2話
「……猟師様、杭様。もうお帰りになられたのですか」
ただいま帰りました、と食堂の扉を開けた女とその後ろに居る少年を迎えたのは、肉と野菜を煮込む胃を刺激する匂いと、おたまを片手に硬直して驚きを示す、白いエプロン姿の赤ずきんで。
数秒後、女達に向けていた首に合わせるようにして振り返った赤ずきんは、がしゃんがしゃんと音を立てながら彼女の方へと走ってきた。
「あああ……申し訳ありません猟師様。今夜の夕食にはシチューを作っているのですが、まだなのです。完成にはまだかかってしまうのです。お腹を空かせた猟師様にすぐにごはんをお出しできないだなんて、赤ずきんはなんてひどい家政婦なのでしょう。ああ、お恥ずかしい、お恥ずかしい……」
「いやいや赤ずきんちゃん。悪いのは「多分遅くなる」等と言っておきながら即帰宅したわたくしの方なので、どうか気を病まないでください。大丈夫です、まだお腹空いてません。赤ずきんちゃんお手製のシチューなら1時間だろうが2時間だろうが、なんなら1週間後だろうが完成を待ちますので、どうぞ調理に戻ってください。というか、無理ですし。この状態で、食事」
中を開けば基本的にはがらんどうであり、その上死後は細やかな粒となって消え去る『怪物』達だが、何故か斬れば体液が噴き出す個体が少なからず存在している。
衣服等に付着した分は対象が死亡しようともそのままで、おまけにあの地形である。
女も杭も、そして彼女達の背後で蒼い顔をしている、どうにかこうにか女から見捨てられずに済んだ少年も、『怪物』の体液の上から砂を被ってその上からさらに体液を浴びての惨たらしいミルフィーユが服や皮膚、髪の上で形成されていて、まともな神経をしていればとても耐えられないような有様であった。
流石の女もごはんにするか、お風呂にするか、赤ずきんかと聞かれれば、赤ずきんと答えかけて、しかし彼女を汚す事を気にしてとりあえずは入浴を選択するような心理状態である。
そして赤ずきんは自分の需要など確認すらせず「ああ、ごめんなさい。お風呂ですよね。洗ってはあるのでお湯を入れてきます」と慌ただしく食堂を飛び出していった。
心なしか寂しそうな女の傍ら、「急がなくていいよ~」と呼びかける杭だったが、赤ずきんの背中は曲がり角に消えてすぐに見えなくなった。
「……ま、わたくし達も風呂場に行きましょう。お湯は身体なり洗っている間に溜まるでしょう」
「ぼくは浸かる必要無いしね~」
「が、その前に」
くるりと少年の方へ振り返る女。その目つきは、若干冷たい。
「イケメンの坊や。貴方さっき、赤ずきんちゃんの顔を見て息を飲みましたね?」
「え、あ……」
口調こそ変わらないが、赤ずきんの前とは打って変わって明らかに殺気立っている女を直視できずに、少年は視線を泳がせる。女は自分を抑え込むようにふう、と小さく息を吐き、杭の先端を少年に向けて何度か軽く持ち上げながら
「無理も無いのは解ります。頭では解っています。ですが、次にやったら殺します」
と、ほとんど独り言のように囁いた。
少年は女を追いかけながら彼女が『宿』に戻るまでに十体近くの『怪物』を殺すところを見ていたが、明確な殺意を向けた存在は今、この瞬間の自身だけしかいない。
一瞬にして肌が泡立ち、目に涙が溜まる中、少年は必死の形相で何度も何度も頷いた。
確かに目の前の女に比べれば所々筋繊維が剥き出しになっている、女性の声で喋るアンドロイドなど危害を加えてこない限りは本当に可愛らしいもので、赤ずきんと呼ばれた『怪物』を二度と怖がりはしないだろうと、彼は心の底から確信するのだった。
と、流石に少年を襲う吐き気を伴う程の恐怖心は感じ取れたらしい。特にフォローにはなってはいないが「ま~ぼくと赤ずきん関連じゃなきゃ狩人さんは怒らないから~、大丈夫だよ~」と少年を励ます杭。
何が大丈夫なのか少年にはさっぱりだったが、女の方は言いたい事を言って気持ちが落ち着いたらしい。「杭ちゃんの言う通りで、そういう事です」と殺気を放っていた事自体が嘘のように振る舞ってから、赤ずきんの走っていった通路を辿るように進んでいく。
やや釈然としないまま、少年もその後を追った。
しばらく歩いて、女は毎朝(今日は昼だったが)食事の前に訪れる洗面所の前で足を止め、既に開いている扉から中を覗き込む。
奥が脱衣所に、更に奥が浴場になっているその空間では、赤ずきんがせっせとタオルを用意していて。
「赤ずきんちゃん」
浴槽に流し込まれるお湯の音にかき消されない程度の声量でかけられた女の声に、お湯の音にかき消される程度の驚きの声を上げてから振り返る赤ずきん。
少年は、今度は息を飲まなかった。
「お湯の支度をしてくれているならあとはこっちでやりますから、火の元の方をお願いします」
「あ、はい。了解しました。……あ」
と、ここでようやく、赤ずきんは少年の存在に気付いたらしい。碧い目と半ば飛び出た目玉が平行線を描くと、赤ずきんは不思議そうに首を傾けた。
「貴方様は……?」
そしてハッとしたかのように口元に手を当て
「もしや、レンタルパーク様?」
と、呟いた。
「へ?」
「サンタクロースですか赤ずきんちゃん。サンタクロースですよね赤ずきんちゃん? 何ですかレンタルパークって。動物園貸し切りとかそんな感じですか。無茶苦茶楽しそうじゃないですか。……しかし残念。申し訳ありませんが、彼はサンタクロースではありません。彼は……そうですね、客人といったところでしょうか」
「狩人さんは~「イケメンの坊や」って呼んでるよ~」
「お客様」
赤ずきんは少年に向けて、丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい、気付くのが遅れてしまって。赤ずきんは赤ずきんといって、猟師様と杭様の『宿』で家政婦をしているモノです。どうかお見知りおきを、イケメンの坊や様」
