◇
「……言い忘れてたんだけど、私さ」
冬空のお台場で隣の男に呟く。
「多分大学の推薦、貰えると思うんだ」
「そっか」
知らなかった。そう言いたげに空を振り仰いで一言。
「おめでとう」
「……ありがと」
交わす言葉はそれだけ。
普段の自分達──それがとても遠く感じる──ならきっともっと互いにふざけた掛け合いをするはずなのにそれがない。まだ半年程度しか経っていないが、死に物狂いで苦手な数学を頑張ったのも遠い昔のことのようだった。
ポンデとイサハヤの姿はない。あの光ヶ丘での戦いは世間ではどうしたわけか報じられることはなく、デジタルモンスターの存在も世間には知られていないらしかったが念の為だ。死人が確認されなかったのも幸いしたのだろう。団地からの火の不始末による大火災、そんな扱いで事態は収束しつつあった。とはいえ、そこで死んだ人間も行方不明となった人間も知っている二人からすれば、それらの報道は鼻で笑ってしまうぐらい白々しいものとしか思えなかった。
「アンタは?」
「うん?」
「アンタは高校卒業した後、どうするの?」
確か同学年だったと思うが、そこを聞いたことはなかった。
「決めてねーな。まだ一年以上あるしな」
「それはそうだけどね。でも一年って意外とあっという間よ?」
「そうだな」
会話が弾まない。去年から電話でも実際に会ってもずっとそうだった。
煌羅がいない。それだけでこんなにも自分達は空虚になる。考えてみれば当たり前のことだったが、それを認めてしまうとあの子がいなくなったことを否応にも突き付けられているようで互いに口に出せなかった。
いつか今までみたいに、そう思い続けてきたのに。
「……なあ」
かつてない前田快斗の真剣な顔。
この半年間、一度も晴れたことのない霧に包まれた東京湾が見える。きっとあの向こうに煌羅が眠っている。犠牲にしてきた人達の命に報いる為にも、あの玉川白夜の思い通りにさせない為にも、そして何より彼女を取り戻したいと願う自分の為にも、いつかあの霧の先へ行かなければならない。
そしてそれはきっと、目の前の男も同じだと思っていたのに。
「もう……無理だと思うぜ」
なのに彼は、そんなことを言ったのだ。
西暦2000年1月1日。
そんな会話から、彼らの20世紀最後の年は始まった。
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――FASE.8 「メロス」
惨めに涙を流して呟く飛鳥を視界の端に捉えながら。
『煌羅……』
快斗は空を覆い尽くす“娘”の姿を見上げた。
『この力があれば世界をこの手に収めたも同然だ!』
世迷い言を謳い上げる老人の言葉など耳に入らない。
知らない。そんなことは知らない。
ただ自分は、彼女達と面白おかしく過ごせればそれで良かったのに。
『さあ始まりだエグザモン。手始めに足下にいる蝿を、哀れな家族ごっこに興じてきた小僧どもを薙ぎ払ってやれ!』
動く。竜帝の首がゆっくりとこちらに向く。
炎の中に照り映えるエメラルドの瞳に意思はない。自分達より遙かに真面目で賢く理性的だった娘の輝きはない。きっと次の瞬間には口から放たれる炎か何かで自分達は骨も残さず消し飛ばされるだろう。目の前に在るのは視界を埋める巨大な竜、加速神器の力で玉川白夜に支配された強大な力そのものだった。
勝てない。そもそも煌羅と戦うことなんてできるわけがないのだ。
『……かつて、そうやって娘から目を背けた男を、私は知っている』
影が差す。誰かが跪いた自分の前に、竜帝から自分を庇うように立っている。
『日々の仕事とかつて掲げた夢、それらに忙殺されたと言うのは簡単だ。そしてそれが必ず娘の為にもなると信じてきた。だがそれは逃げでしかなかった……本当の意味で男は、娘と向き合ったことなど一度もなかったのだから』
『どこかで聞いたような話だな、お義父様』
『……貴様にお義父様と呼ばれる筋合いはない』
立つ。斯様な舞台にいるべき男ではないのに。
既にタイラントカブテリモンに全身を焼かれて死に体のはずなのに。
それどころかダークドラモンにDNAを与え続けたその肉体はとうに限界だろうに。
『だが──』
それでも九条兵衛は立つ。娘と、恐らくは娘が懇意にしている若僧を庇うかのように。
何故公にできなかったのかと思う。自分のどこかに引け目があったのだ。それでも娘を、生まれたばかりの飛鳥を見た日のことだけは今も覚えている。初めて全てにおいて優先すべきものを見つけた気がした。彼女が生きる世界を、新世紀のこの国を必ず豊かにしてみせると誓った。自らの命に代えても、娘を守ろうと心に決めたのだ。
ダークドラモンも立つ。意思はない。エグザモンと同じだ。加速神器で育てられた彼には元より心などない。
『ほう……最後まで抗いますか、叔父上』
それでも立ち上がるのをやめなかったのは、ダークドラモンの心である九条兵衛が決して屈しなかったからだ。
エグザモンの標的が変わる。いや変える必要などない。あまりにも巨大な竜帝なら敢えてターゲットを変更する必要もなくその場にいる全員を薙ぎ払える。だからそれは僅かな逡巡に他ならない、二組の男女と成長期、彼らのついでで倒せるほど九条兵衛とダークドラモンは甘くないと認識したからだ。
『──………ぞ』
声を聞き、快斗は顔を上げた。
僅かに振り返った男の最後の目は娘ではなく。
