Episode タジマ リューカ ‐ 1
カンナ博士の研究室を開けると、博士は死んでいた。 「あらぁ、おはヨうリューカちゃん、ピコちゃん」 「おはようございますスカモンさん」 「おは……よう……zz……」 「まあまあ、ピコちゃんはまだおねむヨね。はい、ここでちョっとお休みしてなさい」 「ありがとおしゅかもん……」 スカモンさんがぽんぽんと叩いたクッションの上に飛び乗って、ピコデビモンが丸くなる。 「ありがとうございますスカモンさん」 「いいのヨぉ、ピコちゃんには夜間の警戒をしてもらってるもの。……肝心のカンナが日中にコレじゃあ、示しがつかないんだけどね」 スカモンさんの指さす方にいるカンナ博士は、相変わらず微動だにせず机につっぷしている。 ……時々本当に死んでるんじゃないかと不安になるけれど、よく見れば肩が上下しているので、そのたびにほっとしている。 万が一にもこの人がいなくなったら、私は、どこに行けばいいのだろう。 ……考えるのも、怖い。 「これ、昨日の夜なんですけど、朝ごはんになりそうなパン買っておきました。コーヒーはどうしましょう?」 「いつも悪いわね。カンナもそろそろ起きると思うから、先に淹れといてくれる?」 「はい」 カンナ博士の隣にそっと菓子パンを置いて、研究室の隅に備え付けられた簡単なキッチンスペースでお湯を沸かす。 私とピコデビモンはここ、雲野デジモン研究所で住み込みで働かせてもらっている。仕事内容は研究の手伝いと言うよりもカンナ博士の身の回りの世話が中心で――それから、護衛も、という事になっている。 ……カンナ博士は優秀な研究者だけれど、研究に関係の無い事はほとんどできない。 料理洗濯掃除といった家事の類はもちろんの事、デジモンに関係ないところだと電子機器やパソコンの扱いまで時々心配になる事がある。 私がまだ働いていなかったころは、全部スカモンさんがやっていたのだろうか……? だけど何にせよ、ここでの暮らしはとても新鮮で、働いている身なのに申し訳ないのだけれど……とても、楽しい。 カンナ博士はいろんなことを教えてくれるし、スカモンさんはピコデビモンと遊んでくれる。 ……私の家族にさえいじめられていたピコデビモンが楽しそうに笑っているのを見ると、心があったかくなるのと同時に――パートナーとしての自分の不甲斐なさが、情けなかった。 私はもっと早くに、この子にこういう環境を作ってあげられたんじゃないかって。 「ん……」 と、匂いにつられてカンナ博士が目を覚ましたようだ。ちょうど、コーヒーが出来上がる。 「おはようございますカンナ博士」 「ん、あ……おはようさん。悪いね、また寝坊だ……」 「むしろアンタの起床時間はこの辺が平均でしョうが」 「うー……」 「あ、コーヒーどうぞ」 「なんて優秀な助手ちゃん……」 ピンク色の髪を申し訳程度に手櫛で整え、カンナ博士は淹れたばかりのコーヒーを啜る。もう一つカップを出して作り置きしておいた冷たいコーヒーを注ぎ、そちらはスカモンさんに手渡した。 「手間かけさせるわねぇリューカちゃん」 「いえ、そんな事は」 カンナ博士はお目覚め用に熱いコーヒー。口の形の関係で啜るのが苦手なスカモンさんにはアイスコーヒー。ここでのルールにも、それなりに馴染めてきたように思う。 ほう、っと、半分くらいコーヒーを減らしたカンナ博士が息をついた。 「今日は昼過ぎからちょいと提携してる大学の研究室に行ってくるよ。ちょっと前に見つかった進化プログラムのコードの一部が解析されたとかで、コードの適正デジモンをうちのデータと照らし合わせてほしいんだと」 進化プログラム……育成状況に関係なく、ほんの一時的にデジモンを進化させるプログラムの事だ。時たまネットの海に発生するのを、関係者が回収しているのだそうだ。 個の進化が種の全体に影響するという研究を進めているカンナ博士の主な収入源は、そういった進化プログラムのコード解析によるところが大きいらしい。 「わかりました。じゃあその間に、この部屋の掃除をしておきましょうか?」 「頼むよ。……でもやだなー。あそこの研究室のじーさんあんまり好きじゃないんだよ。偉そうで。スカちゃんウンチ投げつけてやってよ」 「成果だけが取り柄なんだから、他所に喧嘩売るようなマネはしちゃだめヨぉカンナ」 「うー」 ……成果だけが取り柄、っていうのも、なんだか妙にパワーのある語だけれども。 とにかくカンナ博士は、どうにも気乗りしない様子だった。 「……あの、博士」 「うん?」 「差し出がましい真似かもしれませんが……昨日、ちょっと元気が出そうな曲を見つけたんです。聞きませんか?」 「曲?」 私は頷く。 とは言っても、寝る前にスマホを確認していたら、ネットニュース載っていて知っただけなのだが。 「音楽クリエイターのカジカさんの新曲らしいです。久しぶりに、動画投稿サイトの方で発表されたそうで」 「マジで? ほーん。カジカPはもう無料で見れるとこには曲出さないと思ってたわ。うん。テンション上げときたいし、見せて見せて」 「自分で調べなさいヨ」 「大丈夫ですよ。えっと、ちょっと待ってくださいね」 カンナ博士のパソコンでサイトを開くと、トップページに既に人気曲としてそれが紹介されていた。 「あ、これです。曲もですけど、登場する女の子みたいなデジモン――だと思うんですけど、その子も可愛いんですよ」 「そりゃ楽しみだ。じゃあ、早速」 イントロに合わせて河川敷の風景が映し出される。手作り感溢れる実写のPVはなんだか逆に新鮮で、親しみが感じられた。 歌が始まり、カメラが件の女の子のようなデジモンに向けられる。 ――次の瞬間耳に届いたのは、歌声ではなく、床に落ちたマグカップが割れる音だった。 「ひゃあっ!?」 気持ちよさそうに寝息を立てていたピコデビモンが突然の音に飛び上がる。 「ちョっとカンナ、いきなりどうしたのヨ!」 割れたのはカンナ博士のマグカップだった。スリッパとズボンの裾にほとんど飲み終えていたらしいコーヒーの飛沫が飛んでいるが、博士はまるでそれすらも気が付いていないかのようにフリーズしていて――しかしまたしても突然、何事も無く歌い続ける動画の中のデジモンに掴みかかるようにしてパソコンの端をがしりと掴んだ。 「ど、どうしたのカンナ博士……?」 「水のスピリットの進化体……っ!」 「!?」 カンナ博士の呟きで、場の空気がいっぺんにびりりと引き締まる。 「カンナ、本気で言ってるの?」 「ああ、クリバラの手紙に残されてた情報と特徴が完全に一致する。間違いない。……間違いないけど、えええー……あるえー……?」 画面上には、笑顔で歌って踊る妖精のようなデジモン。 ……あの時見た雷のデジモンとは似ても似つかないし――このデジモンは、人型ではあるけれど、デジモンにしか見えなかった。 「この声――多分ですけど、カジカさんのパートナーデジモンのだと思います」 カジカさんがサイトで発表した曲は、全て自分のパートナーであるゲコモンに歌ってもらっていると聞いた事がある。 歌声を聴く限り、今回もその例には漏れていないと思うのだが。 「口パク……じゃないな。喉を見る限りちゃんと歌ってる。え? じゃあユミル進化体じゃなくて、カジカPのゲコモンが水のスピリットを纏ってる? なんで?」 「カンナがわかんないなら誰にもわかんないわヨ」 スカモンさんの言う通りだった。 