「っ……な、なあ」
流石に呼び名として「イケメンの坊や」が定着する事は羞恥心が許さなかったようだ。顔を真っ赤にしつつ、少年は恐る恐る手を上げる。
「どうしたの~?」
「イケメンの坊やはやめてくれよ。俺には――」
言いかけて、いったん口をつぐみ、一瞬の間を置いてから
「――サリエラ。俺は、サリエラって名前なんだ」
少年はそう、名乗った。
と、女が首をかしげる。自分でも違和感を感じるような名乗りを女が不自然に思ったのかと少年――サリエラは身構えたが、どうやら、そうではないらしい。
「サリエラ。……塩入れ(サリエラ)? はあ、変わった名前ですね。まあ日本と西洋では塩観が違いますから、そういうのも有りなんでしょうが。それともご両親が彫刻好きだとか?」
女が疑問に思ったのはサリエラの名乗り方ではなく、名前そのものだったようだ。妙な疑念を抱かれなかったことに安堵するサリエラだったが、その一方で、女がサリエラという名前の意味をすぐに理解したことに、少なからず驚いた。
「えっと……イタリア語は解るのか?」
「いえ全然。ただ同名の美術品について聞いた事があるだけです。『彫刻界のモナ・リザ』とかなんとか。作者の名前は長いので覚えていませんが、ただの調味料入れが王侯貴族の持ち物になっただけであんなにゴージャスにされていると思うと、ほら、面白おかしいじゃないですか。そういうの、割と好きなんですよ」
「っていうか~、サリエラはイタリアの人なの~?」
ここぞとばかりにこくり、と頷くサリエラ。
「フランスの人じゃないんだね~」と、杭は女の勘違いを指摘する。芸術の話をしてややご満悦な女だったが、それには若干バツが悪そうに肩をすくめ、「わたくしもまだまだイケメンに関する見識が足りていなかったようですね」と反省らしきものを態度に示すのだった。
少しばかりの気まずさを隠すように軽く咳払いを挟み、女は改めて、赤ずきんの方へと向き直る。
「というわけで赤ずきんちゃん。このイケメンの坊やはサリエラというそうです」
「りょ、了解いたしました」
新たに名前を教えられた赤ずきんは再び視線を女からサリエラへと移し、もう一度ぺこりと頭を下げると
「どうぞよろしくお願いします、サリエリ様」
当たり前のように名前を間違えた。
「……」
名乗ったばかりの名前を当然のように間違えられて言葉を失うサリエラ。訂正を、と数秒の後、なんとか喉の奥からそれが出かかったのだが、
「本当に惜しいですが、それだとタイトル的にモーツァルトが主人公だと思われかねない映画の主人公になりますね。実際の彼は自分がモーツァルト殺しの犯人だと噂されていた事にかなり気に病んでいたとどこかで聞きましたけれども。……まあ、挨拶は後で改めて場を設けますので、赤ずきんちゃん、そろそろ煮込みかけのシチューに灰汁が浮いているのでは?」
「はっ。……赤ずきんはまたうっかりしていました。行ってまいります、猟師様。必ずや美味しいシチューにいたしますので、お手数ですが、こちらの事はお任せします」
「はい、大丈夫ですよ」
準備したタオルだけは脱衣所に置いて、赤ずきんは再び焦った様子で走り出す。……が、洗面所を出る前にサリエラの前で一瞬足を止め
「それでは、また後程。失礼いたしますサメジマ様」
そう会釈してから走り去っていった。
「え、えええ……」
「あれは嫌な事件でしたね」
「いや、何が」
「真実はさて置き、とりあえず名前の間違いについては気にしないでください。赤ずきんちゃんは……簡単に言うと、人の名前を正確に覚えられないのですよ」
女が妙な間を挟んだせいで余計に釈然としないサリエラだったが、「赤ずきんが関係する事だと女は怒る」という情報は既にインプット済みである。不満や疑惑は口にせず、代わりに女の説明に対しても了承の意を表しはしなかった。
最も女の方も赤ずきんが青年の名前を間違えた時、言葉を発するのは少年より早かったとはいえ僅かな沈黙を保っていたのだが――サリエラは、その事には気づいていない。
「まあ先ほども言ったように挨拶に関しては、そうですね。食事の時にでも改めて行いましょうか。とりあえず、まずは風呂です」
そう言って、女は作業着のジッパーを下ろし、杭を脇に置くと袖から腕を抜いた。途端、服に入り込んでいたらしい砂が音を立てて床へと零れ落ちる。
「あ~。後で掃除しないとだね~」
「服も一度風呂場で洗った方がいいでしょう。……詰まりませんよね? 排水溝」
「ここで少しはたいといたほうがいいかもね~。どうせ掃除するんだし~」
「ちょ、ちょっと!」
女がインナーの裾に手をかけた瞬間、赤ずきんの事でもやもやしていたサリエラの思考が一気に切り替わった。
何にかというと、まあ、青少年として当然の恥じらいに、である。
「な、何してんの!?」
「何って、服を脱いでいます」
「あ、もしかしてサリエラは~、服を着たままシャワー浴びた方が良いって言いたいんじゃない~?」
「ああ成程。これだけ汚れていたら、風呂場である程度流してから脱いだ方が少し手間を省けますか。……まあ、やはり詰まるのが心配なのと後で脱ぎにくいですし、わたくしはここで。貴方は好きにしてください」
「じゃなくて!」
青くなったり、赤くなったりとは少し前に杭がサリエラを指して言ったことだが、今回の彼の顔は耳まで真っ赤に染まり、見た目通りの熱を帯びている。
「? じゃなくて?」
「いや、だって……俺は男で、えっと……あんたは女で、その、その……」
恥ずかしい、と言う事さえ恥ずかしいようだ。まだ露出自体は作業着着用時と大差ない女の身体の線に対してまで目が泳ぎ始めている。
一応、流石に女も少年の心情を読み取ったらしい。
