◆
――それは、
やわらかな風が撫でる蒼の原。
漂う草いきれ。影を描く陽光。
低く高く、手の届かない空と。
鮮やかな光の橋に見守られて。
遠く、遠く、どこまでも遠く。
私は、走る事を止めなかった。
◆
物心つく前から、私の側には一匹の白い犬がいた。
犬種はホワイト・シェパード。性格は愛情深く、走るのがとても速い。そんな彼は私にとって、三歳上で種族違いの優しい兄だった。
彼との思い出はいっぱいあるけれど、中でも鮮明に残っているのはドッグランでの追いかけっこ。週末の度に繰り広げられる真剣勝負。
兄はいつも先を駆け、私は後を追っていた。当然だが、二足歩行の人間が四足歩行の獣に勝てる訳がない。
ただ悔しさはそれほどなく、むしろ兄の勝利は私の闘争心に青い炎を灯し続けた。速く走る方法を模索し、両親の応援と兄の掛け声を励みに自分を磨いていく。兄の小さな背中とフサフサの尻尾に追い付いて、いつか並んで走る事を夢に見て。
そうしているうちに、ある意味では必然と、私にとって走る行為そのものが楽しくなっていた。
速さを求めて、波打つ茶色の髪を短く切って。競う対象は兄だけではなく、自分と同じ人間達も加わって。
しかし全員兄より遅く、そして私は彼らより速かった。幼稚園でも小学校でも、表彰台の一番上はいつだって私の場所。
とは言え驕りはしない。だって私には目標とする兄がいて、自分は決してナンバーワンではないと自覚しているから。
だけど謙遜もしない。だって小学生にとって、速度とはアドバンテージに他ならない。
体育でも運動会でも、チームに貢献できる事が嬉しかった。友達の女の子に意地悪する男子が逃げても、私なら追って捕まえられた。私の速さは誰かの役に立っただろうし、誰かの期待に応えられていたと思うのだ。
そうして、花の小学生生活の四年目も半分が過ぎた頃。ある秋の週末。
まだ温かな日差しの下、いつものように兄とドッグランへ向かった日。私は、とある違和感に気が付いた。
「私、こんなに速かったっけ」
いつもの追いかけっこ。いつもの真剣勝負。なのになんだかいつもと違う。
兄は普段通り走っているのに、彼の背中が近く感じる。それから三走ほどして――何という事だろう、ついに私の足が追い付いた!
念願だったゴールテープ。けれど胸に湧いた感情は、喜びでも達成感でもなかった。
途中から分かっていたのだ。私が速くなったのではなく、兄が遅くなっていたのだと。
そこからの兄の変化は、随分と早かったように思う。
ドッグランでの競争は、いつしか歩幅を合わせた散歩に変わった。段々と、車での移動すら負担になった。急に食欲を失くした兄が、寝たきりになったのはいつからだったか。
――やがて、小学五年生の春。
三歳上の小さい兄は、もう走れない筈の足で虹の橋を駆けて行った。
私はその旅路を見送った。白く柔らかな毛並みを、何度も何度も撫でながら。
……ただ「家族を喪った」と聞けば、それはひどく悲しい事のように聞こえるだろう。
しかし「ペットを喪った」と言い換えた途端、何故だか決して珍しいものでなくなる。自分ほどの年齢になれば尚更だ。
犬に猫に小動物に熱帯魚。形の異なる家族との離別が生む喪失感。多くの誰かが感じるだろうそれは、私の心にも例外なく穴を空けた。
今日の体育も私が一番速くて。
今日も友達に意地悪する子をあっという間に捕まえて。
秋の運動会での出走者もすぐに決まって。
クラスメイトから期待の目を向けられて。
でも、ちっとも嬉しくない。……嬉しくない。何も嬉しくない。
私は、何の為に走ってたんだっけ。
作り笑いで過ごす毎日。何も無い週末。
両親も大層落ち込んでいて、パステルカラーの布で覆った小さな壺を撫でる日々。
時間が解決するだろうと父は言った。そうなのだろうと私も思う。それでも、一週間や一ヶ月でどうなるものではない。
兄との思い出の場所を避けるように過ごした。草原や公園ではなく、人間だけが入れるような施設を選んでは、その中で時間を潰すようにしていた。
身体は、走らなくて良いのかと語りかけてくるけれど。
そんな気分じゃないんだと、気怠さが代わりに返事をする。……周囲からの期待だけが、只々、重い。
「――運動会、無理してリレー出なくていいのに」
幼馴染の少年は私に言った。七月のある日、雨宿りの校舎の玄関で。
どうしてそんな事を言うのか訊けば、
「だって今、しんどいでしょ。走るの」
気丈に振る舞っていたつもりだったが、近しい人には見破られていたようだ。彼なりの励ましだと理解しつつ、素直に頷けない自分がいる。
「じゃあ、私の代わりにアンカー走ってくれる?」
「クラス違うからなあ。そもそも俺じゃ、毎日頑張ってた奴の代わりは出来ないよ」
「……そんなに頑張ってないと思うけど」
「そう? チャッピーの散歩の後、よく一人でランニングしてたじゃん」
さも当然、とでも言いたげな顔だ。自分にとっての習慣は、誰かにとっての努力だったらしい。……それも最近はしていない。意識した途端に様々な思い出が蘇って、ぎゅっと喉が詰まりそうになるから。
灰色に泣き続ける空を見上げていた、少年は小さく「ごめん」と続けた。
謝る必要なんてないのに。むしろ謝るべきは、心配させている私なのに。
「……その、私も……」
「あ! なあ見てアレ、虹でてる!」
幼馴染の言葉に顔を上げた。空はまだ雫を落としているけれど、灰色のキャンバスに七色の橋を描いていた。
自分で水を撒いて描くお手製のものとは違う、空の虹をこの目で見る機会なんてとても貴重だ。感嘆の吐息をこぼした後、言葉を発するのも忘れ、私と幼馴染はその鮮やかさに目を奪われた。
空の向こうの、虹の橋。兄が渡った遠い橋。
もしも、今――自分も渡る事ができたなら。
「追い付けるかな」
思わずそんな事を呟いてしまった。……もう五年生なのに恥ずかしいだろうか。
気まずさを感じつつ幼馴染を一瞥する。しかし彼の反応は無かった。聞こえなかったのか、聞こえないフリをしてくれたのか。幼馴染はとにかく空を仰いだまま、
「――いや、虹って……あんな形してたっけ……?」
目を、大きく見開いていた。
数秒前までアーチ状を描いていた七色の光が、その姿を波状に変えていたのだ。
それはまるで――
「オーロラ……?」
広がる光。灰色の空を包んだそれは、直後。私の視界を真っ白に染め上げた。
◆
――いつの間にか、雨の音が聞こえなくなっていた。
