空は夕暮れ。
部活動に参加でもしていない限り、大抵の学生が家に帰る頃。
今をときめいているわけでも無い中学生三年生、東雲瑠日は苛立った表情のまま下り道を歩いていた。
「……あぁクソったれ……」
胸中の感情を曝け出すように言葉が漏れる。
彼は、夏という季節が大嫌いだった。
地球温暖化だとか何とか、生まれる前から積み重なっているらしい環境問題の所為か気温は毎年35℃を軽く超え、猛暑に次ぐ猛暑の日々。
それに加えて、学校の授業では別に好きでも無ければ苦手な部類にあたる水泳の授業が、一週間の内にニ回も入っている始末。
学生の中には、日々続く猛暑も相まって殆ど裸に近い状態で涼む事が出来る水泳を楽しんでいる者もいるようだが、瑠日にとって水泳は強制的に恥をかかされる罰ゲーム以外の何者でも無い。
何故なら、彼は幼い頃よりカナヅチなのだから。
ビート板でも使わない限りはマトモに浮く事だって出来ないし、自力でクロールはおろか背泳ぎなんてやろうとした日には鼻にも口にも塩素混じりなプールの水が入り込んで来て溺れかけてしまう。
無論、プライドを捨てれば出来ない事を認める事は簡単だ。
体育教師にお願いでもして、水泳の授業だけは辞退させてもらうとか、ビート板を貸してもらうとか、安全のための妥協案が存在することも解っている。
だが、泳げない事を認めて逃げ出してしまえば、泳ぐ事が出来る同級生達から総勢で笑いものにされるだろう事も、彼は同時に理解していた。
逃げて恥をかくか、逃げずに恥をかくか、意地っ張りな彼には無理だと解っていても後者の道しか選ぶことは出来なかった。
休日に市内のプールに行って練習を行ったりしているものの、未だに上達する兆しは無い。
(そもそも、陸に立って生きるのが人間の当たり前だろ。カエルみたいに平泳ぎ出来るのがそんなにエラいのかよ。なんだってこんな事で馬鹿にされなきゃなんねぇんだよ。勉強の方でなら負けないってのにアイツ等ときたら……)
この日も、頑張って泳いでみせようと足掻いてみたが、駄目だった。
溺れかけたところを優しい体育教師に助けてもらって、その時点で半ば強制的に授業からは抜ける形になってしまった。
次の授業が行われる教室に向かうまでの通路で後方より耳にした生徒のボソボソ声が、彼の脳裏に今でもこびり付いている。
『――ホント、犬みたいだよな、アイツ』
屈辱以外の何でもない言葉だった。
似たような言葉はこれまで何度も聞いた事があったし、反論しようにも必死にプールの中でもがく自分の姿は殆ど犬畜生のそれと変わらなかったのは事実だったし、破れかぶれに暴力で黙らせようとしてもそれはそれで負けた気になるしで、特に表立って反応することはしなかったが。
それでも、聞いてて善い気分のする言葉では無い。
体育教師は泳げなかった自分に対して慰めるように気にするなと言ってくれるが、率直に言って瑠日からすればその言葉さえ自分の惨めさを思い知らされるものでしか無かった。
泳げるようになりたいと思い、小学生の頃より七夕には短冊の願い事にもそう書いたりしていたが、いくら努力してもその願いが現実のものになったことはない。
もういい加減、泳げないことを認めて諦めるべきか。
八月が終わるまであと一週間ほどあるが、残るたった二回の水泳は辞退してしまおうか。
出来ないことを頑張ろうとして惨めになってしまうのなら、出来ることをより一層頑張って胸を張ったほうがいくらか気持ちは楽になるのではないだろうか。
そんな風に、思いを馳せながら歩を進めていた所為だろうか。
ぽすっ、と。
自宅へ向かう回り角の向こう側から歩いてきたのであろう誰かの肩と、正面からぶつかった。
その小さな衝撃に、反射的に後ろへ一歩下がってから、瑠日は相手の姿を見る。
