巡る季節1:入院食
「あー、はい。結論から言うと、命に別状は無いね。火傷の痕は少し残ると思います。が……まあ、目立つ程では無いでしょう」
淡々と言い渡された診断結果はそんな感じで、医者の態度は(仕事なんだから当然なんだが)事務的かつ他人事だった。
お陰で、逆に安心した。
本当に、大事は無いんだって。
「という訳で、軽い火傷だそーです」
「軽い火傷で良かったですね」
診察後、俺は通話可能スペースに出て、以前教えてもらった直通の電話番号で、フウマモンに診断結果を伝えた。
心配して、業務外で個人的にも通ってくれていたらしいので、連絡ぐらいはしなければと思っての事だが……
「……前から思ってたんだけどさ、フウマモン。お前、結構なんていうか、ミームに毒されてるよな?」
「今のは貴方のフリに起因するものです。相手の要望に正しくお応えするのが、できる忍者です故」
できる忍者なのは事実だとは思うが、このままだとロードナイトモンの限界オタクじゃなく普通のオタクでは? と俺は訝しむ。
……なんてアホみたいなやり取りをしていると。不意にフウマモンが、小さく息を吐いたのが、通話口から伝わってきた。
「何にせよ、無事で良かったです。拙者ももちろんですが、ワルダモン殿やトノサママメモン殿。……そしてロードナイトモン様も、心配しておられましたから」
「……」
特にワルダモンーーピエモンとフェイクモンの師匠の取り乱しっぷりが酷かったとは、既に聞いている。
仕方のない話だろう。なんたって、俺に怪我を負わせたのはーー
「……まあ、怪我はマジで大丈夫だって、伝えといて」
丸一日意識が戻らず、戻ってからもなんとなく頭がはっきりしなかったのは、現代日本ではまず馴染みの無い「爆発」を間近に受けた心因性のショックが大きいのだそうだ。
もしも炎や強い光、大きな音でフラッシュバックが起きるようなら、後からでも精神科に紹介状を書く、と。医者も言っていたっけか。
……だから、身体以上に。精神的な面で、今は不安が残っている。
ファイヤーパフォーマンス。
スポットライト。
艶やかなBGM。
俺はーーあの世界に。サーカスに、戻れるのだろうか。
「退院の日程が決まったらまた連絡するよ」
「了解しました。明日以降警察の聴取等もあるかもしれませんが、どうか御自愛ください」
「うへー、めんどくせー」
不安を誤魔化すように軽口を叩いて、通話を切る。
「……」
切り替わった画面。
電話の通知欄に、ピエモンの端末の番号は無かった。
*
結論から言えば、フェイクモンが俺に使った爆弾は、かなり威力を抑えたものであるらしかった。
完全体デジモンの本気の一撃を受けて、人間に形が残るワケが無い。
(周りが周りなので正直実感は湧かないが)、完全体だってひと握りの、十分に高みへと至った存在なのだから。
じゃあ、フェイクモンは結局、ピエモンから何を奪った気でいたのか。
その答えは、共有スペースのテレビが、スマホのネットニュースが、SNSが。全ての情報媒体が、嫌になる程。嫌になっても、教えてくれた。
「……ふざけんなよ」
吐き捨てて。
項垂れる。
ピエロの姿をしたデジモンによる、民間人の襲撃事件
フェイクモンの起こした事件はそのように報道され。
そして、世間が知っている「ピエロの姿をしたデジモン」は、正式名称の公開されていなかった「一昨年に次元の壁を突き破ってやって来た魔人型デジモン」だ。
ロードナイトモンが別個体だと訂正しているが、焼け石に水状態。
むしろ、やはりデジモン同士、同じ組織の所属者同士庇い立てしていると叩かれている始末で、夕方のニュースじゃ謎のデジモン専門家達が代わる代わる、人間とデジモンの関係の見直しを声高に訴えていて。
……ピエモンが見舞いに来ないのも当然だ。おちおち出歩けやしないだろう。
病院にも迷惑がかかるという事で、今のところはロードナイトモン達が睨みを利かせてくれているようだが、退院が近い以上、俺自身もマスコミに押しかけられるのは時間の問題だろう。
嗚呼。
何を、勘違いしていたのだろう。
人とデジモンが当たり前のように手を取り合って生きている世界なんて上辺だけで。
俺の周囲がたまたま上澄みだっただけで。
世間はそんなにデジモンが好きじゃなくて。
優しくもなんともなくて。
こんなにも、心無い言葉で溢れ返っている。
「はぁ」
溜め息混じりにスマホのWEB画面を切る。
見なきゃいい話なんだが、根っからの現代っ子である俺は、生憎他の時間の潰し方を知らない。
1階の売店に降りれば漫画なんかは買えると思うが、人の多い場所にわざわざ顔を出す気にはとてもなれなくて。
唯一の楽しみーーいや、本音を言えばそんな楽しみでもないのだが、時間経過を明確に示してくれるのでその点は助かる的な意味でーーは、やはりと言うか、食事の時間くらいだった。
「いただきます」
白いトレーに並べられた、プラスチック製の器と、そこに装われた色のうっすい料理。
半透明の蓋を開けると、すっかり冷めた大根の鶏そぼろあんかけが顔を出す。
見た目通り、味が薄い。なけなしの鶏挽肉も、なんというか、もそもそしているし。
別に病人として入院してる訳じゃないんだから味付けはもう少し濃くても良さそうなもんなんだが、まあこればっかりは量を作っている以上仕方が無い。
それに、なんだかんだ言っても食べやすいようにか、大根はとてもやわらかい。
何より人に作ってもらった飯というのはそれだけでありがたみが段違いなのだ。
「大根かあ」
そうだ。もう大根がお安くなる季節だ。
帰ったら、呑兵衛向けの濃い味に直した大根の煮物でも作ってやろう。……ああ、おでんもいいな。少し奮発して、タコの足なんかも入れよう。
ああ、冷凍のロールキャベツも一緒に買おう。ピエモンの事だから、これまた邪道ですねだのなんだの言うに違い無い。ロールキャベツは和出汁にも合うと、そのポテンシャルを伝えてやらねば。
「……ごちそうさまでした」
なんて。
飯を食いながら飯の事ばかり考えている内に、器は綺麗に空になっていて。
我ながら、どうかなって感じの食べ方だなぁ。……腹はそこそこ膨れてるけど、食う前より食欲が湧いてるまであるし。
ま、痛む箇所はそこそこあるとは言え、食欲があるのは元気な証拠だろう。
自分で思っているより俺は図太くて、
だから、これからの事も、それなりになんとかなるだろう。と。
……ただ、そう思いたかったのかもしれない。
「……」
習慣的に、また用もないのにスマホを開いてしまう。
当然、特に通知も入っていない。入っていたとしても、惰性で金も入れずに続けているようなアプリのものくらいだ。
「電話はしゃーないとして、メッセージくらいくれりゃいいのに」
ひとりごちって。
……でも、わかっている。
正確には、全く連絡が無かったワケじゃない。
診察結果が出た直後に、その内容と、特に心配はいらない云々と添えてこちらからメッセージを送って。
既読は秒で付いたのに、返事はその30分後。無料のスタンプで『OK』と。……それきりである。
アイツはそういう奴だ。
きっと散々返事を悩んで、何にも気の利いた台詞が思いつかなかったのだ。
ピエモンが舞台の上で取り繕っている面程器用じゃ無い事は、きっと、人間の中では、俺が一番よく知っている。
だからーーそうだな。
もう日程自体は決まっているけれど、兎に角早く元気な姿を、直接アイツに見せる以外に、一番いい方法は無いだろう。
……で、目下の問題は、退院の日までの暇の潰し方に戻る訳だがーー
「!」
その時。突如としてスマホの画面が通話受信状態に切り替わった。
慌てて持ち直し、相手を確認しーー落胆する。
番号が表示されているだけ。
登録してある相手じゃ無い。
……ただ、その番号には覚えがあって。
多分、勘違いでなければ。
お袋のスマホの番号だ。
実家を飛び出した後、スマホも完全に新調して、新しい番号は教えていなかった筈なのだが。
大方、団の方に連絡を入れたのだろう。就職先だけは教えて行ったから。
……いや、落胆しちゃダメだな。
そっか、そうだよな。
いくら思うところがたくさんあったからってーー家族、だもんな。
事情を知って、心配してかけてきてくれたなら。……それを無碍にするのは、流石にいかがなもんだ。
とはいえ病室でそのまま応答する訳にはいかないので、部屋を出る。
通話可能スペースの端で、一度切れた番号へと、折り返しかけ直した。
*
「うるさいっ!! アイツの事何にも知らないクセに!!」
ちゃんと調べました、デジモンの事。
インターネットにたくさん悪い記事が出回っていましたよ。
そんな良くない『モノ』と遊ばせるために、送り出したんじゃありません。
あなたを大学に行かせるまでにどれだけお金がかかったと思ってるの。
あのね、お隣さんのお嬢さんなんて、もうちゃんと結婚して子供まで
「二度とかけてくんな!!!!!」
世界は、なんにも変わっちゃいなかった。
*
周囲の奇異の目を振り払い、お静かにと咎めに来た看護師にだけは頭を下げて。
ベッドに潜って。
今と昔の苛立ちを脳内で無限再生して。
……世間体の事ばっかりで、ひとことも、大丈夫かとすら聞かれていない事に気付いて、惨めになって。
段々、疲れたんだと思う。