それほど長く目を瞑っていたのか、それとも気を失ってしまっていたのか。そんな考えが過ったのは一瞬で、瞼を開いた私は愕然とする。
だって、さっきまで校舎の玄関にいた筈なのに――目の前には、辺り一面の草原が広がっていたのだから。
一緒にいた幼馴染はいなくなっていた。
広く見知らぬ場所にいるのは自分だけ。
彼はどこへ行ったのか。どうして自分は此処にいるのか。色々な考えが巡るうちに――
「え、死んだ?」
例えば何かに巻き込まれて。
「嘘だあ」
目を覚ますとそこは天国でした。なんて、流石に映画じゃあるまいし。
まあ、そもそも死後の様子がどんなものか知らないので、正解は分からないのだけど。意外と、絵に描いたような光景なのだろうか。
それは、さて置き。
本当に死んじゃってたら嫌だなあ。やりたい事も食べたい物もたくさんあるのに。まだ小学五年生で、たくさんの未来があったのに。
未確定な現実を受け入れられなくて。一方、目の前の景色があまりにも綺麗で。そのせいか悲しみや後悔といったものは少なく――どことなく他人事のような、ぼんやりとした感覚だけが揺れている。
取り敢えず、散策してみることにした。
足を踏み出すと、確かな土と草の感覚。
息を吸い込むと、蒸し返す夏のにおい。
澄み渡る五感。心は不思議と穏やかだ。
この、どこまでも広がる碧色に終わりはあるのだろうか。
ずっとずっと走っていけば、小さな兄に会えるだろうか。
そんな思いが過る。なんとなく、なんとなく。
けれど地面を強く蹴ろうとした途端、足は鉛のように重くなって。――どうやら私は、こんなに素敵な場所でも走る事ができないらしい。
「チャッピー……」
私の小さな兄。可愛らしい名前を呼ぶ。
返事は当然なかった。けれど代わりに、あたたかくて強い風が吹き荒れた。
短い髪がバサバサと煽られ、腕で顔を庇おうとした――瞬間。
「え?」
私の前を、大きな影が通り過ぎた。
咄嗟に振り向き目線で追う。それから自身の目を疑う。
視界の端に映った姿は、紛れもなく狼だった。けれど狼にしてはあまりに大きい、白銀の毛並みを持つ獣だった。
立派な脚で大地を踏み、駆けていく光景。草原を抜ける銀色の風。
呆気に取られていると、狼は視界から消えるより先に立ち止まり、踵を返してやって来る。その大きさと毛並みの美しさに圧倒され、私は言葉を失ったまま。
そうして近寄って来た、狼は琥珀色の瞳で私を見下ろして――
「――人間の子じゃないか。こんな所でどうしたんだい?」
◆
四足歩行の生き物から、人間の言葉が出てくるなんてあり得ない。
そんな事は小学生でも知っている。だからこそ、漫画やアニメで動物が喋るような設定が映えるのだ。
しかし――それが今、目の前で起こった。
非現実的な大きさの白い狼擬きは、やや低く穏やかで、そして優しさが滲み出る男性の声――のような音で、言葉を紡ぎ私に語り掛けたのだ。
「ゲートが開いたのかな。巻き込まれちゃったんだね。怪我はしてない? 僕の言葉はわかる?」
状況の一切を飲み込めず、私はただ呆然とする。
「……どうして……」
わからない。やはり夢だろうか。狼が喋っている。
わからない。だけど驚愕よりも、困惑よりも。
――その白い毛並みが。凛々しい顔立ちが。しっかりとしたマズル、鼻先のちょんとした黒い色が。
「チャッピー」
思い出さずにはいられなかった。
違う生き物の筈なのに、どこか、似ていたから。
兄の名で呼ばれた狼は犬らしく首を傾げ、「チャッピー?」
「きっと人違いだ。だって僕はガルルモンだから」
「……」
彼はチャッピーじゃない。……当たり前だ。なのに変な事を言って困らせてしまった。
「その……ごめんね、犬違い」
「犬じゃないんだけどなあ。勿論、人でもないけどね」
がるるもん。九州のお土産のような名前の狼は、そう冗談めかして笑う。
「その子を探して迷子になっちゃったの?」
「……ううん。さっきまで学校にいたのに、気付いたらここにいたんだ」
「気付いたら?」
「空にオーロラが出て、見てたら凄く眩しくなって……」
そこまで答えると、彼は納得したように「偶にあるんだ」
「僕達の世界が君達の世界と繋がって、ちょっぴり空間が歪む事があるんだけど」
「えっ。何なに。世界? え?」
「その波に触って、巻き込まれて、此処まで飛んで来ちゃう子がいるんだ。怪我がなくて良かった」
「……よくわかんないけど、つまり……私、まだ生きてるってこと?」
「大丈夫だよ。君も僕も、ちゃんと生きてる」
狼の声はどこまでも優しくて、自分でも驚くほど恐怖を感じない。兄ことチャッピーに似ている点もあってか、警戒心も抱かなかった。
「ゲートを開ける場所まで送るよ」
だから――彼が腰を下ろして、私に背中へ乗るよう促しても。私は何の抵抗もなく、その白い毛並みに手を置いた。
毛並みは思ったより硬く、兄の柔らかな触り心地とは少し違うけど、温かくて不思議と安心する。そのまま背中に乗ると、私の視界がグンと高く上がった。
景色が流れる。ガルルモンは私が振り落とされない程度の速さで、どこまでも続く草原を歩いて行く。
「そうだ、ねえガルルモン。ここに来るまでにもう一人、誰か見なかった? 友達が一緒にいたのに、どこにもいないの」
「会ってないなあ。どこか別の場所に飛ばされちゃったか……」
「隣にいても?」
「そうだね。手を繋いだりしてないと、別々になっちゃう事もあるんだ。もし友達が向こうに残ってたら、君はその子の前で消えた事になるけど……。どちらにせよ、きっと凄く心配してるよ」
「そっか……」
「その一緒にいた子が『チャッピー』?」
ガルルモンの純粋な問いに目を丸くする。名前からして人間のものではないのだが、彼がそれを知らないのも無理はない。
「……ううん。探してるのは別の子。チャッピーは……」
喉が詰まる。もう会えないんだと、その現実を自ら言葉にする事が怖くて口を噤む。
すると、ガルルモンは優しい声で「僕に似てた?」と訊いてきた。
「最初、僕のことをそう呼んだから」
「――少しだけね。よく見たら違った」
そう。大きさも首回りの飾り毛も、シェパードとは似つかない狼擬き。
けど、此の場所があまりに現実とかけ離れていたから。一瞬だけ、本当に虹の先なのかと思ったから……同じ色で似た形態の狼に、兄の面影を重ねてしまった。
「私、変なこと言っちゃったね」
「気になんかしないよ。誰かに似てるなんてよくある事さ」
「そうなの?」
「うん。特に僕らはね。亜種も多いから」