この動画をカンナ博士に見せたのは、博士のテンションを上げてもらう狙いと同時に、この、見たことの無いデジモンの正体について教えてもらおうと思った部分も無いではない。 マーメイモンの近縁種か何かだと思ったのだけれど――まさか、こんな形で…… 「りゅ、リューカ……どうしたの……?」 「あ、ごめんねピコデビモン。……水のスピリットの進化体が……見つかった……のかなぁ……?」 眠さと不安の入り混じった表情でこちらに飛んできたピコデビモンを抱きとめ、よしよしと頭を撫でる。「え? このデジモンが?」と、この子も驚きを隠せないようだ。 「悪いデジモンには見えないよ?」 「そうねえ。スカちゃんにもそう見えるわ。少なくとも、元が人間とは思えないわね」 「……」 カンナ博士はしばらく考え込んだ後、突然動画を最初から再生し始め――途中で止めた。 「?」 「リューカちゃん、これ」 見れば、遠くに赤レンガ風の建物――見間違いでなければ、これは、カンナ博士が今日の午後から出向く予定の大学の校舎だ。 「……意外と近所だ……」 「ちょっと待っててね」 博士は新しいタブを開き、何かを検索し始める。……こういう時のカンナ博士のタイピングは恐ろしく早いのに、どうして普段は通販の注文さえままならないのだろう……。 「あった。やっぱりツブヤイタッタワーやってる」 ツブヤイタッタワー……コメント投稿サイトの事だ。 「有名人だしなんかやってるとは思ったけど、あって良かった。どれどれ……うん、投稿数は少ないけど、ほら」 「さっきの場所っぽいですね」 動画投稿よりも何ヶ月か前の写真の中に、オタマモンの顔と夕日を写したものがあった。「丸いもの同士」というコメントがついていて、カジカさんが音楽だけでなく写真のセンスも悪くない事がなんとなく伝わってくる。 「夕方くらいにパートナーと散歩に出かける事が多いみたいだね。だいたい決まったコースなんだと思う。お、飯の画像もある……えっと、多分この店かな」 「カンナ博士、これって住所特定じゃない? 大丈夫?」 「家まで見つけ出そうってわけじゃないさ。……悪い、リューカちゃん。部屋の掃除はまた今度頼む」 パンッ、と博士がキーボードを叩くと、画面に地図が表示された。 「アンタとピコちゃんは、この川の付近に行って――可能なら、カジカPと接触してきてほしい」 * 「着いちゃったね……ピコデビモン」 スマホの中のパートナーにこっそりと話しかけてから、私は目の前に広がる河川敷の風景を見下ろした。 大学の入り口までタクシーでカンナ博士と同行し、徒歩でここまでやって来たのは良いのだが…… 「思ったより人いるね」 ピコデビモンの言う通り、何名かの若者がおおよそ同じ場所に集まり、時々写真を撮ってはそれ以外に特に何をするでもなく入れ代わり立ち代わりしている。 「聖地巡礼……ってやつかな?」 カジカさんの曲は、どれも有名なものばかりだ。ファンも近所にPVの撮影地があるなら、あるいは近所でなくても、見に来たとしてもおかしくはないだろう。 「とにかくこの辺でちょっと待機してよっか。そこにベンチもあるしね」 「僕が周りをサーチしてるから、リューカはお休みしてていいよ」 カジカさんがこの辺りにやってくるのは、いつももう少し日が暮れてからだ。両生類型のパートナーを気遣っての事だろう。 ヴァンデモンとゲコモンじゃ、同じウイルス種でも世間からの目には雲泥の差があるのだけれど――それでも少しだけ親近感は湧くし、カジカさんの曲からはいつもどことなくパートナーへの気遣いが伝わってきて、好感が持てる。 私はピコデビモンの好意に甘えて、カンナ博士の研究室から借りてきたデジモン研究の本を読む事にした。博士の地位を盤石なものにしたかの論文――『サイクロモンから見る前例進化論』が載っている物だ。 デジモンの前例進化――博士の研究の発端となった、サイクロモン。 かつてワクチン種獣人型の成熟期デジモン、レオモンに右目を潰されたとされるウイルス種の竜人型デジモンだ。彼らはその全ての個体が最初から右目を失った姿をしていて、またレオモンに対する憎しみの感情を受け継いでいる。 これは始まりのサイクロモンが、レオモンに右目を潰された事への恨みを種族全体で共有する事を選択したからだというのがカンナ博士の持論だ。 その様子は、誰かの呟いた恨み言が、瞬く間に世界に拡散されていくネットの世界の在り方とそう変わらない、と。 「……」 だからこそ、この説は私に突き刺さる。 この世界が知るヴァンデモンの『前例』は――私の優しいピコデビモンの進化した姿ではなく、1999年の夏に東京を襲い、それから3年後の大晦日に地球を闇で覆ったあのヴァンデモンしかいない。 ……私のピコデビモンは、成熟期には進化できない。しないのではなく、次の進化先がヴァンデモンに固定されてしまっているのだ。 もし日中に活動できないという制約さえなければ、おそらく、この子はヴァンデモンのまま存在し続ける事も可能なのだろう。 どうしてそうなのかはわからない。 でも――この子が初めて進化した時のきっかけは、私を護ろうとしての事だった。 だから、誰が何と言おうとこの子は私の誇りで、唯一無二の存在だ。 だけど、世界はそれを頑なに認めないから――きっと、博士の説くような、『前例』の可能性には、なれないのだと思う。 恨み言が世界に広がるのと同じように 小さな囁きは、埋もれて消えていくしかない。 と、 「リューカ、リューカ」 「!」 スマートフォンが、ピコデビモンの声と共に振動する。 「何か見つかった?」 「うん。ボイスレコーダーの機能を強化して近くを探ってたんだけど……とにかく聞いてみて! その間に地図出しとくから」 もしかしたらこれって盗聴なのかもしれないが……一応、悪用するつもりじゃないから、大丈夫……だろう、多分。 私は録音された会話を再生する。 中身は男の人と女の人の会話だ。 女の人……いや、デジモンの方の声には、聞き覚えがある。 音楽クリエイター・カジカさんの、『歌姫』だ。 【新たに聖地をひとつ作っちまうとは……俺も罪深い男だぜ】 【でもどうするゲコ? これじゃあ、散歩してるだけでソーヤがカジカだってバレちゃうかもゲコよ?】 【そこなんだよなぁ……つい勢いで書いちまったから、PVの事まで頭回らなくて……特定厨怖いわー】 【いや、わかりやす過ぎる聖地作っちゃったソーヤの失敗ゲコよ。ソーヤがアホゲコ】 とりあえず、今日は適当に飯食って寝るか。と困っているのにどこか満足しているような口調で男の人の声……図らずも本名っぽい名前まで知ってしまったカジカさんの台詞で、録音は終わる。 と同時に、スマホのアプリがボイスレコーダーから地図へと切り替わった。 「リューカ、この橋のところ」 「解った、行ってみる。……ピコデビモン、個人情報に関わるから、録音は消去しといて……」 「うん、ごめんリューカ」 「ううん、私がお願いした事だから。ピコデビモンは悪くないよ」 ベンチから立ち上がり、駆け足で夕日の沈む側に見える橋の方へと急ぐ。 それらしい人影が、橋を渡り切ろうとしているのが見えた。 少しでも怪しまれないように、深呼吸。土手を上がり切ったところでカジカさんとかち合うように、歩調を緩めて階段を上り、対峙しようとした――その時だった。 「鹿賀颯也さんですね」 一足先に、スーツ姿の女の人がカジカさんに声をかけた。 