その壁は、高さ10メートル近く、鉄筋コンクリート製、塗装もされていない打ちっぱなしの無骨な作りながら、特筆すべきはその規模。
『東西およそ3km、南北およそ5km、ぐるりとその中に小さめの市か町が丸ごと囲われているようですね』
名城の言葉に、一月はシフを見たが、シフは首を横に振った。
当然原作にはこんな建造物はない。
『おーい、ちょっとテディの話に耳を貸してくれるかな?』
「何かあったの?」
『うん、その壁から、その世界における魔術の反応が出ているんだよ。内部の様子も観測できない』
テディはそう言った。
「この世界の多くの人達はデジモンについての知識はなく、魔術を使うのは限られたデジモンとそうしたデジモンから習った人間のみであり、大抵秘匿されています」
シフがそう口にして、一月も事情を把握した。
「聖解によって作られたもの……ってこと?」
『とも限らないかな。作中で魔術を扱う存在の一つ、公安組織は敵として描写されることも多いが、正義感が強いグループの存在も描かれているし、一月君も知ってる柳真珠は自分に寄生させているメフィスモンから簡単な魔術を習っているという描写もある。この世界の誰かが聖解の干渉に対抗して作り上げたという線もあるよ』
テディの言葉に、なるほどと頷いた後、ん? と首を傾げた。
「現地の人が作ったとしたら……これだけの壁、何年、譲歩しても何ヶ月かもかかりますよね? でも、私達がデジタルシフトした今って、作中の開始の夏のタイミング……」
デジタルシフトは作中での描写を元に行う。聖解による介入も場面や描写によって行う。
「確かに、開始の時間軸に介入されたのだとしたら、現地の人達がこれを作る時間はないはずです」
『もしかすると、突入時に拳の聖女と幽谷雅火を弾いた干渉、アレで時間軸がずらされたかもしれないね』
『……と、いうことですので。ひとまずは調査ですね。聞くのは壁のこと、そして喫茶ユーノーの場所です』
「喫茶ユーノー……現地案内役候補の国見天青さんの喫茶店ですね」
『その通りです。時間軸がもしズレていれば、もう一人の候補、美園猗鈴もいるかもしれません』
でも、と一月は周囲を見渡して眉を顰めた。
「ただ、この辺りは全然人の気配がしません……」
カツンと地面を何かで突くような音がして、シフと一月が振り向くと。そこにはまだ暑い季節のはずなのに季節に似合わないロングコートを着た長髪の顔の整った男性が立っていた。
「なにかお困りかね」
「……あなたは?」
「まぁ通りがかりの紳士とでも言っておこうか。この街において善行は一種の生存戦略、打算や詐欺ではないから安心したまえ」
こんな怪しい風体で詐欺を働く人間もそうはいまいと男は言った。
一月はシフと軽く目を合わせ、おずおずと半歩前に出た。
「探してる場所が、あるんですけれど」
「廃住宅街を抜けて歓楽街の方を目指せば途中で幾つも案内看板が見つかるのだが、私のおすすめの魚屋がある。品質のいいタコを切らさない仕入れのプロフェッショナルがいる」
「……人が多くて聞き込みできそうな場所を知りませんか?」
この自称紳士に聞いても出てこなさそうだと思って、一月はそう聞くことにした。
「hum……魚屋は商店街の中にある。『普通の住人』に聞き込みがしたいならばその辺りが適しているだろう」
他に聞くことはないかねと自称紳士は口にした。
「いえ……ありがとうございました」
一月が軽く頭を下げ、上げるとそこにはもう紳士はいなかった。
「え?」
『応答してください、無事ですか?』
「ドクター、今の人は……」
『今のは人ではありません、エインヘリヤルです。通信を妨害し、なんらかのスキルでシフの感覚も誤魔化していたようですが……』
「怪しい人だとは思いましたけれど、敵意とかは何も……」
『こちらの観測では、そこに何か魔術の反応があるアイテムを残していったようですが……』
困惑しながら一月が周囲を見回し、不意に下を向くと、紳士の立っていた辺りにキラッと光るカードが一枚落ちているのに気がついた。
「カードが……ドクター」
『……解析終わりました。危険はないようなので回収してください』
【××モンスターカードゲーム 巨建築物鮹(デッカビルフィッシュ)】
