Episode タジマ リューカ ‐ 9
曇り空。
一足早くやって来た夏の空に、まだここは自分の領域だと主張するように舞い戻ってきた梅雨の空気が、それでもまだ雨を降らせる事自体は準備中だと勝手を言うみたいに、どんよりと、太陽と青空――そしてコラプサモンを、覆い隠してしまっている。
それはまるで『闇』の在り方にも似ている気がして、雲野デジモン研究所の屋上で空を見上げながら、私はくすりと、微笑んだ。
天気の中では、こんな空が、1番好きだ。
ヴァンデモンが多少なり過ごしやすいっていうのは元より――あの時は冬の寒空の下だったけれど、カンナ博士と出会ったのは、こんな日の昼下がりだったのだから。
そう、あの日から、全ては始まったのだ。
「……」
端にある柵に掴まって、周囲を見渡す。
嘘のように、人の気配が無い。
コラプサモンがいつ動き出すか解らないから、せめて建物から出ないようにと、朝からそんなニュースばかり流れている。
「そういえばね」
と、そんな風に静まり返った街を見下ろす私を見て、何か思い出したらしかった。時間相応の睡魔と戦うべく目をこすっていたヴァンデモンが、ふと、その手の動きを止めた。
「1ヶ月前、コウキさんとお喋りした時。最初、コウキさん、そこから街の事見下ろしてたよ」
「そういえば、そのような話をしていましたね」
ハリが私の隣に並んで、柵から軽く身を乗り出した。
きっとコウキさんは、今ハリがしているような姿勢で、この子の蜂蜜色の瞳を、見つけたのだろう。
「ヴァンデモン。……今はそんな場合では無いかもしれませんが、このままだと言いそびれかねないので、1つ。マスターから、伝言を預かっています」
「コウキさんから? 何?」
「「アナタはワタクシ達の父親よりも、ずっと正しかった」……それから「ありがとう」との事です」
「……えへへ」
ヴァンデモンは、照れたように笑って。
ハリも仄かに、表情を緩めた。
「……昨日の、昼から、夕方ごろにかけての段階では――こうやって、マスターに託された言葉さえ、伝える気にはなれませんでした」
「……」
「いつかの質問の続きを、貴女達に尋ねる前に、マスター本人から直接、聞かせていただいたのに。……それさえ、忘れてしまうところでした」
寂しそうだけれど、それでも安心を見つけているらしいハリの横顔を眺めると――やっぱり、他の感情を差し置いて、「羨ましい」が、顔を出してしまう。
黙っているのも卑怯な気がして素直にそれを伝えると、ハリはむしろ誇らしそうに、1ヶ月前よりもずっとはっきりと、こちらにはにかんでみて見せた。
と、ハリは不意に、何かを思いついたように目を瞬いてから
「せっかくですから、答えを得てしまった質問の代わりに。1つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「? なあに?」
「単純に気になっただけなのですが……どうしてホメオスタシスは、今になって『闇』を受け入れるような真似を始めたのでしょうか」
「……」
結局、今になっても聖騎士型デジモンが突然現れて私達に襲い掛かる――なんて展開は起こらなくて。
まあ、今はそれどころじゃないっていう話なのかもしれないし、「『ファイヤーウォールの向こう側』の『呪い』に干渉されたデジモンは殺されるけれど、今現在それを厳密な意味で所持しているのは人間だから手の出しようが無い」っていう事なのだとしたら、私はこの子を護る事が出来たという事なので……そうだとしたら、少しだけ、嬉しい。
でも多分、そうでは無いのだと思う。
そもそもヴァンデモンと私――闇の子と、それを看る人間という図は、エンシェントワイズモンやデーモンさんの言葉を信じるなら、ホメオスタシスの干渉によるものらしいので。
「多分、だけどね」
曇り空でもなお眩しそうに、目の上に手で影を作りながらヴァンデモンが口を開く。
「『光』ばっかりじゃ、ダメなんだよ。確かに『光』は『闇』を消しちゃうけど、『闇』が全部無くなっちゃったら、『光』は自分が『光』だって事すら解んなくなっちゃうんじゃないかな?」
「自身を維持するために、むしろ『闇』が無ければ『光』そのもののホメオスタシスは存在証明が出来なくなってしまうと」
多分。ともう1度、自身無さげにではあるものの頷くヴァンデモン。
「それにさ。僕が眠いのは昼間だけど……夜が無かったら、ほとんどの人やデジモンはぐっすり眠れないでしょ? そういう事なんじゃない?」
「なるほ」
「それだ――――――――っ!!」
「!?」
なんとなく腑に落ちたらしいハリの言葉を遮るように、聞きなれた大声が響き渡って。
3人同時に振り返ると、興奮で目を大きく見開いたカガさんが、ビシリとこちらを指さしている。
「か、カガさん……?」
呆気に取られる私達を他所に、くるりと踵を返して走り去っていくカガさん。
その間にスマホからオタマモンが飛び出していた事さえ、気付いていない。
「ゲコ」
「オタマモン。ソーヤさん、どうしたの?」
「ま、10分もしない内に帰ってくるゲコ。期待して待つゲコ」
「?」
期待、という言葉に首を傾げるしかない私達だったけれど、オタマモンさんの方はどこか安心したように、加えて何となく誇るように、ふん、と大きく、鼻息を吐いている。
やっぱりどういう事か解らず疑問符がこの場を埋め尽くしそうになっていると――「ああ、そうゲコ」とオタマモンさんが小さな手でぱちんと床を打った。
「最終決戦前ゲコからね。応援のメッセージも届いてるゲコよ」
「応援?」
「ピノッキモンからゲコ。……スマホはソーヤが持ってっちゃったゲコし、ちょっと長いゲコから要約して伝えるゲコ」
古代十闘士の『わがまま』に巻き込んだ事、そしてその尻拭いをさせてしまう事への謝罪と。
正式に闇の闘士の器になり――鋼の闘士の『妹』となったハリへの激励と。
それから、応援。
「頑張れ」と。単純だけど、あのしわがれ声から力強く発されたに違いない、その言葉を、想像して――何よりも、心強く感じた。
「ゲコ、それからマカドからも連絡来てるゲコけど、これは応援っていうより要求ゲコ。この期に及んで、最終決戦の資料を送れってうるさいのゲコ。面倒くさいゲコからお見舞いの時持っていくって伝えたら、今度は「メロンもよろしく」とか言ってきたゲコから今メールの着信拒否してあるゲコ」
「……」
氷の闘士の人……。
……いや、「お見舞い」なんて『先』の事を挙げているあたり、この作戦が絶対にうまくいくって、あの人なりに……ううん。何故だろう。別にそんなつもりじゃない気がしてならない。
でも、本来流動の性質を持つ水の派生であるはずなのに、がっちりと固まってブレない在り方は、ある種氷の闘士としては相応しいのかもしれない。
どんな形にせよ、調節が入っていたにせよ――最終的に、あの人だって、氷の闘士として私とヴァンデモンを助けに来てくれたのだから。
「リューカ」
「?」
「私の勘違いであれば謝罪しますが、マカドは、リューカが思っているような人物では無いと思います」
「……」
真剣な眼差しと呆れ顔の中間のような無表情に、私も一瞬、何も言えずにいたけれど――ふいにそれが、なんだかとてもおかしな顔のように見えて、申し訳ない事に吹き出してしまった。
今度はハリが、はてなマークを浮かべる番だった。
「ご、ごめんねハリ。……うん。ごめん」
「何故リューカが今笑ったのかは判断しかねますが、それは恐らく、謝るような事では無いかと」
ふと、目が合う。
その瞬間、『暗黒の海』で最後に見た『幻』の言葉が内側から沸き上がって来て、かあっと頬が熱くなる。
「? どうかしましたか、リューカ」
「あ、あの、その……」
慌てて、ヴァンデモンの方に顔を向ける。
だけどこの子は、困ったように目を細めていて。
「リューカ。いくら僕が解ってても、……それは、「リューカが言いたい事」じゃなきゃ、ダメだよ?」
「……」
ヴァンデモンが、私の思惑を、普通に、拒否した。
意見を言う事は今までにも何度もあった事だし、私の体調や心情によっては無理を通す事ももちろんあったけれど。
でも、こんなにさらっと、当たり前みたいにっていうのは――もしかして、初めてなのでは?
