【一本の糸を辿って】
《1》
文字通り、夢の中にいるような心地の中に彼はいた。
彼が頭痛と共に意識を覚ますと、彼は自分が知らない場所にいる事に気付いた。
緑と紫の苔に覆われ、四方八方から一面に草花を生やした何処か。
まるで洞穴か何かの中にいるような奇妙な状況に、彼は率直に疑問を覚えていた。
此処は何処なのか。
自分は何をしていて、何故こんな所にいるのか。
答えは出ないし、答えを与えてくれるような誰かは近くにいない。
しかし、鼻をつく青臭さが、何処か寒気を覚える空気が、彼自身の五感が自分の置かれている状況を現実のものであると伝えてくる。
此処が洞穴であるのなら、少なくとも出口はあるはずだろうが、彼の視界には前後に続く一本の道しか無く、加えて彼には自分から見て前後のどちらに入り口があるのかが解らない。
前に進むか、後ろに進むか。
この場に留まるという選択肢は浮かばなかったが、どちらの選択にも迷う気持ちがあった。
もしも間違って奥へと進んでしまったら? その先で何か取り返しのつかない事になったら? 後戻りが出来なくなるほどに迷ってしまったら? と。
自分自身でも考え込み過ぎだと感じてしまう程に、迷う気持ちは一度浮かべると次々と連なった。
俯いて、悩んで、いつかに彼は闇雲のままに選んで進みだす。
踏み締める地面は生い茂っているとは思えないほどに硬く、コンクリートの上を歩いているかのような錯覚さえ覚えるほどだった。
足自体が思うように動いていないようにも感じる。
疑心を重ねながら歩き続けていると、いつしか彼の視界は行く道の先が二つに分かれているのを知覚した。
こっちが奥の方か、と素直に思って彼は踵を返して歩いた道をそのまま後戻りしていく。
しかし、出口へ続くと期待して進んだ道の先は、先のそれを越える四つの分岐を含んでいた。
どちらの道も、また複数の選択肢を設けられているのだと知って、彼の中で迷いは更に膨らんでいく。
それならばせめて選択肢が少ない方を、とまた最初に進んだ方向へと改めて進んで戻って来てみれば、分かれ道が二つであったはずのその場所には更に数多くの分かれ道が見えるようになっていた。
最早、その全てを数えようとする気すら失せるレベルの理不尽に、重なり続ける疑問と迷いに彼はどんどん嫌気が刺してくるのを感じていた。
どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか。
何で、ただでさえいっぱいいっぱいで何も考えたくなんて無いのに、ワケの解らない事で選ばされないといけないのか。
夢なら覚めてくれと願って、どれだけ待ってみても景色が変わることは無い。
頭痛がどんどん酷くなる。
考えるほどに、悩むほどに、そうする度に苦しさを覚えてしまう。
やがて彼は何かに対して怒るように叫び、頭を掻き毟りながら蹲って。
そうしていつか、諦めるような心持ちのまま、分かれ道の内の一つを選んだ。
《2》
時は寒気を帯びだした風の吹く十一月の下旬。
その日、平凡な高校生である綱木豊《つなぎみのる》は、帰り道の街道で霹靂していた。
ビービー鳴り止まぬ車のクラクション音に信号の電子音、大きな液晶画面に映された何かの宣伝用動画の音声などの、都会特有の自然音が鬱陶しいというわけではない。
それは彼を含む都会の人間からすれば日常の一部であり、逆に無い方が奇妙に思われるものでしかない。
だから、普段通りの制服姿で帰路を歩いている彼の思考を苛むものは、当たり前に感じていた日常の明確なイレギュラー。
学校に通い、クラスメイトの人間や教師と言葉を交え、そうして解けぬまま積み重なった疑問を彼は呟く。
「……何がどうなっているんだよ……」
気の合う友人がいた。
気が向いた時に一緒にゲームセンターで遊んだり、困った時にノートを見せ合ったことがある程度には縁のある相手がいた。
双骨銀示《そうぼねぎんじ》という名のその男と豊は、つい少し前まで変わらぬ調子で学校に顔を見せ、くだらない世間話を交わしていた。
『――それでさぁ、ゲテモノは承知の上で試してみたんだけどさぁ。やっぱりあのそばつゆ味のサイダーってアリかナシかで言えばナシの部類じゃねぇかなって俺思うんだよ綱木』
『双骨お前さぁ、何で目に見えた地雷をわざわざ踏みに行くし。この前だって……何だっけ? きゅうり味のコーラとか試してたよな』
『あぁ、流石にアレよりはマズくなかったな。まぁ何だ、何事も試してみないと解らないって話があるし、目に見えてうまそうな物より明らかに変なものを試してみたくなるのが男ってやつだろ』
『それ何か男のロマンとかとは違う気がするんだが。どちらかと言えば漫画家とか研究者のそれだろ』
『いや、いくらなんでも蜘蛛の味とか知る気は無いって』
呆れたり、引いたり、馬鹿にしたり、そして笑ったり。
それ等の他愛のない会話を特別面白いとも楽しいとも思ったことこそ無かったが、同じような趣味の間柄、クラスメイトの中で一番言葉を交える機会が多かった。
接点はそれぐらい。
それぐらいで十分だと豊自身も感じていて、それ以上の見返りだの何だのを求める意識なんて無かった。
だが、だからこそ――それが突然不幸に見舞われた時は、動揺して。
クラスメイトや担任の教師の口から一言もその名前や関連する話題が出なかった日には、疑心を抱かずにはいられなくて。
そして、疑心に従うままに放課後に時間を作り、担任の男性教師に質問を投げ掛けてみると、こんな言葉が返ってきていた。
『――ソウボネギンジ? 誰のことだ?』
その声には、何かを隠そうとするような白々しさも、その事を聞くなと言外に訴えかけるような圧も無かった。
本当に、何故そんなことを聞かれたのかという疑問の声色しか無かった。
疑心を強めるなという方が無理な回答に、豊は男性教師に生徒名簿を確かめてもらうように頼み込んで、教師と共にパソコンで確認した。
が、電子化された名簿の中に彼の知る名前は無かった。
代わりに、一際目立つイレギュラーがあった。
どこの学校でも用いているようなテンプレートの、恐らくは彼の知る名前が書かれていたのであろう位置に、こんな文字が打ち込まれていたのだ。
――ソU牡音GIん示
文字化け。
本当に、名前を知っている者だけが辛うじて読み解けるような、ある種の暗号染みた文字の羅列。
見れば、名前以外の詳細も似たような文字化けを起こしていた。
男性教師は首を傾げながらも、特にその文字列の謎を解こうなどとは考えなかったらしく、単なるイタズラの産物にしか見えないそれを淡々と消去していた。
会話は、それまで。
示された事実は一つだった。
(アイツが、いなかった事になってる)
神隠しとでも言うべきか。
教師どころかクラスメイトの記憶からも、電子情報として記載されているはずの記録からも、双骨銀示という人間が消えている。
口裏合わせのドッキリ……なんて学校が設けるわけも無いし、ドッキリの対象が一個人のみの時点で変だし、そもそも名簿情報のピンポイントな改ざんなんて悪ふざけの域を超えている。
明らかに笑えない、冗談では済まない何かが起きている。
そう感じるも、原因に見当などつくわけも無い。
だから普段通りに下校しているわけで、こうして普段通りとは言い難い異常を拭えない現実に霹靂することしか出来ないわけなのだ。
「……はぁ……」
関わりのあるはずの人物達の誰も彼もが忘れ、電子情報すらも改ざんされている中、自分が覚えているという事実には何か意味があるように思えた。
だが、彼の住まっていた家の付近に足を運んでみても何も解らなかったし、それ以外に関係がありそうな場所は思いつかない。
自分にはどうしようも無い。
だが、こんな意味不明な出来事を何もせずに受け入れてしまいたくはない。
そんな心境のまま、いつも通りに街道を歩いて。
その、直後の事だった。
突如として、その変化は起きた。
「……ん?」
まず最初に、電気の弾けるような音が耳を打って。
一瞬、頭の中を掻き回されたかのような錯覚を覚えて。
気付けば、目の前の風景が一変していた。
「……は?」
まるで千年かそれ以上の年月放置されたかと思わんばかりに、色とりどりの苔や草花に覆われたビル群。
天井が壊れて使い物にならなくなった自動車やトラック、ひび割れたアスファルトの道路。
毒々しさすら覚える紫色の空と、そこに見えるねずみ色の雲。
建造物の並び方など、大まかな輪郭こそ見慣れた街のそれとほぼ同一でありながら、明らかに見慣れない何処か。
いきなりの非現実的な光景と状況に、開いた口が塞がらない豊。
つい数秒前まで、自分は東京の街に立っていたはずなのに、何がどうなってこんな場所にあるのか? そんな当たり前の疑問に応えてくれる人物など辺りに見当たらない。
そう。
そもそもの話、豊の周りからは人っ子一人いなくなっている。
都会も都会、深夜でもなければ雷雨の下というわけでもないのに、東京の街道から人がいなくなるなんてあり得るのか。
そもそも数秒前まで、視界いっぱいに老若男女の姿を視認出来ていたというのに、それ等が全て突然消えてなくなるなど、現実の事とは思えない。
幻覚を見てしまうほど疲れていた覚えなど無かったが、前後左右を見渡してみても特に何かが大きく変わることは無かった。
だから、彼は素直に呟いていた。
何処だここ、と。
(落ち着け落ち着け落ち着け。明らかにおかしいものしか視えないけど落ち着かないといや無理だろこんなの落ち着けるわけ無いだろうが!!)
