※タイトルにもある通り、本作は『後編』です。下にURLを載せておくので、先に前編を読んでからこちらに目を通してくださると幸いです。
・「私が元気になったワケ」前編
https://www.digimonsalon.com/top/totupupezi/si-gayuan-qi-ninatutawake-qian-bian
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私がおじいちゃんがあまり好きではない。……というのは以前の話だが、おじいちゃんの舌打ちだけは今でも嫌いだった。テレビを観ている時や新聞を読んでいる時にしょっちゅう鳴らすし、何よりそれが怖かったせいで私は幼い頃からおじいちゃんを怒らせないよう気を使い、こうして今に至るまで人の顔色ばかり伺って育ってきたのだから。それでも今回に限っては、その舌打ちに感謝せざるを得なかった。
山の麓に着く頃には、暗闇とオーロラは空全体の四分の一ほどに至るまで広がっていた。顔を上げて改めて見えるその異様なはずの光景に、私は一瞬心を奪われた。
「綺麗……」
ぶつかり合う闇と光。
凝縮された闇の珠は、弾けて広がり夜空となって。
ねじ曲げられた光の波動は、水中を揺らめく絹のようにうねるオーロラとなって。
後光を浴びて輝く六枚の翼を持った巨鳥は、羽ばたく度に細かい光の粒子を星のように散りばめていた。
突然、巨鳥と激しい撃ち合いを繰り広げていたもう片方の怪物が、戦いを中断し私の目の前に降り立った。背丈は二メートル程度しかなく、旅客機ほどはありそうな巨鳥と比較するとあまりにも小さかった。
「『BAN-TYO』トノ接触ヲ確認……。摘出フェイズニ移行……」
怪物は感情の伴っていない声でそう繰り返すと、私の方へゆっくりと歩み寄り、後退りする私を岩壁まで追い詰めた。
ここで私は人生初の『壁ドン』をされたわけだが、脳内に浮かんだ感想は「何コイツ! いきなりカッコつけちゃってさぁ!」だの「この人……綺麗な目してる」みたいな少女漫画的なものではなく、ただただ「あ、コレ私死んだわ」という諦めだけであった。呼吸も忘れて立ち尽くす私を前に、怪物の黄色い絵の具で塗り潰したようなぼんやりと光る目が見開かれた。
「……お前、もしかして……桃子か」
「……はい」
放心状態でそれだけ答えた私は、安堵の深呼吸と共にその場に座り込んだ。
「も~~~~~! ビックリしたじゃん! また私の驚く顔が見たかったワケ? ホント最っ低!」
「元気そうじゃないか、ちょうど良かった。あの鳥を追い払うから、桃子、お前も手伝え」
おじいちゃんが指差す先では、先ほどの六枚の翼を持つ巨鳥が何事も無かったように優雅に空を舞っていた。
「それは別に構わないけど……なんでおじいちゃん、あの鳥と戦ってるの?」
「理由はそのうち教える。俺が引き付けるから、援護は任せたぞ」
おじいちゃんはそれだけ言うと、また巨鳥のところに飛び去ってしまった。
いきなり戦いを手伝えと言われて、困惑しなかったわけではない。けれど、久しぶりに会えたおじいちゃんが私を頼ってくれた事実に、むしろ気持ちは高揚していた。
「ティアーアロー!」
ノリノリで技名を宣言すると、空気中の水分が瞬く間に凍り、手元に氷の弓が形成された。続いて背中の突起からこれまた氷の矢を取り出し、巨鳥に向かってキリキリと引き絞る。弓矢なんて生まれてこの方触ったこともなかったが、使い方は『レキスモン』の本能が教えてくれた。
二体の攻撃が止み、おじいちゃんが距離を離した。今だ。
「そこっ!」
自らを鼓舞するように短く叫び、矢を放つ。……一本ではどうにも心許ないので、二発、三発と続けて放った。少し待ってみるが、反応は無い。それどころか、巨鳥は私が矢を放ったことにすら気づいていないようだった。もしかしたら外れたかもしれない。
おじいちゃんが突然攻撃を中断し、私のところに戻ってきた。
「桃子、なんか別の攻撃無いか?」
「グローブからシャボン玉出せるけど……」
「ふむ、催眠効果か。上出来だ、次はそれを試してみな」
私が説明するより先にシャボン玉の効果を当てられてしまったので、私は肩をすくめた。どうやら、私のスリーサイズを言い当てようとした時の分析能力は健在らしい。
「え、でも眠るかどうかわかんないよ?」
私の不安をよそに、おじいちゃんはまた巨鳥のところへ向かってしまった。私はため息をつきながらも、とりあえず言われた通りに試してみることにした。若干ヤケクソ気味に掌を合わせ、続けて前に突き出す。
「ムーンナイトボム!」
きちんと技名を宣言したからか、『BAN-TYO』の時とは比較にならないほど大きなシャボン玉がすごいスピードで飛んでいった。最早シャボン玉というより水の大砲だ。大きい分反動も強いが、おかげで今度はちゃんと巨鳥に当たるのが確認できた。よろけそうになりながらも、私は巨鳥の反応を確認した。……ダメだ、やっぱりこちらに気づいてすらいない。
おじいちゃんが突然戦いの手を止め、私の前に着地した。いちいちヒーロー着地で登場するの、悔しいけどカッコいいわ。
「桃子、それじゃあダメだ」
「ほらー! だから言ったじゃん、眠るかわかんないって!」
「そうじゃねぇ、お前の心持ちがなってないんだ」
「心持ちぃ?」
「そうだ、あいつを敵だと思うな。そうだな……寝付きの悪い赤ん坊だと思え」
「……、……はぁ!?」
理解が追い付かなかった。
「え、おじいちゃん大丈夫? 頭打った? それとも痴呆? 認知症? アルツハイマー?」
「それともっと近くで撃て。今のお前には愛情が足りん。『ねぐれくと』だ」
「ごめんちょっと何言ってるかわかんない」
「その二つを意識しろ。いい加減終わらせてくれや、年寄りを働かせやがって」