「……ふふっ」
なんだか、物凄く嬉しくなって、何が何でも、それにバネにしようと、心に決める。
意を決して、私が何をしたいのか理解できないままでいるハリの方に、改めて振り返った。
「あ、あのね、ハリ」
「はい」
「わ――」
息を、吸い込む。
勢いで言ってしまわなければ、また、止まってしまいそうで怖かったから――一気に
「私と友達になって下さい!」
吐き出す。
吐き出して、頭を下げて。
……言ったはいいけれど、やっぱり、顔を直視する程の勇気は、私には無くて。
なんだか胸元の『闇』の紋章までざわついているような錯覚を覚えながら、冷や汗の滲む、世界で一番長い数秒間を体験する羽目になって――
――でも
「なります」
やがて、答えが、やって来て
それでも信じられなくて顔を上げて
……ハリが、唇の片側だけを吊り上げた、何とも言えない、微妙な笑顔をしている事を、思い知った。
「――」
これはいわゆる引いている笑顔だと、頭が真っ白に
「コウキさんと一緒の笑い方だね」
なりは、したけれど
ヴァンデモンの一言で、我に返る。
「友達、というものが具体的にどういった物かはまだ、理解、しかねますが……。それでも、貴女からその事をこれから学んで行く以上、この表情が、良いと思いました。……マスターも同盟者であるカンナさんに、度々向けていましたから」
我に返って、改めて眺めてみると――それは確かに、兄の真似をする妹という――そもそも笑顔を知らなかった筈のハリが浮かべる上では、見てるこっちが微笑ましくなるくらい、眩しい笑顔だった。
だから、今度こそ。
私も、笑う。
笑って、見せる。
普段使わない筋肉がそこそこの無理をしている気もしたけれど、そうやってでも、ぎこちなくても、笑うべきだと思った。
「今度、一緒に、ケーキ。食べに行こう。コウキさんから割引券、貰ってるから」
「承諾します。……あの店は、ババロアがお勧めらしいです」
「……僕もついてっていい?」
「もちろん」
「置いて行ったりなんかしないよ」
そんな事する訳が無いと、少しだけ不安そうにしたヴァンデモンへと微笑みかける。
次の、瞬間。
ハリが、がば、と、私に抱き着いた。
「!」
「……突然、申し訳ありません」
「ハリ?」
「何故か、こうしたくなったのです。……ご迷惑でなければ……もう、しばらくだけ」
後半になるにつれ擦れていったハリの声に――気付いてしまう。
ハリは私の台詞に、コウキさんの背中を、重ねてしまったのだと。
「ハリ……」
「リューカ。今の言葉。何があっても、どんなことがあっても、嘘にはしないで下さいね?」
「……しないよ」
コウキさんみたいに、とは、出来ないかもしれないけれど。
私はハリと、隣に佇むヴァンデモン……それから、自分自身に、言い聞かせる。
「絶対に」
こくり、と、ハリが頷いたのが解った。
と、そこへ
「待たせたね」
「博士」
上にコロモンさんが乗った状態でノートパソコンを抱えたカンナ博士が、屋上に続く扉から顔を覗かせた。
慌てたように私から離れて、ぷい、と博士から顔を逸らすハリ。
思わず苦笑いが浮かんでしまう。……ハリも本気で嫌っているという訳では無いと思うけれど、カンナ博士と打ち解けるまでには、コウキさんが想像していた以上にまだまだ時間がかかりそうだ。
対するカンナ博士は、そんなハリの様子さえ可笑しそうに唇に曲線を描いてから、コロモンさんとノートパソコンを屋上に下ろす。
「一応、出すべき報告は出して来たよ。反応は見てない。……どうせ今からやる事の許可なんて待ってもその間に、この混乱じゃ結論が出る前にコラプサモンが動き出すまでも無く世界が終わっちまうだろうさ。だから――」
「ヴァンちゃん達の活躍次第ってトコね。カンナの始末書で済むか、世界崩壊の最後のひと押しになっちゃったって、世間から大バッシングの嵐に曝されるか」
「そん時は『暗黒の海』にでも高飛びしようかね? リューカちゃん連れてってくれる?」
「カンナ博士が言うなら開きますけど……衣食住の保証は出来かねますよ?」
「一応住民居るんだし何か食べるものくらいあるだろうさ」
……少なくとも、魚がいるようには思えなかったけれど……。
どうなのだろう。今度、機会があったらデーモンさんに、聞いてみよう。
「でも、そうはなりませんよ。カンナ博士。始末書書くの、手伝いますから頑張って下さい」
「はいはい。アンタのコーヒーでも飲みながら」
ひらひらと、カンナ博士は左手を振ってみせる。
相変わらず、あの綺麗な指輪が薬指でよく目立っていて。
「文字通り、片手間に片付けてやるよ、そのくらい」
自然と、笑みが漏れた。
やっぱりこの人は、そこに居てくれるだけで私の心を温かくしてくれる。
隣に並んで歩きたいと思うのと同時に、この人のなら、例え背中を眺める事になっても――それでいいと、思えるような。
これが、「頼もしさ」というものなのだろう。
そしてそれは、たとえ幼年期になっていても、カンナ博士のパートナーだって、変わらない。
「言っとくけど、コロちゃんは手伝えないからね? 次に何に進化したって、しばらくスカちゃんやエテちゃんみたいな器用なマネはできないわヨ?」
舌足らずな幼年期デジモンの喋り方だろうと、カンナ博士に叩く軽口の調子は絶好調で、大してムスッと子供みたいに顔をしかめる博士自身も、退化しているからといってコロモンさんを子供扱いしていないのが伝わってくる。
……そして、私に温もりを与えてくれる人がもう1人――
「っていうか、アレ? そういえばカジカPは?」
――……本来なら、カンナ博士とコロモンさんがここに来るよりも前に、到着している筈だったのだけれど。
「なんか、来るなりすごい勢いで帰って行ったけど」
「へ? 何で?」
「ま、もうちょっとだけ待つゲコ。多分もうすぐ来るゲコから」
やはりオタマモンさんも、カガさんの目的を明かすつもりは無いらしい。
最も、カガさんが居ないと作戦を始められないので、待つ待たないの問題では無いのだけれど――
「ねえ、リューカ」
と、ヴァンデモンが、私の背中をつついた。
