Episode キョウヤマ コウキ ‐ 5
長い、本当に長い間、眠っていたような気がする。
自分は――いや、自分達は、世界を救うための装置なのだと、それだけの『知識』といくらかの『記録』を持たされて、とても、とても。長い間。
しかしそれは、苦痛の時間では無かった。
ただの『知識』。
ただの『記録』。
与えられたものといえばそれだけだったが、自分達は、世界の危機に立ち向かう――立ち向かえる存在なのだと。それを教えられているだけで、本当に、十分だったのだ。
故に自分達は――少なくとも、ワタクシは――夢を見るようにして、夢物語を、見ていたのだろう。
あるいは傲りだったのかもしれない。
自分達は世界を救う、神話にもなれる存在なのだと、そんな風に。
……だからこそ、目覚めの瞬間が訪れた『あの時』の絶望は、存在そのものを砕かんばかりの勢いで、ワタクシの事を揺さぶったのだ。
「会いたかったぞ、我が骸」
仮初の肉体を与えるために伸ばしていた手と、その向こうにある老人の顔。その双眸を見た瞬間、ワタクシはこの世に生み出された事を呪う他無かった。
全身をズタズタに裂くような『恐怖』から、逃げ出したくてたまらないのに。
逃げる場所など、どこにも無くて。
「我の手足に、戻るがいい」
ああ、誰か。誰でもいい。
世界なんか、救えなくていいから。
誰か、
誰か。
助けて。
*
「ハロウ、人の子ら。昨晩はよく眠れたかな? 眠れた者も、そうでない者も――今より等しく、嘆くが良い。世界の終わりを、始めてやろう」
だが、その『世界の終わり』を始める前に、エンシェントワイズモンは今から彼がそれを行動に移すに至った過程と、理由を、長々と話し始めた。
演説、と言い換えても良いかもしれない。
誠実では無いが正直ではある、鋼の闘士の特質故に、語らずには、いられなかったのだろう。
デジタルワールドの旧管理プログラム――旧神『イグドラシル』に、『聖なるデジモン』を滅ぼすためだけに生み出された自分達、古代十闘士の事を。
その全滅と引き換えに、彼らはそれでも『聖なるデジモン』に勝利――『殺害』したことを。
だが、その『殺害』が、決定的な『間違い』となってしまった事を。
……ワタクシ達、『十闘士』を生み出した『デジタルワールドの安定を望む者』――現管理プログラム『ホメオスタシス』。その、正体を。
『聖なるデジモン』は『本来』古代十闘士に『封印』され、その際に受けた傷口から流出した聖属性データを封印の地となる筈だったダークエリアから吸い上げた闇属性データで補完する事によって進化し、デジタルワールドに『魔王』として君臨する筈だった事を。
だが実際には『殺害』された事によって『本来』であれば天使型デジモンに引き継がれるのみであった筈の聖属性データはデジタルワールドの新たなる『光』として形を成し、『聖なるデジモン』の当初の望み通り、デジタルワールドの神の名すら書き換えてしまった事を。
それが原因で、デジタルワールドは『光』がすなわち『善』である世界へと、変わってしまった事を。
『本来』『魔王』と共にデジタルワールドに生まれ出る筈だった『闇』のデジモン達のほとんどが、その進化を迎えるよりも前に、『光』によって淘汰されてしまった事を。
故に、『ファイヤーウォールの向こう側』から来た『彼ら』は――進化する事無く滅んでいった、世界そのものに捨てられたデジモンの怨念の集合体は、言ったのだと。
光ある所に闇があるのではなく、「光ある所に呪いあれ」と。
辛うじて残された『闇』のデジモン達に、その『呪い』を介して、力を与えながら。
デビモンに。
エテモンに。
ダークマスターズに。
ミレニアモンに。
ディアボロモンに。
……ヴァンデモンに。
デジタルワールドの『安定』が神によって『光』による支配のみとなってしまった以上、世界を呪い、蝕み、全てを『闇』にする以外に、『彼ら』の安寧は、無くなってしまたのだから、と。
「我らは、こんな現状のために『聖なるデジモン』と戦ったのでは無い」
エンシェントワイズモンは、それこそ呪詛の様に語り続けた。
過程と理由を述べた以上、残りは、その方法だ。
……栗原千吉の、『ユミル論』。
デジモンに本物の寿命を与える代わりにそれに見合うだけの力を与えるという、その理論。
しかし万が一にもそんなデジモンが生み出されてしまえば、デジモンという種にその『前例』が刻み込まれ、種の滅びへと繋がりかねないと――闇へと葬り去られた、論文だ。
……だが、「闇へと葬り去られた」等とは言っても、『ユミル論』は確かにこの世に生み出され、エンシェントワイズモンの眼に留まってしまったのだ。
「お前達。及川悠紀夫という男が生み出した、『ヒトの遺伝子を持つデジモン』の事は知っているな?」
オイカワ――2002年の選ばれし子供達が遭遇した――1999年の選ばれし子供達に滅ぼされた筈のヴァンデモンが、自らの依代としていた男だ。
「ヒトの情報を持つデジモンが生み出せる以上、『デジモンのデータを持つ人間』を生み出す事も、可能だとは思わぬか?」
エンシェントワイズモンは問いかける。
最も、今現在彼の言葉を聞いている人間はごまんといるだろうが、答えを返す者など、どこにもいない。
全ては説明であると同時に、独り言なのだ。
「我は造ったぞ。人間でありながらデジモンのデータを内包する『娘』を。そうやってデジモンに近づけた人間を作った後は、道具を介さずともデジモンに進化できる、人間を」
スピリットを纏う事で進化する人間という『前例』。
そのスピリットと必要以上に深く結び付くよう調節された人間という『前例』。
それらを踏まえて、改造によってではあるが、究極体デジモンにまで進化する事が出来るようになった人間という、『前例』。
エンシェントワイズモンが用意したのは、全て『前例』だった。
寿命を持つ人間がデジモンに進化するという、『前例』だった。
「元から寿命のある人間がデジモンに進化すれば、それは最初から『ユミル論』に則った強力な個体となる。……だが、まあ。その強さなど、我にとっては、どうでも良い。必要なのは、『完全な寿命を持つデジモン』じゃからな」
やはり最初から、十闘士の器として選んだ者達に、戦力としての価値自体は無かったのだ。
最も、身を守る手駒としてはある程度機能してはいたのだろうが。
昨日の騒動にしても、セラはともかく残りの3人に関しては、一応は、最後の時間稼ぎとしての役も割り振られていたに違いない。
「人の子ら。我は初めに、嘆くが良いと言ったが……今から起きる事を喜ばしいと感じたとしても、それはそれで間違いでは無い。何せお前達は、新たな『進化』の体現者となるのだから」
我は今より、この世の理を変える。……エンシェントワイズモンは、そう言った。
「この数十年で、お前達人間の世界は十分にデジタルワールドに近付き過ぎた。下地は我が整えるまでも無く、既に出来上がっている。我は最後の仕上げをするだけだ。それだけで――お前達は、1人、また1人と、人間からデジモンに変わりゆくだろう。お前達人間の『寿命』という規制に見合った強力な個体へと進化するのだ」
人間そのものが、『ユミル論』に基づいた進化個体――『ユミル進化体』の、『前例』へと。
「ああ、もちろんそうなればお前たちの生殖機能は失われる。デジモンは本来生まれ変わる種であって、生み出す種ではないからのう。……まあつまり、お前達は、本当の意味で最後の『人類』となるのだよ」
そしてその『前例』が生まれれば、かつて一度は『ヒトの遺伝子』さえ許容してしまったデジモンという生命体にも、『ユミル進化体』の流れが組み込まれる事となる。
何せ、『ユミル進化体』は強力な個体となる事が約束されており、デジモンの正義とは、本来、強くある事なのだ。
受け入れる。受け入れかねないだろう。管理システムが、では無い。デジタルワールドという存在そのものが、『ユミル進化』を。
……つまり
「人が滅び、そして、デジモンも滅ぶ。これ以上、『先』は無い」
ここで、仕舞いだ。と。
「我が名はエンシェントワイズモン! そして今よりは新たなる管理システム『ユミル』を名乗る者である! 我らを介してこの世に『呪い』を押し付けた『イグドラシル』など要らぬ。傾いた天秤をそのままで良しとする『光』でしかない『ホメオスタシス』など要らぬ! 我が、我らが新たなる『神(管理システム)』として、数千年も昔に迎えた死を基盤に、お前達に『滅び(ラグナロク)』の確約された未来を与えよう!」
エンシェントワイズモンは絶叫し、右の袖から除く羽団扇を天へと掲げた。
これまで『穿って』きたものの、集大成だと、言わんばかりに。
「さあ。開け、開け! 天の門! 来たれ、来たれ! 銀の鍵!」