自制の意思を自分で台無しにしてしまう男こと綱木豊は、念の為に道路は避けるようにしながら歩き出す。
解らないことだらけの状況で、歩く街路も歩道と車道の区別一つ苦労してしまう程荒れた有り様だったが、何であれ事態を知るためには動くしかないと感じたためだ。
目的地、と呼べるものも何一つ定まらないまま歩いていると、次から次へとおかしな光景を目の当たりにした。
街路樹の周辺にまるで山の中のように生えている大きなキノコ、飲食店であると記憶している建物の看板に書かれたよく解らない暗号染みた文字の数々、コンビニの商品棚に無造作に並べられた骨つき肉、切れた電線の代わりと言わんばかりに中空をなぞる水色の線の数々。
どれもこれも見慣れぬ光景ばかりで、夢の中だと言われた方がいっそ納得してしまえそうだった。
(まるで異世界だ。まさか転生とかそういう話じゃないよな? ライトノベルじゃあるまいし……)
そして、極め付けであった。
信号機がロクに機能していない横断歩道を渡っていると、ふと遠方から電車の走る音がした。
非現実な光景の中、聞こえた現実的な音に豊は反射的に視線を向けてみたが、そうして見えたものは少なくとも見慣れた電車では無かった。
それには、顔があった。
レールの上を正確に走るための車輪や側面に見える複数の窓、全体的な輪郭からそれが列車の類であると判別こそ出来るが、前面に見える生き物の顔がその一切から機械のイメージを取り払う。
というか、よく見ると口元が実際に動いている。
距離もあって聞き取れこそしないが、その動かし方は獣が鳴き声を発するそれとは異なるように見えた。
遊園地のコースターでもあるまいし、特徴的過ぎる造形にロマンこそ感じるが、一つの不備が数多くの人の命に直結する鉄道の作りとしては明らかに不要で、人が作ったものとは尚更考えられなかった。
怪物、という単語が脳裏を過ぎる。
緊張からか、妙に頬がピリピリするような錯覚を覚える。
いよいよもって、自身が内心で思い浮かべた異世界という単語が現実味を帯びてきたのを、豊は感じていた。
(本当に何なんだ、ここは……)
疑問を解いてくれる相手などいない。
というか、仮にこの場にクラスメイトや教師、あるいは警察官が同伴していたとしても、今の状況を納得のいく形で説明することなど出来ないであろう。
これからどう動くべきか、足で調べて判断するしか無い――そう思い込んで立ち尽くす豊は、
「――ん? 何だ、人間か」
そこで聞き覚えの無い声を聞いた。
声の聞こえた方――確か喫茶店だったと思わしき、入り口のドアの上に『箱』と一文字のみ書かれた看板が見える建物の屋根の上――へ反射的に振り向いてみれば、そこには明らかにおかしな格好の誰かがいて。
物珍しげに豊のことを見つめるそいつは、一言で言えば猫だった。
宅急便の配達員が被ってそうな黒猫の描かれた帽子とコートを身につけ、四角く大きな赤色のバッグを背負う、およそ一般男性の半分ほどの身長な、二足で立つ黒猫。
その黒猫は、本当に軽い調子で喫茶店の屋根の上から飛び降り着地をすると、一切の遠慮も無しに豊に話かけてきた。
「よう人間。道に迷ったのか?」
喋り方こそ大人びているようで、子供のような声。
突然の邂逅に、遅れて今更のように豊の口が言葉を並べていた。
「……は? 猫? が、喋ってる!?」
「……人間ってのはどいつもこいつも似たような反応すんのにゃ。というか、質問してるんだからまずは答えろよ」
呆れたように「やれやれ」と首を横に振る黒猫。
明らかに人間の言葉を理解していて、人間が自分とは異なる存在である事を知覚しているその怪物は、豊の困惑など知ったことかと言わんばかりに言葉を紡いだ。
「まぁいい。疑問たっぷりって様子だし、ちょっと腰を据えて話でもするか」
《3》
配達員の格好をした二足歩行の黒猫に(半ば強制的に)連れられ、綱木豊が向かったのは他の例に漏れず緑に覆われまくりな一軒家。
どことなく古ぼけて小ぶりな上にドアも開きっぱなしな、都会のものとは思えないその家の玄関に入ると、即座に出迎えの言葉があった。
「ブラックテイルモンおかえりー!!」
「おじさん、今日はどこまで行ったのー?」
「ブラックテイルモーン!! お腹すいたー!!」
「はいはい、毎度ながら元気なようで何よりだにゃガキ共。とりあえず色々と後でにゃ?」
ブラックテイルモン――そう呼ばれた配達員衣装の黒猫の傍には、三匹の怪物がぴょこぴょことやわらかそうな音を立てながら寄ってきていた。
一匹は赤い体にコウモリの羽のようにも見える耳を生やし、二匹目は青と白の縞模様の毛並みと尻尾が特徴的な姿をしていて、三匹目は尻尾の先が葉っぱのような形でおしゃぶりを口にしているという、三匹揃って手足も無く顔だけの体という特徴しか無い姿なのであった。
大口を開ける鉄道や二足歩行の黒猫に驚いていたら今度はこれか、と若干遠い目をし始めた豊の存在に遅れて気が付いたのか、少し怯えた様子で三匹の9割顔だけモンスター達はブラックテイルモンに問いを発していた。
「……おじさん、そいつだれ?」
「さっき近くで拾ったやつ。今からちょいと大事かもしれない話をするから、遊んだりとかはまた後でな」
「だいじょうぶ? そいつ、いじめてきたりしない?」
「仮にそんなヤツだったら問答無用で追い出すから安心しろ。解ったら、他のガキと一緒にガジモンやロップモンとかと遊んでな。ジャリモン、ワニャモン、リーフモン」
「「「はーい!!」」」
問答が終わると、三匹の顔だけお子様モンスター達――ジャリモンとワニャモンとリーフモンは兎のように廊下の上を跳ねながら何処か別の部屋へと向かって行ってしまう。
ブラックテイルモンもまた、そんな子供達の様子を少し眺めた後、その視線を豊の方へと向け、付いて来いの一言と共に家の中を進み始めた。
言葉を挟む暇も無いまま、豊はブラックテイルモンの後を言葉通り着いていくと、何やら居間のような場所に辿り着いた。
緑に覆われているという一点さえ除けば、そこは紛れもなく一般的な住宅のものと遜色無く、ブラックテイルモンはそこに設置されていた、冬の神器の一つことコタツのような器具の傍に足をのばして座り込んでいた。
辺りの電線は切れてて明らかに電気が通っている様子は無いのに、機能してるのかコレ? と疑問を覚えながらも豊も同じくしてこたつに足を突っ込んでいく。
意外なことに、しっかり機能していてバッチリ暖かいのだった。
「……ふにゃー、落ち着くー……」
「待て寝るな寝ないでくれマジで。話すことがあるって連れてきたんだろうが」
「……あぁ、悪い悪い。寝そうになっただけで忘れてはいないから……っと」
そうして、ブラックテイルモンはまず最初に今更とも言える事を聞いてきた。
「――で、人間。喋る前に一応最初に聞いておきたいんだが、名前は?」
「綱木豊。とりあえずミノルと呼んでくれればいい」
「ミノル、だな。それじゃあ早速聞かせてもらうんだが、何であんな場所にいたんだ? 経緯を教えてくれると助かる」
意味不明な状況に環境、そして怪しすぎる喋る猫。
どこまで信用出来たものかと不安要素こそあったが、ただでさえ非現実的な状況――頼る相手を選べる贅沢などあるはずも無く。
素直に豊が事情を話してみると、真面目な表情を浮かべた黒猫の口から返答があった。
「にゃるほど。察するに、そいつァ……『迷い子』になっちまったんだな」
「……何て? 迷い……?」
含みのある言葉遣いだと思い疑問を口にすると、ブラックテイルモンは特に考える素振りなど無いまま言葉を紡いでいく。
さながら、それは常識の範疇であるとでも言うような口ぶりで。
「言葉の通りだ。ちらほらいるんだよ、突然この世界に迷い込んでしまう人間だの獣だのが。ちなみに他人事っぽく感じてるかもしれないが、お前も既にその一人だぞ」
「……いくら何でもおかしいと思ってたら、ここって別の世界なのか……」
「まぁ、そっちの世界の事はあまり覚えてにゃいが、この世界にお前みたいな人間って基本的にいにゃいからな。オイラからしてもお前の事は余所者としか思えねぇし、お前から見てもオイラやあのガキ共みたいにゃのは初めて見るだろ?」
「まぁ、顔がある列車だの一頭身の毛むくじゃらだの、そんな配達に使いそうなバッグ背負って帽子でオシャレした黒猫だの、現実じゃまず見ないからな」
人間ではなく、人知の外にある怪物達が主に生きる世界。
薄々予感していたことが的中していた事実に、豊は改めて息を呑む。
「この世界は、基本的に弱肉強食がルールだ。物珍しいヤツだろうが何だろうが、弱いヤツは強いヤツに喰われて死ぬ。一応この辺りにはオイラやガキ共みたいに温厚なヤツもちらほらいて、お前が見たトレイルモンもその一匹にゃんだが……可能性はゼロじゃなかっただろうにゃ」
「……俺が思いの他ラッキーな方だったってのは解った。察するに、ここに連れて来たのは保護のためなのか?」
「助ける義理も何もにゃいわけだが、偶然でも見つけちまったヤツを見捨てるのは後味が悪い。それだけの話だ」
そこまで言うと、ブラックテイルモンは「さて」と一度言葉を区切り、最も重要な話を聞いてきた。
「とりあえず聞くんだが、お前さんはどうするんだ?」