「? どうしたのヴァンデモン」
振り返って見上げると――顔いっぱいに、悪戯っぽい笑みを浮かべている。
まるで、小悪魔のような。
「……?」
ピコデビモンに相応しい気がしないでもないけれど、今までまるで見る事の無かった表情に首を傾げる私の耳元に、そっと顔を近づけて――ヴァンデモンが、囁く。
「……!」
それは、本当にイタズラの提案だった。
誰に害を成す訳でも無いけれど、カガさんは絶対に驚くような――ちょっとした、しかしとんでもない、悪戯。
「ダメかな?」
返事の代わりにそっとヴァンデモンの手を取って、両手で包み込む。
……本当に、私の『闇』という重荷からは、解放されているのだろう。
我慢を、止めて。
こんな事まで、提案するようになった。
「悪い子だね、ヴァンデモン」
ヴァンデモンは照れ臭そうに笑って。
私の口からも、ふふっ、と、声が漏れた。
そのまま2人で手を繋いだまま、ここに居るカガさん以外の仲間達を見回す。
ハリに告白する時とはまた別の意味で、深呼吸。
その仕草だけで、カンナ博士は今からする事を察したらしい。
「……やるのかい、リューカちゃん。ヴァンちゃん。……『最後の進化』とやらを」
「はい」
一種の成長とも言うべき正当の進化。
進化の段階を数段飛ばすワープ進化。
別個体との合体を行うジョグレス進化。
古代の聖遺物『デジメンタル』を纏う事によって力を手に入れる、アーマー進化。
同じく古代の聖遺物――古代十闘士達の力が鎧となったもの――『スピリット』を纏って人だろうとデジモンだろうと行う事が出来る、スピリットエヴォリューション。
……そして
「コラプサモンは、存在するだけで位相を歪ませるデジモンなんですよね? ……それだけに、無事に帰せたとしても「人間がデジモンにユミル進化する」っていう可能性を、完全に0には出来ないかもしれないんですよね?」
神妙な面持ちで、カンナ博士が頷く。
「だったら。私とヴァンデモンが、その『前例』そのものを歪めてしまおうと思うんです」
最後の進化。
スピリットエヴォリューションがアーマー進化に近いのと同様に、この進化は――
「人間とデジモンによる、ジョグレス進化」
呟くように言いながら、カンナ博士は表情を崩さない。
スピリットを使って人間がデジモンに進化して。
改造によって人間がデジモンに進化して。
最終的に――世界の歪みによって、人間が、デジモンに進化する。
それを防ぐには、どうすればいいか。
辿り着いた結論が、これだった。
「人間がデジモンそのものに変わる訳にはいかず、デジモンが人間のように寿命を得る訳にはいかないのなら――お互いがお互いの負担を、分け合えばいいんです」
デジモンと混ざらなければ人は人単体ではデジモンになれず。
寿命を持っているのは人間の方だから、混ざっているデジモンのデータにユミルの力が刻み込まれる訳じゃ無い。
そういう風に。
「……そうだね。理屈そのものはスピリットによる進化と何も変わらない。世界が歪んでいるだなんてそんな特殊な状況、そうそうある訳じゃ無いからね。人間とデジモンのジョグレス進化が想定通り上手くいって、なおかつそこからすぐにコラプサモンを追い払えたら、徐々に元に戻り行く位相の中でその『前例』は、「特殊な状況下でのみ発生した特殊な進化」としてしか世界に記録されないだろうさ」
「そうなる筈です」
「でも、もしも上手くいかなかったら?」
カンナ博士が、問いかけてくる。
心配というよりは、冷静な、研究者の瞳で。
「もしも、人間とデジモンのジョグレス進化が最悪の形で作用したら? 完全に人でありデジモンである融合体になっちまって、そのままジョグレスを解除出来ない状態になったりしたら、それがエンシェントワイズモンの望んだ、『ユミル進化体』の第一号――『世界の終わり』のトリガーになるかもしれない。……100%そうならないと、言いきれるかい? リューカちゃん」
「はい」
「どうして?」
「人とデジモンのジョグレス体っていう『前例』はありませんが――人間と長期間融合して、でもその後ちゃんと分離したデジモンという『前例』は、あります」
博士の眼が丸く見開かれる。
思い当たったのか、思いついていないのか。どちらの反応がそうさせているのかまでは解らないけれど、私は間髪入れずにそのデジモンの名前を挙げる。
「『ヴァンデモン』です」
……まさか、こんな形で『あの』デジモンの名前を言う日が来るなんて、考えもしなかったけれど。
でも、『あの』ヴァンデモンは確かに実在していて、それだけに私達を苦しめて来たのだ。
だからこれは、誰もが知っている『前例』だ。
「2002年の時は完全な憑依でしたけれど、私とヴァンデモンの場合、お互いパートナー同士で……なおかつ、ヴァンデモンは私の血を、データとして内包しています」
ぎゅっ、と、ヴァンデモンが私の手を握る力を少しだけ強くした。
そうだ。
今だって、こうやって繋がっている。
進化なんて手順を踏むまでも無く、私達は、ずっと、一緒だった。
「うまくいきますよ、博士」
『暗黒の海』が脈打つデジヴァイスを取り出す。
コラプサモンが生み出す歪みにも、むしろこのデジヴァイスなら何の問題も無く作用する事だろう。
歪んだ世界。
『暗黒の海』を孕んだデジヴァイス。
『呪い』と私の昏い感情の結晶である『闇』の紋章。
そして、最愛のパートナー。
……必要な条件は、あと1つだけ。
「解った」
カンナ博士が、目を伏せた。
不安そうに、困ったように。
でも、送り出すように、微笑みながら。
「信じるよ。リューカちゃん。ヴァンちゃん。 ……アタシは、アンタ達を信じてる」
そして最後のロックも、今、外れた。
次の瞬間。デジヴァイスがその全体に走ったヒビというヒビから、『暗黒の海』と同じ色の光を放ち始める。
どんなに暗い色であろうと、その性質が『闇』であろうと――正しく、進化の『光』を。
私はそれを両手で握り直して、ヴァンデモンの方へと向ける。
応えるように、今度はヴァンデモンが、両手で私の手を包み込む。
言葉は、要らなかった。