おじいちゃんは吐き捨てるようにそう言うと、また飛び去ってしまった。ああいうのを老害というのだろう。おじいちゃんじゃなければ蹴り飛ばしてやるところだわ。
そもそも自分からケンカ吹っ掛けておいて、私を頼った上に早くしろだなんて、厚かましいにもほどがある。……と思ったが、よくよく考えれば自分も『BAN-TYO』にケンカ売っておきながら最後はネイビーさんに助けてもらったのだった。ああ、私間違いなくおじいちゃんの孫だわ。
おじいちゃんとの共通点を自覚し、私は恨めしくも少し嬉しくなった。仕方がないので、私と似た考えを持つおじいちゃんの意見に、今回ばかりは従ってあげるとしよう。
険しい岩がゴロゴロ転がっている山道も、今の私は十跳び足らずで登覇してしまった。周りを見渡せばもっと高い山はいくつもあったが、これだけの高さがあれば上空の巨鳥にも手が届くだろう。吐く息が真っ白になるほど気温は下がっていたが、『レキスモン』の体にはむしろ快適なようだ。麓にいた頃よりも元気が湧いてくる。入念にストレッチをしながら、私は山を登る途中で思い出したことをもう一度頭に思い浮かべた。
──────────
……そう、あれは確か私が五歳の頃。お正月に家族でおじいちゃん家に遊びに行った時のこと。
薄着で寒空の下近所を探検していた私は、案の定その日の夜に高熱を出したのだ。次の日には帰る予定だったのだが熱は下がらず、仕事のあったお父さんと体の弱かったお兄ちゃんは先に帰ることになった。だがお兄ちゃんがあまりにもぐずるのでお母さんも着いていき、私はおじいちゃんの家に一人預けられた。
寂しくはなかった。家族にうつしちゃいけないことは子供ながらに理解していたし、明日には必ず迎えに来ると言われていたから。どちらかというと怖かった。当時おじいちゃんが暮らしていた家はだだっ広い木造で、廊下や階段は歩く度にギシギシと音が鳴るし、家の周りは街灯一つ無いから夜は真っ暗だし、暖房も無いからとにかく寒いし、おまけに家の主はおじいちゃんときた。RPGのラストダンジョンに、勇者が一人閉じ込められるようなものだ。
寝ようとしても、発熱時特有のハエトリソウに似たバケモノに食べられる夢や、変なモヤがグルグル渦巻く夢を見てしまってなかなか眠れない。寒かった寝室を出て、月明かりを頼りに家の中を進んでいくと、書斎で正座しているおじいちゃんと鉢合わせしてしまった。だがおじいちゃんは怒るでもなく寝かしつけるでもなく、ただ一言「おいで」と言って私を書斎に招き入れたのである。
「桃子、お前やおじいちゃんの名字になっている『望月』が何を表すか、知っているか?」
向かい合って正座した私におじいちゃんはいきなり聞いてきた。答えになりそうな返答こそ浮かんでいたものの、間違えて怒られることを恐れた私はガタガタ震えることしかできなかった。それでもおじいちゃんが「言ってみな」と言うので、消え入りそうな声で「おもちつき……」と返した。おじいちゃんは否定せず、ゆっくりと頷いた。
「正解はあれだ」
おじいちゃんが振り向き、窓の外を指差した。その先にあったのは満月だった。
「丸く輝く満月を、昔の人は『望月』と呼んだそうだ」
「おじいちゃんもそう呼ぶの?」
その時、初めて私はおじいちゃんに質問をした。ただただ純粋に疑問だった。振り返ったおじいちゃんは僅かに目を見開き、「……そのうち教える」とだけ答えた。普段は怖かったおじいちゃんの顔が、この時だけはお母さんよりも優しく見えた。その後、おじいちゃんは「これを食べておやすみ」と、私に桃を剥いて食べさせてくれた。
とはいえ優しく見えたのはその夜だけだった。熱が下がった次の日、おじいちゃんが車で家まで送ってくれたのだが、車内ではお互い一言も発しなかった。代わりに、寝かさんとばかりに大音量の演歌だけが延々と流れ続けていた。
──────────
いざ思い出そうとすると、意外に詳細に覚えているものだ。なぜ私が今の出来事を思い出したのかというと、私に赤ん坊の頃の記憶などなく、ましてや私に子供がいるはずもないからだ。つまりはおじいちゃんの言っていた「寝付きの悪い赤ん坊に接するように」というお題に最も近かったのが、今の記憶なのである。
両手を合わせ、間隔を少しずつ広げていく。掌に形成されたシャボン玉は今の私の顔よりも大きく、人間の頃の私の顔よりも大きく、そしてついには大玉転がしの玉ぐらいの大きさにまで膨らんだ。そしてそれを掲げたまま、巨鳥に向かって跳躍した。
「これ食べて! おやすみーーー!」
当時のおじいちゃんの台詞をそのまま叫んだのは我ながらナンセンスだと思う。それでもなるべく笑顔で、声は明るくハキハキと、できるだけ近づこうと頑張った。
こちらに気づいて振り向いた巨鳥が大口を開け、けたたましい鳴き声を上げた。その様子がエサを待つ雛鳥に見えなくもないこともない。……うん、顔だけで私の身長ゆうに越えてるのに雛鳥はないわ。巨鳥が喰らいつく直前、私は体を捻ってシャボン玉と一緒に食べられるのを回避した。あれだけけたたましかった鳴き声が嘘のように止み、巨鳥のまぶたがスーッと閉じていくのが見えた。
「ホントに……ホントに成功した!?」
後でおじいちゃんに疑ってしまったことを謝らなければ。そう思ったのも束の間、空を飛ぶ手段を持たない私は頭からまっ逆さまに墜ちていった。胸のメダルが光って落下速度がゆっくりにならないかしら。この期に及んでそんなふざけたことを考えていた私を、何者かが優しく受け止めた。ここで私は人生初の『お姫様抱っこ』をされたわけだが、脳内に浮かんだ感想は「なんで着地のこと考えずに飛び出したんだろう……?」という、自身の軽率な行動に対する疑問だけだった。
「ようやくケリをつけてくれたか」
満月のように黄色くぼんやり光る目と、私の目が合った。