「……えっと、ドクター?」
拾ったカードに書いてあった文字と、巨大なビルに擬態するタコの様なモンスターの挿絵に、一月は反応に困って名城に尋ねる。
『……シフ、わかりますか?』
「え……と、ドレンチェリーを残さないでの作中に出てくる架空カードゲームのカード、だと思います。作中で出てきていないカードですが……」
『どうやら、そのカードをデコイにしてラタトスクからの観測データを狂わせてその場を去った……のだとは思います』
「……とりあえず、聞いた位置関係が合ってそうかってドクターわかりますか?」
『そうですね、確かにその辺りに人の反応は見つからず、言われた方向に人の反応はありますが……』
果たしてあの紳士を信じていいのか。
普通に敵対するつもりや殺害するつもりならば、人間のフリをしてここまで接近した以上幾らでも隙はあった。
でも、単に悪趣味で段階を踏んで痛めつけようとしているとか色々な可能性はある。だけど、誘い込むとしたら今のエインヘリヤルに任せる気はしない。とはいってもそう考えることを見越してということもあり得なくはない……
でも、悪い人にも見えなかった。
一月の頭の中をぐるぐるといろんな可能性が回っていく。
「……ドクター、判断つかないしとりあえずいってみます」
『……いえ、罠の可能性もあります。歓楽街の方に行ってみましょう』
まぁそう言うならばと一月は頷いて、シフとしんと静まり返った住宅街を歩いていく。人はいないけど玄関が開いている建物も幾つかある。
「……どうみても放棄して数ヶ月じゃないよね」
「五年前にこの街ではテロがあったはずです。描写されてなかっただけで、街を出て行った人も多かったのかもしれませんね……」
だとして、鍵を開けていくだろうか。少し釈然としないものを一月は感じたが、よくわからなかった。
もう少しで歓楽街に着くというところで、不意に名城から通信が入る。
『前方に敵性反応……人間とデジモンが重なったような反応です』
「……目視しました」
道を塞ぐ様に、黒いスーツの男が立っていた。中のシャツは柄入りで、サングラスをかけており、チアノーゼでも起こした様な紫色の唇がひくひくと痙攣した様に動いている。
『おそらく、この相異点のデジメモリ……人をデジモンにする薬物の様なツールの常習者でしょう』
「お嬢さん方、ここは通行止めだぁ……通りたければ金目のモンおいてけやぁ……」
聞き取りにくい呂律が回ってない様な口調で男はそう口にし、真っ黒なUSBメモリを見せつけた。
そして、男がボタンを押すと聞き取れないぐちゃぐちゃの音声が鳴り、男の肌が紫色に斑に染まった、
「シフ、戦闘準備!」
「はい、戦闘開始します!」
一月が一歩下がり、シフは前に出ると人型のままではあるがその左腕を濃い緑色の蔦、ザッソーモンの蔦に変化させた。
「命置いてけやぁ!」
男が腕を大きく振りかぶって走り込んでくる。
そのタイミングに合わせ、シフはその腕に蔦を巻きつけて大きく引っ張って体勢を崩した。
鈍い音と共に拳が当たったアスファルトが凹む。
「いっでぇっ!! このクソ女ァッ!!」
そう言いながら立ち上がってくる男の顎に、シフの振るった蔦が振るわれる。
そして、そのままその場に崩れ落ち、身体から黒いメモリが排出されて転がった。
「……無力化を確認。戦闘終了します」
「……この作品のデジメモリって、『デジモンになる』ものだったはず、だよね?」
「はい、しかも、使用時にはどんなデジモンになるかの音声が鳴るはずです」
『考えるのは後にしましょう。その黒いメモリは回収しておいてください』
名城の指示に従ってシフが黒いメモリを拾う。
そうして、何度か同じ様なメモリを持った人間に襲われながら辿り着いた繁華街は、近くで見れば見るほどギラギラとしていた。
まだ日が少し傾き始めたぐらいだというのに、いかがわしさを感じる店が看板をギラギラと光らせ、ボーイが呼び込みをかけている。
そんな街を歩くのは、ドレスで着飾った女やカタギには見えないスーツの男達。
「……話聞いてもらえるかな?」
『とりあえず、話を聞いてみて下さい。ユミル相異点で戦ったデジモン達とかに比べたら余裕でしょう?』
