Episode キョウヤマ コウキ ‐ 2
ストラビモン。
それは、光の闘士が力を失った姿で――今のハリは、まさしくそれだった。
「……ハリ」
もはや吹雪の元凶が姿を消したとはいえ、未だ雪と寒さが残るその中で、ハリは1人、森の方を向いて佇んでいた。
足を、進める。
「ハリ」
進めながら、彼女の名前をもう一度呼んだ。
それでも振り返ろうとしないハリの元に歩み寄って、肩を掴んで、振り向かせる。
……そんな事を、しなければ良かった。
「マスター……」
暗い瞳だった。
カンナのモノとはまた違う、昨日見せた恐怖の瞳でも無い、深い海の底ではなく、高い夜空の奥のような、そんな――仮にも光を纏う存在とは思えない、そんな瞳を、ハリがしていた。
「ハリ……」
「申し訳ありません、マスター。……このような姿である事を、どうか、お許し下さい……」
「……戻れないのですか」
こくり、と、ハリが頷く。
「デジタルワールドを出れば、その限りではないとは思います。ただ……この先も光のスピリットでは、私はこの姿にしかなれないでしょう」
もはや光のスピリットは、単純な鎧としてすら機能しなくなり始めているらしい。
……それが、このスピリットの正義であるとすれば――ワタクシは――
「あの時、私が飛び出すべきでした」
ハリの震える声に、ある筈も無い中身がざわつくような――そんな、感覚を覚える。
「……あの時?」
「カジカPがチャックモンの攻撃対象となった、あの時です。私は、彼とピノッキモンの護衛任務をマスターに任されていたにもかかわらず――」
ピノッキモンは、古代木の闘士が残した『記録』を受け継ぐ者だった。
彼はワタクシ達の父親――あのキョウヤマ博士に対抗する手段を探す上で、重要になってくるに違いない存在で。
それは――つまり――
「チャックモンに貫かれていたのが私であれば、ピノッキモンは――」
ハリの言う通り、ピノッキモンの重要度は、今やまともな戦力とはとても言えない状態になってしまったハリよりも遥かに高い。
それは、揺るぎない事実だ。
……なのに、ワタクシは想像した。想像してしまった。
ストラビモンの姿で、真っ直ぐに胸を貫かれるハリの姿を。
たとえハッカー・ゼペットの腕前をもってしても、もしくはカンナの技術をもってしても――人間である以上確実に致命傷となる位置に穴の空いた、ハリの姿を。
……気が付けば、ワタクシはハリを強く抱き寄せていた。
何故。何時の間に。どうしてワタクシは――こんな事を?
「マス、ター……?」
ただ確かなのは、これは今朝がた、カンナから発想を得た通りにハリに「してみた」だけの抱擁とはまるで別の行為で――あの時に負けず劣らず、ハリは困惑している、という事で。
「ハリ」
しかしそれ以上に自分が何をしているのか、未だに理解が追い付かないワタクシ自身は――その後口走った言葉さえ、何を思って言ったのか、解らなくなってしまった。
「貴女が無事で、良かった」
*
「……」
呆れて物も言えない、という状態は、まさしく今現在のカンナとスカモンの事を言うのだろう。
しかし何故そういう状態に陥っているのかは理解が出来なかった。
……まあ、自分自身の事にさえ思考が追い付かないワタクシに呆れているのだとしたら、それは確かに、もっともな事ではあって――
「アンタ、筋金入りのアホだね」
「……」
「あんたの受け継いだ『鋼』の一文字、そのアホに入った筋金の事を指してんじゃないの? どうしてハリちゃんが絡むと途端にそう……そう、ポンコツになるんだい」
「ワタクシが……ポンコツ」
ポンコツ。
ポンと殴るとコツっという音がする、というのが語源らしい。もう、その語源からしてどうしようもなく間抜けな称号が、このワタクシに。
「ぽん、こつ……」
「カンナ、カンナ。コウキちゃん固まっちゃったわヨ?」
「ああもう、全く……」
カンナが頭を抱えているようだが、そうしたいのはこちらも同じだ。
一体この女研究者は、鋼の闘士を何だと思っているのだろう。
……ピノッキモンの館周辺での戦いから一夜明け、カンナの研究室のパソコンには1体のルカモンが、悪夢のように、出現していた。
曰く、それは未だ回復状況が芳しくないピノッキモンが、それでもこちらに提供すべき情報の一部をアルボルモン――ゼペットの力を借りて纏めたものらしく、ルカモンが常に浮かべている、デスクトップの画面を無駄に圧迫する大きな吹き出しに聞きたいことを打ち込めば教えてくれる、という、ものらしい。
昨日の事もあって真っ先に「お前を消す方法」と入力し始めたカンナを止めるのは、ワタクシとスカモン、2体がかりでもそれなりに骨の折れる作業だった。
気持ちは解らなくは無いし、恐らくワタクシがカンナの立場なら、同じことをしていたかもしれないが。
その後、どうにか落ち着かせたカンナと共に古代十闘士のアーカイブを一通り閲覧し――一息ついた時にふと、昨晩のハリとのやり取りについて、カンナに助言を求めたのだ。
求めた結果が、ポンコツだった。
ポンコツ、だった。
「……いいかいメルキューレモン」
こつんと響く以上に頭の中で反響し続ける間の抜けた単語を追い払うようなカンナの声に顔を上げる。
「何ですか」
「そこそこ真面目な話さ。……デジモンとしての特徴以上に機械じみたアンタにゃ理解しづらい話かもしれないけどね」
「……聞きましょう」
雰囲気の変わったカンナに、ワタクシも姿勢を正す。スカモンは自身のパートナーを、何処か心配そうに見上げていた。
「個人的な視点で見た時に、命の価値っていうのは、決して平等じゃあ無いのさ。……優先順位、って言うべきかね? アンタは鋼の闘士として、重要な情報を持ってるピノッキモンの命は、ハリちゃんの命よりも重いと感じた。そうだね?」
否定は、しなかった。
「でも、ハリちゃんの口から実際に可能性と向き合う羽目になって、ハリちゃんの命とピノッキモンの命を天秤にかけた時に――こんな言い方は酷かもしれないけど、あえて言わせてもらうよ。「ああ、氷柱が刺さったのがハリじゃなくてピノッキモンで良かった」……そう思ったんだろう?」
「……」
やはり、否定は、出来なかった。
そこまでの事を言うつもりは無かったが――だが、確かに、ワタクシがハリの言葉に対して抱いたものは、そういうものだったような気もした。
「ですがワタクシは、個人的な視点を優先させるべき存在ではありません。今回は、結果としてピノッキモンは助かり、ハリもまた、怪我をする様な事が無かったから良かったものの――」
「実際に天秤にかけなきゃいけなくなった時に、ハリちゃんを優先しちまうようじゃ困る、って言いたいのかい?」
「ええ」
殴られた。
頭部への、拳骨である。
最も、ワタクシの身体は人間形態だろうと材質は鋼のままなので、前回の平手打ちと同様、本当に痛い思いをするのはカンナの方なのだが。
「~~~~っ」
やはり、「コツ」では済まなかったらしい。
……そんな音が鳴らなくて良かったと、そう痛みもしない頭でぼんやりと、そんな事を考えていた。
「ば、馬鹿たれが!」
結果、普通に罵られた。
この状況だと、ただの負け惜しみ的なものにしか見えないのだが。
「……罵倒の前に、突然の暴力に対する理由の説明をお願いできますか?」
「ああ言ってやるさ! 素直に喜べってんだよこのバカ! 実際にそういう状況に直面したならともかくハリちゃんには何ともなかったんだから、あれこれ難しい理屈くっつけてないで妹の無事を喜んでやれってーの、バカ!」
「……」
ポンコツの次は、バカなのか。
どうもカンナという女性は、感情が高ぶると語彙力に偏りが出る性質があるような気がする。
いい加減この不名誉な呼称に対する反論をするべきか、しかし言われている事自体は理解できなくも無いのでこのまま叱られ続けた方が良いのか――悩んでいると、不意にスカモンがワタクシの足元へと、飛び跳ねてきた。
「? 何ですか、スカモン」
「いや、コウキちゃんがハリちゃんとの接し方がヨく解んないって言うなら……一度ゆっくり、2人だけで過ごしてみたらどうかと思ってね?」
「2人で?」
こくり、とスカモンが小さく頷く。
言われてみれば、ここに来る以前はそれなりに多くの時間をハリと共に行動していたが、最近ではカンナのところにいる割合も多い。
最も、それはハリにしても同じで、タジマ リューカや、……不本意ながらカガ ソーヤと供に居る事もしばしばなので――ハリと過ごす時間、というのは、実質就寝の時刻だけになってしまっている気がしないでもない。
……きっと、その方が良いのだろうが――スカモンはどうやら、そうは思ってはくれないようだ。
「ほら、せっかくコウキちゃん夏休みなんだから、ハリちゃんの事、どっかに連れて行ってあげなさいヨ! 1ヶ月も無いのは事実だけど、1ヶ月あるのよ? 1日くらい息抜きしたってバチは当たんないわ」
「夏休み……」
一応は、そういう設定だったか。
しかしあれは、エンシェントワイズモンがこちらに与えた猶予を茶化しただけに過ぎない単語で――
「いいじゃないか、夏休み」
ぎい、と、腰かけたイスの背もたれを軋ませながら、落ち着きを取り戻したらしいカンナが腕を組んだ。
「流石にまだ処理する情報がたくさんあるから、今日明日って言われるとアタシも困るけど――それ以降なら、この際だ。丁度いい機会だと思って、ハリちゃんと向き合う場を作った方がいい。行ってきなよ」
「……」
「命令」
にこり、とわざとらしく微笑むカンナ。
嗚呼――そう言われてしまえば、仕方がない。
「命令を承諾しましょう、マスター」
「マスターはやめろっつってんだろ、全く。……まあいいや。スカちゃん」
「何かしら?」
「どーせ出かける当ては無いだろうから、プラン考えてやってよ。そういうの得意だろ?」
「ま、カンナヨりはね。ちョっと検索機能借りるわヨ」
「あいよ」
カンナの差し出したスマートフォンに、スカモンが飛び込んでいく。カンナの言う通り、遊びに行けと言われても具体的なプランに関しては完全にワタクシの専門外なので、その辺りに思考回路を裂かなくてもいいのは、それなりに行幸ではあった。
「さて、と」
スカモンを見送ってから、カンナはぐっと腕を伸ばす。
「スカちゃんに頑張ってもらってる間に、こっちも解析を進めるとするか」
そう言って、カンナは机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは1枚のディスク――ワタクシの右側のイロニーの盾を、変形させたものだ。
カンナに貸し出した際に、ワタクシの持ちえる現代の十闘士の情報も入力してある。入手した古代十闘士の情報と併せて、データを整理するつもりなのだろう。
ディスクを挿入した彼女が全ての集中力を手元のパソコンに向け始めたころを見計らって、任されている雑事に取り掛かるために研究室にもう一台備えられているノートパソコンとワタクシも向き合い始める。
カンナの収入源だという進化コードの解析等もあるにはあるのだが、基本的にはそれ以外の事務処理がほとんどだ。
別に苦でも何でも無いのだが、多少、面倒くさい物が多いような……。
と、
「メルキューレモン、ちょっといいかい」
不意に手を止め、手招きするカンナ。
パソコンを一度閉じて、彼女の背に回った。
「何でしょう」
「いや、十闘士のデータの事なんだけど……アンタのビーストスピリットの情報、入って無いからさ」
「ああ」
そういえば、あの時点では流石にそこまで手の内を曝す気にはなれず、ワタクシのビーストスピリットの情報までは提示していなかった気がする。
カンナの方もカンナの方で、無理に聞く必要は無いと判断していたのだろう。ただ、今回エンシェントワイズモンのデータを入手した以上、比較したくなったのかもしれない。
「少々お待ちを」
パソコンの、ディスクの入っている辺りに触れる。数秒後、フォルダの画面に項目が追加された。
「ん。あんがと」
早速確認を始めるカンナ。自席に戻ろうかと思ったが、補足が必要な可能性も考えて一応、留まっておく事にした。
……しばらくし黙ってファイルを確認していたカンナだったが、画像データを見るなり、マウスを操作する手を止める。
「……」
ワタクシのビースト形態――セフィロトモンの画像が、映し出されていた。
「……」
「カンナ」
「……何」
「何か言いたいことがあるなら、どうぞ」
「……」
「カンナ」
「…………」
その時だった。
「はぁ~い、色々見てきたからちョっと休憩ね!」
パソコンの隣にあるスマホからリアライズして、すぽっとカンナの膝の上に収まるスカモン。
当然その視線は、パソコンの画面へ。
「ん? 何コレ? はぁ~……スカちゃんが言うのもなんだけど、気味の悪いデジモンねぇ。同じ緑色だけど、ヌメモンと違って愛嬌すら無いわ。古代十闘士の1体?」
「ワタクシのビースト形態です」
「……用事思い出したから、スカちゃん行くわね!」
再び、スカモンの姿がカンナのスマホへと消えていった。
「……いやー、スカちゃんがごめんねメルキューレモン! 悪気があった訳じゃないんだよ! うん!」
「カンナ、ワタクシの目を見なさい」
「……」
「カンナ」
「…………」
この女は……!