「大丈夫ですよ、杭ちゃんも性格上は男の子ですし。わたくしは気にしません」
「おっ、俺が気になるんだよ!」
読み取れただけで、気遣いはズレていたが。
「もういいよ! 俺は後で入るから!」
「そうなんですか? どうせなので風呂の中で色々お話しようと思っていたのですが。……いやしかし、早く洗っておかないと髪の毛とか大変なことになりますよ。せっかく綺麗な髪をしているのに、それはもったいない」
「俺の髪なんかどうでもいいよ」
「わたくしが気になります」
「なんでそっちは気にして自分の裸は気にしないの!?」
「んー……強いて言うなら、繁殖能力が無いからですかね? 異性に女性的だと思われる事も、思われない事も、もはやどうでも良い身なので」
とにかく自分は恥ずかしいのだとどうにかこうにか女に伝えようとしていたサリエラも、彼女の返答には思わず閉口する。
女の機嫌云々の話では無く、彼を構成してきたこれまでの一般常識が、サリエラに言葉を返させるのを拒ませた。
だというのに、女の方は事も無げに言う。
「なので、貴方を散々イケメンと呼称しているものの、男性的魅力を感じているわけではないので安心してください。色んな意味で、取って食ったりはしませんから」
本当に、何の感情も籠っていない言葉だった。
例えばその日、その時の天気を述べているかのような、ただただ事実だけを語った言葉だった。
青年は、そんな時に用意できる「常識」など知らない。
「……なんか、ごめん」
考えても考えても、出てくるのは、せいぜいが何に対してかも解らない謝罪の言葉で。
そして当然、女はサリエラの考えていることなど気にしない。
気にしないが、その謝罪には反応した。
「ふむ。ようやく解ってくれましたか。では一緒にお風呂に入りましょう」
「なんでそうなったの!?」
「? その「ごめん」というのは、わたくしとのお風呂が嫌だと駄々をこねた事に対してでは無いのですか?」
「もう一回言わせてもらうけど、なんでそうなったの!」
首をかしげる女。「もういいよ……入ればいいんでしょ……」と顔を覆うしかできないサリエラ。脇に置かれた杭だけが、「狩人さん以外とお風呂だなんて~、初めてだね~」と妙に楽しそうだった。
第2話あとがき
~サリエラの名前が決まるまで~
数年前の『0426』原作執筆中快晴「こう……イケメンなんだし綺麗な響きの名前にしたいよな……。……そういや昔見たモーツァルトの名前が付いた映画の主人公の名前の響き良かったよな。えっと、サリエリか。よっしゃ名前サリエリにしたろ」
サリエリについて調べた快晴「サリエリの名前アントニオやんけ……」
という流れを経て、少年が作中で名乗る名前はイタリア語で『塩入れ』を意味するサリエラになりました。
この時の快晴には知る由もありませんでした。この数年後、かの音楽家アントニオ・サリエリが、某ソシャゲの手により村を焼く生き物として世に放たれる事を……。
はい、という訳で『0426』第2話です。
今回は本当にデジモン小説なのか(特に後半)心配になるような内容でしたが、まあ赤ずきんちゃん可愛いからいいかみたいなノリで投稿しています。
このお話はいわゆる説明パートなのですが、本作の世界観は作中で女が述べたように「夜になると『怪物』が暴れる設定の有る近未来の体験型ゲーム的な世界」ぐらいの認識で大丈夫です。あのシーンは風呂場で会話する女とイケメンの坊やを書きたかっただkまあ自分がこういう世界観についての説明が好きなので入れてるだけなので……悪いクセだとは思うんですが……。
一応ちょこっとだけ前作とのつながりを持たせている部分ではあるので、前作読者の方は「あー、座を追われた『神』ってあれか」とか思って頂けたら嬉しいです。
なお、作中で登場するサリエラの故郷・イタリアは架空の国イタリアです。ご了承ください。
自分なりに調べたりはしているのですが、現地の人々の普通の生活って微妙によくわからないといいますか……。じゃあなんでイタリアにしたんだよって話なんですが金髪碧眼イケメンを出したかった以上の理由は無いと言いますか……。
一応、サリエラの出身地は元々塩の一大産地だったヴェネト州の港町キオッジャだとか、向こうの迷信で塩は零すと不幸をもたらすけれどその反面幸運の印でもあるからサリエラの名前はその辺が由来だとかそういう設定はあるんですけど、どうあがいても日本人の考えたイタリアなので、この世界のイタリアはパスタとピザがおいしい場所、ぐらいの認識でどうか……どうかひとつ……。
……ちなみにイタリアについて調べている時に一番びっくりしたのが、イタリアの人基本あんまり風呂入んないという話でした。ローマだからてっきりみんな風呂が好きなもんだとばかり……。
さて、次回予告です。
次はサリエラに『デジタルワールド』観光術を仕込むべく、彼にウェポンが与えられたり女の知り合いの武器商人が出てきたり赤ずきんちゃんとの交流があったり、今度こそ女の強さの秘密が明かされたり明かされなかったりする話です(今回結局ほぼ全然入れられなかったの申し訳ない……)。
次回の投稿は未定ですが、またなるべく早めにお出しできるよう頑張りますので、今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。
「ふう……」
とはいえ頭髪や皮膚をべたつかせていた原因が取り除かれるとやはり気持ちが良いもので、それまで色々な意味で悶々としていたサリエラもようやく一息つく事が出来た。
足を踏み入れた浴場は想像以上に広く、10人以上の人間が同時に身体を洗える設備と1人ならば泳いで遊べそうなほど大きな浴槽に、自宅にはシャワーしかなかったサリエラはそれなりに驚いた。と同時に、洗い場はそれぞれがちょっとした壁で区切られている事にはかなりほっとしていた。洗体中は、ほどんど女の姿を見ずに済んだようである。