もう少しで終わりだった段差へと踏み出そうとした足を思わずひっこめ……反射的に、私は橋の影に身を隠す。 こんな事をすれば、はた目から見れば余計に怪しいだろうが……幸いPV撮影地の方には人がいるものの、こちら側には、人気はほとんど無い。 元々が、カンナ博士と出会ったあの公園のように、あまり需要の無い場所なのだろう。 最も、自分がどうして隠れてしまったのか、自分自身よく解らないのだけれど。 「え? 誰? オタマモン、知り合い?」 沈黙。多分、首を横に振ったのだろう。 「私は今現在貴方が所持している『水のヒューマンスピリット』の本来の所有者に遣わされた者です」 「!」 スマホに視線を落とす。 ドット絵のピコデビモンが、羽ばたくのを止めていた。 「みずのひゅーまんすぴりっとぉ? ……あ、これの事? 触ったオタマモンが急に進化したからびっくりしたぜ。何なのこれ?」 「お答えする権限は私にはありません。が、私の目的は、その水のヒューマンスピリットの回収です」 心臓が、どくり、どくりと跳ねる。 私達より先にカジカさんと話しているのは――キョウヤマという老研究者の関係者だ。 もしかしたら、雷のデジモンかもしれない。 もしかしたら――クリバラという研究者を殺したかもしれない、炎のデジモンかもしれない……! 対するカジカさんは、もちろん事情など知る由もなく、あくまで呑気な様子で、しかし残念そうに受け答えしている。 「あー、そりゃそっかー。落とし物かも、とは思ったけど、やっぱりそうだったか。ちょっと残念だけど、まあ、いい夢見れたし。ほら、返すよ」 「勝手に使って、ごめんなさいゲコ」 「構いません。むしろ貴重なサンプルが予期せず発生した事を、報告しなければなりませんから」 「ん? 何?」 「カガ ソーヤさん。貴方のパートナーデジモン……水のヒューマンスピリットの使用権を得たオタマモンの、譲渡を要請します」 「……は? 何言ってんの?」 「ゲコ!?」 嫌な汗が噴き出る。 この先の展開が、容易に想像できた。 「オタマモンの譲渡を要請する、と言いました」 「それが何言ってるかわかんねーっつってんだよ! その、なんだ? 水のヒューマンスピリットってのはあんたのだったら返すっつってんだろよ!」 「だから、その使用権を得たオタマモンはこちらにとっても興味深いサンプルたりえます。研究対象として、譲渡を要請します」 「わけわかんねえ! オタマモンは俺のミューズ、最愛の歌姫、至高のアイドルだぞ!? それを何だ、研究対象だサンプルだって! あんたにもパートナーいるなら解るだろ!? こいつがどのくらい、俺にとって大切な存在かって!」 「つまり……回答は拒否、という事でよろしいでしょうか」 「当たり前だろ! まだ言うか!?」 「解りました。では、カガ ソーヤ氏の排除を視野に入れた回収の命令を実行します」 「……は?」 「スピリットエヴォリューション・ユミル!」 光が放たれる。 ……それは、紛れも無い進化の光だった。 だけど光の先にいるのはデジモンではなく――間違いなく、人間で。 私はようやく、知識だけだった『人間の進化』の話を情報として理解する。 人間が、デジモンに、進化した。 「な、な……」 「光の闘士――ヴォルフモン」 狼を思わせる装甲を纏った、二振りの光の剣を持つ人型のデジモン。それが、女性のいた場所に立っていた。風にたなびくマフラーの意匠は、どこかガルルモンを思わせる。 「ぴ、ピコデビモン……博士にメール……」 「う、うん」 非常事態が発生した時は、空メールでいいから送る事。 カンナ博士の言葉を思い出し、ピコデビモンに中からスマホを操作してもらってメールを送る。GPSでこちらの場所は確認できている筈だ。 とても、普通にメールを打てるような心理状態にはなれそうになかった。 だが、今本当に危機にさらされているのはカジカさんの方だ。 とにかくパートナーを守ろうとする思いが衝撃と恐怖に勝ったのだろう。 「オタマモン!」 「ゲ、ゲコ!」 「もう何が何だかわかんねーけど、そっちがその気なら――こっちも使わせてもらう!」 「解ったゲコ!」 カジカさんは、持っていた水のスピリットをオタマモンに押し当てた。 途端、淡い水色の光にオタマモンが包まれたかと思うと、あの動画で見た水の妖精のような女性型デジモンに姿を変える。 ――もしかしたら、同じスピリットの進化体なら、勝負はつかないかもしれない――そう思った。 「頼む、オタマモン!」 「『レインストリーム』!」 オタマモンから進化した水のスピリットデジモンが叫ぶのと当時に、超小型の雨雲が彼女の周りに発生して、流れ出した水が槍の様にヴォルフモンと名乗った光のスピリットのデジモンへと襲い掛かる。 だが―― 「『リヒト・ズィーガー』!」 「きゃああっ!」 「っ!」 ヴォルフモンは一瞬にして光の剣で雨の槍を切り裂き――その衝撃波で、水のスピリットのデジモンを吹き飛ばした。 「オタマモン!」 「なるほど、ユミル進化体ではないハイブリット体は、我々の脅威足り得ないと判断します。ですが、貴重なサンプルには変わり有りません。できれば損傷を抑えての回収が望ましいと指示されています。今ひとたび、カガ ソーヤさん。水のスピリット及びその進化元と成ったオタマモンの譲渡を要請します」 「そ、ソーヤ……。ソーヤだけでも……逃げてゲコ……!」 「バッカ野郎!!」 逃げるどころか――カジカさんは、倒れた水のスピリットのデジモンへと駆け寄り、彼女を抱きしめる。 「こいつは俺の『音楽』だ! 他のもんだったら命でも何でもくれてやるが、こいつだけは、死んでも渡さねえ!」 「ソー……ヤ……」 「こいつは、俺の、俺だけのアイドルだっ!!」 ――ヴォルフモンが、剣を構えた。 「ヴァンデモン、リアライズ!」 「!?」 デジヴァイスから、先に進化を済ませたヴァンデモンが飛び出し、ヴォルフモンを思い切り突き飛ばした。 「っ!」 いったんは体勢を崩したものの、ヴォルフモンはすぐに受け身を取って1回転した後立上がる。 その間に、ヴァンデモンがヴォルフモンとカジカさん達の間に割って入った。 「リューカ、僕大丈夫、戦える!」 太陽はまだ顔を覗かせている。 カンナ博士からの返信はまだ無い。 だけど――これ以上、見て見ぬふりなんて、できなかった。 「お願い、ヴァンデモン!」 「『ナイトレイド』!」 大量のコウモリが、一斉にヴォルフモンへと襲い掛かった。 「っ、『ツヴァイ・ズィーガー』!」 ヴォルフモンは二振りの剣を繋ぎ合わせ、回転させるようにしてコウモリたちを切り払う。 あっという間に、視界が晴れた。 「……ヴァンデモン、ウイルス種アンデッド型完全体。これまでに交戦経験無し。……あなた方は、一体」 「た……ただの通りすがりだぞ!」 隠れていたのを悪いと思ったのか、はたまたあまり褒めらたものではない手段でカジカさんを発見したからなのか……ヴァンデモンは、若干無理がある気がしないでもない嘘を吐いた。 とはいえ、ヴォルフモンの方はその答えで十分だったらしい。改めて、光の剣を構え直した。 「あなた方の行為は、こちらへの妨害行動だと判断しました。今から5秒以内に立ち去らない場合、排除の対象にあなた方を追加します」 「わかった! じゃあ僕達行くね!」 「え?」 