名城の言葉が一月にはあまりにも無慈悲に聞こえた。なんていうか怖さのジャンルが違う。
吐きそうになりながら、一月は勇気を出して話しかけに行った。
そのメガネの女は、穴の空いたボロボロの服装をして、ふらふらと歩いていた。
その服についた血を見ても誰も何も言わない。金色の髪がゆらゆらとあゆみに合わせて揺れていた。
「おい! てめぇ今わざとぶつかってきやがったよなぁ!」
道の真ん中で一人の男ががなり声を上げていた。
だから、その女に気づかなかった。
「ごめんなさい。本当ごめんなさい。そんなつもりはなくて……荷物を落としそうでついふらついただけで……」
リクルートスーツを着た女は、手に袋を抱えたままごめんなさいごめんなさいと頭を下げ、下げるたびに袋から紅茶やレモンが落ちた。
謝るのに必死で彼女もその女に気がついてなかった。
「ごたくは聞いてねぇんだよ!!」
男が彼女を蹴り飛ばした先に、その女がいた。
よろけて、倒れ込みぶつかった彼女に、その女は微動だにせず、ただ虚な目を彼女に向け、そして目の前の男に向けた。
「悪……は……」
その女の目が赤く光り、対して男はやっとその女に気がついて顔を一瞬で真っ青にした。
「わ、わざとじゃな
男の口は言い切る前に消えた。口どころか身体の全部が、その女から立っていたあたりの地面に伸びた紫色の腕と、アスファルトの間に圧縮され、血溜まりがそこにできていた。
「……飲んでも、いい……」
ごきゅごきゅ、ずずずと音を立てながら血溜まりが消える。
残されたのはアスファルトの凹みと高そうなスーツ、そして水分を失ったその持ち主の枝の様になった亡骸だけだった。
その女の目が、自分にぶつかった女に向いた。
「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
ぶつかったのがその女だと気づいた時から、彼女はそこに土下座して謝り続けていた。
それを見て、その女は首をカクンと一度動かしたあと、ふらふらとまた歩き出した。
「……悪は飲んでいい……大丈夫、大丈夫、私は正気……」
「……誰も話を聞いてくれない」
誰も彼も取りつく島がなかった。皆、楽しんでいる様であってもなにかに急かされている様で、他人に構う余裕などない様だった。
歓楽街のすぐ裏路地はスラムの様になっていて、見窄らしい格好の子供達がいたが、その子達も近づくと逃げた。
「私が聞いてもダメでした」
商店街の方に行った方が良かったかなと思いながらもう一度通りを見てふと、人通りがほとんどいなくなっていることに気がついた。
「……なんか、人が少ないけど」
「先輩、あそこの店、さっきまで出していた看板をしまっています」
シフの指差した先では、ボーイが看板を店の中に引き入れていた。
『おかしいね、こういう街って夜が本番の筈なのに。まだギリギリ日も沈んでいないぐらいなのに』
テディもそう言う中で、一月は不意に嫌な予感がした。
「あ、このガキ!!」
ふと、建物の中に入ろうとした男に見窄らしい格好の子供が体当たりをして、落とした物の中から食べ物を掴んで走り出した。
「待ちな! もう夜が来る!!」
盗られた男の腕を女が引っ張ると、散らばった荷物をそそくさと集めて男と女は建物の中に引っ込み、少年はそのまま逃げ去った。
「おいあんたら早く屋内に入れる! もう日が沈む、『夜』が来るぞ!!」
さらに、一月達にそんな声がかけられた。
日が沈み夜が来る。当たり前のことを言って走り去っていったその男に、シフはぽかんとしていたが、一月は男の言葉の意味に気づいた。
「……ドクター、近くに入れそうな建物とかありますか!?」
『……いや、この辺りの通りはみんな閉じ切ってます。しかし……』
「えと、そうだ。住宅街の廃屋まで行こう、聞き込みは多分もうできない……と思う!」
ユミルで陽都の相異点の自分が混ざってるらしい未来さんは、夜になると暴走すると言っていた。
「どういうことですか? 先輩!」
でも、ユミルの後に少し自分で調べて、それは変だとは思っていた。
軽井未来は、軽く調べた限り、『暴走しそうな自分を抑え込む』キャラクターだった。本当の意味で暴走したことはなく、抑え込めていたキャラクター。