一方女は流石に手馴れているのか、杭と談笑しながらだというのに比較的早い段階で自身と杭、それから着ていた衣服を洗い終え、サリエラよりも一足先に湯船に浸かっていた。
女は杭をお湯には浸けず、浴槽の端にある段差に腰かけて濡らしたタオルで杭を拭いている。気持ちがいいのか、杭の声音も上機嫌だ。
ちなみに女は現在、バスタオルを身体に巻いた状態で入浴している。
サリエラの、精いっぱいの交渉の結果だった。
「……洗い終わったけど」
それでもあまり女を見ないようにしながら、自分も腰にタオルを巻いたサリエラがやってきた。女はタオルを浴槽の縁に敷くとそこに杭を置き、そのまま左手で水面をちゃぷちゃぷと叩いた。
「となり、どうぞ」
首を横に振るサリエラ。既に顔は赤いが、女の事以上に「湯船に浸かる」という経験がこれまで皆無だった彼にはそもそも風呂に入るという選択肢自体に馴染めなかった。
「ああ、そちらではほとんどシャワーで済ますんでしたっけ」と一応理解はあるのか特に気にした様子も無く、「まあ足を浸けておくだけでも気持ちがいいですよ」とだけ付け足す女。立ったまま、というのもどうかと思ったのだろう。サリエラもそこは素直に聞き入れ、やや広い縁へと腰を下ろし、白い足をお湯に浸した。
「では、早速話を始めましょうか。……まずは『この世界』についてでしたよね」
サリエラが視線を合わせないまま頷いたのを確認してから、女は改めて口を開く。
「この世界は『デジタルワールド』と呼ばれています。サリエラも流石に『入り口』にはパソコンを使ったでしょう? ざっくり言うと、ここはそのパソコンの向こう側、インターネットという海の中にある、全てが電子情報で構築されている世界です」
「パソコンの、向こう側」
サリエラはあの砂漠の『ゾーン』に辿り着く直前の事を、そして風呂場に入る前に洗面所の籠の1つに置いて来た『鍵』の事を、思い返す。
確かに女の言う通り、彼は顔も知らない『鍵』の贈り主の指示に従い、それを自宅のパソコンの前にかざしてここにやって来た。
現実味の無い話ながらも、事実として受け入れる他無い。
「元々は物好きな研究者連中の制作した高性能の環境シミュレーションシステムだったそうですが、ある時、その中の更に物好きな男が、『ここ』に『神』を喚んだんですよね」
「……待って。『神』?」
しかし流石に、その後続いた単語については聞き流せる物では無く。
「今、『神』って言った?」
「言いましたよ。正確には件の環境シミュレーションシステム用のホストコンピューターを、更に優秀かつ意思を持ったコンピューターが乗っ取った、と言った方が良いのでしょうが……『この世界』に『ゾーン』と呼ばれる天と地を複数つくり、昼と夜をつくり、大地やら海やら空に在る諸々を拵えて数多の『怪物』を生み出した後眠りについた以上、『アレ』は『神』と呼ぶ他無かったのでしょう」
「……コンピューターなのに?」
「私もちゃんちゃら可笑しい話だとは思いますよ」
今まで以上に抑揚の無い声音で、どこか吐き捨てるように、女。
湯船の中では小石でも蹴るように、右足が軽く湯の中をかき混ぜている。
「『アレ』は、そもそも死にぞこないでしたから。元居た世界でその座を追われたとかなんとかで。だからまぁ、『アレ』が生み出した子供達……わたくし達が『デジタルモンスター』と呼んでいる『怪物』達も、親に似て出来損ないだったんですよね」
『怪物』は理性を持たず、夜間にしか行動できない。
女が『アレ』と呼ぶコンピューターが瀕死の状態で『彼ら』を生み出したのがその原因だと、女は言う。
「長々と話しましたが、ようするにここは夜になると『怪物』が暴れる設定の有る近未来の体験型ゲーム的な世界、ぐらいに思っておいたら楽なんじゃないですかね」
「ゲームって……」
「死んだら死にますけど」
「……」
一体どんなつもりの言葉選びなのだろうとサリエラは顔をしかめるが、女の声音から女自身の何かを読み取る事はほとんど不可能だし、そもそも女の顔色に至っては、サリエラは未だまともに見る事すら出来ないでいる。
彼女が時々揺らしている足が視界の端を掠める度に、少年は意識を天井から時々滴り落ちる水滴等に向きがちだった。
とはいえ、女の説明を踏まえても、腑に落ちない事自体はまだあって。
「えっと……じゃあ、さっきのデカい鳥は?」
フラッシュバックに一度ぶるりと背を震わせてから、サリエラは続ける。
「アイツは、日が暮れる前に、出て来てたよね?」
それに、あの赤ずきんは――と言いかけて、それには思わず、口を噤んだが。
「あれに関してはわたくしも確信を持ってお答えは出来ないのですが……杭ちゃんとも話していたのですが、もしかしたら、『理性持ち』だったのかもしれません」
「『理性持ち』?」
首をかしげるサリエラに、女は頷いた。
「『怪物』達は己が強くなるために他者と戦い、戦うために強くなる事しかしない、生産性の無い生き物でしたから。加えて放っておくと周辺のデータまで食い荒らすので、このままだとせっかく誕生した『デジタルワールド』も長くは持たないと判断したのでしょうね。創世後動かなくなった『神』に代わって『この世界』を管理し始めた研究者達は、『怪物』に理性を与える研究を始め、それは概ね、上手くいきました。その結果のひとつがわたくしの愛しい赤ずきんちゃんであり、かく言うわたくしも、その副産物みたいなモノなんですけれども」
「?」
「さて、次の説明は『武器』について辺りになるんでしょうけれど……一端区切って、そろそろ出ましょうか」
突然話が区切られた事によって、サリエラはつい反射的に、見ないように意識していた女の方へと顔を向けてしまう。
「実を言うと、のぼせてきてしまいました」