他でもない前田快斗に向けられていたから。
『突風<ブラスト>!!』
右の掌に押し当てられ、加速神器・暗黒が光を放つ。
輝いているのは神器だけではない、そして神器が吸うのは生命力だけではない。男の存在そのものすら吸引して輝きを放つ神器を通じて、九条兵衛の心と体がダークドラモンへ注がれていく。焼け焦げた全身が見る見る内に治癒していき、死にかけた体にも力が戻る。
『お父様……!? なんで……!』
父は最後まで娘を見なかった。きっとそれが男の矜持だったのだ。
『まさか……九条兵衛ともあろう御方が、小僧と小娘の為に命を投げ打つとは』
僅かながらも玉川白夜もまた初めての困惑を見せる。
『グオオオオオオオ!!』
初めての咆哮を上げるダークドラモン。
それはまるで。
心を得た歓喜の叫びのように、人の世に生まれ落ちた赤ん坊のように。
春が来て高校三年生になった。
「およ、同じクラスは飛鳥だけかぁ~」
「いや仁子、去年から変わんないでしょ選択科目的に」
始業式の教室で陽気にピョコピョコ走ってきた友人に飛鳥は顔を顰める。
いよいよ受験生である。正直言って、まだ進路など全く定まっていない飛鳥だが、どうも春休みが終わって顔を合わせたクラスメイト達の顔は知らない間に随分と引き締まっているように見え、改めて自分達もその学年になったのだと実感するのだが、その一方で目の前の友人は全く変わらない。
前の席に勝手に座るとそのまま飛鳥の机に肘を乗せてくる。
「今年も宜しくだねー」
「……そうね」
悩みなどなさそうな彼女の姿を見るとホッとする。
「仁子は新しい彼氏とどうなのよ、最近」
だから自然、そんなことを聞いてしまっていた。
「普通にラブラブだけど……珍しいね、飛鳥がそんなこと聞くの」
「そうかしら」
不思議そうに首を傾げる仁子から窓の外へ目を向けた。曇り空の下、朝練を終えて戻ってくる運動部の姿が見える。
「う~ん、ウチが言うのはズルいのかもしれないけど」
仁子はその飛鳥の視線を追うように校庭に目をやりつつ。
「何がズルいのよ」
「カイちゃんとさ、何かあった?」
「……え?」
そんな言葉だけで飛鳥の呼吸を止めていた。
思わず擦った右の手の甲がじんわりと痛んだ。もう三ヶ月が経つが、あの時の痛みは未だに飛鳥の中で消えることはない。初めて人を自分から殴ったし、それ以来一度も口を利いていない。きっと自分達はこのまま終わるのだろうとぼんやり思い続けていた。
「前田のカイちゃん。……何かあった?」
そしてそんな飛鳥の心を見透かしたように、親友の一人は顔を覗き込んでくるのだ。
「ど、どうしてアイツの名前まで知ってるのアンタ……!」
「あれ? ……言ってなかったかな」
毎日を楽しそうに生きているニコニコとした満面の笑みで仁子は続ける。
「あの女好き、実はウチの従兄弟なの」
「……は?」
「ついでに言っとくと。……快ちゃんと飛鳥が泊まった家、あの馬鹿は多分バアちゃんの家とか言ったと思うけど、実はウチの家なんだよね」
「……はぁ?」
「つまりですよ、つまり。飛鳥は最初から私の掌の中で踊らされていたのだぁ~!」
「ハァ――――――!!」
教室中に自分の絶叫が木霊して思わず口を押さえた。
「じゃ、じゃあアイツが煌羅を預けてきたのって」
「ウチだよ……その節はごめんね。私がちゃんと煌羅ちゃんのこと見てれば」
「……仁子の所為じゃない」
詰りたい気持ちがないと言ったら嘘になる。それでも誰かを悪いと言えば終わる問題でもない。それに何よりも飛鳥にとって、それはまだ終わった問題ではない。
煌羅のことを、諦められない。
あの子は絶対私が助けるんだって、そう思っている自分がいる。
だからきっと自分よりも遙かに冷静に事態を見た上で、諦めようと提案してきたアイツの言葉が受け入れられなかった。だってアイツは自分よりもっと馬鹿だと思っていたからだ。愚直なまでに真っ直ぐで無鉄砲で向こう見ずで、どんな犠牲を払ってでも煌羅を助けるって言うと信じていたからだ。
その彼がどこか冷静に、冷徹にさえ思える声でもうやめようと言ったのが嫌だった。
言わせてしまうぐらい弱かった自分のことが嫌だった。
自分がアイツに当てにされていないと気付いてしまったのが嫌だった。
だから思わず殴ってしまった。それでもアイツは表情を変えず、結局残ったのは自分の中の後悔だけ。
「カイちゃんはさ」
だって彼は、これ以上関われば飛鳥すら危ないとそう言ったのだ。
「馬鹿で女好きで軽薄だけど、いい奴だよ?」
「……知ってるわ」
わかっている。悔しいぐらいにわかっている。
自分達が煌羅を助ける為の行動を起こすにしても、実際に戦うのはイサハヤとポンデだ。彼らに体を張ってもらってこそ自分達はここまで来れた。その上で勝ち目のない戦いに挑むことは、自分達の我が儘で彼らの命を危険に晒すことに他ならない。
端から見れば多分、自分よりアイツの方が正しいのだ。
「それにアイツ……」
「え?」
「私よりずっと、ずーっと……大人だったんだなって」
だから快斗が躊躇ったのも当然だろう。煌羅とポンデ、どっちが大切かなんて優先順位を付けられないからこそ、彼は己の意思でポンデを死地に向かわせることができない。ポンデとイサハヤの、更には他ならぬ飛鳥のことも大事に思えばこそ、彼は見るに堪えない表情で煌羅を諦めようと言ったのだ。
ああ、大人だ。軽挙妄動そのもののはずの前田快斗は、自分などよりずっと大人だった。
