第三節「一日目:予期せぬ邂逅、戸惑いの樹海」
青い空と白い雲を覆い隠す深緑、聳え立つ大木の数々に、透き通った太い直線。
森林というよりどちらかと言えば樹海と呼ぶべき領域にて、一体のデジモンが一息つくように河の水を飲んでいた。
「……ぷはぁ……」
(水質とかに異常は無し、と……まぁ辺りのデジモン達を見れば当然か)
全身各部にブラウンカラーの鎧を纏い、頭部から金色の髪を、腰元からは白い翼を生やした丸い尻尾の四足獣。
気品漂うその存在に自ら近寄ろうとする者はおらず、一方で茂みの奥からひそひそと様子を伺う者は数多く、その視線には少なからずの畏怖が混じっていることを、当の獣自身は嫌と言うほど理解している。
獣はそちらの方へ、意識を向けることこそあれど視線を向けることは無い。
望まない感情の向けられ方である一方で、自身がそうなっても仕方の無い存在であることを知覚しているためだ。
なにも、このような視線を向けられたのはこの樹海だけでもない。
つい少し前に出向いた山脈地帯も含め、どんな場所に出向いたところで、向けられる視線のパターンはある程度決まりきっていて、そのどれもが彼にとって好ましいものではなかった。
居心地が良いと思える場所など、そうそうあったものではない。
そして、そう思いつつも自らのやるべき事を放棄するわけにもいかず、彼は今日もまたやるべき事のためにこの森林地帯を歩き回っていた。
(……イグドラシルの観測情報だという以上、異常そのものはあるはずなんだけど……)
世界を隔てる『次元の壁』に生じた痕跡と、同時期に起きているらしい大陸各地の性質変化。
その真相を確かめ解決するための、大陸各所の環境の調査。
特に、野生化デジモン――文明ある都市のデジモン達からはワイルドワンと呼称されている――の生息する大自然の区域の調査こそが、彼の担当することになった役割だった。
実際問題、他の『同胞』たちと自分のどちらがこの環境の調査に適しているかという話になれば、自分の方が適しているということは理解しているし、この配置について間違いは無いと彼自身も思っている。
(……先輩方は、もう何かしら発見出来たのかな……見つけられてないのは、僕だけなのかな……)
が、こうして広大な樹海をくまなく歩き回ったところで、成果らしい成果は無い。
食物は美味しいし、河の水によくないものが混じっているようには感じられないし、生息しているデジモン達は自然体そのものだ。
それ自体は喜ばしいことであり、望ましいことではある。
だが、そうした領域に自分の居場所が無いことも、同時に理解させられる。
自分は異常を解決するための手がかりを掴むためにやってきているのであって、ありふれた平和に安堵していい立場ではないのだと。
異常が確認出来たほうが望ましく、平和しか確認出来ないことを疑わしく思わなければならない。
自分は、そうした世界の危機を解決しなければならない存在なのだから。
そういう役割を、託されたのだから。
(……何で、僕なんかに聖騎士の座を……)
ふと、湖面に自分自身の表情が映っているのが見えた。
他ならぬ彼自身が『らしくない』と言えてしまう表情だった。
見ていられないと言わんばかりに目を逸らし、視線を青空へと向ける。
生き物の姿一つ無い自然の原風景を前に、ついやりきれない気持ちが呟きとして出てしまう。
「……どうして僕が生き延びて、あなたが……」
今の自分の在り方に、寂しさを覚えていないわけではない。
だからと言って、放棄するわけにもいかない役割だった。
逃げてしまうぐらいならば、即座に自死すべきだと、そう思える程度には。
(……ああくそ、いちいちへこたれてる場合じゃないよな……)
止まっていられる立場ではない。
任された事を果たせるように、出来ることをやらねば。
が、そんな風に自らを奮い立たせようとした直後のことだった。
突如として、彼の耳に届く音があった。
――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――
「?」
キョトンとした様子で最初に疑問。
聞こえたのは明らかに環境音のそれではない、誰かの声と呼べるもの。
というかこれは、
(悲鳴?)