赤らんだ頬を始めとする血色の良い肌。
濡れた黒髪。
玉のように浮いた汗。
それら全てがいつの間にやら、女を妙に艶やかな姿に構築し直していて。
女の話を纏めようと脳をフル稼働させていたサリエラを半ば不意打ちのように「自分は今女性と風呂場にいる」という事実確認が襲い、今度こそ、彼は湯気を噴出しかねない勢いで全身を真っ赤に染め上げた。
「ふむ。やはりサリエラもそろそろ出た方がよさげですし」
それを本気でのぼせたせいだと思い込んだ女はざばざばと音を立てて浴槽を出ると、話の間うんともすんとも言わなかった杭を胸元で軽く左右に振る。
「杭ちゃん」
返事は無い。
「杭ちゃん。……杭ちゃん」
振り幅を大きめにしつつ呼びかけると、「う~ん」と呆けたような声が返って来て。
「ん~……ふあ……。……あ~、狩人さん~。お話終わったの~?」
「……おはようございます杭ちゃん。しかしお風呂場で寝てはいけません。そしてさっきの話はお勉強も兼ねて杭ちゃんも聞いていてくれたらわたくしとても嬉しかったのですが」
「お風呂はあったかいからね~。それに~ぼくはもう知ってる話ばっかりだったでしょう~?」
「それは解っていますが……それならそれで合いの手が欲しかったといいますか……。わたくしだってこの手の説明、慣れている訳ではありませんし……」
女の口調はやや力無く、杭の一振りで異形の『怪物』を切り伏せ、無感動に『デジタルワールド』に関する事を説明していた人間とはまるで別人のようだと思ってしまうサリエラだったが――ふと、一瞬とはいえ見惚れてしまった女性の、しなやかな手足をもう一度眺めた時、冷たい何かが彼の身体を震わせた。
まるで殺戮の技術に手足が生えているようだと、そんな思いが脳裏をかすめたのだ。
何故そんな事を考えたのかはサリエラ本人にも解らなかった。
が、それは女の動きの無駄の無さを、精神の隙の無さを、生来の躊躇の無さを、サリエラが直感的に、本能的に感じ取ったからに他ならない。
もしもその必要があれば――例えば今この瞬間杭が「サリエラを食べたい」と一言言えば、女は背中を向けたまま最低限の動きでサリエラを刺し殺すだろう。
自分が数分間話を聞いていたのはそういう女だと再確認したサリエラから、風呂上りだというのに嫌な汗が噴き出した。吐き気と共に、後悔が彼を揺さぶりそうになる。
だが――この『デジタルワールド』についての知識と、『怪物』のいない安全な場所を提供してくれる相手も今現在、この女性しかいないという事実も、サリエラには、承知の上だった。
「さ、行きますよサリエラ」
杭とタオル、それから洗った衣服を抱えた女が、出入り口で手招きしている。
サリエラは額の汗を拭うと、自身も急いで濡れた服を回収してから、女の後に続いた。
*
「では、すぐに帰りますので」
「行ってらっしゃ~い」
杭に手を振って、女は客室(ということにした)空き部屋を後にした。
椅子代わりにしたベッドから彼女を見送ったサリエラは、白いバスローブに袖を通している。
新品であることは確認済みで、渡してきた相手の危険度も再確認した後だとはいえやはり、一応は女性の私物、しかもよりにもよって素肌に直接触れるものを着ているという状況は、サリエラを必要以上にそわそわさせるには十分過ぎる要因となっていて。
そもそも何故おおよそ1人暮らしである女の住処に新品のバスローブがあるのかについては「『宿』なのだからあった方が雰囲気が出る」との事で、サリエラは釈然としなかったが、事実として雰囲気だけで生きているような女にはそれ以外の理由も無かった。
「えへへ~、行っちゃったね~、狩人さん~」
それ以上にサリエラを戸惑わせているのは、女が杭を、自分の隣に置いて出ていってしまった事だ。
「……なんで嬉しそうなの」
「ん~? 嬉しそうかな~? でも、ぼく狩人さんや赤ずきん以外の人とぼくだけでお喋りするの初めてだからさ~、ちょっとわくわくはしてるね~」
本当にころころと笑っているような声音だとサリエラは思った。
女が言葉こそ丁寧だがほとんど無機質な話し方をするのに対し、杭の声はのんびりとしているものの本物の子供のように、感情豊かで。
「君は、行かなくて良かったの?」
「杭、でいいよ~。ぼくはお洋服はいらないからね~。人間って、そういうところ不便だよね~」
風呂を出た後少なからず女とサリエラを困らせたのが、「この『宿』には年頃の男の子が着られる服が無い」という事実だった。
しばらくの捜索の末バスローブを発掘できたのだが流石に服が乾くまでずっとこのままという訳には、ということで、女はサリエラの服のサイズを確認すると、『外の世界』へと買い物へ出向いたらしい。
お揃いの作業着、なんてことにはならないよう祈るしか、今のサリエラにできる事は無かった。
「まあすぐには帰ってこないだろうし~、サリエラ~、色々お話ししようよ~」
しかし服を必要としない杭にはサリエラの不安など解るはずも無く、彼の祈りを遮るように構ってほしそうな声を上げる。
杭を蔑ろにすれば女がどう出るか。想像するまでも無いサリエラには、彼に応える以外の選択肢は無い。
「……色々って?」
「ん~、そ~だね~……。あ、じゃあぼくにも色々聞いてよ~。ぼくの知ってる事なら~、なんでも答えるから~。だから~サリエラもぼくの質問に答えて~」
「質問のし合いってこと?」
「うん~」
いいけど、と内心乗り気ではない事を漂わせながらもサリエラが了承すると、杭は飛び跳ねそうな勢いで「やった~!」と声を上げた。
「じゃあさ~じゃあさ~、サリエラからぼくに聞いていいよ~」
「俺から? えっと……」
やけにテンションの高い杭に若干気圧されながら、考え込むサリエラ。「そもそもどうして君、喋るの?」と聞きたい気持ちが無いでも無かったが、万が一にもその過程で杭に不快な思いをさせでもしたら――等々悩んでいると、ふいに彼は、ある事に気が付いた。