鮎川飛鳥だけがそれを認められない子供だ。叶わぬ意地を張り続けている。
それでも、それでもだ。鮎川飛鳥はきっと彼にだけは、高嶺煌羅という“娘”を共有した前田快斗にだけは、そんな子供のままの背中を押してもらいたかったのだ。そうしてもらいたかった父はもうこの世にはいないから、だからせめて彼にだけは青臭さを捨てられない自分自身を認めて欲しかったのだ。
あの子を傷付けた自分だからこそ、もう迷うことはしたくない。
たとえ誰に空虚だ夢想だと嗤われても、最後まで走り続けると決めた。
「よーし転校生紹介するぞー」
「不知火士朗です。宜しくお願いします」
ホームルームが始まっているが耳にも入ってこない。
「席は……鮎川の隣なー」
「よろしく」
「……ん」
この時期に転校生とは珍しいが、特に気にしなかった。顔を上げないまま会釈だけする。
考えるのはいつだって、東京湾に佇んでいるだろう彼女のこと。アイツが諦めるなら仕方ない、それを責めることなんてできない。だから自分とイサハヤだけで何とかする。あの時に味わったエグザモンの力を思い出すと、自分達だけであの聖騎士をどうにかする具体的な方策はまるで浮かばないが、それでも何とかするのだ。
だって自分はどうしても、あの子のことを諦められないから。
だって自分はもう少しだけ、あの子の母親をやっていたいから。
「煌羅……」
期限である12月31日まで、残り八ヶ月。
『ダークロアー!』
まるで舞踏のように宙を舞うダークドラモンが、全身から黒き暗黒の闘気弾を放つ。
それはエグザモンの体に当たると小さな爆発こそ起こすが、目立ったダメージを与えられているとは言い難い。何しろ体格の差を考えれば、人と大して大きさの変わらぬダークドラモンはエグザモンから見れば人間と同様に小蠅も同然だった。蝿に集られたところで鬱陶しさを覚えこそすれ、倒される道理はない。
だから気付けば白夜は落ち着きを取り戻している。
『滑稽とは思わんかね御令嬢。かつてこの国のトップとも謳われたあの男が、デジタルモンスター如きに文字通り心を売り渡し、ただの羽虫と成り果てている』
『お、お父様の悪口は……』
『言ったらどうだというのかね。君達のモンスターにもう余力はない』
男の横に浮遊するタイラントカブテリモン。成長期のポンデとイサハヤにはどうすることもできない。
あまりにも無力であった。目の前で娘がいいように操られているというのに、その両親を自負した二人は今この場で明確な弱者であり、満足に己の身を守ることすらできないのだ。
『……連れの小僧も、それを理解しているようだぞ』
その言葉に飛鳥が振り返る。すぐ隣で立っている快斗は、まるで呆けたように空を見上げている。
『アンタ……!?』
その手に握られるのは父が遺した加速神器。既に消灯したそれを手に放心状態で見上げる前田快斗の視界には、エグザモンを相手にただ奮闘するダークドラモンの姿だけがある。
『なんで……だよ』
『え?』
ふと快斗の口から漏れた言葉を飛鳥は聞き逃してしまう。
瞬間、まるで虫を払うように振るわれたエグザモンの腕がダークドラモンの小さな体を吹き飛ばす。数百倍の体格差を以って拳の一撃を叩き込まれたダークドラモンは、廃墟と化した幾つもの団地をぶち抜いてようやく止まった。
『終わりのようだな。僅かばかりの時間稼ぎ、それが政治家、九条兵衛が燃やし尽くした命の価値だったというわけか』
侮蔑の言葉を許せないと思うのに何もできない自分が恨めしい。
ダークドラモンがすぐに残骸の中から飛び立ち、エグザモンの正面に再び滞空する様が見えたが、治癒したばかりの全身はまたもひび割れており、今一度同じ攻撃を受ければ恐らく肉体ごと四散するだろうことは想像に難くない。
『グオオオオオオオ!!』
だからこれが最後の攻撃。飛鳥の目にはそう見えた。
刹那である。咆哮しながら自らの腕に備えた槍に全エネルギーを集中させんとするダークドラモンが一瞬だけ、こちらに目を向けた。飛鳥にはその意味がわからなかった。そして今この場では敵である玉川白夜にすらその視線を理解できない。
だから意図がわかるのは一人だけだ。
『……見んなよ』
目を逸らしたくとも逸らせない。呻くように呟くしかできない前田快斗だけだった。
逃げ続けたと言っていた。本当の意味で一度も向き合ったことがなかったと言っていた。そしてエグザモンを前にして立ち竦む快斗もまた、自分と同じように娘を正面から見れない情けない男だと言っていた。
違うと否定できなかった。そう言い切れる自信がなかった。
だって自分は単なる田舎の高校生なのだ。アンタのように大層な大人じゃない、アンタの娘のように大層な大人を親に持つわけでもない。自分はただ、アンタの娘と煌羅とポンデとイサハヤと皆で面白おかしく暮らせればいいだけだったのに、気付いたらこんな生きるか死ぬかの戦いの中にいる。
それは逃げなのか。それは煌羅を本当の意味で見ていなかったということなのか。
『ギガスティックランス!』
鬨と共に竜帝の額に突撃するダークドラモン。
その姿を見上げながらも、快斗は。
『……頼むぞ』
最後に聞こえた、他ならぬ自分に向けられた、九条兵衛の遺言だけを思い返していた。
『……何をだよ……っ!』
故郷とは違う濁った夜空は、幾百の夜を越そうと慣れない。
「……星は、見えないな」