結局こちらと目を合わせる事も無く「いくつか質問してもいいかい」と若干お茶を濁すように切り出すカンナ。追及し始めたら埒が明かないので、もう、いっそ、流しておく事にする。
「どうぞ」
「まずは――名前は、セフィロトモンか。まんま『セフィロトの樹』だね。ロゼモンについて調べた時に見た事あるよ」
「ではご存じでしょうが、この中央の球が『ティファレト』――ロゼモンの持つ宝珠と同じ意味を持っています。一応、ここがワタクシの本体、という事になります」
「うっへ似合わない」
段々と取り繕う気も無くなってきたと見える。
「……シンボルも同じだね。愛と美を意味するんだっけか。……ティファレトのシンボルは、選ばれし子供たちの紋章――『光』の紋章とほとんど同じデザインだって、研究者界隈ではちょくちょく話題になってるよ。あっちはあっちで、進化と美を司るって聞いたけど……進化と愛をイコールで結ぶってのがあの紋章の役割――つまり、人間とデジモンの架け橋となるのが『光』なんじゃないかってのがまあ、一般的な見方さね」
「……」
「どうしたんだい、急にニヤニヤしちゃって」
自分でも気が付かない内に笑っていたらしい。
カンナ――というか、人間の学者たちの推論は、的外れという訳では無いのだが――
「その資料、もう少し先まで読んでいただけますか?」
「? まあ、元から読ませてもらうつもりだったけど……」
言われた通りにして、おおよそワタクシの意図を察したらしい。カンナが再び顔を上げた。
「この闘士が、十闘士の属性を扱える……ってとこまで読んだ」
「ええ。ワタクシの必殺技は『反射』と『消去』……言ってしまえば、攻撃に対する拒絶ですね。一方こちらのワタクシの能力は『吸収』と『放出』……つまり、相手の攻撃をあえて受容しています」
「そのためには十属性全部持ってないと、って訳か。十闘士の属性、って言うけど、古代十闘士が後のデジモンの祖になっている以上、ほとんど全てののデジモンを十属性に分類できるって事だから――ふうん。中々面白いじゃないか。ヒューマンとビーストで似た様な事やってる割にその実性質は真逆ってのも、興味深い」
いつの間にか、カンナの目が研究者らしい光を帯びている。
そういえば昨日、ピノッキモンの話を興味深いと言いつつ必要な個所だけ聞きたいという風に振る舞っていたのも、もしかしたら、聞いている内に自分の好奇心を優先させてしまうかもしれないという懸念があったからなのかもしれない。
知りたがる心、とでも言うのだったか。カンナとしては不本意かもしれないが、後々彼女の益になる知識には違いない。
たまには、こういった情報を披露するのも、悪くは無いだろう。
……それによって、ワタクシがポンコツではないと理解してもらえればなお、良いのだが。
「それではここで問題です、カンナ」
「ん?」
「ティファレト――この部分の属性は、一体何だと思いますか?」
カンナは右手を顎に添えた。
「えっと……わざわざそんな事聞いてくるって事は、鋼では無いんだろうね。それから、光でも」
「ええ」
頷いて見せると、カンナは彼女にしてはやや長い沈黙の後――
「まさか、闇?」
「ご名答」
正解を、言い当てた。
「愛と美――あるいは進化と美のシンボルが、闇、ね……」
画面を画像データへと戻し、食い入るように見つめるカンナ。
「進化……俗称とはいえ、暗黒進化ってやつは、確かにある……でも本来、進化に善悪も貴賤も無い。等しく『前例』たりえる……大事なのは、強いか、そうじゃないか……」
ブツブツと、言葉を並べながら考えを纏めているらしい。
不安定な個所が目立つ女性だが、一応は研究者として活動もしていたキョウヤマ コウスケ――その助手として活動させられていた頃の事を思い返してみると、彼女に匹敵する優秀さを持つ研究者は、それこそ――
――クリバラ センキチくらいのものだった気がする。
「……」
「ちょっと。……ちょっと、メルキューレモン」
「! ああ、何ですかカンナ」
「いや、ただの質問。……『聖なるデジモン』は天使型の成長期で、光のデジモンで、だけど『悪』だとデジタルワールドそのものに定義づけられたんだよね?」
「そう、ですね」
「だけどその強さはデジモンとして正しかったから、世界を平定するまでに至った。……それから、天使型の持つ聖属性データの反転しやすさ……」
今度は黙ってしまった。
……やがて
「贅沢な話だよね」
ようやく口を開いたカンナから出てきたのは、思いもよらない台詞と、どこか物憂げな表情だった。
「何がですか」
「何がって……スピリットの情報、ましてやそれを話してくれるスピリットそのものなんて持ってる人間、今、多分全世界でアタシだけだろ?」
「その通りです。……ある意味で、貴女は選ばれた人間だと言っても良いでしょう」
「だけどアタシはそのスピリットを、結局のところ、駒としか見れない」
今度は、ワタクシが言葉を失う番だった。
「考えちまった。……今こうしているのが、アタシじゃなくてクリバラだったら、って。アイツだったら、仇討ちよりも今この場にある情報を優先するに違いないよ。そのくらい、ピノッキモンからの情報にも、アンタという存在にも、信じられないくらいの価値がある。でも、アタシは……これが全部、何かしら復讐の道具に使えるんじゃないか、っていう視点でしか、見れない。……ダイヤのネックレスを見ても、それを首を絞める道具としか捉えられない、そんな感覚。……って言ったら、解ってくれるかい?」
「……」
「バッカだねぇ、我ながら……」
嗚呼。ワタクシを、ああも散々に罵っておきながら――この女も本当に、大概だ。
殴られた理由にも、ようやく、察しがつくというものだ。
「カンナ。……貴女が復讐者で無くなっては、それこそ困るというものです」
「……そっか、そういやアンタの仕事も、キョウヤマをどうにかする事だもんね」
「それに、ワタクシは別段、駒で構いません」
この際だから、言葉にしておこう。
一応は彼女に仕える身として、その根拠を宣言しておくのも、悪くは無い。
「ワタクシは、貴女の事が気に入っていますよカンナ。……まあ、目を瞑るべき欠点も多々ありますが、それでも美しいほどに明晰な頭脳を持つ貴女との会話は、飽きる事が無い。貴女は――そうですね。女性としての部分は除いて、魅力的なのでしょう」
「……」
「そんな貴女が望む以上、ワタクシは、駒で良いのです」
ワタクシはただ、あの夜、カンナの所有物になろうと思ったその根拠を述べたまでだったのだが。
反応は、思っていたものとは違っていた。
目を見開いて、口も開いた間抜けな顔は、唖然とした表情というものに違いなくて。
……少しの間、静かだった。
静寂を、挟んで
「メルキューレモン」
カンナが、手招きした。
「何でしょう」
「ちょっと、こっちに」
言われるがまま、彼女の背面から、彼女の側面に
「しゃがんで」
床に片膝を付ける。目の位置が、少しだけカンナの方が上になる。
そして
「そ! の!」
突如として、カンナはワタクシの左の頬を思いっきりつまんだ。
顔は――何故か、怒っているように見える。
「!?」
「歯の浮くような台詞の類は! アタシじゃなくて、妹に言うんだよ! あー、もう! 何でそう……!」
「なっ……今はハリは関係な――」
というか、これはワタクシ自身機会が無かった故に知らなかった事だが、
頬をつねられると、割と痛い。
「は、離していただけませんかね!? 痛いんですが!」
「え? ……ほーん。そりゃ良い事聞いた。ふうん、打撃はアレでも、やっぱり皮……皮? 捻られると、痛いんだね。へぇ……」
……余計な事を言ってしまった気がする。
「カンナ」
「何だい?」
「離してください。駒、辞めますよ?」
「そんな生意気な事言い出す口はこいつかね?」
「っ、ちょ、やめ――」
先ほどまでの憂いを帯びた表情が嘘のように、嗜虐的に口元を歪ませたカンナがあまりにも――なんというか――何とも言えないというか――で、……思わず反射的に、身を引いてしまう。
「あ」
重ねて誤算だったのは、それでも一応は鋼の特性を持つワタクシの皮膚をつねるためにそれなりにカンナが指に力を込めていた事、思いの外前のめりの姿勢でいた事で――カンナは椅子から引き離されるようにしてこちらに倒れて来て、ワタクシとしても、支える姿勢など取っていなくて。
気が付けば、昨日の早朝の再現のような格好に、揃ってなり果ててしまっていて。
「……」
「ぷっ、あはは」
あの時と違っているのは、ひりひりと痛む左の頬とこの現状にワタクシが顔をしかめている事と、そんなワタクシに乗ってしまっているカンナが吹き出している事で。
「……おっかしー」
……だが、それだけだった。
笑っているにもかかわらず――瞳の奥は、暗い海のままだった。
「……カンナ」
「先達として、アドバイス」
どうもこちらの視線に気づいたらしいカンナが、ワタクシの言葉を遮ってずい、と顔を近づけてくる。
長いピンク色の髪がワタクシの肩に絡みついた。
「失くす時は、一瞬だよ? アンタはアタシ達と違って、何が一番大事か、天秤にのっけて選ぶ時間があるんだから。……ちゃんと、考えないと。アタシを口説いてる場合かい?」
腹を、立てているのだと思った。
羨望と、悔恨と、懐古と――それからまた、優しさ。
そういうものを全て纏めて、カンナは、怒ったように、微笑んでいた。
「アタシみたいに……なりたくないだろう?」
純粋に、それは嫌だな、と思った。
そう思わせるくらい、彼女の振舞いは壊滅的で、理不尽で。しかし同時に、先ほどの発言の一部を撤回するべきか悩ましい程度には――
「……貴女がワタクシにしたように、抱きしめた方が良いですか、カンナ」
「だから、それは妹にしろっつってんだよ」
カンナは、ワタクシの胸の上で肘をついた。
「馬鹿たれ」
「馬鹿たれはカンナの方ヨ」
……ここでようやくワタクシ達は、改めて、スカモンがネット回線から帰還して机の上にリアライズしている事に気が付いた。
「……」
「……」
「昨日は朝だったから、厳密には台詞、変わっちゃってるけど、もう一回言うわヨ」
ワタクシとカンナは、現状の姿勢のまま、スカモンを見上げる事しかできない。
「真昼間から、やめなさい」
そしてそのまま、怒られた。
*
「ほんっっっっっとうにゴメンね? コウキちゃん」
「いえ……」
未だに痛みが後を引く頬を軽く撫でつつ、ワタクシはスカモンの後に続いてまたしても屋上へと足を踏み入れた。
曰く、ワタクシとハリが出かけるプランを話す上でカンナからの妨害が入らないよう、2体きりで話がしたいとの事で、ワタクシはそれに、従ったのだ。
「カンナねえ……どーも男の子を挑発するクセが抜けてないっていうか……」
「挑発?」
「ま、スカちゃんのせいなんだけど」
よく解らずに首を捻っていると、柵の所まで跳ねていったスカモンが、こちらに顔を向けないまま、それでもどこか懐かしそうに話し始める。
「ほら? スカちゃんってば種族として弱いでしョ? そんなスカちゃんをカモにしようとして、いろんな男が対戦目当てでカンナに絡んできたワケ」
で、それらの男性は返り討ちにされた後、散々にからかわれるのが常だった、と。
……なんとういうか、彼女達らしいというか。
「勘違いしないであげてね? 別にコウキちゃんの事悪く思ってるとか、そういうのじゃ無いのヨ? ……むしろセンキっちゃんの事思い出して、カンナなりに、辛くなったんだと思うの」
センキっちゃん……クリバラの事だろうか。
……クリバラの、事なのだろう。
「カンナはね、『あれ』以来、ちょっとでも似てる要素があると思ったら、誰でもセンキっちゃんに重ねちゃうの。……一種の病気――ね。特にコウキちゃんはほら、頭が良いでしョ? それにお兄ちゃんだし。……似てる要素が大きいコウキちゃんに褒められて、嫌でも、懐かしくなっちゃったのヨ」
結構地雷だらけなのヨ、あの子。とスカモンは笑っているが、笑える要素などどこにも無い。
……最も、カンナをそういう風に扱えるのは、パートナーであるスカモンの特権なのだろうが。
「そんなコウキちゃんが、ハリちゃんの重要度を理解できないままなんだもの。今度は、カンナ自身にも重ねちゃったんでしョうね。まだ失ってないコウキちゃんが、羨ましくてたまらなくなって――だけど同じくらい、ほっとけなくて――そうなると、いじわるしちゃうのヨ、カンナって子は」
「……」
「自分がどれだけ優しい子か、忘れちゃったのヨね。きっと」
「忘れようとしている、の間違いでは?」
スカモンが、目を丸くして振り返る。
「なんだ、コウキちゃんってばけっこう解ってるんじゃない」
「カンナが優しい女性である事なんて、誰にでも理解できるでしょう。タジマ リューカやカガ ソーヤにしても同じことを言いますよ」
「でもそれ、カンナ本人には言わないであげてね?」
「……」
「そういえば、コウキちゃんは知ってるの? どうしてセンキっちゃんが、『ユミル論』を書いたのか」
首を横に振る。
スカモンは栗原千吉が彼の論文を書いた理由を簡単に説明してくれた。
――パートナーを襲った不幸な事故が、発端だったという。
「アンタはアタシ『達』と違って」――ねえ……。
「出来る事なら、追体験はさせないであげてヨ?」
スカモンは、時々こちらに視線をやる以外は、ほとんど、遠いところを見ていた。
「パートナーを失ったセンキっちゃんの事も、センキっちゃんを失ったカンナの事も、再現する格好になったらスカちゃん、絶対コウキちゃんの事許さないんだからね? 今回の事が終わったら、カンナには――あの子には、今度こそ絶対、幸せになったもらうの。毎日お洒落して、美味しいものを食べて、時々遊びにも出かけて、毎日毎日、面白おかしく過ごすのヨ! 良いでしョ?」
そんな事が、果たして可能なのかと思ってしまう自分がいる。
着飾った自分を見せる相手を失って、思い出さないために食べられるものまで限られて、デジモンに関する資料と向き合っていないと己を保てない、あの、脆いカンナに――そんな事が。
……それに
「カンナの前では名前を出さないようにしていますが、アナタには伝えておきましょう。……ホヅミについて」
「……」
「あれは、人の姿をした炎そのものです。周囲に危害を加えていなければ生きていけない、生粋の異常者。元は、連続放火魔だったかと。……炎のスピリットは、そんなホヅミの正義も悪も関係なく、ただひたすらに燃やし続ける在り方を、認めてしまっている。……カドマと同じ程度の強さだと思っていたら、殺されますよ」