――ぁぁぁぁぁぁぁぁああああ――
次いでも疑問。
悲鳴となるとこの辺りで考えられるのは弱肉強食、もとい弱いものいじめ。
残酷だと思いつつも、それが自然の営みであるのならば感情で介入するべき話ではないのだが、それも何か違う気がする。
(縄張り争い? いや何か聞こえ方がおかしいような……どんどん上から近付いて……)
「――って、ちょぉっ!?」
「「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」」
気付いて振り向いた時には、全てが遅かった。
超高高度から流星の如く落ちてきた白と赤、もといコカトリモンのトールとそれに抱き付いたギルモンのユウキ、その一塊が絶叫と共に四足獣に向かって斜めに墜ちて来て。
見事に獣の顔面と鶏のクチバシが正面衝突、首の(あまり良くない)異音と共に四足獣は押し出され、勢い余った白と赤と一緒に河にドボン&ドンブラコ。
あまりにも唐突な人身事故を前に、森の住人達は目が飛び出す思いだったという。
◆ ◆ ◆ ◆
その頃。
鉄砲水によって別のルートに流されてしまったもう一方――ベアモンのアルスとミケモンのレッサー、そして依頼主であるレナモンのハヅキとホークモン――は、それぞれ足を早めていた。
トンネルから水で押し流された先に広がるのは、それまで歩いていた森林地帯のそれとは似て非なる樹海。
気温に湿度、生息しているデジモンの種族とそれに伴う危険の度合いなどなど、一つの山を境に環境の濃さは様変わりしている。
依頼でも来たことの無い領域を前に、明らかな焦燥を帯びた声でベアモンが叫ぶ。
「ユウキ!! トール!! 生きているのなら返事をしてーっ!!!!!」
「……うぅ、なんでこんなことに……」
仲間が突然いなくなった。
予想外に予想外が重なった事態に対応しきれず、つい少し前まで傍にいたユウキとトールの二名は彼等の知見の外に出てしまった。
急いで探そうと、トンネルの出口が見える周辺を回ってみたが、痕跡の一つさえ見えていない。
最悪の予感を消し去れず、ベアモンは普段のそれとは相反する険しい表情を浮かべていた。
(二人ともいったい何処に……っ!?)
「おいアルス、焦る気持ちはわかるが依頼主を放置して何処か行こうとすんなよ。今ここで別行動とか取ったら本格的に詰むぞ」
「……っ……解ってるよ……」
「……アルスさん……」
レッサーの言葉が図星だったのか、何かに耐えるように歯軋りの音を漏らすアルス。
もし指摘されなかったら、ホークモンの事をレッサーに任せて走り出していたと、言外に示すも当然の反応だった。
理屈として解ってはいても、焦る気持ちは抑えられない。
二人のことを探そうと周囲を見回すアルスのことを見ながら、ハヅキは思案するように右手を口元に寄せながら疑問を口にした。
「レッサー殿、貴殿ら『ギルド』にこういった状況への備えはあるのでござるか?」
「あると言えばあるが、もう試した。アルス、スカーフからは何も聞こえないんだよな?」
「……聞こえてない。今も」
アルス達のように『ギルド』に所属するデジモン達に各々配られる特別製のスカーフには、彼等の間で『ひそひ草』と呼称されている特殊な草が織り込まれている。
その草はごく小さな声だけを吸い込み、同じ根から伸びた同種の草と共鳴、遠方で発せられたものと同じ声を囁くのだ。
大声や普通の喋り声などには反応しないそれを織り込まれたスカーフもまた同様の性質を有しており、口元に寄せて囁き声を発すれば、その内容が同じチームのスカーフを通して囁かれる仕組みになっている。
故にアルスも、トンネルを出てユウキ達の不在を知覚したその時点で、すぐスカーフに囁き声を発して『確認』を取っていた。
スカーフの機能については『ギルド』のメンバー全てに伝えられていることであり、ユウキもトールも今までの依頼の中でその機能を頼りにした事がある。
だからこそ、無事であればすぐにでも応じる囁きが返ってくるはずだが、反応は無い。
それが示す意味は、単に囁き声に気付いていないか、あるいは応対出来る状況にないということ。
少なくとも、安全と呼べる状況に無いことだけは確実と言えた。
「……レッサーなら、二人は何処に行ったと思う?」
「こちら側の出口周りにいないとなると、先のほうに進んでると考えるべきだな。出発する前にも言っただろ? もし仲間とはぐれたら、はぐれた側は基本的には引き返すより目的地の方角に向かって進めって」
「それは承知しているのでござるが、トンネルの中に取り残されているという線は無いのでござるか?」