光が丘公園の中でイサハヤは呟いた。
既に自分達が人間界に迷い込んでから一年半が経過していた。ちょうど三ヶ月前より快斗やポンデと会う機会は激減し、専ら会話の相手は二日に一度のペースで公園を訪れる飛鳥のみだ。自分達の力不足が彼らから“娘”を奪い、互いに疎遠にさせてしまったという後悔だけがある。
飛鳥をパートナーと言った自分の至らなさが、今彼女を追い込んでいる。
「だが、このままでは……」
勝てない。このままではエグザモンどころかタイラントカブテリモンすら倒せない。
ポンデも自分も快斗や飛鳥と共に戦う中で完全体まで到達した。だが次々と現れる究極体の力を前に幾度となく自分達の力不足を痛感させられている。あの日ベルフェモンを前に動くことができれば、あの時タイラントカブテリモンを倒せるだけの力があれば、今こんなことにはなっていなかったはずなのだ。
究極体への進化。それは誰しもが到達し得る高みではない。
それでも今、自分に必要なのはそれしかないと理解していた。
「……力が欲しいのか」
「誰だ!?」
飛鳥ではない声に振り向く。夜の鬱蒼とした木々の中、それは立っていた。
「お前は──」
赤銅に彩られた聖鎧を纏う四つ足の聖騎士。
スレイプモン。イサハヤも伝聞でしか知らない、最強と謳われたロイヤルナイツの一員。
「何故、人間界に……」
「若き子よ。……力が欲しいのか」
事を構える気はない。聖騎士は両手を広げて誘う。
この世界で今まで数多の究極体と向き合ってきたが、この聖騎士は違うとイサハヤは直感した。あの加速神器で育てられた者達と違い、スレイプモンは明確な意思を以って今この場に立っているのだから。
「……欲しい。私達に力があれば、あの時飛鳥達にあんな思いをさせることはなかった」
迷いはない。それはこの半年間ずっと考えていたことだから。
「ならば」
聖騎士が笑う。その答えに満足した。そう言いたげな笑みだった。
「これを持って行け」
聖鎧から光が放たれ、それがイサハヤの手元まで浮遊してくる。思わずそれに伸ばしたイサハヤの手に収まったのは、清爽な紅に彩られた加速神器だった。
「これは……」
「我にはもう必要のないもの故な」
スレイプモンは夜空を見上げる。相変わらず星一つない濁った空。
まるで今どこかで同じ空を見上げている誰かのことを思い出すかのように。
「何故ロイヤルナイツが、これを持っているんだ……?」
「我らも元は、人と在ったということ。人と共に生まれたということ」
そして幾度かの転生を果たした後にスレイプモンは、クダモンは人のDNAを与えられてこの姿に辿り着いた。人との関わり無しでは存続し得ない世界がいずれ滅びるだろうと知り、敢えて人間の研究に利用されることでロイヤルナイツとしての姿を取り戻した自分は最低の外道だろう。その為に純粋な男一人の生命を吸い尽くしたのだ。いつか冥府に落とされるだろう覚悟もある。
それでも敢えて今ここで若き者に託すのだ。迷い続けた“彼女”にも救いが必要なはずだから。
「エグザモンも、そう在るべきだと我は思う」
「何……?」
「だから救ってやってくれ。我らの友を……お前達の娘を」
竜帝の額に、ダークドラモンの槍が突き刺さっている。
『何を……!?』
白夜の戸惑いの声。
エグザモンが動かない。竜帝にとって蚊に刺されるにも等しいだろうその一撃でダメージを受けるなど有り得ないにも関わらず、光ヶ丘の上空で竜帝が制止していた。
加速神器による制御も受け付けず、力を失った聖騎士がゆっくりと落ちてくる。夜空を覆わんばかりのその巨体は、やがて轟音と共に光ヶ丘の地に沈んだ。周囲の瓦礫が噴き上がり思わず目を塞いだ快斗と飛鳥の視界を覆った。
『っ……!』
慌てて二人はポンデとイサハヤをそれぞれ抱き上げて距離を取る。
砂煙が晴れた時、竜帝はその動きを完全に止めていた。死んだわけではない。両の瞳は開かれたまま、ただ肉体の時間そのものを制止させられたかのように硬直している。
エグザモンの額に自らの肉体を槍として突き刺さったダークドラモンは、最早この世の者ではなかった。自らの命を燃やし尽くした彼の竜人は、まるで石化したかのように灰褐色に染まってそこに在る。九条兵衛の心を受け継いだ究極体は、今ここで役目を終えたかのようにその命を散らしたのだ。
『なるほど……流石は叔父上、ただでは死なんというわけだ』
得心した白夜がクククと乾いた笑いを漏らす。
石化した竜人の右腕に備わった槍からダークマター、進化の過程でダークドラモンが持つ高濃度のウイルス成分が竜帝に打ち込まれている。データ種のエグザモンを完全に停止させ得るそれは、確かにダークドラモンが己の全生命力を懸けなければ成し得ない所業だっただろう。
『一年……いや、一年半といったところか』
瞬時に玉川白夜はそう試算する。言わば竜帝は冬眠状態、覚醒にはそれだけの時間が要ると見た。皆が恐怖の大王を恐れる1999年7月にエグザモンで世界を滅ぼしてこそ意味はあったのだが仕方あるまい。
九条兵衛は繋いだのである。娘とすら向き合えなかった男が、その命を次の誰かに未来を託す為に使ったのだ。
『煌羅は……どうなったの!?』
そんな男の実の娘がファルコモンを胸に抱いて駆けてくる。
実に愚かな娘だと思う。父が掲げた崇高な理想を否定し、白夜の計画も否定し、果てには“娘”すら否定したというのに、まだ事態に絡もうとしてくる。その青臭さは曲がりなりにも偉大であった九条兵衛とは似ても似つかない凡庸そのもの。感情任せに行動する未熟なガキでしかない。
