の底で朽ちていくのさ!!」
我が名はノルエル・フロースト。
『デジモンアドベンチャー』から連綿と続いた、この『史実』という物語の担当者。
最後の名乗りを上げて、最後にもう一度だけ、あの穏やかなデジタルワールド研究者を彷彿とさせる所作で、ノルエルは恭しく頭を下げる。
それこそ、勝利の宣言であるかのように。
「それでは御機嫌よう。シフ、名城、吸血鬼王。そして、48番目の適性者」
ノルエルの姿が、掻き消えた。
「……!」
同時に、三角達の身体が透け始める。地面に足こそ付いていたが、あの独特の浮遊感はひどくなる一方だ。
「……待って、みんな、どこに行くの」
「ヘレーナ、所長」
倒れ込んでいたヘレーナが身を捩る。振り返った彼女にもはや表情は抜け落ち、しかし瞳からは、ただただ滂沱の涙を流し続けている。
「私の事、置いていったりしないよね?」
「……レナ」
マタドゥルモンが顔を上げる。
そうして発するのは、心乱れた彼女をなだめる、あの優しい声。
「マタドゥルモン」
「大丈夫だから、少しだけ待っていてくれ。必ず、迎えに」
「嫌ッ!!」
だがやはり自分はラタトスクには戻れないのだと悟るや否や、彼女はまたしても声を張り上げる。
「傍に居るって言ったじゃない! 嘘吐きッ!! 私を置いていくなんて、そんなの許さないんだから!!」
「レナ、私は」
だが、彼が何かを言いかける前に、マタドゥルモンの身体が掻き消える。
彼が最も願望者であるヘレーナに近い立場であるが故に、彼が最も早く、ラタトスクへと送り届けられたのである。
「あ―――嘘。嘘よ、マタドゥルモン。怒らないで。置いていかないで。私、私は、ただ―――」
「ヘレーナ所長!」
「! 先輩!」
たまらず、三角はヘレーナの方へと駆けて行く。
当然、何か考えがあった訳では無い。だが、ひょっとすると、ひょっとすれば。シフの手を掴んだことで彼女と同じ場所にコネクトダイブしていた事を思えば、同じように傍に居れば、ヘレーナを自分の転移に巻き込めるのではないか、と。そんな希望的観測に縋りつくように、三角は消えかかった身体で彼女の元へと駆けたのだ。
「なんで、なんでよう……。私、こんなにがんばってるのに、なんでこんな目に遭うの? どうして誰も認めてくれないの? ……どうして、誰も褒めてくれないの? どうして、どうしてこんな事ばっかりなの!?」
項垂れ、嗚咽を交えながら。ヘレーナは虚空に問いかけ続ける。
自分を殺そうとしたノルエル。自分を置いていったパートナー。
「子供達に戦いを押し付けないように」と宣いながら、その子供達のなかに自分を含んでくれていなかった最愛の父。
「誰が私を評価してくれたの? 誰が私を好いてくれたの? 私、結局、こうして、ひとりぼっち―――嫌、いやいやいやいやいやぁっ!! 助けて、誰か助けて!! やめて、私、まだ何もしてないのに!!」
「ヘレーナ所長、ヘレーナ所長ッ!!」
三角の呼び声は、他ならぬパニックに陥ったヘレーナの自身によって、掻き消される。
「生まれてからずっと、ただの一度も。誰にも認めてもらえなかったのに―――」
それでも三角は、消えかかった手を懸命にヘレーナへと伸ばす。
故に、その手がようやく、彼女の視界に入って。
「あ……、三角」
しかしヘレーナがその手を握り返そうとした時には、もう、手遅れだった。
世界が、鮮やかに反転する。
*
もふ、と。
何かあたたかく、やわらかいものが三角の指先に触れる。
流石に3度目ともなれば、察しがついた。
「……バウモン」
「くぅーん……」
顔を上げると、バウモンは今までにない程に悲痛な眼差しを、三角の方に向けていて。
「……心配してくれるんだね」
「わう……」
「ありがとう」
三角は、また、バウモンの頭を撫でようとして。
「っ」
……伸ばした手が、結局所長に届かなかったあの光景がフラッシュバックして、結局その手を固く握りしめる事しか出来なかった。
「ばう……」
バウモンの耳と尻尾が垂れ下がる。
ああ、ごめん。と、急いで三角は、どうにか己を取り繕う。彼にまで悲しい思いをさせるのは、三角だって本意で無かったのだ。
「大丈夫。……俺は。それよりも―――」