「その可能性も考えはしたが、あのトンネルが形作られた経緯を考えても、まず行き止まりは無い。少なくとも外には出ているはずだ。どの出口からどんな風に出てきたのかがわからないだけで、樹海のどこかにはいるんだろう。まぁ、何で応対出来ないのかまでは解らないんだが。水に押し出された拍子に頭でもぶつけたか?」
「……レッサー、お願いだから真面目に考えて」
「真面目だが?」
ひとまず、依頼と合流のためにも先に進むことが決まって、一行は青空さえ緑が覆い隠す樹海へと足を踏み入れる。
踏みしめる土の質感からしてアルスやレッサーの住まう『発芽の町』周辺の森のそれとは異なり、ジトジトとした湿気を含みながらもどこか硬質で、地中に伸びることが出来なかったのであろう木の根が土の上に張り巡らされていた。
急いで合流したい一心で前に前に進もうとする度に、苔だらけの巨大な倒木に行く手を遮られ、迂回に迂回を重ねてみてもまた倒木。
森と同じ木々の生い茂る環境でありながら、受ける印象は全く違っている。
歩きにくいし進みにくいし、気を抜けば迷いそうだとアルスが素直に感じていると、すぐ近くでホークモンが木の根に足を取られて転んでいた。
アルスがそれに気づいて振り返った時には、既にハヅキが屈み込み、ホークモンの手を握って身を案じていた。
「大丈夫か?」
「……は、はい。このぐらいなら……」
「疲れたり、体に異常を感じたのならすぐに言え。蓄えにはまだ余裕がある」
「い、いや! 大丈夫です! まだ疲れてもいないし元気いっぱいなのでッ!!」
「そうか、ならいい」
「…………」
力のある誰かが、力の無い誰かを案じる構図。
正義の味方を描く物語であれば、どんなものにでも仕込まれているであろう瞬間。
そんな光景に、アルスは胸の内に微笑ましさとは真逆の暗いものを感じていた。
(……突然の出来事だったから、なんて言い訳でしかない。ユウキもトールも、僕がもっと強ければ……あの時ちゃんと手を掴めていれば……離れ離れになんて……)
もしも、このままスカーフから応答の一つも無かったら?
もしも、レッサーの見解が間違っていて本当はトンネルの中に取り残されていたら?
もしも、助けてくれなかった事を恨まれていたら?
沈黙した分だけ不安は増幅する。
自分自身の力不足を、その結果を、嫌でも心に叩きつけられる。
「アルス、耳はしっかり澄ませとけよ。仲間の声にしても、敵の声にしても」
「……え、あ……そのぐらい解ってるよ……」
「……ユウキとトールの事が心配なのは解るが、不安を覚えたところで何にもならないぞ。今から覚悟しとけとまでは言わんが、いつまでも肩を落としてんじゃねぇ」
「解ってるって言ってるでしょ。それに、心配なんてしてない。ユウキもトールも強いんだ。応答出来ないのだって、スカーフを何かの拍子になくしちゃったからかもしれないし」
「そうかい。アイツ等のこと、ちゃんと信頼してんだな」
「当たり前だよ。同じチームなんだから」
……嘘だ、誤魔化しだと、口に出した言葉とは相反する思考が頭の奥で反芻される。
確かにユウキとトールの強さについては、アルスも疑いはしていない。
スカーフをなくした可能性についても、当事の状況から十分考えられはする。
だけど、本当に信頼しているのなら不安なんて覚えない。
スカーフをなくしただけという可能性についても、推測というよりどちらかと言えば願望の類だ。
早く、とにかく早く、二人のことを見つけ出したい。
安全を確認したい、無事な姿を見たい、いつも通りであってほしい。
……そうした願望を口にしたら最後、自分自身が強くいられないと感じて、弱音を押し殺す。
だって、今ここで弱音を吐いてしまったら、悲しい気持ちになるのは自分だけじゃない。
今回の依頼における護衛対象のホークモンだって、今までの振る舞いから考えても、自分の事を護ろうとしてきた相手がどんな形であれいなくなってしまったら、何の悲しみも覚えないとは考えにくい。
少なくとも、自分がホークモンの立場なら、そんな状況には耐えられない。
どんな状況であっても、自分は頼りになる自分であり続けないと――そう思って、アルスは無理やり言葉を捻り出す。
「ホークモンも心配はしないで。二人共、絶対に無事だから」
「……そうだと、いいんですけど……あ、いや……そうですよね!!」
「そうだよ。そりゃあ何度も危ない目に遭ったけど、何度も打ち勝ってきたからね。僕たち」
その事実だけが、支えだった。
それ以外に支えに出来るものなんて、少なくとも今の彼の頭の中には浮かばなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
そして、当のユウキはと言えば。
――がぼぼ、がぼぼぼぼぼぼ!!