「どうするって、何を?」
「お前さんのいた世界に引き返すか、引き返さないか。今の内に引き返すんなら何事も無く済むと思うが」
その問いに対し。
綱木豊に、選択の余地など無かった。
「引き返さない。ここに、本当にギンジのヤツが生きているのならな」
「死んでる可能性もあるが、それでもか?」
「諦めるとしても、出来ることをやってからするさ」
「危険を承知で即答か。ここに迷い込む人間にしては決断が早いねぇ」
弱肉強食の獣の世界。
そこに迷い込んでしまった事実こそ恐れを抱くのに十分なものだったが、非現実に鉢合わせたからこその好機でもあると彼は感じていた。
現実で存在そのものを忘れ去られた知り合いを、自分の手で見つけ出すことが出来るかもしれない。
その可能性を思えば、彼にとって危険を冒す理由としては十分だった。
が、そこまで決意した所で当然と言えば当然の指摘が入る。
「――で、そのギンジって【迷い子】を探すのは良いんだが、どこをどうやって調べる気だ?」
「うっ」
「この世界は広い。適当に走り回ったって特定の誰かを探し当てる、なんて至難だぜ? 生き残るためには強さだって必要だし、時間が掛かれば掛かるだけ見つけ出せる確立は低くなる」
「うぐぐっ」
「さてさて。そういう前提がある中で、今自分が何をするべきか、解ってんのかにゃ? 自分自身の帰り道はおろか何でこの世界に来てしまったのかも解ってなさそうなヤ・ロ・ウ?」
なんとなく、求められている行為は察せられた。
豊はコタツから抜けて立ち上がると、いつの間にか背負っていたバッグを隣に置いて寝そべっていたブラックテイルモンに向けて、告げるべき言葉を口にした。
「手伝ってくれ」
「頭が高い」
「手伝ってください」
「言い方の問題じゃねぇんだわ」
「……お願いです、手伝ってくれませんか……?」
「よろしい♪」
何やら途中で正座、最終的に土下座までする羽目になったが、ともあれブラックテイルモンは嘆願を受け入れてくれるらしい。
自分よりも背丈の小さな、年齢すらも定かではない黒猫を相手に頭を下げるのは何となく躊躇う気持ちもあったが、今は一刻を争う――プライドだの何だのを優先している場合ではない。
出会ったばかりの相手をやけに手伝ってくれるな、と若干疑問を覚えながらも、豊はブラックテイルモンの返答に「ありがとう」と返す。
と、そこで豊の腹の虫が鳴った。
そういえば、下校中で夕食にもありついてはいない状況だったなと今更のように思い出す豊に対し、ブラックテイルモンは傍に置いていたバッグの中から(先の一頭身モンスター達と同じぐらいの大きさの)骨付き肉を二つ取り出すと、その内の一つを豊に手渡していた。
「腹が減っては何とやら、だしな。出発前に腹ごしらえは必要だろう」
「何から何までありがとうな」
「気にすんな。こっちにも事情ってのはあるんだ」
……冷静に考えてみると、ブラックテイルモンの背負っていたあの小さなバッグの中にこの大きさの肉が二つもよく入るものだなとか、たった今口にしようとしているのは何処で拾ったのかもどういう存在由来のものなのかも解らない得体の知れない肉である事とか、その他にも人間の常識として気にすべき点はいくつかあったのだが、空の胃袋の前では些細な問題となってしまっていた。
先に食べ出したブラックテイルモンに合わせるように、豊は骨付き肉に漫画のワンシーンのように突き出た骨を両手で持つと、食らいついて咀嚼した。
豚肉か牛肉か鶏肉か、別にグルメ舌でもない豊には判別こそ出来なかったが、少なくともマズいものでは無いと感じられるもので。
どちらかと言えば美味しくて、満足感があって、気付けば一分で完食していた。
ふぅ、と一つ息を吐き、満腹感から腹ごしらえは済んだと判断して視線をブラックテイルモンの方へと移すと、
「――っ――?」
突如として。
綱木豊の意識に、酩酊にも似た揺らぎが生じた。
マトモに立っていられず、眠りにでも就くように仰向けに倒れてしまう。
混乱する意識の中、心臓の鼓動の音が妙に強く聞こえてくる。
その様子を眺めていたブラックテイルモンは、僅かに目を細めると、こんな事を言った。
「……まぁ、襲われてる真っ最中より先にそうなっただけ幸運な方かもな」
「――っ、何か気持ち悪い……何だこれ……?」
夢の中で錯覚すらした事の無い、異質な感覚があった。
手足が、神経が、体そのものが、丸ごと溶けていくような。
体の中に巨大な渦潮が出来て、それに全身が巻き込まれているかのような。
異常の最中にある豊のことをあくまでも眺めながら、ブラックテイルモンは聞こえているかも定かでない言葉を紡ぐ。
「どうせ起きる事だから説明してなかったが、この世界で生きるやつは、誰であれこの世界で生きやすいように順応する。機械だろうが獣だろうが――人間だろうが、例外に覚えは無い」
痛みは無い。
回転している、という認識のみが意識にある。
綱木豊という人間の体は、瞬きの間に原型を失っていた。
その場に在るのは、0と1の数字の螺旋と、ノイズにまみれた一つの繭。
幼虫が成虫に至る過程でそうなるように、異なる何かに変じるための経過の一つだった。
「順応って言葉の意味は解るよな? 周りに適応するって意味だ。まぁ、出発前にそう成って良かったと思うべきだと思うぜ。そうならないとは思ってたが、人間の姿のままで奥に進んでも危険すぎるだろうからな」
豊の意識が沈み、そして即座に呼び起こされる。
異常の起きた時間は、実時間にして十秒も掛かったかどうか。
終わってみれば、巻き起こった全てが一瞬で過ぎ去ったように感じられた。
「……ぅ……」
豊は、未知の感覚に混乱しながらも、仰向けの姿勢から立とうとした。
が、そこで彼は両腕の感覚が無いことに気がついた。
それどころか、視界に映る物の大きさも、上げた両脚の形も、何もかもが異なっている。
ただ立ち上がる、たったそれだけの事に少し難航していると、見かねたブラックテイルモンが抱き抱えて無理やり姿勢を整えさせた。
抱き抱えることが、出来ていた。
「――え、デカッ!?」
「お前が小さくなってんだよ」
そう。
綱木豊の体は、ブラックテイルモンの背丈と大差無い程度にまで小さくなっていた。
体重もかなり軽くなっているのか、ブラックテイルモンの手でひょいと持ち上げられた豊は、そのまま連れて行かれた洗面台の鏡で自らの姿を視認し、ようやくの自覚を得る。
手は無く、鳥のような両脚と嘴が生えた、木の実のような彩りの姿。
すっかり人間の面影なんて何処にも無くなった自分の姿を見て、流石に唖然としながら豊は感想を述べた。
「……うっわ、何だこの体……ヒヨコ? めっちゃくちゃ弱そうなんだけど……」
「その姿がお前の、この世界に順応し始めた姿……いわゆる成長期ってやつだ。一応聞くが、意識は大丈夫か? 自分がやりたい事や名前、ちゃんと思い出せるか?」
「……忘れるわけが無いだろ。それはそれとして、こういう事は先に話しておいてほしかったが」
「奥へ向かう以上、起きて困る事でもないわけだからな」
「いや困るって。両腕の感覚も無いし立ってる感覚も違うし完璧に人間じゃなくなっちまってるんだけどこれ元に戻れるのか?」
「お前のいた世界に戻れば、多分戻るんじゃね? 今度はそっち方面に順応してさ」
「急に適当になったな説明が!?」
「しかし随分小さくなったにゃ。そしていいニオイ……ちょっと齧ってもいいか?」
「駄目に決まってんだろ殺す気か」
「冗談にゃじゅるり」
「やめろって!!」
とても冗談に聞こえない発言に両足を動かしてじたばたし、どうにかブラックテイルモンの手から逃れる豊。
一度着地をしてみれば、不思議な事に今の自分の立ち方や歩き方、その他の諸々も何となく理解が出来た。
ポームモン、というのが今の自分の名前である――そんな直感が頭の中を過ぎった事も含め、そうした慣れの速さも、人間ではなく怪物として体がこの世界に順応した影響の一つなのか。
色々と驚かされながらも、豊は振り返ってブラックテイルモンに問いを飛ばした。
変化した今だからこそ、高い可能性の話として理解したことについて。
「ブラックテイルモン」
「にゃんだ」
「俺がこうして……ポームモン? って怪物に変わってるって事は、もしかしてギンジのヤツも……」
「生きているのなら、確実にそうだろうな。そして、場合によってはおかしな事になってる」
「……おかしな事?」
疑問の声に、返る答えは無かった。
代わりに、急かすような言葉があった。
「探すなら急いだ方がいい。疑問があるなら、進みながら解る範囲だけ答えてやるからさ」
《4》
この場所に迷い込んでから、どれぐらいの時間が経ったか。
いちいち、数えてなどいられなかった。
どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか、と理不尽に対する怒りが募るばかりで。
いつからか、彼は考えるという行為そのものに、苦痛を覚えるようになった。
「フーッ、フーッ……!!」
呼吸が、自分のものとは思えないほどに荒い。
自分は、鼻にこんな金色の輪を取り付けていただろうか。
視界の下部を隠すほどに、口はこんなに前に突き出ていただろうか。