「ありがとね、心配してくれて」
そんなつもりは無かったのに、やはりスカモンは遠くを見たまま、そんな風に言葉を紡ぐ。
「そんな風に言うって事は、スカちゃんじゃその、ホヅミってヤツに勝てないかもしれないんでしョ?」
否定はしない。出来なかった。
「でも、絶対に勝てないとは思ってないのヨね?」
「……そうですね。カドマとの戦いを踏まえると――けして、ホヅミの一方的な戦い、という事にはならないと思います」
「だったらスカちゃんは負けないわ! 伊達に究極体まで進化ルート開いちゃいないのヨ?」
「……」
「出来るか出来ないかじゃなくて、やるの。スカちゃんを選んでくれた、カンナのために」
「カンナが、選んだ? アナタがカンナを選んだのではなく?」
と、ここでようやく、スカモンは本当の意味でこちらへと振り返った。
その表情は、タジマ リューカについて語るピコデビモンにも負けず劣らず、どことなく、自慢げで。
「バッカねぇ。仮にもカンナが、自分のデジモンをスカモンになんか進化させるワケないでしョ?」
現在この国には、何らかの事情でパートナーを失ったデジモンが保護されている施設がいくつか存在する。
スカモンは、その内の一つの出身だという。
「スカちゃん、これでも元々アグモンだったのヨ、あのアグモン! みんな大好き、アグモン!」
みんな大好きかどうかはさて置き、かの『デジモンアドベンチャー』で選ばれし子供たちのリーダーだった子供のパートナーであったこともあり、特に人気のあるデジモンだというのは流石に知っている。
「だけどねぇ……スカちゃんのパートナーだった子、それに浮かれるばっかりで……全然、お世話してくれなくてね? ……ま、順当に進化して、こうなちゃったってワケ」
「それで――」
「そ。捨てられちゃった。ヨくある話ヨ」
汚物系デジモンがいつの間にか群れを成し、下水道等に住み着く――といった事案がそれなりに社会問題になっている、というのは聞いたことがある。
よくある話、と言ってしまえば、確かに、それまでだった。
「まあ施設に置いてったってだけでもまだ有情かしらね、前のパートナー。……でも、カンナがいなかったら……」
スカモンはその先を言おうとはしなかった。
言おうとせず、そのまま押し黙って――まるで自分自身に呆れたかのように肩を竦めて、ほとんど全身を横に振った。
「やぁね、もう20年以上スカモンやってるせいかしら。許してねコウキちゃん。汚物系デジモンってのは、何かしら湿っぽいモノなのヨ」
確かに、その大体が妙に潤ってはいる。
もちろん、あまりいい意味で、では無いが。
「……今更聞くまでも無いとは思いますが、スカモン」
「何?」
「カンナの事は、好きですか?」
「ん~、好きとか嫌いとか、そういう段階はもうとっくの昔に過ぎちゃった気がする」
あまりにも予想だにしなかった返答に、少なからず驚いた。
てっきりピコデビモンのように、世界で一番好きだと答えるものだと思っていたのに。
「さっきのカンナじゃないけど、優先順位で考えたらカンナの事は一番上ヨ? 世界一大事。それは間違いないわ」
「しかし――好きでも、嫌いでもない?」
「その言い方だとちョっと語弊がある気がするわ。もちろんカンナの事は好き。大好きヨ? ただ、何ていうのかしらね……カンナとスカちゃんは、もう、「好き」って感情にすら縛られないの」
「……」
「理解が追い付かないって顔ね。だけどそういうコウキちゃんだって、ホントのホントに、ハリちゃんの事好き嫌いで考えた事、ある?」
言葉に詰まった。
だが、それがスカモンにとっては十分すぎる程の返事になったらしい。顔をぐるりと一周する口で、どこか満足そうな笑顔を形作る。
「だったら、正解はもう出てるヨうなものかもね。コウキちゃんってば見るからにあれこれ考える性格でしョ? そんなコウキちゃんが無理に考えヨうとすらしてないって事は――考えるまでも無かったから、って事じゃない?」
そう、なのだろうか。
ワタクシはハリを、手に余ると、そう感じた事はある。
光と闇のスピリットを持つ彼女の存在そのものは評価していたが、知識にも経験にも乏しい彼女を煩わしく思った事も、一度や二度では無い。
セラを始めとしたキョウヤマの元に居るスピリットの器達に、あるいはキョウヤマ自身に理不尽な扱いを受けてもそれを何とも思わない彼女に苛立ちを覚えた事も、そうする事しか出来ない彼女を――少なからず、哀れだと思った事も。
ああ、それから。……キョウヤマからの命令でワタクシを構成するデータを集めるために野生の完全体デジモンを単独で仕留めてきた時は――確か、彼女の力を評価した気がするのに――彼女にさせるべき仕事では無かったのではないかと、あの男に言えもしないクセに、妙に、もやもやとした気分にさせられた事もあった。
嗚呼。思い出せば思い出すほど、碌な記憶が無い。
だというのに――嫌悪の対象も、1つも、無い。
「じゃ、最後にダメ押し」
ぴん、とスカモンが細い指を立てる。
嵌まっている筈のシルバーの指輪は、2つほど、足りていない気がした。
「ハリちゃんの事なんとも思ってないって最初に言い出したのは――本当に、コウキちゃん自身?」
――ワシの正統な眷属であるお前に――
「……」
あの男の声が、胸の奥でこだました。
……アレは、世界の脅威で、原初の究極体という化け物で、意思のある機械そのものだが――嘘は、吐けない。
吐けない、が――
――ダメだよ? 何にもわかってない奴の言う事、鵜呑みにしちゃ――
「……っ」
頭が、痛い。
情報の処理が滞る。
自分の中で、何かが剥がれ落ちるような気さえした。
ハリの事で、ではない。エンシェントワイズモンの事で、だ。
必要以上にかちりと嵌まっていたパズルのピースが実は間違いで、外した瞬間絵柄そのものが崩れてしまったような――そんな、感覚。
眩暈のような『それ』があるだけで、具体的に、自分が何に気付いてしまったのかまでは判らなかったが――全てが、振出しに――いや、違う。
ようやくスタート地点に辿り着いたかのような、そんな――
「……スカモン」
「どうしたの? ……って言っても、なんか考え過ぎで別の所に思考回路がトんじゃったみたいな顔してるわね」
「……」
「うん、知ってる。カンナもヨくやるから」
流石に慣れているという訳か。
どうにも姿形のイメージばかりが先行してしまいがちだが、精神年齢に関しては、カンナよりもスカモンの方が上なのかもしれない。
種族として弱いが故に知能もそう高くは無いとされるスカモンだが、あのカンナのパートナーを20年以上務めているとなると、知能が低いままでいる方が困難に違いない。
しかし、カンナと、20年――か。
考えただけで、気が滅入りそうだ。
「……アナタも相当に苦労していますね、スカモン」
「ん~? なあに? どしたの急に。そりゃあ、苦労くらいしてるわヨ。究極体になれる程度にはね!」
そしてそれを自慢の種にできる辺りが、それこそ経験値の差とでも言うのだろうか。
「ま、それはさて置き。これ以上は考えすぎてもとっ散らかるだけそうだし、そろそろ本題に戻りましョうか」
「本題?」
「やっだー! それ忘れちゃダメヨ、コウキちゃん! ハリちゃんの事、遊びに連れてってあげなきゃでしョ!」
そういえば、そうだった。
……。
「スカモン」
「ん?」
「その話の前に一つだけ、こちらから伺ってもよろしいでしょうか」
「いいわヨ」
「もしワタクシがカンナに『喪失』の追体験をさせる事になったら許さないと――アナタはそう、言いましたね?」
「言ったわヨ」
「しかし、もしもそうなったら――具体的に、ワタクシは一体、アナタに何をされてしまうのでしょう?」
「決まってるでしョ!」
ぐっと自分を親指で指し示すスカモン。
いや、自分というよりは、自分の形を、か。
「ウンチ! むっちゃくちゃに投げつけてやるんだから!」
「……それは恐ろしい」
思わず肩を竦めた。
メタルエテモンに殴られるよりも、ずっと。想像すらしたくない。
「イロニーの盾での反射も消去も、出来なさそうですからね。……誓いますよ。絶対に――カンナにそんな思いは、させません」
「……そ。解ればいいのヨ」
同じように、スカモンも肩を竦める。……スカモンはそのまま、手を身体の下半分へと持ってきて、人間でいうと腰に手を当てる様な恰好へと移行した。
「っていうかコウキちゃん、もしかして結構、カンナの事、好き?」
「……」
何故だろう。
否定する気が、起きなかった。
むしろ――
「戦力としてか、ワタクシに代わるハリの保護者としてか、彼女の頭脳を評価してか、あるいは――もっと別に理由があるのかは判断しかねますが――カンナと親しくなりたいという思いは、まあ、無いでもないです」
「へぇ~」
妙な含みを持って、スカモンの瞳が輝く。
何を期待しているかまでは、想像のしようも無いのだが。
だが――
「しかし仮に、ワタクシのコレが本当に『好意』と呼べる物なのであれば――ワタクシはようやく、あの男に真の意味で……反旗を翻す事が出来るのかもしれません」
ワタクシに心など無いと言った、あの智慧者に欠けた知識があると――証明できる可能性が、ワタクシ自身にあるのかもしれない。
……希望的観測にも程があるが――少しだけ、何かが軽くなった気がした。
「そう!」
スカモンが、飛び跳ねる。
全身を使わなければ表現しきれない程、感情が豊かなのだろう。
「だったらもっともっと、カンナの事、好きになってくれていいわヨ! そのためなら、カンナのいいところも悪いところも、何でも教えてあげるから!」
「良い面はともかく悪い面は……まだ、あるのですか」
「そりゃもう山ほどね!」
聞きたいような、聞きたく無いような、聞くべきでも無いような……。
……ただ、我ながら不思議ではあった。
仮に、ハリに好意があるとして。カンナに、好意があるとして。
どうしてここまで――2人に対する思考が、こうも違ってしまうのだろうか。
「あ! でもその前にハリちゃんの事ヨ! 妹の事もままならない今の状態でカンナに好きだのなんだの言い出したら、スカちゃん、コウキちゃんの命の保証、できないわ」
「……」
冗談だというのは判っているが――いや、本当に冗談だろうか。あの女ならやりかねないと、そんな風にも思う。
……夏休みの宿題、というものを、投げ出したはずなのに――酷い補習授業に放り込まれているような気が、しないでもない。
だが、『家』にいるより、ずっといい。
「では、そろそろお聞かせ願いましょうか。ハリとワタクシが、出かけるプランとやらを」
「そうね。ま、そうムズカシイ事言うつもりは無いわ。コウキちゃんとハリちゃんはお出かけ初心者だもの。なるべく近場で、混まなくて、でもいい感じの――」
話を聞きながら、屋上への出入り口へとスカモンと共に向かい始める。
なんでも、そろそろカンナが先ほどの行動に自己嫌悪と羞恥心で身悶えし始めかねないとの事で――相変わらず、行動の全てが計算ずくにも関わらず、肝心の後先を考えていない節があるというか、何というか……。
ただ、それをフォローするのは、パートナーであるスカモンの方がずっと適任に違いない。ワタクシ自身は研究室に戻るよりも先に、ハリに会いに行くつもりでいる。
早速、出かける話をしたら――あの娘は、少しでも表情を、変えてくれるだろうか。
Episode カガ ソーヤ ‐ 4
最近、ハリちゃんの歌唱技術の上達が目覚ましいというか、なんというか。
ハリちゃんのお兄さんの(一瞬冬休みになりかけた)夏休みもいよいよ今日で折り返し地点だが、ピノッキモンの館での戦い以降は不気味な程に何事も無くて――だけどそもそも戦闘要員には程遠い俺にやれることなどほとんど無いので、出来る事をしようと作詞作曲に勤しみつつ、ハリちゃんのレッスンを続ける日々を送っている。
まあ季節的にはむしろ好きな時期なので、申し訳ないとは思いつつ、多分、雲野デジモン研究所の面々の中では、俺とオタマモンが、今一番、調子がいいに違いない。
梅雨が、やって来た。
連日の雨のせいか、カンナ先生のただでさえ跳ね放題のピンク髪は、跳ねを通り越して渦を巻きかねない勢いでとっ散らかっている。先生自身も流石にヤバいと思うのか、手櫛でがりがりやってる回数も増えた気がするけれどそこは本物の櫛使った方が良いんじゃないかなと俺は思います、はい。
あと、お兄さんの事鏡代わりにするのもどうかと思います。
鏡だけど。鏡だけれども。
そんでもってその提案を承諾するお兄さんもお兄さんだと思うけどね!
閑話休題。
まあそんな(気候的に)湿気た空気の中、ハリちゃんは毎日サボりもせずに俺のところに来て、発声練習と、そのための筋トレと、その他諸々のレッスンを続けている。
そもそも「言われた事を言われた通りにやる」を徹底してきたハリちゃんは言った事を素直に受け取って吸収してくれる上、良くも悪くも恥じらいが無いので、ハリちゃんに歌を教え始めた当初から伸びしろスゴイとは思っていたけれど――ピノッキモンの館でのやり取り以降、それが顕著になったような気がする。
……よっぽど、聞いてほしいんだろうな。お兄さんに、自分の歌。
それはきっと、戦力としての自分の価値を見出せなくなりつつある彼女自身が、それでもメルキューレモンの役に立つ方法を模索しての、『焦り』から来るものなのかもしれないけれど――
だったら尚更、そういう面でハリちゃんの力になれるのは、同じく戦力にはほとんどなれない俺とオタマモンの役目だ。
「マジェスティック! ……いい感じだぜハリちゃん。ちゃんとお腹から声が出てる。その感覚が解んなくなった時は仰向けに寝っ転がれば嫌でも腹式呼吸になるから、夜寝る前に2、3分でいいから意識して呼吸すると、だんだんどんな姿勢でも出来るようになるぜ」
「解りました。早速今夜から実践します」
ふむ。座ったままでもパフォーマンスが出来るようになったら、弾き語りとか教えてみるのもいいかもしれない。
ハリちゃんの声は透明感があって伸びやかな――言うなれば、硝子の器同士を軽くぶつけた時のような、小気味良い上品さを持っている。派手派手しいアップテンポの曲よりか、使用する楽器も最低限に抑えた静かめの曲の方が多分、合うだろう。
……。
「シンガーソングアイドル、か……」
「はいはい、そういうのを夢想するのは、ちゃんとハリちゃんを育てきってからゲコよ」
いやまあその通りなんですけどね!
