◇
目撃者がいないことを確認した後、光ヶ丘の自宅マンションから飛び出した。
イサハヤをぬいぐるみ扱いして電車に乗るより余程いい。彼と出会って以降、こうした形で空を往くのはまだ二回目だが、きっと自分達が一緒にいる限り今後何度も似たような機会は訪れるだろう。
その時は必ず、皆で一緒にいたい。そう思う。
「……っ!」
風圧と僅かな逡巡で思わず右手で目尻を拭った。
家から持ち出してきたゴーグルはスキー用のもので、用途が違うような気がしたがそこに構う余裕はない。実際、目元の風を防ぐ分には問題ないようだった。
眼下に見える都内はどこもかしこも大盛況らしい。百年に一度のイベントとなればそれも当然か。飛鳥も友人達からカウントダウンイベントに誘われたが、今回ばかりは固持した。成美と美々は不思議そうな顔をしていた一方、仁子はなんとなく事情を察したように快諾してくれた。
逃げられない日だった。けれど逃げるつもりは毛頭ない。
目指すはお台場、その先の東京湾の霧の中で眠る竜帝。恐らくは既にそこにいるであろう玉川白夜が立ち塞がることも予測できるが、正直言って飛鳥は全くの無策である。この半年考えに考え抜いたつもりだが、何らアイデアは浮かばなかった。
だから持つのは己とイサハヤの身一つ。
人間とデジモン、ただ心と体だけを武器としてお台場を目指す。
今日は西暦2000年12月31日。
20世紀最後の日。
一人の男が命を懸けて封じた竜帝が、再び目覚める日。
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――FASE.9 「本日ハ晴天ナリ(前)」
富士樹海にどこからともなく霧を纏う巨大な怪物が現れた。
政府がその化け物を捕らえ、何かに利用しようとしている。
一昨年に短期間ながら、そんな噂が流れた時期があった。黎明期のインターネット界隈にありがちな都市伝説でしかないと思っていた。だが掲示板での交流を経て、やがてメールのやり取りをするような関係となった仲間と共に協力して調査を進めていく仲で、漠然とだがある可能性が見えてきていた。
この二年間、突発的な霧は関東地方、特に東京を中心に幾度も確認されている。何人かの仲間が足を踏み入れてみたものの何も確認できなかったというが、昨年にはとうとう新宿の中心部にすら発生したという。
自然発生では有り得ない。どう考えても人為的な何かが絡んでいるのは明らかだ。
とはいえ、その時点までは単なる興味本位だった。だからそれを本格的に調査してみようと思った契機はと言えば、それは静岡の片田舎である自分の地元でその霧が発生したからに他ならない。
『よう、久し振りだな』
そしてそこから出てきたのは、自分の幼馴染とその“娘”だったのだ。
本人達は誤魔化せていると思ったらしいが、彼ら二人が連れていた子猫はどう見ても一般的に知られる猫とは違っていた。そしてその子猫と同時期に地元に現れた“娘”もまた、恐らくは普通の人間ではないのだろう。
面白いと思った。まさか事態に絡んでいるのがあの前田快斗とは。
そこからの行動は迅速だった。元々互いの親同士の交流が深い相手である、特に前田家の両親は地元でも稀代の脳天気と謳われた夫婦であり、当人もお喋りと来ている。故に快斗の行動を聞き出すことなど容易だった。息子が年端も行かない少女を突然連れてきたことさえ大して気にしていないのだから別の意味で驚かされた。
やがて見えた繋がりは、快斗が一昨年のクリスマスに出会ったという少女だった。名前を鮎川飛鳥。東京の光ヶ丘に住む凡庸な女子高生だが、同時に彼女は快斗と“娘”を共有しているらしい。どうにかして彼女とコンタクトを取りたい。そう思っていた時、仲間内の一人から情報が届いた。
1998年7月、光ヶ丘で巨大な怪物が暴れていると。
東京に“娘”と出かけたらしい前田快斗。恐らく会う相手は光ヶ丘に住んでいる鮎川飛鳥だろう。そしてそこに現れたという魔獣。全てが一本の線に繋がっていくようだった。どうしたわけかニュースには出なかったが、そのことが逆に事の重大さを教えていた。数日後に静岡へ戻ってきた快斗の隣に、あの“娘”がいなかったことも裏付けだ。
消沈した様子の快斗からこれ以上の情報は取れないと思った。そもそも自分達はもう高校入学以降疎遠なのだ。