左腕が、自分のものとは思えないほどに重い。
自分は、左腕にこんな金属の凶器を取り付けていただろうか。
こんな金属の凶器を携えていながら歩けるほど、強い足腰を持っていただろうか。
何も解らないし、知りたくもなかった。
自分の身に降りかかる全てが理不尽に思えて、理解を得ようとするほど苦しくなる。
目的も何も浮かばないのに、足が勝手に歩を進めていく。
曲がった道、枝分かれした道、傾斜の激しい道、その他色々。
道の形にも色々あったが、そうした差異に興味が湧くことは一切無い。
「グルルルル……!!」
「――ブルル……!?」
歩いて、進む度に。
見覚えなど欠片も無いものと遭遇する事があった。
鼻先がドリルのようになったモグラの化け物。
踏み入れた空間がそいつの縄張りだったのか、どうあれ瞳に獣性を帯びたそいつは、襲い掛かって来ていた。
ドリルで腹を刺された。
噛み付かれた。
圧し掛かられた。
縄張りを侵した、なんて事実を把握出来るほどの余裕の無い彼にとって、それは理不尽の一種としてしか受け取れない行為でしかなく。
それまでに蓄積された苛立ちも相まって、彼は考える事をやめていた。
怒りが殺意に変換され、行動として出力される。
邪魔だったから、目障りだったから、攻撃してきたから――恐ろしいから。
彼は、荒れ狂う衝動のままに動き、モグラの化け物の頭蓋を左腕の鈍器で突き込むように殴打していた。
マウントを取られていた状態から一転、頭部に重たい一撃を受けて横転して伏したモグラの化け物に対し、彼は続けざまに左腕の鈍器を振り下ろしていく。
それまでの鬱憤を、理不尽に対する怒りを晴らそうとするが如く、何度も何度も。
その場の空間全てを震わす、地鳴りの音が幾多に響いて。
ふと、気付いた時にはモグラの化け物は陰も形も見えなくなっていた。
敵を倒した。
その実感に、遅れて未知の感覚がその身に宿る。
「――あァ――」
ポツリと、無意識に言葉が漏れた。
生き物を殺す。
自己防衛のためとはいえ、それを意識的に行ったのは、それが初めてだった。
あるいは、正しい倫理に生きる人間であるのなら、罪悪感でも抱いていた可能性はあっただろう。
が、実際に彼の心中に浮かんだものは、違った。
恐怖の対象を消し去った安心感。
怒りの対象を叩き潰した爽快感。
日常で得られるものとは比較にならないほど大きなそれは、時間の経過と共に彼の理性をじわじわ蝕んでいた。
それこそ、良識と言う名の安全装置を腐食させてしまうほどに。
獣のように鳴る喉のことなど意識にもなく、幸福感にでも浸るように暫し立ち止まって、彼は再び歩き出す。
一度覚えた快感は、好物と呼べるようになったものは、二度も三度も味わいたくなるもの。
「――ブルル――」
興奮が消えない。
意識が嫌でも覚めて、眠気が出ない。
自分で自分が制御できない。
そもそも、自分というものが何者であるとか、そうした自己の認識さえも曖昧になっていた。
彼は。
双骨銀示と呼ばれていた、人間だった怪物は、内より沸き立つ衝動のままに奥へと歩を進めていく。
《5》
数刻後。
出発前から色々と起こり過ぎだろ、と綱木豊もといポームモンはため息を漏らしていた。
というのも、
『くんくん、なんかいいにおい……』
『あー!! おじさんのおみやげのフルーツじゃないアレ!?』
『――あ、ちょ、待てガキ共!! おみやげなら別に……!!』
『おいちょっと待て俺はフルーツじゃなくて普通に生き……んぎゃー!?』
ブラックテイルモンの急かすような言葉の後、いざ出発しようとした矢先に玄関で遭遇した一頭身モンスター達が寄ってきて、食い物と間違えられたのか一斉に襲い掛かられてしまったのである。
野生一色、ご馳走万歳――とでも言わんばかりの形相で、しかも背丈が小さくなったことで殆ど猛獣に襲い掛かられるに等しい構図で追いかけられ、実際に後頭部(?)を嚙まれたりもしながら、最終的にブラックテイルモンだけではなく同居していた他のモンスター達の助けもあってようやく事なきを得たのだった。
ご馳走にありつけると思っていたらしいお子様は、ポームモンが食べ物でない事を知って謝ってくれたが、それはそれとして生きた心地がしなかった。
「自分のニオイなんて大して感じられないけどさ、そんなに良いニオイがしてるのか? 今の俺」
「良いニオイがしてなかったらガキ共もあそこまで集まらないさ。まぁ、足早に走りこみが出来たと考えておこうぜミノル。この先も、ああいう場面は起きることだろうし」
「少し前から思ってたんだけどさ。お前ポジティブ過ぎない?」
「ネガティブになって良い事なんて無いからな」
数多くの荷物を収納しているらしいバッグを軽々と背負い、その上で駆け足で進みながら、ブラックテイルモンは変わらぬ調子で言葉を交える。
現在、豊とブラックテイルモンは住まいを出て、相も変わらず世紀末染みた東京そっくりの街中を走っていた。
車も何も通っていない、そもそも通れるようにも見えない車道の上で、豊はブラックテイルモンを追う形で走りながら問いを飛ばす。
「そういやさ、さっきからここに迷い込む人間の割りにはーとか、迷い子とか、やけに迷いって言葉が強調してる気がするんだが……何か関係あるのか?」
「そりゃあまぁ。ここは迷いの集う世界だからな」
「迷いが……集う?」
疑問に対し、ブラックテイルモンは出発前に告げた通り、解る範囲で回答していく。
「猫だろうが人間だろうがにゃんだろうが、色んな事に対してどうしようか選択するのに迷いは付き物だろ? んで、そういう思いが強いヤツは決まってこの世界に迷い込んじまって、奥へ奥へ自然と潜って行っちまう。お前みたいに、この世界に順応しながらな」
「……もしかして、お前も元はその姿じゃなかったのか?」
「元の姿なんて殆ど忘れちまってるけどな。とにかく、自分で自分の迷いにケリをつけられないヤツ。選択することにビビっちまうやつ。この世界でやって来る【迷い子】ってのは、そういう負債がいっぱいになってしまった連中のことだ」
「……負債……」
迷いの集う――つまり、選択行為に対する負の衝動が集積される場所。
選択に対する不安や恐怖、あるいは放棄した選択に対する未練を抱く者を、磁石か何かのように引き寄せる世界。
ブラックテイルモンは豊がポームモンに変わる際、変化が起きる事に関して、迷いなんて砂粒程度も抱くことが無いであろう機械も例外ではないと話していたが、そちらはそちらで何か別の法則が絡んでいるのだろうか。
あるいは、この世界に来て最初に見た列車の姿の怪物も、機械の姿こそしているが元は生き物であったというのか。
どちらにせよ。
それが事実であれば、この世界に来ているという時点で、綱木豊にも迷いと呼べるものの負債が溜まっていたということ。
そう言外に告げられた豊からすれば、人生を生きる中でそこまで大した迷いを抱いた覚えは無く、納得のいかない気持ちも少々あったが、実際にこの世界に来てしまっているという時点で、反論の余地は無いのだった。
「まぁ尤も、全部が全部元は余所モンだと決まってるわけでも無いんだがな。あのガキ共についてはここの産まれ。いつかの頃にタマゴとして野放しになってたのを、オイラがあの家に保護して、勝手に孵化した。今でこそ可愛い奴等だが、いつかはオイラみたいにデカくなっていくと思うよ」
「いやお前別にデカくないと思うけど。人間の姿だった時の俺の半分あるか無いかぐらいだったし」
「黙れ非常食」
「その冗談すごーい怖いんだけども!?」
世間話をするような感覚で重要な情報を交えながら、豊はこの世界の影響で変わった、ポームモンと呼ばれる怪物の体の能力に内心で感心していた。
出発前、体格が人間のそれとは比較にもならないレベルで小さくなってしまい、歩幅を考えても遠くへ向かうのは骨が折れるんじゃないかと豊は危ぶんでいたのだが、実際に走ってみると思っていた以上に速く動けて、そして疲れない事実に驚かされた。
自分自身の体ながら、弱そうな見た目に似合わず強いんだな、と。
そして、その能力が齎した結果として。
軽々とした身のこなしで先を行くブラックテイルモンと大して離れる事も無く、尚且つ想像していた以上に早く、ブラックテイルモンが目指した目的地と思わしき場所が豊の視界に入った。
「これが……?」
「ああ。迷いが集うこの世界……『迷界《ダンジョン》』の、更に奥へと続く道だ」
「……道っていうか……」
世紀末染みた街に点在していた、恐らく公園と思わしき場所。
そのド真ん中に、それは在った。
「階段じゃん」
形状から見ても、地下へ向かうためのもの。
非現実に染め上げられた街並みを、より一層非現実的なものとして見せているもの。
景観を損ねるどころの騒ぎでは無かった。
芝生の広がる遊び場の中、現実通りであればジャングルジムが存在していたと記憶している位置に、四角い穴を掘ってそこに無理やり押し込んだかのような、石造りの階段が見えていたのだ。
機能していない道路だの割れた液晶画面だの、この世界に来て怪物以外にも散々な景色を見てきた豊だったが、流石にこれには唖然とするしか無かった。
というか、地下鉄に繋がっているわけでもあるまいし、この階段はいったいどんな場所に繋がっているというのか?