鮎川飛鳥はあの異世界の価値を知らない。自分が抱くパートナーの価値すら知らない。
『……お前の父上はご立派だったな』
兵衛が散った以上、最早取り繕う必要もない。叔父であり恩人でもある男の娘と、玉川白夜は“敵”として対峙する。
『九条兵衛はその命を賭してエグザモンを封じた。およそ一年強で覚醒する僅かばかりの封印だが、それでも今この場でお前を……お前達を守る為にダークドラモンと一体化し、自らの命を犠牲としたのだ』
『お父……様』
へたり込む娘。何度も見せられた、この娘の弱さにも芯のなさにも反吐が出る。
『だが今、お前達に私が倒せるか? 守られたお前達の命に価値はあるのか?』
絶対的な差を突き付ける。エグザモンが封じられたところでタイラントカブテリモンを倒す術は彼らにはない。
だから無様に足掻いてみせろと挑発する。あの九条兵衛が守った命に価値などないのだと証明する為に彼らの命を奪う、それで今宵は完結だ。デジタルモンスターを知る者は全て死に絶え、自分とタイラントカブテリモン、そしてエグザモンだけが残る。いずれエグザモンが覚醒した時に今度こそ世界の全てを──
『……何だ、その目は』
娘ではない。その後ろに立つ男だ。
間違いなく恐怖ではない。だがぼんやりと休眠状態の竜帝に向けられた瞳に如何なる感情が乗っているのか白夜には理解できなかった。レオルモンを片腕に抱えたあまりにも無力で場違いな身の程知らずの田舎者の小僧、それが九条兵衛の遺した加速神器を手に呆けた顔でエグザモンの姿を見据えていた。
畏怖だろう、そう取った。この小僧は強大な力を前に敬服すらしているのだ。
『なるほど、気が変わった』
面白いと思った。少なくとも隣の無知な娘よりはデジタルモンスターの価値を正しく理解していると、そう思えた。
両手を掲げると竜帝の体が光り輝き、やがて白夜の手元に収まった。アノニマスとコアドラモン、それぞれの肉体を分割して封印した四つの加速神器の姿を成す。正義と暗黒、自然と究極、四つの属性は元よりエグザモンを完全に使役する為に在った。
『煌羅……!』
『お前達の娘はこの中だ。……いずれにせよ、一年半は目を覚まさん。お前の父上のおかげで少々計画に狂いが生じた。しばらくは海……そうだな、東京湾にでも眠らせておこう』
敢えて言い置く。愚かな娘はそう言えば必ず引けなくなると知っている。
『今世紀最後の年だ。大晦日、今世紀最後の日に私は竜帝を復活させる』
だから。小僧を見た。彼は未だにエグザモンの存在した空間に目を向けていた。
『お前達も来るといい。そして見届けるのだ……自分達の娘によって世界が滅びる様、その始まりの時をな』
東京湾に濃霧が発生していると聞いたのは、去年の秋頃からだった。
船の航行に問題があるというニュースは聞いていない。だから飛鳥はすぐにそれがあの男の言う通り、エグザモンが眠らされているのだと直感した。霧江とムゲンドラモンが現れた時も周囲が霧に覆われたことを思えば、あの竜帝の存在を隠すとなれば相当の濃霧(デジタルフィールド)が必要になることは間違いない。
いても立ってもいられず、イサハヤと共に飛び出した。
ヤタガラモンの背に乗って空を行き、あっという間にお台場を超えて東京湾上空まで到着する。ニュースの通り、肉眼でハッキリ認識できるほどの濃霧が発生しているのがわかる。そのまま霧の中へと突っ込むと、そこには時が止まったかのように制止している巨大な聖騎士の姿があった。
エグザモン。そして額に突き刺さったままのダークドラモン。
どうすることもできなかった。今のイサハヤの力ではダークドラモンを引き抜くことなどできないし、それにより封印が解けてしまったらエグザモンを止めることは不可能だ。それでも何か手はないかと考え、飛鳥は静岡に戻って以来連絡を取っていなかった快斗に電話をかけた。
そこからだった。自分と彼の間に何か温度差があると感じ始めたのは。
「……はぁ」
ダメだ。これ以上考えるとまた頭の中で彼の悪口を言うだけで時間が潰れる。
2000年7月。ちょうど一年前に自分達は煌羅を守れなかった。その彼女は今も濃霧の向こうで動くことなく静かに佇んでいる。それを自分はお台場から見つめることしかできないのだ。
それでも。
鮎川飛鳥は自分とイサハヤだけで何とかすると決めた。だからもう頼れない男の悪口を言っている暇などない。
父が行方不明になったことは少しの間だけワイドショーでも話題になった。けれどそれだけですぐに風化し、母も特に触れてこなかった。桂木霧江も小金井将美も死んだ今、最も親しい大人といえば母なのだが、飛鳥の方も母に相談することはしなかった。
「しかしあの霧、マジで凄いよねー」
「ホントだわ、いつ晴れるんだか」
「でも特に何もないって聞いたけど」
成美、仁子、美々。友人達とジョイポリスに行った帰り道である。
マクドナルドでそれぞれポテトを摘まんでいたが、海に近いお台場ということもあって飛鳥の心は上の空であった。
「そういえばさ、不知火君って絶対飛鳥のこと好きだよねー」
「は?」
転校生の話題が出て飛鳥は思わず顔を上げた。
「あ、それわかるわ。なんかやたらアンタのこと気にしてるっていうかさ」
「そうなの?」