ヴァンデモンは急いでカジカさんと水のスピリットのデジモンを抱え、私が肩に飛びつくのを待ってから、勢いよく飛び立った。 「わ、わ!」 「ご、ごめんなさい! あのデジモンから逃げ切ったらすぐに下ろします!」 「お、重い……」 「頑張ってヴァンデモン!」 が―― 「申し訳ありません、こちらの言葉が足りませんでした」 ヴォルフモンは、跳躍だけで一瞬でこちらに追いついた。 「『リヒト・ズィーガー』!」 「っ!」 光の刃を、ヴァンデモンはどうにか開けた左腕でガードする。 が、衝撃まではこらえきれず、そのまま吹っ飛ばされた。 「きゃあっ!」 「っ、『ブラッディストリーム』!」 ヴァンデモンの手首のあたりから、赤いエネルギー体の鞭が伸びる。 鞭は信号機を支える鉄柱に巻き付き、お蔭で地面への直撃は免れた。 けれど―― 「つ、うう……」 ヴァンデモンの左腕は焦げたようになり、もうしばらくは、使い物にならない。 それに――市街地に近づきすぎた。 人が集まってくるのも、時間の問題かもしれない。そうしたら―― 「5秒以内に立ち去らなければ、というのは、水のスピリットの進化元を含めての言動ではありません。改めて警告します。水のスピリットとその進化元を置いて、5秒以内に立ち去らなければ――」 「僕は逃げない!」 ――そうしたら、集まっきた人たちが、この騒ぎの犯人を私達だと断定するかもしれないのに。 いや、もしかしたら、今ここにいるカジカさん達だって、私達も悪い存在だと言うかもしれないのに。 立ち上がって――痛みで顔を歪めたまま、ヴァンデモンは、ヴォルフモンの前に立ちはだかる。 ……だったら私は、彼の傍から離れない。 敵が何だろうと――私だけは、ヴァンデモンの味方だ。 「解りました」 ヴァンデモンの言葉を受けて、再びヴォルフモンは光の剣を1つに繋げた。 「妨害続行の意思を確認。排除対象として、認定します」 「……貴女は」 「?」 ヴァンデモンに並び立つ私の事を、ヴォルフモンは怪訝そうに見つめた。 それでいい。 これは、本当に最後の、時間稼ぎだ。 「貴女は、私のヴァンデモンを甘く見過ぎています!」 だってもう―― 「ヴァンデモン!」 「『ブラッディストリーム』!」 私の合図と同時に、無事な右腕でヴァンデモンが赤い鞭を振るう。 ヴォルフモンは大して動揺する事も無く、光の剣でそれをガードしようとしたが 「なっ!?」 彼女の光の剣は、ヴァンデモンのブラッディストリームに大きく弾き飛ばされ、宙を舞った。 ――日が、沈んだ。 油断していたつもりはないのだろう。 だけど、今彼女が受けたのは、予想以上の衝撃だった筈だ。 闇の王、ヴァンデモン。 日の有る時間と、日の無い時間。彼の強さは、それだけで全く変わってしまう。 「今はまだ、日が暮れたばかりだからコレですけど……時間が経つごとに、ヴァンデモンはもっと強くなります」 「!」 「今度は、貴女が選んでください」 ヴァンデモンが、私を含めた周りにコウモリ型のデータを展開させる。 敵対者のデータを食い潰す、純度の高い闇データの塊を。 「このままどんどん強くなるヴァンデモンとの戦闘を続けるか……5秒以内に、ここから立ち去るか!」 「……」 ヴン、と音がして、地面に落ちた光の剣が掻き消えた。 「解りました。こちらが不利である事を確認」 「!」 ヴォルフモンが、戦闘態勢を解いた。 ああ、これでどうにか、カジカさん達を…… 「――なので、あなた方を見習う事にします」 「……え?」 「ヴォルフモン、スライドエヴォリューション!」 ヴォルフモンの身体が、人間から姿を変えた時と同様の光に包まれる。 次の瞬間―― 「きゃーーっ!?」 一陣の風が吹き抜けた気がしたかと思うと、水のスピリットのデジモンの姿が、消えていた。 「!?」 いや、消えたんじゃない。 既に遥か遠くに――ヴォルフモンが本当に狼と化したかのような白い獣型のデジモンが、水のスピリットのデジモンを咥えて走り去っていくのが見えた。 「そ、そんな!」 「オタマモン!」 「リューカ!」 緊迫した表情のヴァンデモンが、私の事を引き寄せる。 「なんとか使い魔くっつけた!」 「!」 「最短ルートで追いかける!」 頷くのと同時にヴァンデモンの首に手をかけ、彼に抱えられて空へと飛び上がる。 「あ、おい!」 「ごめんなさいカジカさん! 必ずオタマモンさんを取り返します!」 最後の方は、聞こえたかどうかもわからない。 でも、一刻も早く追いかけなければ、差は開く一方になってしまう。 幸いこちらは空を飛べて、片や、得物を咥えて走っている。スマホでなんとか変身したヴォルフモンに食らいついているらしいヴァンデモンの使い魔のコウモリの位置を確認すると――一瞬だけ、もう一度対峙することができそうだった。 場所は道路のど真ん中になり、人通りのある所になってしまうけれど――今は、そんな事は言っていられない。 「ヴァンデモン!」 白い獣が車を掻き分けるようにして走っているのを、ようやく視界にとらえた。 「最大出力!」 「うん!」 急降下したヴァンデモンが、両手を前に出す。邪魔にならないよう、私はヴァンデモンから飛び降りた。 「『ナイトレイド』!!」 対峙した当初とは比べ物にならない数のコウモリが、再び、姿を変えたヴォルフモンへと押し寄せる。 ……だが 「『スピードスター』!」 獣形態のヴォルフモンの全身が光り輝き、背中のブレードが開いたかと思うと――ヴォルフモンはコウモリの群れを真正面から突破し、ヴァンデモンを飛び越えて私達から離れていく。 「そん、な……」 遠ざかっていく。 ヴァンデモンの全力の攻撃が、瞬く間に切り開かれて―― 「た――」 水のスピリットのデジモンが、手足をバタつかせるのが見えた。 「助けてゲコーッ!」 泣いている。 駄目だ。 私は――私じゃ―― 「『バナナスリップ』!」 ――聞き慣れた、頼もしい声が街に響き渡る。 刹那――ヴォルフモンが、横転する。 と同時に、投げ出される水のスピリットのデジモン。 「! ヴァンデモン!」 私が叫ぶのよりも早く、ヴァンデモンは飛び出していた。 突然の事に受け身も取れずに宙を舞っていた水のスピリットのデジモンを、ヴァンデモンは、ほとんど全身で受け止めた。 「ふあっ!」 そのまま、近くの繁みへと水のスピリットのデジモンを庇いながら落ちて行った。 「ヴァンデモンッ!」 急いで走っていく。 息を切らして辿り着くと――葉っぱまみれのヴァンデモンが、痛みをこらえながら、笑っていて。 「リューカ。僕は大丈夫。……君は?」 その視線は、水のスピリットのデジモンの方へ。 「あ、ありがとう……ゲコもなんとか、大丈夫ゲコ……」 うるんだ瞳のまま、それでも彼女が無事を表したのを見て――全身の力が一気に抜けて、私は膝から崩れ落ちた。 と…… 「すまないリューカちゃん、ヴァンちゃん。遅くなっちまった」 近くにタクシーが止まり、跳ねるようにして降りてきたピンク髪の女性。 「よく頑張ったね……!」 カンナ博士が私を抱きしめたのだと、一瞬気付かなかった。 「か、カンナ博士……?」 「すまない、無茶させちまったね……。アンタ達が頑張ったのは、さっきの一瞬の交戦で十分伝わって来たよ。怖かったろ? ごめんね……?」 「あ……」 全身から力が抜けた筈なのに……まだ、肩が強張ってたみたいだ。 今度こそ、肩から力が抜け落ちた。 「こちらこそ……ごめんなさい。