彼の言う〝僕ら〟が何を指しているのかは分からなかった。……そういえば、ハイイロオオカミとニホンオオカミは亜種の関係らしい。つまりそっくりさんなのだろう。
「ああ、そうだ。君の名前を聞いてなかった」
ガルルモンは思い出したように一言。私も「そういえば」と声を漏らす。
「聞いても?」
「……村崎――」
「ムラサキか。いい名前だね。紫は好きな色なんだ」
「……」
姓までで名乗り終わってしまった上、発音から色の名前だと思われた様子。……別にいいか、訂正しなくても。
「赤と青が混ざって紫になる。夕焼けみたいで、夜明けみたいで綺麗だよね」
「私も紫色は好きだけど、初めてそんな褒められ方したよ。――ガルルモンの模様は青色だね。顔と背中と脚に、雷のマークみたい」
「きっと稲妻みたいに速く走れるよう、神様がデザインしてくれたんだ。自分の色も気に入ってるよ」
ガルルモンはどこか詩的な感性を持っているらしい。実際、本気で走ったら物凄く速いのだろう。
「……私が全力で走っても追い付けないね」
白い背中に、白い尻尾に。
追い付けなくて、いつかまた置いていかれて。
――そんなことを思ってしまい、雨季の雲のように気持ちが沈む。何となく申し訳なさを感じていると、雲を風で払うかのようにガルルモンは明るく笑った。
「そうだね、負けないよ。それに僕は進化したら、この世界の誰より脚が速くなるんだ」
彼の言葉の意味は分からない点が多い。
けれど、背中越しでも伝わる堂々とした様は眩しく思えて、どこか羨ましかった。
◆
時間の流れは穏やかだが、距離はそれなりに進んでいたようで、どこまでも続いていた草原の終わりが見えてきた。
しかし雄大な自然という点で変化は無く、今度は背の高い木々が視界を埋める。針葉樹と広葉樹の混合林だ。
草原の時よりもガルルモンの足取りはゆっくりとなる。私への気遣いだろう。規則的に聞こえてくる、枝を踏む音が心地良い。
「……ん? ねえ、あそこに凄く大きなテントウムシいるよ⁉」
「テントモンだ。木でお昼寝するのが好きなんだよ。可愛いね」
「じゃあ、あの大きくて青いカブトムシは⁉」
「コカブテリモンだよ。気は優しくて力持ちなんだ。可愛いね」
唐突に姿を見せた巨大な虫――それにしては昆虫の形をしていない――の紹介と感想に困惑する。名前に謎の法則性がある事も気になったが、それ以上に彼らの形状が不思議でたまらなかった。
「この世界で生きる、僕の仲間達だよ。びっくりするだろうけど、怖くないから大丈夫」
「う、うん。……ここの皆って、私たちの周りの生き物とちょっと似てるね。でも凄く大きいし、なんか丸くてマスコットみたい……」
現実の昆虫は大抵苦手だが、今さっき見かけた虫擬きにはそこまで嫌悪感を抱かなかった。ガルルモンは、なんだか嬉しそうに鼻を鳴らす。
「色々な姿の仲間がいるんだ。ムラサキの世界に馴染みがある種類なら……そうだね、例えば『鳥』に似た子もいるよ」
「へえ。ガルルモン、私たちの世界の事よく知ってるんだね。私はガルルモンもこの場所も、今日初めて知ったのに」
「偶々知る機会があっただけさ。他にも色々な子がいるよ。植物の子もいるし、魚の子も機械の子も、天使や悪魔の子もいる」
「それは……ちょっとアニメすぎない?」
「あにめ?」
流石にアニメは知らないようだ。――さて置き、やはり自分は死んだのか、それとも夢でも見ているんじゃないかと思ってしまう。だってこの状況は、どう考えてもあまりに非現実的すぎる。今更ではあるけれど。
「おや? 話をすれば『鳥』の子が来た」
「えっ。……あ、フクロウだ! ……なんでゴーグル着けてるの?」
羽音も立てずに現れたのは、栗色と白い羽毛のフクロウだった。やはり不自然に大きくて、何故かゴーグルのようなものを着けている。
「待って、名前当てる! ……テントウムシがテントモンで、カブトムシがコカブテリモンだったから……フクロモン!」
「残念、彼はアウルモンだ」
「こんにちは人間の子。ちなみにアウルはフクロウの英語だよ」
「喋った! ……っていうか日本語と英語わかるの?」
「ちなみにボクが着けてるのは暗視スコープだね。夜の散歩にちょっぴり便利。キミも着ける?」
「えぇー……」
「ところでガルルモン、その人間の子はもしかして迷子かい?」
「ああ、揺らぎに巻き込まれちゃったみたいなんだ。このままじゃ元の世界へ帰れないから、ゲートを開ける場所まで送るところだよ」
「偶然だね。キミの『弟』も、さっき別の場所で人間の迷子を連れていたよ」
フクロウの発言に、思わず大きな声が出た。
もしかしたら幼馴染かもしれない。ガルルモンもそう思ったのか、振り返った彼と目が合った。
「それでボクは『ゲートまで送るから帰りが遅くなる』って伝言を頼まれたんだ。ああ、ちょうど会えて良かった。ガルルモンはいつも駆け回ってて、探すのに一苦労だからね」
「大袈裟だなあ。それより伝言をありがとう。僕達もそこに合流するよ」
フクロウことアウルモンにお礼を言うと、アウルモンは栗色の羽を広げてお辞儀する。
「さようなら人間の子。またいつか会えるといいね」
淡々と告げられた別れの言葉が、少しだけ寂しかった。
◆
「ガルルモン、お兄ちゃんだったんだねぇ」
幼馴染かもしれない誰かを連れているのは、なんとガルルモンの弟だと言う。兄弟そろって迷子を拾うだなんて、不思議な事は続くものだ。
「弟、どんな子? ちっちゃいガルルモンみたい?」
「いいや。毛並みは夕陽みたいな朱色で、小さくて丸くて柔らかい。僕とは全然似てない子だよ」
「可愛いんだろうなってことは分かるけど、想像つかないや」
「あと、血縁も無いんだ。弟も妹も兄達も皆、それぞれタマゴで生まれてきたから」
「……タマゴ? タマゴってあの卵?」
「うん。君達には不思議だろう?」
と、意地悪く言ってみる卵生の狼擬き。私が理科の先生なら、危うく失神するところだった。
「というか、思ったより大家族なんだね」
「そうだね。形は違うし血も繋がってないけれど、僕達は兄弟で家族さ。僕らは血じゃない部分で関係性を作っていく。案外絆は深くなるし、なにより自由で心地良いものだよ」
「それは……――その気持ちは、ちょっとだけ分かるかも。……ねえ、お兄ちゃんってどんな感じ? 弟とか妹のこと、どう思ってる?」
「兄って立場の全員が同じじゃないとは思うけど……僕の弟妹は個性的で面白いし、何より可愛いと思ってるよ。でも本人の前で言ったら怒られるだろうね」