構わず、ブラックテイルモンは足早に階段の方へと歩を進めながら、視線を豊のほうへと向ける。
「行くぞ。お前と同じ地域に住んでる奴が奥へと向かったってんにゃら、この道が一番追いつける可能性が高い」
「お、おう」
進行を促され、疑問を抱きつつもブラックテイルモンと同じく豊も階段の方へと向かい、そして踏み込んでいく。
すると、階段を踏み締めた感覚などは一切なく、景色のみが一瞬にして切り替わっていく。
緑に覆われた街の景色は何処へやら、気付けば綱木豊の目の前には壁と通路だけの空間が広がっていた。
前方と左右を見回してみれば、四角く切り取られた空間の異なる方角にそれぞれ一本の道が設けられているのが見える。
公園の地下、として見ると明らかに広大で異質な空間に豊は素直に感想を述べた。
「一気に景色が変わったな……」
「奥に進んだって証拠だ。こういう不思議でいきなりな変化は、これから何度も見ることになるぞ」
「知ってる風なことを言ってたけど、最適なルートも知っていたり?」
「いや、どういう仕組みかは知らないが、この手の迷路の道は入る度に毎度毎度中身が変わっているから、事前情報なんてものはアテに出来ない。自分の直感を信じて進むしか無いな」
「……要するに、不思議のダンジョンってやつ?」
「何処の言葉だそりゃ?」
ともあれ。
事前情報が無く、どれだけ複雑な構造であったとしても、まずは進んでみない事には始まらない。
ブラックテイルモンと共に、豊は二択の内から選んだ道を進んでいく。
それなりに長い一本道を駆け、やがて最初に見たそれとは異なる広間に出ると、そこには見覚えの無い姿の怪物が存在していた。
緑色の配線が幾多に重なり腕と足を構築し、紫色の殻を被った単眼の怪物――それが四匹
生物的と言うよりはどこか機械的な印象を受けるその怪物達は、豊とブラックテイルモンの姿を見た途端、奇怪な鳴き声(?)を発し始めている。
威嚇を挟む余地も無く、すぐにでも襲いに来る――そんな予感を感じ取ったのか、ブラックテイルモンは怪物達を見据えながら告げた。
「さて、戦うぞ」
そのあっさりとした判断に、即座に豊は無視出来ない懸念を口にした。
「……ギンジの奴も、俺みたいに変わってるって話だったよな? アレがそうだって可能性は?」
「だったら名前を呼べば反応するだろうし、最低でも言葉は喋れるだろ多分。……まぁ、そもそもこの程度の深さの場所にいるとも考えにくいが」
言われてみれば、言葉を介することも出来ていない配線だらけの怪物達が『そう』だとは考えにくかった。
言われた通りに試しで名前を呼んでみても、返ってくる反応も何も無し。
伝わるのはただ、敵対と拒絶の意思のみ。
「さっきも言ったが、ここにいる全部が全部元は人間だったり獣だったりの『迷い子』ってわけじゃない。元からこの世界で生まれて、自力で成長していったやつも数多くいる。……何より、前にも言った通りだ。此処では弱肉強食が基本だぞ」
「……解った!!」
意思の疎通も取れない、自分を害してくる事が明確な敵であるのならば豊が躊躇する理由は無かった。
なったばかりの怪物の体で、上手く戦うことが出来るのかと不安に思う気持ちこそあったが、怪物としての本能とでも言うべきか、いざ戦いを認識すると今の自分――ポームモンに出来ることが次々と思考に混ざりこんでくるのが解る。
真正面から突っ込み、豊は即断即決で頭の中に浮かんだ攻撃手段を行使した。
「ラピッドシード!!」
言霊と共に、その嘴から種子が機関銃の如き速さと数を伴って解き放たれる。
種子の弾丸は四匹の単眼の怪物に命中すると共に怯ませ、その隙にブラックテイルモンが肉薄――背負っていた赤色のバッグを鈍器のように振り回し、殴り飛ばしていく。
「パコーニャ!!」
見かけとは裏腹に、重々しい音が鳴る。
種子の弾丸で怯んだ四匹の内、三匹が壁際にまで吹き飛ばされ、残った一匹が左の触手を玉巻きにしてブラックテイルモンを殴ろうとするが、ブラックテイルモンの攻撃に続くよう駆け出していた豊もまた、残ったもう一匹に向かって体当たりを仕掛けていた。
全体重を乗せた一撃を受け、単眼の怪物が面白いぐらいに地面を転がり、そして倒れ伏す。
数秒、起き上がる様子の無い怪物達の姿を見て、速やかに敵を倒せたその事実を結果として判断し、安堵の息を吐く豊に対してブラックテイルモンは意外そうな眼差しを向けながら一つの評価を下した。
「思ってたよりやれるじゃねぇか。雑魚相手とはいえ、ちゃんと技を当てて追撃まで入れるとはにゃ」
「そりゃどうも。というか、お前のそのバッグって鈍器にもなるんだな。何で出来てるんだ?」
「知らねぇ、そして興味もねぇ。この姿に成ったその頃から、いつの間にか持ってたモノでしかにゃいし」
「ふーん」
多少の言葉を交えつつ、彼等は道の奥へ奥へと進んでいく。
道中、最初に倒したものと同じ単眼の怪物や、木製の棍棒を携えた猿面の怪物、玩具の組み立てブロックで形作られたような姿の怪獣など、様々な種類の怪物と遭遇したが、そのいずれも二人の――特にブラックテイルモンの――進行を阻むほどの力は持っていなかった。
真っ直ぐ一本だったり、英文字のように折れ曲がっていたりする数々の道、そしてその先にある広間を何度も通り過ぎる。
合間合間に戦いながら、やがて到達した広間の一つに、この場所への入り口であったものとよく似た階段を見つけると、ブラックテイルモンはそこへ迷いなく足を踏み入れる。
豊も、何となくこの場所の構造を察し、ブラックテイルモンと同じく階段へと向かう。
景色が再び変わっていく。
草花や壁が帯びる色は緑から黄色に、地面そのものも少し硬く。
(……そういえば……)
豊は考える。
ブラックテイルモンは言っていた。
迷いを強く抱く者は、自然とこの世界の奥へ奥へと進んでいき、順応していくと。
順応という言葉は、状況に応じて行動の仕方を変えたり適応することを指し、一方で迷いを集めるこの世界においてのそれは怪物に変わっていく事を指している。
何か、人間の常識との差異に見過ごせない何かがあるような気がして、彼はブラックテイルモンに改めて問いを飛ばした。
「ブラックテイルモン」
「にゃんだ」
「迷い込んだ奴が奥へ奥へと進んで順応するって話だけどさ、何か腑に落ちないんだよ」
「余計に迷って、それで姿形まで変わってるのに、状況に適応出来ていると言うのはおかしいって話か?」
「ああ。薄々そんな気はしてたけど、もしかして怪物になるだけじゃ済まないのか?」
「……お前は無事に済んでるっぽいし、余計に迷ってほしくも無いから言わなかったが……」
そして、ブラックテイルモンは僅かに躊躇うように言葉を切ってから、こう返答した。
「奥へ進んで姿が変わるごとに、元々知っていた事とかを忘れる。忘れる事で、迷いを脱するんだよ。ここに迷い込んでしまった奴等は」
「……トンでもない対価、というか適応とは程遠いものじゃないか。俺も、このまま奥へ進むと色々忘れちまうのか?」
「迷いが強くなっちまったら、そうなるかもな。少なくとも、自分の本来の名前と姿を覚えてられてるなら大丈夫なはずだ」
予想を遥かに超える弊害、その情報に豊の足が自然と早くなる。
思い返してみれば、ブラックテイルモンは出発前の時点で言っていた――場合によってはおかしな事になっている、と。
彼はこう言っていたのだ。
奥へ奥へと進んで怪物になっていくごとに、双骨銀示は元々持っていた人間としての知識や記憶を失う、と。
それを知っていたからブラックテイルモンは移動を早めていたし、急かしもしていたのだと、今更のように綱木豊は知ることになった。
現実の世界で見た、名簿内に記されているはずの名前が文字化けしていた光景が想起される。
もはや、多少の景色の変化になど目をくれている場合ではなかった。
とにかく奥へ、駆け足で進んでいく。
奥へ進んだことで、遭遇する怪物の姿――というか種族――も多少変わっていたが、名前に反応も無く、敵対と拒絶の意思は最初に見た単眼の怪物と大差無く。
何より、敵という時点で攻撃することに躊躇は無くなっていた。
「どけえっ!!」
「気持ちが解らんわけでもにゃいが、先走り過ぎんにゃよ!!」
種子の弾丸を放ったり、体そのものをぶつけたりして。
蹴散らし、進む。
途中途中、流石に息切れを感じて休む事になり、その度にブラックテイルモンが背負うバッグの中から食べ物を出してくれて、体力を回復させてくれている。