結局は、博士の手を煩わせてしまって……」 「そんな反省はいらないよ。何より無事でよかった」 「博士ぇ……僕ちょっと無事じゃない……」 「あ……ごめんヴァンちゃん」 「じゃ、ヴァンちゃんはエテちゃんがだっこしてあげるわ!」 ひょい、とヴァンデモンを抱え上げる、銀色に輝くマッシブなサルスーツ。 「メタルエテモンさん!」 「ふにゅ……ひんやりして気持ちいい……」 「あらあらヴァンちゃん、怪我してるじゃないの。帰ったらエテちゃんが治療してあげるからね?」 「それはリューカにしてもらう……」 「まあ、つれないんだから! ふふ、でもこればっかりは仕方ないわね」 「……エテちゃん。さっきのデジモンは」 そうだった、と、メタルエテモンさんは、カンナ博士を手招きする。 「エテちゃんの『バナナスリップ』で盛大に転んだあと、ビルの壁に激突してすっかりのびてるわヨ」 「ふん、そりゃいい。人のデジモンをさらっていこうとするような不届きものの面、しっかり拝ませて――っ!?」 「!」 ヴォルフモンの様子を見に行ったカンナ博士とメタルエテモンさんが、同時にフリーズした。 私は水のスピリットのデジモンに少し待っていてほしいと合図してから、よろよろと2人の方へと向かう。 ……そこで、2人が固まった理由が判った。 「――っ!」 そこに倒れていたのは、子供だった。 スーツと口調のせいで完全に同年代か少し上くらいかと思っていたが、全くそんなことは無い。 明らかに10代の域を出ない、顔に幼さの残る少女が、強打したらしい右腕を抑えて歯を食い縛りながら、苦しそうに身をよじっている。 「そんな馬鹿な……子供だって……?」 理解が追い付かない表情のまま、カンナ博士が少女に手を伸ばそうとした、その時。 強い風が、博士を弾き飛ばした。 「なっ!」 舞い上がる砂埃に目を閉じる。 ……次に瞼を開けた先には、半分鳥、半分女性のような姿の、きわどい恰好をした背の高いデジモンが、少女の髪を掴んで持ち上げていた。 「何やってんのさ、この役立たず」 「うっ、あ……」 「このあたしに尻拭いさせて楽しいのかって聞いてんだよこのグズ!」 「う、うう……申し、訳……」 「きーこーえーなーいーっ!」 「きゃっ」 半分鳥の女性型デジモンは、髪の毛を掴んだまま揺さぶっていた少女をヒステリックに地面へと叩きつける。 「ちょ、ちょっと!」 「あん?」 と、我に返ったカンナ博士が、ずい、と女性型デジモンの前に出る。 「アンタ、何やってんだい! 相手はまだ子供だろ!?」 「知らないわよ、怪我させたのはあんたでしょ?」 「ああそうさ。そこは認める! でも無抵抗の相手に対して、その扱いはないだろうさ!」 「うるさいわね……ってか、何? 何様? あんた達のせいであたしが出向かなきゃいけなくなったのよ?」 そう言って――女性型デジモンは、横たわる少女の腹部を思いっきり蹴り上げた。 「かはっ」 「ストレス解消したって、バチあたんないでしょ?」 「な……」 「今からムカつくこの子に楽しいお仕置タイムなんだからさ。ほら、しっし。あっち行っててくれるなら、あたしもその間、あんた達のこと見逃しといてあげる。ね、ね? ウィンウィンでしょ?」 口元は、マスクで見えない。 でも、その目元は――どうしようもなく邪悪に、嗤っていた。 身体が金縛りにあったみたいに、動かない。 なんとなく、解る。 このデジモンは――ヴォルフモンより、強い。 「ふざけた事言ってんじゃないよ」 だけど、カンナ博士は一歩も引くそぶりは見せなかった。 「アンタ、キョウヤマの仲間だろ」 「だとしたら?」 「どのみちぶちのめす予定だったのが早まっただけさ」 メタルエテモンさんが、ヴァンデモンを脇に下ろす。 完全な、臨戦態勢だ。 「は、博士――」 「大丈夫ヨ、リューカちゃん。あとはエテちゃん達に任せなさい」 止めないといけないのに、声が出ない。 でも止めてどうなると言うのだろう。この鳥人型デジモンは、自分がヴォルフモンだった少女を虐めている間「だけ」私達を見逃すと言っていた。 つまり、本当に逃がす気なんて、これっぽっちも―― 「シューツモン」 「!?」 突然、鳥人型デジモンの首に、先の尖った、鈍い緑色に輝く指が絡みついた。 その手は、シューツモンと呼ばれた鳥人型デジモンが背にしたビルの窓ガラスから伸びていて。 「……ます、たー……?」 ヴォルフモンだった少女が、弱弱しく呟いたのが耳に届く。 「な、何の用だメルキューレモン! 今からこいつらと一戦――うぐっ」 「その娘と違って――貴女の代わりは、いくらでもいる」 メルキューレモンと呼ばれた腕の持ち主は、指の先を食いこませるようにしながらシューツモンの細い首を締め上げる。 「か、は……っ! や、やめ、わ、解ったから! 降参降参! ったく、趣味が悪いったらありゃしないよ! この娘はきちんと回収する!」 指が離れたかと思った次の瞬間、またしても風が舞い――瞬きの後には、シューツモンの姿も、ヴォルフモンの少女の姿も消えていた。 「っ!」 カンナ博士が窓ガラスに駆け寄るも、映っているのは夕闇の景色と博士自身ばかりで。 「逃がしたか……」 「ご、ごめんなさい……私、何も……」 「! いや、すまない。今度は先走っちまったね。……キョウヤマのところの連中も一枚岩じゃあない――それが解っただけでも、今日の収穫は大きいさ」 そう言って、カンナ博士は震えが出始めた私の頭を優しく撫でた。 「ありがとね、リューカちゃん」 「う、うう……」 「な、泣かないでー!?」 「ヴァンデモンだ……」 「!」 何故、失念していたのだろう。 一瞬で出かけた涙が止まって――声の方から、続々と人が集まって来ているのに気が付いてしまった。 「あ、あ……」 みんながみんな、もう気を失ったらしい、私のパートナーを見ている。 ヴァンデモンだ。 ヴァンデモンだ。 ヴァンデモンだ。 ――またヴァンデモンが、何かしたんじゃないか? そう、聞こえた気がした。 「――っ!」 思わずヴァンデモンに駆け寄って彼を自分の背に回す。そんな事をしても逆に好奇の目を引くだけなのに。 また、何か投げつけられる。 また、私達のせいにされる。 また、また―― 「こんなところにいたぁ――――っ!」 ……それは、わざとらしいくらいに、大きな声だった。 私とヴァンデモンを取り囲もうとする人達を掻き分けて、男の人が1人、ずんずんとこちらに進んでくる。 オタマモンを、背負いながら。 「ようやく見つけた!」 オタマモンを地面に下ろし、完全に血の気の引いた顔で呆然とする私の手を、その人はしっかりと両手で包み込んだ。 「君と君のパートナーのヴァンデモンが誘拐されかけた俺のミューズことオタマモンを、助けてくれたんだよね!?」 その場にいる誰もに聞こえるように――カジカさんは、私と、私のヴァンデモンの事を、そういう風に、叫んでくれた。 「ありがとう!!」 ありったけの大声で――そんな風に。 「あ……」 周りがどよめく。 見ればカジカさんも、目に不安の色を宿していた。 こんな人だかりの前でヴァンデモンを擁護するのは、どれだけ、勇気がいっただろう。 なのに――結局、私なんて何の助けにもなれなかった筈なのに――皆に向かって、そう言ってくれた。 「あ、ああ……」 「ありがとう」 そして、今度は私と私のヴァンデモンだけに向けて。 「本当に、感謝してる」 「ありがとうゲコ!」 他の誰にも聞こえないようにそう言って、にっと、カジカさんとオタマモンさんは笑ってくれた。 反対に、私は自分の顔がぐしゃぐしゃに歪むのが解った。 熱い水滴がぼたぼたと落ちて、服の裾をどんどん濡らしていく。 だけどこれは、今まで私達が流さなきゃいけなかった涙と同じじゃない。 ……嗚呼、出来る事ならこの声を――ヴァンデモンにも聞かせてあげたかった。 * その日、私の優しいヴァンデモンという『前例』は、ほんの少しだけ、でも確かに、この世界に居場所を見つけた。