知らず知らずの内に各所に穿たれていたらしい『深淵』から――そのあまりにも暗い、闇ですら無い底の底から――光が伸びた。
とはいえ便宜上光と呼んだだけで、それはこの世界のどの色にも似ても似つかない姿をしていて。
合計で5つ飛び出して来たそれら『深淵』の冷たい光は、昨日に引き続きどこまでも青い空の――否、そのさらに奥にあるべき『宙』の中心にそれぞれ『孔』を空け、お互いがお互いを求めるようにして『線』を引き、所謂五芒星に近い形を描いて見せる。
……中央で5本に分岐した線状の星、と、言うべきなのかもしれないが。
そして、その中心に。最初の孔のどれにも繋がらない1本の線が、瞼のように、現れる。
それこそが、エンシェントワイズモンの望んだモノだ。
「『エルダーサイン』!!」
必殺技の名が、叫ばれて。
瞼が開き
眼が、見開かれた。
……眼、と呼ぶには、あまりにも、それは悍ましすぎたかもしれない。
あるいは、神々しいと、そう言うべきなのかもしれない。
それは、強いて描写するのであれば、玉虫色の泡だった。
泡の塊が辛うじて目玉のような球を成しながら、下界を、世界を、ねめつけている。
そして次の瞬間には、星を描く線からか細い、しかし人から見れば十分に巨大な隙間が生まれ、この季節に相応しい天気である雨のように、滴り落ちるようにして、存在するだけでデジモンの存在できる世界の位相を狂わせる暗い液体が――『暗黒の海』そのものが、落ちてくる。
……これが世界を呑めば、人とデジモンの境など途端に曖昧になり、確かに世界は緩やかながらに、滅ぶだろう。
時間だった。
「『オフセットリフレクター』――――ッ!!」
何せワタクシは、この男の企みをぶち壊すために、来たのだから。
「な――っ」
この男が隠れ蓑として使い続けていた京山幸助の顔を支えてきた、研究所の屋上。
真下の窓ガラスに潜んで機を伺い続け、ここぞというところで飛び出して来たワタクシを見るなり、エンシェントワイズモンの眼が見開かれた。
今更この男に言うまでもない。
『オフセットリフレクター』は、相手の技の性質を反転させる技だ。
この男の『エルダーサイン』が『開く』技である以上、ワタクシがこの『攻撃』に与えるべき特性など、ただ1つ。
「『閉じろ』っ!!」
解析をイロニーの盾任せにせず、今必要な性質を明確に宣言する。
なけなしのブーストでしかないが、もとより必要となるデータの割合が多すぎるためか、何もしないよりはずっと、ずっとマシに違いなくて。
ああ、それでも。
「う、ぐうう……っ!」
『足りない』でいてくれた方が、どれだけ楽だっただろうと思わずにはいられない程に、身体への負荷は、凄まじかった。
……嫌な音が、聞こえた気がした。
これ以上はやめろと、ワタクシ以上に、ワタクシのデジモンとしての強さを支えてきたイロニーの盾が、悲鳴を上げているのだ。
出来る事なら、ワタクシだって、そうしたい。
だが、この男の演説を、きっと、ハリも見ている。
これ以上、妹の手前情けない姿を曝すわけにはいかないし――何より、背負わせるわけには、いかなかった。
だから、ワタクシは
女性1人が3ヶ月生活するには多すぎる程の金銭に変えられるらしい進化コードから得たデータを一瞬で消費して――
「スライドエヴォリューション!」
――その女性とそのパートナーに、見た目に関して散々な評価を受けた『獣』の姿へと、ワタクシは
*
「……」
とはいえ、『この』ワタクシの目に映る光景自体は、背景を欠いただけでそこまで大差がある訳では無い。
鋼の闘士・セフィロトモン。
十闘士全ての属性と、それに対応する空間を内部に持つ突然変異型デジモン。
……そしてここは、ワタクシの本体・ティファレト――闇属性の、球の中だ。
『深淵』とは違う、本当に、ただただ単純な暗闇ばかりが広がるこの空間に、セフィロトモンの端末として召喚したメルキューレモンとしてのワタクシと、ワタクシの前身である古代鋼の闘士・エンシェントワイズモンが、立っている。
ただまあ、セフィロトモンとしての視界も感覚として共有自体はしているので、なんというか、不思議な気分だ。
「……今更帰って来たのか、我が骸」
もはや、内部構成データ以上に鋼のスピリットそのものが限界を迎えているのだろう。ぼうっとする頭が、エンシェントワイズモンへの反応を遅らせた。
「我が骸」……そう呼ばれるのは、4年ぶりだ。
だからと言って別段感慨深くも無いし、恐ろしいという感情も、もはや湧いてはこなかった。
「帰って来たつもりは、ありませんよ」
「で、あろうな」
好々爺のフリはやめたらしい。瞳には、システムのエラーに対して過剰なまでに対処を要求するコンピューターじみた無機質な偏執さが滲み出ている。
この男なりの、不愉快さであり、苛立ちの表現なのだろう。
「我が骸とはいえ、所詮はホメオスタシスの端末という訳か。『光』による調和以外を徹底的に認めぬその在り方を、その身を以ってあくまで肯定し続けると言うのであれば……やれやれ。お前さんには、失望したよ」
「そういうアナタは、イグドラシルの極端な合理性を体現し過ぎているというか、何というか。今現在の世界がアナタ基準で正しくないので滅ぼすだなんて、短絡的過ぎて嗤えもしませんよ。失望した? それで結構。むしろアナタという存在から期待を受けないで済む立場になったという事実に、こちらは希望の一つも湧いてこようというものです」
本当はもう喋る事すら億劫だったが、それでも話し続けずにはいられなかった。
遅過ぎたのだ。この展開に、持ち込むのが。
……4年前に、出会ったあの時に、そうしておくべきだったのだ。
「しばらく見ない間に、随分と口が回るようになったな。あの女の影響か?」
「いえ? ワタクシは元よりアナタの後継機。影響を受けるまでも無く、アナタに似ているのですよ。会話をする意味を見いだせない相手とは真面目に口を利かないという点まで含めて、ね。……最も、カンナとこの1ヶ月を過ごしたからこそ、こうやってアナタと対峙する決心がついたので、そういう意味では、彼女の影響はあるでしょうね。ええ」
「絆されたな、我が骸。何がそこまで、お前さんの琴線に触れた? 恋人を我に殺されただの、その程度の些事を憐れんだか?」
「その程度の、些事」
唇のマークを、歪めて見せてやる。
それこそ、憐れむように。
「「恋人を失う事」――正確には、「愛する者を失う事」。それを「その程度」と吐き捨てるようなアナタに、カンナの美しさは絶対に解らない。解るべきでも無い」
「解りたいとも思わぬよ。そしてお前さんは、解ったような口を利く。『愛』? それは、我やお前さんが、口にすべき言葉では無い」
「しますよ。全てを識る者として傲り続けたアナタと違って、ワタクシ、学びましたから。……美しいというだけで、何かの役に立つ訳でも無い。なのに、美しいというだけで、それだけで価値のある宝石――水晶のような、そこに在るだけで何もかもを投げ捨ててそれだけを手元に置いておきたいと全ての感覚を狂わされる『バグ』そのものですよ、あれは。だからこそ、このティファレトには『闇』の属性こそ相応しいのです」
デジタルワールドにとって『光』が「進化と美」を指す言葉であるように、ワタクシ……セフィロトモンが示す限りでは、『闇』もまた、「愛と美」を表す言葉だったのだろう。
デジタルワールドの『光』――進化を迎える事が出来ずに滅んで行ったデジモン達が、それでも『呪い』を介してまでデジタルワールドを欲するのは、彼らが美しい世界を愛しているからに他ならない。
『愛するモノ』を奪われた存在は、美しいと錯覚する程に激しく眩い炎を纏って、奪った相手を『呪う』のだ。
何せ実物を見たので、この推論も間違いではあるまい。
「水晶。……ふん、そうか。お前さんが本当の意味で絆されたのはあの女研究者ではなく、やはり光と闇の器の娘か」
……だというのに、この男は。
「ただ1体ホメオスタシスの端末気取りであったお前さんにとって、アレは唯一自由に動かせる手駒であったからな。あの娘には『前例』である事のついでに、お前さんがどこまで我に忠実であるかを試すための役割を与えていた。……そしてあの娘はお前が我ら古代十闘士の遺志を継ぐに値しない役立たずである事を証明し――結果として、お前よりは、役に立ったとも」
「そんなにワタクシが――現十闘士が、怖かったのですね」
エンシェントワイズモンの全ての動きが、止まった。
嗤ってやる。
思いっきり、嗤ってやる。
「いえ、いえ。物事は正確に言うべきでしょう。正しくは、ワタクシ達を通じてかつての仲間達に否定されるのが、怖かったのですよね?」
「怖い、だと?」