「おじいちゃんが言ってたこと、本当だったね」
「俺が嘘つくと思うか?」
「いやさっきのはだいぶ疑わしかったよ! 自覚無いの?」
「伝わったんだからいいだろう」
さっきまでの素直な気持ちはどこへやら。おじいちゃんの悪態から始まったいつもの言い合いをしているうちに、私はすっかり謝ることを忘れてしまった。
おじいちゃんは私を山の中腹で降ろし、この辺りで一番高い山の頂を指差して言った。
「よし。桃子、ハイキングに行くぞ」
「……はい?」
「この間話しただろう。ほれ、スケッチブックと鉛筆も持ってきたぞ」
おじいちゃんがどこからともなく取り出したそれらを、私は思わず二度見した。よく見たら、それは普段私が使っているものと同じ製品だった。奪い取って中身を確認するも、全て白紙。危ない危ない、さすがにこちらの世界にまで私の絵を持ち込まれたら、おじいちゃん相手と言えど何をするかわかったもんじゃない。
「おじいちゃん……まさか、そのためだけにあの鳥追い払ったの!?」
そう、私は気づいてしまった。恐らく元からこの山脈で暮らしていたであろう巨鳥は、年寄りの道楽のために攻撃され、挙げ句の果てに無理矢理眠らされたのだ。そういう意味では、事情を聞かされず巻き添えにされた私も共犯者というよりは被害者である。当の容疑者は自慢気に佇んでいた。
「動物虐待! 愛護団体が黙ってないよ!」
「俺は山に下見に来ただけだ。先に攻撃してきたのは向こうなんだから正当防衛だろう」
「縄張りにズカズカ入って来られたら誰だって怒るでしょ……!」
特大ブーメランだ。いきなりキックをかました誰かさんはもっとタチが悪い。
「ここは強い奴がルールの世界だ。それこそ不平不満を言うだけなら誰でもできる」
巨鳥と互角に渡り合ったおじいちゃんが言うと妙に説得力がある。どうせこれ以上責めても自分の首を絞めるだけなので、私はそれ以上言及しなかった。
ハイキングは三十分ともたずに終わってしまった。山道は岩だらけでとても道なんて呼べるものではなかったが、今の私達が通れないはずもなく。邪魔な岩を蹴ったり砕いたりしているうちに、二人の後ろには自然と道が出来上がっていた。まあ、おじいちゃんにとってメインは私がこれから描く絵の方だろうし、私も別に山登りが好きというわけでもなかったので、そこまで気にしなかった。
雪と氷に覆われた山頂に腰を下ろし、私はスケッチブックへと鉛筆を走らせた。せっかくだから、青空と夜空を一緒に描いてやろうと、二つの空の境をキャンバスに仕立ててみた。タイトルは『白昼の夜空』。さっきの表現、我ながら結構気に入っていたのよね。
寒さのおかげで頭も冴え渡り、あっという間に描き終えてしまった。時間もあるので、色々な角度から二枚、三枚と続けざまに描き続けた。描き終えたスケッチブックをおじいちゃんに手渡すと、おじいちゃんはそれら一枚一枚にじっくりと目を通し始めた。
「そう言えばおじいちゃん、人間の姿のおじいちゃんが入院してたなんて知らなかったよ。どうして教えてくれなかったの?」
絵を描き終えた私は特にすることもなかったので、久方ぶりに会えたおじいちゃんに積もる疑問をぶつけることにした。おじいちゃんは絵から目を離さずに答える。
「そりゃ聞かれなかったからな。俺の体はどうなった?」
「……ついこの前、息を引き取ったの。お葬式も済ませたけど、お母さん達はみんな混乱してた」
「そうか、やはりな」
「ねえおじいちゃん、私ね、おじいちゃんがまだ生きてることをお母さん達にも伝えた方がいいと思うの。直接おじいちゃんの声を聞けば、みんなも安心すると思うから……」
おじいちゃんは絵を全て見終わる前にスケッチブックをまた何処へとしまい、こちらへ向き直った。
「桃子、お前はそろそろ帰れ」
「え? 突然どうしたのおじいちゃん。私、このままおじいちゃんと一緒にこの世界に残るつもりだったんだけど」
「さっきも言っただろ、この世界は強い奴がルールだ。お前じゃここで生きるには力不足だよ」
散々私の手を借りておきながら力不足とは。おじいちゃんの掌返しも呆れたものだ。
「大丈夫だって! さっきもあんなに大きい鳥をやっつけたんだもん、私達が力を合わせればどんな敵が来てもへっちゃらだよ!」
「力を合わせれば……か。お前、俺が本当の『おじいちゃん』だと、まだ信じているのか?」
「……え?」
「考えてもみろ。人間の体は既に死亡、こちらの体に移った意識も、死にかけた際に一度途絶えている。そんな状態から進化し復活したこの体に、まだお前の言う『おじいちゃん』の意思が残っている確証がどこにある?」
私は言葉を失い、その場に呆然と立ち尽くした。そんな、それじゃあ今まで私が話していたのは……
「『ダークマター』は新たな人格を目覚めさせた。俺がお前のことを知っていたのは、この体にこびりつくように残っていた『おじいちゃん』の記憶を読み取ったに過ぎない」
「……騙したの? 私を……」
「『騙した』? 人聞きの悪いことを言うねぇ。俺はただ『おじいちゃん』の記憶にケリをつけたかっただけさ。お前が俺の前から姿を消せば、俺は改めて『ダークドラモン』として新たな生命を謳歌することができる。しかしおかしいな、桃子はもっと素直に『おじいちゃん』の言うことを聞くもんだと思っていたが……。帰らないと痛い目に遭うぞ?」
おじいちゃんの声を持つ化け物は、右腕に装備された歪な形状の装置から伸びる槍をこちらに向けてきた。
「気安く……私の名前を出すな!」
おじいちゃん、前に言ったよね。家族に刃物を向けるのか、危ないから早くしまえって。あの時はおじいちゃんが化け物だって勘違いしてたけど、今度はそうじゃないって確信が持てた。私に凶器を向ける偽物のおじいちゃん、『ダークドラモン』は、私がこの手で倒す! おじいちゃんの尊厳は、私が守るんだ!