眼を合わせて、呼吸を、合わせる。
そのまま、私とヴァンデモンは、抱き着くよりも強く、お互いの身体を結びつけるみたいにして――引き寄せ合った。
そして、『最後の進化』の名を叫ぶ。
「「マトリクスエヴォリューション・ユミル!!」」
私達の身体と進化の光そのものを呑むようにして、胸元の『闇』の紋章が輝いた。
その中で――身体が、溶ける。
同じように、ヴァンデモンも解けたのが判った。
しばらくして、どくり、と跳ねる心臓が、いつの間にかその音を消して大きな大きな『熱』へとカタチを変貌させていく。
やがて、その『熱』を覆うようにして、溶けた私と解けたヴァンデモンの全てが戻って来て――形を、成した。
獣の身体。
貴族の佇まい。
魔王の装甲。
……それから、小悪魔の面影。
ヴァンデモンというデジモンに連なる全部を纏って――最後に、赤い、血のように赤いコウモリを模した仮面が目元を中心に、顔の半分以上を覆い隠した。
ああ――世界が、眩しい。
「「カンナ博士」」
途端に眠気が押し寄せて来たけれど、堪えるようにして声を絞り出す。
自分で喋っている感覚があるのに、同じくらいヴァンデモンが話しているような感覚も有った。
「「名前を、付けていただけますか? 今の、私(ぼく)達の姿に」」
「アタシが付けていいのかい?」
「「博士に、付けて欲しいんです」」
素直に、甘える様な声が出た。
カンナ博士は肩を竦めながらクスリと笑って、しかしすぐに眉間に皺を寄せたかと思うと少しだけ、唸った。
「しっかし、いきなりそんな事言われてもねぇ……。うーん……」
逆に真剣さが伝わって来て、こちらとしては、普通に嬉しい。
どんな名前になるのかと、胸のあたりが熱くなる。
「ちょっとだけ、宗教画のドラゴンみたいな背格好だ。かの吸血鬼『ドラキュラ』も確か、日本語だと『竜の息子』だっけか。……ドラクルヴァンデモン? ……いや、違うな。語感はいいけど、吸血デジモン系統にもうドラクモンいるから微妙にややこしい……うううん……」
「カンナ、早く決めてあげなさいヨ」
「「あ、いや、その。コロモンさん。そんな、勝手を言っているのはこちらの方なので……」」
「っていうか、その姿でも割とリューカさんのままなのゲコね」
と、オタマモンさんの口から『リューカ』――私の名前が出た瞬間、ぶつぶつと早口で呟きながら考えを纏めていたカンナ博士が、静止する。
「柳の、花……」
それから一瞬の間をおいて、カンナ博士が口にしたのは――『私』の名前を、形作るもので。
……やがて
「ウィローオウィスプモン……なんて、どうだろう?」
改めて口を開いたカンナ博士は、そんな名前を、口にした。
「「ウィローオウィスプ……ウィルオウィスプではなく、ですか?」」
「ん。……ちょっと言葉遊びみたいになっちまってるけどね。柳花ちゃんの『柳』で『ウィロー』。それからヴァンパイアとアンデッドを混ぜた名前がついてるヴァンデモンにも、昨日アンタ達が持ち帰ってきた『呪い』の性質にも当てはめられる彷徨う亡霊――『ウィルオウィスプ』。その2つをくっつけてみたんだけど……どうかな?」
「「ウィローオウィスプ……」」
何度か、博士の用意してくれた名前を私達2人の声で繰り返す。
西洋の『鬼火』を意味するウィルオウィスプから取られてはいるけれど、柳という植物の名前が入ったせいで日本の幽霊画のようなイメージが先行してしまう。
デジモンになったお蔭なのか、はっきりと理解できる今の私達の全体像は、どう考えてもヴァンデモンの系譜なので、それこそ名前だけならドラクルヴァンデモンの方が相応しいのかもしれない。
しれない、けれど……
「「ありがとうございます、カンナ博士」」
そうは思っても、気が付けば、自然にお礼の言葉が出ていた。
ウィローオウィスプモン。
博士が考えて、付けてくれた名前。
ヴァンデモンの新しい進化先として。そして、人間とデジモンのジョグレス体としての――『前例』。その名前。
……風が、吹いた。
髪を切る前のカンナ博士と同じくらいの長さがある、このデジモンの金色の髪が、それこそ柳の枝のように揺れている。
「誕生花だったから」。……そんな理由しか無いこの名前の事、そんなに、好きじゃなかったのだけれど――でも、それも、無意味なんかじゃ無かった。
新しいデジモンの『前例』に刻み込まれるこの名前の事。『私』は、ようやく、好きになれそうな気がした。
「騎士型……ってだけじゃ味気ないな。うーん。……うん、よし。ウィローオウィスプモン。ウイルス種、究極体、暗黒騎士型。……これで、論文書くよ」
にっ、と歯を見せて笑うカンナ博士。
こんな非常事態なのにと思う反面、私達という新たな『前例』に研究者としての好奇心を押さえきれずに半ば自棄になっている部分があるのがばっちり伝わってくる。
身を焦がしていた復讐心から解放されて――これが、本当のカンナ博士。
嬉しくって、可笑しくって。私達も、全部が犬歯みたいになっているギザギザの歯が覗くのも構わずに、唇の両端を吊り上げた。
そんな中――ふと、視線に気づく。
カンナ博士からそちらに視線を移すと、いつもよりも低い場所にあるハリの双眸が、じっと私達の胸元を凝視していた。
「「ハリ?」」
「マスターと、お揃い……」
言われて、気付く。
ベリアルヴァンデモンの外殻を甲冑化したようなウィローオウィスプモンの鎧の胸部には、しかしヴァンデモンお馴染みのデザインであるコウモリのマークに代わって、『闇』の紋章のマークが刻印されている。
つまり……コウキさんのビースト形態である、セフィロトモンと同じだ。
「少なからず、羨望の感情が浮かびます」
あまりにも真剣な顔で言うものだから思わず謝りそうになったのだけれど、それよりも先に、一種遮るようにして「しかし」とハリが言葉を続ける。
「その感情を僅かに上回って――私が、マスターと同じものを持つ貴女達の隣で闘える存在である事を、誇らしくも思います」
ダブルスピリットエヴォリューション・ユミル。
……そう叫んだハリが次の瞬間、2つの闇のスピリットを纏って――進化する。