不知火士朗。一学期の頭に編入してきた転校生だった。穏やかな見た目と理知的な性格を持つ男で、隣の席になったこともあって飛鳥は休み時間なども含めてよく話すが、別にそれだけである。それ以上の印象はなかった。
「女子の間ではすっかり話題なんだけど飛鳥は鈍いからなー」
「そうなんだ……じゃあ試しに付き合ってみようかな」
適当にそう答えておく。心にもないことを言ったが、正面に座る仁子が少しだけ顔を曇らせたのを見て飛鳥は自分の言葉を恥じた。
「それは光栄だね」
突然、後ろから涼やかな声が聞こえてヒャッと変な声が出た。
「うおっ! 噂をすれば不知火君じゃん!」
美々の声で振り返ると、そこにはシニカルな笑みを浮かべた長身の男の声。
「失礼。学友の声が聞こえたと思ってね」
「え、なんで? ここお台場だよ?」
「こう見えて僕は海を見るのが好きなんだよ」
爽やかに笑う。改めて見てもいい男だと思う。
「我々は邪魔なようなので」
「消えるとしようかね諸君!」
「あ、ちょっと飛鳥……」
そそくさと荷物を纏めて消える三人。何かを言いたそうだった仁子も美々に引きずられていった。
「彼女らは随分と愉快な人達だね」
「……そうね」
それには同意する。黒々とした不知火士朗の目を見ていられず顔を逸らしながら。
「少し歩かないかな、鮎川さん」
断る理由はなかったが、何か後ろ髪を引かれるものがあった。
多分それは仁子が最後に見せた不安そうな顔の所為だ。カイちゃんはいい奴だよってハッキリ言ってくれた仁子の所為だ。別に相手は単なる同級生だというのに、ああも心配そうな顔を見せられたら罪悪感を覚えてしまう。
それを振り切った。アイツと私はもう、会うことはないんだって。
「いいわ。歩きましょ、私も海沿い歩くの好きなんだ」
海浜公園を二人で並んで歩く。潮風が吹き付けて肌がヒリヒリした。
「さっき聞いてしまったのだけれど」
「うん?」
「鮎川さんは好きな男子とかいないのかい?」
随分とストレートな物言いである。もう少し優柔不断な男だと思ったのだが。
「……別に」
「そうかい」
それだけだ。一気に来るかと身構えていたので少し拍子抜けした。
そういえば。アイツと会う時はいつもポンデやイサハヤ、そして煌羅がいたから二人きりで会ったことは殆ど無かったんだなと思う。というより、唯一二人で来たのが半年前のこのお台場だった。それきり、アイツとは一度も会っていないし、電話で話してもいない。
何と呼べばいいかわからない自分達の関係は、そうやって終わったのだ。
「東京の海はまた違った風が吹くものだね」
「そういえば不知火君、編入前は……」
「静岡だよ、生まれも育ちも」
「静岡……」
チクリとした。偶然だろうが、忘れようとした自分を責められた気がした。
海の方を見る。視界の端に映る霧はまるで来る者を拒むようにただそこに存在する。先程友人達が言っていたように、そこは常人の目には何もない。理屈はわからないが、デジタルモンスターを知る者のみがその中に君臨するあれを認識できる。つまり今この時において、あそこで眠る煌羅の存在を知っているのは玉川白夜と前田快斗、そして鮎川飛鳥だけ。
決意は変わらない。私がやるのだ、他でもない私達が煌羅を助けるのだ。
「鮎川さんはあの霧に心当たりがあるのかな」
「ど、どうして?」
「授業中も眺めているだろう、あれはこっちの方角だ」
不知火士朗は自分のことをチラチラ見ている。そう聞いたがそれは本当だったのかもしれないと思った。
そして飛鳥自身に自覚はない。確かに授業中に窓の外を眺めてはいるが、それは単にぼんやりと視線を向けているだけだったし、窓の外がお台場の方角だったというのも言われて初めて気付いたぐらいだ。
それでもなんとなく微笑んだ。
「……素敵ね」
そう思えたからだ。無意識に煌羅のことを考えている自分がいると理解できる。今度こそ間違えない、今度こそ傷付けないと決意を新たにできる。
士朗は思わぬ答えに目を丸くしていたが、やがて彼も破顔した。
「いい笑顔だ。鮎川さんは、とても可愛らしい」
誠実な表情はきっとアイツにはないもので。
「初めて君の隣の席になった時から気になっていたんだけどね」
理知的で穏やかな性格はアイツと違ってとても大人だと感じさせるし。
「僕と付き合ってもらえないかな」
きっと話していれば互いに笑顔で過ごせるのかもしれない。
「ごめんなさい」
それでも。
一瞬でも迷うことはなかった。
「理由、聞いてもいいかな」
「好きな男子(だんし)はいないけど、大切な男子(ヤツ)はいるんだ……私」
わざわざ答える必要など無いのに、それでも言わなければならないと思った。不知火士朗に対してではない。きっと自分自身に言い聞かせるように、その言葉は鮎川飛鳥に鮎川飛鳥が言わなければならない言葉だったのだと思う。
霧を見る。来たる年末、必ずあの子を助けると誓いながら。
「もうアイツは忘れてるかもしれないけど、私は絶対アイツと……あの子ともう一度、三人で一緒に──」
空に手を伸ばす。
あの時とは違う。
晴れ渡る快晴の空は今の自分の心のよう。
「……ふふ」
何故か士朗の笑い声が聞こえた。
彼の視線が飛鳥のデニムに括り付けられたキーチェーン、加速神器・自然に向けられていることに、その時の飛鳥は気付かなかった。
煌羅(アイツ)を守ってみせると誓った。
飛鳥(アイツ)を笑わせてやると言った。
(何が……だよ……!)