半袖の白いカッターシャツに黒色のズボンを穿き、黒革の鞄らしきものを右手に持った、いかにもサラリーマンやってます的な見た目をした長身の男だった。
「――あ、すいません」
特に走ったりしていたわけではないので特に痛みと言えるものがあったわけではないが、自分の不注意でぶつかってしまったことに負い目でも感じたのか、瑠日はとりあえずの感覚で一礼して謝ってから、男のすぐ横を通り抜けようとする。
「――ふむ、待ってくれ」
が、そこで男の方から呼び止められた。
因縁でもつけられてしまったか、と内心で溜息を漏らす瑠日は意図して無視をしてその場を立ち去ろうとするが、
「君、何か困り事があるようだね?」
その、明らかに確信を持った物言いに、足が止まる。
特に表情を隠す努力などはしていなかったとはいえ、初対面の相手からあっさりと自分の内面に踏み込まれてしまった事実に、少なからず苛立ちを覚えた。
お節介焼きの類か? と疑問を抱きながら、彼は男の方へと振り返ってこう返答した。
「だったら何なんです?」
瑠日の言葉に対して、男は「ふむ」と無表情のまま相槌を打ってから、
「もしかしたら相談に乗れるかもしれない。もし良ければ、話してみてくれないか?」
なんか何処か胡散臭いな、というのが瑠日が男に抱いた二つ目の印象だった。
が、一方で男が聞きたがっている困り事について瑠日は隠そうとも思わなかった。
何故か? 事が物理的な問題である以上、内情を語ったところで何が出来るわけでも無いからだ。
一度男から目線を離し、辺りに男以外の人間の姿が見えないことを確認してから、瑠日は男に関して完結に述べた。
この時期の学校は毎度のように体育の授業で水泳を取り扱っていて、カナヅチの自分には罰ゲーム以外の何者でも無く、事実として今日もクラスの同級生からの屈辱的な言葉を耳にした事を。
出来ない事を頑張って結局恥をかくぐらいなら、いっそ諦めてしまったほうが良いんじゃないかと思い始めていることを。
そうした苛立ち混じりの言葉を吐き出し終えて、どうせ綺麗事か何かでも吐いてくるんだろうと推測しながら、瑠日は目を僅かに細めて男の言葉を待った。
五秒ほどの間を空けて、男はこう切り出した。
「……ふむ。そういう話なら、力になれることがあるな」
「……まさか、泳ぎのコツでも教えるつもりです? そういうのは『出来るヤツ』だから理解出来る事であって、俺みたいな『出来ないヤツ』が聞いて実践したところで才能の無さを思い知るだけですって」
「努力を要する事は間違い無いけど、少なくともコツとかそういう話では無いな。要するに、泳げるようになれば良い、ということだろう? 何、それならば簡単な話だ。渡したいものがあるので、ちょっと付いてきてくれたまえ」
そう言うと、男は瑠日が向かおうとしていた道とは異なる方に向かって歩き出す。
一応付き合うだけ付き合ってみるか――と、疑問を抱きつつも瑠日は男の背を追うことを選んだ。
もし本当に泳げるようになるためのものがあるのなら、という思いも少なからずあったのかもしれない。
およそ十分ほどの時間をかけて、男の足取りに付いていく形で町の中を歩き、やがて彼は一つの小振りな建物の前に辿り着く。
迷い無く辿り着いた店の中に入っていく男から一度視線を逸らし、瑠日は建物の扉の前のすぐ上を仰ぎ見る。
恐らくは建物の名前であろうアルファベットの羅列が指し示す言葉は、
(……エデンズ・ドア?)
エデンズ・ドア――直訳するに、楽園の扉。
天国だの地獄だの、そういった壮大なものを名前に取り入れている店はそう珍しくも無いが、楽園という言葉が使われた店についてはあまり見ないし聞いた覚えも無い。
窓ガラス越しに覗き見える内装から察するに、少なくともサロンなどの類ではなく、ホームセンターのように生活用品の類を取り扱っているお店のように見えるが……?