白い耳が少しだけ、照れ臭そうに小さく動いた。
「……小さい頃、一緒に追いかけっことかした?」
「今も偶に。それで、今のところ僕の全勝だ」
誰よりも速く、何処よりも遠く。
白い毛並みは銀色に輝き靡いて、その姿は風のように。
ガルルモンは弟妹と共に、時折は彼らを背に乗せて――この世界中を駆け回ったのだという。
「今度は逸れた友達と、チャッピーも連れておいで。僕が皆を背中に乗せて走ってあげるから」
「……――チャッピーは、」
そうなれば良かったのに。……本当に。
白い犬と狼が並んで走るところ、見たかったなあ。
兄は今度こそ負けてしまうのだろう。そして狼の圧倒的な速さに、私がかつて抱いた胸の炎も向上心も、それでも感じていた温かさも何もかも、きっと共有できた事だろう。
……何より。私のこんなに絡まった感情なんて関係なく、どのドッグランより広いこの場所で――ガルルモンのように、自由に駆け回ったのだろう。
私はまた、追い付く事ができないのだろうけど。
「もう、会えなくて」
「……」
「死んじゃってね、ちょっと前に。私が産まれる前からいた、お兄ちゃんみたいだったんだけど」
「……それは」
「それで、それで……ここが現実じゃないみたいだったから……虹の橋の先、こんな風なのかなとか思って……会えるかと思ったけどやっぱりいなくて。今度は走れるかと思ったけど、それも、やっぱり駄目で」
堰を切ったように声が溢れ出す。たちまち取り留めが無くなっていく私の言葉を、ガルルモンは静かに聞いてくれた。
彼の歩幅は狭まっていき、大きな木の根元で止まる。
「少し休もう」
そう言って膝を付いた、ガルルモンの背から下りる。そのまま、彼の腹部に背中を委ねた。
あたたかな体温。まだ喃語しか喋れなかった頃、同じように兄の腹にもたれかかっていたらしい。写真でしか残っていない記憶。
「――君の大切な誰かのことを、よく知らないまま呼んでごめん。軽率だったね」
「ガルルモンは何も、謝ることないんだよ。私の気持ちの整理がついてないだけで……私こそ、会ったばかりなのにこんな話しちゃってごめんね」
自分がガルルモンに対し、兄の面影を勝手に感じているだけ。それでいて勝手に情緒を乱しただけ。せっかくの不思議な出会いなのに、勿体ない事をしたかもしれない。
「そうだよねえ。本当ならもっと『冒険だ!』って感じになるよね。別の世界に来てるんだもん。それとも皆、意外とすぐ順応できたりするのかな」
「どっちの子もいるし、どちらも正解だ。きっと、本人にとってはね。だけど君がそうならなかったのは――初めて来るこの世界を実感する前に、僕と会ったからだと思う」
「それは……多分。でもね、会えたのが別の誰かじゃなくて、ガルルモンで良かったって思うよ。一緒にいると凄く落ち着くの。チャッピーと似てるからじゃなくてね」
「……ありがとう。それなら、良かったよ」
やや傾いた木漏れ日を見上げる。
綺麗で、静かで、穏やかな時間。
「……これは、僕の話になるけれど」
全身を包む温もりに目を伏せ、狼の優しい声に耳を傾ける。
「君とは逆に、人間の子を見送った事がある」
「……え?」
「と言っても、目の前で亡くしたわけじゃないんだ。ただ……最後に会ってから、長く時間が経ったから。人間の寿命は過ぎてしまっただろうなって」
「ガルルモン、凄く長生きなの?」
「この世界と君達の世界では時間の流れが違うんだ。だから最後にお別れした時も、なんとなく『もう会えないだろうな』って思ったよ。――大切な誰かとの別れは、そうすぐに癒えるものじゃない。時が経っても突然、夢に見て思い出す事だってある」
「……まだね、たくさん夢に見るよ。ドッグランとか、いつも散歩してた道とか、一緒に走ってるの。……悲しいままなのは嫌だけど、忘れちゃうのも嫌だなあ」
小学校から帰った時の、私を出迎えるように吠えた声も。私が食べているおやつを欲しがって、膝に顎を乗せてきた時の体温も。遠くを走っている彼の小さな姿も、何もかも。
もう感じられない事が悲しい。いずれ忘れてしまう事が悲しい。何より、怖いと思ってしまう。
「忘れる訳じゃない。思い出が遠くなるだけで、君の中にはちゃんと残ってる。そうなる事は、悪い事じゃないんだよ」
ガルルモンは子犬をあやすように、鼻先で私の頭を撫でた。
「僕は先に逝った誰かの、これから見送る誰かの……彼らとの思い出が遠くなった時、心に溶けて一つになったんだって考えてる。その方が、なんだか嬉しいから」
「……合体するの?」
「似たような感じだね。合体して強くなるんだ。進化するみたいにね」
「そっかあ。……そうなんだ。それなら、チャッピーの分も走るの、速くなれるかなあ」
そんな都合の良い事は多分、ないのだろうけど。
ガルルモンも、そこは「絶対なれるさ」とは言わなかった。「そうなれるよう頑張れ」とも言わなかった。無責任な言葉は投げず、ただ「なれると良いね」とだけ。……私も、もらえる言葉はそれで良かった。
「そろそろ行こうか。あまり長く休むと、陽が落ちてしまうから」
◆
森を抜けた先は再びの草原だった。ただ、最初の場所と異なり勾配が目立っていた。
空の青は少しだけ彩度が落ちたように思えた。……相変わらずの雄大さに、目を奪われてしまう。
「……やっぱり良いなあ」
「良い景色だろう? 自慢の場所の一つだよ」
「こんな場所がいっぱいあるなら、ガルルモンがいつも走ってるって、アウルモンが言ってたのも分かるかも」
「楽しくておすすめだよ。弟妹達とも走ったけど、一人で走るのも気分が乗るものさ」
「……そうだね。私も一人で走る時……何だかんだ、楽しかったんだと思う」
チャッピーの散歩の後は、よく一人で走っていた。
住宅街を、通学路を、舗装された道の上を。走る事は嫌いじゃない。嫌いだったら走っていない。
走る事は楽しかった。けどそれより速さを求めていた。全力で駆ける兄と並んで走りたくて。走る時に邪魔になるから、波打つ茶色の髪だって短く切って。
ああ、でも。二足歩行の人間が四足歩行の獣に追い付ける訳がない。最初から知っていたのに、どうしてあんなに速さを求めたのか。
「私は――」
並んで、少しでも同じ景色を見たかったからだ。
今だってこの景色を、一緒に走りたかったと思う。
「……――あのさ、ガルルモン。ちょっとだけ、私と競争してくれる?」
「競争?」