『夜になると暴走する』のは、この相異点の存在だからこその特性。
襲われない様にする方法は、夜が明けるまで建物の中にいること。吸血鬼は招かれないと入れないから。
だから放棄された住宅の鍵は開いていたのだ。
「この相異点の未来さんが来る」
空が見る間に暗くなる。なんとか日が落ち切る前にと一月は名城のガイドに従って必死で走った。
「おいガキぃ! お前いいもん持ってんなァ!!」
住宅街の入り口で男が食べ目のを持った少年の前に立ち塞がっていた。
『あの男が道を塞いでいる傍の家がもう廃屋です。無視して塀を登ってください』
名城の声に、一月は逡巡して、シフを見た。
「……シフ、あの子回収して、あの人倒して、二人とも連れて廃屋にって、いける?」
「はい、できます!」
シフの左腕がまた濃い緑色の蔦になり、一瞬で伸びて子供に巻きつく。
それを引き寄せて、一月が子供を受け止める。
そして、もう一度男の方を見ると、もうそこに男はいなかった。
代わりに、地面に赤い血溜まりがあった。闇の中に、赤く光る目が二つあった。
「未来……さん……」
その姿を一月は知っている。暗くてよく見えなくとも、記憶のそれより二回りは大きくとも、半身を竜と化したその巨大な吸血鬼を一月は知っている。
それだけに、その手の下の血溜まりがショックで固まってしまった。
「先輩!」
そんな一月を子供ごと抱え、シフは廃屋に向けて走りだした。地面を蹴って塀の上に飛び乗り、入口へとさらに跳ぶ。
一月の目にはついさっきまでシフが立っていた塀が一瞬で砕けた瓦礫の山になるのが見えた。
「渇く、凍える……血が足りないぃ……い゛い゛ッ」
未来の口から響く声は獣の叫びの様で、一月は胸がさらに苦しくなった。
シフはその声に耳を貸さず、開きっぱなしの玄関扉を開け、そのまま倒れ込む様に屋内に入って鍵を閉めた。
「……先輩、ご無事ですか?」
暴走してることは知っていた。予想していたし、そうなっている時の姿を全く知らないという訳じゃない。
だから、いざ見ても動揺するとは思っていなかった。考えが甘かった。
たけどと、一月は登ってくる胃酸をぐっと飲み込んだ。
「だ……い丈夫!」
無理やり笑った顔は蒼白だったが、シフはそれを指摘できなかった。
『まだだ! 早く隣の廃屋へ!!』
テディの声に続いて、外から声がする。
「血ぃ……喉が、喉が渇くの……渇くのぉッ!!」
玄関の扉が爪の形に切り裂かれ、玄関のコンクリートがガラガラと崩れる。
「テディ! 吸血鬼は招かれなければ家に入れないはずでは!?」
『それはおそらく変わらない! でも、その隠れている家が、家とも言えない状態になったら入れるのかもしれない!!』
思わず叫んだシフの疑問にテディがそう答える。
普通に逃げても逃げきれない。逃げながらどうにかここに未来を留めなければいけない。
未来さんに勝てるわけがない。一月の頭の中でそんな言葉がぐるぐる回る。ユミルでどれだけ心強かったか、それよりもこの相異点での未来の方がもし強かったとしたら、少なくとも今の戦力で戦える相手じゃない。
「もうだめじゃん……」
そう思うとまた胃酸が込み上がってきた。
「……でも、やらなきゃ」
一月は、そう呟きながら目に溜まった涙を拭う。
ラタトスクのテイマーである一月は、ラタトスクで契約しているエインヘリヤルを簡易的に召喚することができる。ユミルの時の経験もあり、最低限のやり方を一月は吐くほどに身体に染み込ませてきた。
一月が召喚しようと考えたエインヘリヤルは硯石天悟。聖剣を持ち、巨大で太陽の要素を持つデジモン(シャイングレイモン)へと変化する宝具を持つ。
吸血鬼としての弱点を多く抱えた未来には聖剣や太陽が効く。
「……ドクター、一瞬なら天悟を召喚して宝具展開させられますか!?」
『大丈夫です。ですが保っても一分、魔力に余裕はありません』
「未来さんと組み合ったらすぐに未来さんの視界から離脱して離れた廃屋に移動……で、シフいける?」
シフが頷いたのを確認して、一月が右手を掲げる。
紋章が赤く光り、硯石天悟の影が召喚される。
天悟の影は、家をバキバキと砕いて伸びてきた未来の腕に一度黄金に光る剣を突き立てる。