と、ふいにコンコン、と鳴り響く俺の部屋のドア。
丁度いいタイミング――というか多分あの子の事なので、俺達が一息つくタイミングを見計らっていたのだろう。
どうぞ、と声をかけると、案の定お盆に飲み物を載せたリューカちゃんが、部屋の扉を開けた。
「えっと、飲み物をお持ちしました」
本当に微妙な違いではあるのだが、梅雨入り以降、リューカちゃんも少しだけご機嫌そうに見える。
日照時間が減り、パートナーが過ごしやすい時期になったから。っていうのは、想像に難くない。
理由は結構違う事が多いけれど――こうして見ていると、オタマモンとピコデビモン……というか、ヴァンデモンも、ちょっとしたところで共通点が多い気がしないでもない。
「ありがとゲコ。もうレッスンも終わりゲコから、リューカさんも一緒に一休みしないゲコか?」
「あれ? いつもより早いんですね」
時間的には、いつもなら中休みに当たるころだろうか。
そーいや、リューカちゃんに言ってなかったっけ……。
「実は今日、ピノッキモンのお見舞いに行くつもりなんだ。俺もルカモン通じてやり取り自体はしてるんだけど……もう一回、直接会って、お礼、言いたいしさ」
俺も一応はそこそこの売れっ子天才音楽クリエイターとしての仕事があるので、本当は、もう少し早く顔を出したかったのだけれど……十分な空き時間が用意できず、結局2週間が経過してしまった。
……いや、やっぱり、言い訳しないで言うと――少し、顔を合わせ辛かった。
なんたって、あの時ピノッキモンは、俺を庇って、あんな大けがをしてしまったのだから。
ピノッキモンはああ言ってくれて、そのお蔭で俺は身体的にも精神的にもこうして無事に過ごせているのだけれど――それはそれ、これはこれ、だ。
もう数回ほど、あの時の光景を夢にも見てしまっている。
……怒られるんだろうなぁ、そんな事言ったら。
「っていうか、迷惑じゃ無かったら……リューカちゃんとハリちゃんも、一緒に行かない?」
2人が揃って、目を瞬いた。
うん。この際巻き込もうという訳だ。
ヘタレっぷりを怒られるのは間違いなく俺1人だろうが、それでも同行者がいるというだけで安心できる部分は、ある。
「えっと……私も、ピノッキモンさんの様子は気になっていたので……こちらこそ、ご迷惑でなければ一緒に行きたいです」
と、まずはリューカちゃんが同意してくれた。
まあ確かにリューカちゃんは、手掛かりを探して出向いたカンナ先生や、程度の差はあれ十闘士のスピリットに関わっているハリちゃんとそのお兄さん+俺と比べてピノッキモンと少々縁が薄い訳で――俺とは全く別の意味で、単身では出向きづらかったのだろう。
対してハリちゃんは、悩んでいるというよりは、別に思うところがあるようだ。しばらく目線をやや上げて遠くを見ていたが
「私1人では判断しかねるので、マスターの意向を確認してきてもよろしいでしょうか」
やがて俺と目を合わせると、そんな風に訪ねてきた。
まあそりゃ、誘っておいて何だけど俺の独断ってわけにはいかないし。
「うん。その方が良いと思う」
「あ、じゃあ私もカンナ博士に報告してきます」
俺の部屋を後にして、研究室に向かう2人。
残された俺はリューカちゃんが持ってきてくれたお盆からミネラルウォーターのペットボトルをオタマモンに渡して、ボトルコーヒーの方を開けてコップへと注いだ。
「ピノッキモン、元気になったゲコかな?」
「どうだろう……」
どうやら伝説のハッカーだったらしいゼペット爺さんの手腕でどうにか穴は元通りになった訳だけど――一度は、貫通したのだ。
長く持たせられないと、ゼペット爺さん自身が言っていた。
「……」
「ソーヤ……」
「こんな風にこっちが落ち込んだって、多分、怒られるだけなんだろうけどな。「おぬしに求めておる『水』の要素はそういう湿っぽさの事では無いわ、阿呆め!」とかなんとか……」
「あー、言われそうゲコ……」
それに気になるのは、ピノッキモンの現状だけじゃない。
あの館にはまだ、マカドかいるらしかった。
*
レッスン終了からおおよそ1時間後、無事お兄さんから許可をもらったハリちゃんと、カンナ先生に「よろしく言っといて」と頼まれたリューカちゃんと共に、俺達は約2週間ぶりにデジタルワールド――ピノッキモンの館へと降り立った。
到着後すぐに窓の外を覗くと、あの日の雪は全て溶け切って、鬱蒼とした森がどこまでもどこまでも広がっている。
……やっぱり、エグいくらい強力だったんだな……あのダイペンモンとかいう巨大ペンギン……。
と、
「よう来たのう」
今回は1階の廊下の奥――ピノッキモン自身の必殺技で天井に大穴が空いた部屋があるのとは反対側から、あの老獪なジュレイモンを思わせるピノッキモンが姿を現した。
「カンナからのメールに書いてあったぞ。我の見舞いだそうじゃな」
「は、はい。先日はお世話になりました。あの、これ、お口に合えばいいんですが……」
「む? ……ふむ、焼き菓子の詰め合わせか。良いではないか。甘い物は好きじゃ」
リューカちゃんが来る前に買ってきたお土産に、ピノッキモンがにやりと笑う。
……台詞には相変わらずノイズが幽かに混じっていて、振舞いは元気そうに見える半面、彼が本調子では無い事はすぐに理解できた。
思わず、顔に出てしまったらしい。焼き菓子にご機嫌そうだったピノッキモンは、むっと目尻を吊り上げる。
「全く、まだそんな顔をしおるのかカジカ。おぬしに求めておる『水』の要素はそういう湿っぽさの事では無いわ、阿呆め」
うわぁ、マジで言われた。
俺の予想が的中したからか、くすり、と笑う俺のミューズ。超マジェスティック。
「ちょっとだけ安心したゲコ。……でも、ピノッキモンも心配くらい素直に受け取るゲコ」
「年寄り扱いするでないわ。……久方ぶりにゼペットも戻ってきたからのう。我がしっかりしておらんと、あやつは本当に、もう……」
言いかけて、ピノッキモンは首を横に振る。
「ええい、愚痴など言い出してはますます年寄り臭くなってしまうのう。大広間は壁にも床にも大穴が空いとるからな。少し狭いが、客間に案内しようぞ」
床に穴開けたのはアンタだけどなとつっこんだところ、脛を蹴られました。
痛ぁい。
大人しくピノッキモンの後に続き、俺達は客間にやって来た。狭い、なんて言ってる割に十分カンナ先生の研究室よりも広くて、調度品もリアルワールドで揃えようと思ったら大概な値段になりそうなものばかりだった。
「適当に座るがいい。茶を持って来させる」
「? 茶の類は出せない、と、前回仰っていたのでは?」
「前回はな。まあ、少し待っておれ」
そう言って一度部屋を後にする。ピノッキモン。「お見舞いに来たのに、いいのでしょうか……」とリューカちゃんがいつも通り真面目なのだがそれはさて置き。
……持って来させる、って事は――誰かに運ばせるって事で。
ゼペット爺さんでは無いだろう。だったら、十中八九――
「待たせたのう」
「やあやあこんにちは! 2週間ぶりだねウンノ先生の愉快な仲間達!」
現れた人物に、リューカちゃんとハリちゃんが弾かれるようにして立ち上がる。と同時に、リューカちゃんの隣には、眠っていた筈のピコデビモンが即座にリアライズした。
……お盆を持って入ってきたのは、カドマ――いや、マカド ユキトシで。
「カドマ……!」
「わ、怖い、怖いよ光と闇の器ちゃん! それから……ウンノ先生の助手さんだっけ? 落ち着いて落ち着いて。ボク、丸腰。もう氷の闘士じゃないよ?」
「……」
それでも臨戦態勢でマカドを見据えるハリちゃんとの間に割って入るように、ピノッキモンが一歩、前に出た。
「こやつの処遇は我に任せよと言ったであろう? ……聞かねばならん事も多くあった故な、我が館に置いておる。安心せい。本人の言う通り、もう何の力も持たぬ人の子に過ぎんよ」
「そーだよそーだよ! 出来る事なら君の事も水の闘士の事も調べたいし希少なヴァンデモンのデータも欲しいけどそんな事したらあだだだだだだ」
マカドの足を思い切り踏みつけるピノッキモン。
……ピノッキモンは子供サイズのデジモンだけれど、それでも究極体な訳で――体重代わりに出来るデータくらい、それなりに用意出来る筈で。
痛そう。
「ええい、さっさと茶を置いて引っ込めマカド! ゼペットの様子でも見てこんか!」
「ピノッキモンさんが呼んだんでしょー? もぉー」
わざとらしく踏まれた方の足を引きずりながら、中央にあるテーブルの縁にお茶のセットを置いて退散するマカド。
すまんな、と椅子に飛び乗ってポットから各々のカップにお茶を注ぎながら、ピノッキモンは嘆息した。
「カンナに伝えておけば良かったのだがな。……いかんせん、あの女は古代鋼の闘士が絡むと冷静さを失う傾向があるようじゃった故。現鋼の闘士にしても、尋問に際して加減が効かぬじゃろうし」
「尋問……」
お兄さんの、尋問。
……。
あまり、ふかくは、かんがえないでおこう。
「ここで直接話をさせようかと思ったが、口を開くと五月蝿くて敵わぬ。ハッキリ言って、益になるような情報はほとんど無い故な」
言いながらお茶を配ろうとするピノッキモンを制して、リューカちゃんがその役割を買って出た。相変わらず気遣いがすごい。
ちなみに脅威は無いと判断したらしいピコデビモンはそんなリューカちゃんの肩にとまっていて、やはり、少し眠そうにしている。
「しかし情報の有用性を判断するのは私達ではなくマスターやカンナ氏です。ピノッキモン、できれば、お話を聞かせていただけませんか」
「元よりそのつもりじゃよ。……やれやれ、見舞いという割には、じゃな」
「ごめんなさいピノッキモン」
「ああいや、我も仕事じゃ。責めている訳では無い」
「……っていうか、何なら聞いてこようか? 俺が、直接」
全員の視線が、こちらに向いた。
いや、まあ、だってピコデビモンが謝ったように、俺達は元々、ピノッキモンのお見舞いのために来た訳で――ハリちゃんだってああは言ったものの、彼に無理をさせたいわけじゃないだろう。……多分。口調、強制してる風じゃなかったし。
確かに俺だって考えがまるで読めないマカドは怖いけれど、氷のスピリットを失ってただの人間になっているのは確かなのだ。
加えて、今ここに居るメンバーで最強なのは間違いなくリューカちゃんのヴァンデモンだけど、時間帯的には、俺のミューズ……というより、水の闘士の方が、万全だ。
「まあ、おぬしが構わんのなら、それでも良いが……」
「カガさん、私も一緒に……」
「いや、大丈夫。今はピコデビモン、無理しない方がいいだろ?」
本当は無理云々って言うより、マカドの台詞にあった「ヴァンデモンのデータが欲しい」って言うのが引っかかっていて。
……戦闘は出来ないにせよ、リューカちゃんを挑発してピコデビモンを進化させようと企まない保証は、どこにも無い。あの男ならやりかねないし――やらなくても、無神経な発言で彼女に嫌な思いをさせそうな気がする。
俺が誘ってしまったのに、こんなところでリューカちゃんにそんな思いは、させたくない。
「あ、ハリちゃんもここで待ってて。……マカドと引き合わせたら、お兄さんに怒られる気がするし」
「その可能性は確かに考慮できます。了解しました。私はここでリューカとピコデビモンと共に待機しています」
最後に、俺は膝に乗った自分のパートナーへと視線を落とす。
やっとゲコか、とでも言いたげなジト目で一瞬俺を見上げた後、
「良いゲコよ。人間相手なら、ゲコでも守ってあげられるゲコから」
と、微妙にデレを感じられるコメントを頂きました。マジェスティック!
彼女の同意も得たので、出してもらったお茶だけは空にして立ち上がる。ピノッキモン曰く、マカドは上の階の部屋にいるらしい。
何かあったら遠慮なく呼ぶよう言われた後、俺とオタマモンは、聞きだした部屋へと向かった。
*
「ん? んんん~? うん! よく来たね水の闘士の器とそのパートナーくん!」
部屋に入るなり、パソコンと、その周りに積み上げられた何かの資料っぽい紙の山に囲まれたマカドが、洋館の内装にこれっぽっちも似合わない事務イスを回転させてこちらへと振り返った。
……隣には、オタマモンと同じくらいのサイズで、身体の所々に傷のあるイルカのようなデジモン……最近カンナ先生のパソコンの画面でおなじみとなった、ルカモンがぷかぷかと浮いている。
「……」
「あ、この子? 良いでしょ! ピノッキモンがコンピューターに仕掛けるウイルスのひとつをちょっと肉付けしたんだ! どうどう? ルカモンぽくてよくない?」
「きゅー」
……そのウイルスってやっぱり、カンナ先生とメルキューレモンを散々苦しめたっていう……っていうか、ヴァンデモンがリューカちゃんに「いる?」って聞いてた……
厳密には、ルカモンじゃないって事なのだろうか。確かにここ、水場じゃないし、妙に小さいし、俺のフィルター働かないし――マカドの腰かける事務イス同様、館の景色にちっとも馴染んではいないのだが。
ただ、肝心のマカド本人は
「ゲコ……ちょっとここに馴染み過ぎじゃ無いゲコか?」
そう、それ。
なんか全身から滲み出るこの場に適応してる感が、すごい。
オタマモン同様怪訝そうな顔をしているに違いない俺を見てケラケラと笑いながら、マカドは床を蹴って、くるくると事務イスを回す。
「だってだって、ピノッキモンさん、持ってる資料は惜しみなく見せてくれるからね! キョウヤマ先生の所とはまた毛色が違うけど、これはこれで面白いや!」
小さいユキダルモンみたいだった氷の闘士の時とは違って見た目が大の大人の男なので、割と不気味ではあるのだけれど――それは、やっている事が何も変わらないからだ。
知的好奇心の塊って、つまりはまあ、こういう奴の事を言うのだろう。
「……俺はその、キョウヤマ博士について、カンナ先生やメルキューレモンの代わりに聞きに来たんだ」
「だろうね。元々は敵対者だったボクに用だなんて、そのくらいしか無いだろうし。ま、先生についてはご子息の方が詳しいだろうけど、知ってる事は全部話すよ!」
いやに協力的で逆に怖い。
……こっちの感情が伝わったのか、マカドはオーバーに肩を竦めた。
「そういう契約だからね。ピノッキモンさんの持ってる情報が欲しいなら、ボクの知ってる情報全部出せって。……それにキョウヤマ先生を尊敬する気持ちは変わらないけど、あーれは正直、結構キツかったからね~。はあ、100年の恋が冷める感覚って、こんな感じ?」
「知らねーよ」
そんな切なげに言われても。
……でもやっぱり、あの、ピノッキモンに重傷を負わせた氷の槍への『変化』は――こいつの言い分を信じるなら、こいつの意思じゃぁ無かったって事か。
思い返せば、ゼペット爺さんだって実質操られてたようなもんだったし……。
「十闘士のスピリットって……何かしら、細工がしてあるもんなのか?」
「少なからず先生の管理下には置かれてると思うよ。氷の闘士は普段の戦力としてはちょっと弱めだから、アレもそういうのに対するテコ入れの一種だったのかも」
「ゲコ……水のスピリットを使ってる時、ゲコは変な感じ、しないゲコよ?」
「あ、それはそうだよ。先生の調節は、ボクら闘士の器の事込みで入ってるからね。適合者のいなかった水のスピリットは、多分、手つかずだったんだと思う」
じゃあ、なんでキョウヤマ博士は水のスピリットの闘士にできるような人間を用意できなかったか、って話になるんだろうが――ピノッキモンの話を聞いた後だと、なんとなく、解らなくも無い。
推測でしかないけれど、古代鋼の闘士は光と闇のスピリット以上に、水のスピリットの制御について、頭を抱えていたのかもしれない。
……古代水の闘士には、結構、振り回されてたみたいだったし……。
「えっと……じゃあ、お兄さ……メルキューレモンはどうなんだよ。その、やっぱり、キョウヤマ博士の手は――入ってんのか?」
「どうなんだろ? 先生のご子息の事に関しては、先生自身、あまり話してくれなかったし。むしろどうなの? キョウヤマ先生――いや、エンシェントワイズモンの正統なる後継機・メルキューレモン! 実際に技をくらってみてわかったけれどあれは本当にすっごいデジモンだね! いやぁ、くらってよかった『オフセットリフレクター』! あんな鮮やかな『反転』による『相殺』は類を見ないよ!? 君! 教えておくれよ、メルキューレモンってどんなデジモン!?」
マカドは今にもこちらに掴みかかりそうな勢いだが、ピノッキモンに釘を刺されているのか、目の前でわちゃわちゃ手を振りまわすばかりで接触自体はしないよう気を付けているように見える。
いや、もう、見てるだけで結構鬱陶しいくらいの勢いなんだが。
っていうか質問を質問で返すのってどうなの? いけないんじゃないの?