「ムーンナイト──」
技名を宣言しようとしたその時、いきなり視界がガクンと傾いた。後ろに回り込んだダークドラモンに足払いをかけられたのだと気づいた頃には、背中の突起を掴まれ蹴り飛ばされていた。突起は無惨に引き千切られ、ブチブチと音が鳴る。
「あぐっ……!」
背中に激痛を感じた私は呻き声を上げた。だがダークドラモンは、痛みに膝をつくことすら許してくれない。即座に目の前まで回り込み、今度は私の首を掴んで仮面を引き剥がした。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!」
紙を裂いたような軽い音が響く。今まで味わったことのない痛みに、私は耐えきれず絶叫した。焼けるように熱を帯びた顔に、極寒の大気を伴った強風が容赦なく吹き付ける。あまりの痛みに意識が飛びかけたが、ダークドラモンに首を掴まれたまま地面に押し倒され、半ば無理矢理に覚醒させられた。最後にダークドラモンは、右腕の装置から伸びる槍に巨鳥に放ったのと同じ闇を纏わせ真っ黒に染めあげると、それを私の眉間に突きつけた。
「反抗期は終わりだ、桃子」
抵抗しようと思えばできないことはなかった。グローブは無傷だし、両手はフリーだ。それなのに、私は「ムーンナイトボム」のムの字も言葉にできなかった。正確に言うと、目の前の化け物が放つ重圧に押し潰され、私の息が止まったのだ。呼吸を忘れたとか、首を絞められて息ができなくなったのではなく、自然と息が止まってしまったのだ。元々低かった体温がさらに冷たくなっていくのを感じる。
ダークドラモンはそんな私の様子に気づいたのか、首から手を離して、三歩ほど後ろに下がった。
「これで動けるな?」
「動く」。今の私にとって、その言葉が表す意味は一つだった。ダークドラモンに背を向け、一目散に駆け出す。大地を駆ければ脱兎の如し。途中、後ろからいつものおじいちゃんの声で「いい子だ」と聞こえた気がしたが、私は振り向かなかった。こんな時に幻聴なんて、それもおじいちゃんの声でなんて、どうかしてるとしか思えなかった。
麓まで降りたところで、私はその場に座り込んだ。動く気力すら湧かない。
怖かった、悲しかった、悔しかった。何よりも、あれだけ強い意志を持っていたはずなのに、ちょっとケガして脅された程度で逃げ出した自分が情けなくて、腹が立った。
おじいちゃんに会えないのなら、ここで野垂れ死んだって構うもんか。いっそ、岩に頭でもぶつけて死んだ方が良いのではないか。そんなことを考えていると……
「桃子様ー!」
遠くから私を呼ぶ声が聞こえた。ああ、そうだった。今の今まですっかり忘れていた。私、ネイビーさんの言うことを無視してここまで来たんだ。馬鹿だなぁ、ちゃんと素直に避難していれば、D-ブリガードの人達に任せておけば、こんな惨めな気持ちにならずに済んだのに。
「桃子様ー! どこですかー?」
相変わらず声は聞こえるが、まだ遠い。いい人だなぁ。緊急事態だっていうのに、おじいちゃんじゃなくて私なんかを捜してくれている。もう私の存在に価値なんて無いのに。
「桃子様!」
いつの間にか、声はすぐそこまで来ていた。
「ひどいケガだ……。早く手当てを!」
「ごめんなさい……」
隊員に指示を出そうとするネイビーさんを引き留め、私はポツリと謝罪の言葉を漏らした。
「いえ、こちらこそ到着が遅れてしまい申し訳ありませんでした。太陽が隠れた影響か周辺の気温が急激に下がり、車が雪に埋まってしまったので途中からは徒歩で……」
「そうじゃ、ないんです……」
嗚咽を上げる私を見て、ネイビーさんの言葉が止まった。
「私が、ネイビーさんの言うこと聞かなかったから……。私ならおじいちゃんを連れて帰れるって、うぬぼれてたから……」
「ネイビーさんが謝る必要はない」と言いたかっただけなのに、涙を堪えながら言い訳を並べるせいで支離滅裂になってしまう。
「……ともかく、今はご自身の体を大事になさってください。それに……」
まだ漆黒に覆われた上空を見上げ、ネイビーさんが続けた。
「『シクステッド・ブルー』を止めてくださったのは貴方でしょう? 我々には手の打ちようが無かったので、大いに助かりました」
その一言で、私はとうとう耐えきれずにわんわん泣き出した。そしてそれはネイビーさんを困らせてしまったようで、おろおろと慌てた様子を見せた後、考えに考えた末私の頭を優しく撫でてくれた。
怒られると思ってた。労ってくれるなんて思ってもいなかった。安心しきった私は、山頂にダークドラモンがいることを伝えるのも忘れ、ネイビーさんに頭を預けたのであった。
前編のヒヤッヒヤの引きを読んでからというもの、結末が気になってそわそわしておりました。
ヴァロドゥルモンvs.おじいちゃん/ダークドラモンの熾烈な戦いが、まさか文字通り野鳥を追っ払うようなノリで行われていたとは……! 再会から程無くして共闘にもつれ込む時のやり取りが「実にこの2人らしい」と感じ、この時点では安心していました。していたんですが……。
自分の記憶と意識が失われつつあることを悟っていたおじいちゃんが桃子に牙を剥くシーン、あれはおじいちゃんにとって桃子の命と彼自身の尊厳が懸かった重大な局面だったのですね。「家族に刃物を向ける」場面という点で、桃子が包丁を握ったあの時と対称的ですが、桃子はおじいちゃんの尊厳を守る覚悟を、おじいちゃんは桃子を傷つけてでも守る覚悟をぶつけ合う、いわば2人の衝突のピークであったように僕には思えました。