俺はいつの間にか眠りに落ちて。
そうじゃなきゃーー夢でもなきゃ。
入院中以前に裏方の俺が、サーカスの舞台に立ってるワケが無いもんな。
「……声を出せる程度には元気そうな点については、安心しました」
「なんだよ、見てたのかよ」
舞台の端に腰を下ろす。
観客席の最前列。
何故か幕でもかかっているかのように上半身からほぼほぼ見えないが、見慣れた魔人の、先のくるんと巻いた黄色い布靴が覗いていて。
「返信のスタンプに、魔術で少し、細工を」
「なんだよ、返事に迷ってたんじゃなくて、魔術使うのに30分かかったのか?」
「いえ、細工自体は5秒で済みました」
「そうなんだ……」
「ええ。……兄弟子は、私のそういうところが嫌いなんでしょうね」
「……」
「ここまで嫌われているとは、思いませんでしたけど」
ピエモンの声は、ひどく落ち着いている。
「……自分が悪い、とか思ってないよな」
「思わないのは難しいです。あなたが御母堂の物言いに、私に対して勝手に責任を感じているように」
「……そっか」
「でも、何故でしょうね。気分は、そう悪く無いです」
「うん?」
「だって、あなたの憤りは、私を友だと思ってくれているからこそでしょう?」
「まあ……」
「あんな目に遭わせてしまった直後なのに」
だから、嬉しかった。と。
顔も見えないのに、それはもう申し訳なさそうに。
「あなたに出会えただけでも、私は、こちらの世界に来て良かったと思っていますよ」
ピエモンが、笑っているのが判った。
「……国からさ」
流れを切るように。
一瞬悩んでから出て来たのは
「お金、出るらしい。賠償金? 的な??」
下世話な話。
「はあ」
「焼肉しようぜ、焼肉。国の金で」
「あのねぇ」
ピエモンが、一気に気の抜けたような溜め息を吐き出す。
「仮にも火傷で入院しているのに、そのチョイスはその、あまりにも悪趣味では?」
「じゃあ食べたく無いのか」
「食べたく無いなんてひとことも言っていないでしょう。ビールも普段よりいいヤツ買わないと承知しませんよ」
「あとさ。前に言ってた、北海道行こうぜ。海鮮食いに行こう」
「陸地と海上、どちらを走った方がいいですか?」
「バカ、この流れならフェリーか飛行機に決まってんだろバカ。これも国の金で乗るんだ。そんで向こうで蟹を食う」
「……ター……」
「ん?」
「本場の塩辛じゃがバターを、食べてみたいんですが」
「……あれはな」
「……」
「飛ぶぞ」
「……ごくり」
それから俺達は、まだもらってもいない俺の金で、たくさん皮算用をした。
食べたいもの。
旅行の予定。
それからやっぱり、酒のこと。
……そんな話ばっかりしてたもんだから、うつ伏せに寝ていた俺は、目が覚めるなり自分の頬が涎でべっとり濡れている事実を突きつけられて。
「うわー。……うわー……」
口周りでこれなんだから、枕はもっとひどい。
これ、変えてもらえるんだろうか。もらえないと、困る。
とはいえ今はまだどうしようもないので、共用の洗面所でひとまず顔を洗って歯を磨き、ベッドに戻って、朝食まではあと何時間何分かを確認する。
「……」
不在着信1件と、未読メッセージ1件。
両方、フウマモンから。
直接伝えたいから、こちらの時間は気にしなくていいから起きたら連絡をしろと。
昨日の今日だ。
ナースセンターの目の前にある通話可能スペースに入って行くのは大変気が引けたが、向こうも1人の患者に構ってなどいられないのだろう。
慌ただしそうな彼ら彼女らを尻目に、俺は時間帯的にまだ人のいないスペースの、それでも奥へと、入り込む。
フウマモンは、3コールもしない内にこちらの電話を取った。
気付かず眠りこけていたのが、申し訳なかった。
あんな時間に
入院患者に対しての電話だ。
内容なんて、大体わかってた。
「自首、という事になります」
「……」
「「許可も無く魔術を行使したので、公になって罪が重くなるより前に、デジタルワールドへの強制送還という形で手打ちにしてほしい」と」
デジモンの強制送還は、ロードナイトモンの一任で即時行う事が出来る。
違反事項の調査や取り調べはそのデジモンがデジタルワールドにいても出来る、というか、その方が都合が良いまであるからだ。
だから、もう。
受諾されたとの事だ。
……なんだよ、全くよ。
顔見えなかったの、アレかよ。合わせる顔が無いってか。
そういう意味じゃ、無いっつーの。
「焼肉」
「……はい?」
「焼肉食いたいとか、北海道行きたいとか」
「……」
「言ってなかった? アイツ」
「……いいえ」
「そっか」
身体から、力が抜ける。
「そっか、……そっかあ」
口に出しているのは、同じ音の繰り返しの筈なのに。
唐突に詰まった鼻と熱っぽくなった目元のせいで、碌に言葉に、ならなかった。
初めまして。類と申します。
此度は、快晴さんの作品を読み、「素敵な小説だ! 感想を送りたい。だけどサロン新参者だし、洒落た言葉も言えない。こんな素敵でお洒落な小説を書く方に、そんな者が感想を送っていいのだろうか?」と思いましたが、「感想は送れる時に送った方が良い」と決断し、今回、拙いものですが感想をお送りします。
宅飲み道化、とても素敵な作品でした。
人とデジモンの、食事を通した交流……素敵な題材だ、面白いと思いながら読んでいました。ですが、料理というどこか和やかなイメージを浮かべながら読んでいると、主人公さんのエピソードに胸を鋭く刺され、本作品が「和やかなだけじゃない現実と人生」のお話だと痛感しました。
料理の描写が大好きです! 読むと、頭の中で料理の図が浮かぶ見事な文章だと思っております。
私はお酒が飲めない体質な上、料理は好きだけど下手という人間なので、主人公さんの手際のよさに惚れ惚れし、お酒による交流を羨ましく思いました。
個人的に作中で一番好きなメニューは、マッシュポテト乗せ鰆とコロッケとガトーショコラです!
あと作者様の作品、デジモンアクアリウムも大好きです!!
それではここで、拙い感想を終わりとさせていただきます。
長々と失礼しました。
あとがき
ぼく「『宅飲み』完全完結記念にほろよいいちごクリームソーダ味とおつまみの麻辣鶏を開けるぜ!!」
ぼく「こども用の歯磨き粉の味!! 2日目のカレー鍋からこそいだとこの味ッ!! 全然辛くないッッッ!!!!!」
というわけでこんばんは。麻辣鶏の方はなんか後口割と美味しく感じてきました。快晴です。このあとがきは酒を飲みながら書いています。
さて、1年と少しTwitter……じゃなかった、Xで連載させてもらった『宅飲み道化』、いかがでしたでしょうか。主人公の名前が友人(ゆうと)なのは巡る季節編の2を書いているあたりで決めました。仮タイトルだった『スナック楽屋裏』を回収したのも番外編を書いている時に決めたので全てがライブ感。まあ酒を楽しむってそういう事ですからね(※適当言ってます)
『宅飲み道化』はフランスの美食家『ブリア・サヴァラン』の名言「新しい料理の発見は、新しい星の発見よりも人類の幸福に一層貢献する」を下地に作った事にしようと今ほろよい飲みながら決めました。高○屋の紙袋に書いてあったアレです。
いかがでしたでしょうか。楽しんでもらえたのであれば、幸いです。
サロンの番外編は、北海道編を書くか焼き肉編を書くか悩んだのですが、どっちも宅飲みにならなさそうだったので……ならば、と、宅飲みの意志は未来にも受け継がれていくし、この後の世界ではもっとデジモンと人間の交流はしっかりしたものになっていくよとにおわせる話にしようかと思い、こうなりました。宅飲みの意志って何?
長らく番外編を支えてくれたロドナイ組も、元気でやっています。そろそろロードナイトモンコラボカフェ計画も本格始動してるんじゃないかしら。あとロードナイトモンは多分、厳格なのは変わらないけれど、本編時よりは棘が落ちていると思います。自分の仕事が少しずつ減ってきて、安心してるといいなと思いますね。
フェイクモンは友人に高級プログラム言語を大方教え終わった後、自分を見直す修行のために別のDWを巡る旅へ。ワルダモンは友人を見て「人間にもこれだけの事が出来る」と解ったから、人間側に自衛手段としての高級プログラム言語を指導する取り組みを、トノサママメモンは自分の家をシェアハウスみたいな形で貸し出しながら、RWで暮らすための体験学習を、と、それぞれ活躍しているものと考えています。
実のところ毎回メニューを考えるのにひいひい言ってた(※何せ快晴は料理があんまり好きじゃない)のですが、終わってみるとなんだかやはり少し寂しいというか、先に上げた、他の登場人物達の動向も含めて書くことは何かとあるかもなあと、色々考えてしまい、不思議な気分です。
ま、ウィザーモンくんの言うように、また気が向いたら。もしかすると……ね。
何はともあれ、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
この物語が、読んでくださった皆様にとって、ちょっとしたおつまみのように、日々の彩りとなってくれたとしたら、それ以上の幸せはありません。
それでは、『宅飲み道化』完結祝いと、読者様のごはんが毎日おいしい事を願って。
乾杯!