自分自身も走り疲れ、敵と戦う以上は多少なり命懸けだろうに、それでも苦言一つ無い彼の付き合いっぷりに少なからず疑問はあったが、今はそれを問わない事にした。
知っておくべきと感じる事は既に聞き終え、今はただ進む事を最優先とすべきなのだから。
通路を進み、広間を抜け、階段を下りる。
目的地の見えないその繰り返しが、およそ十回は過ぎた頃。
捜索者である彼等は、一つの巨躯を目の当たりにした。
《6》
「……あいつは……」
緑に紫、赤に黄色。
様々な色が草花に反映された、長方形の広間に、そいつは背を向けて佇んでいた。
茶色の皮膚と髪に、牛の双角と尻尾。
両脚に履いた土色のブーツと、左腕に備え付けられた歪な形の鋼鉄。
備えた武装さえ除けば、およそ外国の迷宮にまつわる神話で語られる牛頭の怪物――ミノタウロスそのものと呼んでいい姿のその怪物は、明らかにこれまで遭遇してきた怪物とは異なる雰囲気を醸し出している。
実際、体躯の大きさや威圧感もそうだが、豊の直感はそれ以外の部分でこの怪物に言語化出来ない何かを感じていた。
「お前!! ギンジか!?」
怪物と遭遇する度に、作業のように繰り返した問い。
呼びかける声を聞いて、牛頭の怪物が豊とブラックテイルモンのいる方へと視線を向けてくる。
鼻から荒い息を吹きだしながらの、その怪物の第一声は、
「――ブルル……?」
疑問形だった。
それまでの、敵対や拒絶のみの敵とは異なる反応。
だが、それも最初の数秒のみだった。
直後に、怪物らしさとでも呼ぶべき凶暴性が噴出する。
雄叫びと共に、襲い掛かって来たのだ。
「――ゥオオオオオオ!!」
「……来るぞ。一撃も受けるにゃよ!!」
「解ってる!!」
異なる反応に関して、考察していられる余裕は無かった。
振り下ろされる左腕の凶器を、豊とブラックテイルモンはそれぞれ左右に動いて回避する。
ズズン……!! と、凄まじい音と共に地が揺れ、辺り一面に砕けた地面の欠片が飛び散っていく。
これまでの敵が放ってきたものとは比較にもならない威力に、必殺という単語が豊の脳裏に過ぎった。
(洒落にならないって……!!)
直撃を受ければ、死ぬ――そんな悪寒が嫌でも背中をなぞる。
地鳴りに揺らされ、バランスを崩しそうになりながらもどうにか転ばないように踏ん張り、嘴から種子の弾丸を放つ。
これまで遭遇した怪物達には有効だった攻撃手段なのだが、やはりデカいだけの事はあるのか、弾丸は怪物の茶色い皮膚に弾かれて辺りに散らばってしまう。
ダメージは殆ど受けていないのだろうが、攻撃行為であるとは認識しているのか、牛頭の怪物はその獣性を帯びた目を豊に向けてくる。
帯びた怒気、そして増した危機感に思わず狂いそうになる足をどうにか制御し、続けざまに振り下ろされる凶器を辛うじて避けていく。
「――オイラの事を無視すんなキック!!」
「ブゥオッ!?」
そうして、意識が外れたタイミングを見定めたブラックテイルモンの飛び蹴りが牛頭の右頬を直撃する。
小柄な体格に見合わず筋力はものすごいのか、ポームモンの攻撃が殆ど通用しなかった牛頭の怪物の体でも、ブラックテイルモンの一撃はダメージ与えられるものらしかった。
蹴りを加えた右頬そのものを足場として後方へ飛び退き着地するのと同時、牛頭の怪物の敵意が必然的にブラックテイルモンのほうへと移動する。
「ラピッドシード!! ラピッドシード!!」
「――ブルル……!!」
「ネコパンチッ!!」
豊は、そんな牛頭の怪物に向けて、効かないと解りきった種子の弾丸をそれでも連射していく。
たとえ攻撃でダメージを与えられずとも、注意を引くことさえ出来ればブラックテイルモンの攻撃を確実に通すことが出来る、と判断したがためだ。
チクチクと、体中に命中させられている種子の弾丸は、ダメージに繋がるほどではないにしろ牛頭の怪物に少なからず豊の存在を意識させる。
そうして生じた隙に、ブラックテイルモンが一撃を見舞う。
豊とブラックテイルモンのどちらの動きを警戒し、どちらを先に倒すべきか、冷静に考えられる頭があれば明白だろうが、少なくとも牛頭の怪物にそれを考えられるほどの思考の余裕は無いらしかった。
着実に一撃を重ね、牛頭の怪物から戦う力を奪っていく。
しかし。
この立ち回りを繰り返せばどうにかなる――そう考えていた豊は、直後にその思考が楽観であると思い知らされた。
「――ダークサイドクエイクッッッ!!」
「「ッ!?」」
怒りが一定のラインにでも達したのか、牛頭の怪物は突如として言霊と共に自らのすぐ足元の地面に左腕の凶器を振り下ろした。
瞬間、それまでに生じたものとは比べ物にならない規模の振動が大地を揺らし、打ち鳴らした地面を中心に広範囲に衝撃破が撒き散らされる。
軽い体のポームモンな豊とブラックテイルモンは揃って衝撃に圧され、それぞれ極彩の苔を帯びた壁に激突させられてしまう。
予想外の衝撃に苦悶の声を上げ、壁際に横たわる豊。
たった一撃、されどそれは格上の相手が放つ必殺の一撃。
人間の子供のそれより強い体に成って、それでもなお意識が刈り取られそうになる。
元より怒りを蓄積させている牛頭の怪物は、間髪入れずまず真っ先に――最も攻撃を命中させていた豊の方へと左腕の凶器を振り下ろしに来る。
「ッ、ミノルッ!!」
(くそっ……こんな所で死ぬわけにはいかないんだ)
死のイメージが急激に濃くなる。
地面を割るほどの一撃、それに耐えられるほど自分の体が頑丈であるなど、到底思えない。
道半ばにして、終わる。
獣のルールに屈して、ただ強者の糧とされる。
――それを拒む意思が、彼の中の何かを急速に回転させた。
「まだ、生き足りちゃいないんだよッ!!」
怒りを伴った叫びと共に、豊――ポームモンの体が光を纏い、表皮がワイヤーフレーム状になったその体が内側から見えざる力によって膨らんでいく。
鳥のようにも果実のようにも見えていたその顔は、獰猛さを宿した猛禽のような形に様変わりし。
それを基点に胴体が生え、飛ぶことには向いて無さそうだが頑丈さを宿した両翼や、猛獣のように頑強でしなやかな両脚が形作られる。
全体的な基本色は、緑や赤など。
さながら生きた化石とでも呼ぶべきその巨鳥は、ポームモンだった頃よりも遥かに大きく、牛頭の怪物と比肩するほどの大きさを成していた。
その名を、ディアトリモンと呼ぶ事を本能から知った直後、新たなる姿となった豊は牛頭の怪物に向かって咆哮を発した。
「デストラクションロアーッ!!」
「――ブオオオオオオオオオオオオッ!?」
至近距離で放たれた、鳥の囀りとは比較にもならない大音響。
それは振り下ろされようとしていた牛頭の怪物の凶器を押し退け、そのまま怪物自身を弾き飛ばしていた。
巨大な怪物を物理的に吹っ飛ばすほどの咆哮――鼓膜どころか、内臓にもダメージを与えかねないそれは、急激に牛頭の怪物の戦う力を削ぎ落としたらしく、吹っ飛ばされた牛頭の怪物はそのまま前のめりに倒れていた。
「……はぁ、何とかなったか……」
あまりにも強大だった敵を、殆ど奇跡的に打倒出来た事実に、ディアトリモンとしての自分自身を改めて認識し、静かに息を吐く豊。
ポームモンからディアトリモンへの突然の変化――というか、進化など微塵も予想していなかった出来事だったが、これもまた世界に順応した結果なのだろうと彼は察していた。
ブラックテイルモンが危惧していた通りであれば、より強く怪物になっていく事は元々の自分自身――すなわち、人間としての綱木豊――が元々知っていたことを忘れてしまうらしいが、少なくとも現時点で自分が綱木豊という人間である事や、双骨銀示という知り合いを探すという目的については覚えられているため、どうやら懸念は外れてくれているらしかった。
十数秒前に自分と同じく壁に叩きつけられていたブラックテイルモンは、ディアトリモンに進化した豊に歩み寄ると、安堵の息と共に感想を述べた。
「随分と大きくなったな。いい匂いはしなくなったが」
「しなくていいよそんなモン。それより、さっさと先に進もう」
「だな。あぁクソ、馬鹿力のせいで痛むわ……」
「腰が?」
「そこまで老いた覚えはねぇよ」
軽口を交わし、彼等は足早に先の通路へと進もうとした。
あくまでも此処を進んでいる理由は怪物の打倒などではなく、この世界で『迷い子』となってしまった双骨銀示を見つけ出すことだ。
ただでさえ、何処まで奥に進んで行ってしまっているのか、知っているはずの事をどれほど欠落させられているのか、何も解らない状況では発見まで安心など出来ない。
だから、ディアトリモンとなった豊とブラックテイルモンは速やかにその場から去ろうとして、