それなのに、今夜の自分はどこまでも己の無力さを噛み締めるばかりだった。
自分はアニメの主人公のようにはなれなかった。彼らは自らの心の成長と共にパートナーを進化させ、強敵にも敢然と立ち向かっていくというのに、自分はポンデが完全体に進化を果たしたところで何も為せず、ただ煌羅が敵の手に落ちるのを見ていることしかできなかったのだ。
『なんか消防車が来る! 早く離れましょ!』
気力を取り戻した彼女に手を引かれて瓦礫の街を行く。
ふらふらと飛鳥に先導されるがままの自分が情けなくて堪らないのにどうすることもできないでいる。ポンデとイサハヤも何とか歩けるぐらいには回復して自分達のすぐ後ろをついてくる。
今この場で情けないのは、自分だけだった。
『……頼むぞ』
そう言った男の背中が忘れられない。
我が国のトップとでも呼ぶべき男が、鮎川飛鳥の父だったはずの男が、死を賭して最後の戦いに赴く時に言葉をかけたのが愛するべき実の娘ではなく、何故どこの馬の骨とも知れぬ自分だったのか。
確かに快斗は言った。飛鳥を笑わせてやると。
でもそんなものは売り言葉に買い言葉でしかない。誰かの人生を背負えるほど今の自分は大した奴ではないし、その責任を取れるはずもない。
それなのにあの男は、九条兵衛(ちち)は、他でもない前田快斗に頼むと言ったのだ。
娘のこと。利用されたデジモン達のこと。そしてこの国の行き先のこと。
己の命を僅かばかりの時間稼ぎに燃やし尽くし、前田快斗に全てを託したのだ。
(なんで、俺なんだよ……!)
そんなもの、背負えない。誰よりも軽薄に生きてきた自分が背負える重さじゃない。
煌羅のことも共にこの半年間過ごしたのは一緒にいて楽しいからという理由でしかなく、責任というものからは無意識の内に逃げてきた。それなのに気付いたら大事に巻き込まれ、引くに引けなくなった果てに背負い切れないものを託された。
逃げ出したい。何もかもを捨てて、忘れて、以前のように不真面目に生きていたい。
『煌羅……必ず助けに行くから……ッ!』
なのに前を行く彼女が呻くように漏らした単語が、逃がしてくれない。
高嶺の花だと、煌めく修羅だと、二人で案を出し合って与えた名前。ああ彼女は本当に高嶺の花だったのだ。自分達の手に届く存在ではなかったのだと改めて思うのに、最初から関わるべきではなかったと思ってしまうのに。
それでも。
ベルフェモンを前に一人立ち向かった煌羅が。
加速神器の光に貫かれて叩き付けられた煌羅が。
ただ悪党の思惑に利用させられて竜帝と化した煌羅が。
曲がりなりにも父として一年弱過ごしてきた煌羅が。
前田快斗は忘れられない。
『うっ……!』
段差によろめいて派手に転倒した。
『ちょ、アンタ……!』
口の中に血の味がする。視界が歪むのは無力さからなのか痛みからなのかわからない。
煌羅を助けたい。そう思う気持ちはきっと飛鳥にも負けていないはずなのに、その気力を奮い立てることがどうしてもできない。この数刻の中で味わった数多の無力感は、地元の狭いコミュニティの中で培ってきた自分の万能感を粉々に打ち砕いた。女の前で無様に泣いている自分が、どこか遠く感じられた。
飛鳥が殆ど抱き締めるような形で引き起こしてくれる。
『しっかりなさいよ! 私達が煌羅を助けるんでしょ、快斗!!』
みっともなく泣く男を、彼女は笑わない。
抱き締めながら赤子をあやすように背中を叩いてくれる彼女は、涙の跡こそ残るもののもう泣いていなかった。先程までの恐怖と後悔に震える姿は既になく、ただ出会った時の彼女のままで鮎川飛鳥は快斗の目の前にいる。他でもない初めて自分の名前を呼んでくれた女が今腕の中にいる。
だがそんな彼女も死ぬ。煌羅を追い続ければ間違いなく死ぬ。
それを知りながらエグザモンに立ち向かうべきなのか。
兵衛に託された者として煌羅を諦めてでも止めるべきなのか。
その答えが、快斗にはわからなかった。
海を眺めていた。
故郷の海に風情など感じない。だって生まれた時から17年見てきたのだ。
「ポンデか」
埠頭のテトラポッドから顔を出した子猫に目をやる。
見る限り他には数人の釣り人しかいない。喋る子猫程度、誰も気にしないだろう。
「……快斗は、どうしたいんだ?」
「わかんねー」
正直に答えた。今年の初めに張られた頬が今も痛む。
きっと痛んでいるのは心の方だ。必ず笑顔にすると約束した彼女を、事もあろうに自分が泣かせてしまった。あの義父に託されたはずの鮎川飛鳥を、もう止めることはできないと快斗自身が理解してしまったから。
「俺は快斗に従うよ」
「それってズルくねーか?」
埠頭に胡座を掻いて座る。ポンデはそんな快斗の足の上に乗ってニシシと笑った。
「俺は快斗のパートナーだからな」
「デジヴァイスもないのにか?」
「道具が無い代わりに俺達、もう一年半も一緒にいるだろ?」
なるほど、ものは言い様であった。
確かに共に過ごしてきた時間は何にも代え難い。それはポンデだけでなく煌羅も、そして今も東京で頑張っているはずの彼女だってそうなのだ。
「俺個人としては、また煌羅と一緒に遊びたいよ」
「……最初からそう言えってんだ」
「ごめん。……俺がもっと強ければ良かったんだけど」
