あの日俺は、クソみたいなクラゲの雨を見た。
『Everyone wept for Mary』
『迷路』を訪れるような連中は、主に3つのタイプに分類する事が出来る。
『神』の偶像を求めて英雄を夢見る身の程知らずか、
要らない物を捨てに来たろくでなしか、
捨てられた方の、人でなしだ。
まあ何にせよメアリーと俺の『絵本のお店』こと『スー&ストゥーのお店』は如何なる所以を持つ者であろうとも幅広く受け入れ、金か金に該当する対価さえ払えば分け隔てなく夢のような時間を提供する。
お伽噺の妖精が、不幸な子供に幸福を約束するように。
だが、まあ。
往々にして英雄気取りというモノはその大概が、やっている事だけは人並み外れてご立派でも、愛だの正義だの並べ立てる常識ばかりは、月並みで。
そんな訳だから、今日も今日とて『スー&ストゥーのお店』の壁は、俺の稼ぎ以上に景気良く吹き飛んだわけなのだが。
「マンモン」
パートナーの名を呼ぶと、隣に呼び出した太古の昔に滅びた毛むくじゃらの象の似姿が、長い鼻の先から吹雪を噴出する。
当たれば何でも凍らせてしまう絶対零度の鼻息が、本日の不届き者を呑み込もうと――
「シャカモン!!」
――した、が。
距離が開き過ぎていた。
巨象の鼻という鞭は確かに強力で、だからこそ阿呆を打ち据える刑具として俺はマンモンを呼び出したワケなのだが、如何せんこのうすのろは、力ばかりが強過ぎて。
結果として、俺達はむざむざ相手にパートナーのリアライズを許す隙を与えてしまった訳だ。
衝撃の後遺症に脇腹を抑えた坊主頭の男は、しかし果敢にもデバイスを前に掲げ、それに応じたパートナーは、顕現の瞬間すら微動だにしないまま、文字通りマンモンの必殺技『ツンドラブレス』を受け止めた。
身体から溢れ出る黄金の光は瞬く間に飢える季節を再現した風を溶かし尽す。
全く、頭の中お花畑だとオーラまで春風を纏っているものなのか。
俺は究極体の後光相手にはいまいち仕事をしてくれないサングラスのブリッジ越しに眉間を押さえてから、腹立ち紛れにマンモンの前脚を力いっぱい蹴りつける。
図体、実力、詰めの甘さ。それからそもそも象の姿をしている事など全部ひっくるめて、俺はこいつが大嫌いだった。
「パートナーにまでその調子ですか、貴殿は噂に聞いた以上に罪深いお方だ、ゲイリー」
「俺ァ知ってるぜクソ坊主。人間、生きてりゃ何かと罪を重ねるモンだって、ありがたいお教サンにも書いてあるんだろ? なあ、そういう意味じゃあ、俺とお前はお友達だぜ? なんたって、俺らは皆、生きている!」
「しかし貴殿は罪を罪と認め、赦しを貴ぶ心を持たないと見えます。「薬あればとて毒このむべからず」……その毒を、悪徳を更に諸人に振り撒いているとなれば、見過ごす訳にはいきません」
「悪徳ゥ? 勘違いも甚だしいね。まァ、薬は過ぎれば毒となるもんだ。だから俺達の『絵本』を毒呼ばわりする事に関しちゃ56億7千万歩譲って許してやるよ。しっかし悪徳扱いは言いがかりが過ぎるってもんだマイフレンド。メアリーと俺は、人生以前に『迷路』に迷った衆生に、乳粥喰うよりいい感じの『幸せな時間』を提供してるのさ。今からでも遅くはねえ。お前さんの気が変わったなら、お代と店の修理費と引き換えに、好きな『絵本』を好きなだけ用意するぜ?」
「……そも。言葉が、通じていないのですね」
「悪ぃな。サンスクリット語はさっぱりだ」
手持ちの仏教用語をしこたま持ち出して煽ってはみるが、流石に唯一無二の如来型を連れているだけはある。少なくとも坊主頭の外見上に動揺は無く、男のパートナー――究極体デジモン・シャカモンの威光に衰えは無い。
そろそろ、俺の口先三寸だけではもたなさそうだ。
「メアリー!」
振り返って、店の奥へと呼びかける。
「いい加減クレーマーの相手手伝ってくれ! 俺ってば罪深いらしいから、このままだとこいつの頭に燦然と輝く後光で溶けてバターとかになっちゃう!!」