「うん。……ちゃんと走れるか、わからないけど……。でもガルルモンは私のこと、気にしないで思いっきり走って。それでね、私が絶対に追い付けないくらい追い越して欲しいの。そうしたら……色んなこと、ちゃんと諦められるかもしれないから……」
最早そんなものは競争でも何でもない。……わかってる。自分の感情がぐしゃぐしゃになってる事も。唐突で滅茶苦茶なお願いをしている事も。わかっている、つもりでいる。
それなのにガルルモンは、否定も深追いもしないでくれた。ただ優しく笑って、
「勿論だよ。ああ、せっかく来たデジタルワールドだ。走らなくちゃ勿体ない」
私を再び背から下ろした。――自分の目線になって改めて、広がる自然に圧倒される。
思わず立ち尽くす。スタートを躊躇う私の背を、ガルルモンが鼻先でそっと押した。
草いきれを吸い込んだ。鉛のような足を一歩、自分の影が伸びる大地に踏み込んだ。
刹那、脳裏に浮かぶたくさんの思い出。愛おしいそれらで息が詰まりそうになる。
さあ、もう一歩。あと一歩。地面を強く蹴ろうとした、足はガクンと力を無くして――
「大丈夫」
――――ふと、やわらかな風が吹く。
通り抜ける追い風に、止まった片足が不思議と浮いた。そして二歩目が地面に着くと、それから三歩目が、四歩目が。遠い日の速さを思い出したように大地を叩いた。
「あ――」
気付けば全身で風を受けていた。
久しぶりの負荷に心臓と肺が驚いていたが、全身を巡る澄んだ空気がそれらを忘れさせた。
私は今――
「ガルル――」
「ほら、大丈夫だったろう?」
声が聞こえた。私の隣から。
驚いて目線を動かすと、風よりも速い筈の狼が隣にいる。……明らかに、私に合わせて走ってる!
「追い越してって言ったのに!」
「ごめんね、つい」
「絶対に追い付けないから吹っ切れると思ったのに!」
「そうだね。先に行って待ってるのも良い。弟や妹達が頑張って追い掛けてくる姿は可愛いんだ」
「……――‼」
「けど今は、友達の君と並んで走りたいと思うよ」
遠くを見る彼の瞳。私も前を向く。同じ速度で流れていく景色を感じる。
兄の瞳に映る私は、どうだっただろう。どう見えていただろう。今の私を見たなら、彼は何を感じるだろう。
思えば想う程、感情は溢れて涙になった。
いっそ大声で泣き喚いてしまいたかった。けれど身体は走る事を優先させた。――疲労で速度が落ちていく。息が短く切れていく。
「ああ、どの風も気持ちがいいな。だから走るのは楽しいんだ」
それでも――兄の面影を持つ狼は隣を駆け、優しい声で語るのだ。
「無理にとは言わない。ただ自由であるといい。君がお兄さんと走る事を、楽しく思っていたのなら――」
脚の筋肉が限界を叫ぶ。ゴールの無いトラックは終わりが近い。
視界の景色は涙で滲んでいる。風の中、聴覚だけが明瞭だった。
「ムラサキ。君がお兄さんに抱いた温かな愛情も。僕が君に抱いた穏やかな友情も。一緒に連れてどうか、それでも自由に走り抜けてくれ」
透明なゴールテープを切る。私の両足がレース終了を告げた。――太腿が痛い。呼吸が苦しい。流れる汗と涙を乱暴に拭う。
ガルルモンはそんな私に、相変わらず柔らかな笑みを向けていた。案の定だが、彼はちっとも体力を消費していないのだ。
呼吸を整える。汗が冷やされ乾いていく。涙は重力に則り、私の首を濡らしていった。
ガルルモンは私が落ち着くまで静かに見守ってくれていた。私が大きく息を吸って顔を上げると、「お疲れ様」とにっこり微笑む。
「良い走りだったね」
「……ひ、久しぶりに本気で、走った……でも急に長距離レベルは、流石にキツい……」
「無理させちゃったかな。でもスッキリしただろう?」
「…………」
実際に走ってみると、まあ、確かにとは思う。
「……意外と……何とかなったなって……」
「うん、うん。良かったよ」
「……ちなみにガルルモン、ぶわーって風、操ったりできるタイプ?」
「まさか、僕にそんな能力はないよ。ちょっと凄いスピードで動けるくらいさ。……ああそうだ、次は僕の背中で、さっき以上の速さを感じてもらおうかな。今日の記念にね」
「それってどのくらい……」
「走ってからのお楽しみだ。さあ、乗って乗って」
言われるがまま背中に乗る。若干の嫌な予感。
ガルルモンは自身の背中の長毛を、しっかり掴むよう忠告した。やっぱり嫌な予感がして、なるべくたくさん束ねて掴むと――
「離さないで。行くよ!」
「ちょっ……わあああ!」
私の声を置き去りに、ガルルモンは大地を蹴った。
そして――走り出す。出会った頃の気遣いはどこへやら、彼は速さを抱いて、私を背に草原を疾走る。
振動で揺れる身体。安全ベルトの無いジェットコースター。乗り心地の不安定さに上がる悲鳴は、気付けば笑い声に変わっていた。
「楽しい?」
「……うん!」
「もっとスピード上げる?」
「それは無理ー‼」
銀の狼は風を切り、広い大地を駆けて行く。
緑の草原を越えて、青い空気に潜るように。
私を乗せて――どこまでも、どこまでも。
◆
ガルルモンが速度を落としたのは、私の復帰レースから暫く経った後。空の青に橙色が混ざり出した頃だった。
草原の向こう、丘の先。最後に辿り着いたとある集落。
守りには長けていないだろう簡素な門構え。その入口には、緑色の肌をした人型の誰かが立っていた。
片手に棍棒、布の腰蓑。ゲームやアニメに出てくるような姿はまるで――
「ゴブリンだ⁉」
「惜しい。彼はゴブリモンっていうんだ」
名前を呼ばれたゴブリン、もといゴブリモンはこちらに手を挙げて応える。出会った中で一番ファンタジックな、この世界の住人だ。
「なんだガルルモン、兄弟そろって新しい友達連れて来たのか?」
「やあゴブリモン。その口振りだと、あの子はもう来てるみたいだね」
「中で皆と遊んでるよ。ゲートはまだ準備中だ」
緑の小鬼は私を見て、「よろしくなあ」と微笑みかける。それから門が、軽い音を立てて開かれた。
ガルルモンに乗ったまま中へ。ゴブリモンはその場から離れず、私に手を振っていた。
手を振り返す。……何となく、彼とはもう会わないのだろうと察して、少しだけ寂しくなる。
集落の様子は牧歌的で平和そのものだ。見たことのない姿の住人達が、他愛なくお喋りをしたり、木陰ですやすやと眠ったりしていた。
同じく、楽しげにボール遊びをしている住人達。その様子を座って眺める小さな誰かと――見覚えのある、黒髪の男の子が一人。
「あ!」
間違いない、学校で一緒にいた幼馴染だ!