「試さなければならない程、不安で仕方なかったのでしょう? ワタクシはアナタに背く存在であると、最初から知っていたから。他の十闘士の器に、属性だけは合致する正義の士とは程遠い存在を選び、尚且つ独自の『調整』をスピリットそのものに加えていたのも、そうしなければ十闘士はその全員がアナタに逆らうと予感していたからでしょう? 自らが生み出したハリについてはそれが特に顕著です。「ワシを絶対的に正しい存在だと信じ、その正義を闇のスピリットの正義の基準と共有できるよう調整に調整を重ねたデザイナーズベイビー」……そう、仰っていたでしょう? これではまるで、アナタを正しいと信じてくれる存在を器にしなければ光の闘士も闇の闘士もアナタに従ってくれないと、自分で言っているようなものではありませんか」
「ワシがお前さんじゃったら、ワシは絶っ! 対っ! ワシには従わんもんね~」……だなんて、口調だけは軽いこの男の振舞いに、完全に騙されていた。
全てを見通してワタクシを見下していると――そう、思っていたのに。
実際には、むしろ口を滑らせたようなものだったのだ。
自分のやっている事は間違っていると、うっかり、口にしてしまっただけなのだ。
「そしてアナタは、精神的にはワタクシ達よりもずっと古代十闘士に近いピノッキモンを、殺そうとした。表向きは仲間に引き込もうとしていましたし、実際、そうしたかったのでしょうが。……ですが、アナタの演算能力を以ってして、ピノッキモンの返答を想像できなかったとは考えにくいですからね。だからこそ、戦力としてはまずワタクシやメタルエテモンに敵わず、にもかかわらず夜間のヴァンデモンにまで挑みかねないカドマなど寄越したのでしょう? 彼が間違っても、ピノッキモンを連れ帰る事など無いように。……ピノッキモンに最後の攻撃が避けられないように、彼の庇いそうな「その場で最も弱い存在」を狙うよう氷のスピリットに小細工を仕掛けたあたりが、あまりにも入念で、陰湿で――アナタらしいじゃあ、ありませんか」
ワタクシ達が戻るまでの間の事は、カガ ソーヤから聞いた。
……思えば、あの男は要所要所でワタクシの役に立っていて。……それが何故だか、無性に腹立たしい。
「なので、ワタクシ僭越ながら、ピノッキモンに代わって彼の言葉をアナタに伝えようと思います。「恥を知れ」だそうです。ピノッキモンの口から発せられた以上、これはアナタの最も良き理解者だった、古代木の闘士からの言葉ですよ」
「黙れ」
エンシェントワイズモンの光る瞳に、どこかで見たような透明な炎が燃え盛っているのが解った。
きっとこの男は、その炎に『復讐心』や『憎悪』の意味がある事すら、けして認めはしないのだろう。
心など無いと、言っていた。
嘘のつもりも、無いだろう。
この男はずっと、それこそ何千年もの間。自分は、自分達はイグドラシルに命じられた通り、『聖なるデジモン』を殲滅するためのシステムだと思い続けてきたのだろう。
ワタクシが、夢を、見ていたように。
……やはり、ピコデビモンは正しかったという訳か。
それは、不幸であると同時に――ある意味でこの男への止めとなるモノが、この男が最も尊敬していた『闇』の系譜から放たれていたというのは、もしかしたら、幸運な事なのかもしれない。
『闇』に愛の意味があるのなら、きっと古代闇の闘士は、誰よりも、仲間の暴走を止めたかったに違いないのだから。
「アナタは最初から、理解していた」
黙れと命じられた気がするが、エンシェントワイズモンがワタクシを従えるための枷など、昨日の時点で外れている。
……ハリが、外してくれた。
加えてワタクシには、新しい主がいる。
「古代十闘士の誰も、今のアナタがしている事など、認めてはくれないと」
「黙れ」
「「古代十闘士の悲願は、遥か昔に果たされている」……ピノッキモンは、そう言ったそうです。アナタが自分の肉体すら捨てて逃げた先で何を見たのかは検討もつきませんが、それでも彼らは、自分たちがやった事が全て間違いだったとしても、『聖なるデジモン』の支配からデジタルワールドを救った事を、誇りに思っているのですよ!」
「黙れ。お前に何が解る」
「解りますよ。ワタクシは、アナタの骸だ。ワタクシは――アナタの成れの果てとして、怖かったんだ。命を賭けて救った世界が、自分自身の手で汚されるのに何もも出来ないのが怖かったんだ! そんな事をしでかす自分自身が、鏡に映る『悪い』自分の影が! 怖くて怖くて仕方なかったのですよ!!」
「黙れ!!」
エンシェントワイズモンが叫ぶ。
だが、それだけで何もしてこないのは、セフィロトモンの内部というこの空間に限っては、ワタクシの方が、空間の支配者としてエンシェントワイズモンよりも優位に立てているからに他ならない。
だったら、せめて殴りかかってくるなりすればいいのにと、可笑しくなって、少しだけ、吹き出してから――
「ただ、まあ」
――ワタクシは、続ける。
本当に、言うべきだった事を。
「アナタが、もっと、ちゃんと、「考えて」。自分の『心』と向き合っていたら」
システムとしてイグドラシルに命じられた、『聖なるデジモン』――ホメオスタシスを滅ぼす事に固執するのではなく。
ただ単純に、自分のやっている事が「古代十闘士を殺した上に貶めた存在への復讐にして嫌がらせ」だと、素直に認めていたら
「ワタクシ達の関係も、少しは違っていたかもしれませんね」
ワタクシとハリは、形はどうあれ、この男に生み出されたのだから。
「お父さん」
彼女と兄妹であるために――この男もまた、やはり、ワタクシ達の、父親なのだ。
「何を今更、気色の悪い……!」
だが、肝心の父の方はというと、嫌悪感に表情を歪めていて。
きっと昨日以前のワタクシは、この男の息子として扱われる度にこんな顔をしていたのだろうなと思い至って、逆に悲しいくらいに似た者同士である事がより明確に突き付けられるだけの結果に終わり、ただただ滑稽だった。
「そも、何を全てを終えた気でいるのだ。お前は我を殺した訳でも無い。我の『エルダーサイン』を閉じ、一先ずはビーストスピリットの内部に封じたつもりではあろうが――それが、何になるというのだ」
しかしエンシェントワイズモンはワタクシの思惑などまるで気付く素振りも無く――あるいは無視して、まくし立てる。
「お前が我をここに留めて置ける時間など、せいぜいあと数分が限度であろう。お前は既に枯渇している。ただのスピリットに戻るのも時間の問題よ。お前の意思が消え去れば、同じ属性である我がここから出る等あまりにも容易いぞ? そうなれば」
「アナタは、また同じ事をする。……『門』を開くのに相当量のデータを使ったでしょうから、すぐに、とはいかないでしょうが――数千年を耐えたアナタの事です。どれだけ時間がかかろうが、やり直すでしょう。『ユミル計画』を」
「無論だとも。……我が同胞達は、我の事を認めないと、そう言ったな? そんな筈はあるまい。我は、滅びておらぬ。滅ぼされる事無く、我が計画はここまで辿り着いたのだ! お前のした事など、些細な時間稼ぎにしか」
「ですが」
今度は、ワタクシがエンシェントワイズモンの台詞にそ知らぬふりをして、口を開く。
仕込みはもう、ここまでで十分だ。
「再び数千年となれば……耐えられますか?」
「……?」
対する、怪訝そうな瞳は
「――ッ!?」
一瞬にして、驚愕へと変わる。
……雨が、降ってきた。
黒色ですら無い、暗い色の、雨が。
「これは――」
「疑問には思いませんでしたか? 何故、ワタクシが『オフセットリフレクター』を使ったのが『エルダーサイン』の発動中、あるいは発動直後ではなく、少しだけ間をおいてからだったのか。……『門』が、少しだけ開いた後だったのか」
「!」
「これが、答えです」
エンシェントワイズモンの呼んだ『門』から滴り落ちた、『暗黒の海』。
ワタクシは今、それを、セフィロトモンの中に取り込んでいる。
『開く』性質を反転させ、『閉じる』ようになっている宙の『門』は、それでもその巨大さ故に、今なお『暗黒の海』を降らせているのだ。
丁度、ワタクシの内部を、満たせる程度の量を。
「お前――」
エンシェントワイズモンの声が、震えた。
ようやく見せた感情らしい感情は、やはりワタクシやハリと同じく、『恐怖』に違いなくて。
「自分が、何をしているか……解っているのか?」
「もちろん」
そんな事を言うという事は、エンシェントワイズモンもはっきりと理解しているのだろう。
セフィロトモンは、内部の空間も含めてセフィロトモンなのだ。いや、むしろ十の属性とそれに対応した縮小化された『世界』を持っているという事の方が、セフィロトモンの本質に近い。
それ故に、もしも、その内部の空間が他のものに取って代わられるような事が、あったとしたら?