なのに、俺の必死の呼びかけなんて、まるで最初から聞いていないという風に――顔を元の位置に戻せば、俺の目の前にメアリー・スーは立っていた。
「いつの間にかもう居るゥ」
ここで、ようやく坊主頭の男が息を飲むというアクションを見せた。
何せメアリーは絶世の美女。
そこに居るだけでこの世における均衡とは何たるやを物語る身体つき。豊作が約束された稲田のように波打つ金の長髪。左には夕焼けを、右には夜空を湛える丸い瞳。白い顔には左上から右下にかけて、まるで顔を分断するかのような大きな傷痕が走っているが、顔が良すぎてこれっぽっちも気にならない。
纏う衣服すら、彼女をより良く魅せられるよう、何もかもが計算ずく――まあ正確には、頭にちょこんと乗せている、紫地の中に歪な黄色い輪っか模様が描かれた毒々しいデザインの帽子のみちょっとばかし浮いてはいるのだが、こればっかりはご愛敬――なので、
「見惚れたからって、何も恥じる事は無いぜ生臭」
メアリー・スーはいつだって、老若男女、人畜問わず愛される女なのだ。
「っ」
反論しようとする男の前で、メアリーはワンピースの両端をつまんで持ち上げ、頭を下げる。
すると男は言葉を呑み込んで、しかし首を横に振った。
「貴女がメアリーか。……貴女もゲイリーと同じく、考えを改められる気は」
背中からでも、メアリーが嗤ったのが伝わってきた。
そのまま、彼女の口は、裂けたのだろう。
「は?」
俺がその昔丹精込めて作ったメアリー・スーに相応しい皮を内側から剥いで、中から飛び出すのは大きな毒キノコだ。
成長期の植物型デジモン、マッシュモンである。
正体を現したメアリーは、色だけは変わらず左右違うままの瞳をにんまりと潰して、飛び出した瞬間から握っていた、自分を小さくしたかのようなキノコ――正確には、キノコ型爆弾――『ポイズン・ス・マッシュ』を光り輝くシャカモンに投げつける。
ぶつかるや否や、後光に対応して眩く煌めく胞子が、シャカモンの顔面に飛び散った。
あまりに突拍子の無い展開に目を剥いていた坊主頭は、しかし必殺技を使ったメアリーが、デジモンの中でも下のランクに位置する成長期であると認めるなり、うっすらと、唇を弓なりに歪めた。
「ゲイリー。随分と血迷っていたのですね。マッシュモンとは……貴殿の卑しい御商売にはすこぶる便利でしょうが、世代差というモノを御存知ですか?」
「おう知ってるよ。マッシュモンは成長期、シャカモンは究極体」
「であれば」
「まあその辺はどうでもいいんだ。それよりも、底が知れたな、似非坊主」
からん。
からんからんからんからん。と。ひどく小気味いい音が響き渡る。
シャカモンの周りに漂っていた16の球が零れ落ちる音だと気付くのが最後になったのは、誰よりもシャカモンの傍に居た筈の坊主頭の男だった。
「……シャカモン?」
シャカモンはやはり、動かない。
変わらず微動だに、しないのだ。
「なに、を。何をしているんですか!? 『怠条真言』を、『怠条真言』を使って――」
「お前はまァ、ご立派ではあるよ偽坊主。『迷路』の中でまで人の善性を説いてみちゃったりなんかして、なんやかんやとパートナーもシャカモンだもんな」
でも、それまでに積み重ねた功徳とやらは、もはやシャカモンの中には無い。
デジモンと言えど生き物だ。俺達は皆、生きている。
生きている以上、息を吸う。
息を吸うなら、そこにさえあれば、毒の胞子だって吸ってしまうのだ。
「マッシュモンの『ポイズン・ス・マッシュ』にゃ、「記憶を消す」効果があるキノコ爆弾も含まれているのさ。……なァ、積み重ねた研鑽も衆生の救済を願った心もその全てを失った釈尊が、如来のままで在れると思うか?」
「だ――だが、その技は効果が」
「ランダムなんだが、メアリーのそいつは特別製でね。ま、『迷路』と一緒で抜け道は何かとあるもんだ」
ケタケタ。
ケタケタ。ケタケタ。
ケタケタケタケタケタケタケタケタ!