私に気が付くと彼も同様に声を上げた。そのまま隣にいた誰かを抱き上げ走ってくる。何で抱っこしているのかは分からないけど、とにかく元気そうだった。
「来てたんだな! 良かった……‼ 一緒にいたのにいなくなったから心配した!」
幼馴染は安堵したのか目尻に涙を浮かべていた。そんな彼に抱えられた誰かは、翡翠色の瞳を細めて幼馴染を見上げながら、
「良かったねソウタ。お友達、ガルルモンが見つけてくれてたんだねえ」
――夕陽みたいな朱色の毛並み。金色の長毛でモコモコした首元。幼児程の背丈に、ライオンの子供を思わせる可愛い風貌。……間違いない、この子は――
「ガルルモンの弟‼」
「よく分かったね。ちなみに名前はなんだと思う?」
「ベビーライオンモン!」
「残念、ベビーはずっと昔に卒業しちゃったんだ。この子はコロナモンっていうんだよ」
「えー、名前全然ライオンじゃない! 何語?」
「俺、小さいけど中身はちゃんと大人だよー」
流石に難問過ぎて私からブーイング。ついでに弟からもブーイング。その様子を見て、思わず笑い合うガルルモンと幼馴染。
「コロナって太陽の外側の光? なんだってさ。名前通り太陽みたいに赤いし黄色いし、こうしてると凄く温かいんだ」
笑顔が戻った幼馴染は、コロナモンの柔らかそうな鬣に顎を乗せる。コロナモンはくすぐったそうに、けれど嬉しそうにはにかんでいた。
――この二人もきっと、私とガルルモンのように出会って、語らって、絆を築いてここまでやって来たのだろう。
「改めて、コロナモンだよ。会えて嬉しい」
幼馴染に抱えられたまま、コロナモンが手を差し出した。握り返すと、ガルルモンに感じたものと似た温かさを感じて、何故だか可笑しくなってしまった。
「ムラサキカナだよ。よろしくね」
「――それで、俺は気付いたら砂浜みたいな所にいたんだけど……」
オーロラを見た後、この世界へやって来た私と幼馴染。お互い、飛ばされた場所は随分違ったようだった。
「砂浜なのに公衆電話めっちゃあって、カナもいなくなってるし……パニックになりそうだった。でもコロナモンが見つけてくれたんだ。それで、ここまで連れて来てくれた」
「うわあ、凄い所にいたんだね。私は綺麗な原っぱだったのに」
この世界には想像以上に不思議な場所があるようだ。もっと見てみたいと思ってしまうが、生憎と帰りの時間が迫っている。今は三人でガルルモンに乗り、彼らの言うゲートとやらを開く建物へ向かっていた。
「というか、ソウタとコロナモンはここまで歩いて来るの、大変だったんじゃない?」
「歩いてないよ? コロナモン、大きくなって俺のこと運んでくれたから」
「……大きく……なるの?」
「本当のライオンみたいだったなあ。ガルルモンは元々大きいから、そのままで来られたんだね」
「『進化』の事だ、カナ。俺達いっぱい姿を変えられるんだ。俺もガルルモンも、もっと大きく強くなれるよ」
思わず会話にストップをかける。情報過多で思考が追い付かない。幼馴染は一体、何を見て何を聞いたのか。とにかく分かるのは――
「――これ、一回じゃ無理だ」
何回か来なくっちゃ。この世界の、皆の事を知る為には。
次に来られる日が果たして在るのかは、さて置いて。
◆
兄弟に連れられた私達は、集落で一番高い丘にある建物へ到着する。
白い壁に青い屋根。鐘楼塔にかかる金色の鐘。ギリシャの島で見るような外観の、小さな教会だった。
出迎えてくれたのは一人の女の人だ。――そう、女性と呼ぶのが相応しい。金の髪に赤いヘッドスカーフを纏った女性。若葉色の瞳の周りを、髪と同じ金の仮面で覆っている。
人間そっくりな顔貌に、二対の翼が生えた姿はまさに天使そのものだった。ガルルモンが言っていた天使のような仲間とは、彼女の事だったのだろうか。
天使の女性は柔らかな声で私達を歓迎する。「本当はお茶でもできたら良かったのですが」と、群青に染まり出した空を残念そうに見上げながら。
「びっくりしたでしょう。突然わたし達の世界へ来てしまって」
祭壇の前には大きな姿見が置かれていた。私達を映す筈の鏡面は真っ白に光っていて、「これがゲートなんだな」と何となく理解した。
「来てくれたのが今日のうちで良かった。ご家族が心配する前に戻れます」
「ダルクモン、ゲートの用意をありがとう。これでこの子達を、ちゃんと家に帰してあげられる」
ガルルモンの優しい声。コロナモンの優しい温もり。そして天使の優しい微笑み。――帰れる事は嬉しい筈なのに、何だか胸がモヤモヤする。それは幼馴染も同じようで、コロナモンの手をぎゅっと握って離さない。
「……ガルルモン」
まだ冒険していないのだ。まだ出会っていない、この世界の仲間もたくさんいる。天使に出会えたなら悪魔にも会ってみたいし、機械の子だって気になる。幼馴染が見たという不思議な光景もこの目で見たい。
何より――
「もっと一緒に走りたかったよ」
白い毛並みに触れ、額を付けた。柔らかな温もりを何度も何度も撫でた。
一期一会となるにはあまりに惜しい、今日という日の出逢い。
「君達と逢えて良かった。また、いつか遊びにおいで」
「……どうやったら来られるの?」
「今日と同じさ。空に虹が出て、オーロラが光る時。手を伸ばしてくれたらきっと」
「でも、いつ出てくるかわからないよ。ずっと先だったら忘れちゃうかもしれないよ」
「……大丈夫。いつか思い出が遠くなっても、心にはきっと残ってる。君が、それを望んでくれるなら」
ガルルモンは頬で私の肩を撫でる。私も、両手で彼の首元に抱き着いた。……十数秒程が経ち、彼は私から静かに離れる。コロナモンも、そっと幼馴染から手を解いた。
温かさが消え、無性にこみ上げてくる寂しさ。もっと一緒にいたかったのに。