例えば、その全てが『暗黒の海』に置き換わってしまったとしたら?
答えは、単純だ。
「ワタクシは今から、鋼のビーストスピリットを『暗黒の海』に変える」
セフィロトモンは自らの性質を全て失って、自身を満たしたモノへと、変貌する。
「『暗黒の海』は自身の性質と同じ、あるいは近いモノを、己の元に呼び寄せる性質があるでしょう? アナタに召喚されてリアルワールドを侵食しようとしていた部分は、ワタクシの内部空間を介して再び「ただの『暗黒の海』」に戻るでしょうから……そうなれば、『暗黒の海』の本体は、自分の一部を元の位置に戻そうと外側ごとセフィロトモンを引き摺り込むでしょう」
言っている間にも、暗い雨は絶え間なく『闇』の空間に降り注ぎ続ける。
本体にまでこうして届いているという事は、他の球の中など、もうほとんど沈んでしまっているに違い無い。
「アナタの言った通り、ワタクシの身体が持つのはせいぜいあと数分が限度です。しかしセフィロトモンが『変わる』のに、そこまでの時間は要りません。……セフィロトモンの特異性はあくまでビーストスピリットのみのものですからね。メルキューレモンとしてのワタクシは、スピリットに――休眠状態に、戻るだけです。しかし、アナタは違う。アナタはエンシェントワイズモンのまま、鋼のビーストスピリットという名の『暗黒の海』に閉じ込められたまま、『暗黒の海』本体の中を漂わなければならない」
確かにこの男は、それに近い状態で数千年を耐えたに違いない。
『聖なるデジモン』との戦いの結果を知るために。仲間の遺志を継ぐために。……それだけを支えに、『ラプラスの魔』を使ってデジタルワールドから自我と能力の一部を弾き出し、途方も無い時間をかけてでも帰還したエンシェントワイズモンの鋼の意思は、尊敬にも値する。
ここで逃がせば、この男は同じ事をする。
たとえ殺害したとしても、転生した先で同じ事をするだろう。あるいは、かのベリアルヴァンデモンのように人に憑りつくような真似をするかもしれない。オイカワ ユキオを例に挙げたくらいだ。研究くらいは、してあるだろう。
だが。暗黒の中での数千年をもう一度繰り返せと言われた時。それは、はたして可能だろうか。
『聖なるデジモン』との戦いの結果がこの男にとっての絶望に終わり、仲間達に見放され、自分の屍の成れの果てさえ自分を否定するというこの世界に、『心』の底から、帰ろうと願う気力が。そしてそれを耐えるだけの『心』が。はたして。
「ふ……ふざけるな!!」
声を震わせたまま、エンシェントワイズモンが怒鳴る。
それだけで、答案になるというものだ。
「我に、また、あの『深淵』で――そうだ、そうだ! お前! イロニーの盾だ、イロニーの盾を寄越せ! その盾を介して――」
言われた通り、ワタクシは重い左腕を持ち出して、エンシェントワイズモンへと突き付けた。
……負荷への悲鳴さえ、枯れ果てたのだろう。
ワタクシと、エンシェントワイズモンの目の前で、蜘蛛の巣状にヒビが走ったかと思うと、イロニーの盾は、砕け散った。
「お――お前――」
「……」
「右腕の方は、どうした?」
「まさか、今まで気付かなかったのですか?」
心底呆れた。
どうやらこの男を高く評価し過ぎていたのは、むしろワタクシの方だったらしい。
今はただ、この男に苦しめられてきた事実そのものが恥ずかしいくらいだ。ポンコツという言葉はこの男にこそお似合いであるし――情けない事に、やはり、ワタクシにも相応しかったのだろう。
「アナタはここでお仕舞いですよ、エンシェントワイズモン」
その呆れを何一つとして隠さないようにしながら、ワタクシは改めて彼に語りかける。
「アナタなりに、正義や使命感があった事は認めますがね。それを平穏に生きている後の世代にまで押し付けようとするから、こういう結果になるのですよ」
だから、ワタクシが最後に父親に伝えたい事も――これだけだ。
「失せろ、老害。……アナタの時代は、終わったんです」
言って。ようやく、胸のつかえが完全に取れた気がした。
……自分の役目も、これで、終わったのだと。
「い――嫌じゃ……!」
ただやはりというか、なんというか。こんな事をしでかすようなこの男が、はいそうですかとワタクシの言う事を受け入れる筈も無い。
もはや気の毒に感じる程、癇癪に声以外をも震わせながら、エンシェントワイズモンが絶叫する。
「嫌じゃ! 我に、我にまた『あのような』場所に行けというのか!? 我は、我は――」
……面倒臭いし、五月蝿い。
「ああ、もしかしたら、もしかするとですが……同じ属性の『ケテル』あたりなら、アナタの力でこじ開けられるかもしれませんね」
「!」
「球の間の移動に関しては、現状のワタクシでは防ぎようもありませんからね。一縷の望みに、賭けてみては?」
言うが否や、エンシェントワイズモンの姿が吸い込まれるように、上方へと消えていく。
移動したのだろう。……ワタクシが嘘を吐けない事は、エンシェントワイズモンだってワタクシ自身と同じくらい、理解しているのだから。
……そう。嘘は、言っていない。
万が一にもそうならないように、鋼の属性を持つ球は真っ先に沈めてあるが。それを、言っていないだけで。
「……」
だから、今度こそ、終わったのだ。
案外、あっけないものだと笑った瞬間、全身から力が抜けて――ワタクシは、仰向けにその場に倒れ込んだ。
派手な水しぶきが舞う。
降り続ける『暗黒の海』の雨はティファレトの全域を浅い水たまりに変えていて、この分だと、近々限界を迎えた他の球からもこれが流れ込んできて、想定よりも早くにセフィロトモンの本体も沈むだろう。
そもそも光の無いティファレトの真っ暗闇の中――左腕を、宙に伸ばした。
「軽いな……」
右腕のイロニーの盾を外した時にはそうは思わなかったが、今度は、完全に失ってしまったのだ。
『反射』も『消去』も、両方失って。十闘士として以前にデジモンとしての力すらほとんど失って。
ワタクシは、ようやく、使命からも解放されたのだろう。
……そうして、ワタクシに、残るのは――
【マスター……マスター……っ!】
「……」
ハリの声が、聞こえた。
幻聴でも何でもない。
ワタクシは水の中を探って、指先に触れたイロニーの盾の欠片を一枚、拾い上げる。
「聞こえていますよ、ハリ。……聞こえていますとも」
最も、こちらの声は、届いてなどいないだろうが。
【マス、ター……!】
……薄々は、察していた。
ハリの全身にある、『調節』の痕跡。光と闇のスピリットと適合させるために、手を加えられた痕。
だが、あのエンシェントワイズモンの事だ。そんな事をしなくても、生み出した時点でそういう特質を持たせる事も、可能だったのではないだろうか。
後々調節が必要だったとしても、あれほどまでに縦横無尽に傷を走らせるような真似をしなくても、出来たのではないか。
もしそうだとすれば、ハリは当初光と闇の器では無かったのを、無理やり調節し直したのかもしれない。
そして、今。
彼女はワタクシの遺したイロニーの盾の片割れを正しく起動させて、その機能を、使用している。
……で、あれば――
【マスター、戻ってきて下さい……! 私、今度こそ、今度こそ……言う事を、聞きますから……。もう二度と、マスターの命令に逆らいませんから……!】
「そんな事を言われたら、逆に戻れないでしょう……」
エンシェントワイズモンの発動させたモニターがどこまで機能していたか、この状態では判断しかねるが――それでも、『暗黒の海』を内部に取り込むセフィロトモン自体は、見ていたのだろう。
その上で、ワタクシの考えを、理解してしまったのだろう。
「貴女はもう、ワタクシに従わなくて良いんです」
【行かないで下さい……】
「ワタクシに縛られなくて、良いんです」
【行かないで下さい……置いていかないで下さい……】
「貴女は――」
【『お兄ちゃん』……!】
「――」
一瞬、思考が全停止した。
……そして、それによってクリアになった頭の中に――心の中に――雪崩れ込むようにして、後悔が、押し寄せる。
ワタクシは、何をしているのだろう。
ああ――帰りたい。
今すぐに帰って、ハリを抱きしめたい。
「そんな我が儘を……言わないで、下さいよ」
嫌だ。
嫌だ。
逃げ出したい。
いつ戻れるかも判らないまま、『暗黒の海』で漂い続けるなんて、嫌だ。
どんな形でもいい。
これから先も、ずっとハリと一緒に居たい。
彼女の成長を、見守りたい。
そうしたいなら――ワタクシはただ、ビーストスピリットによる進化を解除するだけでいい。
その結果再びエンシェントワイズモンが解き放たれ、溢れ出した『暗黒の海』が世界を蝕もうとも――ハリに会えるなら、どうでもいい。
ワタクシのやった事で世界が救われようが、ワタクシのやる事で世界が滅ぼうが――そんなこと、どうでもいい!
