近所の変なお姉さんと少年の妖怪話です。
じゅう、と墨が染み込み、穂先が軽やかに紙上を滑っていく。
とある街の片隅の長屋に、その人物は居を構えていた。
何週間も机に向かい、一心不乱に絵を描いているかと思いきや、またある時は突然長屋から飛び出して長い時間留守にすることもある。
既に嫁いでいてもおかしくない歳だと言うのに、ひたすらに絵に向き合うその人物は、近所からは変わり者として扱われていた。
極めつけは描くものである。
"もののけ"を描く。
家賃の集金に来た大家の妻が見たそうで、床や壁に、奇妙奇天烈な姿をしたもののけの絵が貼り付けられ、悲鳴をあげて帰ってきたそうだ。
近年、有名な浮世絵師達がこぞって"妖怪画"を描いているが、それに似たようなものだろう。
大人は大変気味悪がっていたが、子供たちとしてはなかなか手にとれぬ妖怪画に近しいため、恐れられながらも人気はあった。
近所の声がどうであれ、彼女にはどうでもよいことだ。
乱れた髪を簪でまとめ、口にくわえた細筆を噛み締めながら、その女はひたすらに筆を走らせていた。
◇
多少立て付けの悪い引き戸を開くと、墨をたっぷり含んだなんとも言えぬ独特のにおいが鼻をつく。
しゃしゃ、しゅう、と筆が走る音だけが聞こえる薄暗い部屋の中に女はいた。
「かきねさんこんにちはぁ!母ちゃんがかきねさん心配してたけど大丈夫かよ」
隣の長屋に住む少年が叫ぶと、かきね、と呼ばれた女は小さく肩を震わせて勢いよく後ろを振り返った。
「なんだ虎坊か、びっくりさせンじゃあない。筆があらぬとこに走るとこだったよ」
筆を一旦置き、尻を軸にぐるりと振り向く。
草履を脱いで勝手に部屋に上がる虎坊を咎めもせず、かきねは紙を雑に払いのけてその場に横になった。
「うわあ、すごいや。かきねさんの妖怪画迫力ある〜」
「いやまだもうちょい迫力がほしいね、こんなもんじゃない」
紙に描かれていたのは巨大な龍。
しかし、ただの龍ではない。
長い髭をたくわえ、鎖が胴体に巻きついた姿の龍だ。
雷を纏う雲の中で波打つように長い胴体を表した迫力満点の姿。
龍を描いた絵はたくさんあるが、このような妙な姿の龍は見た事がない。
「かっけぇ〜!強そうだ!」
「おれが北の方に旅に出た時にな、見たのさ。雷雲の中うねる姿、ありゃもしかしたら青龍なんじゃあないかねえ」
この女が変わり者と言われる所以のひとつ。描かれた妖怪をさも見たかのように語る、というものだ。
押し付けるような言動をしていないのがまだマシだが、十分奇妙である。
他の紙を手に取る。
噂だけ聞く、肥前国にある出島に出入りする南蛮人のような格好で背中に剣を背負った男。
上半身が武士、下半身が馬の姿の妖怪。
顔は隠れているが、羽衣を纏い背中から翼を生やした、裸同然の美しい天女……
「助平小僧」
「ち、ちがうってば!」
天女の絵を押し付け、虎坊は真っ赤になった顔をブンと逸らせば、大口を開けてかきねが笑う。
「そいつは肥前国に行った時に見たのさ。美しい天女たちだったよ」
「また嘘ばっかり」
「本当さァ。見ようとしないだけさ、見えないものを信じることが大事なンだよ」
耳にタコができるほどに聞いたかきねの決まり文句に、虎坊は溜息をつきながら気だるげに頷く。
「で、坊。なんかあるんじゃないか。おれに渡すお前の御母堂のおはぎとか。おつかいはいいのかい」
「あ!いけね!父ちゃん!はいこれ!食ったら皿と桶返せよ!じゃーな!」
持ってきた桶を突きつけて、虎坊は急いで草履をはいて長屋を飛び出す。
そそっかしい様子にくつくつと笑いながら、かきねは再び机に向き合う。
僅かに空きを作った机の上に皿を置き、おおきなおはぎにかぶりつく。
部屋の奥の闇に目線を向けて微笑む。
「おう、いいとこに来たね。どれ、お前の分もあるし。ちょっと食ったら絵の見本になってくれや」
◇
虎坊は帰りを急いでいた。
お使いを終わらせ、友達と町外れの神社で遊んでいたのだが、すっかり日が暮れてしまった。
山の木の実を探すのに夢中になりすぎて、友達は既に先に帰ってしまい、1人薄暗い中、早足で帰路についていた。
いつもと違う空気に妙な焦りが虎坊を更に急がせる。
まるで後ろから誰かがおってきているような。
昼間に言われたかきねの言葉を思い出してしまい、心底後悔する。もし後ろに"見えない何か"がいたとしたらどうしよう。不安が膨らみ始める。
背の高い草の原っぱが両脇でざわめき、烏の不穏な鳴き声が虎坊をさらに恐怖に掻き立てた。
走り続ける最中、坂に差し掛かったところで虎坊は足を止めた。
なんてことない坂だが、坂の前に建てられた石灯篭と、地蔵の首がすっぱりと刀で切られたように落ちている。
そして、坂の途中に、大きな物陰が蠢いていた。
「わ、わァ……」
妖怪だ。
信じていなかったはずなのに。
鎌のような両腕がしゃあ、と金属が擦れ合う音を立て、もののけが虎坊へと振り返る。
『とうろう坂には近付いたらいけないよ!』
母の言葉が蘇る。
とうろう坂におばけが出るから近寄ってはいけない、食われてしまうよ。
そう言われていた。
嘘だと思っていたのに、
腰が抜けてすっかり立てず、ただ悲鳴を上げられずに近づいてくる様子を眺めることしか出来ない。
震える口が母の名を紡ぐ前に、鎌を振り上げられ、悲鳴をあげて蹲って頭を覆う。
死ぬ!