番外編:塩キノコと鶏のトマト煮とエール
ウィッチェルニーの中央。
ブロッケン山の魔術学院、その大図書館。
その『闇の魔術関連書籍』のコーナーに、私――ウィザーモンは、こっそりと忍び込んだ。
この区画の管理を請け負っている、アースリン出身のワイズモンの不在を、良い事に。
他の区画と比べて、このエリアは常に、どこか肌寒い。たとえそれがただの錯覚だとしても、「読んだ者の命を奪う」ような魔導書が納められているような場所に居る以上、少し臆病に感じるぐらい慎重でいた方が良いのだろうと、そう思うのは素人考えだろうか。
間違っても、間違わないようにしなければ、と。私は目当ての魔導書を探す。
「あった……!」
そうして眼を凝らした末にようやく見つけたその本は、ワイズモンの作業机の程近くの棚に納められていた。
まだ装丁も行われていない、本というより冊子とでも呼びたくなる、クリーム色の紙を閉じただけの魔導書。見た目だけでも、と、無理を言って先生に教えてもらった通りのものだ。
あの日、この場所まで案内したジョーカーモンの言が正しければ。
この書には、アースリンのワイズモンの公認を受けた『魅了』の魔術が記されているらしい。
いや、公認どころか。
かのジョーカーモンは、魔術をワイズモンに使用したと、もっぱらの噂だ。
でなければ、十年以上大図書館に籠もって碌に外にも出てこなかったあのアースリンのワイズモンが、ジョーカーモンに同行して、『ホッカイドー』などという聞いたことも無いサーバに出かけていく筈が無い。それも、1週間もの休暇を申請して!
こうなると、好奇心が抑えられなかった。
いや、本音を言えば、ジョーカーモンの案内を買って出た時から、ずっと気になっていた。
新しい魔術には――やはり、いつだって、心が躍るものだから。
ごくり、と固唾を呑みながら魔導書を開く。
中身は、お世辞にも綺麗とは言えない手書き文字で書き記されていた。まあ、この手の手作り魔導書には往々にして良くある事だ。
良くある事だ、と読み進めて。
「これ、は……」
私は、首を捻らずにはいられなかった。
一見、魔法薬の作り方の書のようにも思えた。思おうかと思った。思ったのだが……どうにも、材料や出来上がったものを撮ったと思わしき写し絵に、馴染みというか、心当たりが有り過ぎるのだ。
「料、理……?」
少なくとも、材料に『食べられないもの』が使われている様子は、無い。
いや、しかし。
あの気難しいと噂のアースリンのワイズモンが、はたして何も無しに、これを魔導書と認めるだろうか。
仮にこの書に関係無く、ジョーカーモンが魅了の魔術を使っていたとしても。魔導書でもない本までこの図書館に置いておけるよう洗脳されるようなデジモンが、闇の魔術の関連書籍の管理職に置いてもらえる筈が無い。そういう魔術への耐性や理解があるからこその、その役職だ。
そうやって、よくよく注意しながら本を読み返して――ふと気付く。
そういえば、我々デジモンは、『料理』を食べる事はあっても『調合』を行うことは、そう無いのではないか、と。
少なくとも、私はそうだ。
食品というのは、そういうものを取り扱っている店で『出来上がった状態』で提供されている事がほとんどだ。最初から「そういうデータ」として作られたものが。
噂には聞いたことがある。一部の物好きなデジモンが開く『れすとらん』という施設では、魔法薬の材料を調合するかのごとく、そのままでも食べられはする食品同士を組み合わせて加工する事で、通常の料理よりも美味な料理を作り出し、提供しているとか、なんとか。
ひょっとすると。
この書は、その調合工程を魔術的に解釈し直したものなのかもしれない。
そう理解してからの私の行動は早かった。
書の中で現状すぐに材料を用意できそうな料理のページを紙データに写し、本を元通り仕舞って、大図書館を後にする。
一度寮に戻って、魔法薬の実習等で使う鍋、お玉にザルに……と、必要なものをデータ化して杖に仕舞い、それから今度は売店に駆け込んで、『材料』にあたる食品を購入した。
「……さて」
そうして最後に訪れたのは、ブロッケン山に点在する、学生用の魔術の練習スペース……火の魔術を扱っても良いとされている、切り開かれた区画だ。
丁度、魔法薬を煮る用の焚き火スペースも、今は他にデジモンが居ない。さっさと済ませてしまおう。
「ええっと、まずは」
売店で購入した『シャンブルモンのキノコ』を手で割き、沸騰させたお湯を張った鍋でさっと煮る。
キノコをザルに取り、少し多めの塩(少し多めの塩。困った言葉だ。量には大層悩んだが、結局ふたつまみ程にしておいた。少なければ後で足せば良いだろう)を振り、全体に馴染ませる。
先程の鍋にコカトリモンの肉データを培養した『トリニク』をぶつ切りにしたものを入れ、続けてトマトと呼ばれる、人間の世界でよく食べられる野菜を模したデータを、これまた細かく切ったものを投入。焦がさないように気をつけながら、ある程度水気が飛ぶまで火を通す。
そして最後に、塩キノコを戻す。……一緒に煮れば良さそうなものだが、この「キノコに塩を振る」という工程が、なんでも、大事なのだそうで。
「完成。……と、いうことで良いのだろうか」
こんなに簡単な作業だけで? と図書館ぶりに首を捻る。……反面、鍋からは普段作る魔法薬とはまるで異なる、それでいて、キノコだけでも、トリニクだけでも、トマトだけでも絶対に感じる事は無い、あたたかな香りがふんわりと漂っていて。
おいしそうな、におい。だ。
「……まあ。作ったからには、試してみようじゃないか」
ひとりごちって、持ってきた器に、鍋から『料理』を装う。
腹の底から、ぐう、とこらえ性の無い音が鳴り響いた。
「いただきます」
口元の多いをずらして、縫い目の間に『料理』を掬ったスプーンを滑り込ませる。
熱々の料理が舌に落ちた瞬間――
「!」
私は思わず目を見開いた。
これは――これは。
においで想像した以上だ。
「おい、しい……!」
トマトは酸味の強い食品だと効いたが、確かに酸味があるものの、これは、なんというか、ほんのりと甘くさえ感じる。
キノコとトリニクの風味が合わさった、「おいしさ」としか表現できない味が、汁気の中に溶け込んでいて……ああ、もどかしい。これは私の知らない知識だ。どう表現すればいいかわからない。成績は優秀な方のつもりでいたが――私はまだまだ、何も知らなかったというわけか。
だが、理解した。というより気付いた。
これを、もしも。
もしも自分で作るでなく、他者から振る舞われでもしたら――
「早速、試してみなければ……!」
幸い、この料理。私くらいの魔人型デジモンであれば、2体程で分け合っても十分に満足できる量が出来上がっている。
私は通信の魔術で、慌ただしく鍋の準備をしている様子を訝しげに眺めていた、同室の同級生を呼び出した。
何? と面倒臭そうに応じた彼に、自分でも驚くくらい早口で、とにかく練習場に来いと言いかけて――ふと、口の中に残った料理の風味に、ここに「もう1つあれば」と思うものが、とんがり帽子の下に閃いてしまう。
「なあ、もし良ければ。ついでにエールを1瓶、持ってきてはくれないか? 多分、合うと思うんだが」
*
その後、アースリンのワイズモン……が進化したというピエモンと共に、再びウィッチェルニーにやって来たジョーカーモンに弟子入りした私は、紆余曲折を経てリアルワールドで『サーカスの楽屋裏』という名の飲み屋を開く事になるのだが――まあ、デジモンが人間の世界で商売など、今となってはそう珍しい話でも無いので、この話は機会があれば、また、いずれ。
『宅飲み道化』番外編 おわり
巡る季節4:ブランデーとガトーショコラ
『魔術』と呼ばれる能力の発展したデジタルワールド、ウィッチェルニー。
その中央に座すブロッケン山には、ウィッチェルニーで暮らす4つの種族が協力して設立した魔法学校が存在する。
「で、その魔法学校の当代の『闇魔術関連書籍の管理者』の1体が、『アースリンのワイズモン』だよ」
「ワイズモンって言えば、評議会の長にも在席している種族って話じゃないか」
優秀なデジモンなんだなと、タイトな衣装に身を包んだ細身のピエロがからりと笑う。
優秀じゃなきゃ務まらないよ。と、案内役を買って出ている魔術師ーーウィザーモンは肩を竦めた。
「いいかい? 闇の魔導書には、開いただけで使用者の命を奪うような代物も多く存在しているんだよ?」
「ずっと疑問だったんだけどさ。そういう魔導書って、書いた本人は執筆中大丈夫だったのかな?」
「……」
「……」
「……どうだったんだろう」
「わかんない感じなんだ……」
まあ、それはアースリンのワイズモンに尋ねればいいだろう、と、咳払いを挟んで、ウィザーモン。