顔というか、身体というか。はたまた柄とでも言うべきか。
そういうものの半分以上を開いた大口で覆い尽くして、メアリーは笑う。嘲笑う。
言葉を持たないその声は、ただ笑うために在るのだと、そう言わんばかりに、笑い転げる。
「でも、まあ」
俺は心地の良いBGMに耳を傾けるようにしてメアリーの笑い声を胸に留めながら、あくまで俺自身は穏やかに、デバイスを操作してパートナーの解毒を試みる男に語り掛ける。
「釈迦の死因って、諸説あるけどキノコで食当りらしいぜ。偶像どもは確かにそれぞれいろんな形で神を真似ちゃいるが、死に方まで良い線行く奴はそういねぇ。そういう意味じゃあメアリーはお前達にも幸運を運んだっつってもいいんじゃないかねェ?」
「ふ、ふざけ――」
「だがまあ、お前の言う通り成長期。直接は無理だ。悪いなァ」
マンモン、と。
また、ずっと隣にだけは居た木偶の坊の名を呼んで。
愚図なりに、マンモンの方も俺の意図は読み取った。
尖った牙を突き刺すだけの体当たり、『タスクストライク』を以って、マンモンは宙に浮かぶだけのオブジェと化したシャカモンにぶち当たる。
巨体に物を言わせた衝突はシンプルであるが故に凄まじく、人に似ているとはいえ究極体の皮膚は継ぎ接ぎの牙の貫通を許しはしなかったものの、シャカモンの身体はそのままマンモンに押され続け――最終的に、『迷路』の壁に叩きつけられて、壮大なノイズを走らせたかと思った瞬間、崩落する壁の瓦礫に混ざるようにして、塵と化して、消えてゆく。
「な、あ」
「マンモン、戻ってこい」
「そん、な――」
「まだ残ってる」
鋭く息を呑む音が耳に届く。
もしや死ぬのはシャカモンだけだとでも思っていたのだろうか。
なんて厚かましい。こちらは店の弁償費用とメアリーのガワの修理代をこの男に払わせねばならず、坊主というのは清貧であると相場が決まっている以上、こいつの持ち物の中で最も価値がありそうな物を請求するのは道理だろうに。
なんて愚かな男なのだろう。こんな奴とは、絶交だ。
なのに振り返ったマンモンは、戸惑うように、まだ、こちらには駆けてこない。
「何してる。早く来い愚図」
マンモンは来ない。
「お前、いい加減に」
と、次の瞬間。
一通り笑い終えたらしいメアリーが、ぴょん、と飛び乗るように坊主頭を押し倒した。
「!?」
「あー……。ったく。マンモン、もういい。メアリーがやるってよ。せめて代わりに、終わったら、片付けとけ」
美女の皮を破いた時のように。
毒キノコの姿が、変貌する。
「ひぃっ!? や、やめ」
めりめり、ばきばき、ぼきぼき、うぎゃー。
色々な音が混じったそいつは安っぽいB級ホラー映画さながらの度を越えた凄惨さで、幸い見世物という訳では無いので俺は構わず無視してメアリーに背を向け、店に空いた穴を開いた扉の代わりにして室内へと戻る。
戻った瞬間、見知らぬ少女と、目が合った。
「……」
「……」
俺がメアリーに背を向けていて、
この娘が俺を見ている以上。
背景にあるスプラッタ劇場も、一部なりとも視界に収めている筈なのだが。
少女はさっきのシャカモンかと思う程、眉ひとつ動かさず、俺を見ていた。
「……どちら様?」
声を絞り出す。
見られていた事自体にそう困る点は無い。『迷路』じゃ日常茶飯事の部類だ。メアリーのそれはちょいとばかり勢いがあるし、加えて麗しの美女たるメアリー・スーの中身がアレである事は極力伏せておきたい事実だが、知ろうと思って知れない事でもないし、見ようと思って見れないものでも無い。
ただあの騒ぎの中、穴の開いた建築物の中に、涼しい顔で椅子に腰を下ろしているとなると、肝っ玉の太さ云々のみで片づけるにはちょっとばかし気色の悪い感覚も覚えずにはいられなくて。
だが、それでも。
ここに人間が来た以上は、俺は店主のゲイリー・ストゥーとして、相手の年齢も素性も関係無く、こう尋ねなければならないのだ。