「坊!」
激しい金属音と、目が眩む程の激しい火花が目の前で散る。
震えながら顔を上げると、目の前にしゃがんでいたのはかきねであった。
「かきねさん!」
「坊!御母堂が心配してたから様子を見に来たらお前さんとうろう坂を近道にしようとしていたな、やれやれ困った坊だよ」
柔らかな胸の中に抱きしめられ、場に合わず顔を赤らめるが、その気持ちすら吹き飛ばす激しい剣劇のような音に思わず着物を握りしめた。
後ろを振り向くと、巨大なカマキリの妖怪と、同じくらい巨大な龍が戦っている信じられないような光景が広がっていた。
鎧を纏った龍が、長くしなる尾をカマキリに激しく打ちつけ圧倒する。
「いいぞー龍之丞!」
かきねから龍之丞、と呼ばれた龍が視線だけをこちらに向けて小さく頷く。
虎坊を腕から離したかきねは腰に提げた和綴じの白紙を広げ、矢立から筆を取り出す。
まさかこんな状況で絵を描くつもりなのか。正気では無い。
「とうろう坂と呼ばれるには訳がある。今は首なし灯篭になっているが、名前の由来はあの灯篭が目印だからとうろう坂、という訳。だが、とうろうって呼ぶ別のモンがあるから、名前が意図せずおばけを呼び寄せちまったのさ」
素早く筆を走らせ、カマキリ妖怪の姿を正確に紙へと描写していく。
龍之丞は押されることなく周りを飛びまわり、斬り掛かる腕を尾で弾き飛ばす。
「おばけは名前が着いたら強くなってしまう、そして坊や他の人間が怖がるほど力をつけて……手がつけられなくなってしまうンだ」
龍之丞が手に持つ珠が輝く。
その光を全身に帯び、咆哮すると同時に車輪の様に回転しながらカマキリへと飛びかかった。
鎌を潰され満身創痍になったカマキリは抵抗する力もなく、縦にすっぱりと装甲ごとぶった斬られ、その場にボロボロと崩れ落ちていった。
「名を"蟷螂坂"、とでも名付けようか」
描ききったカマキリの姿を確認して、かきねは本を閉じる。
信じられない光景に、口を開けて呆然とする虎坊の頭を撫でながら、こちらにゆらりと飛んできた龍之丞へと手を挙げた。
「惚れ惚れする無双ぶり」
「間におうて良かった。坊は無事か」
「龍之丞がいなかったらすっぱりさ。見ろ、傷一つない」
鼻先を虎坊に近づけた龍之丞は、丸い瞳でじっくりと様子を見つめる。
ひ、と引きつった悲鳴をあげた虎坊に鼻先を引っ込めると、申し訳なさそうに頭を垂れた。
「今でかいからなお前さんは、いつものちびすけに戻らねえと怖がっちまうよ」
「うむ……」
体が光を帯び、龍之丞の体が小さくなっていく。
どんどん縮み……あっという間に虎坊の股下くらいの大きさに姿を変えた。
「すまぬ、虎坊殿。恐ろしい思いをさせた」
「……図鑑で見たせんざんこう?みたいだな」
「なぬッ!?」
「ははは!確かにな!でもな虎坊、龍之丞は龍神の子なんだ。おれが昔、山奥の滝近くで助けてな。一緒に暮らしてるんだ」
龍之丞がこくり、と頷く。
「サテ、おれと龍之丞、……それに、お前さんが心配な妖怪とで一緒に帰ろうかねえ」
かきねの言葉に、虎坊は首を傾げる。
かきねの向けた視線の先を追うと、木の影に何者かがいる。剣山のような影が見えた。
「あそこの神社にいた"山あらし"であろう。坊の事を気にしてついてきておったのだ」
「……ぼ、ぼく、山に住んでたんだけど、ずっとあのカマキリが怖くて……でも、その子がカマキリに襲われないか不安、でついてきたけど……なにもできなかったよ……」
申し訳なさげな、泣きそうな声でそう語る山あらし。
虎坊の安否のために、怖いながらも後を追ってきたらしい。