だけど我儘を言って、残ろうとしてはいけないのだ。それは私も、そして幼馴染も分かっている。
幼馴染はコロナモンにお礼を言うと、新しい友人達に別れを告げた。私も同じく彼らに別れを告げて、ゲートの前へ。
輝く光の先には薄っすら道が続いていた。この道を進めば、家に帰れるのだろう。
「――ガルルモン」
鉛のような足を一歩、踏み出す前に。
彼の名を呼ぶ。それから伝えたかった、そして伝えなくちゃいけない言葉を、震える声で絞り出した。
「ありがとう。私のこと。チャッピーのこと」
草原で共に走った四分間。私の背中を押した風と、私と共に流れた風。
美しい白銀の狼と過ごした、かけがえのない短い時間。
「……いいんだよ。僕こそ、一緒に走ってくれてありがとう」
願わくば、いつまでも心に残っていますように。
「ああ、どんな形でも構わないんだ。君がどうか自由に、幸せに旅路を、人生を駆けてくれる事を――僕は、ずっと願っているよ」
◆
真っ白な光の道を往く。
幼馴染と二人、静かな帰り道。
「……また会えるかなあ」
幼馴染はそう呟いた後、「そういえば」とこちらを向いた。
「さっき、ガルルモンと走ったって……」
「……――ちょっとだけ。……良い場所だったし」
言葉を濁す。久しぶりにしっかり走れた事を、わざわざ誤魔化す必要もなかったのだが――今日まで彼に心配されていたのもあって気まずい。
しかしそう感じていたのは私だけだったようで、幼馴染は集落で再会した時と同じくらい、安堵の笑みを浮かべていた。
「良かった。少し元気そうになって」
「……うん。今は凄く寂しいけどね」
「それは俺もだよ。これから天気予報、毎日チェックしなくちゃなあ」
今度はいつでも来ていいようにしないと。動きやすい服、冒険に便利な小道具なんかも持って。
幼馴染は来た道を振り向き笑ってみせた。その目元が赤くなっていたので、私は「そうだねえ」と気付かないフリをした。
――真っ白な光の道を進む。
終わりのないように思えた空間は、いつの間にかその姿を変化させ始めていた。
まるで陽が沈むように、周囲が暗くなっていく。怖くなって、思わず幼馴染の服の裾を掴んだ。
「そっか、多分こっちは夜なんだな」
だから外の世界の薄暗さに、光が溶けて消えていっているのだろう。……そんな幼馴染の予想は当たったようで、光が消えた先には藍色の空が広がっていた。雲間から月明かりが微かに差し込んでいる。
続けて視界に入ったのは、煌々と光る白い自動販売機。それから駐車場と住宅、人通りの無いコンクリートの道路。オーロラを見たのは小学校の校舎だったのに、どうやら同じ場所に帰れる訳ではないらしい。
――ところで。七月でこの暗さだと何時なんだろう。そして此処は何処なんだろう。
凄く嫌な予感がして、思わず幼馴染と目を合わせた。
「……ねえ、どうする? 私怖くてスマホ開けないんだけど……」
「いや、めっちゃ通知来てる音してるじゃん出なよ……。俺今日スマホ持ってなくて良かった……」
「もっと良くないよ……」
家族が物凄く心配しているだろう事と、多分ついでに物凄く怒られるだろう事を予感して、二人で頭を抱える。一気に現実へ連れ戻された気持ちになった。
……そう考えると、あれ以上の長居はやっぱりしない方が良かったんだろうなあ。もしかしたらガルルモン達も、こうなると分かっていたのかもしれない。
「あ、待って。あの病院見たことある! 学校の反対に来たんだ俺たち」
「……私は初めて見たけど……ちなみに家からどのくらいだった?」
「車で十分いかないくらい」
思ったより近い場所で安心する。これで別の区や県だったら警察沙汰は免れなかった。もうなっているかもしれないけど。
「……じゃあ大丈夫だね。走ったらすぐ帰れる」
「すぐは無理だって! 俺が! っていうか大丈夫なの⁉」
慌てる幼馴染。鳴り響く通知音。もうどうにでもなれと開き直り。その全部が可笑しくなって、私は笑った。
帰路の途中には、かつての散歩道が待っているだろう。だけど今の気分なら、そして今は一人でないから――あの時、風に押されたままそうなったように、勢いで走れるかもしれないと思う。
「平気! ちゃんとついて来てね!」
夜に満ちたコンクリートのトラックを駆ける。
幼馴染と二人、静かな帰り道。七色の光の夢のあと。
◆
――子供の頃から、私の心には二人の白いイヌがいた。
一人はシェパード。足が速くて愛情深い、私の三つ上の兄。
一人はオオカミ。足が速くて優しい、私の一日だけの友達。
どちらも側にはもういない。会いたいとは、思うけれど。
虹の橋の向こうに、会いに行く事は出来なくて。雨上がりの空に、不思議なオーロラを目にする事も無くて。二人と過ごした思い出も今は遠く。流れていく月日の中、夢に見る機会も減った。
寂しくないと言えば嘘になる。でも、悲しいかと言われればそれも少し違う。
だって、きっと心には残っている。思い出せないだけで、失くしてしまった訳ではないのだ。――そうして一つになって強くなるのだと、そうだったら嬉しいと。いつか言われた、もう曖昧になってしまった言葉のように。
当時の感覚を思い出せるタイミングやトリガーは多分、人それぞれ。私の場合は、この脚をひたすら動かす事に在る。
だから私は、今日も自由に風を感じたいと思うのだ。
波打つ茶色の髪、高く結ったポニーテールを揺らして。
◆
――その日は絶好の運動日和だった。
気温も湿度も高すぎず、空は晴天。
最後の準備運動が終わり、髪を結び直してトラックに出る。
観覧席から呼ばれる声に振り向いた。応援に来てくれた友人達やクラスメイト、そして幼馴染にピースサインを送る。