「とはいえ彼の前では、今のようにあまりおどけてくれるなよ、お客人。彼は優秀だが気難しいんだ。10年程前なんて、突如職務を破棄して他のデジタルワールドや、あげくリアルワールドにまで渡航していたという話で」
「そういう風に伝わってるのか……」
「うん?」
いや、なんでもない。と、ピエロは首を横に振った。
「まあ、大した用でもないからさ。魔導書の鑑定と、闇の魔導書に分類できるならそのまま寄贈。怒られる要素なんて、そもそも無いだろう?」
「冷やかしレベルでしょうもない魔導書でなければ、だけどね」
ウィザーモンの訝しげなジト目に、ピエロはむしろ表情を綻ばせる。
どこか懐かしんでいるかのような。そんな印象を覚える眼差しだと、ウィザーモンはそう思った。
「時に」
それはそれとして、と。ウィザーモンは改めてピエロへと向き直る。
「貴方の持ってきた魔導書とは、一体どのような内容で?」
「あれ? 聞いてないのか? 書類には確かに書いた筈なんだけど」
「ああいや、私はあくまで案内を学校の上層部から仰せつかっただけの学生に過ぎ無くてね。詳細は知らされていないんだ」
そうなんだ、と目を瞬くピエロ。
とはいえ客人の案内役を言い渡されるあたり、真面目でそれなりの成績を納めているデジモンである事は想像に難く無く。
「しかしそうは言っても、新しい魔導書と聞くと。やはり一魔術師として、興味が湧くじゃないか。ましてや闇の魔術なんて、この先触れられるかもわからないものだし」」
実際、ウィザーモンは先程は呆れの感情に細めていた目を好奇に輝かせていて。
「差し支えの無い範囲で構わない。どうか分類だけでも、私に教えてはくれないだろうか」
自分を見上げるウィザーモンのエメラルドグリーンの瞳に、ピエロは一層笑い皺を深くする。
若い情熱を微笑ましく思えるようになったあたり、自分も歳を取ったものだと、僅かに肩を竦めながら。
「……笑うと怖いってよく言われないかい?」
「失礼な奴だなお前」
魔術系のデジモンってこういうのがデフォルトなのか? と小首を傾けつつ、まあいいや、と改めて、ピエロは口を開いた。
「魔導書の話な。分類上は『魅了』になるのかね。効力は極めて軽いけど、使い手次第じゃ種族に関係無くーーそれこそ人にもデジモンにもーー効く魔術なんだ」
「ほう。それは興味深い。魅了の魔術は確かに闇の魔術に分類される事が多いからね。中には感情の昂りを炎に例える事で火の術式で魅了の魔術を構築したエネルージュ族もいるという話だがーーああ、すまない。つい興奮してしまって。……効力は軽いという話だが、どの程度のものなんだ?」
「俺は」
ピエロが顔を上げる。
山頂にもうひとつ山を拵えたかのように聳え立つ、城のような外観の魔法学校、その巨大な門が、もはや眼前にまで迫っていて。
「その魔術をきっかけに、究極体デジモンと友達になった事もあるよ」
そんなピエロのクラウンハットの構造上、眼帯で覆うように隠れた右目部分を見上げて。
ウィザーモンは、首を傾ける。
「その、素人質問なんだが。魅了の魔術で得た友は……友達と呼んで良いものなのか?」
対するピエロは、にっと唇の端を釣り上げた。
「それを、確かめたくってな」
そうか。と、ウィザーモンはあっさり引き下がる。
ピエロがそのつもりなら、判断を下すのはアースリンのワイズモンだろう、と。彼はまだ、本当に見習いに過ぎないのだから。
ただーー
「貴方にとって、良い判断が下るといいな、ジョーカーモン」
赤い左目を見開いて、それから、ジョーカーモンはにこりと笑う。
「ありがとう。お前もいい魔術師になってくれよ。きっと、それはいずれ、素晴らしい出会いに繋がる筈だから」
*
「何、そろそろ客人が着く頃じゃろうと思うてな」
「そうですか」
スマホ型のデバイスで魔術の師であるワルダモンと通話するワイズモンの態度は、ひどくそっけない。
つれないのう、と、ワルダモンは唇を尖らせた。
「妾にはまだしも、わざわざ他所の世界からオマエを訪ねて来ておる客人にまで失礼の無いようにな?」
「……私は私の仕事をするだけです」
「愛想も仕事の内じゃろうて。すっかり可愛げがなくなってしもうてなぁ」
「その、愛想を振り撒いていた時期というのが、私にはわからないんですがね」
ウィッチモンであった筈の師が通信先ーーリアルワールドでアプモンと呼ばれるデジタルモンスター・ワルダモンになっているのも。
自分の手元にそのリアルワールドで暮らすデジモン向けの通信装置が存在するのも。
とんと覚えの無い話だと、ワイズモンは言う。
十年と少し前。
ワイズモンは究極体への進化を遂げて、1年半程リアルワールドで暮らしていた、と。
だが自分を妬んだ兄弟子によってトラブルを起こされ、結局ウィッチェルニーに帰還したのだと、自分宛に残されたメモの内容を、ワイズモンは振り返る。
ワルダモンが、艶やかに息を吐いた。
「なあ、バカ弟子や。当時の事を思い出そうとは思わんのかえ? オマエなら、記憶データの修復も容易い事じゃろうて」
「別に。……何度も言っているでしょう。メモには「師匠にも何も聞くな」と書いてありました。だから、師匠も何も言わないでください。……自分の事だから、判ります。思い出したくも無い話でしかないのでしょう」
「……」
「本音を言うとですね」
推し黙るワルダモンに、ワイズモンはフードの下で口を開く。
「私の方こそ、ソーサリモンが羨ましかった。彼の周りには、私と違って常に彼を慕うデジモンが居ましたから」
「ワイズモン」
「リアルワールドでだって、成功するならソーサリモンの方だった筈です。それをわざわざ棒に振ってまで、私に。……哀れな事だと、そう思いますよ」
だから。
兄弟子が自分のような才を持ち得なかったように。兄弟子のような才を持たない自分もまた、無理に他者と関わらない方が、その方が他のデジモンの為にもなる、と。
ワイズモンは、淡々と続ける。
「先に言った通り、闇魔術関連書籍管理者の仕事はキッチリこなします。ですが、客人のもてなしまでは管轄外です」
「……酒のひとつでも振る舞えばよかろうに」
「自分が飲んでもいないものを、相手に勧めるのは、ちょっと」
今度は観念したように、しかしやはりどこか辛そうに、ワルダモンはもう一度だけ、溜め息をひとつ。
「わかった。もう妾からは何も言わぬ。……くれぐれも、喧嘩だけはせぬようにな」
「いくらなんでもそこまで失礼を働くデジモンではありませんよ、私は」
では、と、挨拶もそこそこに、通話が切れる。
と、ちょうどタイミングを見計らったかのように、図書館の闇の魔導書保管庫のドアノッカーがコンコンと打ち鳴らされる音が響き渡った。
「何ですか」
「ウィザーモンです。客人をお連れしました」
「ご苦労様です。その者をお通しして、あなたは下がってください」
はい、と返事と共に扉が開き、失礼します、と中に入ってきたのは、ピエロの姿をしたデジモンだった。
「……」
白と青緑のタイトな衣装に紫のジャケット。二股に分かれた派手なクラウンハット。
完全体相応の魔人型デジモン、ジョーカーモンだ。
「よう、お前がワイズモンか?」
「ええ」
初対面なのに気さくなデジモンだと。
しかし苦手とする陽の気配の割に、不思議と嫌な感じがしないのは、かのデジモンの持つ『道化』の性質故かと。
……何にせよ、やはりこういう者の方が余程選ばれた存在だと密かに嘆息しながら、ワイズモンは「こちらへ」とジョーカーモンを招き寄せる。
「闇の魔導書の鑑定と、結果次第では寄贈を希望していると伺いました」
「おう。優秀な闇魔術の研究者がいるって聞いてな」
ジョーカーモン。
ピエモンと同眷属と噂されるーーそういう意味では自分と同じーーデジモンだと、ワイズモンは聞いている。
きっと神出鬼没の魔人型の名に恥じないフットワークの軽さなのだろうなと、どこかの誰かを棚に上げた印象を抱きながら、ワイズモンは鋭い爪の生えた、黒い手を差し出した。
「世辞は結構。魔導書をこちらに。早速確認しますので」
「そっか、頼むわ」
ワイズモンのそっけない態度にもにこやかな表情を崩さず、ジョーカーモンは懐から手品か何かのようにスッと魔導書を取り出す。
表紙も題名も無く、クリーム色の紙データで綴じられた、手作り感溢れる、大した厚みも無い魔導書。
そう珍しい形態では無いが、場合によっては装丁の仕事までしなければならないかもしれないなと内心面倒臭がりながら、ワイズモンは受け取ったそれに罠等が仕掛けられていない事を確認してから、本の1ページ目を開いた。
「……!」
にやにやと紅を塗った唇を釣り上げるジョーカーモンに見守られながら、ワイズモンは魔導書を読み進める。