ダスクモンに進化した時とは、全く違う。
『闇』なのに、優しい色の進化の光を纏って――それが晴れた先に立っていたのは、昨日彼女が一瞬見せた闇の闘士のヒューマン形態・レーベモンが、さらに荘厳な鎧と黄金の翼を備えた姿だった。
「闇の闘士――ライヒモン」
黒い獅子を模した兜から覗く瞳は、変わらずに、ハリのものだった。
「「いい鎧だね。『僕』が何か言う必要は、無さそうだ」」
ヴァンデモンの台詞が、違和感無く口をつく。
ハリ――ライヒモンは、微笑んでいるかのように目を細めた。
「今回は、フォービドゥンデータではありませんからね」
「クロンデジゾイドかしら? ……うーん、ちョっと違う?」
「一応はクロンデジゾイドの一種で、オブシダンデジゾイドというものです」
「オブシダン……黒曜石か。古くから鉄を持たない民族が刃物として利用してきた鉱石だ。……鎧兼刃、ってところかね?」
「レーベモンの持つ『贖罪の盾』も、この鎧と同化しています。「攻撃は最大の防御」を信条とした、十闘士そのものの盾。それが、この闘士の役割なのでしょう」
「盾、ね……」
盾、という単語に、僅かに眉を寄せるカンナ博士。
だけどライヒモンは、その感傷をまるで許さないかのように
「闇の闘士の融合形態は、本来人目に姿を現す物では無いのだとマスターが仰っていました。……この非常事態であるからこそ、スピリットが許容してくれているのです。これが済んだら、二度と見られませんからね? せいぜい、よく見ておいて下さいカンナさん」
心なしか、語調を強めて、そんな事を言った。
でも台詞そのものにはどこか慎重に言葉を選んだような調子があって……コウキさんを真似ているのだと、傍から見ても明らかで――むしろ、微笑ましい。
博士も心情は同じなのか、やや伏せかけていた顔を上げて、「一見しかできないのに纏めなきゃいけない資料が多すぎて大変だよ」と、どう見ても大変そうには見えないくらいに飄々と、軽く肩を竦めている。
ライヒモンは、それを面白くなさそうに眺めて――しかしふと、左腕に視線を落として、仄かに瞳に熱を灯らせた。
「リューカ」
そして、彼女は『私』の名前を呼んだ。
「私は……きっと、貴女達の役に、立ってみせます」
「「隣に居てくれるだけで、十分に心強いよ」」
「私が、それだけなのは嫌なのです」
ちょっとだけ、見つめ合って。
私達はニヤリと牙を見せて
口元の隠れているライヒモンは、だけど顔の右側に幽かに寄った皺のお蔭で、半分だけ唇を吊り上げているのが判った。
……これで、後は、本当に――
「ごめん、お待たせ!」
「遅いゲコよ」
――カガさんとオタマモンさん、そして水の闘士からの『協力』を残すのみになった。
オタマモンさんが、やれやれと言った様子で、だけど真っ先にカガさんの方へと向かっていく。
「ちょいちょいちょい! オタマモン! なんやったんやさっきまでのカジカ! ウチかてヴァンデモンらにアレ……アレ言うたろ思てたのに、こっちの話なんかなんも聞かんとやな」
「これからもそのデジヴァイスに居るつもりなら慣れた方がいいゲコよ、ラーナモン。ソーヤはその場のノリと思い付きだけで生きてる人間ゲコから」
「なんかのっけから辛辣っ! いや、リアライズしたのにも気付かなかったのは流石に悪いと――え?」
ラーナモンさんの相変わらずな関西弁と、迎えに来たオタマモンさんに気を取られていたカガさんが、ようやく、私達の姿に気づく。
きっと、驚いてくれると思った。
カガさんの、何に対しても全力の反応を見たくて――そんな悪戯心で、カガさんの到着を待たずに進化したのだ。
どんな顔をするだろうかと、期待が、胸に込み上げて来て
……だから、それはきっと、悪い事を考えた報いだったのだろう。
「綺麗なデジモンだなぁ」
驚く顔を見たかった筈なのに、カガさんは、当たり前みたいにそんな事を口にして。
その言葉が、隣に居るライヒモンではなく、もちろんコロモンさんでもなく、私達を見た感想として発せられた言葉だと、気付いた、気付いてしまった瞬間――
顔が、コウモリを模した仮面以上に真っ赤に染まったのが、流石に、解った。
カタチこそ一応は人型に近いけれど、長い銀の尾が生えていて、膝から下はピコデビモンにも似た獣の足で、姿勢が若干前屈気味になっていて、歯はギザギザで、手は3本の指がそれぞれ2股に別れた虫を思わせる形状で――ヴァンデモンに連なるデジモンのどの姿にも似ているけれど、似ていない。小悪魔であり吸血鬼であり屍であり獣であり魔王であり、そのどれでもない、どことなく竜にも見える、暗黒騎士。
そんな姿を、カガさんは――
「……いや。え、いや。ちょっと待って。だ――れ、って事は無いな。ヴァンデモンか。ヴァンデモンだよな? ……え? ヴァンデモンって事は――」
一拍、遅れて。
私達が求めていたような反応が返ってきたのに、もう、それどころじゃなかった。
確認するようにカガさんが「リューカちゃん?」と声をかけて来てくれるのだけれど、『私』の方はというととてもカガさんの顔を直視できなくて、手の平の方が生体砲――ベリアルヴァンデモンの肩にある『ソドム』と『ゴモラ』を縮小したもの――になっているのも構わずに、合計6本の指で顔を覆い隠して背ける事しか出来なかった。
ついでに尻尾まで、ばたばたと暴れている気がする。
「ちなみに私はハリです」
「あ、いや。それは流石に解る。顔のとことか昨日とほとんど一緒だし」
「とりあえずウィローオウィスプモンは落ち着くゲコ」
「「す、すみません……」」
オタマモンさんの言う事は最もなので、引き続きカガさんの顔は見ないようにしながら、深呼吸。
もう少しでマトリクスエヴォリューションが解除されてしまうんじゃないかと思う程の衝撃だった。
やっぱり、悪戯なんて、しないに越したことは無い。
……そう心に誓ったのが『私』だったのか『僕』だったのか。それだけは、若干不明瞭だったけれども。
カンナ博士とコロモンさんがカガさんに私達について説明している間に、ようやく呼吸が整ってきた。