……しかし、メルキューレモンの……ねえ。
「俺の知ってるメルキューレモンなんて、慇懃無礼の頭脳派暴力系アクロバティック貧弱天然ドSかつカンナ先生曰くヘタレのポンコツで少しずつ自覚の出てきたシスコンっつー属性が練馬のダイコンデパートなのに根本が男だから残念無念のノーマジェスティックって事くらいしか……」
「え……なにそれ、どういう事なの……?」
日本中をドン引きさせたマッドサイエンティストに引かれた。
でもお兄さんは本当に、見る度に属性が増えてる気がするので誰も得しないんだからもうちょっと自重してくれればいいのにとは思う。マジで。
……俺のミューズの「ソーヤが自重するゲコ」な視線が突き刺さるけど、こっちはちゃんとご褒美の類なのでマジェスティック。
「っていうか君、シスコンって言った? シスコン……シスターコンプレックス……シスター……つまり光と闇の器ちゃんか。ふうん、やっぱりそうだったのか。妙に肩入れしてるとは思ってたけど、そうか。シスコンだったか。そういう意味じゃあ、キョウヤマ先生には似なかったんだねぇ、彼」
っていうかカンナ先生のところ来る前から多少なり周りにそう思われてたのかよ!
「えっと? となるとコレがさっきの君の質問の答えかもね。鋼のスピリットは、多分、キョウヤマ先生に手を加えられてないよ。あまりにもお互いの方針? っていうより、在り方? そういうのが違うからね」
「ゲコ……でもメルキューレモンは、ものすごくエンシェントワイズモン――この場合は、お父さんって呼ぶべきゲコか? お父さんの事、怖がってるゲコよ?」
「それはアレだね。鋼の闘士と、古代鋼の闘士のスペックの差から来るものじゃないかな? そうだなぁ。……ルカモン、ちょっとこっちおいで」
「きゅー」
マカドに手招きされて、ルカモンが彼と俺達の間にぷかぷかと入ってきた。
「この子が仮に、ルカモンっぽい何かじゃなくて――ううん、すぐには思いつかないなぁ。とりあえずなんか、むっちゃ強い究極体だとでも思ってよ」
「ゲコ……じゃあ、水属性繋がりで、メタルシードラモンだと思うゲコ」
「きゅきゅー!」
ルカモンが口を大きく開く。威嚇している――と言われれば、そう見えるような、そんな表情だ。
「怖くない?」
「……メタルシードラモンだったら、怖いゲコかもね」
「っていうか思ったより牙多くて普通に顔怖い」
「きゅっきゅきぃっ!」
「いだだだ!?」
俺の発言が気に食わなかったのか、噛んできた。
見た目通りの威力っ!
「うん、自分より世代が上のデジモンが敵対の姿勢を見せてたら怖い! ましてや鋼の闘士の場合、なまじ近い分余計怖いんじゃない? 僕が思うに先生のご子息が抱えてる恐怖は、理屈を超えた本能的なものだと思うね」
「話を進める前にこっちもどうにかしてもらえませんかね!?」
「きゅうーっ!」
「あだだだだ」
多分メルキューレモンのアイアンクロー同様手加減はされていると思うが痛いか痛くないかはまた別の問題だから!
少なくとも歯形は付いてるよねこれ!?
「悪いねえ。それ一応、ピノッキモンさん謹製の凶悪なウイルスだから」
「凶悪っつーか凶暴!」
「ボクにはそうでもないんだけどねえ。ほら、おいでルカモン。戻っておいで」
「きゅ。きゅっきゅきゅー」
「よぉしいい子だ!」
「きゅ、きゅー!」
俺を噛んでいる時とは打って変わって、ご機嫌そうに尻尾を振りながらマカドの手に自分の頭を押し付けるルカモン。
……見ている分には、まるで、パートナー同士のように見える。
見えるが――マカドの本当のパートナーは、この男自身が――
「おや? おかしいかい? ボクがデジモンを可愛がってたら」
「……」
何も言わなかったけど、顔には出した。
いっひっひ、と、マカドはチャックモンだった時と同じように笑う。
「僕はデジモンが可愛いよ? あの子の事だって今でも愛してるさ!」
「じゃあなんで」
「あの子を強く、してあげたかった」
「――」
「デジモンは戦闘種族だ。何よりもまず、強くあるべき生き物だ。最強のデジモンになる事こそが、あの子の幸せだったに違いないと――今でもそう、信じているとも」
その笑みに、やはり罪悪感は無い。
「もしもボクの前にあの子が再び現れたなら、僕は同じことをやる! ……いや、厳密には同じじゃないよ? 先生の所で得た、そして氷の闘士となって理解した『ユミル』の力を応用するかもしれない。ボクは今のボクが持てる全てを使って、もう一度あの子に、改造を施すだろうさ。あの子が強いデジモンに成るって事は、ウンノ先生の理屈で行くとあの子の種全体に利益を――『前例』を残すって事だもの。ボクは、デジモンが大好きなのさ!」
後悔だって、存在しない。
「でもまあ、あの子がボクの所の戻ってくるなんて、そんな事、あり得ないんだけどね? あの当時のボクの技術とあの子のスペックじゃあ……どーしようも無くて――あの子は、溶けて、デジコアすら残らなかったからね!」
笑っちゃうよ!
大声でそう言って――マカドは本当に軽薄に、笑うのみだ。
……だけど
「あっはっは。ボクってば、ダメなテイマーだよね!」
パートナーを殺したという事以上に、一瞬だろうと強く出来なかったという事実は――この男の中に、それこそ氷柱のように、突き刺さっているように見えて。
「……」
「やだなあ、そんな顔しないでよ! それじゃあまるで、あの子が可哀想なヤツみたいじゃないか! そりゃあ、あの子は普通に考えれば可哀想なんだろうけど。それでも、ボクを信じて、最強の自分を夢見て――夢を見ながら、死んだんだ。それって、ホントの本当に不幸かい?」
「あんたが決める事じゃない」
「そりゃそうだ!」
「……でも、俺が決める事でも無い」
チャックモンの時とは違って決して丸くは無いマカドの目が、見開かれた。
それから、この男にしては長い沈黙が一瞬、あって――
「君。いい奴だね」
マカドが、笑った。
……信用できないくらい、穏やかな笑みだった。
「ドブ川だろうが激流だろうが、自分の決めた道なら迷わない。だけど「こっちにも道があるよ」って言われたら素直に流れる事もできる柔軟さ――なるほど、水の闘士はパートナーと2人で1つって訳か。……それが、行き止まりで『氷』にしかなれなかった、ボクとの最大の差なんだろうねえ」
そしてなんか納得された。
「あんたの事なんて、ホントはこれっぽっちも理解したくないけど、でも……世界が広いって教えてくれた子がいるから。その子にいい歌書いて、そのいい歌を歌ってくれるディーヴァ育てるために――広い世界を見る目を持とうって、決めたんだよ」
「なるほど! つまり恋が君の視野を広くしたって事かい!」
「ぶふぉっ!?」
良い事言ったつもりだったのに一瞬で頭を真っ白にされてしまった。
恋て。
……。
…………いや、恋て!
「しかし好きな人に歌か! 青春だね! 君、バンドマンか何か?」
「天才音楽クリエイターですけど!?」
「んんん? ……あ、そういえば先生も何かそんな事言ってたような……えっと……あ、思い出した! 確かカゴシマPとかなんとか」
「カ ジ カ ッ! 誰だよその九州の下の方にいそうなP!」
ふと視線を俺のミューズの方へ向け、「ああなるほど」と俺の名前の由来か俺の才能かどっちかを理解したらしいマカド。
そういやずっと興味を示してたのは水の闘士の器としてのオタマモンの方ばかりだったし……。
……歌に興味無さそうなのは見りゃ解るけど、面と向かって俺の事全く知らない相手に出会うっていうのも、なかなかにショック。
「詳しくはカジカPで検索……」
「あー、もう。それどころじゃないゲコに……。っていうかソーヤ、長居し過ぎゲコ」
「あ」
うっかりしてた。
俺のそもそもの目的はピノッキモンのお見舞いだったのに、こんなところでいつまでも油売ってちゃ、むしろピノッキモンの邪魔になりかねない訳で……
「おや、もう行っちゃうのかい?」
「……おう」
「じゃ、最後に聞かせておくれよ」
そう言ってマカドが見たのは、俺ではなく、俺のミューズの方で。
「何ゲコか」
「君、幸せかい?」
「強く育ててはくれなくても、今更ソーヤ以外のパートナーは欲しくないゲコ」
そうかい。とマカド。
答えた側のオタマモンはふん、と大きな鼻息を吹いてから、くるりと彼に背を向け、跳ねるようにドアへと向かっていく。
俺は宙に浮かぶルカモンを撫でながら、マカドがひらひらと手を振ったように見えたそのあたりで――我がミューズの代わりに部屋の扉を開けるべく、急いで彼女の後に続いた。
と、
「……聞くべきことをほとんど聞いておらぬではないか、阿呆め」
部屋を出るなり、廊下の壁にもたれかかったピノッキモンに悪態を吐かれた。
うぐ……。
「まあ、そんな事だろうとは思って光と闇の器の娘とカンナの助手にあらかた話しておいたわ」
「結局手間かけてるぅ」
「大人しく待っているのも暇であった故な。一応は仕事の内じゃ、気にするな」
言いつつ、若干の呆れを含めて首を横に振るピノッキモン。
……だがやはり、その眼の奥は、どこか温かい。
「しかしおぬしは……阿呆ではあっても、愚かでは無い。……マカドとの会話は、どうであったか?」
「疲れた!」
俺は素直に、感想を述べた。
「真面目に聞かなきゃ良かったって思う。視野広めるって――疲れる」
別に、知りたくは無かった。
マッドサイエンティストの信念とか、そんなの――やっぱり、理解できないし。
「そうか。であれば、精々疲れろ、水の闘士の器に選ばれし者よ。若い内の苦労は買ってでもせよ、とな」
そしてふて腐れる俺に対して――ピノッキモンは、さも愉快そうなのであった。
「……それ言い出すといよいよホントにおじいちゃんみが強いぜピノッキモン」
「おぬしのような若造を見ておると、嫌でも「最近の若いもんは」と愚痴の一つや二つが――」
げほ、と。
咳が、ピノッキモン自身の言葉を遮った。
その一瞬――ピノッキモンの表情は、尋常じゃないくらい苦痛に歪んだように見えて。
「――っ」
「……まあ、それはいずれ、またの機会に。じゃな」
そう、ばつが悪そうに、覆い隠すようにしてピノッキモンは微笑んだ。
「ゲコ、ピノッキモン……」
「ええい、カジカに留まらずおぬしまでそのような水要素を出すか! おぬしはこの阿呆の面倒を見るので精一杯じゃろうて。……我を労わる気でいるのなら、そろそろ帰れ。ほれ、カジカ。おぬしの未来の花嫁かもしれん女子を待たせておるぞ!」
「そこまで!? そこまで飛ぶの!?」
ち、ちがうんだやい! 恋とか――そういうのじゃ、無いんだやい!
ただ俺は、マジェスティックな彼女の笑顔が見たくて、楽しそうにしてほしくて、それから、呼び方を苗字から名前に変更してほしいだけで――
……ん? あれ? あんまり否定材料にできる要素が無いぞ、どうしよう。
「ああそうだ、これだけは伝えておこうかのう」
「って、まだ何かあるんすか」
「うむ。……聞いたぞ、おぬしらの曲」
「ゲコ……!」
別の意味で、俺とオタマモンに緊張が走る。
いくら俺が天才音楽クリエイターで、俺のミューズが至高のアイドルとはいえ――不意打ちの生レビューは心臓に悪くて――
「暇つぶしには、丁度良いな」
――でも、やっぱり、こうやって感想を聞いた瞬間ってのは――何物にも、代えがたくて。
「……近々、新曲も出るから」
「ほう」
「楽しみにするゲコよ」
「……そうか」
ピノッキモンが、俺達に背を向けながら手を振った。
「ついでじゃからな。マカドにも勧めておいてやるわい」
ノイズ交じりに、そう言って。
*
その後、リューカちゃん達と合流した俺達は研究所に帰還。
まさかマカドと普通にお喋りしてしまって得たものが「お兄さんってばこっちに来る前からちゃんとシスコンだったんじゃないですかヤダー」ではアイアンクローが目に見えているので報告をハリちゃんに任せ、自室へ。
……その前に別件で普通にくらいはしたんだが、それはそれ、これはこれ、加えてよくある事なので、詳細は割愛。
その後はいつも通り、リューカちゃんとピコデビモンの曲をああでもないこうでもないと、歌詞の引き算と足し算を延々繰り返しては――やっぱり、うん、恋ではないよなと自問自答してみたりとか、していたのだが――
「カジカP」
30分もしない内に、ハリちゃんが、また俺の部屋にやって来て。
「どうしたの?」
部屋に彼女を入れ、パソコン用の椅子に座らせる。
少しだけ返答に困ったように沈黙するハリちゃんの表情は――ここ最近、見かける頻度が増えたものだ。
本当に些細ではあるけれど、徐々にバリエーションが増えつつあるハリちゃんの『顔』の中で――若干、負の方向に寄り気味の表情だ。
「本日のレッスンは終了との事でしたが……もう少し、お願いしてもいいですか」
「いいよ。……じゃあ、ちょっと実践練習でもしてもらおうかな」
彼女がそんな表情を浮かべた時は、決まって、実際に歌を歌ってもらうのだが――多分、それこそが、ハリちゃんの技術向上を実感できている、理由なんだろう。
ハリちゃんが歌をうまく歌えるようになってきてるって事は、それだけ、感情が豊かになってきてるっていう証拠なんだから。
「ハリさん」
多分、オタマモンも俺と同じことを考えているのだろう。
提示した曲を歌い終わったハリちゃんへと、オタマモンが声をかけた。
「はい」
「コウキさんとカンナさんが一緒にいると……嫌ゲコか?」
「……そう、なのかもしれません」
戸惑うように、ハリちゃんは目を伏せる。
「カンナさんは、優秀な方です。それこそ、頭脳に関してはマスターにも匹敵します。本人に戦闘能力はありませんが、代わりにメタルエテモンは、2つのスピリットを扱えていた時の私よりも、ずっと……ずっとお強い」
「ゲコ」
「カンナさんがいれば、戦力的にマスターはそれで事足りるのです。なのに……あの方がマスターと会話をしていると、この……このあたりが、妙に熱を持つのです」
そう言ってハリちゃんが指し示したのは、胸のあたりだ。
「私は、マスターにご迷惑をかけてばかりで……それなのに、前にも増して――マスターは、私の……兄で、あろうとしてくれています。……だから、これ以上、マスターを困らせるような事は――胸の内であっても、したくは無いのに……」
「じゃあそんなハリちゃんには、俺が魔法の言葉を教えてあげよう」
ぱちくり、と。ハリちゃんが瞬きの後、大きく目を見開いた。
きっと、予想になかったワードなのだろう。
「魔法の言葉……ですか?」
「おう。100%お兄さんの気を引ける言葉さ」
「……それは……マスターのご迷惑になるのでは?」
「妹なんて兄貴振り回してナンボだって、君より妹歴の長い俺の妹が言ってましたハイ」
「……カジカPにも、ご兄弟が?」
「お姉さん1人と妹1人ゲコ。ソーヤは真ん中なのゲコよ」
……俺の「相手の欲しがる言葉を察する才能」がここまで開花した理由と人間の女性アイドルを心が求めない理由の何割かは、確実にあの2人が原因だ。
夢を見る暇なんて無かったよ!