「……そういえば、あの女の人、なんて名前なの?」
そういえば聞いていなかったなと、何気なく、サリエラは口にする。
だが杭から返ってきたのは
「わかんない~」
という、清々しいまでに何も知らない事が明白な返事で。
「わ、わかんない……?」
「うん~。ん~……狩人さんってさ~、名前を『デジタルワールド』に拒絶されてるとかなんとかで~、名乗っても誰も認識できないんだって~。だから~、これは狩人さんに直接聞いても~、「名乗っても意味が無い」って言うだろね~」
「名前を……拒絶?」
「あ~でも~、一昨年の秋くらいに『向こうの世界』で~、ナシロ アカネ、だったかな~。そういう名前を「買った」って言ってたような~……」
名前はお金で買うものでは無かった気がする。と思うサリエラだったが、そこに関しては深くはつっこまなかった。つっこんだところで、杭の知った話では無いだろうと判断したというのもある。
それよりも「名前の拒絶」という言葉が彼の中で引っかかったが――そちらも、杭に聞いて解るような話ではなさそうな気がして。
「解った。どう呼んだらいいかは、本人に聞く」
「それがいいよ~。じゃ、次~、僕の番ね~。えっと、サリエラってさ~」
嘘の名前でしょ~。杭がそう言った瞬間、少年は雷に打たれたかのように硬直する。
自分でもおかしな名乗り方だとは思っていたものの、面と向かって指摘されてしまうと頭が混乱して、彼は思わず視線を泳がせる。
杭の方は、少年の反応が面白いといった様子だったが。
「やっぱりね~」
「……どこで解ったの?」
「赤ずきんだよ~」
しかしここで返ってきた思いもよらない『偽名がバレた原因』に、再び少年の視線は杭へと定まった。
「……?」
「あのね~、赤ずきんは~、架空の人間の名前を正しく言えないんだ~」
架空の人間。
その言葉が、それこそ杭のように、少年の胸に突き刺さる。
青年が思う『サリエラ』なんて人間はこの世にいないから、赤ずきんは、サリエラという名前を間違えた。
重く、苦い、事実だった。
「……ホントの名前、言った方がいい?」
「ううん~。ぼくも、狩人さんも、呼び方は別になんでもいいんだよね~。……でも、なんでその名前にしたかは気になるかな~」
「……姉さんの名前だったかもしれないんだ。この名前」
年齢と名前の候補だけが、姉に関する唯一の手掛かりだった。
だが、サリエラは空想の人物に過ぎない。
何故なら少年の姉は、自分の名前がサリエラだったかもしれないなんて、知る術すら無かったのだから。
「あ、そっか~。サリエラはお姉さんを探してるんだっけ~?」
こくり、とサリエラを名乗る事を選んだ少年は頷く。
「俺、最初にも言ったけど……姉さんに、言わなきゃいけない事があるんだ。そのひとつが、姉さんの名前がサリエラだったかもしれないって事で……」
「……ぼくさ~」
と、急に神妙そうに声のトーンを落とす杭。気になってサリエラは杭をじっと見下ろすが、杭はすぐには言葉を続けず、数秒間「ん~」と悩むように唸ってから
「……ぼくが何を言っても~、怒らないって約束してくれる~?」
伺うように、気弱な調子で問いかけた。
「うん」
サリエラは頷く。
「怒らない」
「解った~。じゃあ言う~」
すう、と、どこからかも解らないが、息を吸い込むような真似をしてから、杭は言葉を紡ぐ。
「ぼくさ~、サリエラのこと~、なんだか気になるって言ったでしょ~? あれよ~く考えたらさ~……『懐かしい』って感じだったんだよね~」
当然、杭とサリエラは初対面だ。それは間違い無い。
なのに、『懐かしい』と感じるという事は、杭がサリエラに似た誰かの事を知っているかもしれないという事で。
「杭は、俺の姉さんに会ったことがあるかもしれない、って事?」
「うん~」と杭。だが、その後には「でも~」と続く。
「ぼくが『懐かしい』って思うってさ~、「会った」だけじゃそうはならないと思うんだよね~。……多分だけど~」
ぼく~、食べちゃったと思うんだ~。サリエラのお姉さん~。
杭がそう言った後には、沈黙だけが、その場を支配した。
長い長い、しかしほんのしばらくの静けさだった。
そして先にその静寂を破ったのは、サリエラの方で。
「……俺の姉さんは、おいしかった?」
身体からは力が抜け、声は幽かに震えている。しかし、それはきっと、予想していない事では無かったのだろう。
『サリエラ』という名前が偽物だと指摘された時よりもずっと、彼は冷静だった。
「……怒ってる~?」
サリエラは首を横に振る。怒りという感情は、本当にこれっぽっちも浮かんではこなかった。
勢いに任せてパソコンの中に飛び込むことは出来たけれど――それでも、つい数日前まで存在すら知らなかった姉の事で怒れる程、自分の中に必死さは無かったのだと、自嘲気味に笑うので精一杯で。
「懐かしい、って思うって事は~……きっと、まずくはなかったと、思うんだ~」
一方で、一種取り繕うように、消えそうな声でそう述べる杭。杭自身も、詳しくは覚えていないのだろう。加えて女に至っては、先の反応を見るに有象無象の1つだと、思い出しすらしないに違いないと、サリエラは小さく息をつく。
あまりにも、虚しかった。
「そっか」
それでも不思議と、サリエラは帰りたいとは思わなかったし、自分が目的を果たしたとも考えられなかった。むしろ『姉』に伝えなければいけないと思った言葉は彼の中で大きくなるばかりで。
姉が居ないとしても、姉が居た世界に、彼は居るのだから。
「ねえ、杭。とりあえず、君に言ってもいい?」
「? 何を~?」
「姉さんに、言おうと思ってた事」
「いいよ~」と杭。「むしろ~、聞かせてほしいな~」と少年の声は続ける。