「――ああああああああああああああああああ!!」
「「!?」」
倒れたまま、怒気にまみれた咆哮を上げた牛頭の怪物の姿と声に、二人はそれぞれ異なる理由で反応していた。
ブラックテイルモンは、まだ自分達を襲おうとしていると、戦いが続く事実に対して。
そして豊は、咆哮の形で放たれた声の中に感じた、聞き覚えに対して。
「――!? な、何だ!?」
「……マジかよっ……」
二人の目の前で、倒れていたはずの牛頭の怪物の体に、毒々しい紫色の霧のようなものが絡み付いていく。
それは速やかに牛頭の怪物の体を覆い隠し、骨肉を砕く水っぽい音を幾多に重ねていた。
何が起きているのか、豊にもいい加減察しはついていた。
豊がたった今そうしたように――コイツもまた、進化しているのだと。
進化という奇跡は、特定の誰かのみの特権などではない。
生き物であれば誰にも起こりうる、過程の一つでしかない事を、今更のように思い知る。
逃げるべきだ、とディアトリモンとしての本能が警鐘を鳴らす。
しかし、豊はその場から立ち去ることが出来なかった。
ただ一つの聞き覚えに、決断を躊躇させられてしまったがために。
ブラックテイルモンもまた、身震いしながら動くことが出来なかった。
だから。
二人の目の前で、繭を成した紫色の霧は炸裂し、そいつは嫌な予感の通りに産声を上げた。
「――ぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
まるで。
地の底から響くかのような、低い唸り声。
その怪物は、先の怪物と同じく頭部に牛の双角を有していた。
だが、その先端に見慣れぬ鈴が取り付けられており、加えてそれ以外の部位は何もかもが変わり果てていた。
茶色だった肌は紫色を帯び、鈍器としての役割を果たしていた左腕の鋼鉄は幾多の絹と札に巻かれた筒に。
そして、鈍器も含めた重量を支えていた下半身には、大口を開けた蜘蛛の化け物が足の役割を担うようになっていた。
「――ォォォォォ……!!」
さながら、牛鬼。
古くから日本に語られる妖怪の一種の如き怪異の姿へと進化したその怪物は、背筋の凍る声を響かせながら、下半身の蜘蛛の大口を広げた。
「――八束染縛《やつかせんばく》……!!」
「ッ!! 避けろ!!」
言霊の直後。
蜘蛛の大口から、大量の白い糸が吐き出され、豊とブラックテイルモンの二人を捕らえようとした。
二人は回避しようとしたが、吐き出される糸の量が尋常ではなく、ディアトリモンに進化して大きくなった体格が災いし、豊は糸を体に絡ませられてしまう。
そして、糸に縛られた豊に向けて、蜘蛛の大口が紫色の液体を吐き出してくる。
明らかに猛毒の類――豊は咄嗟に咆哮を発した。
「デストラクションロアー……ッ!!」
言霊と共に牛頭の怪物の体を吹き飛ばしていたその咆哮は、高い粘質を有していた牛鬼の猛毒液を四散させた。
が、猛毒液をかけられないと知った牛鬼は、糸に絡まれて動けない豊に対して蜘蛛の六つの足を動かして近付き、鋭い爪の生えた右手で彼の首を鷲掴みにしてしまう。
元の鈍重そうな体からは想像も出来ない速度に反応出来ず、喉を封じられた豊は再びの危機感に背筋を凍らせる。
喉が封じられては咆哮を発することも出来ず、体の動きを制限された状態では力ずくで抵抗することも難しい。
「そいつを離せ、化け物ッ!! パコーニャ!!」
「――千砲土蜘蛛《せんほうつちぐも》」
窮地を救わんとブラックテイルモンが凄まじい速度で接近し、背負った赤いバックで殴り倒そうとしたが、牛鬼はその左腕に備えた筒を向け、言霊の通りに砲を放つ。
放たれた砲弾が具体的にどういうものなのか、ブラックテイルモンにも豊にも把握は出来なかった。
ただ、その砲弾はブラックテイルモンの攻撃手段である赤いバッグを弾き、そのままブラックテイルモン自身をも吹っ飛ばしていた。
「ぐああああああああああっ!!」
(ブラックテイルモン……ッ!!)
首筋から硬質な音が聞こえだす。
首を折ろうとしているのだと気付くが、どうにもならない。
彼にはもう、心の中で、最後まで見つけられなかった知り合いに謝罪することしか出来なかった。
(クソッ、ギンジ……悪い……!!)
牛鬼の右手に力が込められる。
何の抵抗も出来ぬまま、生きた化石の首の骨が折れる。
その、直前の事だった。
「――ゥ……?」
突如として、牛鬼の胸部から一本の青い線が生じ、それは真っ直ぐにディアトリモンと成っている豊の胴部に、照らし合わせるように当たっていく。
牛鬼自身、自分自身の体から生じたそれに驚き、混乱している様子だった。
明らかに蜘蛛の糸とは異なるそれに触れられ、今まさに命と共に意識が消えそうな豊は、暗くなりつつある視界に幻覚を見た。
――目元を絹で覆い隠された牛鬼の顔に重なる、知り合いの顔。
「「――!?」」
突然に。
敵である巨鳥の首の骨を折らんとしていたはずの牛鬼は、首を掴んでいた右の手で自らの頭を押さえつけ、そのまま奥の方へ六本の足で駆け出して行ってしまった。
後に残るのは、蜘蛛の糸に絡まれっ放しの豊と、砲に吹っ飛ばされて倒れているブラックテイルモンの二人のみ。
「……マジ、かよ……」
聞き覚えのある声質。
死に際に垣間見た知り合いの顔。
殺せるはずの敵を殺さなかった怪物。
そこまでの状況が揃っていながら、気付かぬほど彼は間抜けにはなれなかった。
「……アイツが、あの怪物が、ギンジ……!?」
《7》
頭が痛い。
胸が張り裂けるように痛む。
ディアトリモンを殺し損ね、その場を後にした牛鬼――すなわち、双骨銀示という人間であった物の怪は、迷路の奥へ奥へと進みながら、自らを苛む痛みに苦しんでいた。
(どうして、だ)
理由なんて解らない。
自分を攻撃した、あんな凶暴で声が大き過ぎる鳥のことなんて知らないはずなのに、それと戦うほどに胸の奥が苦しくなっていく。
苦しさを無くせると思って戦って、少なくともあの化け物な鳥と戦うまでは怒りを覚える時こそあれど満たされる感覚のほうが強かったと覚えているのに、あの鳥と戦った時は他に感じられる何よりも苦しさが強かった。
あいつのせいなのか、と頭の中で疑問の言葉が奔り、疑問が重なるほどにそれを拒むように頭痛が激しくなる。
いっそ忘れられてしまえばいいのに、その疑問はしつこい油汚れのように脳髄にへばりついて、拭えない。
(いやだ、いやだ)
痛みから逃れるように、絹で隠された目元から涙をこぼしながら、六本の蜘蛛の足は勝手にその身を迷路の奥へと進ませていく。
自分を苦しませるものが何も無い楽土がそこにあるのだと、見えざる何かに囁かれているかのように。
迷い、見えざる何かに誘われながら。
闇雲に進む牛鬼の胸からは、青色の糸が長く長く伸び続けていた。
《8》
絡みつく糸を爪で切り裂き、どうにかこうにか自由を取り戻し、九死に一生を得ておきながら。
ディアトリモンの豊とブラックテイルモンの表情に安心の色は無かった。
牛頭の怪物、そしてそれが進化を果たして成った牛鬼の怪物の正体が、目的の『迷い子』であることを知ってしまったためだ。
あまりにも、欠落していた。
人間らしい知性や理性は見る影も無く、明らかに正気と呼べるものを失った有り様。
怪物の姿で出会った時点で見分けがつかない程度のことは予想出来ていて、だからこそ懸命に名前を呼んでいたのに、そもそも会話を成り立てること自体が困難になるレベルで怪物に成り切ってしまうなんて、豊は考えもしなかった。
焦って急いでいたつもりが、どこか楽観してしまっていたのだ。
知っていることをある程度忘れてしまったとしても、それは意思の疎通すら不可能になるほどではないと。
だが、考えてみれば当然の話だった。
人間や動物が、具体的に何を最も恐れるのか。
死んでしまう事? それもまた答えの一つではあるのだろうが、一端に過ぎない。
生き物が真に恐れるものは、答えを知らないものだ。
正しく知見を得て回答を用意出来れば微塵も恐れることの無い事も、それが具体的に何であるのか、知るまではどうしても怖いと感じてしまうように。
知らないという事は、恐ろしい。
死に対する恐怖も、言い換えれば未知の『その後』の有無に対する恐怖でしかない。
知らないからこそ恐怖を覚え、恐怖を覚えるからこそ、その対象から遠ざかろうとする。
豊だって、今でこそこの世界に来て早々ブラックテイルモンから様々な知見を聞き取ることが出来て、目的があるからこそ然程恐怖を薄めて活動出来ているが、もしも最初からこの迷路に単身で放り込まれていたら、狂わずにいられた自信は無い。