こちらの後編では、桃子とおじいちゃんのフルネームとそれにまつわるエピソードが明かされましたが、「そうかそれでレキスモン……!」という納得をはじめ、物語のラストに至るまで重要な役割を果たしていると分かり、やられたなあ、と思いました。2人がこの思い出に立ち返ったからこそ、互いの想いを伝え合い、互いに別れ際の未練を断ち切れたということでしょうか。
大切な人との別れを乗り越え、ポジティブに現実と向き合う桃子を見ていると、そうやって確かめ合った思い出が支えになっているのかも知れない……という感じがします。そうであったらいいな、と。
おじいちゃんの生の涯に、そして桃子とおじいちゃんが共にした日々の先に「残された」ものが輝いて見える、心温まる3部作でした。
月並な表現ではありますが、とても面白かったです。
「私が元気になったワケ」後編②
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気が済むまで泣き続けたが、それでも夜空は相変わらず私達の頭上を覆っていた。多分ダークドラモンをなんとかしなければ、この辺りは永遠に昼が訪れないのだろう。
私はネイビーさんに知り得た情報を全て伝え、隊員と共に山頂へ登っていくネイビーさんを見送った。麓で私に応急処置を施してくれたのは、イエローというコードネームのコマンドラモンだった。……いや、多分コマンドラモンじゃないわこの人。だって迷彩柄じゃないし、ちょんまげしてるし刀持ってるし、どう見ても武士だもん。
「祖父殿と話はできたでござるか?」
イエローさんが尋ねる。私は首を横に振った。
「おじいちゃんの意思は最初から残っていませんでした。なのに私、騙されてすっかり乗せられちゃって……」
「桃子殿、准将は意思を失ってなどいないでござる」
「……え?」
私は顔を上げた。イエローさんが懐に手を突っ込み、何かを取り出した。
「確証はないでござるが……。准将からこれを預かっているでござる。桃子殿が来た時に渡してくれと」
イエローさんから手渡された封筒の中には、さらに二つの封筒が入っていた。それぞれ中央に『遺書』『お年玉』と達筆で書かれている。
私はまず『お年玉』と書かれた封筒を開けた。中には『卒業祝い 有意義に使え』とだけ書かれた紙が、一万円札18枚と共に入っていた。毎年お年玉は歳の数×1000円と決まっていたが、ここに来て十倍とは。なんとも太っ腹だ。添えられている一言もなんともおじいちゃんらしい。
次に、『遺書』を恐る恐る開いた。中に入っていた三つに折り畳まれた紙を見た私は戦慄した。
「怖い。恐い。記憶が消えていく。女房の名前も、娘の名前も、お前の兄の名も。古い記憶が次々に失われていく。家族だけじゃない。D-ブリガードのことももうほとんど覚えていない。代わりに頭に入ってくるのは『BAN-TYO』を消せという命令だけだ。……助けてくれ、桃子。俺は記憶を失くして死ぬのが恐い。自分でももう長くないことは分かっている。家族も組織も忘れ、『BAN-TYO』を探すだけの機械に成り果てる前に。どうか最後に一度だけ、一度だけでいいんだ。
……俺の名前を教えてくれ。愛する者がいると思い出させてくれ」
青ざめた私の顔をイエローさんが心配そうに覗き込んできたので、私は慌てて『遺書』をしまった。間違いない、これは私だけに向けられたメッセージだ。家族にも、D-ブリガードの人達にも知られてはいけない。私とおじいちゃんだけで共有すべき秘密だと、そう確信した。
「桃子殿? 顔色が悪いでござる」
「なんでもないです。それより……」
シャボン玉を伴ったグローブをイエローさんの鼻先に近づけた。まどろみ夢に落ちたイエローさんの懐に、先ほどの封筒をまとめて差し込んだ。
「それ、預かっててください。帰る時に受け取りますから」
決して伝わらないであろう言伝を残し、私は再び山頂を目指した。ネイビーさんごめんなさい。さっき反省したばかりだけど、もう少しだけワガママな私でいさせてください。その代わり、おじいちゃんももう少しだけ『カッコいい准将』でいさせてあげるから……。
一度は死んだものだと思っていた。『BAN-TYO』の必殺技が飛んでくる瞬間、俺の体は動かなかった。誰かを庇ったとか、そんなカッコいいものじゃない。大方、現実世界の俺の体がちょうどその時に逝ったんだ。
生き返ったのはいいが、なぜこんなところにいる? ……ああそうだ、レキスモンと戦ったんだ。奴は『BAN-TYO』との接触ログを有していた。……ならばなぜ逃がした? 成熟期を捕らえることなど、さほど難しくはなかったはずだ。奴が何か特別な力を持っていたのか? ……いや、考えていても仕方がない。今は、俺の元にやって来る『BAN-TYO』との接触ログを有する集団に意識を向けるべきだ。今度こそは『BAN-TYO』の手がかりを取得する。
「准将……!」
先頭の奴が俺に呼びかける。誰が何を言おうが関係ない。俺は与えられたプロセスに従って動くのみ。『BAN-TYO』を見つけ出し倒すことだけが、俺の存在理由だ。
「『BAN-TYO』トノ接触ヲ確認……。摘出フェイズニ移行……」