だから次にターゲットとして定めたのは鮎川飛鳥だった。元より高校卒業後は東京で一人暮らしをするつもりである。だから模試で文句なしのA判定を突き付けて、両親に一年早く独居の許可を得た上で彼女の通う平凡な高校へと編入した。
風変わりな奴と見られただろうが関係ない。目的は鮎川飛鳥だけだったからだ。
『ごめんなさい』
事をスムーズに運ぼうと交際を申し込んだ時、即座にそう断られた。
思った以上に鮎川飛鳥の前田快斗への思いが強かったらしいことに驚かされたが、その時の彼女は東京湾に長らく発生し続けている霧の方を見ていた。そして彼女自身気付いていないらしかったが、鮎川飛鳥が身に付けていた黄色い装置がその時淡い輝きを放っていた。
それは静岡に戻ってきた時、前田快斗が握っていた黒いそれと同じものだったはずだ。
舞台は光ヶ丘からお台場へと移ったらしい。そして恐らくは今年中、今世紀中に全ての決着が付くはずだ。
「……来たかい」
そして今、お台場にいる自分の視線の先を大きな鳥が飛んでいく。
誰も気付かないだろうが、あれには恐らく鮎川飛鳥が乗っている。霧の向こう側、ただの人間では何ら関知できぬ場所にいる“娘”を救う為に。今の何の力も持たない自分では関われない領域に飛んでいく彼女を見やり、不知火士朗は思案する。
さて、どうしたものか。
東京湾に発生した濃霧は今も変わらず、ただドーム状にそこにある。
「突っ込むぞ」
足下から聞こえるイサハヤの声に答えない。
一年前からそうすると決めていた。玉川白夜の手で眠る竜帝エグザモンが目覚める前に、自分達の手で何とかしなければ。しかし何を? どうやって? その答えを今なお鮎川飛鳥は持ち合わせていない。そもそも自分達だけではエグザモンどころか白夜のタイラントカブテリモンにも敵わないというのに。
それでも動かずにはいられない。飛鳥も、そしてイサハヤも。
「つっ……!」
ゴーグルを装着しながらも突入時に思わず目を閉じた。両頬に吹き付ける水分に顔を顰めながらも程なくして鎌首を擡げたままの竜帝の姿が見えてくる。その光景を前にして別世界のようだと飛鳥は思う。霧の中に飛び込んだ途端、自分が異世界に召喚されたような気分になってくる。
デジタルフィールド。この霧はそう呼ばれているとイサハヤに聞いた。
実際のところ、別世界という認識もそう間違っていない。他の人間の誰もが侵入したところで、何もない空間を目にするだけで竜帝の姿を認識することはできない。資格が要るのだ。デジタルモンスターと共に突入するか、デジヴァイスを所持しているかのどちらかの資格が。故に今この国でエグザモンと相対できるのは、行方を晦ました残り二つの加速神器の持ち主を除けば前田快斗と鮎川飛鳥のみ。
そしてアイツは来ない。だから挑めるのは自分一人だけだった。
「飛鳥、来たぞ!」
イサハヤの声が飛ぶ。エグザモンの周囲から無数の黒い軍勢が出現する。
それは緑と青、二色に彩られた数多の竜だった。
緑の方は幾度か見たコアドラモンのジンライ、翼を持ちながら飛行能力はないはずだが霧の底は海面のはずなのに、デジタルフィールドの中ではその限りではないのかまるで大地のように両足を踏み締めて駆けてくる。
一方で青い軍勢はジンライと似た特徴を持ちながらも飛行能力を持つらしい。雲霞の如く押し寄せる様は悪魔の配下のようだ。
「煌羅……」
それらは全て、エグザモンが召喚する兵士である。
明確な拒絶の意思がそこにはある。それが煌羅の意思でなくとも自分を拒むかのような挙動は少なからず飛鳥の心を折らんとする。自分達が彼女を救おうとするのは飽く迄も自分達のエゴでしかなく、彼女はそれを望んでいないかのような──
「迷うな!」
けれどそんな逡巡は頼もしいパートナーの一声で打ち消される。
そうだ、迷っている暇なんてない。自分は彼女を助けると決めた、それがエゴだろうと自分がそうしたいからだ。そこに相手の気持ちが介在する余地はない。自分がこうしたいからこうする、ただそれだけを考えて今ここに来た。
手を掲げた。ジンライと同じ姿をした者達に向けて。
「甕布都神!」
ヤタガラモンの前足から放たれるエネルギー波が地と空、上下より接近してくる竜を薙ぎ払う。瞬時に0と1の塊となって砕け散る彼らの姿を一瞥して更に八咫烏は竜帝に接近する。あれがジンライと同じ種族であれば成熟期である。どれだけ数が多かろうと完全体のイサハヤなら十分に対抗できるはずだ。