サリエラは頷いてから、浅く息を吸い込んで
「俺だけが幸せに暮らして、ごめんなさい」
杭の向こう側をぼんやりと見つめながら、吐き出すように、謝罪した。
「……ゴメンナサイ~?」
「うん」
「サリエラ~、何かお姉さんに~悪い事したの~?」
「悪い事をしてたって知らなかった事自体が……悪い事、ってとろこ、かな……」
苦虫を噛み潰したような顔で、サリエラは視線を下げる。
顔も名前も無い姉が、遠いところから睨んでいるような気がしたのだ。
サリエラのこれまでの人生に、姉など影も形も無かったのに、だ。
「わかった~」
一瞬視界の端で杭が頷いたかのように思ったサリエラだったが、流石に見間違いだろうと顔を上げはしなかった。
実を言うと、杭は幽かに動いていたのだが。
「どんな人だったのかわかんないけど~……伝えとくね~、サリエラのこと~」
間延びした声は纏った空気こそ呑気なものだが、耳に届く音には、確かに真剣みが混ざっていて。
「……頼むよ」
そんな杭の台詞を聞いて、サリエラは少しだけ安心した。
事態は何も好転していない。むしろ言葉を伝える相手はもう存在すらしていないかもしれないのに――本当に自分の言葉を伝えたかった相手を殺したかもしれないモノにそれを伝えて、安心した。
言いたい事を、初めて口にできたからだろうかと、サリエラは笑う。
よりにもよって、な相手に言ってしまったなと、続けてサリエラは自分を嗤う。
それとも、自分は姉がもう居ないかもしれない事に安心したのだろうかと、そんな考えが頭をよぎって、彼の口角を下げた。
自分のしてきた「悪い事」を、姉本人に責められる事はこの先無いのだと。
だとしたら、やはり自分にとって『姉』という家族なんてそんなものだと、自分自身を嘲笑う事しか彼には出来なかった。
と、
「ね~、サリエラ~」
伺うような、杭の声。サリエラは改めてそちらへと目を向けた。
「あのね~、ぼくもまた質問してもいい~?」
「あ、ごめん……質問のし合いだったのに、俺ばっかり聞いてた」
「それはいいよ~。むしろ~ぼくがお姉さんの事聞いたのが発端だったし~」
そうだったか。そうだった気もする。と、もう一度会話を思い返すサリエラ。「そうじゃなくて~」と杭は続ける。
「まだ、色々お話ししていいのかな~って」
「?」
「ぼくとのおしゃべり、嫌になっちゃったかな~……って」
弱気な言葉に一瞬きょとんとするサリエラだったが――一拍置いて、ふふっ、と彼の口から笑いが漏れた。
杭の言う事は最もで――しかしそれだけに、もっともな不安を向けて、人間らしい会話をしている相手が、人間の女性ではなく鉄製の杭の方だというのが、急に可笑しく思えたのだ。
「さっきも言ったけど、怒ってないよ」
むしろ口調に親しみを込めながら、サリエラは杭に語り掛ける。
「怒れる程――俺、姉さんの事、解らないから」
自然と、素直な言葉が零れ落ちた。
「でももし、もしも」
そんな事は、きっと無いだろうと思いながら、サリエラは口にする。
「もしも、姉さんの事思い出したら……その時は教えてくれるって、約束してくれる?」
「うん~!」
返事はすぐに返ってきた。
「約束する~! だから、『そっち』の世界のこと聞いてもいい~? 狩人さんも、ほとんど『デジタルワールド』で暮らしてるようなものだからさ~。あんまり話してくれなくて~」
「えっと……俺の故郷の事で良いなら」
再び耳に届く、元気の溢れる頷き代わりの声。
話を始めるために、青年は思い返す。やや古い家々が立ち並ぶ石畳の路地。比較的近い観光地の事。いつか見かけた、怪しい露店。自分の瞳と同じ色をした、青い、碧い海。
「――」
何か一つ違えば、姉と見ていたかもしれない景色なのだと、刹那の間、サリエラは言葉を失った。
*
「……わたくしの知らない間に、随分と交流を深めたようで」
杭との「おしゃべり」は、知らぬ間に扉を半分開けて半身を覗かせていた女に驚いたサリエラの情けない悲鳴で幕を下ろした。
「なんですか、人を『怪物』か何かのように」
「そ、そっちこそノックくらいしてよ!」
「っていうか~、狩人さんは『怪物』がいきなり出て来ても~、全然びっくりはしないよね~?」
「まあ、確かに、しませんけどね。しかし『怪物』に限らず何かが突然現れると目で確認する前に身体が動く訳ですから、そういう意味では反応しているのですよ、これでも」
サリエラはこの先何があっても、出来る出来ないは別として、女の不意を衝くような真似はしないと誓った。
「あ、そうだ~、おかえり~、狩人さん~」
「遅ればせながら、ただいま帰りました、杭ちゃん。……それから、サリエラも」
そう言って、女は左手に下げていた大きめの白いビニール袋いくつかを突き出した。
「適当に見繕った服と下着類、靴下、運動靴。それから歯ブラシやら櫛やら、生活用品諸々です。服はマネキンが着ているものと同じやつをそのまま選んできたので、コーディネートに問題は無いと思いますが……」
消え入る語尾に、意外と自信が無いところにははっきりと自信の無さを出すタイプなのだなと思いつつサリエラが一番大きな袋を開くと、中にはこれと言って特徴の無い灰色のパーカーやチェック柄の青いシャツ、Tシャツが長袖半袖それぞれ数枚ずつと、ジーンズが3本入っていた。
作業着ではなかったのでひとまず胸を撫で下ろすサリエラ。むしろ女のチョイスは思っていたよりもずっと無難で、正直なところ可も無かったが、不可も無かった。
ただTシャツに関しては何故かやや和テイストなものばかりで、自国ではあまり見かけないエキゾチックなデザインが僅かに少年の胸を高鳴らせていたのだが、サリエラは口には出さなかった。
顔には出ていたが。
「あ」
しかし不意に襟から値札が垂れ下がったところでサリエラは我に返る。