ハリの傍に居られるなら、ワタクシは――
「……出来ませんよ、そんな事」
そんな事をすれば、ハリは、本当に『前例』になってしまうのだ。
この世界を滅ぼすための、『前例』に。
彼女は、それでも良いと、言うだろう。
だから、ワタクシがそれを、許さない。
その選択が、どれだけ彼女を傷つけて、苦しめたとしても。それだけは、許容するわけにはいかないのだ。
世界を救う事など、もはや、どうでもいい。それは確かだ。
でも、ハリの生きる未来を守る事だけは。ワタクシが、唯一、彼女にしてあげられる事なのだ。
そんな事しか、してやれない。
そんな事しか、出来ない上に――声だけでも解るくらい、今、泣いている妹の元に……駆けつけて、やれない。
そんな、情けない兄なのだ、ワタクシは。
「ハリ」
名前を呼ぶ。
「ワタクシは、帰ります。必ず、貴女の下に、帰りますから」
意味の無い呼びかけだとは解っている。
嘘のつもりは無いが――所詮、強がりに過ぎない事も。
「だから、泣かないで下さい。ハリ」
今すぐに、とは言わない。
いつか、笑ってくれるように。
貴女は、こんなに泣けるのだから。ちゃんと、ワタクシ同様『心』のある存在なのだから。だからきっと、いつか――
【――――――】
「……」
不意に聞こえた『それ』を確かめるために、ワタクシは、出かかった言葉を呑み込んだ。
【――――――】
黙って、聞き続ける。
【――――――】
酷いものだった。
毎日、飽きもせず、滞る事無く学び続けていた筈なのに。
一応は、一流らしい存在から学んでいた、筈なのに。
【――――――】
音程など、あったものではない。
流れるように連なっている筈の言葉は嗚咽に何度もせき止められて、区切りごとに解釈していては、意味を成さなくなってしまっている。
【――――――】
ああ、しかし、これは。
【――――――】
あの日の事を、思い出す。
右腕を三角巾で吊るしたハリが、自身のスマートフォンを差し出して、ワタクシに訊ねてきた事を。
カガ ソーヤが、動画サイトに投稿した、あの曲を。
あれは、出会いを喜ぶ、歌だった。
奴の言っていた事は基本的に理解不能だったが、それでも、ラーナモンという水の闘士に出会えた事が、よほど嬉しかったのだろう。それだけは、解る。
……何せ、わざわざ曲に乗せて、同じ言動を3度も繰り返す程なのだから。
【――――――】
「なるほど」
安心して、視覚情報を遮断する。
ハリはきちんと答えを得て、どころか、ワタクシにそれを教える立場にまでなったのだ。
なら、大丈夫だ。
保護者としては、カンナに任せればいい。
友人としては、タジマ リューカがどうにかやってくれるだろう。
……カガ ソーヤはどうせ余計な事ばかり教えつづけるだろうから、この際、どうでもいい。帰ったらどうにかするだけだ。
そんな彼女達に囲まれて。ハリはきっと、いつか自分の力で世界に羽ばたいていける。
「これが歌、か」
だから、ハリ。
もう少し、練習を続けなさい。
いつか、もう一度貴女に会えた 時には
もっと ずっと 上達した貴女の
歌を 聞く事を
楽しみに
【――――――】
Episode キョウヤマ ハリ ‐ 0
マスターが私の兄である事だけが、何も無い私の唯一の誇りでした。
*
「そこに座りなさい。そんなところで立たれていると、落ち着きません」
「了解しました」
命令された通り、私は指定された椅子に腰を下ろしました。
視界の端で、生みの親であるキョウヤマ博士から「全ての命令を聞くように」と設定されている私のマスターにして兄、キョウヤマ コウキ様――メルキューレモン様は、頭を抱えています。
きっと、私の事が、目障りなのでしょう。
その目障り、という感情が、私にはどういうものなのか、はっきりとは理解できませんが……度々博士の研究室を訪れていた、風のスピリットの適合者であるセラ ナツミ様は私の事をそう言って何度も殴られたので、多分、それが私に向けられる感情としては普通の物なのだと判断しています。
だから、この人も――このデジモンも。これから、私に沢山痛い事をするのでしょう。
痛い、というのは、我慢するべき感覚だと博士から教わりました。幸い、そのために必要な薬品に関しては、キョウヤマ博士から比較的寛容に譲渡していただけます。
それがあれば、私は
「ハリ」
マスターは私の名前を呼ぶなり、こちらに歩み寄って来ました。
命令していただければ、私の方から行くのですが。
「ああ、そのままで。少し身体情報をスキャンするだけです」
筋肉の動きから、私が立ち上がるべきか判断に迷った事を察知したのかもしれません。ともかく、私はマスターの指示通り、その場に座ったままでいました。
……マスターは、本当に、私の肩に軽く触れただけでした。
「……?」
「どうせ、あの男の事です。他に衣服は用意していないのでしょう?」
直ぐに踵を返し、元いた席――パソコンの置かれた机の前の椅子に腰かけ、その操作を始めるマスター。
衣服、と言われて私は自分の身体を見下ろしました。
キョウヤマ博士からの調節が施しやすいらしい、前開きの簡素な衣装です。
「……とりあえず、夕方くらいには届くでしょう。それまで……そうですね。簡単なテストでもしておきましょうか」
「耐久テストでしょうか」
「……違います」
一瞬の沈黙は、きっと、マスターが不愉快の感情を覚えた間に違いなくて。
「申し訳ありません、マスター。判断力に劣っている事をお詫び申し上げます」
「……いちいち、貴女が謝るような事でもありませんし……まあいいです、言い出すと長くなりそうですから。テストというのは、頭脳の方ですよ。貴女の教育係を任された訳ですから。会話自体は……まあ、問題は無いでもないですが、こうやって普通に行えていますが……読み書きに関しては、どうなのでしょうか。加減乗除は?」
……それから、マスターはどこからかパッドを持ってきて、「解らないものがあれば直ぐに質問するように」と前置きしてから、様々な問題を表示するアプリを起動させて、私に提示して――
最初はキョウヤマ博士からインプットされている知識で対応できる物がほとんどでしたが、少しずつ、そうでは無い物が増えていって。その度に、回答を説明していただいて。
あっという間に、時間が過ぎて――
「少し休憩していなさい」とマスターが席を外して、それから戻って来られたかと思うと、大きなダンボール箱を抱えておられて。
「包装の類は全て外しておきましたから、中に入っている衣服に着替えて下さい。ワタクシは外で待っていますから、着用が終了次第呼ぶように。……ああ、それから、衣服に不備があった場合も」
そう言って、またマスターが、部屋を後にしました。
「……」
広げてみると、マスターが着ている物をそのまま小さくしたような、スーツとシャツのセットでした。
指示通り袖を通すと、新品故に全体的にパリっとしたそれらの衣服は、そんな事を考えるような季節でも、室温でも無いのに――何故だか妙に、温かくて。
「お待たせしました、マスター」
扉を開けると、マスターは壁際で待機していました。
私を確認して、どうやら少し乱れていたらしい襟元を直してから
「まあ、それなりに……似合っていますよ、ハリ」
そう言って、マスターはほんの少しだけ、微笑みました。
*
「……」
あれから、どれだけ時間が経過したのでしょう。
私はマスターと違って正確に時間を計る能力など持っていなくて。だけど、スマートフォンを確認する気には、なれなくて。
「……」
抱きしめていた、イロニーの盾を見下ろすと……私の顔が、映りました。
これの本来の持ち主であるマスターは――
「……」
嫌でも、あの時の光景が蘇ってしまいます。
カンナさんから構成データに変換できる物を受け取ったらしいマスターは単身、キョウヤマ博士の元へと出向いて、鋼の闘士の獣の姿・セフィロトモンの内部空間を『暗黒の海』に置き換える事によって、キョウヤマ博士を――エンシェントワイズモンを、封印しました。
自分と、一緒に。
私は、マスターを引き留めたくて。
カジカPに教えていただいた『お兄ちゃん』まで使用して、マスターを止めようとして。
……だけど、そんな事は、出来なくて。
だからせめて、私がマスターに懐く想いだけは、伝えたくて。……それには、私達がここに来るきっかけとなったカジカPの歌が、何故だか、相応しいように思えて。
本当に届いていたのかすら、今となっては、解りません。
だけどこちらに残されたイロニーの盾の片割れから、幽かに――あの日、マスターが用意して下さったスーツの袖に腕を通した時のような、温かさが感じられたような気がして――
なのに。
「っ」
思わず、耳を塞いでしまう。
また、あの、悪夢のような嗤いが耳の奥にこだましたような、そんな気がして。
……イロニーの盾から、マスターの反応が、消えて。
それが、どんなに辛くても、マスターの選択だと。マスターは、世界を救った英雄なのだと、受け入れようと、そう、思ったのに――あの声が、聞こえて来て。
オニスモンになったセラ様の、嗤い声が。
昨日、マスターが倒した筈なのに。オニスモンは、再び姿を現したのです。
オニスモンは必殺技の『コズミックレイ』で、何度も、何度も、閉じた筈の『門』を攻撃して
『門』は、うっすらと、また、あの玉虫色の『瞳』を、開いて。
「ザマアミロ」と、オニスモンは言いました。
「ザマアミロ」と、3回、繰り返して。
その直後、まるで小バエでも払うように、どこか鬱陶しそうに、玉虫色の泡の『瞳』は目玉の底から1滴の、しかし恐ろしい程に大きく真っ暗な雫をオニスモン目掛けて、落として――それだけで、オニスモンは、溶けて、無くなってしまいました。
でも、それは、私には、何とも思えなくて。
それよりも、マスターが、命以上の物を賭けて閉じた『門』が――
「う、うう……」
もう、何度目なのでしょう。
目尻から、途方も無い量の液体が流れ落ちてきます。
知識として、理解してはいます。これは涙というもので、目の保護の他、過度なストレスに対処するために排出される生理現象だと。
その過度なストレスの際に発露する感情は、悲しみ、というものだと。
悲しみ。
マスターは、私に感情を持つ事を、望んでいたように思います。
こうやって私が「過度なストレス」に対処している事は、きっと、喜ばしい事なのでしょう。
なのに脳内を占める感覚は『不快』を表す物ばかりで……それに関して質問する事が出来るマスターも、もう
「ううう……」
私は、何が悲しいのですか、マスター。
マスターが居なくなってしまった事がですか?