『BAN-TYO』と関わりを持ったデジモンを『捕捉』し次第、『沈黙』させ『解体』する。行く先々でログの回収を続ければ、いずれは『BAN-TYO』に辿り着くはずだ。目の前の五体のコマンドラモンは、それぞれ何かを口走っている。命乞いのつもりだろうか。
「ネイビー中尉! 准将の応答ありません!」
「諦めるな! 何度でも呼びかけるんだ! シルバー准将、クルール小隊のネイビーです! お忘れですか!?」
「「「「准将~!」」」」
五月蝿い連中だ、早く『沈黙』させなくては。『ギガスティックランス』の先端に『ダークマター』を集中させる。手がかりを持つ者は全力を以て『沈黙』させよ。そうプログラミングされている。
「攻撃ヲ実行……」
「准しょ……」
「望月幹夫(もちづきみきお)ーーー!」
山脈全体に轟くほどの大音量が、山頂にいた全員の行動を止めた。
「もーちーづーきー、みーきーおー!」
声は鳴り止まない。一瞬動きを止めたダークドラモンが、再び攻撃の体勢に入る。だが技が放たれることはなく、技名が宣言されることもない。代わりに『ギガスティックランス』の先端で炎のように揺らめく闇のエネルギーが、徐々に小さくなっていった。
「望月~~~、幹夫ーーーっ!」
合図のように名前が叫ばれ、二百メートルはあろう岩壁の向こうから、一体のデジモンが大ジャンプで山頂へ到達した。
「桃子さ……モガァ」
名前を出しかけたネイビーの口を塞ぎ、レキスモン──触手のような突起と仮面を失っているせいで、一目見ただけでは判別がつかないが──はダークドラモンの前へ躍り出た。
「何度でも言ってあげる! 望月幹夫! それがあなたの名前!」
ダークドラモンは一言も返さない。代わりに頭を抱え、苦しそうに呻き始めた。
「グ、ガ……俺ハ、ダークドラモン……」
「ううん、あなたの本当の名前は望月幹夫。奥さんの名前は望月タエで、娘の名前は望月幸枝(さちえ)、孫の名前は望月光陽(こうよう)。それから……」
レキスモンはふう、と一息吐いて続けた。
「孫娘の名前は、望月桃子」
「……モモ……コ……」
ダークドラモンの呻き声が止まった。レキスモンはコマンドラモン達の方を示した。
「家族だけじゃない。あなたが一緒に働いてきた仲間達もここにいるんだよ。ネイビーさん、今は麓にいるけどイエローさん。それから……」
レキスモンの言葉が止まったのを見て、何かを察したようにコマンドラモン達が整列し、一斉に敬礼した。
「クルール小隊、ネイビー中尉!」
「同じく、オレンジ曹長!」
「同じく、グレー軍曹!」
「同じく、パープル一等兵!」
「同じく、インディゴ一等兵!」
「及びイエロー少尉! 以上6名中5名、クルール小隊特別班、シルバー准将捜索チーム、現着しました!」
「クルール、小隊……ネイビー……」
ダークドラモンは確認するように隊員の名前を反芻した。そして全員の名前を言い終えると、数刻逡巡した後『ギガスティックランス』を振り上げた。
「う……うおおおおおおおっ!」
「危ないっ!」
ネイビーが咄嗟にレキスモンを庇うように立ちはだかる。ダークドラモン以外の全員が目を瞑った。
金属同士がぶつかり、擦れる音が辺りに響いた後、静寂が広がった。恐る恐る目を開けた一同は、目の前の光景を疑った。『ギガスティックランス』は確かに対象を貫いていた。……持ち主である、ダークドラモン自身を。ダークドラモンはショートし時のような音と火花を上げながらよろけ、背後の岩を背もたれにするように座り込んだ。
「准将ぉぉぉ!」
「そんな……どうして……!」
ネイビーとレキスモンが真っ先に駆け寄り、遅れて他のコマンドラモンも集結した。
「……よう、ネイビー。見違えたな、立派にリーダーしやがって」
ダークドラモンが案外普通に話し始めたため、レキスモンは胸を撫で下ろした。
「……准将に鍛えられたおかげです。それより、なぜご自身を……」
「そ、そうだよ。記憶も戻ったみたいだし、またD-ブリガードに復帰できたかもしれないのに……」
レキスモンも同意する。ダークドラモンは首を横に振った。
「確かに、一時的に記憶は戻った。だがダークマターの侵食は今も続いている。いつまたお前達に牙を剥くか、わからんのだ」
ネイビー達は返す言葉を失った。究極体の強さを『BAN-TYO』との戦いで実感していたからこそ、何も言えなかった。次また記憶を失くして暴走した時に、無力な自分達では何もしてやれないのだ。
「ネイビー中尉、D-ブリガードの上官として最後の命令だ」
「は……はいっ!」
「俺はこれから一人のジジイとして家族と話をする。決して水を差すな、いいか?」
ネイビーはレキスモンを一瞥した後、ダークドラモンに向けて敬礼した。
「……了解! 総員、休め!」
ネイビーの合図でコマンドラモン達が散開する。
「おい桃子、何してる。こっちに来な」
ダークドラモンがレキスモンに手招きした。
「……何のこと? 私はただの通りすがりのレキスモンよ?」
ダークドラモンが舌打ちしながら、何処からスケッチブックを取り出した。
「……そうか、それじゃあこの絵は今ここで公開してもいいんだな?」
「わー! ごめんなさいごめんなさい! そうです、私が桃子です~! だからその絵はしまって~!」