そのタイミングを見計らってオタマモンさんが、カガさんのズボンの裾を、引っ張る。
「ほら、ソーヤ。そろそろ『出す』ゲコよ」
「っと、そうだったそうだった」
カガさんはオタマモンさんに向けて紙を1枚、差し出した。
「ゲコ……相変わらず『こう』なると字がきったないゲコね……」
「わりい……」
「オタマモン。カジカこれ何一生懸命書いとったんや」
「『歌詞』ゲコよ」
思いもしなかった単語に、指に隙間を作ってそちらを見やると――カガさんは、今度は私達の方を向いて、ニッと笑っていて。
「お待たせ」
指に伝わる頬の感触が、完全体の時とは違って肌色だからなのか、必要以上に熱を帯びていた。
今回の、作戦。
カンナ博士とコロモンさんが報告と記録を担当して、
人とデジモンがジョグレス進化した私達と、闇のスピリットを纏ったハリがコラプサモンと対峙し――
――私達がそれをするために、カガさんとオタマモンさんが、もう1度ラーナモンさんの力を借りて、今度はラーナモンさん1体分の声で外套のように、私達が纏う『霧の結界』を作る。……と、いうものだ。
「新曲。タイトルは、『蝙蝠姫の子守歌』だ」
さっきのヴァンデモンの台詞のお蔭でようやく纏まったんだ。と、どこか自慢げに、そして心の底から嬉しそうに、……少しだけ、照れたように、カガさんは続ける。
当初、『霧の結界』のトリガーには、もう1度『ボレロ』を使う事になっていた筈なのに。
なのに――この10分ちょっとで、仕上げて、くれたというのだろうか。
「リューカちゃん。ヴァンデモン。……今はウィローオウィスプモンって言うべきか? まあ、とにかく」
示し合わせたように、オタマモンさんがカガさんのスマホに戻る。
途端、画面から進化の光が漏れだして
「スピリットエヴォリューション!」
「オタマモン、進化――水の闘士、ラーナモン!」
オタマモンさんが、進化したようだ。
カガさんは、そのラーナモンさんが入っているスマホを持って、こちらに歩み寄って来て――
「マジェスティックな曲になったから、世界で1番最初に、聞いてくれよな」
――私達へと、差し出した。
「「カガ、さん……」」
ただ、差し出したんじゃない。
1番大事なパートナーも、カガさんが全身全霊で、私達に向けて作ってくれた『歌』も――全ては、この中に。
託して、くれたのだ。
顔も、やっぱり熱いのだけれど――今度は、胸がかあっと、熱を持つ。
カンナ博士は、そっと私達を温めてくれるけれど
カガさんはいつも、知らない熱を、私達に教えてくれる。
怖いくらいに。
怖いけれど――恐ろしくは無い、不思議な感覚。
……『私』、もしかしたら、やっぱり。
この人の、事――
「ん? なんや、ウチも特等席やんけ! こら丸儲けやで!」
「……ラーナモン、頼むから、絶対に、俺のミューズの邪魔とかだけはしないでくれよ……?」
「せえへんわ! 失礼な! それにウチ今ラーナモンちゃうし、カルマーラモンやし」
……どういう仕組みなのだろう。スピリットって。
闘士として持っている精神が、どっちのスピリットでも共有できる……と、いう事なのだろうか。
まあ、その辺は、カンナ博士がちゃんと解き明かしてくれるだろう。
「「ありがとうございます、カガさん」」
細心の注意を払いながら、私達はしっかりとカガさんのスマホを受け取った。
とはいえ必殺技を放つ事になるであろう手で握り締め続けるわけにもいかないので、急いで腰に巻き付いたベルトの付近のデータを作り変えてホルダーを作り上げる。
……何の気なしに作ってしまったけれども、デジモンってこういう身体の弄り方を出来るんだなと、人ごとのように感心した。
カガさんのスマホを、そこに仕舞う。
「「ラーナモンさん、よろしくお願いしますね」」
「ゲコ! 全力で『応援』させてもらうゲコよ!」
頷いて、それから顔を上げる。
カガさんは、不安も期待もごちゃまぜになった瞳をしていて。
カンナ博士はいつの間にかコロモンさんを抱きかかえていて、どちらも信頼してくれているけれど、それはそれとして心配を隠そうとはしていない眼差しをこちらに向けている。
……この人達のいる所が、私達の、帰る場所だ。
胸の内で――きっと、そうするまでもないのだろうけれど、それでも――『私』と『僕』は、声を、揃えた。
「「いってきます!」」
いってらっしゃいの声は、少しずつ、バラバラだったけれど。
でも――同じように、背中を押してくれた。
「行きましょう、リューカ」
「ゲコ!」
そしてすぐ隣には、一緒にただいまを言ってくれる『友達』と、『マジェスティック』な歌姫がいる。
世界を救う理由なんて、それだけで十分だ。
……ラーナモンさんの透き通るような歌声が、腰のスマホを通じて響き始める。
私達はそれを合図に、ヴァンデモンの時同様に背中を覆い隠す黒いマントに意識を集中した。
ボルグモンに撃ち抜かれた時から穴が空きっぱなしなのは、究極体のこの姿に進化してもなお変わらなかったけれど――すぐに、変化が現れた。
ボロボロのままではあるけれど、次の瞬間には、巨大な、コウモリの翼そのものに。
骨組みと被膜の色は逆だけれど、ここのパーツは、ヴェノムヴァンデモンに近い気もする。こんな大きな翼とこの長い尻尾、それから獣の足があれば、確かに遠目から見れば、私達はドラモン系デジモンに見えるかもしれない。
そんな風に人々は、このウィローオウィスプモンを、見るのだろうか。
ちょっとだけそんな事を気にしながら、私達は、屋上の床を蹴った。
たったそれだけなのに、ぐん、と灰色の雲が眼前に近づいて来て――ただただ単純に、驚いた。
思わず、視線を落とす。
今私達を見送ってくれたばかりのカンナ博士達は元より、街の景色そのものが――すでに、遠い。
「「すごい……」」
自分は今、デジモンだという実感が、今更だけれども、物凄い勢いで沸き上がってきた。
「「すごい」」
『私』の興奮が、抑えきれずに口から弾け飛んだ。
「「すごい! 飛んでる!!」」
早速『霧の結界』が展開され始めているのだろう。