「もしかして、お客さんかい?」
と。
「……」
少女は答えない。
しかしこれでは話が進まない。沈黙を肯定と取る事にして、俺は饒舌に声を張り上げる。
「それなら当然大歓迎だ! メアリーと俺の『スー&ストゥーのお店』は、いつだって誰だって絵本の中のお伽の国へ、夢のような時間へご招待するぜ! さあ、今すぐ『絵本』を用意しよう。お嬢ちゃん好みの物語を教え」
「お父さん」
ようやく。
ただ俺の目を見ているばかりだった少女が、ようやく放った一言は、役立たずのマンモンの『ツンドラブレス』よりもはるかにすみやかに、俺の全身を凍り付かせた。
釈迦の死因はキノコで食当り(※諸説あります)なので、マッシュモンならシャカモンに勝てると思ったんです。そう思ったら、物語が始まっていました。
どうも、投稿したタイミング的にはさっきぶりといった感覚の快晴です。『Everyone wept for Mary』をご覧いただき、誠にありがとうございます。
タイトルは「皆がメアリーのために泣いた」をグーグル先生に訳してもらったらこうなりました。もし英語が変だとしたら、それは私では無くグーグル先生のせいです。
前作『0426』は楽しんでもらえたでしょうか。楽しんでもらえた人も、そうでない人も、これを読んだ以上はこの先は、あるいはこの先も、どうか私にお付き合いください。ここが地獄の一丁目です。対戦よろしくお願いします。
こんな風にハイスピード投稿してしまっているのは、アレです。小説の息抜きに小説を書くとか、アホな事やってたからです。
まあ前々作『デジモンプレセデント』がサロンで完結した時の『0426』同様、出来ているのは2話の途中くらいまでなので、結局のところ前回同様の見切り発車なのですが……出すものを出しておかないとどうしても落ち着かないので……。
今回はなるべくテンポよく、細かい事考えずにジャイアントキリングとか俺TUEEEEをやっていける作品を書きたいな、と考えています。メアリー・スーものだし。
あと、なるべく世代の低いデジモンの能力の有用性をね、探っていきたいよね。そして行く行くはマッシュモンが最強のデジモンである事を布教していきたい。……俺はどこに向かっているんだろう……。
さて、次回は主人公ゲイリー・ストゥーを取り巻く人間関係、『迷路』の住人達。的なお話になります。
投稿がいつになるかはわかりませんが、とりあえず年内に1作品出すのが現在の目標です。
どうかお付き合い頂けるよう、今回も頑張って行こうとおもいます。
それではまた、『Everyone wept for Mary』第2話でお会いしましょう。
第一話
人間の世の中は便利になり過ぎて、
電子情報の網は複雑になり過ぎて。
だからだろうか。
ある日突然、世界中のインターネットに接続できる機器という機器から、怪物どもが、飛び出した。
デジタルの世界から来た怪物だからデジタルモンスター、略してデジモンとまんまな名前を付けられたそいつらは、人間と同じように色んな考え方の奴がいて、大分かいつまんで話すと世界は無茶苦茶な事になって、でも人間に味方するデジモンが人間と協力してデジモン側から見てもやべえ怪物をぶち殺して、一応、まあ、最終的に、世界はそれなりに平和になったらしい。
しかし人の営みは未だ完全には取り戻されてはおらず、特にデジモンの出現と同時に各所に現れた複雑怪奇な巨大空間、通称『迷路』は、人々の生活に影だったり光だったりを落とし続けている。
……というのが「住所:『迷路』のどっか」たるこの俺、ゲイリー・ストゥー(なお偽名だ。旧時代だと日本と呼ばれていた国の出身者は、基本的に名前に伸ばし棒を付けない)が知り得る全てであり、ぶっちゃけた話、外が今どうなっているのかなんて、時折うちの店の客が素面の内に小耳にはさむ程度の知識しか無い。