「大した度胸じゃあないかい。龍之丞が飛び出す前にお前さんが体張って虎坊を守ったんだから」
「え……みてたの?!」
大きな瞳の山あらしが、恥ずかしそうに体を出したり引っ込めたりする様はたいそう滑稽で、思わず虎坊も笑いをこぼす。
「助けてくれてありがとう、お前良い妖怪なんだね」
嬉しそうに笑う虎坊に、影から顔を出した山あらしは表情をほころばせはにかむ。
ようやく木の影から出られた山あらしは、もじもじと恥ずかしそうにしながらも虎坊の目の前まで近寄り、虎坊から差し出された手を控えめに握った。
「友達になれたな。よきよき。……さて、坊の家に行くにはまだ勇気がいるかもな。どれ、おれの家に間借りすればいいさ。龍之丞もいるしな」
「……いいの?」
「いいともさ。坊にも会いやすいだろう?名前は……椎之助にしとくか」
「椎之助!一緒に帰ろ!」
再び光を纏い龍の姿になった龍之丞に跨り、2人と1匹が穏やかな夜を飛んでいく。
かきねが今まで描いていた妖怪が、本当に存在するものであった。
不思議な体験に、虎坊は不思議な高揚感を覚えながら細い背中に凭れてうとうとと船をこぐ。
……これは、貴重なデジモンの歴史について、精確かつ繊細な描写で姿を語る"怪守乃神草紙"を残した女性絵師"かきね"。
それを編纂し、かきねとケモノガミについての文献を多数残したケモノガミ信仰学者"播川虎彬"の、むかしむかしの話である。
◇
かきね
齢24歳程。職業絵描き。浮世絵の仕事を細々としながら食いつないでいる。12の時に龍之丞と出会った。
結婚はしていたようだが、龍之丞が当時の夫に見つかり離縁し、家を飛び出し今に至る。旅行が好き。
龍之丞(たつのじょう)
リュウダモン(→ヒシャリュウモン)
武士気質のケモノガミ。かきねのパートナーデジモン。虎坊の母が作るおはぎが好き。かきねを背に乗せて旅行に行くのが好き。
虎坊
齢9歳程。やんちゃだが、家の手伝いを欠かさない世話焼きで優しい少年。5人兄弟の長男。かきねの長屋の隣に住んでいる。
かきねの描く妖怪画が好き。
椎之助(しいのすけ)
エリスモン。町外れの神社に住んでいた。臆病な性格だが、いざと言う時頑張れる勇敢さを身に秘めている。
人間の子供たちが神社で遊ぶ楽しげな姿が羨ましくていつも影から見ていた。
優しい虎坊が好き。
ケモノガミ(過去編)っぽいのが来た! 夏P(ナッピー)です。
画才こそ凄いが話す内容は突拍子も無くて全部ホラなのかと思いきや、龍之丞が旅行好きということなので本当に旅行に行っていたんですなかさねサン。描く絵は鳥山石燕的なアレなんでしょうか。というか、これ本当に出会っていたとしたら並び立てられるデジモン全部かなり凄い奴らに出会っているような。初手チンロンモンってお前。同じ東洋龍のヒシャリュウモン(リュウダモン)との関係は果たして。
コンピュータ含め電子機器の無い江戸時代(?)にデジタルモンスターをどうやって絡ませるのかという点においては、流石は八百万の神々を誇る我が国だぜ、名前に宿る意味で結び付くとはまさしく妖怪やら霊魂やら。スナイモンあっさりさらば。何故だ!!
虎坊と出会った小さいデジモン、ヤマアラシというからにはトゲモグモンしか浮かばず「何ィーッ、幼い少年にめっちゃ渋いパートナーを……ッッ」と思ったら全然違った。
あとかさねサンさらっと結婚してたことが明かされてダメだった。いずれ旦那がとんでもねえデジモンに襲われてる状態で出てくる奴だ!
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。