しかし問題は竜帝に取り付いたとして如何なる手段で煌羅を解放するか、であったが。
「……ハッ……!?」
「エクスプロードソニックランス!」
どれほどのコアドラモンを倒した頃だろうか。突如として飛来した巨大な影からイサハヤが身を捩って逃れ、飛鳥は危うく振り落とされそうになる。
すぐに体勢を立て直すイサハヤの背で、飛鳥は現れた新たな敵の視界を認める。気付けば地と空のコアドラモンは随分と数を減らしていた。だが自分達が倒したことで減ったのではない。エグザモンが召喚する個体が明確に減少しているのだ。数にして先程の三分の一以下といったところ。そしてその代わりに先と同様に地と空をそれぞれ統べるのは、完全体へと進化を果たした青と緑の竜。
「どうやら量より質を取ってきたと見える」
「……大丈夫なの?」
「大丈夫じゃなかったらどうする?」
「何とかして」
「……フ、上等!」
やることは変わらない。どちらにせよ今の自分にできることは何が立ち塞がろうと全てを振り払ってエグザモンに辿り着くことだ。
それに。
確信があるのだ。イサハヤはこんな奴らには負けない。向こうの世界に住む彼らもイサハヤと同じように喜び、怒り、悲しみ、そして笑って生きているはずなのだ。だから今こうして如何なる戦力差だろうと戦える、意思無きマシーンのように動く奴らに自分達が負けるはずがない。
甕布都神で上から迫るウイングドラモンを撃ち落とし。
羽黒で地のグラウンドラモンの視界を奪った上で爪の一撃を浴びせる。
「煌羅……!」
届かせる。もう少しで手が届く。
ただそれだけの思いを胸に、鮎川飛鳥とイサハヤは目の前の敵をひたすら薙ぎ払う。直撃させれば同じ完全体も十分に倒せる甕布都神で少しずつでも敵の数を減らしていく。
「がっ……!」
だがその時、突然真下からの衝撃が来てイサハヤが呻く。
不意打ちに近いそれによってヤタガラモンの背中から跳ねた飛鳥は、咄嗟にパートナーの背にしがみ付くも力を失ったイサハヤの体はゆっくりと落下していく。
あと少しなのに。あと少しでエグザモンまで手が届くのに。
「……アンタは……」
霧の底は果たして足で踏み締めることができた。
うつ伏せに叩き付けられたイサハヤの背から投げ出され、地面を転がった飛鳥は全身をビリビリと駆け抜ける痛みに顔を顰めながらも現れた敵の姿に目をやった。そこに音もなく佇むそれは、ウイングドラモンでもグラウンドラモンでもない。況してやジンライの如何なる進化形態にも属さない。
深き森を統べると呼ばれた昆虫族の王、故にその名を。
「タイラント……カブテリモン」
確か煌羅がそう言っていた。どう見てもカブトムシには見えなかったが。
「まさか一人で来るとはな。それは勇気ではなく蛮勇と呼ぶべきか」
エグザモンの前に立つ一人の男。それこそが最後に立ちはだかるべき敵であった。
「玉川なんたら……」
「白夜だ」
心外だとでも言うかのように鼻を鳴らす玉川白夜。
「完全体の身の上で我々を止めに来たのか」
「は? 我々?」
イラッと来た。
「……アンタと煌羅を勝手に括らないでよ」
「括るさ。私とエグザモンは言わばパートナー、運命共同体だからな」
挑発のつもりがあるのかないのか。
絶対的な優位に立つ男の顔は涼しげで、自らの敗北を疑いもしない。けれど実際、それは覆し様のない事実だ。ヤタガラモンではタイラントカブテリモンを倒すことはできない。
技を使う気すらないのか、その拳のみでタイラントカブテリモンがイサハヤを嬲る。飛行能力さえ奪えばその身は攻撃力も耐久力も特筆すべきものはない。究極体で完全体を甚振ることに、シャインオブビーもビーサイクロンも必要ない。
「あの小僧にも見捨てられたか。いや小僧の方が逃げたのか。この場にいるのは惨めな小娘ただ一人……つまり今日今ここが、間違いなくお前の死に場所ということ。まさかあの九条兵衛の娘がこの体たらくとは、天国でお父上も嘆いているだろうよ」
「うっさい……うっさいうっさいうっさい!」
自分を思ってくれた彼を、命を懸けて計画を阻んだ父を嘲る。
何も知らない癖に。
何も知らない癖に。
何も知らない癖に。
タイラントカブテリモンが既に虫の息のイサハヤを放り投げる。