聞いた限りはそう変わってないらしいけど。
なので当然、自分に娘が居たという事実も、今日初めて知った。
「あー…………お嬢ちゃん。残念だけど」
いや、落ち着け俺。
居る筈が無いじゃないか。娘なんて。
確かに、年齢的には俺自身、このくらいの子供が居てもおかしくは無いが
「いいかい? こどもっていうのは、コウノトリさんが、運んでくるわけじゃアないんだ。おとこのひとと、おんなのひとが、こう、ちゅーよりくちゅくちゅぺちゃぺちゃ音がなる事をしないと、できないんだよ?」
「……」
「おじさん、おんなのひとと、ちゅーすらしたこと、無いんだぜ?」
「でも、お母さんは言ってた。あたしのお父さんは、『迷路』の中で絵本屋さんをしてるって」
んな訳があってたまるか。
そもそも俺が何歳の時に『迷路』に入ったと思ってるんだ。
「そりゃ、あれだ。歌の話だろう? 『迷路』のお歌の。俺は」
「それから、あたしの名前は、オジョウチャンじゃなくて、リンドウ」
口の中で、自分の言おうとしたモノが霧散したのが解った。
「あの女」
心当たりを尋ねるため、代わりに用意した言葉が震える。
「今、どうしてる」
「……」
「死んだのか、あの女」
「うん。死んじゃった」
やはり『迷路』の外も、今でも大概、碌でも無いらしい。
サングラスを外して少女の顔を覗き込む。
頷く少女――リンドウの顔色は、青にも赤にも変わらなかった。
彼女はずうっと俺を見つめていて、言われてみれば、確かに見知った影を覗く事も不可能では無くて。
「それで、お母さん。死ぬ時あたしに、『迷路』で絵本屋さんをさがしなさいって」
そしてあの女の人生も、結局大概、碌でも無かったらしい。
そうでなければ甘酸っぱい初恋の思い出を時折懐かしみはしても、娘の生きる縁にまではしなかっただろう。「寝る」という言葉が文字通り睡眠の意味しか持たなかった当時の俺とは違って、実際にあいつとヤッた男はあいつより先に死んだか別れたか。前者であれば人の世は無情で、後者であれば人の世は不条理だ。
やはり『この世』に、神も仏もあったものではない。
視界に暗がりを被せ直して天井を仰ぐ。
なあ、アカネ。お前がそんなに重たい女だって知ってたら、俺だって引きずる覚悟くらいは決めたのにな。
と、突然。壁が壊れてこれ以上の衝撃は非常にマズいデリケートな店内をあえて揺らすような大きさで、女の笑う声が響き渡る。
何事かと振り返れば、瓦礫を跨ぎながら金髪美女の皮のスペアを被り直したメアリーが、腹を抱えて大笑いである。
膝をバシバシと叩きながら過呼吸一歩手前の彼女は、いくら顔が良いと言ったって破顔っつーのはようするにこんな顔なんだなといった感じの状態で、俺は「笑顔の素敵な女性」の笑顔にも限度があるという事をこの歳になって1つ学んだ。
「おいおいメアリー。あんまり笑ってくれるなよ。というか俺だって状況をよく呑み込めちゃいねェんだ。っていうか、笑いの種にしてるくらいなんだからメアリーはもう何もかも解ってる感じ? なんたって天下のメアリー・スーだし? だったら笑ってないで状況を説明しておくれよメアリー」
俺の懇願などまるで無視して、しかし声量だけはミュートに切り替えると、メアリーはすたすたと俺の脇を通り抜けてリンドウの傍まで足を進める。それから身を屈めてリンドウと視線を合わせ、次の瞬間小さな掌で彼女の顔を包み込んだかと思うと、遠慮を知らないガキが可愛いという理由だけで犬猫を撫でる時のように、わしわしとリンドウの顔をもみくちゃにし始めた。
「あっ、おい」
案の定、やはり表情には出さなかったが嫌ではあったらしい。
リンドウはメアリーの手を振り払うと、身を潜める小動物のように俺の背に回って足元にしがみついた。
メアリーはそんなリンドウをじっくりと眺め、やがてくすくすと、そこだけは上品に微笑んだかと思うとくるりと回ってこちらに背を向け、弾むような足取りで、店の奥の階段から、地下室へと消えていく。