「別にお前の所為じゃねーよ」
「………………」
「………………」
黙ってしばらく海を眺めている。
さざ波の音だけが耳に届く。
「俺さ」
ポツリと。
「どんなに適当に生きていても、いつか気付いたら俺は立派な大人になっていて、今の俺のダメだったところは全部取っ払われるもんだと思ってたんだよ」
誰に言うでもなく、自分の弱さを呟いていた。
「煌羅のことも、アイツのことも、きっと立派になった俺が何とかしてくれるってな」
ポンデは何も言わない。自分の膝の上で黙って聞いている。
「でも……もう逃げられないんだな」
タイムリミットは今年の大晦日。自分達を嘲り笑ったあの男が、自らの約束を違えるとは思えない。恐らく玉川白夜は今年の12月31日にエグザモンを再起動させ、無力さに苛まれる快斗と飛鳥の前で世界の蹂躙を開始するのだろう。
もう四ヶ月しかない。その間に立派な人間になれるとは、とても思えなかった。
「……快斗は」
「ん?」
「どんな大人になりたいんだ?」
答えられない。明確なビジョンなんてない。
でも可能ならそこに飛鳥がいて欲しいと思っている。煌羅がいて欲しいと思っている。ポンデやイサハヤだって当然いるのだ。そんな今までと変わらない暮らしの中、皆で楽しく生きられればどんなに良かったか。
「……出てるじゃんか、答え」
「うっせ」
視線を下にやれば、ポンデはこちらを見上げて笑っていた。
当然だ。答えなんて最初から出ていた。ブレーキランプを何回点けるでもない、ヘルメットを何回鳴らすでもない、それは多分どこにでもいる未熟な若僧のありふれた未来予想図だ。
そしてだからこそ、心のどこかにいる理知的な自分が邪魔をする。
「俺は」
絞り出す。飛鳥にもイサハヤにも言えない。
パートナーと言ってくれたポンデだからこそ、それは言える。
「全員で帰れなきゃ嫌だ。……お前も、イサハヤも……飛鳥(あすか)も」
「快斗……」
「そして煌羅も。全員でまた一緒に笑い合えなきゃ、嫌なんだ……!」
それは無理だろう。誰も失わずにあのエグザモンを止められるとは思えなかった。それぐらいあの竜帝は強大すぎた。
だから動けない。結局は振り出しに戻るのだ。
自分達に力があれば、つい数ヶ月前に最終回を迎えたデジモンアドベンチャーの彼らのように未来を掴むだけの可能性があれば、皆で煌羅を救い出して帰る未来を見ることもできたはずなのに。
残り時間は少ない。前田快斗はどうすればいい。
教えてくれ。
誰か、教えてくれ。
◇
・玉川 白夜(たまがわ びゃくや)
大学教授にしてデジタルモンスターの研究者。60代。
叔父である政治家・九条兵衛の依頼で異世界デジタルワールドの研究を始めた科学者。だが次第に全く理の異なる世界に魅せられ、兵衛の計画を狂わせていった。魔王ベルフェモンの覚醒、デジヴァイスである加速神器の開発は全て彼の功績であるが、それらは全て恐怖の大王としてのエグザモンを我が物とする為の策略であった。
自らも加速神器・正義を用いてタイラントカブテリモンを使役する。本作の一番悪い奴。
・加速神器(アクセラレーター) その2
玉川白夜によって開発された神器。所謂デジヴァイスであり、見た目はそのまんまデジモンアクセル。
正義・暗黒・自然・究極の四属性が存在し、それぞれが二つずつ試作された。人間のDNAを吸引することで内蔵されたデジタルモンスターを育てることができるが、生命力をとことん吸いテイマーを死に至らしめる欠陥がある。というより白夜は敢えて残したので欠陥と言うより仕様と呼ぶべきか。
起動<アクセル>の音声でデジタルモンスターを出現させる。また突風<ブラスト>の音声認識でデジタルモンスターにテイマーの生命力を与えて限界以上の力を引き出させることが可能。ただしこの機能を使用するとテイマーは必ず死ぬ。
八つそれぞれの現況は以下の通り。
正義①:月影銀河・サーベルレオモンが所持(銀河の生死は不明)
正義②:玉川白夜・タイラントカブテリモンが所持。エグザモン使役に使用される
暗黒①:龍崎時雨がグランドラクモンに変貌した後、回収されエグザモン使役に使用される
暗黒②:九条兵衛がダークドラモンに命を注いで果てた際、前田快斗に託された
自然①:車田香がスピノモンに命を吸われて死亡。妻である小金井将美を介して鮎川飛鳥の手に渡る
自然②:小金井将美と共にベルフェモンに食われた後、回収されエグザモン使役に使用される
究極①:武藤竜馬が持っていたがスレイプモンからイサハヤに渡される(竜馬の生死は不明)
究極②:桂木霧江・ムゲンドラモンの死と共に回収されエグザモン使役に使用される
【後書き】
なんとか5日に1度投稿を継続できております夏P(ナッピー)です。
元々1クールアニメを想定して話を組んでいるので12話構想だったのですが、10話に纏めたい(前後にエピローグ付くので実質11話ですが)ということで今回は本来であれば7話+8話だったのを一つの話に圧縮しております。本来ならここにスピノモンの話があったのです。最終決戦前のワンクッションといったところでしょうか。
というわけで、本編は残り2話。飛鳥と快斗、イサハヤとポンデの物語にもうしばらくお付き合いくださいませ。