「何故でしょう。カジカPは一人っ子だとばかり」
「なんか知らんがよく言われるそれ。……まあ、そんな大っぴらに話す事でも無いし……」
というか、出来ればそんなに話したい話題とか、無いんだけど――この際だ。
「なので、心して聞き給えよ我がアイドルの卵! 魔法の言葉、それはな……『お兄ちゃん』だ」
「『お兄ちゃん』」
「お兄ちゃん。……リピートアフタミー」
「『お兄ちゃん』」
「うむ。……ハリちゃんと違って常々「兄貴死ね」の精神でいた俺の妹だけど……それでもなんか買わせたい時とかはそう呼んできて……無下にはできないわけね? そう呼ばれると。ちなみに俺が姉貴を「お姉ちゃん」って呼ぶと「気持ち悪い、やめて」になるだけですハイ。……妹から兄にしか使えない必殺技よ」
「『お兄ちゃん』……」
「ハリさんは普段「マスター」呼びゲコから、効果は抜群ゲコね」
繰り返してみてはいるものの、ハリちゃんは全然ピンと来ていないように見える。
まあ、そりゃ、呼び方を変えただけで向こうからの意識が変わるだなんて、眉唾も良い所だろう。
でも……
「多分さ、お兄さんも……君が、ちょっとくらいわがまま言ってくれる日が来るの、待ってると思うぜ?」
『調節』の結果なのか、スピリットが彼女に影響を及ぼしているのか、あるいは、実は精神的なものだったのか。それは、俺には解らない。
だけど、ハリちゃんからメルキューレモンへの『絶対服従』は、間違いなく、薄れてきてはいる筈なのだ。
彼女が「普通の人間」になる瞬間っていうのは――きっと、ハリちゃんが心の底からお兄さんに甘えられた、そんな時だろう。
なによりさっさとそうなってくれないと俺の新たなるアイドル育成計画がいつまで経っても完遂しないので2人には早い所素直になってもらわないとね?
「カジカPの発言の真偽のほどは今現在、判断しかねますが」
ただしやっぱり道のりは長そうだよ!
「ただ、発言自体は記録しておきます。……万が一、私個人がマスターに火急の用があった場合、『お兄ちゃん』の使用を検討するかもしれません」
「……」
うん、今更だけど。
これ――使用シーンによっては、俺、ジャーマンスープレックスの刑とかに処されないだろうか。
大丈夫だろうか。
……大丈夫だろう。うん!
「よし、続きしよう、続き! もやもや吹っ飛ばすなら、大きい声出すのが一番さ! ……色々やってる内に、その胸の中の『熱』との付き合い方も、判るって」
まあ、これは俺の勝手な推測だろうけど、お兄さんにとっても、カンナ先生っていうのは、初めての、自分と同じレベルでいろんな話をできる相手――友人みたいな、ものなのだろう。
それはそれで、絶対に悪い関係じゃないし、お兄さん自身は、ハリちゃんもカンナ先生と仲良くしてほしいと思っている気配もあるし――この先どうなるかは解らないけれど、どちらにせよ、俺は俺と俺のミューズができる事を、なんとかやってみるまでだ。
それに、どうにせよ、全てが上手く行くようになるのは――古代鋼の闘士の思惑を巡るこの事件が、解決してからになるんだろう。
「……」
お兄さんの夏休み終了まで、あと2週間。
全てにケリがついた瞬間を見届けたら、俺も――
――広い世界に新しい『歌』を、生まれたてのアイドルに届けてもらうのだ。
Episode タジマ リューカ ‐ 4
大学卒業後の春休み。
カンナ博士のところで助手として働き始めたばかりのころ、一度だけ、母から研究所に電話がかかってきた。
相手が判らずに電話に「こちら雲野デジモン研究所です」と応えた私を待っていたのは、「嘘つき」の一言で。
【嘘つき、嘘つき】
【お前に就職なんて出来る筈が無いでしょう。ピコデビモンと一緒で嘘つきのお前のする事なんて、お見通しだからね?】
【どんな汚い手を使ったのかは知らないけど、こんな手の込んだ真似までして、他人様にご迷惑をおかけして、お前はやっぱり、恥ずかしい子――】
「アタシの助手に、何か用ですか」
突然、母の声が聞こえなくなったかと思うと――カンナ博士が、私の手から電話を取り上げていて。
それからしばらく、電話口から母の声が聞こえて、カンナ博士はしばらく黙って聞いていたけれど――
「どこのどなたかは存じませんが、アタシがいたずら電話だと鼻で笑える内に止めてもらえないなら、訴えますよ」
そう言った。
有名な研究者であるカンナ博士にそう言われて……あるいは、その時のカンナ博士の凄むような調子に、流石のあの人も感じるものがあったのかもしれない。その後、長いような、短いような沈黙があって――電話が、切れたようだった。
なのに私は立ち上がる事さえできなくて、震えていたように思う。
母に言われた事はもちろん――こんな電話がかかってくるような私なんて、厄介払いされてしまうと思ったのだ。
だけどカンナ博士は、いつの間にか、私へと手を差し出していて。
「大丈夫かい?」
そう、いつものように微笑んでくれて。
それでも、手を握り返せず、何も言えない私に
「ちょいと、手伝ってほしい事があるんだけど」
きっと、そう言うのが、一番だと思ったのだろう。
実際、慰められるよりもずっと――その台詞は、私の心に、入って来て。
安心して、また泣き始めてしまう私と、これっぽっちも責任なんか無いのに、焦り始める博士。
そこにどこからともなくスカモンさんがやってきて博士を茶化すような言葉を言うのだけれど、それは逆に、信頼し合うパートナー同士のやり取りで。
……ここに来てから、私は随分、泣いてしまうようになってしまった気がする。
ピコデビモンがヴァンデモンに初めて進化したあの日――物置に投げ込まれるように閉じ込められた時、流石に我慢できなくて出してとぐずった私に対して、父は「五月蝿い」と怒鳴って物置の扉を思い切り蹴った。
それ以来、泣くと殺されてしまうような気がして――どんなに辛くても怖くても、涙は、出なくなってしまったのに。
……そんな事もあったけれど、私は結局殺される事無く、大学に行けるくらい育てられたのだから――もっと、あの人達に感謝するべきなのかもしれない。例えそれが、世間体と外聞を気にしての事だったとしても――私が多島家の長女として育った事は、変えようも無い事実としてずっと、私が存在し続ける限り、在り続ける。
なのに、親不孝にもそういう気持ちが湧いてこないのは――私よりもずっと酷い目に遭っても両親を愛する美談に出てくる子供のように出来ないのは――あの人たちが私に向ける感情が、『愛』じゃ無いって、知ってたからだと思う。
だって、本当の『愛』は、いつも、私の――
*
「……」
37度8分。
体温を測ると随分下がっていたので起き上がろうとすると、すぐにピコデビモンが飛んできて私の肩に乗っかった。
「ピコデビモン……」
「だめ! 今日はお休み!」
「……」
「きゅーきゅー休暇だって、博士も言ってた」
「有給じゃなくて?」
「うん、きゅーきゅー」
「そっか……」
救急、という事だろうか。
微熱くらいで、大事になってしまった。
……身体の異変に気付いたのは、昨日。ピノッキモンさんの館での戦いから数えて4日目。
あの時の『寒さ』自体は博士の用意してくれた極地用装備のお蔭でなんとも無かった筈なのに――だけどどこかで、油断があったのだと思う。
とは言っても、その時感じたのはちょっとした熱っぽさで(そういう意味では今とあまり変わらない)、後は多少、頭が痛いな、程度だったのだけれど――昨日はハリとコウキさんがお出かけしている事もあって、心配も、迷惑も、かけたくなくて。
ピコデビモンも、その気持ちを汲んでくれたのだと思う。
何事も無くハリが帰って来て、その姿が、どことなく嬉しそうに見えて――どうしても、彼女が少しずつ得始めているらしいものに水を差したくなかった。
……でも結局、今朝になってむしろ悪化していた体調を、ピコデビモンは今度こそ黙っていてくれなくて。
せめて食事の用意だけでも、と思ったのだけれど、結局ピコデビモンの能力で寝かしつけられてしまって……
時計を見ると、お昼前だった。
「……博士のお昼ごはん、まだ間に合うかな?」
「もー、まだ言ってる! お昼はソーヤさんが買ってきてくれるって。リューカのは冷凍のおうどんお願いしたけど、それで良かった?」
「うん……」
あとで、謝らないと。
「……博士のお役に立ちたいって、言ったばかりなのに……」
「でも風邪うつしちゃったら、そっちの方が迷惑かけちゃうよ?」
それは、最もなのだけれど。
「そもそもひいちゃったのが……こんな時に……」
「仕方ないよう」
ピコデビモンはそう言ってくれるけれど――
「夢、見たの。研究所に来たばっかりの頃の」
「……」
「私やっぱり……博士に、甘えてる」
「だめなのかなあ、それ」
「ダメだよ。博士、今、大変な時なのに……」
カンナ博士は元気そうに見えるし、5日前の戦いじゃ、メタルエテモンさんもとっても強かったけれど――それでもどこか、今の博士には、無理をしている感がある。
というか、そうじゃない方がおかしいのであって。
……あんな風にパニックを起こして、気を失うまで吐いて――それで普通で、居られるわけなんかない。
薄々、感じてはいたけれど――多分、カンナ博士とクリバラという学者さんは、ただの友達ではなかったんだと思う。
……まあ、そもそも。ただの友達というものが、私には、解らないのだけれど。
と、不意にピコデビモンが私の肩からベッドの隣へと飛び移り、進化する。
「ピコデビモン?」
一瞬で姿が変わったピコデビモン――ヴァンデモンは、装備している手袋を外すと、私の額に、青い手を当てた。
「つめたい……」
「カンナ博士に甘えられないなら――今日は、僕に甘えてもいいよ」
「……ヴァンデモン……」
「甘えて、も……zz……」
そしてそれも、一瞬の出来事だった。
きっと、私を安心させたかったのだと思う。昼間なのに進化してしまったヴァンデモンは、どうやら寝ないで私を診ていてくれたらしい事もあって、あっという間に、私の額に手は置いたまま、ベッドの方へと倒れてしまって。
気が付けばもう、気持ちよさそうに――それでも、私に身体が直接乗らないような姿勢で、眠ってしまっていて。
「……」
ピコデビモンにそうするように、私はヴァンデモンの頭を撫でた。
世代が変わって、姿も大人の男性のようになってしまっているのに――寝顔は、あまり変わらない。
「……こんなに可愛くて、優しいのにね」
誰に言うでもなく、呟いた。
誰かに解って欲しい訳じゃない。誰かに、否定されたくないだけで。
……と、
「リューカさん、入っていいゲコか?」
扉を叩く音。声はオタマモンさんだけれど、多分、カガさんが一緒なのだろう。ヴァンデモンが起きる気配も無かったので、でも少しだけ音量を抑えて「どうぞ」と返す。
「えっと……失礼しま……おおう」
……カガさんを驚かせてしまったようだ。
「え? 何で進化してるの? なんかあった?」
睡眠中のヴァンデモンを見るのは初めてだったのだろう。すぐに声音を抑えてくれたけれど、顔にはまだ、驚きが残っている。
……というか、日本全国に寝ているヴァンデモンを見たことがある人、何人くらいいるのかな……。
「ああ、えっと――冷えピタ代わりに?」
「あー、成程」
「ゲコもソーヤにしてあげた事あるゲコよ。そっか、ヴァンデモンも、ゲコと一緒でひんやりしてるのゲコね」
ヴァンデモンのひんやりと、オタマモンさんのひんやりでは、随分、種類が違ってしまう気もするけれど――
兎に角、カガさんが現状を変だなんて言わないでいてくれたのは、私としても嬉しかった。
「あ、そうそうリューカちゃん。ピコ……ヴァンデモンに聞いてるかもだけど、うどん、買ってきたよ。鍋焼きうどん」
そう言うと、カガさんは手に提げていたコンビニの袋から、アルミ容器に入ったコンロで作るうどんを差し出した。
「すみませんカガさん。おいくらでしたか?」
「あー、いいよいいよ。困った時はなんとやらだしね。なんなら、ついでに調理もしちゃうけど――」
カガさんの視線が、無防備に眠っているヴァンデモンへと移る。
……本当に、カガさんも優しい人だ。