マスターがやった事が踏み躙られてしまったからですか?
マスターに……連れて行って、もらえなかったから、でしょうか。
解りません。
質問の、許可を、下さい。マスター。
「マスター……」
マスター。
私の、兄。
私の、家族。
同じ親を持ち
常に、私の傍に居て下さって
それから、強くて、優秀で、……優しい。
おぼろげながら与えられている分の知識で判断するに、マスターは確かに家族というものに該当する存在で、加えて、私が、家族になりたいと思う事が出来る存在でした。
だから、リューカから話を聞いた時は驚きました。
兄というのは、必ずしもそういった存在では無いのだと。
故に、私の兄は、やはり、特別なのだと。それを誇りに、思いました。
親、と言動ではそう示しているものの、キョウヤマ博士が私を子だと思っていない事は、理解していました。
でも、私が道具でしかないと言っていたマスターは……なのに、私をキョウヤマ博士のようには扱わなくて。
だから、なのでしょうね。
私は当初キョウヤマ博士に指示されていた以上に、マスターのお役に立ちたくて。
この方のために生きて、この方のために命を使い潰せたら、どんなに幸せだろうと、そんな事ばかり、考えて――
「!」
ガチャリ、という音に、流石に思考が現実に引き戻されました。
だってそれは、扉を開ける音で、
私は、鍵を、閉めていて――
「……ノックはしたんだよ」
顔を上げた先には、この部屋の本来の所有者――カンナさんが、右にコロモンを抱え、左手の指に鍵をひっかけながら、こちらを見下ろしていました。
合鍵、なのでしょう。
……いいえ、今は、それよりも――
「出て行って下さい……!」
この人を見ていると、心臓が、壊れてしまいそうな程、痛くなります。
この人が勝手なことをしなければ、マスターは昨日、あんなに酷い目に遭わなくてもよかったのです。
この人がマスターの構成データの代用品を渡さなければ、マスターは今日、あんなことをしないで済んだのです。
なのに、なのにこの人は。私よりも、ずっとマスターの役に立っていて
その上、マスターはこの人といる時、とても、嬉しそうで、楽しそうで。
理解は、していました。
マスターにとって、この人は初めての対等な同盟者です。
能力の足りない私と違って、安心して、負担の一部を預けられる人です。人でした。
友人、と――そう、思っていたのかも、しれません。
私の知る限り、妹というものは、友人にはなれません。
私とこの人では、役割が、そもそも違うのです。
です、が……。
「大した事じゃ無いよ。報告に来たんだ。……あの泡の化け物が、とりあえず『コラプサモン』っていう名前のデジモンに分類された事。コラプサモンは西に移動し続けて――いや、まあ、正確には移動はしてないんだけど、ややこしいからそれは置いといて。……最初の場所に戻ってくるのは約24時間後で、今のところ、オニスモンだっけ? ……あのデジモンに使った『攻撃』以外の動作は、見せる素振りも無い、ってさ」
「……」
「『召喚』を阻止された事によって、状態を『観察』に切り替えたってところだろうね。何時まで持つかは解らないが――これは、メルキューレモンの功績」
それが、何になるというのでしょう。
今動いていないだけで、コラプサモンと名付けられたあの玉虫色の泡は、キョウヤマ博士が当初望んだ通りの状態にいつかは移行する筈です。
そうなれば、結局
「そうだね。……ただの気休めさ」
私の顔を見て、カンナさんは、私の言いたい事が解ったみたいに、そう言いました。
とても、不快です。
「報告は以上。……だからここからは、ただ単に、アンタと話をするだけのつもりなんだけど」
「結構です。私の精神状態は、それを望んでいません」
自分でも不思議なくらい、自然に言葉が出ました。
なのに、カンナさんは
「アンタのお兄ちゃんに、頼まれてるんだけど」
そう、口にして。
「……」
何も、言えなくなってしまいます。そんな風に、言われると。
でも、『お兄ちゃん』。
私の兄、と、それだけの記号として、使っているつもりなのでしょうね。
そんなに、軽々しく。
……カジカPは、私にこんな単語を教えて、どう、したかったのでしょうか。
「「ハリに一般的な素養を身に着けさせる事は可能ですか?」これが、最初にウチに来た時。「ワタクシの所有物たるハリの事も、よろしくお願いします」これは、何回か言われた。それから、今日の早朝。「ハリの事を、お願いします」……そう言われた」
「私がマスターだけではカバーしきれない程に低能な役立たずだからですか?」
声が、震える。
置いて行かれた理由を探して。
見つけた答えが、止めようとするのに、喉から、飛び出していて。
「……しばらくは」
カンナさんが、私から目を逸らしました。
「黙って、聞くから。……言いたい事があるなら、続けて」
言いたい事なんて、ありません。
「私は、マスターの足手まといになるために生まれてきました。生み出されました。マスターも、それを肯定しました。私は、役立たずです。一度だって、マスターのお力にはなれませんでした」
「……」
「万全の状態であっても、マスターはもちろんの事、他の十闘士の方々の力に敵いませんでした。頭脳に関しても同様です。精神に至っては、結局、マスターの前で、マスターの望む成果を、最後まで挙げられませんでした」
「……」
「何度も何度もマスターを困らせて、なのに困っているマスターに、微量たりとも貢献できなくて。そのような仕様であったとしても、私は、そういう意味では、キョウヤマ博士が望む以上の成果を挙げていたのでしょう」
「……」
「私なんて、生まれてこなければ良かったんです」
「……」
「いえ。生まれてきた事自体は、私が関与できる事ではありません。なので、訂正します。私なんて、死ねば良かったんです」
「……」
「死ねば良かったんです。生まれた時に生まれた事を呪って死ねば良かった。マスターに忠誠を誓った時にそれ以上マスターに迷惑をかけないように死ねば良かった。セラ ナツミ様に殴られた時に死ねば良かった。ヴァンデモンと戦った時に『ナイトレイド』をくらって死ねば良かった。ビルの壁に身体を打った時に死ねば良かった。ここに来た時に貴女の機嫌を損ねて死ねば良かった。アルボルモンに殺されて死ねば良かった。マスターの命令に逆らって死ねば良かった。ピノッキモンの代わりに貫かれて死ねば良かった。昨日でも――遅くは、ありませんでした。地面に叩き落されて、死ねば、良かったんです」
「……」
「マスターの役に立たない私なんて、死ねば良かったんです!」
「……」
「……」
「……以上、だね」
そう、確認すると。
カンナさんは、コロモンさんを左腕に持ち替えて、
すたすたと、こちらに歩いて来て。
しゃがんで。
「こんの」
ぱあん、と、
「バカたれが!!」
乾いた音が、いっぱいに鳴り響いて。
カンナさんは、物凄い剣幕で、なのにどこか泣きそうな顔で、こちらを睨みつけていて。
大怪我をして、指の無くなっている右手を使ったせいなのか、顔が、余計に歪んでいて。
でも、それ以上に
「アイツが! メルキューレモンが!」
私の、左の頬が
「どんな気持ちで戦いに行ったか、考えもしないで!」
痛い。
「次に軽々しく」
「以降――軽々しく」
これは
「そんな事言ったら」
「そのような発言を」
我慢すべきもの。
「ただじゃおかないからね!?」
「しないように」
我慢すべきもの、なのに――
ああ、
ああ。
マス、ター。
「マスターは」
痛い。
痛いです、マスター。
「マスターは!」
助けて下さい、マスター。
ただでさえ痛いのに――涙が、その上を引っ掻くのです。
「私がどれだけ役に立たなくても、足を引っ張っても! 何があっても一度だって、私の事を叩いたりしませんでした!!」
私だって、そんな貴方が、大好きだったのに。
「貴女の事なんて! 大っ嫌いです!!」
「……それでいいよ」
爆発するみたいに叫んで、そのせいで押し出された涙が、止まらなくて。なのにまだ喉から飛び出す空気が喚き声になって、それをどうにかするために、大声で、泣くしか無くて。