(……まぁ、とりあえず裏路地とかそういうんじゃないみたいだし、別に気にすることでも無いか)
数秒だけ、疑問に立ち止まってから。
案内してくれた男を待たせるのも悪いと思い、頭の中の疑問を切り捨てて店の中へと入っていく瑠日。
外側から覗き見た時点である程度の見知る事が出来ていたが、内装はそれなりに整っている。
衣装から見てサラリーマンかと思いきや、どうやら店のセールスマン――もしくは店長――の類だったらしい案内人の男は、店に入って左手側にある(恐らくはレジカウンターであろう)台を間に挟む形で瑠日の事を待っていたらしく、瑠日が店の中に入るとこんな言葉を漏らしていた。
「そういうわけで、ようこそ。お客様を楽園へとお届けする店、エデンズ・ドアに」
「……まさかですけど、毎回客にそんな台詞吐いてるわけじゃないですよね」
「え、何か問題があるのかな? 我ながら良い掴みが出来る台詞だと思っていたんだが」
瑠日の反応が予想外だったのか、真面目な声でそう答える制服の男。
胡散臭い雰囲気が鼻についていたが、実は単純に馬鹿なのだろうか? そう思うと、自分に投げ掛けてきた言葉も一応は全て善意によるものだったのかもしれないと瑠日は思った。
とはいえ、男に追従する形でこの店にやってきた理由を忘れてはならない。
ここがどんな店であるかは知らないが、男は確かに言ったのだ――泳げるようになりたいと思う瑠日に対して、渡したいものがあると。
色々気になる事はあるが、まずはそこを切り出さないと話が始まらない。
「で、俺に渡したいものがあるって話でしたけど、それって? なんか見渡す限り入浴剤やらお香やらが置いてますけど、まさかああいうもので泳げるようになるなんて話じゃないですよね」
「いや、そういう話だが」
「……は?」
さも当然のように返されてしまった。
やっぱり単純に馬鹿なんじゃなかろうか? と憐れみの視線を向ける瑠日に構わず、男は後方に見える棚から何やら海の景色が表面に描かれた四角い紙の小箱を取り出すと、話を先に進めてしまう。
「君に渡したいと言ったのは、この入浴剤だよ。浸かった人間を海へと誘う、この時期イチオシのうちの商品の一つ。品名で『深き蒼の導き手《ディープ・セイヴァー》』と呼んでるものだ」
「もう全体的に胡散臭いし馬鹿馬鹿しいし帰って良いですか」
「何故!? そんなに変な名前してるかい!? というか最近の若い子は全体的にドライだね!?」
「夏ですから。こんなクソ暑いんで乾燥してる人が殆どなんじゃないですかね」
「まぁまぁ待って。待ちたまえよ若き少年。効力は確かなんだ。実際これを使った人間は、もれなく泳げるようになっている。現代を生きる若い子の悩みを解決するためだ、タダであげるからちょっと待ちたまえよ!!」
「……はあ……」
何処か必死な男の訴えに、瑠日は溜息を漏らす。
何だかんだ期待外れにがっくりと肩を落とし、踵を返して立ち去ろうとまでしていた彼は、仕方なくといった調子で男の方へと振り返るとこんな問いを出した。
「……本当にこんなもんで泳げるようになるんですか? 正直信じられないです。変な薬物とか入ってませんよね?」
「そういう事を怪しむのなら、入る前に何か入れてみて、それで確かめてみれば良いよ。少なくともこれは、強酸のプールを作って人間の体を溶かし尽くすとかそういう物騒な代物じゃない。この店の名前が指し示すように、楽園への扉を開けるものさ」
「…………」
さも当然のように、それも悪意無き言葉で訴えられ続けている内に、それを疑う自分自身の胸には何処か罪悪感が宿り始めていた。
実際に泳げるようになるかどうかはさておいて、善意でもって自分の助けになろうとしてくれて、そのための役に立つと(少なくとも渡そうとしている男自身は)信じているのであろう代物を無料で与えてくれるというのに、これ以上疑って善意を無碍にしてしまうのは申し訳が無い、と。
故に、観念するように瑠日は男に対してこう答えた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん、毎度あり。君が楽園に辿り着けることを信じているよ」
「……ちょっと大袈裟過ぎません?」
「いや、適切な言葉だと思っているのだけど?」
物は試しだ。
そう内心で付け加えて、瑠日は男から入浴剤の入った紙の箱を受け取るのだった。
そうした事があって、夜中。