「そうですね……。後で、いただきます。少し身体も動かした方がいいかもなので、その時に、自分で」
「そっか。じゃあ冷蔵庫入れとくよ。……っと、そうだ」
「?」
「いや、もう少し寝るなら――まだ試作段階なんだけど、聞いてほしくなってさ」
「前に言ってた、リューカさんとヴァンデモンのための曲ゲコ。ゲコの十八番、子守歌風の曲なのゲコよ。って言っても、まだハミングゲコけど」
そういえば、そうだった。
カガさんは、私達をモチーフにした曲を作ってくれていて――
……子守歌、か。
「ごめん、こんな時に。……め、迷惑だったら遠慮なく言ってね?」
「そんな、迷惑だなんて……聞かせていただけますか?」
ほっと息を吐くカガさんと、一瞬で進化してから、にこり、と微笑むラーナモンさん。
次の瞬間。彼女が、口ずさみ始める。
ゲコモンの時に奏でる複雑な音色とは異なり、それは、あくまで声だけを使った『歌』なのだけれど、本当に、びっくりするくらい綺麗な声で――ヴァンデモンを置いて、私が真っ先に聞いてしまって、少しだけ申し訳なかった。
重ねて申し訳ない事に――子守歌だからだろうか。ちょっとずつ、また、瞼が重くなってきて……
*
次に目が覚めたのは、およそ2時間後だった。
「……」
最後まで聞けたのか、いまいち自身が無くて。次にカガさんとオタマモンさんに会ったら絶対に謝らなきゃと、息を吐きながら目元を抑えた。
それとも、子守歌だから、良かったのだろうか。
聞いたことが無いから、解らない。
「……」
今度こそ起き上がろうと思ったところ、ヴァンデモンが、そのままだった。
流石にこの子を起こさないように起床するのは無理そうだったので、私はヴァンデモンの肩を、軽く揺する。
「ヴァンデモン」
「ん……んん……ふあ。……あ。ごめんなさいリューカ。僕が寝ちゃってた……」
「いいよ。むしろごめんね、いつもは休んでる時間帯なのに……」
ふるふる、と首を横に振るヴァンデモン。赤いコウモリのマスクの下にある目は、やっぱり、少し申し訳なさそうだ。
「風邪のウイルスも操れればいいのに」
「ふふ。それは、出来たらすごそうだね」
病気に関する能力を持つデジモン……というのは、そういえば聞いたことが無い気がする。
今じゃそれなりに一般的になったデジモン医という職業もあるくらいだから、デジモンの世界にももちろん、病気自体はあるらしいのだけれど――でもどちらにせよ、人間の病気とデジモンの病気じゃ、そもそもの種類が違う気もする。
私は改めて身体を起こして、伸びをする。気分は、もう、随分良かった。
……ラーナモンさんの子守歌のお蔭なのかもしれない。朝みたいな夢も、見なかったから。
「リューカ、お昼ごはん?」
「うん。そのつもり」
「僕、作ってこようか?」
「いいよ。そろそろちょっとは動かさないと、逆に痛くなっちゃうから、身体。ヴァンデモンは、もう少し休んでて」
「んー、えっと、じゃあ……」
ヴァンデモンは、今度は裏地の真っ赤な、黒色のマントを脱いだ。
「ちょっとでも、あったかく、ね」
そのまま笑顔で、それを私の肩にかける。
初夏の気温は防寒を必要とはしていないのだけれど、触り心地の良いヴァンデモンのマントは、風邪の寒気と重たい身体にはちょうどいいくらいだ。
……私の身長だとかなり引きずってしまうのだけれど……多分言っても、この子は気にしないのだろう。
「ありがとう、ヴァンデモン」
「もし困ったことがあったら、こういう風に」
と、ヴァンデモンがマントの端を持ち上げると、使い魔のコウモリが1匹、パタパタと音を立てながら飛び出てきた。
昼間だからか、少し弱々しいけれど……。
「マントを持ち上げたら、出せるから、使い魔」
『ナイトレイド』はできないけど、と付け加えるヴァンデモン。言っている間に、コウモリはマントの奥へと戻っていく。
……いいのかな、これ。本当に私が使っても。
「……ありがとう」
でも、やっぱりこの子の思いやりを無下にもできないし、羽織っていて心地いいのは事実なので――私はそのまま、行ってらっしゃいと寝ぼけ眼で手を振るヴァンデモンを背に、自室を後にする。
早速、廊下を乾拭きするような状態になってしまうマントが気になってきたのだけれど――
「あ、そうだ」
思いついて、マントの端を持ち上げる。
1匹、2匹――しばらく持っていると、最終的にヴァンデモンの使い魔であるAからEの5匹全員が、出て来てくれた。
「昼間にごめんね。あんまり汚さないで返してあげたいから、マントの裾、持ってもらってもいいかな?」
呼びかけると、キィキィと鳴きながら、言う通りにしてくれる使い魔たち。
こうやって見ていると、ぬいぐるみみたいで結構、可愛い。
「ありがとう」
そのままキッチンの併設されたリビングへと向かう。
……リビング中央のテーブルの前には、コウキさんが座っていた。
「あ……」
「嗚呼、おはようございま……す、タジマ リューカ」
流石のコウキさんも、今の私の装いには面食らったようだ。妙な間があった。
「お、おはようございます……って言っても、もうお昼も過ぎちゃいましたけど……」
「貴女の場合、睡眠の時間が通常より大きくずれているカンナと違って仕方のない理由ですからね」
そう言って椅子から立ち上がると、コウキさんは向かいの席に回って、その椅子を引いた。
「こちらへどうぞ」
「あ、ありがとうございます。でも、うどんの準備……」
「ワタクシは、カンナに貴女の昼食の準備をするよう指示されています。……本当はカンナ本人が行こうとしていたのですが、何分……」
何かを言いかけて、しかしコウキさんは「いえ、なんでもありません」と言葉を濁す。
私も、何も聞かなかった事にしようと思った。
それに、人間のカンナ博士だと、風邪をうつしてしまうかもしれないから、来てくれたのが、コウキさんで良かった。
……本当は、私なんて、放っておいてくれても構わないのだけれど。
「本当に、大した風邪じゃないんですよ?」
「カンナやハリが同じ体調であっても、そう言いますか?」
「……」
「今日は大人しくしていなさい」
絶対に口では勝て無さそうなので、言われた通り大人しく指示に従い、椅子に腰かける。
それからもう一度マントの端を摘み上げると、使い魔たちが内側のどこかへと戻っていった。
……そんな私の様子を、キッチンの方に移動したコウキさんが見ていて。
「……貴女とピコデビモン――ヴァンデモンは、本当に仲睦まじいのですね」
「?」
「そんなヴァンデモンレディとでも呼びたくなる恰好をしていれば、誰だってそう思いますよ。機能まで使用許可を出しているとなると、尚更、ね。デジモンの装備はそもそも各々のデータの一部です。人間が衣服の貸し借りをするのとは、訳が違う」
もう一度、広げるとコウモリの羽のようになるマントへと目をやる。
「……あの子は、いつもこうですよ。私が一番、って言ってますけど……本当は、誰にだって、優しいんです」
「……そうかもしれませんね」
そういえばコウキさんは、ピコデビモンとお話をしたって、あの子が言っていたような気がする。
そうやって肯定してくれるのは、あの子の話を、この人――このデジモンが、ちゃんと聞いてくれていたという証だ。
きっと、言っても否定されてしまうだろうけれど。コウキさんも私のピコデビモンと同じくらい、優しいのだ。
……やっぱり、ちょっとだけ、ハリが羨ましい。
と、
「このような時に、何ですが」
コンロの側を向いたまま、コウキさんが、こちらに声をかけてきた。
「?」
「少し、質問をしても構いませんか?」
首を傾げつつ、私は了承の返事を返す。
何だろう。コウキさんが、私にわざわざ、聞きたい事だなんて。
「ありがとうございます。……昨日、ワタクシとハリが出掛けた際に、ハリが、このような事を言っていたのです。……ワタクシとカンナが2人で話しているのを見ると、胸のあたりが妙な熱を抱く……と」
胸のあたりが――それって、つまり。
「その際返事は保留に……とりあえず健康状態に異常は無いと伝えましたが、まあ、恐らく、嫉妬というものなのでしょうね」
「嫉妬……」
「貴女の場合、どうなのでしょうタジマ リューカ。……ワタクシは少なからず、貴女から仕事と、カンナと過ごす時間を奪ってしまっていますからね。不本意だとは、感じていませんか?」
「それは……考えたことも無いです」
仕事を奪うも何も、私の主な仕事は博士の身の回りのお世話で、どちらかといえば研究を手伝う形である事が多いコウキさんとはやってる事が全然違う。強いて言うなら事務処理はコウキさんがしてくれる事も多くなったけれど、むしろ助かっているというか、なんというか……。
でも、ハリの場合は、そうじゃない。
ずっと、彼女の世界は、本当の意味でお兄さんと2人きりだった。
「えっと、逆はどうですか? 私がハリと一緒に居て、嫌な気分にはなりませんか?」
「むしろ貴女とハリには、今以上に親しくなっていただければと……そう、思っていますよ。ハリに足りない物を教えるのは、ワタクシやカンナ以上に、貴女の方が、適任でしょうから」
「わ、私がですか?」
「ええ」
そう言って一度言葉を区切ったコウキさんは、コンロを見下ろして「思ったより温まらない」と小さく呟いた後、姿勢を戻して顔をこちらに向けた。
……確かに、意外と表示時間通りにならない。冷凍のうどんって。
「結局、あまり実りのある時間にはなりませんでしたよ、昨日は。場を設ける提案をしてくれたスカモンには申し訳ないのですが――ワタクシがハリに抱く感情は、未だに、ハッキリしないままです」
「……」
「ハリの恐怖も、それから今回の嫉妬も。あの娘の傍にワタクシしかいなかったから発露しなかったものです。年相応の少女らしくなってきているかというと……そうも言い難い」
ただ、と、コウキさんは続けた。
「あの娘が甘味を好むという事が解ったので、全くの無駄骨では無かったというのが、唯一の収穫でしょうかね。……嗜好品の類は、与えた事がありませんでしたから」
ハリが甘い物を食べた時の顔を、思い出しているのかもしれない。
絶対に気付いていないのだろうけれど……ハリの話をする時のコウキさんは、普段よりもずっと、穏やかな顔をしている。
「コウキさん」
「何でしょうか」
「私、コウキさんがカンナ博士と一緒にいる事については、多分、嫉妬はしてないと思うんですけど……」
一瞬、口に出していいのか戸惑いがあったけれど――黙っているより、良い気がして。
「ハリの事は、少しだけ、羨ましいんですよ?」
「……そういえば、ハリの報告にもありましたし……少しだけ、ピコデビモンからも話を聞きました。……貴女の兄と比べれば、ワタクシは確かに、多少は、ハリにとって、良き兄なのでしょう」
「多少は、どころかですよ」
兄の事を、思い出す。
今思えば、ピコデビモンが初めて進化したあの日以降、兄の振舞いは、家族の中ではいくらかマシな方になっていったような気がする。
直接対峙したヴァンデモンが、よっぽど、怖かったのだろう。
そればかりは、自業自得だとしか思えない。
それに、あの人があんな事をしなければ、ピコデビモンは怒りに任せての進化なんて、しなくて良かったのだ。
……先に手を出したのがあの人だっていう証拠だって、ずっと、私の右腕に残っている。
「……もうそろそろ出来上がると思いますが……生卵は落としますか? オススメらしいのですが」
今度は容器に覆い被さっていたフィルムの表示とにらめっこしながら、コウキさんが、一言。
「あ、今日はいいです」
「解りました」
……そういえば、作った事あるのだろうか、コンビニの冷凍うどん……。
人間の姿にも関わらず、改めて見ていると結構シュールな光景だな、なんて思ってしまって……申し訳なさで顔が火照ってきたあたりで、コウキさんは出来上がったらしいうどんのアルミ容器を持ってきてくれた。
「あ、そうだ。えっと、鍋敷き……」
待っている間に出しておけば良かったと立ち上がろうとすると、1匹、Aのコウモリ型使い魔がマントから出て来て、キッチンの奥から持ってきてくれた。
……指示、していないのだけれど……
というか、本当にこういう風に使っていいのだろうか?