絶賛大パニック、もとい溺れてしまっていた。
超高高度からコカトリモンに進化したトールと共に墜落し、何かにぶつかった勢いのままに河の中へ入水――その衝撃でコカトリモンからエレキモンの姿へと退化したトールと、姿をよく見れていない初対面の誰かさんはすっかり気を失い、河の流れに身を任せるままとなってしまった。
辛うじて意識を保つことが出来たユウキだったが、どんなに手足を動かしてもがいてみても、思うように水面に浮上出来ない。
コンクリートジャングル在沖の人間だったギルモンこと紅炎勇輝氏、テレビのニュースで山の川での水難事故の類を視る度に「え、水かさそんなに高くないよな……?」などと浅い認識で疑問を抱いていたものだったが、こうして自分が事故に遭う側になると嫌でも納得させられるの巻である。
感想なんて述べてる場合じゃねぇ。
(冗談じゃねぇって……っ!!)
「――くはぁ!! げはっ!! ごふっ……!!」
どうにかもがき続けて、顔だけ水面から出して、辛うじて呼吸をするユウキ。
身の回りの環境なんていちいち確認していられず、大きく息を吸い込むと改めて河の中に潜っていく。
衝撃で気を失っているトールに向かって泳ぎ進み、腹回りを右腕で抱き留める。
次いで運悪く激突してしまった哀れなデジモンの方を視界に捉えようとして――突如、浮遊感がユウキを襲った。
水の中にいる感覚は薄れ、代わりに背中越しに強い風を感じる。
とても身に覚えがあるというか、つい直前に味わったばかりの感覚に、いっそユウキは口をぽかんと開けていた。
「――は?」
水の流れに乗った先にあるもの。
ユウキの視線の先には、下方に向かって流れ落ちる大量の水があり――つまる所、それは滝であるらしく。
滝があるという事は、即ちそこにはそれが形作られるに足る高さの段差、もとい崖があるわけで。
気付けばユウキは、再び高高度から落ちる羽目になっていた。
「またかよおおおおおおおおおおお!?」
上空からのダイブに比べればマシ、などと納得出来るわけも無い。
河の流れから出た際の慣性によって、ユウキとトールの落下位置は滝壺から僅かに逸れている。
視界に入った景色から、このままいけば河の浅い部分か、最悪そばの地面に頭から落ちることになると察したユウキだが、どうにもならない。
彼の体には、空中で軌道を変える術など無いためだ。
「くそっ……飛べ!! 飛べよッ!! このままだと……!!」
焦りがそのまま口に出る。
地面との激突まで時間は残り僅か。
必死になって進化を試みるが、間に合わない。
落下死、という単語が頭を過ぎり、悲鳴が漏れた。
「くっ……そおおおおおおおおおおおおお!!」
その時だった。
ユウキの視界の外で、動きがあった。
「――ぅ――っ!?」
その、コカトリモンに進化していたトールと頭から激突していた四つ足のデジモンは、声に気付いてか目を覚ますと――視界に入った光景から、即座に行動していた。
大地の代わりに流れ落ちる滝の表面から駆け出すと、さながら一本の線となって落下中のユウキに追い着き、その背でしっかり受け止める。
そのまま勢いを殺さずに降下――地面に着地し、事なきを得る。、
それ等全ての行動が終わるまで、実時間にして五秒も掛かったか否か。
安心したという様子で、四つ足のデジモンは自らが背に乗せたユウキに対して目を向け、次いで声を掛けてくる。
「君達だいじょ……ごほん。お前達、無事か?」
「――――」
結果として自分とトールを地面激突の危機から救った相手。
その姿、というか顔を見た瞬間――ユウキはいっそ放心していた。
口をポカンと開けたユウキの様子に、茶色の鎧を身に纏った四つ足のデジモンは困った様子で声をかけ続ける。
「……おーい、何事も無いのならちゃんと返事をしろ。ぼk……私が困るんだからなー」
(……マジ、で……?)
「……えぇとその、怖くないよー? ねぇちょっと、流石にデュークモン先輩よりは怖くないでしょ。ねぇってば……!!」
そのデジモンの種族名は、いわゆるビッグネームの類であった。
茶色の鎧を身に纏い、金の髪を風に靡かせ、時には人の、時には獣の姿をとって戦場を駆ける聖騎士型デジモン。
ネットワークの最高位組織、ロイヤルナイツにおける戦略家。
その名は、
「……ドゥフト……モン……?」
「あ、やっと返事をした。経緯や素性はよく知らないけど、君たち随分と大変な目に遭ったみたいだね」
「……ぅ……ん? ここ、は……?」
「お、こっちも起きたね。とりあえず、まずは落ち着いて話でもしようか」
予期せぬ大物との邂逅。
それも、個性豊かな騎士達の中でも知性に長けた者。
元は人間のデジモンなんて、どう考えても不穏分子と判断されかねない――そう考えたユウキは、助けられていながら明確な安心を得られずにいたのであった。