無事にマンションの四階にある自宅へと帰る事が出来て、夕食まで食べ終えた瑠日は、何処の家にもあるような一人の人間の頭から足先までを入れるのが精一杯といった大きさのユニットバスの前に立っていた。
既に自分以外の家族は全員入り終えており、風呂に入る必要があるのは瑠日のみとなっている。
実のところ、風呂には入ろうと思えば家族の誰よりも先に入ることが出来るだけの余地があったのだが、今回ばかりは事情が事情だったため順番を先送りにしたのだ。
見知らぬ店で、見知らぬ男から善意でもって無料で譲渡してくれた入浴剤。
それはあくまでも自分に対して与えられたものであって、別の誰かに対して与えられたものではない。
であればこそ、未知の入浴剤を用いた風呂を堪能するのは自分だけでなければならない――あの男が実際にそう語ったわけでは無いのだが、瑠日は何となくそう感じていた。
(……さて、実際どんな感じになるのやら……)
これから風呂に入る以上当然だが、現在の瑠日は一糸纏わぬ姿となっている。
その右手には紙の箱の中に入っていた蒼色の固形物――即ち、男曰く『深き蒼の導き手《ディープ・セイヴァー》』なる名前らしい入浴剤が掴まれていた。
既に風呂場の追い炊きは済み、十代前半の男の体を首下まで満たすだけのお湯も残っている。
準備は終わった。
であれば、後は楽しむのみ。
お湯の中に右手で掴んでいた入浴剤を放り込み、まずは湯の変化を見た。
水らしい透明な色の泉は見る見る内に海を想わせる蒼色に染まっていき、湯気からは爽やかな香りが沸き立ってくる。
ある程度の時間をかけて、湯の中に微かに見える固形物がその姿を消していく。
無事、湯の中に溶けきったようだ。
念のため風呂桶を湯船の上に乗せてみるが、特に何らかの変化が起きるわけでも無く、右手を少しずつ湯船の中に突っ込んでみても痛みなどが伝わってくる事は無い。
目の前に存在するのが、ただただ蒼く気持ちの良い湯気を吐き出すだけの、何の変哲も無い風呂である事を、理解する。
(……まぁ、最低でもストレス解消にはなるわな。間違いなく……)
風呂桶を湯船から風呂場の床の上に戻して。
少なからず、入浴剤をくれた制服の男に感謝しながら。
彼は湯船に足先を突っ込ませ、そのままゆっくりとした挙動で肩までを体を浸からせていく。
直後に、彼の全身に爽やかな刺激が生じた。
まるで氷で冷やしたサイダーを喉に流し込んだ時のような、電気のそれにも似ていながら確かな快感を覚える刺激だ。
とても気持ちが良いものだと、素直にそう思った。
(良いもの貰ったなぁ)
気分が乗ったのか頭までを湯船に沈みこませ、体育座りのような姿勢から一変、顔だけを出して足を限界まで伸ばし、さながら寝床にでも着くような姿勢になって爽快感を堪能する瑠日。
夏の日差しが与えてくる暑さは今でも嫌いなままだが、一方でこのような風呂の暑さに関しては不快感を覚えることが無い。
温度だけで言えば風呂の方が基本的に上回るのに、不思議なものである――そんな思考をふとして抱ける程度には、精神的にも余裕が生まれつつあった。
体の奥の奥にまで浸透していく刺激の波が、彼の心身を解きほぐす。
気を抜くとそのまま眠ってしまいそうなほどに、彼の表情は安息に満ちたものだった。
ふと、眠りから覚めるようにして風呂の内部に備え付けられた四つほどのスイッチが設けられた機械の液晶画面――に表記されている電子時計の時刻――を見てみれば、湯船に浸かり始めてから30分以上も経っていた事に気付き、彼は少し驚いたような表情を浮かべた。
まだ髪や体を洗ったりもしていないのに、随分と浸かりきりになってしまったな、と自分自身の事ながら呆れ返ってしまう瑠日。
(そろそろ洗うか)
そんな風に思い、
寝そべった状態のままユニットバスの淵に手を伸ばそうとした、
その時だった。
ふと、ジジジジジ!! という、ノイズ染みた音が耳を打った。
耳は頭と同じく湯船に浸かっていて、聞こえるにしてもくぐもった音しか聞こえないはずなのに。
ぼんやりとした思考の中に小さな疑問が生じる。
入浴剤の中に含まれているのであろう炭酸ガスか何かの影響だろうか、と彼はぼんやりとした思考のまま答えを導き出そうとした。
が、直後に――彼は、その視線をユニットバスの縁に伸ばした自分の右腕を見て、目を見開いた。
その視界に飛び込んで来た情報は、僅か一瞬の内に瑠日がそれまで抱いていた幸福感や満足感を打ち消し、まるで夢から覚めるようにぼんやりとした思考を覚醒させた。
(――な……っ!?)