直に貼り付けられた写真。
適当極まりない材料の分量。
形とまとまり、二重の意味で整っているとは言い難いデジ文字の列。
何もかもが拙く、何一つとして褒められたものではないのに。
なのに、
なのに。
その『魔術』は
「あなた」
ワイズモンの声が震える。
魔導書の管理職としてあるまじき事に、力を込め過ぎた指先が、本のページに皺を寄せる。
「あなた、一体、どこでこれを……!」
「……やっぱりな」
おどける、というよりは、半ば呆れたように、ジョーカーモンは肩を竦める。
ただし顔には、ひどく優しい笑みを湛えながら。
「整理整頓が苦手なお前が、そんなにあっさり「大事なもの」を捨てられるなんて、まず信じられなかったからよ」
そうしてジョーカーモンは、ぱちん! と指を鳴らして、自身の師から教わった『偽装』の魔術を解いた。
顔の右半分にはうっすらと火傷の痕。
ハリが失われ始めた肌。
ところどころに、以前は無かった皺。
だが、どれだけ時が流れようと、見間違えられる筈があろうか。
何せ、一時だって、忘れた事は無いのだから。
「友人(ゆうと)……!!」
「久しぶり、ピエモン」
自分の名を呼んだ友人(ゆうじん)を、当たり前のようにかつての種族の名で呼び返して。
堪えきれずに、擬態の魔術を応用して作り上げ、ずっと取り繕っていたワイズモンのテクスチャが崩れ落ちる。
ローブの下から、鮮やかな極彩色の道化の魔人型が現れた。
「どうして」
赤い瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「どうして」
ジョーカーモンと比べて極めて地味な茶髪の中年男性は、滲んだ視界の中でも幻には見えなくて。
人間が。
こんなところに。デジタルワールドに、いる筈が無いのに。
「おいおい泣くなって。心配すんな、間違い無く本物だからよ」
ピエモンの隣に並んだ友人が、自身も目尻に溜めているものを誤魔化すようにして鼻を啜りながら、彼の背をさする。
「遅くなってごめんな。デジタルワールドへの渡航をロードナイトモンに許してもらえるような、『ウィザード』級ハッカーになるまでに、10年以上かかっちまった」
「……魔法使いって事ですか」
「おう一周回って調子戻ってきたなこの野郎」
まあ、積もる話もあるだろうが。と。
友人が、空いている手を空いているスペースに向けてかざす。
「我、黒猫ノ運ビ屋ニ懇願ス。世界隔テル火ノ壁ヲ渡リ、汝、此ヲ運ビ給ヘ」
詠唱と共に、豪奢なカーペットの上に魔法陣が浮かび上がる。
「クール便ノ速達、受ケ取リハコチラデ、オ願イシマス」
もっとも、かつてピエモンがそうして見せたように、その辺は割と「雰囲気」なのだが。
やがて、ぽん! と音がして。
赤いリュックを背負った、フード姿の黒猫のデジモンが、魔法陣の上に現れる。
「よっ。お前も久しぶり、ブラックテイルモン Uver.」
気さくに手を上げる友人に、ブラックテイルモン Uver.は無言でリュックから取り出した包みを手渡し、軽い会釈のみを残して消え去る。
それでも礼を返しながら、友人はてきぱきと荷を解いた。
「友人?」
「色々悩んだんだけど、お互い久々の酒は、お前の好きなやつにしようと思って」
琥珀色で満たされた瓶に、硝子のグラスが2つ。
そして、銀のホイルから覗くのは、黒い照りが艶やかなチョコレートのケーキ。
浮遊の魔術(高等プログラム言語)によって、宙でグラスに注がれたブランデーの片割れが、ピエモンへと差し出される。
「まずは、再会を祝して」
慌てて目元を拭ってから、ピエモンは手に待っていた『魅了の魔導書』ーー人もデジモンも幸せに出来る、少なくともピエモンをかつて幸せにしてくれた『料理のレシピ集』をそっと閉じ、抱え直す。
そうして空いた右手で、ピエモンはグラスのステムに長い指を添えた。
「乾杯!!」
作法も何もなしに、ただただ笑顔で打ち合わせたグラスが、心地よい音色を響き渡らせた。
『宅飲み道化』 おわり
巡る季節3:卵焼きと退化の秘薬
そも、デジタルモンスターとは、人間の作成した人工知能を起源に持つと言われている。
諸説はあるが、有力かつ一般的な考えである事は確かだ。故にこそ、我々の故郷は電子の世界ーーデジタルワールドと、そう呼ばれているのだから。
もっとも、私がこの説を信望し始めたのは、学園の大図書館で目を通したリアルワールドの人工知能研究について記された書物がきっかけなのだが。
かの本には、「優秀なAIとは何か」をテーマとした論説が載せられており、その中でもチェスのような卓上遊戯用AIについて考察した項が、とりわけ私の目を引いた。
曰く。
ゲームに強い「だけ」のAIは、けして優秀ではないのだと。
本当に優秀なAIとは、相手の強さに合わせて力量を正しく調整できるAIの事を言うのだと。
この一文を目にした時ーー私は、心から安堵した。
腑に落ちた。
嗚呼。私はけして、優秀なデジモンなどではないのだと。
むしろ、誰よりも不完全な、欠陥品のようなデジモンなのだ、と。
ろくな研鑽も抜きに世代を繰り上げ、一度目を通しただけでほとんどの魔導書の内容を理解し、魔術を行使できるようになる。
そんなものが、優れたデジモンである筈が無い。
だから私は。ただただ強いだけの私は。けして皆に妬まれ、疎まれ、憎まれるようなデジモンではないのだ!
……突拍子の無い幻である事は判っていた。
根拠の無い希望に過ぎない事など重々承知していた。
それでも、
それでも。
「リアルワールドに行こう」
決心を一体、口に出す。
そうすれば。
私の『才能』を一種の弱さと断じてくれる世界に行けば。
ひょっとすると、何かが変わるかもしれない、と。
私はその時、確かに夢を見ていたのだ。
*
「……そういうところじゃね?」
そう言って友人は目を細めた。所謂ジト目というやつだ。私もよくやるから知っている。
「なんですか、「そういうところ」とは」
「別にぃ? ま、お前の心情が周りには伝わらないのと一緒で、お前も凡人の気持ちはわかんねーんだろうなって」
「……言い得て妙かもしれませんね。それを私と同じく長らくぼっちを拗らせていたあなたが言っていなければ、含蓄も感じられたのでしょうが」
「そーうーいーうーとーこーろー!」
いー、と威嚇するように歯を見せ、私の脇腹を突く友人。
絡み酒だ。酒は好きだが特別強い訳ではないニホンジンらしく、彼の顔は全体的にほんのりと赤みを帯びている。
とはいえ友人のこの態度は、酒の力を借りての物ではないと。既によく理解している。
仮に酒の『魔力』とやらを以てしても、私にこうも気安く接してくる者は、これまでいなかったのだから。
次元を渡る魔術でリアルワールドに侵入し(ちなみにこの世界の守護を担当しているロードナイトモンには一瞬でバレた。ロイヤルナイツ。噂には聞いていたが、大したものだ)。
こちらの世界での生活に馴染むためとかこつけて、私の現在の姿ーーピエモンの見た目通りに、サーカスでの職を求め。
そうして、結局。「私は優秀なデジモンではない」という証明は未だ成せないままではあるがーー私はそこで、1人の人間と同僚となり、そして友となった。
今でもよく覚えている。
「なあ、今日ってこの後、空いてるのか?」と。不安を微かな眉間の皺に隠しながら、気を使っているのが丸分かりの調子で切り出されたあの言葉を、……私は私で、思わず聞き返したのだっけか。
あの時出された枝豆が、このアパートの大家ではなく、彼が購入したものであるとは既に知っている。
全く、友人も詰めが甘い。自分で口を滑らせてしまうなんて。……その上で、ピエモンは酒が好きというネット情報だけを頼りに私を誘ってくれた彼の心遣いが、改めて嬉しかったが。
そして、彼がそんなだから。いつの間にか気を許していた私もふと、口を滑らせてしまったのだろう。
彼と酒を酌み交わすようになって、半年近くが経過した、冬のある日。
私は彼に「こちらの世界に来たきっかけ」の話をした。
いや、それまでにも簡単に話した事はあったが、詳しい動機を語ったのは、おそらくこれが初めての筈だ。
彼なら、私の『強さ』を大した問題にしないと、確信を持てたからだろう。……何せ、ロードナイトモンと直接対峙しても、この調子を貫いていたくらいなのだから。
それで、返ってきたのは、ジト目だったという訳だ。
まあ、彼らしいと言えば彼らしい。
下手に同情などされた日には、その方が耐えられなかっただろう。
「しっかし、お前が究極体ってだけじゃなくて、規格外の天才なのは聞いてたけど」
鍋から新しく具を装いながら、友人が小首を傾げつつ口を開く。
「魔術以外もそうなのか? いや、芸事に関しても確かにそうかもだけど……掃除なんかは碌に出来ないのに?」