纏わりついていた日中故の眠気なんてあっという間に吹き飛んで、弾むような心がどんどん空を目指していく。
「ウィローオウィスプモン」
と、そんな私達の隣に、ライヒモンの金の翼が並んだ。
「驚きました。物凄い速さで飛び出して行かれたので」
ハッと、我に返る。
ばつの悪さに、取り繕うような笑みが張り付いた。
「「ご、ごめん……想像以上に飛んじゃった……」」
「思い出します。……飛べはしませんでしたが、私も、そうでしたから」
「「ハリも?」」
「スピリットの制御については、マスターに様々な事を教わりました」
しかし、と
『制御』の方法については語らずに――
「本当の強敵と対峙した時には、『ユミル進化』のブーストに身を委ねて力を解放する事も時には有効なのでしょう、と。……そのような話も、聞いています」
「「……今って」」
あっという間に、雲を抜けた。
雲の上。
太陽の真下。
青い空の天井。
そして――玉虫色の泡の瞳。
地上からははっきりと五芒星として映っていたそれは、近づくにつれ全体像を捉えられなくなってきて、ただただ巨大な線にしか見えなくなってきている。
「「ちょうど、その時かな?」」
コラプサモン。
海であり、星であり――神。
一瞬とはいえデジタルワールドの新たな管理システムを名乗った『ユミル』の置き土産。
色合いのくっきりしたシャボン玉みたいな瞳は、小さなものでも島を思わせる程の巨大さで、確かに、デジモンと対峙しているというよりは星に向かって飛んでいるという印象の方が、ずっと強くなってしまう。
「今以上に相応しい場面も、そうそう無いでしょう」
空と宙の境目。
ここがそうなのか、その辺りの知識に関しては大学でもほとんどノータッチだったのでこれっぽっちもピンと来ないのだけれど――天空に突然生まれた大陸のようなコラプサモンとは、十分に近づいたように思われた。
私達よりも少し下のあたりには、コラプサモンを見張るために飛ばされているらしいドローンが数機、音も無く旋回している。
これを通じて――私達とライヒモンの姿は、今、沢山の人達に、見られているのだろう。
カンナ博士とコロモンさん、そしてカガさんの目にも、きっと。
「――――」
歌が、腰のスマホから鳴り響いていて。
それ以外は、酷く静かだった。
「……美しい歌声ですね」
「「うん」」
「まだまだ、修練が足りないと……素直に、そう思います」
「「帰ったら、またレッスン受けるの?」」
「ええ。なので、手短に済ませてしまいましょう」
事も無げにそう言って、ライヒモンは右腕を掲げた。
途端、手元に鮮やかな闇が集約されて――太陽の光を受けて鈍く輝く、銀色の穂先を持つ黒い槍――『断罪の槍』が、虚空から取り出される。
それをしっかりと、握り締めて。……だけど幽かに、彼女の手が、震えた。
「「ライヒモン」」
「……」
「「怖い?」」
「ええ」
「「一緒だね」」
向かい合う。
お互いデジモンになっているので普段より身長は高いのだけれど、その差に関しては、いつもと変わらないくらいだ。
私達の方が、少しだけ、高い。
「「もしもの時は、一緒に、逃げて帰ろう」」
「それは、なんとも心強いですね」
私達もライヒモンも技の邪魔になるから、手を取り合ったりはしなかったけれど。
隣に『友達』がいるっていうのは――こんなにも、心強いんだなって。それだけで、十分に「逃げ帰る」未来なんて、想像すらも、しないで良い気がして。
「行きましょう。ウィローオウィスプモン」
「「うん」」
勝負は、一瞬で決まるだろう。
いや――戦いですら無い。まともにやり合えば、コラプサモンの方が強いに決まっている。
こちらの勝利条件は、単純に、ただ1つ。
コラプサモンを、元居た場所へと、還す事。
「「……」」
両手を――生体砲『ソドム』と『ゴモラ』を、祈る様に組んでから、前に突き出す。
すぐに指を軽く解き、鋭い牙を持つ口を連想させるような隙間を作り出した。
次の瞬間、手の平を貫通するように埋め込まれている、右手は赤色、左手は青色の宝玉――正確には『ソドム』と『ゴモラ』の瞳に該当する器官が、信じられない程の熱を帯びる。
その名の通り、この手の中に聖書に描かれた、神の火に焼かれた悪徳の街を再現するかのように凄まじい、高温を。
これは、ベリアルヴァンデモンの必殺技の1つ、『パンデモニウムフレイム』と同じ原理のものだ。
『パンデモニウムフレイム』は攻撃範囲を確保するために、威力が分散してしまっているようだった。本来の『魔王』の座に値するデジモンであれば、その範囲を維持したままさらに高火力の必殺技を放てるらしいのだが……とはいえヴェノムヴァンデモンの力を上回るベリアルヴァンデモンの事だ。当たりさえすれば、ほとんどのデジモンを一撃で葬り去る事が出来る威力には、違い無い。
でも、それだけでは、コラプサモンの気を引くには、多分、まだ、足りない。
『パンデモニウムフレイム』を、ダークエリアの業火を、手の中に凝縮する。
分散など、させない。
狙うのは泡の瞳の、その中央。その1点のみ。
ライヒモンと2体で、突き破る。
だから、2体で同じところを突くために、これも、彼女と同じ、『槍』がいい。
炎熱の槍。
周囲の景色が歪む程に集約された『パンデモニウムフレイム』は、太陽の光までも焦がす勢いで、白熱していた。
にもかかわらず、『霧の結界』の外套は、それでも蒸発する事無く、私達を護り続けている。
――明るいだけの世界では、眠る事さえ出来ないから――
……歌が、サビに差し掛かったらしい。
出だしの言葉は、『僕』の言った事を参考にしていた。
カガさんは、それを、汲んでくれたのか。
――お姫様は夜の歌を、みんなの夢を見守るように――
ライヒモンに、瞳を向ける。
『私』の大好きな、自慢の、蜂蜜色の瞳だ。
頷きながら、ライヒモンもまた、『断罪の槍』を振り被った。
――訪れる明日が――
「「『パンデモニウムツェペシュ』!!」」
「『シュバルツ・レールザッツ』!!」
――『幸せ』であるように――
2つの槍が、爆ぜるような勢いで私達とライヒモンの手を離れた。