レキスモンが慌てて駆け寄る。ダークドラモンは、レキスモンに奪い取られる前にスケッチブックをまた何処へとしまった。
「なんでそんなつまらん嘘吐いた」
ダークドラモンの声はドスが効いており、明らかに怒りを含んでいた。
「だって……最後に見る私の顔が化け物なのは嫌でしょ? 仮面も無くてきっと見映え悪いし……」
「んなこと気にしてたのか。ほれ、いいからもっと近くで顔見せろ」
「……ん」
レキスモンが覗き込むように顔を近づけ、ダークドラモンはそれをまじまじと見つめた。
「……もういい? 恥ずかしいんだけど……」
「べっぴんさんじゃねぇか。まあ『桃子』の方が美人だけどな」
レキスモンの桃色の頬がさらに紅潮した。
「……嘘ばっかり」
「今までに俺が嘘吐いたことあったか?」
「ついたじゃん! 新たな人格が乗っ取ったとかなんとか! あれ演技だったんでしょ!?」
「あながち嘘ではなかったろ。記憶を失った俺は別人格も同じだ」
「……屁理屈。どーせ仮面を取ったのは素顔が見たかったからとか言うんでしょ? 背中を蹴ったのは猫背を直してほしかったとかでしょ?」
「よく分かってるじゃねぇか」
「……バカ。結構痛かったんだからね」
レキスモンが口を尖らせた。
二人の間にしばしの沈黙が流れ、そして……
「ねぇ、おじいちゃん」
「なぁ、桃色」
二人の声が重なった。
「あ……おじいちゃん、先どうぞ」
「『れでぃーふぁーすと』だ。桃子、先に言え」
「……うん、わかった。おじいちゃんはさ、私が小さい頃におじいちゃん家で熱出した時のこと覚えてる?」
「……いや、覚えてないな」
「……そっか、そうだよね。もう十年以上前の話だもんね。……それで、おじいちゃんの話は?」
「ああ、これは俺の最初で最後の願いだ。桃子、お前のシャボン玉で俺を眠らせてくれ」
「え……」
「この記憶を失う前に、痛みを伴わずに死ねたら最高だ」
「で、でも効くかわかんないよ?」
桃子の声が震える。幹夫は少し考えた。
「そうだな……なら俺をおじいちゃんだと思うな。熱を出したのに眠れず、夜中に祖父の書斎を訪れた五歳の孫娘だと思え」
「! ……覚えてるんじゃない、おじいちゃんの意地悪……」
「小さい頃なんて曖昧な聞き方をしたお前が悪い。さて……」
涙を浮かべ肩を竦める桃子を尻目に、幹夫は仰向けに寝転がった。『ギガスティックランス』が突き刺さった部位が火花を散らして悲鳴を上げるが、当の本人は気にも留めていなかった。
「今宵の『望月』は一層綺麗じゃないか。よく眠れそうだ」
月など出ていなかった。実際には、空を覆うダークマターに阻まれた太陽が満月のようにぼんやりと光って見えるだけなのだが、今更それを指摘するほど桃子は無粋ではなかった。
「それって、五歳の私がした質問の答え? それとも今の私におべっか使ってくれてるの?」
「好きな方を選ばせてやる。なんなら両方でもいいぞ」
「太っ腹ね……」
桃子は、祖父の月のようにぼんやりと光る目を見つめた。瞳の無いそれがどちらを向いているかは伺い知れないが、桃子にはその目が真っ直ぐ自分だけを見つめているように思えた。満月のように空に浮かぶそれが、本当は太陽であったことに気づいていたのかもしれない。
「さあ、頼む……桃子……」
幹夫の息が次第に細くなっていく。桃子は頷くと、両手を合わせて目を瞑り、これまでの祖父との思い出をいくつも脳裏に浮かべた。本当は終わらせたくない。二人きりの穏やかな時間が、もっと続けばいいのに。そんな桃子の願いに反して、グローブからは無数のシャボン玉が湧き出でた。自身の両手を恨めしそうに見やるが、幹夫の呼吸はさらにか細くなっていく。……時間は残されていなかった。
「私が描いた絵、ちゃんと最後まで見てよね」
「あの世での楽しみにとっておくさ……」
「……おやすみなさい、おじいちゃん」
「ああ、おやすみ。桃子……」
桃子の両手が幹夫の頬に優しく添えられた。シャボン玉がパチパチと微かな音を上げて弾けていく。
不意に、桃子が幹夫の方へ顔を近づけた。そして……
「大好きよ、おじいちゃん」
それは、桃子の初めての『キス』だった。脳裏に浮かんだ感想を、彼女は言葉に出さずにはいられなかった。
剥き出しの歯が並んだ口角が僅かにつり上がり、目をぼんやりと灯していた光が消えた。後に残ったのは、心電図のそれに似た甲高い一筋の音だけだった。
幹夫が笑ったのを見て、桃子も負けじと精一杯の笑顔で祖父に応えてみせた。
ふと顔を上げると、幹夫の亡骸を取り囲むようにクルール小隊の面々が敬礼していた。
「シルバー准将……安らかにお眠りください」
桃子は思った。幹夫には後悔していることが山ほどあっただろう。もっと会って話をすればよかった、もっと素直になればよかった、もっときちんと感謝を伝えるべきだった、と。なぜなら、全く同じことを桃子も考えていたからだ。どこまでも似た者同士である。
だがしかし、同時に彼は満足して旅立ったのだろうとも信じていた。最愛の孫娘と、最も信頼していた部下に看取られること以上に幸せな最後があるだろうか? そしてそれを象徴するかのように、空を覆っていた暗闇にポツポツと穴が開き始め、そこから光が射し込んできた。穴は次第に広がっていき、やがて闇は一片の欠片も残さず姿を消した。目映い日光に照らされたダークドラモンの体も、末端から順に光の粒子と化して空へ昇っていった。