全身の電子骨格(ワイヤーフレーム)を砕かれた肉体はもう飛ぶどころかまともに立ち上がることすら不可能。無様に仰向けに倒れてコポコポと嘴の間から奇妙な色の血を滴らせるイサハヤの姿はあまりにも惨めで、飛鳥に自分達の見通しが如何に甘かったかを悟らせるには十分だった。
「愚か」
だから敢えて最後まで嘲ろう。
「所詮お前はデジタルモンスターの価値を知らぬ小娘だったのだ」
そもそも一年半前に殺しておくべきだった。
「くだらぬ意地と正義感のみでモンスターを使役するなど凡小にも程がある。私ならそいつを上手く使ってやれたぞ小娘。娘を救うなどという綺麗事に付き合わせず、その飛行能力を己が役に立てられた。そうだ小娘、デジタルモンスターの力を私利私欲の為に使う方がまだ建設的なのだ。反吐が出るような戯れ言に付き合わせて敗死する、そんな愚行は見るに耐えん」
偉大なる力。デジタルモンスターを玉川白夜はそう捉えていた。
この世界に生きる如何なる生物をも凌駕する能力と生命力。それらを理解した上で自在に使役できることができれば、それは恐らく人類史において最大の発見となるだろう。人類の道具として、兵器として。
そしてだからこそ、その価値を理解しない小娘を憎悪する。
「ち、違う……イサハヤは、イサハヤは私の……!」
言葉が続かない。パートナーと言ってくれた。最後まで付き合うと言ってくれた。
それでも結果はこれだ。自分を信じてくれた彼を傷付けることが目的だったのか。自分は最後まで身の程知らずに彼を死に至らしめることしかできなかったのではないか。
「子供に付き合う義理はない。小娘、お前は先に逝け」
目の前に佇むタイラントカブテリモンの全身に熱が迸る。イサハヤには決して使わなかったシャインオブビー。あんなものを受ければ自分の体など骨も遺さず一瞬で溶解する。
「あっ……」
自分はここで死ぬのか? 何も果たせず、何も守れずに?
不思議と恐怖はない。だが心残りは数え切れないほどある。誘いを断ってしまった友人達や先に逝った桂木霧江や小金井将美の顔が浮かぶ。生まれてからずっと、自分の出自に劣等感を持ち続けた鮎川飛鳥の生は、最後まで何ら為せずに終わるのか。自分の思いも戦いも何も残さず消え失せる運命なのか。
違う。終わりたくなんてない。
だって見ていないのだ。全てアイツに任せてしまったから、全てアイツ頼りだったから、自分は一度としてあの子がどんな暮らしをしていたのかを知らない。あの子が暮らしの中でどんな風に笑って泣いて怒るのか、それを間近で見ていない。見られていない。
夢を見るのだ。あの子がアイツの左手と自分の右手を握って寂れた商店街を歩いて行く。その両側をポンデとイサハヤが並んで歩く、そんな今まで一度もなかった、けれどいつかは訪れて欲しい、そんな夢を。
「いや……煌羅……! 煌羅ぁ……っ!」
だから死にたくない。それでも動けない。ただ無力さに苛まれて。
「消えろ、小娘」
タイラントカブテリモンから灼熱の奔流が放たれた。
夢を見ていた。
この世界で温かな思いに囲まれて生きている時、いつだって自分の中には諦観があった。自分は純粋な人間ではないと、いつかそれを知られて拒絶される日が来るのではないかと。
荒廃した世界に未練はない。人と関わるのをやめたあの世界は荒れ果て、いずれ遠くない未来に滅亡の時を迎えるだろう。元々人間の影響がなければ存在し得なかった世界なのだ。それが人為的なものでなければ世界は自然の成り行きに任せるべきである以上、そこに聖騎士として介在する余地はない。
だから考えるのは自分を含めたあの世界で生まれ育った皆のことだ。
皆がこの世界に移住できるわけではない。人間は制御できない怪物としてのデジタルモンスターを恐れるだろう。またはその強大な力を利用しようとするだろう。今の自分が陥っている状況がまさにそれだった。かと言って世界と諸共に滅びていいかと聞かれれば、それもまた断じて否である。
世界とは人だからだ。人が生きる場所が即ち世界だと思うからだ。
あのデジヴァイスを四つ埋め込まれた時から、己の中に一つの意思が生まれ始めている。滅び行く世界の皆を救う為、罪無き命の生きる場所を築き上げる為、この人間の生きる世界を壊せと。この世界をデジタルモンスターの生きる世界にせよと。
お前はロイヤルナイツだろう? お前は皆を救うべく在る者だろう?