「す、少しマシになってきたでしょう最近は。箒って飛行用の機具のイメージが強くて、気を抜くと飛んでしまいそうになるんですよ」
「うわぁ急にファンタジーな世界観展開するな」
「私と鍋をつついている時点でファンタジーは振り切れているのですよ、本来」
「それはまあ、そう」
とはいえ「自分にも碌に出来ない事がある」と知れたのは、収穫のひとつと言えばひとつ……なのだろうか……。力の代償が生活力の無さとして表れているとしたら、さしもの私も、輪をかけて凹むが。
「えっと、じゃあさ。お前、料理はどうなんだよ、料理は」
なんて思考している内に、新たに問いかけてくる友人。
「料理……ですか。この前おうどんならお作りしましたが」
「おうあん時はありがとな。いやまあそりゃ、最低限コンロが使えるのは分かったけど、なんかこう……」
「調理工程がもう少し複雑なもの、という事ですか?」
頷く友人。
「まあ、簡単なものなら多少の心得はありますが、デジタルワールドの『料理』は嗜好品としての面の方が強いですからねぇ」
「それじゃあ……卵焼きとかは、どうなんだよ」
「卵焼き」
今度は私が首を傾げる版だった。
「あの、巻いたタイプのやつですよね? どう、とは?」
「作った事は?」
元の位置に戻した首を、今度は横に振る。
「ならちょうどいいや。いや、お前がホントに「何でも出来過ぎる天才デジモン」なら、あれも初見で作れるのかなって」
「まさか、今作れなんて言いませんよね?」
「そのまさかだよ。俺も作るから、卵焼き対決しようぜ」
「あなた、ちょっと酔っ払ってません?」
……。
「正直、あまり気乗りはしませんねぇ」
「まあ鍋あるのに卵焼き作るのもアレか」
「そうじゃなくて……」
友人が私の顔を見上げ、それからふんと鼻をならした。
「なんだよ、やる前から勝った気でいるのか?」
「!」
「顔に書いてあるぞ、「もし勝ってしまったらどうしよう」って」
どーもしねーだろ、と友人は肩を竦め、器に取った分の具を随分と薄まったポン酢ごとかき込んで、その場から立ち上がる。
「冷めてたから負けたって言い訳できるように、後攻は譲ってやるよ」
「普通逆じゃないですか??」
にやりと笑って、赤ら顔の友人がキッチンへと消えていく。
……どうやら、卵焼き対決とやら。結局やる流れになってしまったらしい。
舞台でなら、顔などいくらでも取り繕えるのになぁ。
卵を割る音、掻き混ぜる音。
じゅーじゅーと焼く音に耳を傾けながら、約数分。
「ほら、交替だぞ」
皿に卵焼きを乗せた友人が出てきて、私にキッチンへと向かうよう促す。
「炎魔術主席のお手並み拝見だ」
「……仕方ありませんねぇ」
1品作ってもらった手前、断る訳にもいかないだろう。
重い腰を上げ、キッチンに足を踏み入れる。
「出してあるものは何でも使っていいぞ」
「どれどれ」
卵が2個に、あとは調味料が数種類。
個数はきっと同じだろうから、彼が作ったものと合わせて、計4個も卵を……妙に奮発している。余ったら明日の朝食にするつもりなのかもしれない。
彼が作っている間にスマホ型端末で調べた内容通りに、調理を開始する。
まずはボウルに割り入れた卵を軽く溶き、選んだ調味料を入れてから、空気をあまり含ませないように箸の先で、黄身と白身が均一になるよう混ぜ合わせる。
キッチンペーパーに染み込ませたサラダ油を敷いた卵焼き器(何故わざわざ専用のものを用意してあるのか以前尋ねた事があるのだが、弁当を自炊する事を視野に入れて購入しておいたのだそうだ。まあ、結局面倒なのと社員食堂があったのとで、使用頻度はあまり高く無いらしいが)を温め、軽く箸先につけた卵液を引いてすぐに固まる温度になったところで、卵の3分の1程を流し入れる。
気泡を潰しながら、半熟になったぐらいで卵焼き器を傾け、奥から手前に巻いていく。
後は、また油を敷いて、同じ事の繰り返しだ。
「どうぞ、卵焼きです」
キッチンを出た私は、先に置いてあった友人の卵焼きの隣に、自分の作ったものを並べた。
友人がそれを、まじまじと見下ろす。
「おー……言うだけあってマジで綺麗だな。お前ホントに初めてか? コレ」
「正真正銘、初めての作ですよ」
「マジか。まあ手先とか器用だもんな、お前」
並べてみると、まず色つやが違う。……私の作ったものの方が、表面が滑らかな印象で、黄色味が強いのだ。
……久々に味わう感覚に、背中がそわそわする。
また、必要以上に「出来て」しまったんじゃないか、と。
「ま、審査は味だからな。早速食おうぜ」
友人がこちらに来る時に一緒に運んできたらしいナイフで卵焼きを切り分ける。半分はそのままにしてあるあたり、やはり残りは明日の朝にでも回す気らしい。
「それじゃ、あつあつの内に早速」
いただきます、と。
この食卓で2度目の手合わせをして、友人が私の作った卵焼きを口に運ぶ。
私もなんとなしにそれに倣って、自分のものを。
……うん。
「うん、美味い美味い。食感もふわふわだし、味付けもーー」
「……」
「でも、まあ。……いいから俺の作ったやつ、食べてみろよ」
「……では、失礼して」
促されるまま、しかし恐る恐る、友人作の卵焼きを、続けて口に運び、咀嚼する。
「……あれ?」
口当たりは、私の作ったものの方が滑らかな筈なのに。
なのにーー
「こちらの方が、おいしい」
いや、厳密には、少し違う表現になる気がする。
これは
「おう、お前の「口に合う」だろ?」
私の言いたい事を的確に言語化して、友人は改めてニヤリと笑った。
「!」
「検索で出てくるレシピってそのタイプの方が多いんだけど、お前なら絶対こっちの方が好きだと思ってさ」
「『こっち』?」
「関西風卵焼き。俺の地元の方じゃ、砂糖は入れないのがスタンダードなんだ」
「……!」
彼の言う通り、私は出してあった砂糖を使って卵焼きを作った。
レシピに、そう書いてあったからだ。
「魔導書に書いてある魔術を見ただけで使えるって事は、逆を言えば見なきゃ使えないって事だろ? レシピを忠実に守るあまり、自分自身の「好み」さえ見落としたのがお前の敗因だあ」
そこまで言って、なんか料理対決漫画みたいだな、と、友人が得意げに笑う。
「でも、どうして私が、こちらの味付けの方が好みだと?」
「んなモン、食ってる時の様子見てりゃ大体わかるよ」
そして、さも当たり前のように、そう言うのだ。
「でも、たまにはいいな、甘い卵焼き」
友人は、残りの卵を口に放り込む。
「何より、誰かに作ってもらった飯は、ありがたみが段違いなんだよ」
それはーーわかる気がする。今なら。
「いつも……ありがとうございます」
「なんだよ急に、しおらしい」
「それはそれとして、勝負は私の勝ちという事でよろしいですかね。関西生まれのあなたも認める絶品卵焼きを作りましたので」
「前言撤回だこの野郎……! 俺の作った方はタッパーにでも入れて持たせてやろうかと思ったけど、やっぱ止めだな」
「ゆるしてください」
本当は完敗のつもりだったのに、つい照れ隠しが口を突く。
素直さを美徳とするには、私は他者との関わりが不得手過ぎて。
……やはり、私は優れたデジモンなどではないのだ。
少なくともーー彼は、私をそういうもので在らせてくれる。
だが、もしも。
もしも私が、今度は彼の味まで再現できてしまったら。
それでも友人は、嫌な顔ひとつしないでくれるのだろうか。
「ま、こんな感じで、たまにはお前がつまみを作ってくれてもいいんだぞ」
「仕方ないですねぇ。ではその内、ウィッチェルニー式焼き魚でも作ってあげましょう」
「え、何それ気になる」
「まず雷の術式を用意します」
「コンロ使って」
*
それから、本当に数回程、私が料理を作る機会はあったが、なんとなしに卵焼きは避けて。
何にせよ、友人は気にする様子も無くて。
私自身、あの日頭の片隅を過ぎった不安は、どんどん奥へ奥へと追いやられていって。
いつかそれすら、酒の席での笑い話になるんじゃないだろうかと。
いつしか、そんな夢を見始めて。
「ようやくだ。ようやくひとつ奪ってやったぞ」
ボウルに割り入れた卵を軽く溶き、調味料を入れてから、空気をあまり含ませないように箸の先で、黄身と白身が均一になるよう混ぜ合わせる。
キッチンペーパーに染み込ませたサラダ油を敷いた卵焼き器(リアルワールドの製品を売っている店で買ってきた)を温め、軽く箸先につけた卵液を引いてすぐに固まる温度になったところで、卵の3分の1程を流し入れる。
気泡を潰しながら、半熟になったぐらいで卵焼き器を傾け、奥から手前に巻いていく。
後は、また油を敷いて、同じ事の繰り返し。
「……できた」
できてしまった。
ブロッケン山の魔法学校。