未来の子供の様な悲鳴が上がり、その隙をついて天悟は地面に向けて剣を二度振るって顕になった地面に手をつく。
すると、その姿をシャイングレイモンの影へと変えてていく。
「もう少し……」
天悟の影は家より大きくなり、未来に向けて剣を振りかぶり、未来の肩口から袈裟懸けに切り裂いた。
「い……」
一月の口から言葉が出てくることはなかった。視界が歪み、吐き気に襲われ、足から力が抜けていく。
『一月くん!? うわっ、魔力切れ起こしてる!!』
シャイングレイモンの姿が維持できなくなった天悟に、両断された胴体をあっという間に接合した未来が噛みつく。
『シフ、早く!』
天悟の影が消える。新しく召喚できる魔力もない、そもそも前がちゃんと見えない。
頼みのシフも両腕が塞がっている。
「足りないィ……足りない、足りない、足りないィィ……ッ!」
未来の声が聞こえる、考えもまとまらない。
振り下ろされようとしている未来の爪の銀色と瞳の赤色だけが歪んだ視界の中で光っているのが一月にもわかった。
その姿を、遠くから見ているエインヘリヤルがいた。気配遮断に加え透明になっていた彼は、そのままライフルを構えた。
「狙うのは目だ。こちらにうまく来てくれなくとも……逃げる隙を作れるはずだ」
ライフルの銃口から飛び出した弾は狙いを違えず、未来の片目を潰した。
未来は絶叫し、銃弾が飛んできた方向へと顔を向ける。
しかし、それまで。
数秒でまた未来はその意識を目の前の獲物へと向けた。
するとまた、狙撃が飛んでくる。そして食らった未来はまた狙撃の来た方向を確認する。闇の中、気配は探れず闇を見通す吸血鬼の優れた目にも狙撃手の姿は映らない。
誰かが援護をしてくれている。それを確認しシフがその場を去ろうと走り出す。
しかし、その動きに未来は完全に狙いを一月達に合わせ、狙撃を受けながらも無視して腕を振い出す。
「血ィッ……の、飲まッせろぉ……ッ!」
一月と子供を庇いながらでは、狙撃の援護も捉えられるまでの時間を伸ばすだけ。
あっという間に追い詰められて爪が掠ったシフの脚があらぬ方向へと捻じ曲がる。
でも、その僅かな時間が一月達の命を助けた。
「みーらーいー!!」
女の声が町に響き渡った。
「……な、づね……夏、音ェ……ッ!!」
怒りとも悲しみとも取れる叫び声を上げて未来が踵を返して空を飛んで音の方へと向かっていく。
何が、と呆気に取られるシフと一月の前に、一人の長身の女が現れた。
「もう大丈夫……未来は当分あっちのスピーカーの周りをうろちょろするだけだから、しかし、その子はいつもそんなゲロ吐く五秒前みたいな顔してるの?」
シフはその顔に覚えがある様で思い出せなかった。ドレンチェリーを残さないでのキャラなのは間違いない、でも、誰かがわからなかった。
「……あなたは、誰ですか?」
シフはかばうように一月との間に割って入り、そう尋ねた。
「ん? あー……もう一人の子はさっき会ったんだけど、聞いてない?」
その長身の女性は、結んだ髪の毛を揺らしながら首を傾げ、立ちやすいようにと手を差し伸べた。
「さっきは……そもそも名前聞いて、ないで、すぅ……」
げぽっと今にも吐きそうな酸っぱいゲップをしながら、一月はなんとか口にする。
「あ、そうだっけ? 私は美園夏音」
そう笑った彼女にシフは驚いた。ドレンチェリーを残さないでの始まりは主人公の姉である美園夏音が死んだこと。
紆余曲折あり、その姉の姿はその後も度々出てくるが、今目の前に立っている美園夏音は一度死んだ後の姿とは程遠い。
回想の中でのみ出てくる、失われているはずの姿だった。
「ラタトスクっていう組織の人達でしょ? 一緒に解決しようね! 相異点!」
警戒する暇もない歩み寄りを見せた彼女の手を、一月はぷるぷると震えながら掴んだ。
「少しは落ち着いた?」
夏音の言葉に、一月は豚汁をずずとすすって頷いた。ちょっと濃いめの味付けが塩結びによく合う。
今、一月とシフは先ほど見えていた壁の内側、その中に建つ大きな邸宅の中にいた。
「食堂は使ってるし私の部屋しか空いてなくてさ、狭くて申し訳ないんだけど」
そう夏音は言ったが、ラタトスク内のマイルームが三つはゆうに入りそうなその部屋に、一月はお金持ちってすごいと変に素直なことを考えていた。