……そんな事に、気を取られ過ぎていて。私はしばらく、私を叩いたばかりの右腕で、カンナさんが私を抱きしめている事になんか、全然、気が付かなくて。
「それでいい。大嫌いなんだから、気兼ねなく、気負いなく、アタシの事を、利用しな」
何を言われているのかも――よく、解りません。
ただ、私は痛い左の頬の事と、マスターが私にそんな思いをさせなかったという『思い出』ばかりを、延々と頭の中で繰り返して。
何でも教えてくれたマスター。
どんな時でも守ってくれたマスター。
本当は、いつも辛そうに、苦しそうにしていて。なのに、私の前では、なるべくそれを見せないようにしていた、マスター。
私、は――
「メルキューレモンが帰ってくるまで、いくらでも、さ」
「……」
「「必ず帰る」って。……アイツの伝言」
「……」
「アイツは」
「嘘は、吐きません。マスターは。……私の方が、知っています。貴女なんかより」
「……そうだね」
「そう、です」
うん。と、カンナさんが頷いたのが判りました。
ああ、マスター。
私は、貴方に
「愛されていたともさ」
突然、私の声が私の喉じゃないところから聞こえて、私は思わず顔を上げました。
目の前の『それ』を確認するまで、一瞬、幻聴でも聞いてしまったのかと思いましたが――見れば、カンナさんも、同じ反応をしていて。
確かに、声を発した存在――デジモンは、そこにいました。
このデジモンを見るのはこれが2回目でしかなく、しかも1度目は主観でしたが、それでも、見間違えようがありません。
長い金髪。巨大な目玉のついた黒い鎧。真っ赤な刀身を持つフランベルジュ――『ブルートエヴォルツィオン』。
身体が少し、透けてはいますが……この、デジモンは――
「ダスクモン……?」
「酷い間抜け面だな。我らの器」
「……こんな風に急に現れたりしたら、誰だってそうなるだろう」
新たに、ダスクモンから発せられているのとは少しだけ調子の違う私の声が耳に届いて。
次の瞬間、狼を思わせる衣装を纏ったデジモンが、同じく少し透けた姿でダスクモンの隣に現れました。
「ヴォルフモン?」
「この姿は1ヶ月ぶりになるな。それから、カンナさんにははじめましてになるだろうか。私は光の闘士・ヴォルフモン。改めて、よろしく」
「貴様こそ、悠長に挨拶などしている場合か。自分の器がこんな阿呆面のままというのは見るに堪えん。さっさと説明をしてやれ」
「……君がするという選択肢は無いのか?」
「私は既に、我らの器が知るべき事は口にした」
「そうかもだけどさ」
「ちょっと。……ちょっと!」
2体の闘士の振舞いについていけなくなったのかもしれません。
カンナさんが私を放して立ち上がって、2体の前に1歩、出ました。
……こうして比べてみると、カンナさんは割合、小さいです。
「どっちでもいいからさっさと状況を説明しな。アンタ達は、ハリちゃんの使ってるヒューマンスピリットの闘士だね?」
「そうだ」
「……。……あ、返事はするけど説明はやっぱり私なのか。……まあ、別に構わないが。……とはいえ、私達の出現以外の情報は、大よそ理解しているだろう、カンナさん」
「?」
「私達が、我らの器。君を介して、エンシェントワイズモンの支配下にあった事。……それから鋼の闘士が、自分を犠牲にエンシェントワイズモンを打ち破った事を」
「……」
自分を、犠牲に。
その言葉に、また、俯きそうになって。
……なのに下げた視界の先に、ブルートエヴォルツィオンの切っ先があって。
「顔を上げろ。我らの器」
「……」
「話はまだ終わっていない。最後まで、聞け」
ダスクモンは、冷たい眼で私を見下ろしています。
だけど。見下すような瞳なのに、どこか――
「話しているのは、私なんだけどな。……鋼の闘士のお蔭で、この世界からエンシェントワイズモンが消えて。私達は、彼の手から解放されたんだ」
そう言って、自分を指し示すヴォルフモン。
彼がストラビモンではなく、本来の光の闘士の姿で現れているのは、そういう訳もある、という事なのでしょうか。
「それだけじゃない。鋼の闘士が同様に姿を消した事で、私達は『十闘士』という枠組みからも、解放された。……十闘士は、デジタルワールドの守護プログラム。デジタルワールドが最悪の事態に陥った場合、全てをリセットする『リブート』システムの部品でもある。10の属性の闘士が全て揃って初めて、私達は、意味を成す存在なんだ」
解放、と、ヴォルフモンは言いました。
少しだけ、口元に微笑を湛えて。
「勝手だよ。彼は。私達はデジタルワールドの守護者なのに……彼は自分自身で、他に守るべき物を見つけてしまった」
勝手、という表現を使った割に、憤りは感じられません。ヴォルフモンの表情は先に示した通り本当に穏やかで、しかし強いて言うのであれば――羨ましそうに、見えました。
器である私を、見下ろし続けたまま。
「しかもその行為が、私達にまで伝播してしまった」
「9体揃って十闘士、なんてバカな事はやれない、って事かい?」
「ふん、馬鹿馬鹿しい例えだが言い得て妙だな。言ってしまえば、それが全てだ」
噛み殺すような笑い声だけは漏らしつつも、全く笑う行為が該当する色を瞳に宿さないまま、カンナさんの言葉を肯定するダスクモン。
やはりその後の言葉を引き継ぐのは、ヴォルフモンでしたが。
「私達は、もはや世界を守るためのプログラムとは言えない。歯車が1つ欠けただけでも十分に、やり直しのための機能とはなれない。依代が必要という点は今までと変わらないけれど――私達は、もうほとんど、ただのデジモンと変わらない存在だと言っても良い」
ただ、彼らの言う事の着地点が、未だに予測できずに、私は
「えっと、それは……つまり……」
答えを、求めようとして
「私達は個人的に貴様に力を貸せるようになったという訳だ。我らの器」
しかしそれを言い出すよりも前に、結論は、ダスクモンが口にしました。
……最も、その意味も、私は当初理解できずにいましたが。
「私、に……?」
「まだ理解しないか。ほとほと呆れるな我らの器」
「……すみません」
思わずまた下げそうになった私の頭を、またしても切っ先で阻止するダスクモン。
兜の下の双眸だけでなく、鎧に取り付けられた目玉まで、呆れと苛立ちを交えて私を睨んでいるように見えます。
「貴様。仮にも我らの器だろう。胸を張れ。情けない態度を曝してくれるな」
無茶苦茶な事ばかり言います。このデジモン。
……ただ、この理不尽そのものな瞳はそれでも、王――『魔王』然とした風格が、漂っていて。
闇の闘士・ダスクモン。
悪としての闇を司る、全身が怨念にも等しいデータで構築された、『支配』の力を持つデジモン。
獣の姿が理性を欠くという点も含めて、もしかしたら、その在り方は本来のヴァンデモンというデジモンにも似通っているのかもしれません。
……でも、私が個人として知っているヴァンデモンは――
「まだ、何も、終わっていないぞ」
――パートナーに似て、優しい、デジモンです。
……と、その時でした。
「「「「ただいま!!」」」」
「!」
重なり合った声に、私とカンナさんは、同時に同じ方向へと振り返りました。
「ゲコ」
「……戻りました……」
その確認に合わせるようにして、ここ最近聞きなれた力強い語尾と、1ヶ月前にも聞いた、顔を真っ赤にしたリューカの消え入るような声が追いかけて来て。
……部屋の前には、4つの影がありました。
カジカPと、オタマモン。そして、リューカと――ヴァンデモン、です。
「お、おか……」
「おかえりなさい」
カンナさんの眼が見開かれたのが判りました。
それにはいつものような快活さは無く、少し舌足らずな印象を与える幼い声音ではありましたが――でも、確かに
「それから、おはヨう。……カンナ」
もしかしたら、この研究所で一番年長者らしく振る舞っていたかもしれない、スカモンそのものの、どこか頼もしい、声でした。
「コロちゃん……!」
「んもう、カンナったら。コロちゃん起きたの、そんなにびっくり?」
「いや、だって」
「でも、コロちゃんにびっくりしてる場合じゃないわヨ、カンナ」
ね? とそれ自体が身体と化している頭を軽く傾けながら、コロモンは、リューカ達を見ました。