「……たまには太陽も悪くないかな」
桃子は、最後に澄み渡る青空を見上げひとりごちて、クルール小隊と共に山を下りていった。
……。
「あーーー! イエローさん忘れてたーーー!」
「あーーー! イエロー少尉忘れてたーーー!」
二人がその事に気づいたのは、ちょうど麓に着いた頃である。
無論、雪の上でぐっすり眠っていたイエローが次の日風邪をひいて寝込んだことは言うまでもない。
──────────
D-ブリガードに変革の時が訪れた。シルバー准将捜索の功績として、ネイビーが大尉に昇格したのだ。未だセレクション-Dにも合格していないネイビーにそこまでの階級を与えることを上層部は渋ったが、ダークドラモンの暴走の根本的な原因は自分達であること、そして暴走したダークドラモンとヴァロドゥルモンの戦闘にいち早く気づき、被害を出さないよう迅速な指示を下したネイビーの対応は評価せざるを得なかったようだ。コマンドラモンの時点で大尉というのは、これまで類を見ない異例の事態である。
現在彼は、二階級特進で中将となったシルバーを越えるべく、大将を目指して手柄を重ねている。クルール小隊の部下曰く、彼が佐官になる日もそう遠くはないという。
ちなみにイエロー少尉だが、任務中に寝たことの責任を問われ、D-ブリガードを解雇されそうになった。幸い、こちらは桃子の必死の説得と謝罪によりなんとか取り消されたが。
変わったのはそれだけではない。シルバー中将の一件を踏まえ、『ダークマター』の開発及び使用は今後一切禁止となった。開発基金は全て、空中秘蜜基地『ローヤルベース』の建設と、『チェスモン大帝国』を創立するための費用として寄付された。それらが完成した暁には、有事の際にD-ブリガードに協力する事を約束する協定も取り決めたのである。……現在のところ、両者とも完成の目処は立っていないようではあるが。
桃子は無事に元の世界に帰ることができた。顔や背中に負った怪我が人間の体にも持ち越されることはなく、『痛い』という感覚も嘘のように消えていた。しかしそれは、祖父と共にデジタルワールドで生きていこうと考えていた彼女に、退屈な日常が戻ってきてしまったことを告げる証拠でもあった。
明日になれば、またいつも通りの生活が始まる。もう彼女はクリクリした大きな瞳も、キメ細やかな肌も、細いくびれも引き締まった太ももも、透き通ったソプラノボイスも持っていなかった。氷の弓矢など出せるはずもなく、険しい岩山でハイキングができる強靭な脚もない。手を合わせたら催眠効果のあるシャボン玉が出る、だなんておとぎ話もいいところだ。普通に学校へ行き、普通に家へ帰り、普通に絵を描く。そんな退屈な生活が今の桃子にとっては────
何よりも、幸せだった。
「おはよー」
「あら桃子、今日はずいぶん早いじゃない」
スマホのアラームが盛大に鳴り響く午前六時半。部屋の暖房と加湿器を切り、リビングでお弁当を作っているお母さんに挨拶をする。
「いただきまーす」
テーブルの上にはご飯、お味噌汁、卵焼き……あとひきわり納豆。いつも通りの望月家の朝食が並んでいた。
「あんた、今日が最後の登校日だっけ」
「うん。授業ないし午前中で終わるから、お昼ご飯もよろしくね」
「あら意外、最後くらい友達と食べてくるのかと思ってたわ」
「どーせ友達なんていませんよーだ」
卒業式前日だというのに、話の内容は普段とそれほど変わらない。まあ、別に大学生になったところで一人暮らしをするわけじゃなし、高校生活の最後なんてこんなものだろう、と悟ったように考える。
三十分以上かけて朝食を胃袋に流し込み、制服に袖を通し、出発直前までダラダラとSNSを見て過ごした。しばらくするとお兄ちゃんも起きてきた。全く、大学生は春休みが長くて羨ましいわ。
「いってきまーす」
早めに家を出る。三月にしては少し肌寒い。いつもならこの時間に両親も仕事に出るが、今日は土曜日、その心配もなかった。
「『いつも通り』を演じるのもなかなか大変ね、おじいちゃん」
私の意識が『レキスモン』から私自身の体に戻った際、一つだけ持ち帰ってしまったものがある。それは、異常なまでに鋭い聴力だ。さすがに全盛期ほどとまではいかないが、それでも道行く人の会話や車の音が、バグったラジカセの如く全て大音量で頭に入ってくる。デジタルワールドでは重宝したこの聴力も、こっちの世界では無用の長物、それどころかはた迷惑な代物だ。きっとこれは、おじいちゃんの死後も話ができたという、私だけに訪れた奇跡の代償なのだろう。
「まあ、これはこれで便利……かな」
悲観はしなかった。おじいちゃんは記憶を失うというもっと辛い状況でも、いつも通り私に接してくれた。その血を継ぐ孫娘として、弱音なんか吐いていられない。『レキスモン』の美貌や技は失われたが、むしろその時よりちょっぴり強くなれた、そんな気がする。
今日はその報告も兼ねて、家でお昼ご飯を食べたらおじいちゃんのお墓参りに行く予定だ。卒業祝いも貰いっぱなしだから、そのお礼も言いたかった。お供えには大好きな桃のコンポートと、昨日の意地悪の仕返しに海外のあまーいチョコレートも持っていこう。
「残りは何に使おっかなー」
これからの大学生活にさほど大きくない胸を膨らませながら、卒業祝いの使い道を考えながら、私は早朝の青空に向かって繰り出した。
おしまい