サリエラはこの後、『デジタルワールド』そのものに備わっている機能のお蔭で他国の人間とも会話には困らないという話を女から聞くのだが、生憎文章に関してはそうでもなくて。
故に、正確な値段は判らなかったが、それにしたって、この量だ。
「あの、お金……」
「ああ、気にしないで下さい。使えるお金には不自由していませんから」
「戸籍に比べればこの程度の出費、安いものです」と付け加えられたあたりで反論を諦めるサリエラ。
戸籍と衣料品は普通比較対象にならないだなんて、今更の話だった。
「ありがとう、ございます」
頭を下げるサリエラに、「お気になさらず」と繰り返す女。
「何ならクリスマスプレゼントだとでも思ってください」
「クリスマス……」
何気ない女の言葉に、彼は思わず目を伏せる。
今日の日付の事など、頭に入っていなかった。
街の景色を意識している余裕は無かった。家の飾りつけの事など考えもしなかった。
そこに追い打ちのように、姉の事が――
「サリエラ~?」
心配そうな杭の声を受けて、サリエラは「ここに来るまで」の事を振り払う。気が付けば、新品の衣服にシワがつきそうになっている。
「なんでも無い。……服、ホントにありがと。今から着替える」
「そうですか。ではわたくしと杭は外で待機していますので、着替え終わったら声をかけて下さい」
流石に着替えの時までここにいるとは言わないようだ。女はベッドから杭を回収すると、すぐに外に出て部屋の扉を閉めた。
「……」
比較的小さな袋の中にハサミも入っていたので、今着る服の値札を切り取り、下着から順に身に着けていく。
サイズが少しだけ大きいような気もしたが、文句をつける程ではなさそうだった。
「お待たせ」
数分後、部屋の外に出ると向かいの壁に張り付くようにして立っている女が目に入った。「待ったよ~」と杭が茶化すような声を上げたので、サリエラは軽く笑って、小さく手を上げる。
「では、食堂に行きましょうか」
歩き出した女の後に続くサリエラ。並ぶと少々、女の方が背が高い。
アジア系の女性にしては女の背が高いのか、ただ単に自分が小さいのか。両方ではないかという結論に至り、彼は気持ちの分だけ距離を空けて歩くことにした。
「そういえば狩人さん~、思ったよりも遅かったね~。何かあった~?」
「少々食材を買い足していました。少し、とは言っても教えようと思えば教える事なんて山ほどありますし、1日2日では済まないでしょう」
自分の事を言っていると気付き、顔を上げるサリエラ。ほとんど同時に、肩をすくめながら女が振り返った。
「どうせ帰る気は無いものだと思って色々用意したのですが……どうですかね? 様子を見るに、杭ちゃんも話し相手として気に入っているようですし、そうであれば、わたくしに貴方を追い出す理由はありませんから」
「……いいの?」
「杭ちゃんと赤ずきんちゃんに嫌な思いをさせない事」
女は左手の人差し指を立てた。
「わたくしが貴方に求める事は、それだけです」
「も~、過保護だよ狩人さん~。赤ずきんはともかく~、ぼく、一緒にいたらサリエラと喧嘩する事だってあるかもしれないけど~、だからってサリエラがいなくなったら~、そっちの方が嫌だよ~」
「……覚えておきます」
そう答える女の表情は、若干寂しそうにも見える。
杭、それから赤ずきんには異様に甘いのだなと、サリエラは理解できないなりに女の特徴を覚え始めていた。
「……まあ、ともかく。共同生活を送る以上、仲良くやりましょう、サリエラ」
すっ、と。女は右手を差し出す。
一見すれば至って普通にしか見えない女性の手だ。
だが、今からその手を握り返す事を思うと、サリエラは寒気を覚えずにはいられなかった。
女が砂漠地帯で散々見せつけた『技術』もそうだが――女の手を握り返すという事は、本当に自分はここに残って、姉の亡霊を追い駆ける決心をするという証なのだから。
姉を殺したかもしれない女性の下で。
「……」
それでも、少年は迷いを飲み込み、女の手を握り締めた。
彼の方も彼の方で、選択肢など、有って無いような物だった。
「よろしくお願いします。えっと……」
と、ここでサリエラは、自分がまだ女を表すべき呼び名を把握していない事を思い出す。彼の反応に、女も「ああ」と声を出した。
「わたくしの名前ですか。わたくしの名前は――」
「あ~、その話はさっきしたよ~」
「それは行幸。ひとつ手間が省けました。……という訳で好きに呼んでください」
「好きにって」
「狩人さん~、一応今回はものを教える立場だし~、先生とか~師匠とかどう~?」
「じゃあ師匠で。そちらの方がかっこいいですし」
本当に「杭が言ったかっこいい方の呼び名」という事だけが理由だと傍から見てもよく判るような顔をして言う女。若干の抵抗は無いでもなかったが、やはりサリエリには拒否のしようも無く。
「解った。じゃあ師匠で。よろしくお願いします、師匠」
「よろしくサリエラ」
「よろしくね~」
そう挨拶を済ませると、女はするりと手を解き、再び食堂へ向けて歩き始める。サリエラはそれに続きながら、右の手の平をじっと見下ろした。
思ったよりも、温かい手だったなと。そんな事を考えながら。
「あ、そうだ。言い忘れていましたが」
今度は振り返ることなく、歩みも止めずに言葉を紡ぐ女。
「食後にケーキを用意しておきましたので、楽しみにしていてください」
「ケーキ……」
「一緒に食べましょう」
ちらりと見えた女の横顔は、嬉しそうでも楽しそうでも無く、何の喜びも携えてはいなかったが――だというのに、少しだけ微笑んでいるように見えて。
返事はせず、しかし頷くサリエラ。女もそれを一々確認したりはしなかった。
こうして、女とサリエラの奇妙な師弟関係は、聖夜の終わりに、幕を開けた。