Episode キョウヤマ コウキ
そう思うようになったきっかけは、本当に些細な事だった。
「マスター。よろしいでしょうか」
世間的には父親という事になっている――そして実際、父親と呼べるものなのであろうあの男に言いつけられた任務の帰り道。不意に彼女が足を止めた。
「発言を許可します。何ですか、ハリ」
「感謝しますマスター。では質問します。……あそこにいるヒトとデジモンの幼少期個体群は、いったい何をしているのでしょうか」
彼女――一応、妹という事になる。ワタクシが教育を任されているこの少女・京山玻璃は、通りすがった公園の中、きゃあきゃあと笑いながらボールを投げ合っている人間の子供と幼年期デジモン達を、さも不思議なものを見るような眼をして指さしていた。
「あれは――」
答えに、困った。
何故言葉に詰まったのか、一瞬、自分でも解らなかった。
その時は「こんな事も知らないハリにそもそもどう説明したものかと迷った」のだと判断し、すぐに自分の知識の中から回答を引き出したが。
「遊んでいるのです」
「遊んでいる」
「幼少期における身体能力、および他の個体とのコミュニケーション能力向上のためのトレーニングのようなものです」
「なるほど。身体的にも精神的にも現在の能力値に見合った負担の少ないトレーニング、という事でしょうか。喜びの感情を示す表情を選択しているのも、相手とコミュニケーションを取る上で警戒を与えない方法を模索した結果なのでしょうね」
ワタクシは頷く。ハリは納得したようだった。
「理解、記憶いたしました。質問は以上です。マスター、お手数をおかけしたこと、お詫び申し上げます」
「……」
本当に、そのやりとりはごく些細なものだった。
それなのに――その時ワタクシは、こう考えてしまったのだ。
この娘は、今のような質問をしなくても生きていけた筈だったんじゃないか、と。
*
その出来事より2年ほど前。
「ハロォウ、我が息子よ! 元気してる!?」
ワシは超元気! と言ってそいつ――今は京山幸助と名乗っている――がノックも無しに部屋に飛び込んできたのを無視しようとしていたワタクシは、しかしふと、見慣れない影があの男の後ろにくっついているのに気づいて顔を上げた。
それはどう見ても10代前半以上には見えない人間の少女で、その年齢らしからぬ無表情で、ぴたりとキョウヤマの傍らに佇んでいる。
「……何の用ですか」
「なんじゃいつれないのう。その言い草だと用が無かったら来ちゃいけないみたいじゃんかよ! 親子なんじゃから、そういうのナシにしようぜえ?」
「その少女は?」
無駄な会話を拒否したい事は一切包み隠さずに、最低限の疑問だけは解消しようとワタクシは少女を指さす。
キョウヤマはオーバーな程に肩をすくめ、やれやれといった様子で少女に前に出るよう促したかと思うと
「娘が出来上がりましたっ!」
と、打って変わってハイテンションで叫んだ。
「……は?」
思わず、言葉を失う。キョウヤマはにやにやと笑っていた。
「そうそう、お父さんコウキのその反応が見たかった! むふふ、ほーら、お前さんの妹じゃよー? ほれ、お兄ちゃんに挨拶しなさい」
「キョウヤマ博士の命令を実行します。個体名、キョウヤマ ハリ。本日付でキョウヤマ博士から貴殿へと命令権を移行する事になりました。以後、よろしくお願いいたします、マスター」
とてもこの年代の少女が話しているとは思えなかったし、何を言っているのかも解らなかった。
未だに言葉の出ないワタクシを愉快そうに眺めながら、キョウヤマは同じ苗字のハリと名乗った少女の頭を雑に撫でる。
「いい感じじゃろ? この娘は光と闇のスピリットの適正個体として用意した、まあ言わば、ワシの知恵と技術の結晶、という事になるの」
その説明で、ようやくピンと来た。
理論上、他のスピリットはある程度の相性はあるものの、人間側の使用の制限はほとんど存在しない。
だが、光と闇のスピリットだけは別だ。
光のスピリットは自身の行動に対して正しいと確信できる者にしか制御できず
闇のスピリットは闇のスピリット自体が持つ正義の基準を満たす者でなければ扱いきれない。
「ワシを絶対的に正しい存在だと信じ、その正義を闇のスピリットの正義の基準と共有できるよう調整に調整を重ねた……デザイナーズベイビー、とかいうんじゃったかな? そういう娘じゃよーん。うーん、ワシってばいい仕事するぅ。あ、もちろん肉体的にも2つのスピリットの属性が合わないと話にならないから、大分いじったんだぜい?」
で! と、キョウヤマはそのまま続ける。
「この娘の教育係を、お前さんに一任しようと思っての」
「……?」
自分は怪訝そうな顔をしていたのだろう。本来の姿であっても多分、唇だけで十分表現できたに違いない。
「なんで? って言いたそうな顔じゃな」
「……」
「だって人間の娘の世話なんて、見るの面倒臭いし」
そしてその時見せたキョウヤマの視線は、とても我が子を見る親の眼には見えないもので。
「まあそういうわけじゃから、頼むよコウキぃ。今ちょっとワシ面倒な案件抱ちまってよう。……クリバラ博士はこっち側の人間じゃと思ったんじゃがなぁ。人間難しいわー」
クリバラ……『ユミル論』の話はワタクシも聞いている。
どんな気持ちであんなものを書いたのかは知る由も無いが、この男に目を付けられたのが運の尽きだ。
この様子だと――近々、始末されるのだろう。
「だからこの娘の事は頼んだ! 代わりにお前さんの命令なら何でも聞くように設定しといたから。あ、死ねとかそういうのはナシね。ホントに死んじゃうから。そうするとワシ困っちゃう。作り直しとかもっと面倒じゃん?」
だが裏を返せば、必要とあらばまた同じような人間をつくるという意味にも取れる発言だ。……実際に、そうしかねないだろう、この男なら。
そのままキョウヤマは私の意見など何も聞かず、一方的にハリを置いて部屋を去っていった。
「……」
「……」
目の前であんなことを言われていたのに、少女の表情は変わらない。
いや、変わらないのではない。そもそも、存在しないのだ。
「ハリ、と言いましたか」
「はい、個体名キョウヤマ ハリです。好きにお呼び下さい、マスター。私はマスターのいかなる命令にも従います」
「……では」
ワタクシは、扉の隣に立ったままの彼女の視線を、近くにあった椅子へと誘導する。
「そこに座りなさい。そんなところで立たれていると、落ち着きません」
「了解しました」
言われた通り、ハリは椅子に腰かけ、そのまま身じろぎひとつしなかった。
「……」
こんな娘に、何を教育しろと言うのか。
ワタクシは頭を抱えて、嘆息した。
*
そして現在。
ワタクシは1人、キョウヤマに呼び出されていた。
「……お呼びでしょうか」
「呼んだ呼んだー。よく来たな我が息子よ! まあこっちに来い」