すんなりと復職出来た闇の魔導書の管理職の立場を利用し、業務時間外の調理室を借りて、私は「あの日」の答え合わせを始める。
見た目には非の打ち所がない、卵焼き。
今回は、砂糖は不使用。どころか、あの時の味覚データを参照して、寸分違わず彼の味付けを再現してある……筈だ。
結局。やろうと思えばこういう真似が出来てしまう私など、いつかは彼の不興を買っていた筈だと。……諦めを、つけようと思ったのだ。
勝手な理由を押し付けて、物事を諦める。……リアルワールドでは、『酸っぱい葡萄』という寓話があるんだったか。それを卵焼きでやろうとしているなんて、なんとも滑稽な話だ。
「いただきます」
向こうで身についた食前の動作を挟んで、すっかり慣れ親しんだ箸を使って、卵焼きを切り分ける。
焼き加減は上々。ふんわりと柔らかく、しかし弾力があって崩れない。
口に運び、咀嚼する。
……。
「……い」
箸を置く。
持ち上げるだけの力が、抜けてしまったから。
「……し……い……」
飲み込んだ後にも、塩味が溢れる。
「おいし……い」
私は
「おいしくない……おいしくない……っ、おいしくないっ!!」
泣きながら、胸を撫で下ろした。
ああ、ああ。
こんなもの、全くもって美味しく無い。
友人の作った卵焼きは、もっと
もっと
「帰りたい……!」
嗚咽と共に、望みが口を突く。
帰るも何も、ウィッチェルニーこそ、ブロッケン山の魔法学校、その大図書館こそ、私の古巣だろうに。
……そうだ。
あれだけの騒ぎになった。
例え友人がそれを許すと言ったとしても。
私があのまま彼の側に居れば、きっと、兄弟子が加えたもの以上の危害が彼に及ぶとは想像に難くない。
私は彼が好きだ。
唯一無二の『友達』だと、そう信じている。
信じてもいいと、信じさせてくれた。そんな人間なのだ。……友人は。
だから。私の存在が、彼を傷つけてしまうなら。
幸せの邪魔をしてしまうなら。
その全てを持ち去って。
美しい思い出だけを、リアルワールドに置いていこう。
「……ごちそうさまでした」
塩の味しかしない卵焼きを、作った以上は完食し、手を合わせる。
そうしてから、私は机上にあらかじめ用意しておいた、黒い液体の入った瓶を見やった。
酒ではない。……卵焼きも、きっと友人の作ったものであれば、日本酒などによく合っただろうが。
これは、退化の秘薬。
その名の通り、デジモンを1段階退化させる魔法薬だ。
……いや。退化するだけなら、他に魔術はいくらでもある。
なので、正確には。進化に至るまでのデータをーーもちろん、進化後の記憶等も含めてーー削除する薬、と言った方がいいのか。
作製が難しい薬だが、……何せ、魔導書にデータがある以上は、だ。
こちらで生活するのに必要な事項は既にメモを残してある。……もっとも、大した量にはならなかったが。
書き残す事もしないと決めた分はーーピエモンの姿と、一緒に。
「さようなら、友人」
夢の中でさえ面と向かって告げられ無かった、別れの言葉を虚空に吐き出して。
私は、退化の秘薬を手に取った。
巡る季節2:タルト・タタンとココア
「正気か、貴様」
「酔っ払いがこんな事言えるかよ」
声まで堅苦しいなあと肩を竦める。あの比較的彫りの深いタイプのイケメンフェイスに、殊更不快眉間の皺が刻まれている様子が目に見えるようだ。
「フェイクモンの、恩赦」
ロードナイトモンは、俺の発言を繰り返した。
「無理なのか?」
「被害者である貴様が提案している以上、考慮に入れる事は出来る」
「じゃあ」
「だが私は反対だ」
きっぱりと断じるロードナイトモン。
もちろん、私は、と言いつつ、個人的な意見では無いのだろう。
そもそもこうやって直接通話するのだって、フウマモンに無理を言って、やっとの事ーー特例中の、特例だ。
「こちらの世界で、人間に危害を加えればどうなるか。私は、それを他のデジモンに示さねばならない。ましてやフェイクモンは私の部下だ。甘い処断は、人間の側にも不満を招く」
「俺が声明を出したとしても?」
「個人の一言の力無さは、……貴様も思い知っているただ中であろう」
「……」
「それに、貴様。……本当に許しているのか。フェイクモンを」
「許せる訳ねぇだろ」
抑えようとしていたのに。
噛み付くように返してしまった。
「でも……でもっ。俺が、許さなきゃ」
「……」
「間違った事をした奴に、またやり直してもいいって。……人間だって、デジモンにそう言えなきゃ。不公平、だろ」
握りしめていた拳に、さらに力が籠る。
行き場の無い怒りが、爪先から手の平に食い込んだ。
「ピエモンと1年以上友達やっといて。そんな事も出来ないなんて。そんなの、アイツに顔向けできないだろ……!?」
しばらく、沈黙が続いて。
俺が鼻を啜る音ばっかりが響いて。格好つけている手前、恥ずかしかった。
「素人考えだな」
やがて、ロードナイトモンはそう吐き捨てて。
「だが、考慮すると約束しよう」
そう、確かに言い残して。
ロードナイトモンは、通話を切った。
*
そうして、俺はサーカスを辞めた。
『ジェスター』について知らぬ存ぜぬを貫く割に、保身に走って煮え切らない態度と対応を繰り返す団長に、ほとほと愛想が尽きたからか。
自分でもびっくりするくらい、あっさりとその決断に踏み切れた。
……おかみさんや先輩後輩達は引き止めてくれたし、ピエモンの事も心配してくれている風で、だから、俺達の居た世界が「嘘」じゃあなかったって、安心できたのは良かったけれど。
でも尚の事、そういう人達に迷惑はかけたくなくて。だからこの街にはもういられないなと、むしろ俺の決意は固まった。
……職場にまで来たからなぁ、記者の類が。
入院生活もそうは長引かなかったし、普段から鍛えていたお陰で、力仕事という選択肢があるのは正直助かった。
工事現場の先輩達は、もちろん厳しいが普段は案外気さくで、件の事件の被害者だとバレても、「デジモンの攻撃をくらってもぴんぴんしてるぐらい頑丈」と自己紹介すると、どこに行っても大概ウケて、可愛がってもらえた。
そんな話で笑いを取っている自分は、たまらなく嫌だったけれど。
……ただ、そうだな。
人と違う事がやりたいと地元を飛び出し訳だが、こうしてみると、「人と同じ」だと思っていた仕事にどれだけ世界が支えられているのかも見えてきて。
だから、悪い事ばかりじゃないって、そう思う。
……そう思えるのは、コミュ障同士でも事あるごとに酒を飲み交わした友達と、いろんな事を語らってきたからだろうが。
そうやって、バイトを転々としながら食い繋いで。
時間を見つけては、とある『参考書』とにらめっこをして。
そうやって1年が過ぎた、ある冬の現場での事だった。
「おい、お前に用だってよ」
明日の作業に向けた点検作業中の俺に、髭面の現場監督がによによと気味悪い笑みを浮かべながら、手招きをしている。
「俺ですか?」
「んだよ、とぼけやがって。お前も隅に置けないな」
何のことやらさっぱりの俺に、今日は代わってやるから早く行けと帰り支度を促す監督。
釈然としないまま礼だけは言って、荷物を纏めてバリケードを出る。
と。
「お久しぶりですね」
「げぇっ、フウマモン!?」
「げえっ、とは何ですか。げえっ、とは」
それに、あまり軽々しく外で種族名を呼ばないでください、と、相変わらずのキャリアウーマン風の擬態(もっとも、最近めっきり冷え込んだからか、今回は黒いマフラーを巻いているが)で、フウマモン。
……彼女か何かだと思われたのか……コイツと……。
「まあ、1年経っても相変わらずで安心しました。お元気そうで何よりです」
「どーも。そっちは?」
「ようやく以前の落ち着きを取り戻してきた、といったところですね」
あの事件以来、ロードナイトモン達も対応に追われていたのだろう。
それを微塵にも感じさせない振る舞いは、やはり「出来る忍者」のそれといったところか。
「で? 出来る忍者スキルで、またどうして俺んところに?」
「歩きながら話ましょう。見られていますよ、同じ現場の方々に」
「……」
後ろは確認しなかった。
ただ、明日の仕事は多少億劫になった。
「現在の貴方の暮らしについては、ある程度調べてあります」
「うーん、プライバシー!」
そりゃ、直接会いにきた以上判っていたが。携帯もまた番号変えて、教えなかったし。
「それから、貴方が学んでいる事柄についても」
「……」
「正直なところ、独学では厳しいのでは?」
「……まあな」
適当な自販機を見つけて、あたたかいココアを2缶購入する。冬のちょっとした楽しみだ。
……反面、あれ以来、酒はほとんど飲んでいない。今年はボジョレーの解禁日までスルーしちまったぐらいだ。
「お金はそれなりの額もらったけど、専門学校に通いながら生活出来る程じゃないし……いや、正直『学校』って空間がもう勘弁、ってのはあったけどな」