(違う……! 違う……っ!)
心ではそう思っていても抗えない。人かデジモンかと問われれば迷わず後者を取るようにエグザモンは作られている。
今のこの世界にも自分の大切なものはあるはずなのに。
人間にだって温かさを与えてくれる者はいるはずなのに。
「煌羅……っ! 煌羅ぁ……っ!」
聞こえる。自分を呼ぶ声が。
そのどこか苛つく女の声が誰のものか、よく思い出せなかった。
見た。海風の中ではためく黒い装束を。
見た。どこか遠い日の父に似た背中を。
「えっ……!?」
生きている。飛鳥自身も、後ろで倒れているイサハヤも。タイラントカブテリモンが放つシャインオブビーは間違いなく諸共に自分達を消し飛ばして然るべきだったはずなのに。
「貴様……!」
苛立ちの混ざった玉川白夜の声は、突如現れた乱入者に向けて。
見間違えるはずがない。飛鳥を庇うように立っているのは、前田快斗以外に有り得ない。その隣に並び立つのはローダーレオモンではなく、見たことのない黒い装束を纏った獅子であったが。
「快斗……! それに、ポンデなの……!?」
快斗もポンデも答えない。振り返ることすらしない。
違和感がある。その背中は間違いなく今ここに一緒に来て欲しかったアイツのものであるはずなのに、それでも求めていたアイツの姿とはどこか違っていた。
飛鳥の知る前田快斗は、もっと軽薄で陽気でお気楽な男だったはずなのに。
「グオオオオオオ!!」
吼える。その咆哮は快斗とポンデ双方から。
「え、快斗……?」
明らかに人ではない獣の叫び声。それは飛鳥の知る快斗ともポンデとも違う。それぞれが二本の足で大地を踏み締めると、獅子の全身から炎の如きエネルギーが吹き荒れる。実際の熱エネルギーとして放たれたそれが飛鳥の視界を灼熱に染め上げる。立っていられずヨロヨロと情けなく跪く形となった。
この光景をどこかで見たことがあった気がした。
この光景をもう二度と見たくなかった気がした。
「……行けよ」
「えっ……」
「先に行ってろよ、煌羅のとこに」
聞こえてきた声は以前と変わらない彼と変わらなかったが、それでも。
「ちょ、ちょっと待って快斗、アンタなんか変……」
「行けっつってんだ!!」
「……っ……!」
響く怒声にビクッと震えた。
間違いなく普段の彼とは何かが違うのに、それを聞くことさえさせてくれない。
その背中が告げている。これ以上詮索するなと。
「俺もコイツを片付けたら行く。……早く行け、煌羅のところに」
「う、うん」
ふらつく体を引き起こして彼に背を向けてエグザモンの方へ走る。
最後まで彼は、飛鳥に目を向けることすらなかった。
数秒だけ瞑目して目を開くと、目の前の男が嗤っていた。
「いい覚悟だ。やはり貴様はあの小娘よりはデジタルモンスターを正しく理解していると見える」
「……理解って何だよ」
全身が燃え上がるように熱い。
いや実際に燃えているのだ。前田快斗は今、内部から溶解を始めている。
ある程度の覚悟をしてこの場に来たつもりだった。だが今の自分の中の灼熱は思い描いていたより遥かに強烈だ。視界は己の炎に焼かれて赤銅色に染め上がり、今自分が見ているのが自分の瞳に映っているものなのか隣に立つポンデのそれなのかすら判別できない。
「人工体ではなく実際に出会ったモンスターに対しても加速神器は作用するのだな」
見抜かれている。右手に握った青き神器をグッと握り締めた。
「月影のものを貴様が持っている経緯は敢えて聞かんが、あの子猫の意思はもうそこな究極体にはあるまい。つまりお前にとって今、そのデジタルモンスターは完全な手足も同然、言い換えればお前はデジモンを支配したということ」