『――女子、八〇〇メートル決勝。まもなく競技開始です。大会記録は――……』
場内に響くアナウンス。気持ちを切り替え決められたレーンへ。順番に、出走者として名前を呼ばれるのを待つ。
『第五レーン、村崎花那さん――……』
歓声が上がる中、手を上げて一礼する。観覧席に向け、満面の笑みを作って見せた。
『オンユアマーク』
号令。深く大きく呼吸し、スタートラインの手前へ。
片足を前に。上半身を真っ直ぐ倒し、重心を傾けた。
それから数秒間。自分と周囲を包む張り詰めた静寂。
乾いた号砲の音が響いた。私の足は地面を蹴って、跳ねるように前へと進む。
肺と筋肉が酸素を必死に消費する中、周囲には何も見えない。観覧席の声援も遠く聞こえない。
……それでいい。
今、この瞬間。私の中に浮かぶのはただひとつの追想。私の奥底で眠っている、けれどこの時だけ溢れて、私の背中をそっと押してくれるもの。
「――うん。大丈夫」
――それは。
やわらかな風が撫でる蒼の原。
漂う草いきれ。影を描く陽光。
低く高く、手の届かない空と。
鮮やかな光の橋に見守られて。
遠く、遠く、どこまでも遠い。
その情景に胸を焦がして走る。
私は、銀色の風に乗って――。
【終】
【あとがき】
お読みいただきありがとうございます! 残暑のノベコン供養!
誰も傷つかない怪我しない全年齢向けのほっこりストーリー。初めましての方でもデジモンを知らない方でも楽しめる、小学生向け文庫本にありそうなお話を目指しました!虹の先の我が弟(いぬ)も喜んでくれているでしょう。
また、拙作の連載作品エンプレをお読みいただいた事のある方はキャラクターに既視感があるかと思います。
世界観設定としては「毒も何もないド平和な世界線のエンプレ」です。私は自分の作品とキャラでパラレルワールドを作るのが大好きなので、今回はストーリーを作りやすかった花那とガルルモンを主役に抜擢し書かせていただきました。本編とは無関係なお楽しみコンテンツ。
新たに短編を書く事が最近なかったので、機会をいただけたノベコンに感謝!参加された同志の皆様お疲れ様でした。そして何より入選された我が仲間達!!おめでとうございます!!!我が事のように鼻高々。幸せな気分で今夜は乾杯します。
ありがとうございました!!
ノベコンお疲れさまでした!
感想を配信で喋らせていただきましたので、リンクを下に貼っておきます!
https://youtube.com/live/PYbfStDfQbA
(39:07~感想になります)
ノベコンお疲れ様でした。夏P(ナッピー)です。
ペット、ではなく純粋に兄妹として共に育った三つ上の兄のお話。三つ上で“私”が小学五年生の時ということは14歳ぐらい、まさしく大往生ですが生まれた時から一緒にいる以上、天寿を全うしたと言っても割り切れるものではなくて。
長編とはちょっと違って少しだけ温かく優しい、喪失の痛(悼)みを柔らかな風に変えてくれるような作品でした。
何より喪失を天に召されるとか土に還るのではなく「虹を渡る」と表現したことがロマンチック溢れてますが、作者様が作者様なのでこっからどうせエグい展開が待っておるのだろうと警戒していましたが、そんなアニマルゾンビやスカルバルキモンみたいなのが現れる展開は無かった。……虹と風を想起させる作品全体の雰囲気は、例の黒い雨とは対となる真逆の要素だったのだなと。
なんとなく登場するのはガルルモンかなと思っていたら本当にガルルモンで歓喜。しかも物分かりのいい知的かつ詩的な雰囲気、昨今ではなかなか見ない、殺気立った世界ではなくどこかのどかで穏やかなデジタルワールド。……アウルモン?(ピクッ)
この辺でアカン幼馴染クンこれ死んでるわと戦慄していましたが、ガルルモンはどうも進化したら世界一足が速くなるらしい。馬鹿な……ワーガルルモン? メタルガルルモン? そいつらにそんな設定あったか──
……メルクリモン?
いやなんかこのぐらいから違和感あったんですが、穏やかなガルルモンの語らいと爽やかな疾走で完全に隠蔽されました。種族が異なるという弟や兄弟達を語る情愛に満ちた姿は、それは生物的に違う“兄”を兄として追いかけ続けた“私”と連なるもので、ハハァさては弟ってグルルモンとかガルルモン黒とかそういう奴だなと思っていたらまさかのコロナモン。そしてソウタ。
エンプレじゃねえか!!
というわけで、もう戦慄してゲート傍に辿り着いた辺りで「え、何これどういうこと?」が先行してそこからは一気に読み終わりました。てっきり実はカナソウタはエンプレの本編前にDW来たことあって、でも忘れていたのかとかそういうことばかり考えていた気がする。いやでもジョジョや龍騎宜しく一巡後の世界だったりするのかなとか考えて、ゲートの管理者ダルクモンじゃなくてカノンちゃんだったりしないだろうなと警戒して最後まで読み進めてしまいました。
ほーう、パラレルワールド!(テテーン) “私”の名前がなかなか明かされないことにそうした意図があったとは。走ることにフォーカスを置いたことで、カナとガルルモンが主人公になったんですねえ。最後ポニテて。
今回は愛犬、だけど家族、だけど兄と慕った者の死から始まる物語でしたが、こうして冒険や戦いとは色合いの違った、非日常(デジモン)とちょっと触れ合ったことで子供達が少しだけ前を向ける、大人になれるような物語はとても好みです。あと最後まで悲惨なのを警戒してたのにとても優しく柔らかい話でした。
さてはソウタとコロナモン、それどころか他の皆の分もパラレルなデジモンとの出会いや関わりの構想があるな!?
改めましてノベコンお疲れ様でした。
今回はこの辺りで感想とさせて頂きます。