「ありがとうございます、夏音さん。夏音さんは……ラタトスクのこともご存知なのですね?」
「うん……思うところは色々あるし、正直信じ難かったんだけど……」
そう言って、夏音がバルコニーへの扉を開けると、そこから二メートル半程の和風の鎧を着た竜の様なデジモンが入ってきた。
「彼はおにぎりまん、そっちの子と同じエインヘリヤル」
「おにぎ……え?」
「先輩、おにぎりまんさんはデジモンプレセデントと同じ作者の書いた短編の主人公です」
「うむ、よろしく頼む」
差し出された大きな手を、一月は控えめに握り返した。
「こういう感じのが街中にいっぱい出てきたら信じざるを得ないよねって感じ」
夏音はそう諦めた様に笑った。
「ちなみに、そのおにぎりや豚汁を作ってくれたのもおにぎりまん」
「何をするにもまずは腹を満たさねばならぬが、遠目に見てもひどい顔色だったからな」
おにぎりマンはそう言って食欲はありそうでよかったとおにぎりが三個乗っていた筈の空の皿を見て頷き、一月はどうもとちょっと恥ずかしくなりながら頭を下げた。
「……さて、今の陽都のこと、多分めちゃくちゃ知りたいと思うんだけど、詳しい説明をしてくれるエインヘリヤルはこの壁の中にはいないんだよね」
そう言われて最初に頭に思い浮かんだのは今日会ったあのタコのカードのエインヘリヤルだった。いかにも何でも知っていそうな雰囲気があった。
「とは言っても、何もわかってないのも不安だと思うから……先にそっちがどれぐらい把握してるか聞いていい?」
「ドクター」
一月はそうイヤホン越しに問いかけた。
『大丈夫です。但し答えてはいけない時には止めます』
了解と答えて、一月はちょっと座り直した。
「ご飯食べる手は止めなくていいんだけど……なんで五年前に来なかったの?」
その声は、淡々としているのに少し怒りが見える様な気もした。
『……私が代わりに答えましょう。ラタトスクのシステムは、『相異点が成立し電子人理に崩壊が生じる』という結果を観測するシステム。五年前時点からの干渉によって成立するのが今である場合、五年前時点の異常は観測できないのです』
名城の言葉に夏音はなるほどと頷いて、なんでもお見通しじゃないのかと溜息を吐いた。
「ちゃんとした五年前からの説明が要るわけなのね。ひとまず、ざっくり街の状態と流れだけ伝えておくのがいいかな」
お願いしますと一月が言うと、任せておいてと夏音は言った。
「この街の都市部はざっくり三つに分かれてるの。二つのメモリ密売組織とその取引先でほぼ構成されている『歓楽街』。そこからあぶれた人達や街を出られない人達で構成される『周辺街』、そして、壁の中のここ『美園自治区』」
他はもう人のいない廃墟になってるわ。郊外は影響あまりないんだけどね。と夏音は言って、バルコニーに一月を誘った。
「……あの壁の向こうに、五年前までは電波塔が建っているのが見えた」
窓からは街が一望できた。壁の内側には本当に人が多いのだろう、灯りがついてない家は珍しいぐらいで、キラキラと輝いて見えた。
それだけに、その壁は極めて異質だった。
電波塔、ソルフラワーと改称されたこの街のランドマークだと、シフが言っていたのを思い出した。
「でも今は半ばからへし折れて、壁がなくてももうビルに隠れて見えなくなってる」
夏音は寂しそうに呟いた。
「そうなったのが五年前、全部の始まり。そこから色々と広がっていた」
見えない筈の電波塔をじっと見つめながら夏音は話し続ける。
「まず、五年前にあの電波塔で死ぬ筈だったボマーモンってデジモンが生き残った」
「その影響で、一つに統一される筈だったデジメモリの密売組織は二つに分かれたまま戦いが続くことになり、街は常に戦場のようになった」
「私と両親は壁を建てて昔ながらの住民を守ろうとしたけど……去っていく人は増え、組織の関係者達もバラバラよりもと歓楽街を中心に集まり、その周りにゴーストタウンよりはマシとさらに住民達が集まって……今の陽都に再編された」
不意に、淡々と話していた夏音の視線が一月に向いた。一月は夏音から目を逸らせなかった。
「え、えと……」
夏音はにこっと笑って部屋に入ると、自分のベッドに無防備に倒れ込んだ。