「先輩!!」
安否を問おうとした少女―――の姿をしたデジモンが、三角の覚醒に気付いて駆けてくる。
顔を上げると、三角は自分がいくらか瓦礫を片付けた中、申し訳程度に敷かれた毛布の上に寝かされていたのだと気が付いた。
「シフ、よかった、無事で……」
「先輩も……! あっ、いえ、それよりも。テディちゃん! 三角イツキ、意識が回復しました!」
「そうかい! ならワタシの仕事はここまでだとも。負傷者は他にも山……程はいないけれど、少なくは無いんだ。ほら、名城。キミが代わりに行っておあげ」
身を起こした三角は、しかしシフに「テディちゃん」と呼ばれた人物の姿を確認する事は出来なかった。
代わりに開きっぱなしの扉から、血相を変えた名城が、おそらく入れ替わるようにして三角の寝かされている部屋へと飛び込んでくる。
「三角!」
「名城さん」
シフの隣に膝を付き、三角をつま先からてっぺんまでじっと眺めた名城は、そうしてようやく彼に異常はないと判断できたのか、大きく息を吐いてから姿勢を改める。
「……まずは、生還おめでとうございます、三角、シフ。あとバウモン。……ファースト・オーダー達成、お疲れ様でした。なし崩しに全てを押し付けてしまいましたが、あなた方は無事、光が丘の聖解を回収し、相違点を消滅させました。……正確には、相違点の観測結果は未だヘイムダルに保存されているのですが……いえ、これは今は、置いておきましょう」
「あ……聖解……」
「聖解は、あの後ラタトスクに転移しました。今は『城』の宝物庫に厳重に保管する手続きを進めています」
城。
宝物庫。
引っかかる単語は有ったが、それ以上に。
聖解の使用者の名がその中に無い事の方が、よほど強く三角の胸の内に突き刺さって。
「……名城さん」
「はい」
「所長は―――」
だが、その時。
名城の向こう。引き続き開いたままの扉から、1人の人物が入って来るのが見えて、三角は跳ねるようにして全身を起こす。
プラチナブロンドの髪。鮮やかな緑色の瞳にフチなしの眼鏡。ミントグリーンの制服。
見紛う筈があろうか。
振り返ったシフも、同様に目を見開き、三角と共にその人物の方へと駆けて行く。
「ヘレーナ所長!!」
「……あー、すまないんだが」
ぐるる、と。
バウモンがヘレーナに向けて低く唸ったのが、何故だかとても大きく、三角の耳に響いた。
「肉体は確かにレナのものだが、私だよ。私はグランドラクモン。……マタドゥルモンと名乗った方が、君にはなじみが深いかな、三角」
「……え?」
声音こそヘレーナのままだが、口を開いた瞬間から彼女に纏わりついた雰囲気は、とてもヘレーナのものとは思えないもので。
本人の言う通り、それこそ、吸血鬼の王のような。
グランドラクモンはマタドゥルモンの時にそうしていたように、両の掌を三角達に向けて害意や悪意が無い事をアピールしてみせる。
「ヘレーナの肉体は、ノルエルの言う通り生命活動を停止していた。それに私自身、死なないとはいえ肉体の損傷が激しくてね。……ヘレーナの肉体の欠けた部分を補うような形で、欠損した私のデータを彼女の中に取り込ませてもらった。この、不死の王のデータをね」
君達人間の倫理観からすると気持ちが悪いかもしれないけれど、勘違いはしないでおくれよ、と、渋い顔をしている名城にも釘を刺すようにして、ヘレーナの中に潜んだグランドラクモンは三角達を見渡した。
「これは、ヘレーナを助けるためにやった事だ。……お疲れのところ、それも起きて早々に悪いとは思うが。テイマー番号48番・三角イツキ。そしてシフ。……大事な話がある。玉座の間……じゃなかった。管制室に、来てもらえるかな?」
*
ラタトスクの廊下は、すっかり様変わりしてしまっていた。
崩壊しているのではない。まるで、別の建物と混ざってしまったかのような有様だったのだ。
「実際、混ざってしまっているのだよ。ここはコキュートス。デジタルワールド全てにとっての地の底。……その一角にある、私の城……だった」