耳障りな雑音が耳の奥で反響し続ける中、彼の視界に飛び込んできたもの。
それは、まるで電波障害の起きたテレビ番組の画面のように、その輪郭を歪ませた自らの右腕だった。
性質の悪い幻覚か何かかと思い、何度もまばたきをしてみるが、視界に飛び込んでくる情報は全く変わらない。
思わず、視線を動かして湯船に浸かった自分の下半身の方を確認してみれば、そちらの方も右腕と同じくその輪郭を電波環境の悪い放送画面のように歪ませられた状態にあった。
この分だと、全身がノイズ染みた状態となって輪郭を歪ませられた状態に陥っているのだろう。
痛みの感覚は、無かった。
その事実が、あまりにも不気味に思えた。
あまりの安息に、あまりの充実に、意識を蕩けさせている内――その、いつの間に、このような事になってしまったというのか。
あまりに現実離れした、いっそ異変と言っても良いような状況に、彼の思考は混乱していく。
だが、異変はそこで終わりではなかった。
むしろ、ここからが本番だったのだろう。
全身がノイズまみれになった瑠日が、どう考えても異変の原因である風呂から抜け出すため、足を曲げて立ち上がろうとした直後の事だった。
寝そべった姿勢になっていた彼の顔までが、唐突に彼の意思に反して湯船の中に深く沈みこんだ。
(が……ばっ!? うごぁっ……!?)
予想だにしなかった出来事を前に、事前に息を吸い込んでおく事など出来ず、鼻と口の中に蒼い湯が入り込んでいく。
気付けば、ユニットバスの『底』から尻越しに伝わっていた硬質な触覚が消えている。
まるで、根本的に『底』と呼べるものが無くなってしまってしまったかのように。
この家はマンションの四階にあり、仮に真下に落下したとしても行き先は三階にある別の誰かの家の中となる――なんて当たり前の発想など、現実離れした現象の前では浮かべることさえ出来ない。
まるで栓を抜いたプールの中のように、ある一つの『穴』に向かって湯船が流れて行っているのだ――無論、その中に浸かっていた東雲瑠日の体を『流れ』に巻き込みながら。
今となってはしがみ付くという表現の方が正しい、ユニットバスの縁を今も尚掴む右手から、少しずつ力が抜けていく。
力を入れようと命令を送る頭――というか脳の方が、酸素の急激な不足によってその機能を閉ざされつつあるからだ。
(な……ん、で……っ)
浮かび上がる思考は、何故こんな事になってしまったのかという事に対する疑問ばかり。
しかし、やがてそういった思考も長くは続かない。
やがて眠りに着くように、蒼き湯に溺れた彼の意識は暗く閉じていく。
ユニットバスの縁にしがみ付いていた右手から力が抜け、彼の体がユニットバスの『底』とは違う、別のもっと深い何かに向かって沈み込んでいく。
そうして、やがて。
渦を巻いた蒼き湯は、何処かに向かって流れて行き、そして消えた。
後に残ったのは、栓を抜いていないにも関わらず湯船も無く、それでいて湿り気を残した不自然なユニットバス。
東雲瑠日の姿など、何処にも見当たらなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
水色に輝く、空のような色の海の中を、一糸纏わぬ全身がノイズまみれになっている少年――東雲瑠日は漂っていた。
既にその意識は閉じられており、一糸纏わぬ四肢を力無く下げているその姿は溺死者のそれと相違無い。
事実、現実的に考えれば、彼はとっくに死んでいると言っても過言では無い状態にある。
口から肺へと酸素が供給されなくなった事で、全身に血を巡らせる役割を担う心臓はその役割を果たせず、他の臓器と同じくして脳に血が巡ることは無くなり、思考は止まっているのだから。
その五体は、今でこそ傷一つ無い健康そのものといった姿のままでいられているが、やがて少しずつ腐敗し醜悪な変貌を遂げることだろう。
そう、こうなるまでの成り行きが、本当の本当に人間が知る当たり前の現実に乗っ取ったものであったのならば。