片方をフウマモンに渡し、残った方を開けて口をつける。
動いた身体に、甘ったるい熱が染み渡った。
……やりたい事はある。今回は、漠然と、じゃなく。
ただ、出来うる限りの努力はしているつもりだが、それを叶えるための方法が解っているかと聞かれればーー
「お力をお貸しできるかもしれません」
同じようにココアを啜ってから、フウマモンがぽつぽつと話を続ける。
ココアの熱がこもったのか、サイボーグ忍者の吐息も、今だけは白い。
「……いいのかよ。いくら事件の被害者だっつっても、国側のデジモンがそんな、一個人に手厚いサポート、斡旋して」
「国の所属、とは言っても。これは拙者達が個デジ的に考えた事でもあるのです」
「?」
「拙者とは、友達ではありませんでしたか?」
そう言って、フウマモンは下げていた鞄から分厚いファイルと、白い長方形の箱を取り出す。
「貴方がそのつもりで無かったのなら、今日からそういう事にしましょう。これはその証です」
フウマモンは箱とファイルを俺に押し付けて、冷えのぼせしたみたいな顔にぐいとマフラーを引き上げ
「ココア、ご馳走様でした」
と一言言い残し、一瞬にして闇夜に掻き消えた。
「……一方的だなぁ」
しばらく(多分)フウマモンの消えた方角を呆然と眺めてから。俺はココアの缶を持ったままどうにか箱を開ける。
入っていたのは、一切れのアップルパイ……にしては生地よりリンゴの割合が多いな。アップルパイっぽい、洒落た菓子だ。
少し悩んだが、おあつらえ向きの飲み物がある内に、と、アップルパイ(仮)を持ち上げ、齧り付く。
「……甘ぇ」
だけど、久々に食べたフウマモンの菓子は、やっぱり美味かった。
*
「おおう! 待っていたでおじゃるよ〜!!」
ささ、入るが良い。と城ーーではなく、古民家に俺を上げるトノサママメモン。
あの事件の後。デジモンが観光地で暮らしている点が槍玉に挙げられる、その前に。
トノサママメモンは「同胞の過ちへの謝罪」を添えながら、「民に不安を与えぬように」と、自ら隠居を発表した。
もちろん、やはりというか、心無い憶測をする奴らは居たけれど、多くの人々には「ちゃんとしたデジモン」と自らを印象付ける事に成功したようだ。
少なくともこの地域では、トノサママメモンは相変わらず慕われている。
未だマスコットキャラクターとしてグッズは販売され続けているのも、こうやって一軒家を貸し出されているのも、その一軒家に余所者の俺と「もう1体」が転がり込んでも許してもらえているのも、全部が全部、トノサママメモンの積み重ねてきた『徳』の証拠だ。
うーん……マジでやり手だよな、トノサママメモン……。
「てか、本当にありがとうな、トノサママメモン。……でも、本当にいいのか? 俺、ここで暮らして……」
「良い良い、気にするな。所謂『るーむしぇあ』でごじゃる。タダで住まわせる訳では無い故、そなたもあまり気後れするで無い」
扱い上は、住み込みの家政夫、という事になるらしい。トノサママメモンの身の回りの世話が、俺の仕事になるそうだ。
家賃や光熱費は気にしないでいい、どころか給料まで出る、と。……実質0円どころじゃないんだが。許されるのか、こんな事が。
「それに、志のある若者に手を貸すのは……何と言ったでおじゃるかな……おお! そうじゃ、「のんぶれす・おぶりーじゅ」でおじゃる」
「うーん、これは為政者」
「それに、困っている友は、放っておけぬものでおじゃる」
にか、と笑って。トノサママメモンが扇を開く。
家の中に、はらはらと桜が舞った。……こりゃ、掃除のし甲斐がありそうな家だ。
「ありがとう。……これからよろしくな、トノサママメモン」
「うむ! よろしくでおじゃる」
そうして握手を交わしていると、奥のふすまがからりと開いた。
中から顔を覗かせた、その「ピンクの魔女」としか形容できないデジモンは、俺を視界に収めるなり、ばっとこちらに抱きついてきた。
……。
…………あ、
当たってる……!!!!!
「ワルダモ」
「すまんかった……すまんかった……!!」
俺の焦りは、ワルダモンのしゃくり声に掻き消される。
「ああ、顔にまで火傷が残ってしもうて……!! すまなんだ……妾がしっかりしておらなんだばっかりに……!」
「……ワルダモンのせいじゃないよ」
それよりも、と。半ば強引に、俺は話題を切り替える。
「ピエモンは? ウィッチェルニーに帰ったって聞いたけど」
「……あやつは」
身体を離し、金の紋様が輝く瞳を潤ませながら、ワルダモンが鼻を啜る。
「退化の秘薬で、ワイズモンに戻って、元の仕事……大図書館で闇の魔導書の管理を勤めておる」
「退化の秘薬?」
「その名の通り、デジモンを退化させる薬じゃ。……いや、進化までの要素を……」
言いかけて。
子供みたいに顔を歪めて、目尻に涙を溜め始めたワルダモンの背を、彼女の隣に回ったトノサママメモンがぽんぽんと優しく叩いた。
「そなたからは言いにくい事であれば、麻呂が後ほど、代わって伝えておく故な。ひとまずゆっくり、気を落ち着かせるが良い」
「うう……かたじけない、トノサママメモン……」
「そなたは、この部屋に居る者に会ってくると良い。大事は無いよう、麻呂も控えておく故、心配いらぬでおじゃる」
「本当にありがとな、トノサママメモン」
でも、その前に。と。
俺は改めて、ワルダモンへと向き直る。
……こうやって自罰的に泣いてるところを見ると、根っこの部分は案外近かったのかもしれないな、この師弟。
「ワルダモン。これは、マジで。ワルダモンを責めるつもりは、全然無いから」
「……」
「だって、ワルダモンがいなきゃ、あんな愉快な友達には出会えなかった訳だしな」
嗚咽を漏らすワルダモンをトノサママメモンに任せて、襖を開ける。
見覚えのある背中が、縁側に腰掛けていた。
「……まだそのガワ使ってんのかよ」
本当に、背中だけだ。
「これしか用意できないまま、枷をつけられましたので」
振り向かないまま、そいつは右腕を持ち上げる。
ぱっと見金属製のブレスレットのようだが、あれだろ。魔力を封じるやつ的な。
「……君を傷つけた事は謝ります。謝って許される話ではないでしょうが」
「おう、許す気はねえ。許す気はねえけど、謝る気があるならせめてこっち向けや」
フェイクモン、と呼びかける声は、やっぱり、どうしても低くなって。
ようやくこちらに向き直ったフェイクモンは、やはり目の色以外は『ジェスター』の顔をしていた。
「なら、何故僕を生かしたのですか」
「そうやって死に逃げされる方が嫌だからだよ」
「そうですか。……お陰で前にも増して、惨めな気分を味わえていますよ」
「……」
「良かったですね」
深呼吸。
アンガーマネジメント。
何秒だっけ? ……まあ、いいや。
「なんであんな事したんだ」
「耳にタコが出来る程聞かれましたが。……人間の君には解りませんよ。解るとお思いかもしれませんがーーデジモンにおける才能の差は、絶対なんです」
フェイクモンが、青い瞳を細める。
「あの化け物を、一度でいいから出し抜いて。勝った気分を味わってみたかった。戦って勝つ事が全ての、デジタルモンスターとして」
唇を、強く噛み締めながら。
負け惜しみみたいに。
「……俺は」
もう一度、深呼吸をして。
ジェスターの顔をしたフェイクモンを睨みつける。
多分ジト目で。呆れた顔で。
「お前がピエモンに勝ってるところ、ぱっと見でも10個ぐらい挙げられると思うぞ」
「……は?」
呆けるあまり、噛んでいた唇を開くフェイクモン。
俺は構わず続けた。
「少なくとも、腹芸の出来ないアイツが国の組織に潜り込める筈無い。ほら、まずここから1個勝ってる。コミュ障だし空気は読めないしシンプルに口が悪いし……」
「き、君」
フェイクモンの表情が引き攣る。
「奴の、アースリンのの友では無いのか、君は」
「友達だから、悪いところも山ほど知ってんだよ!!」
距離を詰めて、フェイクモンの胸ぐらを掴む。
ああ、間近で見ても、全然違う顔だ。
ピエモンなら、もっとドン引きが顔に出る。
「ピエモンの事何にも知らないクセに、勝手に負けた気になってんじゃねーよ!! バーカ!!!!!」
これから一緒に暮らす内に、一から十まで教えてやる。と宣言して。
俺はフェイクモンから手を離した。……堪えきれずに固めていた、反対の手で拵えた拳は、どうにか前に出さないままに。
「……罪は受け入れる。……頼まれた仕事は、やり遂げます」
「そーしてくれ」
それから俺達は、これから毎日嫌という程突き合わせる事になる顔を、この時はそらしたまま、部屋を後にする。
鼻を啜って、目元を拭う。
こんな顔をしている暇は無い。
今度は、俺が