「コネクトダイブが、全てのデジタルワールドに繋がるコキュートスを経由して発動するとは説明したでしょう、三角。……あの時コネクトダイブのために開いたゲートが、コキュートスと接続していた影響か。……ラタトスク本部は、グランドラクモンの城と融合してしまったようです」
管制室に向かう最中、グランドラクモンと名城が交互に現状を説明する。
ラタトスクとグランドラクモンの城の融合。およびこの空間がリアルワールドからもデジタルワールドからも切り離され、異空間に漂流している事。
ラタトスクの職員は実にその7割が死亡。生き残りが、人間・デジモン含め20人にも満たない事。
生き残った人間のパートナーはすべて消滅してしまった事。
同じように、生き残ったデジモンのパートナーも消滅してしまった事。
そも、彼らの繋がりが、完全に断たれてしまっているらしいという事。
「グランドラクモンの城と同化した事で、設備の壊滅は免れたようですが……」
「やれやれ、ノルエル1人にとんだ有様だよ。デジモンと人間の未来を守る筈だった機関は、今や死に体。私の城の部下達に至っては全滅だ」
そして、その人類も、と、一同が足を踏み入れた管制室―――グランドラクモンにとっての玉座の間には、以前、真っ黒に染まったヘイムダルが浮かんでいて。
人類は滅亡した。
ノルエルの宣告が、三角の中で渦を巻く。
「ですが」
だが、項垂れる三角の前に、名城が表情を引き締めて振り返る。
彼女の背後には、他の生き残った職員達が、同じように背筋を伸ばして、立っている。
どれだけ悲痛な思いを胸に秘め居ていても。
誰も、諦めた目をした者はいない。
「だからこそ、わたくしたちは死んでいった者達の意思を継がなくてはならない。……電子人理を、守護する者として」
呆気に取られる三角とシフの前で名城が合図を送る。と、ヘイムダルの前に、三角に合わせてか日本語版で表記された、8つの作品タイトルが表示される。
「相違点Dの聖解を回収しても、ヘイムダルの状態は変わらなかった。故に我々はヘイムダルで、再びリアルワールドおよびデジタルワールドを観測し直しました。その結果新たに見つかったのが、現時点で8つの相違点……そのタイトルです」
相違点。
現実に滅びを伝播させる、物語を下地にしたデジタルワールド。
そんなものが、8つも、と。
やっとの思いで相違点Dを切り抜けた三角は、ぞっとした表情でその8作品の名を見上げる。
名城はそんな彼から一度、視線を落とし―――しかし、それが自分の役割だと、感情を殺したような眼差しを三角へと投げかけた。
「三角。貴方もお察しの通り、我々はコネクトダイブによってこれらの相違点から聖解を取り除かなければならない。……そして、それが出来るのは、貴方だけです。最後のテイマー」
「……え?」
呆ける三角。
……この場に居る全員の視線が、自分に注がれている、と。その時初めて、彼は気が付いた。
「相違点……異世界と呼べるデジタルワールドへのコネクトダイブには、高い適性が必要です。全世界を探し回っても、48人しか見つけられなかった程の希少な適性が」
「……でも、48人……いたんです、よね?」
「全滅しました。……正確には、凍結処理によって死亡の判断を遅らせている状態ではありますが……何にせよ、アクティブな適性者は、貴方と、エインヘリヤルであるシフしか残っていないのですよ」
「……」
シフもまた、胸に手を当てて顔を下げる。
2人を慮るように、バウモンだけが、くぅんと鳴いた。
「この場で貴方にこれを話す事は、もはや強制でしかありません。ですが、わたくしもあなたに言う他無いのです」
相違点Dの事件を解決し、『デジモンアドベンチャー』の物語を修正した、現状唯一のコネクトダイブ適性者。三角イツキ。
「そんな貴方が世界を救いたければ、貴方は少なくともあと8回、同じ事を繰り返さなければならない。たった1人で、人間とデジモンの物語に立ち向かわなければならない」
名城明音は、つい昨日まで一般人に過ぎなかった―――否、パートナーデジモンを持たないという意味では、一般人ですらなかった青年へと、問いかける。
「テイマー番号48番、三角イツキ。 貴方に、その覚悟はありますか? ラタトスクを……デジモンと人間の未来を背負うだけの力は、ありますか?」