ワタクシは扉の前から動かなかった。
「……お前さんもつくづく反抗期よのう。お父さん、悲しい!」
「ご用件は」
嘆息するキョウヤマ。どこまでも仕草が芝居がかっていて、はっきり言って、鬱陶しい。
……最も、それを面と向かって言うだけの権限を、ワタクシは持ってはいないのだが。
「つっても大体見当はついとるんだしょ?」
「昨晩の事ですか」
「うむ。……聞いたぜコウキ。お前さん、セラたんの事いじめたんだって?」
「ご冗談を」
あの女……つくづく性が悪い。
「ハリに不必要な制裁を加える世良夏海に注意を行ったまでです。……まあ、あの底意地の悪い彼女がワタクシの忠告をどう受け取るかを予想できなかった訳ではありませんから、そう言う意味では、いじめたかもしれませんね。ええ」
「いや、別にいいんじゃよそれに関しては。セラたんちょーっと抑えがきかないとこあるから。あそこであれ以上の戦闘行為があったら、流石にワシも困る事態になっとったかもだしい?」
そう言って、キョウヤマはデスクに組んで乗せていた足を下ろすと立上がった。
「ただ、ワシがお前さんに言いたいのはさあ」
そしてそのまま――ワタクシの前までやって来て腰を曲げ、下から覗き込むようにこちらをねめつける。
「コウキ、お前さん、ハリに肩入れし過ぎじゃあないかい?」
親子としての感情など一切含まない威圧的な眼差しを――ワタクシは、直視することすらできない。
「ワタクシ、ハリの教育係を貴方に押し付けられたままなので。他の闘士の器に比べてあの娘の事を贔屓する傾向にあるのは、仕方が無い事じゃありませんか」
「我がそのような事を言いたいのではないというのは判っているだろう」
「っ……」
やはり腐っても――この男は、『始まりの究極体』の一角なのだ。
「……前にも言ったかもしれんがの。ワシにとって、本当に厳密な意味で失って困る闘士はお前さんだけじゃ。我が息子」
「……」
「光と闇の闘士は、他の奴らに比べて何しでかすかわかんないからきちんと制御できる形で置いときたい――その結果が、あの娘じゃ。確かに超いい出来じゃよ? 流石ワシ。……じゃけどもさあ」
曲げていた腰が、すくりと伸ばされる。
キョウヤマの視線が、無理やり現在の顔の目線と並べられた。
「ワシがお前さんに求める仕事はあの娘の管理であって――逆にお前さんが絆されるような事があったら、ワシ、すっごく『面倒』なんじゃよね」
凍てついた鋼のような瞳が、ワタクシを射抜く。
……言葉が、出なくなる。
目の前にいるのは、この世界の脅威だ。
が――
「ま! ホントのところ、ワシ、実はなーんにも心配しとらんよ?」
くるり、とその場で一回転し、キョウヤマは低めていた声を元の、いやそれ以上に高揚したような声に変えて改めてワタクシへと向き直る。
「だってコウキはワシの後継機じゃもん! ……コウキとコウケイキ……似とる……ぷぷっ。まあそれはさて置き、ワシの正統な眷属であるお前さんに誰かを思いやる気持ちがある訳が無いのは、ワシが一番知っとるよーん」
だが、明るいのはあくまで語調と振舞いだけだ。
どんなに好々爺のフリをしようとも――この男は、人を真似る機械に過ぎない。
「まあそういう訳じゃから、あの娘を気遣うフリもほどほどにな? 解っててもお父さんもう歳じゃし、ドキドキしちゃうから。という訳で、お前さんとハリには新しい任務な! 明日改めて、水のヒューマンスピリット回収に2人で行って来てちょーだいっ!」
「! 待ってください。ハリはまだ体調が万全では――」
「ワシの話聞いてた?」
今度は、声音すら変わらなかった。
変わらなかったのに――もう、何も言い返せなかった。
「……了解……しました……」
一刻も早くこの部屋を後にする事だけが、今のワタクシに出来る唯一の事で。
これ以上何も見ないようにして――背を向けたまま、扉がひとりでに閉まるのに任せる。
「期待しとるよん、我が息子」
背後から届いたあの男の声を振り払うように足を進めた。
……途中、セラの気配を幽かに感じたものの、構っているだけの余裕は無かった。
ああ、化け物め。それも飛び切り質の悪い亡霊め……!
ぎりり、と思わず歯を軋ませる。人間の顔面が持つ機能は、必要以上にワタクシの感情を表現してしまいことさら不愉快だった。
だが――辿り着いた部屋の中まではその表情を持っていく訳にはいかず、ワタクシはなるべくそれらを取り除いてから扉を叩いた。
「ハリ、入りますよ」
「はい」
中に入ると、狭い部屋のほとんどを占めるベッドの上で、三角巾で右腕を吊るしたハリが膝元に置いたスマートフォンから視線をこちらへと移した。
……顔には、昨日は確認していない傷が一つ増えている。
「……セラが、ここに来ましたか」
「はい。マスターがいらっしゃる6分程前に退出なされました。……ああ、頬の傷の事は何ら問題ではありません。セラ様にはご迷惑をおかけしたので、これでセラ様の気分状況の改善および作業効率の上昇がみられるのであれば、それに越したことはありません」
本当に、言葉通りにしか思っていないのだろう。
おそらく理不尽に殴られた事に対する憤りなど、何一つとして、感じていない。
「傷の具合は」
「右腕をはじめとした数か所の骨折と打撲、擦り傷が多数。ですが、キョウヤマ博士から処方された薬の効力で、痛みはありません。明日の任務には支障をきたさない筈です」
「……既に聞いていましたか」
頷くハリ。痛まないからといって機能に問題が無いわけではないという説教は、恐らく、ほとんど無意味だろう。
「これ以上、マスターにもご迷惑はかけられません。セラ様の件は、私がこのような不甲斐ない結果を残さなければマスターの手を煩わせずとも済んだ問題です。……昨晩は、大変失礼いたしました」
そう言うと、ワタクシに向かってハリは深々と頭を下げた。
ああ、この娘が僅かに感情を見せる時は――いつも、謝罪の時ばかりだ。
「あれは――ワタクシが勝手にやった事です。貴女に責任を感じられる義理はありません」
「……解りました。出過ぎた事を言ってしまい、申し訳ありません」
「……」
「明日は……明日こそは、マスターにご迷惑は、おかけしません」
その傷で、何ができるというのだろうか。
あの男の都合のいい駒として生み出されたこの少女は、限界を許されない分――むしろ、ワタクシには扱いづらい。
結局根本が違うワタクシには、人間の少女などという存在は、手に余る。
気遣いでも何でもなく、ワタクシは、ハリを明日の任務には、連れて行きたくなかった。
「ハリ」
「はい、なんでしょう、マスター」
「……いえ、なんでもありません。せめて今日は早く休むように。こちらからは以上です」
だがあの男の命令に背く真似は出来そうになく――そのままワタクシは、ハリの部屋を後にしようとした。
が……
「了解いたしました。……マスター、では休息の前に、ひとつ質問してもよろしいでしょうか?」
「?」
珍しい事に、ハリがワタクシを呼び止める。
振り返ると――その先にいたのは、『あの日』と同じ、ハリだった。
「……発言を許可します」
「感謝しますマスター。まずはこちらをご覧になってもらえますか?」
そう言って少しの操作を加えてから、ワタクシにスマートフォンを差し出すハリ。
受け取ると、水のヒューマンスピリットの在り処を割り出すきっかけとなった動画が流れ始める。