ドグン、と。
唐突に、ノイズまみれの少年の体の内で何かが脈を打った。
(――――――)
脳も心臓も停止しているはずだった。
少年の体から酸素と呼べるものはとっくに消失していて、少年の意識を繋ぎ留め、体を動かすためのものは何も無いはずだった。
にも関わらず、少年の体は医療的な直流通電――通称でカウンターショックと呼ぶそれでも受けたかのように、胴部を中心に断続的に鼓動している。
脈打たせ、鼓動させるものが、少年の内に確かに存在していた。
それは血液でも臓器でも無く、生き物であれば必ずと言って良いレベルで体の中に存在する、生体電気と呼ばれるもの。
一説においては魂と呼ばれるものの正体だとされるそれは、意識を失った少年の体の中を不規則に巡り続けている。
臓器の一切が機能しなくなった、最早死体と大差無い体に対して、何かを求めるように。
体の中を巡り続けるそれが訴えているのは、少年自身が抱いていた現在に至るまで尚抱き続けていた願いそのものだった。
水の中で泳げるようになりたい。
もう、惨めに格好悪く溺れたりしたくない。
出来ない事を、出来るようになるまで、諦めたくない。
そんな、他人からすれば大した事の無いような願いが、少年の体の内で生き続けていた。
少年の体に生じていたノイズもまた、少年の脈動と共にその規模を増していく。
何処か痩せ細った印象のある少年の体の輪郭が、見る見る内に歪んでいく。
そして、ある時。
見えない何かに促される形で、少年の体は急激に変化を始めた。
溺れ、閉じる事も出来ぬまま開きっ放しになっていたその口と鼻を介して、少年の体の中に何かが取り込まれていく。
取り込んでいるものは当然、少年を取り巻く環境――即ち、空色に輝きし海そのもの。
「――――」
少年の体には元々大量の水が入り込んでおり、輝く海水を受け入れるだけの容量は残されていないはずだった。
だが、事実から言って、少年の体からは海水が漏れ出たりする事は無かった。
むしろ、より多くの海水を受け入れるためにか、その体がどんどん風船のように膨張していく。
その腹が、四肢が、首が、頭部が――そうした少年を形作っていたものが全て、まるで骨肉を失ったかのように、その境界線を失っていく。
確かに人間の体はその半分以上を水によって構成されているが、現実の話としてただ水を飲んだだけでこのように際限無く膨張したりはしない。
現状に至るまでの出来事からして現実離れの連続だったが、あるいはその結果として既に少年自身の体も人間が識る『当たり前』から乖離し始めていたのかもしれない。
いつの間にか、開きっ放しの口からは女性と愛を以って触れ合う唇も食物を租借し堪能する歯も舌も見えなくなり、口はただただ海水を取り込むためだけの窓口でしかなくなっている。
もはや少年の体は、二本の足で大地に立ち二本の腕で数多の事を行いその口で意味ある言語を介する知的生命体のそれではなく、ただひたすらに膨張し続けながら輝く海水を取り込み受け入れるだけのモノと化していた。
どんどん、人間としてありふれていたものが体表より失われていく。
内側より際限無く膨張していく肉体に呑み込まれるような形で、目や耳といった周りの世界を観測するための部位は外側から観測出来なくなる。
海水を取り込む窓口は『口』だけあれば良いのか、鼻もまた目や耳と同じくその形を失い、二つあった小さな穴も押し潰されるようにして閉じられた。
体内より不要となったものを排出するために存在する、生き物であれば誰もが有していたであろう器官もまた呑まれ、その痕跡さえ見えなくなる。
頭に生えていた日本人固有の黒髪や、小麦色の皮膚に張り巡らされていた体毛は、膨張していく肉体を彩る模様でしかなくなっていた。
毛以外のほぼ全てを染め上げていた小麦のような肌の色もまた、その体積を圧倒的に上回る量の海水を受け入れ続けていく内に、その色彩を現在進行形で取り込んでいる海水と似た蒼色と水色の縞模様に染め上げられていく。