「どうやら、彼の使い魔にも好かれているようですね」
「でしょうか……」
キイ、と肯定するように鳴いてから、Aの子はまた、マントの中に消えていく。
何だか余計、頬が熱い。
「はい、どうぞ。こちらお箸と七味です」
「ありがとうございます」
「ああ、それと」
思い出したかのようにポケットに手をつっこんだコウキさんは、1枚の紙を取り出した。
「?」
「昨日行った店の割引券だそうです。今度、ハリと一緒に行ってあげてください」
「いいんですか?」
「先ほども言ったように、ワタクシ、貴女には期待しているのですよ。……いくら兄として振る舞えようとも、友人にだけは、なりようがありませんから」
「!」
今度こそ、顔が真っ赤になってしまった気がする。
その単語は不意打ちで、あまりにも縁が無さ過ぎた『友人』という言葉は鐘のように、頭の中で鳴り響いた。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、コウキさんは、くすりと笑う。
「色々と興味深い貴女と話したい事はまだ、いくらかあるのですが……これ以上は、食事の邪魔をしてしまいますからね。ワタクシは、これで」
「あ、え、えっと……すみません。ありがとうございました、コウキさん」
お大事に、と付け足して、コウキさんはリビングから去っていく。
「……いただきます」
風邪のせいも、あるのかもしれない。
ここに来た時以上にぼーっとした頭のまま、カガさんが買ってきてくれて、コウキさんが調理してくれたうどんを啜り始める。
なんだか、いつもより美味しく感じる半面、味の感想がほとんど頭に入ってこなくって……
「友人……」
もう一度コウキさんの言葉を繰り返して、1人、顔が爆発するんじゃないかなんて、要りもしないような心配をする羽目になっていた。
*
昼食を食べ終わって自室に戻ると、部屋の扉が開いたのを察知してヴァンデモンが目を覚ました。
「ん……おかえりなさいリューカ」
「ただいま、ヴァンデモン。これ、ありがとう」
マントを外すと、使い魔たちが半分持つような形でヴァンデモンに返すのを手伝ってくれた。
起き上がったヴァンデモンがそれを装着し直し、使い魔をマントに戻すと、一瞬でピコデビモンに退化する。
「どう? 結構便利だったでしょ?」
「うん。……でも、いいのかなぁ……ああいう風に使って……」
「悪い事に使うよりずっといいよ」
それは、そうかもだけれど。
と、その時。ふいにぐう、と、ピコデビモンのお腹(?)が鳴る音がした。
……しまった。
「ご、ごめんねピコデビモン。ごはん、まだ食べてなかったんだね」
「寝てたからだよ。普段もこのくらいの事よくあるし、大丈夫だよ?」
だからといってそのままにはできないので、私は枕元のスマホを手に取り、ピコデビモンを中へと戻す。
そのまま『ホーム』と呼ばれるアプリを開いて、スマホの中の殺風景な部屋で、アプリ内の機能を使ってピコデビモンにごはんを与えた。
デジヴァイスとスマホ――発表当時は、携帯電話だったっけか。それらが組み合わさるまではデジモンとの生活事情はなかなか難しい問題だったと授業で習った記憶がある。
『ディーターミナル』と呼ばれる通信装置の配布等試行錯誤を経て、最終的に全ての人に無料で配られる事になったこのスマホ型デジヴァイスのお蔭で、デジモンと人間はようやく、本当に共存できるようになったと。
……私自身、これがあったから、あの環境でもピコデビモンと、どうにかずっと一緒にいられたのだと思う。
「ごちそうさま!」
なんて考え事をしている内に、食事が終わったようだ。
ピコデビモンが再度、リアライズする。
改めてベッドに横になった私にぴったりとくっつくようにして、彼は枕元へと降り立った。
「リューカはごはん、コウキさんが作ってくれたんだね」
「うん。明日治ったら、一緒にありがとう、言いに行ってくれる?」
「うん!」
元気良く返事してくれるピコデビモンの頭を撫でる。
丸い金色の目が、じっと私を見つめていた。
「顔色も、ちょっと良くなったね」
「うん。うどんも残さず食べられたから……もう、大丈夫」
「でも今日はゆっくりしなきゃだからね?」
「うん……」
瞼を閉じる。お腹がいっぱいになって、暖まった事もあって、また少し、睡魔が戻ってきた。
どうあってもピコデビモンは今日の私を必要以上に行動させるつもりが無いようなので、他に出来る事なんて有りそうも無かった。
短い睡眠を繰り返して、目が覚める度に時計の確認ばかりを繰り返して――気が付けば日が暮れてきた、そんな頃になって、今度は
「はぁ~い、お邪魔するわヨ~」
声量控えめのエテモンさんが、ゆっくりと、私の部屋の扉を開けた。
後ろにはハリもくっついている。……珍しい組み合わせだ。
「エテモンさん。それにハリ」
「どうしたの?」
「どしたのってそりゃ、お見舞いヨ、お見舞い。ほら見て、リンゴ! おいしそうでしょ? ……旬の桃か、キャラ的にバナナか、迷ったんだけどね。でも風邪といえばリンゴだもの」
「そーなの?」
「そーいうもんヨ!」
「私はエテモンにそのリンゴの買い出しを依頼され、そのままこちらに同行しました。おかげんはいかがですか、リューカ」
もうほとんど問題ないという旨を伝えると、いつも通りの無表情ではあるけれど、「それは良かった」と言ってくれるハリ。
……というか、本当に、みんな私の風邪の事、もっと他の、具体的には思いつかないけれどすごい病気か何かと勘違いしてるんじゃないかと心配になってくる。
「わざわざ……すみません」
「んもう、そういう時は「ありがとう」だって言ってるじゃない! まあいいわ。……本当はカンナが自分で行こうとしてたんだけど、何分……」
そう、エテモンさんは手元のリンゴといつの間にか取り出していた果物ナイフを見下ろして、そのまま何も言わずにそれらから目をそらした。
……私も、何も見なかったことにしよう。
「と、に、か、く! リンゴ食べましョ、みんなで食べましョ! ちョっと待っててね……」
ハリがスッと差し出した紙皿をベッドの上で、手際よくリンゴを切り分けるエテモンさん。皮は後から剥くのだろうかと思っていたら、いつの間にかウサギに飾り切りされていた。
「わあ、エテモン、器用!」
「ま、スカちゃんの時でもできるんだけど、流石に食品扱う時はこっちの方がね~。それに皮の方が食物繊維あるから。お腹壊してるわけじゃないんでしョ? 出来たのから食べてってくれていいからね」
「い、いただきます」
少し勿体ない気がしたけれど、食べないのはもっと申し訳ないので、恐る恐る、口に運ぶ。
……普通のリンゴに違いないのだけれど……こんな風に剥いてもらったのを食べるのは初めてなので、甘さを感じる以上に、何だか緊張してしまう。
「おいしい!」
だから、私の代わりに屈託なく喜んでくれるピコデビモンの存在が、いつも以上に、ありがたかった。
「ふふ、いくつか買ってきてもらったから、好きなだけ食べてヨね! ほら、ハリちゃんも!」
「私もですか?」
「そーヨ、みんなでって、言ったでしョ」
「では、いただきます」
尖った赤い耳のついたリンゴを物珍しそうに眺めた後、頭の方から齧り始めるハリ。
……コウキさんの言っていた通り、確かに、甘い物を食べていると、ちょっと表情が変わっているようにも、見える。
「しかし何故、このように皮に特殊な切り込みを入れて残すのですか?」
「かわいいからじゃない?」
「それもだし、果物って大体、皮の方が栄養価高いのヨ。そういうの食べさせようとする工夫なのかもね。……っと、そうだ。ハリちゃん用に……」
少しだけうさぎよりも時間をかけて、リンゴに飾り切りを施すエテモンさん。
出来上がったのは
「じゃーん! セフィロトモンの口~」
唇と、そこから覗く歯の形だった。
確か、コウキさんのビースト形態だったような。セフィロトモン。……ハリが若干反応を示している気がするので、多分、合っていると思う。
……『ティファレト』と『闇』の話は――カンナ博士の戦いが終結したら、是非、詳しい話を聞いてみたいと思っている。
「マスターの……。とはいえ、実物は見たことが無いのですが」
「そうなの?」
首を傾げるピコデビモンに、ハリは頷く。
「スライドエヴォリューションに他の闘士以上にエネルギーを使うとの事で……本当にいざという時にしか使えないと、そう聞いています」
確かコウキさんの話では、セフィロトモンは、内部に『空間』を持っているとかで……話を聞いても全然ピンと来ないのだけれど、きっと、メルキューレモンさん以上に特殊なデジモンなのだと思う。
「なので、こんな形で目にするとは思いませんでした」
エテモンさんの切ったリンゴをまじまじと見つめるハリ。「リンゴヨ、それ。リンゴだからね?」と微妙に小声でエテモンさんが囁きかけているが、あまり気に留めている素振りは無い。
……でも、やがて、思い直したかのように、ぱくり、とハリはそのリンゴに齧り付いた。
「リンゴですね」
「リンゴだね」
「……なんとなく、理解できたような気がします。何故、リンゴに加工を施すのか」
その結論を、ハリは言わなかったけれど――半分になってしまった『口』のリンゴを不思議そうに見つめているハリは、なんだかすごく、微笑ましくて。
……そんな風に思っていたら、昼間の、コウキさんの『友人』発言をまた思い出して、カッと頬が熱くなる。
「? どうしましたかリューカ」
「あら、リンゴほっぺになっちゃったわね。……あ、もしかしてエテちゃん、ちョっと騒ぎ過ぎたのかも……」
「あ、そ、そういう訳じゃ……」
だからといって理由は説明できないでいる私を気遣って、エテモンさんは手を付け始めていたリンゴだけはきっちり切り分けてから、またいつの間にか用意していたハンカチで手を拭いて、立上がる。
「ゴメンね、思ったヨりリューカちゃん元気になってたから、ついつい長居しちゃった」
「そんな事無いですよ。……ほとんどずっと部屋にいたので、こうやってお話しできて、嬉しかったです」
「そ、なら良かった。でもあんまり居過ぎるとカンナにも怒られちゃうからね。お大事に、リューカちゃん! ピコちゃんもあんまり無理しないヨうにね?」
「うん、ありがとうエテモン!」
「ありがとうございます」
「では、私もこれで」
「うん。ハリもありがとう」
部屋を後にする2人を見送ってから、置き土産になった2匹のリンゴのうさぎを、ピコデビモンと一緒に1つずつ、口に入れる。
しゃくしゃくと、小気味いい音がしばらくの間、鳴り響いた。
「おいしいね、リューカ」
「うん」
結局今日は、ピコデビモンだけじゃなくて、みんなに甘やかしてもらってばっかりだ。
だけど……私はともかく、私以外の事で、こんな風に笑っているピコデビモンが見られるのは――なんだか、胸が温かくなって。
こんなに優しくしてもらっても素直に受け止められない私だけど、この子が今みたいに幸せに過ごせるなら――いつか私も、この子みたいに、振る舞えるだろうか。
「ピコデビモン」
「?」
「幸せ?」
「? うん!」
「そっか」
紙皿を片付けて、一度洗面所に行って歯を磨いてから、また私は、ベッドへと潜り込んだ。
流石にこの時間帯ともなると、今日はもう完全に休み切って、明日はちゃんと働けるようにならないとという思いの方が強くなっていて。
リンゴは結構お中に溜まるし、お昼ごはんが遅かった事もあって、夕飯はいらなさそうだった。
とはいえやっぱり、すぐには眠れそうになかったので、もうこの時間帯からは次の日の朝まで起きているに違いないピコデビモンといくらかお喋りをして過ごしていると――
コンコンと、ノックの音が、また聞こえて。
「入るよ、リューカちゃん」
本日最後の来訪者は、カンナ博士だった。
「博士」
「ああいや、起きなくてもいいよ。大した用じゃないから」
そう言われたものの、もう随分と身体も軽かったので、私はすぐに身を起こす。
カンナ博士は「気ぃ使わせるね」と眉をハの字にして微笑みながら、私へと1本のペットボトルを差し出した。
「これ。さっきスカちゃん、渡し忘れたみたいでさ。スポーツドリンクだよ」
「ああ……何から何まで、すみません。そんな大した風邪じゃないのに、みなさん……」
「いやいや、前アタシが倒れた時は……リューカちゃんにも、心配と迷惑、かけちまったからね。……ま、借りを返してるようなもんだと思ってくれればいいから」
借り、なんて言い出したら……私、多分、一生かかっても返しきれない程なのに。
「カンナ博士……」
「っていうか、ホントは昼飯の準備だって、リンゴだって、アタシがしようと思ったんだけど……スカちゃんとメルキューレモンがやめとけって……」
それに、関しては……申し訳ないけれど、コメントが、出来ない。
私と同じ気持ちなのか、ベッドの縁にとまったピコデビモンも、なんとも言えない、微妙な表情を浮かべている。
……人も、デジモンにも。誰にだって、得手不得手がある。
「でも、良かったよ本当に。虚ろだったもん、目。朝見た時。日曜じゃ無かったらタクシー呼んで、病院連れてったんだけどねぇ」
「微熱くらいで大げさですよ博士」
「リューカちゃん、8度超えは微熱じゃないからね? だけどその様子だと」
カンナ博士が、私の額に触れる。
その手は、ヴァンデモンと違って、熱があって――だけど同じくらい、あたたかい。
「うん。今はホントに微熱だろうさね。……何だい、照れてるのかい? はは、ほっぺは中々温いじゃないか」
「こ、子供じゃないんですよ、私……」
「……そうだね」
ふっと、カンナ博士の瞳が、私を見ながら遠い所を眺めた。
誰かと、重ねるように。誰かに、見立てるように。
きっと博士には、もっと、こうしてあげたかった人がいるのだろう。
あるいは――いたかも、しれなかったのだろう。
「……あの、カンナ博士」
「ん? 何だい?」
「博士には……好きな人とか、いましたか?」
「……」
自分がどんな顔をしていたのか気付いたのかもしれない。博士はばつが悪そうに目を伏せて、だけど少しだけ、懐かしそうに微笑んで
「いたよ」
そう、答えてくれた。
「頭の良さだけが取り柄の、どうしようもないヒモ男だったけどね。淹れるコーヒーもクソみたいにマズかったし、顔が良いかと聞かれればそうでも無いし……」
「人を好きになるって、どんな気持ちですか?」
何気なく聞いてしまった一言に、目を丸くするカンナ博士。……それから、小さく吹き出して、博士は人差し指で、つん、と私の頬を突いた。
「?」
「アンタまでメルキューレモンの奴みたいな事言い出して、もう……」
ふと、博士の一言で、ハリの言葉が、蘇った。
「貴女とマスターは、似ているのだと思います」……だっけか。
「でも、まあ……良い事ばっかりじゃないよ。好きな人が増えるって事は――失う物も、増えるって事だから」
「……」
「いつかは来る。ただ、それは今日じゃない。……そんな風に油断してる時に限って、突然、砂みたいに指の間から零れちまうもんなのさ」
人差し指が、離れていく。
だけどさぁ、と、カンナ博士は、やるせなく続けた。
「失くす時と一緒で――好きになるのも、一瞬なんだよ」
理不尽だよね。そう言って幽かに微笑むカンナ博士の横顔は、悲しそうなのに、何故か、それ以上に――どこか、誇らしげに見えて。
「博士……」
「っと、こんなもんで勘弁しとくれ。風邪ひいた頭で考えるような事じゃないよ、それは」
「す、すみません。つい……」
「いやまあ、謝る事でも無いけどさ」
改めてカンナ博士はスポーツドリンクを枕元に置き直すと、私達に背を向けた。
「そんじゃ。……今日は、アタシも早めに寝るよ。調べ事も、ちょっとひと段落ついたしね」
「……じゃあ、明日は少しだけ早めに、コーヒーを用意しないとですね」
「ちゃんと治ってたら、だよ?」
長くてぼさぼさのピンク色の髪を揺らしながら、カンナ博士が振り返る。
「お大事に。……いや、違うな」
そのまま博士は、悪戯っぽく微笑んだ。
「「風邪、早く治せよ」」
『デジモンアドベンチャー』の有名な台詞を、引用して。
こくり、と私が頷くのを確認してから、博士は部屋の扉を閉めた。
「……」
実を言うと、私はきちんと、あの小説を読んだことが無い。
要所要所は授業で習ったし、有名な個所は知っているけれど――未だに、怖くて、ちゃんとは向き合えないでいるのかもしれない。
1999年の選ばれし子供達が体験した、8月3日と。
……この世界の『前例』である、『あの』ヴァンデモンと。
「リューカ」
私とカンナ博士のやり取りを見守っていたピコデビモンが、すと、と肩に降り立った。
「?」
「僕ね。……ちゃんと、リューカの大好きなものも、護るから」
「……」
そう言って――私の一番の『大好き』は、尖った歯を見せながら、ニッと笑っていた。
……ああ、やっぱりこの子は、全部、お見通しだな。
ペットボトルの蓋を開け、甘いスポーツ飲料を口に含む。
「ピコデビモン」
「うん」
「時間になったら、起こしてね?」
「うん!」
横になる。同時にピコデビモンが、部屋の電気を切ってくれた。
……風邪をひいても、休んでいる時間は無かった。
どころか、体調が悪い素振りを見せてしまったら思い切り睨まれて、「だらしない子」だと、「体調管理も出来ない怠け者」だと怒鳴られた。
そんな中でいつも、ピコデビモンだけは心配そうに寄り添ってくれて――だから私は、『愛情』を知ることが出来たのだ。
この子が愛してくれたから、私は、この子を愛せたのだ。
きっかけは、いつも、この子だった。
「……」
カンナ博士とスカモンさん。カガさんと、オタマモンさん。ハリとコウキさん。みんなみんな、信じられないくらい、優しくしてくれる。
それを――ピコデビモンがしてくれたのと似ていると感じてしまうのは、きっと、ものすごく迷惑なのだと思うけれど――
――……私はそれでも、もう、みんなが、大好きになってしまっていて。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
だから明日こそは、きちんと役に立てる自分になろう。
平熱なのを確認したら――まずは研究室に行って、カンナ博士とスカモンさんにコーヒーをお出しするのだ。