「カガ ソーヤが動画サイトに投稿したものですね」
「はい。水のヒューマンスピリット――ラーナモンの性質を再度確認しようと、先ほどから試聴していたのですが……ラーナモンは、一体何をしているのですか?」
「……」
「いえ、ラーナモンだけではありません。この動画サイトには、ラーナモンと同じような行為を行っているヒトやデジモンの映像が多数収められています。確認を行ったのは数点だけですが、その……どれも行為自体は同じなのに抱く印象はバラバラで、しかしどれも、不快な感情は抱かない、と、言いますか……」
そんな事を、聞かれても
ワタクシにもわからない。
「……これは、歌と言って、人間、現在ではデジモンも使用するコミュニケーションツールの一つです」
「コミュニケーションの……しかし非効率的では? このラーナモンの映像は3分以上あります。まだ内容を全て把握した訳ではないので断言はできませんが、要約は可能だと思うのですが。同じ言動が3度も繰り返されている上、発言を映像と共に流れている別の音響効果と合わせるようにして行っているため通常の会話と比べてより長い時間を要しています」
「会話ばかりがコミュニケーションの手段という訳ではないのは、貴女も知っているでしょう。曲調や歌詞、映像の組み合わせによって、3分間会話する以上の情報量を相手に提供する事も不可能ではないのです」
「それは……ええと、つまり……セラ様が苛立ちを表現するのに、私を殴る行為と似たような感情表現……と、いうことでしょうか?」
例えが例え過ぎて、否定すらしようが無い。
「……近しいものはあるかもしれませんが、同じものにされてはカガ ソーヤも不本意でしょうね。セラの行為は暴力です。世間的に、何れの理由があるにせよ褒められたものでは――……」
「……マスター?」
……世間的に褒められた行為ではない、か。
そんな一般論をこの娘に語るのは――あまりにも、配慮が無さすぎる気がして。
そんな配慮すらも、するなと言われたばかりなのに。
「……なんでもありません。ワタクシの持ち得る知識で貴女に答えられるのはここまでが限界でしょう」
「分かりました。おおよその理解はできましたので、十分満足しています。お時間を取らせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。マスター」
また、彼女が頭を下げるのを見て――
「時にハリ」
ワタクシは、ほとんど口を滑らせるような形で、ハリに言葉を返してしまう。
「?」
「ワタクシが貴女の質問に答えられるのはここまでですが……この曲を作った張本人、カガ ソーヤに同じ質問ができるとしたら……どうしますか?」
「……?」
案の定、ハリは戸惑っている。少し遅れて後悔に近い感情がやって来た。
そんなことを聞いて、どうするというのか。
「……すみませんハリ。大した意味は無いのです。今の質問は――」
忘れて下さい。そう言う前に
「その質問には、実行が可能かどうかを加味して答えるべきですか?」
彼女は、そんな確認を取ってきた。
「……ああ、申し訳ありません。マスターの言葉を遮ってしまいました。今、何と?」
「いえ、お気になさらず。……現実性については問いません。貴女がどう思うかで、答えていただければ」
「……」
ハリは、本格的に困ったようだった。
思えば、この娘に彼女自身の意見を求めるような質問をしたことは、これが初めてだ。
だから――この時の彼女の答えは、
「もし、可能であるならば……聞いてみたいです。歌とは、何なのか。何を思って、ラーナモンにこのような行動をさせ、あまつさえ不特定多数の目にさらす様な事をしたのかを」
ハリが生まれて初めて口にする、彼女自身の要望だったのだろう。
「……ハリ、最後に確認しておきたいのですが」
「? 何でしょう」
「貴女への命令権の優先順位は、キョウヤマ コウスケ よりもワタクシの方が高い……間違いありませんね?」
「はい。私はいかなる場合においても、マスターからの命令を最優先に実行します。たとえキョウヤマ博士からであってもマスターの意に反するような命令であれば、私は、その指示には従いません」
「そうですか。……今度こそ、ワタクシからは以上です」
「了解いたしました。私からの質問ももうありません。おやすみなさい、マスター」
「おやすみなさい、ハリ」
彼女の部屋を後にする。廊下には、今度こそ誰の気配も無かった。
「……」
何を思って、キョウヤマがハリへの命令権をワタクシに寄越したのかは解らない。どうせ碌でもない理由からだろうが――判断できるのは、それだけだ。
だが事実として、ハリはワタクシに逆らわない。逆らう事が出来ない。
……昨晩、カガ ソーヤとラーナモンを助けたヴァンデモンとそのテイマーは、シューツモンと戦闘を始めようとしていたウンノ カンナの部下だと聞いている。
彼女はキョウヤマの敵対者で、ブリッツモンの襲撃があったにも関わらず、その姿勢を改めようとはしていない。
彼女にとってもラーナモンの出現は大きな契機だろう。おそらくは、カガ ソーヤもパートナーとともに、ウンノ カンナの元に合流している筈だ。
ただのハイブリット体でしかないラーナモンは元より、昼間に戦闘を仕掛ければ、ヴァンデモンはそう脅威になるデジモンでは無い。メタルエテモンには苦戦を強いられるだろうがこのワタクシがいる以上、決定打となる必殺技は使えないだろう。
だが……それでもウンノ カンナの執念は、キョウヤマの妄執に匹敵する程の力を備えている事だけは容易に想像がつく。
「……」
それだけに、彼女の我々に対する敵意を上回る程の手土産を用意すれば、ウンノ カンナの味方となる事自体は、難しくは無いだろう。
……そう、ウンノ カンナの、味方に。
――即ち、キョウヤマ コウスケの、敵に。
「……はぁ」
あまりに現実味の無い考えに、我が事ながら溜め息が出る。
ワタクシはもっと、優秀で、合理的で、機械的で――あの男と『鏡写し』の存在だった気がするのだが。
いや――だからこそ、あの男に似ているからこそ、これ以上あの男の手駒でいる事には、耐えられないのだ。
ハリの事は、ついででしかない。
あの娘を気遣っての事では無い。あの男に言われるまでもなく、それは自分が一番、よく解っている。
強いて言うなら、言い訳だ。
きっかけは、些細な事だった。
「遊び」の意味すら問わねば知る由の無いあの娘の在り方を見た時――その事実は、ワタクシがあの男の元から離脱するための、決定的な言い訳になる気がしたのだ。
光と闇のスピリットを宿すあの娘は、あの男に対する鬼札と成り得るから。
あの娘の置かれた環境が、紛いなりにもデジタルワールドの守護者としての役割を背負わされている存在として見過ごせなかったから。
そしてあの娘が今日、『歌』に対する疑問を解消したいと言ったから。
ハリの存在を言い訳に、ワタクシは明日、怖くて怖くて仕方が無い、あの化け物の元から逃げ出すのだ。
*
20××年。
『最古の究極体』の力を継いだワタクシと、彼の存在の手で作り出された光と闇の器の少女。ある意味では本当に、だが本来は偽物の兄妹としてワタクシ達はあの男に仕え――そして、裏切った。空の飛び方など知る由も無い、籠の鳥であるにも関わらず、だ。
これは、1体のデジモンの勝手で『前例』になる事を宿命づけられた少女が、止まり木を見つけるまでの物語だ。