「最初から……その目的の為にこれを作ったんだな」
「無論だ。魔王を見ればわかるだろう、世界をも滅ぼせる強大な力だぞ。あれを我が物としたくない人間がどこにいると言う?」
視界が明滅する。立っているだけで眼球が爆発しそうだ。
なるほど、男の言う通りもうポンデは喋らない。明確な意思を示すこともない。そして今の快斗には自分がポンデと、バンチョーレオモンと一体化したような感覚さえある。意識を集中させればその手足を己のものであるかのように使うことができるだろう。
これが加速神器・正義の力。あの男もずっと、こんな感覚の中で生きてきたのか。
「いいデータが取れた。貴様の神器を回収して──」
「そりゃ無理だぜ」
「……何?」
「アンタは大きな勘違いをしている」
フゥと大きく息を吸った。
元より前田快斗の心と視界が燃えているのは神器の作用などではない。
(きっと今の俺は……醜い顔をしているんだろうな)
それをアイツには、飛鳥には見せられない。
手に握る加速神器を自分に託した男の姿が脳裏に過る。目の前の男に利用された月影銀河は恐らく自分と友人達の命が尽きると気付いた時からこの怒りの中で生きていた。視界に映る全てを焼き尽くして余りある憤怒、それを己が心力のみで制御してサーベルレオモンを使役し、光ヶ丘に現れたグランドラクモンとも戦った末に大切な人の尊厳だけは守り抜いた。
だが前田快斗は違う。この怒りを制御する必要はない。
「貴様、何を言っている」
何故なら目の前に玉川白夜が、その怒りをぶつけるべき相手がいるのだ。
「一つ。人間とデジモンの命を散々弄びやがったこと」
見据えるのは目の前の男と使役される深き森の王の姿のみ。
「一つ。俺の娘を晒し者にしやがったこと」
怒りと同時に歓喜が湧き上がる。それが自分のものなのかポンデの感情なのかも曖昧で。
「一つ。俺の女を泣かせたこと」
一瞬の瞑目の後に目を開いた。
躊躇う必要はない。ただバンチョーレオモン(おのれ)の力を振るうだけ。
「ジジイ。……テメーは殺す」
ただ、それだけ。
◇
・前田 快斗(まえだ かいと)
主人公その2。17歳(2000年12月31日時点)。
静岡県のある名士のドラ息子。明るくノリ良く馴れ馴れしい軽薄な男だが、1998年のクリスマスに飛鳥及び煌羅と出会ったことで運命が動き出す。口の軽さは天下一品ながら実際には軽口を叩きつつ冷静に物事を判断する気質を持っており、飛鳥とは正反対である。当初は飛鳥をハニーと呼んでいたがいつしか呼ばなくなっていた。
パートナーはバンチョーレオモン“ポンデ”。
・鮎川 飛鳥(あゆかわ あすか)
主人公その1。18歳(2000年12月31日時点)。
都内の平凡な女子高生。次期総理大臣とも言われた政治家・九条兵衛の隠し子。ナンパしてきた快斗と共に煌羅と出会い、疑似的な家族となることでデジタルモンスターを巡る戦いに巻き込まれていく。凡庸な自分に劣等感を抱えており、内面の空虚さを真っ直ぐさや直向きさで塗り固めている辺り、後の彼女自身の息子にそっくりな気質。
パートナーはヤタガラモン“イサハヤ”。
【後書き】
サヴァイブの公式HPに追加情報来て歓喜している夏P(ナッピー)です。
というわけで最終決戦です。もうちょいサクッと纏めたかったという無念がありますが、ここまで登場させられていなかったコアドラモン青側のルートを出せただけで割と満足。一方でタイラントカブテリモンは改めて描こうとすると、チートぞろいのアクセルデジモンの中では能力と設定が些か地味だ……ラスボスの使役するデジモンなのでこっそり色々盛れば良かったと少し後悔しています。
次回がひとまずの最終話、最後までお付き合いくださいませ。