リューカは今、部屋の中にいる2体の闘士の姿に呆気に取られていたようですが――それでも、驚きの程度は、当初の私やカンナさんよりも何故かずっと少ないようで、コロモンの視線に気付くなり、こちらに向き直りました。
「カンナ博士。ハリ。……話が、あるんです」
いつもの彼女と、変わりません。
どこかたどたどしく、常に弱々しい印象が付き纏っているにも関わらず、それでもなお、リューカは芯に強いものを宿した瞳をしています。
……生みの親を恐れながらも、私の事を放さないでいてくれたマスターの――人間を模した時の姿を、思わせる様な。
「話?」
「決まってるでしョ?」
また、カンナさんを見上げるコロモン。
その大きな口から、出てきた言葉に――
「コウキちゃんのがんばり……ムダになんか、しないってことヨ」
――心臓が、大きく、どくりと跳ねました。
生きて、いるから。
「まだ何も、終わっていないぞ」
先ほどの台詞を、ダスクモンが繰り返しました。
「君が、望むなら」
そしてやはり、それを、ヴォルフモンが補足します。
「私達は、本当の意味で君の『鎧』になろう」
「!」
『鎧』。
スピリット。
十闘士の、力。
「ただのデジモンに等しい」と言っても、私が纏う『鎧』という名のデジモンになる以上、それは相も変わらず、ユミル進化体です。他の器の方々には常に後れを取っていたとは言っても、それでも少なくとも、人間でいるよりはずっと、強力な。
「……」
私はもう一度、胸元にあるイロニーの盾を、抱え直しました。
盾は何度でも、私の顔を、映します。
きっと、木の闘士の器――ゼペットの遺伝子が、私に使われているのでしょう。そことなく、彼の面影を感じます。
そしてゼペットに似ている以上、少しだけ、マスターにも、私は。
「私は……『前例』です。私という『前例』があったからセラ様はオニスモンに進化し、コラプサモンがその気になった瞬間、『ユミル論』に基づいた世界の滅びが、始まります」
「だから、何だ」
口を開いた私を全員が静かに見守る中で、ダスクモンだけが、私に喰いかかります。
「闇のスピリットをこの私として纏う以上、貴様は『悪』だろう」
「はい」
「今更貴様が何をした所で、今、世界が滅びかけている責任が貴様にもある事に、変わりは無い」
「はい」
「だったら、好きにすればいいだろう」
「……はい」
「お前はどうしたい。鋼の闘士の『後継機(いもうと)』よ」
「兄が笑って帰って来られる未来が欲しいです」
私は、ただ
もう一度、マスターに、会いたい。
「そのために。力が、必要なのだとしたら」
ダスクモンの瞳を、見つめ返しました。
……ずっと、私の『鎧』には違いなかったのに。こうやって目を合わせるのは、初めてです。
あるいは、『鎧』でしかなかったからなのかもしれませんが。
「私に、力を貸して下さい。闇の闘士」
「光の闘士では無く、か?」
「『あなた』はマスターと同じ、盾を持つ闘士ですから」
両腕が赤い波型の刃になっているダスクモンの腕に、盾などもちろん存在しません。
だけど、『闇の闘士』としては――そうでは、ありません。
「闇の闘士。私は確かに、この世界にとっての『悪』です」
「ああ、そうだとも」
「ですが、あなたの『正義』は、どうなのでしょう?」
「……」
沈黙と共に、ただでさえ透けていた筈のダスクモンの身体が、輪郭を失い始めました。
ですがこれは、消滅によるものではありません。
光の闘士が、器の正義を重んじる鎧だとすると
闇の闘士は、自らの正義を器に求める鎧です。
故に、これは――
「……アナタがダスクモンである間に、最後に1つだけ、教えていただけますか?」
「何だ」
「何故、マスターは、私の事を愛していると?」
「決まっている」
貴様が、兄を愛しているからだ。
……そう、私にしか聞こえない程の囁き声が、耳元に響いて。
次の瞬間には、『闇』が私の身体を包んでいました。
しかしそれは、あの蝕むようなフォービドゥンデータの塊ではありません。
例えるのであれば、黒い獅子でしょうか。
猛々しく、しかし静かに佇む、影の獣――そんな印象を受ける『鎧』が、私の元に。
「スピリットエヴォリューション・ユミル」
『進化』をして。
「闇の闘士、レーベモン」
その先に現れた姿の名前を、口にして。
それからすぐに、私はその進化を解除しました。
「……」
もう、私と同じ、私の物では無い闇の闘士の声は、聞こえません。
代わりに解除の直後、流れるようにしてベッドの上にある私のスマホに吸い込まれて行った暗い色の粒子が、液晶画面の下で『闇』の1文字を浮かび上がらせています。
加えて、あの一瞬だけで十分に、私は、今までの進化と、今の進化がまるきり違うものであると、思い知らされて。
「……ふられてしまったかな」
私はスマホから、未だ私達の前に立っているヴォルフモンへと視線を移しました。
以前、ピノッキモンさんに言われた通り、こうやって、選びはしましたが――彼もまた確かに、私を、器としていました。
「今まで、ありがとうございました、光の闘士」
「……」
「私は『闇』を選びましたが……それでも、ストラビモンの時であっても、それこそ光の様に速いアナタの足には、何度も助けられました」
「そうか」
今度は、ヴォルフモンの身体が光に包まれ始めました。
「結末だけは、相変わらず君のデジヴァイスから見届けさせてもらうよ」
「……はい」
「頑張って。闇の器。……いや、鋼の闘士代理、と呼ぶべきかな?」
「それは――私には、過ぎる肩書です。マスターの代わりなど、誰にもなれませんよ」
ヴォルフモンは、ふっと微笑んでから、レーベモンと同じように、再び私のスマホへと姿を消しました。
「……」
最後に。リューカ達ともう一度、向き直るよりも前に。
私は、もう一度だけ、イロニーの盾に視線を落としました。
……それ以上は、何も要りませんでした。
途端に、私に呼応するようにイロニーの盾は光を纏ったかと思うと、収縮して――気が付けば、私の手の平にすっぽりと収まる程のサイズになっていて。
恐らく、マスターが鋼のヒューマンスピリット状態の際の大きさなのでしょう。
私はしっかりと、それを握り締めました。
ああ、こんなに小さいのに――いえ、むしろ、こんなに小さくなったからこそ、はっきりと伝わってくるのかもしれません。
「重い……」
マスター。
マスターは、こんなに重いものを両手に装着した上で、私の手まで、握って下さっていたのですね。
私に、その価値は本当に、有りましたか?
――貴女は、ワタクシの――
「……そうですね」
マスターは、嘘なんて、吐きませんよね。
「遅くなって、すみません」
私は、マスターの真似をしました。
昨日は何故、そう言われたのか、解りませんでした。
そしていつか、私は、同じ台詞を、マスターの口から聞くのでしょう。
「明日目が覚めたら、キョウヤマ コウキとしてのワタクシはもう居ませんし、しばらくは会えません」……マスターは、私にそう言いました。
嘘でも何でも、ありません。
それなら私は、その「しばらく」の間を、我慢してみせます。
もう、自暴自棄になったりなんかしません。約束します。
マスターが私を任せる事にしたカンナさんとは、その……上手くやっていけるかは疑問が残りますが、どうか、それは大目に見て下さい。
「リューカ、聞かせて下さい」
私は振り返りました。
カンナさん。コロモン。カジカP。オタマモン。ヴァンデモン。……そして、リューカ。全員が、私を見ています。
私はマスターの言う「しばらく」を、この人とデジモン達と共に、待つのでしょうね。
その「待つ」時間を始めるために、まずは――
「私が、何をするべきかを」
私は、マスターが守ろうとした世界を、救います。
*
20××年。
『最古の究極体』の手で作り出された私と、彼の存在の力を継いだ鋼の闘士。本来は意味など成さない偽物の繋がりでありながら、それでも私達は、本当に兄妹で――お互いを、愛していたのだと思います。
だから妹は、兄が望むのなら、彼の開いた窓から鳥籠の縁を蹴って、大空にだろうと飛び立って見せるのです。
これは、1体のデジモンによって『前例』となった私が、その全てを覆してでも、兄の帰りを待つ物語です。