「驚かせてすまなかったな、お嬢ちゃん」
「……リンドウ」
「はいはい」
「あの子」
「うん?」
「なんにも声が、しなかった」
まあ、そりゃデジモンだからな。……と、言いかけて、『迷宮』の外のデジモンは普通に言葉を介するんだと思い出して、加えてメアリーも本来であれば外に居た筈のデジモンなので、余計な事は言うまいと出しかけた言葉を振り払う。
……ああいや、しかし。「声がしない」というのはおかしな表現だ。メアリーはあんなに楽しそうに笑っていたのに。
「声がしないってこたァないだろうお嬢ちゃん」
「リンドウ」
「へいへい」
「お外の」
「ん?」
「お外の象さんは、ちゃんと「かなしい」って言ってた」
「リンドウ」
思わず反射的に、俺はリンドウの両頬を右手で掴む。
「このまま名前で呼んでやるから、あの愚図の話を俺の耳に入れないでくれ」
「……」
「約束できるかい?」
「……うん」
妙な間は無いでも無かったが、反応はいたって素直だった。
俺はそっと、どうにか力を籠めずにはいられた右手をリンドウの頬から離す。
「悪かったな」
「平気」
「ところでおじょ……リンドウちゃんは」
「リンドウ」
「……リンドウは、もしかしてアレかい? デジモンの言葉が判るとか、そういう?」
「お父さんには、わからないの」
「さっぱりだよ」
アカネにそんな力は無かった筈だから、父親由来成分か、あるいは時折現れる、人間からすればまるで理解でない基準で選ばれる子供枠だったのかもしれない。リンドウは。
子供の言う事を一々鵜呑みにする道理は無いが、しかしリンドウの言葉を信じるとすれば、疑問はひとつ、解消される。
即ちリンドウが身一つで、どうやって『迷路』のそこそこ奥にあるメアリーと俺の店に辿り着いたか、だ。
デジモンの『声』が聞こえるなら、彼らを避けて歩く事自体は不可能では無い。
なんと言っても、『迷路』は広いのだ。
「リンドウ。念のため聞いておくが、パートナーデジモンは」
「……?」
「……いや、いい。少しだけここで待っていてくれ。ちょっとメアリーとお話してくる。マンモン! 来客があった時だけ教えろ!」
俺もメアリーと同じように地下室に降りた。
来るまでに一度振り返ったが、リンドウはまるで人形のように言われた通り、元の椅子に腰かけ直して動こうとしていない。
この調子なら大丈夫だろうと足早に階段を駆け下り、メアリーの仕事場――『製薬所』の扉を開く。
壁面の巨大スクリーンで自分のコピー――ドットで表示された大量のマッシュモン――を値踏みするように眺めていたメアリーは、にこやかに俺を出迎えた。
「なあ、どうする」
メアリーは小さく首を横に傾けた。
「何って、あの子の事さ」
得心したように(最初から解っていたくせに)大きく頷くと、彼女は机に積まれた鮮やかな絵本の表紙をとんとんと細い指先で叩く。
ここは『スー&ストゥーのお店』――絵本の店。
来る者は拒まず、年端もいかない自称俺の娘だろうとそれは例外では無い。
対価であるなら、オマエの戸惑う顔で十分だ。
……とでも言っているとしか思えないにんまり顔で、少なくともメアリーは、リンドウを追い出す事を想起させるジェスチャーは使わなかった。
「んな余裕あるのかね」
メアリーはもう一度、今度は少々強めに、絵本を突く。
「「働け」って? はいはい、スー大尉の仰せのままに」
自分の甲斐性の無さに肩を竦めてから、俺はぬっと手を伸ばし、メアリーの見ていたスクリーンを操作する。
マッシュモン畑から画面を切り替え、別のストレージから、1体のデジモンを選択した。
「まあ、何にせよ店に置いとくっていうなら護衛の一つも必要だ。こいつはそっちに使っていいな? メアリー」
頷きすらせず、しかしEnterのボタンはメアリーが押した。