「……そんなの」
ぽた、と。
三角の足元に、雫が零れ落ちる。
「そんなの、あるわけ無いじゃないですか……!」
考えるだけで、怖いと思った。
必死に立ち向かったけれど、相違点Dだけで、何度死ぬような思いをしたかと、それを振り返るだけで、心臓が止まってしまいそうだった。
「……」
「でもっ」
思い起こされるのは、そこで出会ったデジモン達。
捻じ曲げられた『デジモンアドベンチャー』。
奪われた未来。壊された絆。踏み躙られた、彼らの想い。
そして、手の届かなかった、1人の女性。
同じ思いをしているデジモン達が
同じ思いをするかもしれない人間達が
三角が何もしなければ、このままずっと、生み出され続けるのだ。
「そんな結末は、嫌だ……ッ!!」
三角は乱暴に目元を拭う。
そのまま、彼は震える手を、そっと隣へと差し出した。
「……シフ」
「……はい、先輩」
「手を、握ってもらっても、いいかな?」
「もちろん、です」
少女の手が、青年の手に重なる。
「背負います。……それが、俺に出来る事なら」
そうして、彼は長い旅路の一歩を、踏み出した。
「……ありがとう、ございます」
名城が、深々と三角達に頭を下げる。
「これで、わたくし達の運命は、決定しました」
そうして彼女は振り返り、彼女の後ろに控えていた、20名にも満たないラタトスクの生き残りたちを見渡した。
「生き残った全てのラタトスク職員に告ぎます! 現時刻を以って技術班チーフ・名城明音は、正式に司令官の任を拝命します! その上で、ラタトスクは前所長ヘレーナ・マーシュロームが予定した通り、電子人理存続の尊名を全うするのです!!」
応、と声を上げる彼らに頷いて見せ、名城は続けて、ヘレーナの肉体に潜んだグランドラクモンへと視線を向ける。
「いいですね? グランドラクモン」
「ああ。もちろん。私は支配者ではあっても先導者ではない。君が適任だ、Dr.名城」
ただ、この身体に、どうか最後の音頭を取らせてくれたまえ、と、彼は職員達の前へと躍り出る。
「目的は電子人類史の保護及び奪還。探索対象はデジモンと人間を結ぶ物語と、それらを改変するイグドラシル由来の聖遺物・聖解。……そして我々が戦うべき相手も、この『物語』そのもの。君達の前には、数多の英雄譚が立ち塞がるだろう。これは挑戦であると同時に、デジモンと人間の友諠に弓を引く愚行でもある。……私達は、未来を取り戻すために、積み重ねてきた過去と戦うのだ」
それでも、ありふれた『明日』が欲しければ。
『傑作』相手に立ち向かうしかない。
たとえ、どのような結末が待っていようとも。
そう言って、グランドラクモンは微笑み、共に『世界の滅亡』と戦う仲間達を見渡した。
「以上の決意を持って、私は諸君らに命令する。「ヘレーナが望んだ通り、この世界を救ってほしい」と。そして」
彼は、パートナーの鮮やかな緑色の瞳をすぅ、と細めた。
「我々が電子人理を修復すれば、元通りになる因果に乗じて相違点Dからヘレーナの意識データをサルベージできる希望が生まれる。……どうか、ヘレーナを助けてほしい。これは、私の個人的な望みだ」
以上を以って、作戦名は『ファースト・オーダー』から改められる。
グランドラクモン・オーダー。
パートナーの悲願と、彼自身の「ささやかな願い」。
名付けられた彼らの物語を前に、三角はただ、強く、自分の隣に居るそのデジモンの手を、握り締めた。
「……先輩」
「……変、だよね。俺が……パートナーデジモンもいない俺が、『人類最後のテイマー』だなんて」
「……そんな事を言い出したら、私もですよ。パートナーの居なかった私が、エインヘリヤル、だなんて」
職員達がグランドラクモンに応じる中、三角とシフは、向かい合う。
「シフ」
「はい」
「これからも、俺に手を貸してくれる?」
「はい!」
だって、と。
シフは、三角へと。微笑みながら、頷いた。
「私は、先輩のエインヘリヤルなのですから!」
相違点D
A.D.1999 崩落伝染史記 光が丘
『デジモンアドベンチャー』
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