その姿を見て、おにぎりまんは夏音の腕を取ると即座に起き上がらせた。
「夏音よ、お主もまだ夕飯を食べていないし、寝るにも早すぎるのではないか?」
そう言っておにぎりまんは一度部屋を出ると、おにぎりと豚汁ののったお盆をどこからか取り出した。
「……いや、流石にまだ寝ないわよ?」
そう言って夏音は豚汁を一口すすり、その後、七味を全面赤くなるほど振りかけてからもう一度口にすると、あー美味しいと呟いた。
「あの、なんだか泊まる前提で話が進んでいる様な……」
「……泊まっていかないの? 壁の中、空き家や民宿、ホテルは基本全部屋避難所として管理貸出してるから空いてないわよ?」
私の家も客間は使ってるし、寝る時はこの部屋ねと夏音は言った。
「……えと、どうしましょう。ドクター」
『厚意に甘えていいんじゃないかな』
名城の代わりに答えたのは、グランドラクモンだった。
『夜における軽井未来の脅威は軽視できないし、壁に囲われているとはいっても野外は不安が残る。あと、そういうお泊まり会的なのってちょっと楽しいだろう? 英気は養える時に養っておくべきだ』
例えば、とさらに続けようとしたグランドラクモンからの通信がぷつりと切られた。
「……とりあえず、許可は出ましたね」
シフはそう言って苦笑いし、一月も釣られて笑った。
「では、某は避難所の皆にも配ってこなければならぬ故、失礼する」
そう言っておにぎりまんは部屋を出て階段を降りていった。どうやって床を傷つけずに歩いているのかちょっときになった。
「……人前にも出てるんだ」
「剣が発電してるのかなんなのか……そのおかげで壁の外の送電線を切られた時も電気が使えたし、こんな街だからぼったくろうとする業者もいるけどおにぎりまんに行ってもらうとそんなこともないし、自治区のヒーローって感じかな」
子供達は着ぐるみだと思ってるし、大人達はメモリの実験台か何かにされた人なんだって思ってて、ちゃんとデジモンとかエインヘリヤルを理解してるわけではないけどね、と夏音は捕捉した。
「でも、彼も五年前にはいなかった。だからきっと……ラタトスクが観測した今の相異点を成立させる脅威に対してのカウンターとして召喚されたエインヘリヤル。ってことなのかな」
「……詳しいですね。夏音さん」
「おにぎりまんを質問攻めにしたからね。相異点についても大体のことは把握してるつもり」
夏音はお腹をさするとごろんと二人は寝れそうなベッドに寝転がった。
「私が知らないのは……ラタトスクのこととか、その敵の具体的な情報とか。そういえば二人の名前、聞いてないわね」
すっかり忘れてたと夏音は言った。
「あ、三角一月です。こっちはシフ」
「一月、何才?」
「19ですけど、夏音さんは?」
「今年で22。そっか、一月は猗鈴と同い年なんだ……」
夏音はベッドの上でパタパタと足を動かした後、不意に立ち上がって一月に触れそうなほどに近く座った。
「明日は、色々知ってるエインヘリヤルに会いに行く前に、私の大親友も紹介するね。私が外に出てる間、この壁の中でのメモリ関係や魔術関係は彼女に仕切ってもらってるの」
「大親友……」
一月はシフの方を見たが、シフもだれかわからない様子だった。
「そう、柳真珠」
頭に浮かぶのは、ラタトスクにおいてきた一月をメフィスモンと誤認するバーサーカーの姿。
でも、人間ならばそうはいかないだろうと、一月が自分に大丈夫と言い聞かせていると、夏音は指を二本立てた。
「しかも、最近二人になった」
ラタトスクから連れてこなくてよかったと一月は思った。
あの謎の紳士と柳真珠が三人いたら、未来さんと向き合うよりも疲れそうだ。
「まぁとりあえず、今日はもうお風呂入って寝よ。一月、シフ。うちのお風呂は大きいから三人一気に入れるよ」
え、と思わず口に出そうになるのを抑え、一月はシフに助けての視線を送る。
しかし、シフは逆に目を輝かせていた。
「……物語の中で何度か読みました。裸の付き合い!シフ、先輩にお供します!」
今ここでゲロ吐いたらやめてくれないかなと一月は思ったが、吐きたくない時には幾らでも吐けるのに全く吐けそうな気配はなく、一月は風呂に連行されていった。
Chapter:2に続く