途端、俺達の背後にあるパネルの上に、耳の部分が青く光る蝶の羽根になった白い生き物――鱗粉を『絵本』の材料に使うために確保していた成長期の昆虫型デジモン・モルフォモンが実体を取り戻す。
当初はくたっ、とぬいぐるみのように座り込んでいたモルフォモンはやがて、ふと我に返ったかのようにあたりを見渡し始めた。
ここは、どこなのだろう。と。
「おはようモルフォモン」
俺は歩み寄って、モルフォモンに視線を合わせる。
途端、おずおずと近寄ってきたモルフォモンは、耳と同じように蝶の羽を模した手で、俺の顔を触り回す。
……こいつがその気になれば麻痺の効果がある鱗粉が顔面に付着する事になるので、俺は慎重に、声量を抑えて「アンゼンダヨー」と嘘ではないが心もとない自己アピールでモルフォモンに訴えかける他無い(メアリーはそんな俺の様子を心底愉快そうににまにまと眺めていた)。眼球だけはサングラスが守ってくれるとは思うが、俺の防具はそれだけなのだ。
やがて、俺の主張は受け入れられたようだ。モルフォモンはにこり。どこかのメアリー・スーと違って恐らく純正品の屈託の無い笑みを浮かべて、俺の足にぴとりと抱き着いた。
OKOK。第一関門はひとまずクリアだ。
「じゃ、俺は店に戻るから、『絵本』の方は頼んだぞメアリー」
しっしと追い払うような仕草と笑顔を交えたメアリーの見送りから目を逸らし、俺はモルフォモンに着いて来ているのを確認しながら元来た道を引き返す。
1階の店に戻れば、時間の経過を忘れさせるほどそっくりそのまま、瞬きをしてくれなきゃ良く出来た人形なんじゃないかと勘違いしてしまいそうなリンドウが変わらず椅子に腰かけている。
「リンドウ、待たせたな」
ほら、と。俺はモルフォモンに、俺から離れてリンドウの方に向かうよう促す。
成長期らしく好奇心は相応にあるのか、モルフォモンはそのままとてとてとリンドウの方へと向かい、それが自分の所にやって来たのを確認したリンドウは前で固定していた視線を落として、自分のふとももに気安く触れるモルフォモンの頭を撫でた。
相手がデジモンでは無く、そしてリンドウが無表情でさえなければ、なかなかに心温まる絵面だ。
「この子は」
「モルフォモン。ウチの『絵本』の材料の1つだ」
「……きれいな青色」
「そうだな。人魚のお姫サマが捨てた海の青にも、カイルの胸に刺さった氷の鏡の破片にも。なんなら、いつだって猫をも殺す好奇心旺盛な妻しかもらえない、冷酷な城主殿の髭の色にだって。沈んだ青になら何にでも。モルフォモンの鱗粉はよく映えるだろうさ」
ぺらぺらと口を回しつつ、リンドウにモルフォモンの青を美しいものだと認識する感性があった事に俺は驚いている真っただ中だ。
……いや、そうか。彼女の弁を信じるなら、リンドウはアカネの子だ。だとしたら、心が凍って砕けたとしても、それまでに積んで重ねた情緒のカケラくらいは、まあ、残っていてもおかしくはあるまい。
「それから」
だからだろうか。俺自身、とんとおかしな気紛れが働いたらしい。
気が付けば、右手がリンドウの頭を撫でていた。
「名前の通り、お前にも」
きょとん、と。
方や無表情。片や無邪気。同じ無から始まる言葉でも印象は真逆。ただし言葉にしてしまえばおおよそおんなじ視線が俺の方へと向けられて。
何をやっているのだろうと、俺はリンドウに乗せていた手を回収するなり自分の頬を誤魔化すように引っ掻いた。
「まァ、そういう訳だから。モルフォモンはリンドウ、お前の好きにするといい。デバイス……デジモンを飼うのに必要な道具は今すぐは用意しちゃやれないが、よっぽどの事が無きゃ悪さをするようなデジモンじゃねェ筈だ。だから少なくとも、今日一日は。モルフォモンと大人しく遊んでてくれるかい? リンドウ」
多くを理解している風では無かったが、解らないなりに解る部分には従順でいてくれるらしい。