物理法則を無視するというライヒモンの必殺技は、当然、重力の影響を受けた様子も無く、空を滑るように舞い上がっていく。
対して、私達の放った『パンデモニウムツェペシュ』は空間そのものを舐めるように焦がしながら、『断罪の槍』と、重なった。
『断罪の槍』は『パンデモニウムツェペシュ』に呑まれる事無く、ただ、鋭く。
『パンデモニウムツェペシュ』は『断罪の槍』を援護するように、なお、熱く。
ライヒモンが「十闘士の盾」を名乗ったように――『パンデモニウムツェペシュ』は、護るための槍だ。
ツェペシュ。ルーマニア語で、『串刺し公』。
吸血鬼『ドラキュラ』のモデルになった、ルーマニアの王様の異名だ。
彼は敵国の軍隊を退けるために領地一帯に「杭で穿たれた人間の森」を作り上げ、悪魔だと、残虐非道の王だと後世に残る程に伝えられながらも――確かに祖国を護った英雄としても、語り継がれている。
どんな手段を使ってでも、大切なものを絶対に護り切る。それが、この槍。この一撃だ。
2つの槍にして1本の杭が、高く、高く、高く――飛んで。
やがて
ぱちん、と
穂先に触れたコラプサモンの瞳の先端が1つ。それこそ、シャボン玉のように割れて。
そこから先は、一瞬だった。
ぱんぱんぱんぱん! と、泡の弾ける音が幾重にも轟いて。
【 !!】
「「っ!」」
空気が、揺れた。
声、だったのだと思う。
私達の知る、どんな声にも言葉にも当てはまらない空気の振動がざらりと鼓膜を揺るがすのが判った。
スマホの中に居るラーナモンさんさえ一瞬「ゲコォ!?」と歌うのを止めて――だけどすぐさま、私達の『霧の結界』が失われないように、声を震わせたまま続きを歌い始める。
一瞬で心を抉りかねない程に揺さぶったコラプサモンの絶叫に――しかし私達とライヒモンは、お互いに顔を見合わせて大きく頷いた。
恐怖が、首を絞めるように絡みついている。
でも、実際に首を絞められてる訳じゃ無い。
どんなに、コラプサモンが強大だとしても――纏わりつくそれは、自分自身の、心の弱さだ。
顔を、上げる。
何十、何百、ひょっとすると何千もの瞳を焼き貫かれた筈のコラプサモンだけれど、それをダメージだと認識している様子は無い。
穿った筈の大穴は、既に何事も無かったかのように埋め尽くされている。
でも、だからと言って、痛くなかった訳では無いのだろう。
むしろ、下手に大きな怪我をする以上に、ふいに刺さった木のトゲのように。ただただ、とにかく、鬱陶しいような痛みだったに、違いない。
コラプサモンは、苛立ちに『眼』を見開いていた。
その『眼差し』は、当然、トゲを刺した私達とライヒモンへと。
「ウィローオウィスプモン」
ライヒモンが少しだけ前に出て、振り返る。
コラプサモンの瞳を囲う五芒星が、波打つのが判った。
「後は、頼みますね」
だけど私達の黄金の瞳は、ライヒモンから目を離せない。
獅子のような猛々しい戦士でありながら、幼く、儚い、少女として――
――鋼の闘士の妹として、彼女は、こちらに目を向けたのだから。
強く、頷く。
次の瞬間、ライヒモンの身体が掻き消える。
ハリが、スピリットによる進化を解除したのだ。
鎧を、そして翼を失い、今度こそ物理法則に従ってハリの小さな体が、落下を、始める。
ほとんど同時に、コラプサモンが、動いた。
五芒星に沿って
空が、宙が
裂ける。
構わず、私達は落ちるハリを追った。
回り込むようにして。
彼女とコラプサモンとを、遮るような真似はしない。
まっ逆さまに落ちながらも、ハリは左手を――盾を持つ手を、掲げている。
お馴染みのスーツの裾から、きらりと、その『鏡面』が光を反射していた。
「スピリットエヴォリューション・ユミルッ!!」
空いっぱいに。
宙いっぱいに。
少女の進化が、宣言された。
それは、2つのスピリットを纏うような進化では無い。
どころか、それはスピリットの、いわば『破片』を纏うだけに過ぎない進化でしかない。
だと、いうのに。
「「……!」」
凄まじい、進化の光だった。
何よりも輝かしいそれは、まるで、宝石の――水晶の美しさを、祝福するような、そんな光だった。
「鋼の闘士・京山玻璃!!」
コウキさんの、代わりじゃない。
だけど、コウキさんと、コウキさんが全てを賭けた物のために――ハリは、新しい鋼の闘士になって。
『イロニーの盾』は、それに応えていた。
まるで妹を護る兄のように、鏡の盾は、ハリの左手に大きな円を浮かび上がらせている。
そしてコラプサモンの動作も、示し合わせたかのようにほぼ同時だった。
【『 』!!】
あの、技だ。
オニスモンを消滅させたのと同じではあるけれど、まるきり規模の違う。エンシェントワイズモンがコラプサモンを呼び出した時に放とうとしていた、必殺技だ。
『暗黒の海』の水門、コラプサモン。
宙に穿たれた邪神は、自分を苛立たせる存在を用意した世界に滅びの雨を降らせようと、今度こそ自分の意思で、『門』を開こうとしている。
だけど、神だとしても。コラプサモンは、データでも――デジモンでもあって。
何よりも、その『門』を閉じた『前例』は、既に、用意されている。
……ハリの下に辿り着いた私達は、肩をしっかりと捕まえて、背中から、彼女を支えた。
小さな肩。小さな、身体だ。
ハリはその全身を、完全に私達の腕に預けて――ただ左腕、『イロニーの盾』にのみ全てを傾けて、叫んだ。
喉が千切れるんじゃないかと、心配になるくらい。
コラプサモンの向こうにある『暗黒の海』にだって、平気で届きそうなくらいに。
「『オフセットリフレクター』――――――――――ッ!!」
鏡の円盾が、光を放射させて。
「『と」
見る見る内に、光は、膨れ上がっていって
「じ」
気が付けば――コラプサモンの全身まで
「ろ』――――――!!」
呑み込んでいた。
『イロニーの盾』の放つ光に包まれた全てが――反転する。
開かれるはずだった『門』は、今度こそ、ハリの宣言通りに、閉じられていく。
……だけど
【 !!】
ほんの刹那ではあっても、『門』は確かに、開かれていたのだ。
暗い水が――星の絵をなぞりながら、降ってくる。