ある種の限界に達したのか、あるいはもう十分だと体を動かす『何か』は判断したのか、開きっ放しだった海水の窓口たる『口』は静かに閉じられ、体の内側と外側は完全に断絶される。
そして、人間としての全てを放棄するに等しい変化の極めつけとして、風船のように肥大化しながらも心臓のように脈動していた肌から弾力が失われ、その動きを完全に止める。
そうして少年は、とても大きく丸い一塊の、蒼と水色の縞模様に彩られた物体と成り果てた。
見るからに中身が詰まってそうなそれは、見方を変えればある種の卵のように想えたかもしれない。
だが、目に見えない海の流れに逆らうことも無く、言葉の一つも介さず不動のまま漂うだけのそれは、意思持つ生き物ではなく物言わぬ物体にしか見えない。
仮に生き物であったとしても、それは間違い無く人間と呼べるモノでは無くなっている。
やがて。
一時間か、一日か、一週間か、あるいは一年か――何にしても短くはない時間が過ぎた頃。
何処までも青く蒼く碧い景色の広がる世界の中を漂う、東雲瑠日と呼ばれていた少年の成り果てし縞模様の卵が、小刻みに振動し始めた。
直後に、ピシリという音が海中であるにも関わらず強く響く。
見る見る内に、空の蒼の色を宿した丸い物体の表面に、止め処なく亀裂が生じて。
次の瞬間、縞模様の卵はその内側から加えられた力に押し出されるようにして砕け散った。
周囲に散らばった殻は、その役目を終えたと言わんばかりに、音も無く泡のようになって消えていく。
そして、
「――――」
縞模様の卵の内側から現れたのは、青緑色の鱗を全身に宿し、首下から尾までに白い蛇腹を生じさせた、巨大な蛇のような姿をした怪物だった。
長く伸びた体に四肢と呼べるものは何処にも存在せず、特徴と呼べるものにしても泳ぎを制御するための胸びれと、赤色を宿した葉っぱのような尾びれ、そして頭部を護る黄色い兜のような形の甲殻ぐらい。
兜のような殻の隙間から覗き見えるその目も、辺りの景色と似てか透き通った水色になっていて、瞳は捕食者のそれのように縦に割れている。
卵の中にて生じたためか渦巻きのような体勢になっていた大蛇は、開放感に浸るようにその体を伸ばすと、直後にその身を上下にくねらせ始める。
すると、見る見る内にその体は前方へと進み出す。
明らかに水中という環境に対して順応出来ており、産声を上げて間も無いにも関わらず、体の動かし方を理解しているかのような自然な素振りだった。
動作の根幹にあるものは、知性かあるいは本能か。
怪物の姿とその動作に、東雲瑠日と呼ばれていた少年の面影など何処にも見当たらないが、心なしか大蛇の怪物の表情は何処か安らかだった。
大蛇はゆっくりと、それでいて確実に、海の中を泳ぎ進んでいく。
元居た位置から見て、周囲の景色と判別が付かなくなるほどに、遠く深い蒼の世界へと。
かくして、泳げない事実に劣等感を抱いていた少年は、泳ぐ事が出来るために必要なものを手に入れ、劣等感や苦痛とは無縁の世界にその全てを溶かしていくのだった。
めでたしめでたし。
感想を書かせて頂くのは初めてになるかもしれませんので、こちらでは初めまして、夏P(ナッピー)です。
濃厚な入浴シーンの描写でホアーとなってたら一気に場面転換してしまって更なるホアー。女性と愛を以って触れ合ったことあんのかよ。いやまあ作者様的にもこうなるのが当たり前なのか……? 最後の描写は旧ハガレンアニメで門を通ったエンヴィーが竜になって飛んでいく姿を思い出させました。
このサラリーマン氏には喪黒福造感は無かったのでドーンは来ませんでしたが、これ次々とデジモン化が進んでいずれ電脳探偵またはフーディエのモブ顔が調査に来る奴ですね。というか、デジモン化(いやデジタマ化か?)の描写が詳細かつ濃密で凄い! これはいずれ参考にさせて頂きたい!
簡単ではございますが、感想とさせて頂きます。