リンドウは何一つ口答えせずに小さく頷いて、本当に何にも解っちゃいないだろうが久々のお外が多分嬉しいモルフォモンに手を引かれるまま、立ち上がる。
急に動き出したのは、人の気配を感じたからか。勘は鋭い方だと見た。「成長期にしては力が強い」程度の能力持ちよりは、よほど安心してリンドウを任せられそうだ。
「さて、それじゃア俺は仕事があるから、リンドウはモルフォモンと一緒に奥のお部屋で遊んでてくれ。本棚に入ってる絵本は好きに読んで良い。だけど、それ以外の場所にある『絵本』には絶対に触らない事。約束できるか?」
リンドウはまた、ただ頷いた。
これまでの様子を見るに、恐らくは大丈夫だろう。
大丈夫でなければ残念ながら、それまでだ。
たとえアカネの娘だとしても、『絵本』を開くなら以降は客。そこの線引きを曖昧にできる程、俺は出来た男では無い。
まあただ、最低限のエスコートとして奥の部屋――俺の自室への案内くらいはしてみせて、そうして1人、俺は自分の定位置へと戻る。
入り口(現在は大穴)入って左側。半分吹き飛んだカウンターの奥。倒れていた椅子を立てていると、どうやら客がやって来たらしい。
「ようゲイリー。生きてるか」
「死んだ覚えはねェからな」
入り口(だったもの)を無遠慮に踏みつけている程度には馴染の客だ。初見のヤツだったら念のため、またメアリーを呼ばなきゃいけないところだった。1日に2回も来てほしくはないが、英雄気取りはいくらでもいる。
全くマンモンのヤツ。どこで油を売ってるんだ、あのうすのろめ。
「おう、マンモンが1匹で向こうに歩いてくのが見えたから、今度こそ死んだのかと思ったぞ」
「ほっとけあんな愚図。俺ァ目の前のお客様が大事なんだ。なんたって、お前さん『絵本』を買いに来たんだろう?」
「商品は無事なのか? いつも以上に酷い事になってるが」
「ちょいとばかし散らかっちゃいるが、今からお前はお伽の国に招待されるんだ。心優しい妖精は、ボロ屋住まいにこそ特に甘いモンだ」
「よく言うよ」
客の浮かべる下卑た笑みは、お伽噺の主人公には程遠い。悪党と相場が決まっている、ずるがしこい狐や腹を空かした狼だって、イヌ科の恩恵でもう少し愛らしい面してるだろうに。
まあ何にせよメアリーと俺の『絵本のお店』こと『スー&ストゥーのお店』は如何なる所以を持つ者であろうとも幅広く受け入れ、金か金に該当する対価さえ払えば分け隔てなく夢のような時間を提供する。
ちょうどチャリンと音を立てて、対価はカウンターの上に投げ置かれた。
俺は愛想よく微笑んでデバイスを操作し、背面いっぱいにスクリーンを、巨大な電子の本棚を展開する。
これは全て、絵本の形をした電脳の麻薬。
メアリーの胞子を詰め込んだ、それぞれに効果は違うがどれもこれもが確かな幸福を約束する、素敵な魔法の『お伽噺』だ。
「最後にはぴたりとガラスの靴が嵌まるような、一夜の幻だけでは終わらない気分の良さをお求めかな? それとも死んでもいいから食べたくなるほど艶やかな毒林檎もあっさり吹き飛ぶ、目覚めのキスのように強烈な物を? 朝日が昇っても白鳥の飛び立たない、静かな湖畔のような爽やかなヤツもある。さァ、お客さん、好きな物語を。スーとストゥーの『絵本』のお店は、いつだって夢のような時間を約束するぜ?」
*
いつの頃からか。少なくとも俺が最初に『迷路』の外に出るよりも前。
こんな歌をどこからか、いつだって誰かが囁いていた。
『迷路』のどこかに不思議な絵本を売る店があって、『迷路』に迷った可哀想な輩を、どこの誰だろうと助けてくれるのだ、と。
それは所詮、どこかの誰か。もっと言うなら捨てて置かれた哀れなガキが夢見た、お伽噺にもなれない与太話だった。
誰も彼もが夢見る程度には、希望と諦めに満ちた噂話だった。
クソッタレなクラゲの雨の中、俺が『迷路』に、帰るまでは。