解消出来ない迷いは、恐怖と同類。
もしかしたら自分がなっていたかもしれない、怪物としての成れの果てに豊は衝撃を受けずにはいられなかった。
牛鬼――双骨銀示の攻撃によって破壊されたバッグの中身を拾い集めながら、ブラックテイルモンは豊に問いを出した。
「……どうする?」
「どうするって……何のことだよ」
「聞くまでもにゃいだろ。……あそこまで怪物になっちまった、お前さんの知り合いのことだ」
「…………」
「経緯がどうあれ、お前が探してるやつだと判断出来るやつと会うことは出来た。今、ギンジとやらがどうなっているのかを把握出来た。……正直、あそこまで変わり果ててると元に戻る保証なんかねえぞ」
「……だから諦めたほうが賢明だって?」
「解釈は任せる。否定もしないが」
問われ、豊は少しだけ考えた。
そして、返答した。
「追いかける」
「今度は殺されるかもしれないぞ」
「同じぐらい、殺されない可能性だってある」
「行くのが自分だけでもか?」
「ああ。ここまで手伝ってくれてありがとう」
いっそ、あっさりとした感謝の言葉に、ブラックテイルモンの表情が曇る。
「……時間が惜しいってのは解ってる。その上で聞きたい事がある」
「手短に頼むよ」
「……こう言うと薄情かもだけどさ、所詮は知り合いだろ? 友達とか家族ってわけじゃない。ただ知っているってだけの、そんな相手のためにどうしてそこまで出来るんだ?」
その問いに、豊はまず沈黙した。
確かに、知り合いは知り合い――友人と呼べる人物や家族ほど、情を寄せるような相手でもないのは事実だ。
怪物に成り果てるより前、向こう側がどう思っているかはさておいて、少なくとも綱木豊にとって双骨銀示は友達と呼べるほど情を寄せた相手ではない。
だから知り合いとして説明したし、その認識はどれほど哀れな状態を見せつけられても変わらない。
そんな相手のために、自分自身も怪物になるという前提で、何故頑張れるのか。
それについて、明確な答えを持っていなかった彼は、先の質問の時以上の時間でもって考えて、そうして言葉を紡いだ。
「……良い思い出であってほしいから、かな」
「何?」
「仮にこの世界に迷い込まなかったとしても、いつかは別れる事になるんだ。それぞれ仕事に就いたり、進学したり、色々な選択肢の中でな。ギンジだけじゃない。他のクラスメイトや先生とだって、学校以外では殆ど接点なんて無かったし、別々の道を行ったら二度と会わなくなると思う」
「…………」
「でも、だからって関わった時間や縁が全部どうでもいいなんて思えないし、思えるほど嫌な気持ちになるものになってほしくはない。どうせ記憶に残すなら、会えて良かったとか、また会えたら良いなとか、そんな風に思えるものがいい。たまにしか思い出さなくなる程度の相手であれ、こんな異世界に迷い込んで怪物に成り果てて何もかも忘れ去ったまま消えましたなんて、そんな別れは記憶のアルバムに残したくないんだよ」
「……要するに、後悔したくないって意味か?」
「そう捉えてもらって構わない。俺自身、意地になってる自覚はあるからさ」
それが綱木豊の、怪物になると承知の上で進む理由だった。
自分自身で考えて、言葉として吐き出したからか、胸の中で静かに蟠っていた迷いが薄れていくのが解る。
追いかける、と意気揚々に口にしていながら、何やかんや怖くはあったのだと、巨鳥として立つ豊は今更のように自覚する。
豊の回答に、ブラックテイルモンは沈黙していた。
納得してもらえたかどうかは、最早関係無いと言わんばかりに豊が迷路の奥へ歩を進めようとすると、その足を止めるようにブラックテイルモンもまた口を開いた。
「……オイラもさ、ずっと前は人間と一緒にいたんだよ。年老いて、独りぼっちで生きてる婆さんと、多分お前と同じ世界で生きてた。人間じゃない何かとして産まれ落ちて、な」
「…………」
「色々解るようになりながら、同じぐらい色んなことを思い出せなくなっちまったが、婆さんとの暮らしは微かに覚えてる。……頭を撫でてもらったり、散歩したり、昼寝してたり……大体のんびりしてた」
今現在、抱えている問題とは無関係である事ぐらい、ブラックテイルモンが一番理解していることだろう。
それでも口に出したのは、今このタイミングを逃したら二度と話せなくなると察したためか。
あるいは、元は人間でありその自覚を保っている相手にこそ、聞いてほしい話だったからなのか。
「だけど、婆さんはある日突然にいなくなった。何処に行ったのか、必死に探し回って、いつの間にかこの世界に迷い込んだ。そんなことになんて気付かないまま探し続けて、そうして……迷路の中で、変わり果てた婆さんの姿を見た。ニオイで、巨大な体をした化け物が婆さんだってことにだけはすぐに気付いたんだ」
「……その婆さんは……?」
「オイラの声なんて聞けもせず、オイラの事なんて見向きもせずに、婆さんはどんどん奥の方に進んじまったよ。非力だったオイラは、怖くなって逃げ出した。だから、その後に婆さんがどうなったのかは解らない。けど、それからも知らない人間が何人かこの世界に迷い込んで来て、同じような事になるのを見て……仕組みを知るには十分だった」
「……なんてこった……」
今更のように知る。
ブラックテイルモンは、身近で大切だと感じる相手を、失った存在だったのだ。
それを知った今、彼が出会ったばかりの豊のことを手伝ってくれている事についても、単なるお節介では説明出来ないものが察せられる。
つまり、
「オイラがこうして、この世界に迷い込んだお前みたいな元人間を手伝っているのはさ。言ってしまえば、所詮自分自身に対する慰めなんだよ」
離れ離れになりたくない相手を、結果として見捨ててしまった絶望。
命を危険を承知の上で双骨銀示を追おうとしている綱木豊とは違い、命の危険を察知したその時点で逃げてしまった、その後悔。
思い返してみれば、協力してくれる事になった時も、彼はこんな事を口にしていた。
――偶然でも見つけちまったヤツを見捨てるのは後味が悪い。
「もう二度と、この迷路に迷い込んだ人間を見捨てたくにゃかったんだ。でも、何度頑張っても無理だった。どいつもこいつも、何かから逃げるように迷路の奥に進んで行って、それから帰ってこない。奥にあるのがこの世界からの出口なのか、それとも更に深い場所への入り口なのか、見たことは無いけど……帰って来なかったってのが全てだ」
どんな気持ちで、弱肉強食の理を語っていたのだろう。
いったい、どんな心持ちで『迷い子』達の末路を見届けてきたのだろう。
出会ったばかりで、今に至るまでの道程で見た彼の姿しか知らない豊には、想像すらも出来ない。
「実の所、怪物になって心が特に変わってない元人間は、お前ぐらいしか見たことが無い。特別な何かが絡んでるのか、理由なんて解らないが……この際どうでもいい。今解っている事は、また元人間の怪物が死地に向かおうとしてるって事実だけだ」
「……ブラックテイルモン……」
「もう一度だけ聞くぞ。行くのか? 無策で? 一度偶然殺されなかったってだけの理由で? ……やめてくれよ。オイラに、後悔させるつもりか? こんな場所にまで案内せず、無理やりにでも帰せば良かったって。そうすれば無駄死にさせずに済んだかもしれないって!!」
あるいは、出会って初めて吐き出された本音。
軽挙の許されない、改めての問いに対し、豊は即座に返答した。
「策はある」
「何?」
「いくら何でも、何も考えず運だけに頼る気は無いぞ。あいつに、ギンジに正気を取り戻させることが出来るかもしれない手段なら、もう思いついてる」
「……本当か? 出まかせじゃないだろうな?」
「疑うなら今喋ってやる。いいか? まず第一にな――」
豊は、自らの『作戦』をブラックテイルモンに余さず吐露した。
意思の疎通を取ることも難しく、単純な攻撃性能も自分達を殺すに足りていて、姿どころか知性も理性も元に戻せた前例の無い類の存在――迷い子。
その前提を覆すための手段を聞いて、ブラックテイルモンは素直に一つの感想を述べる。
「……理屈は解ったが……それ、どっちにしても危険は避けられないな」
「弱肉強食が基本って最初に言ったのは、お前だろ?」
「……はぁ。解ったよ」
観念したように、ブラックテイルモンは目を閉じ、深くため息を漏らす。
直後に開かれたその目には、それまでの表情には見当たらなかった闘志の色が宿っているように、豊には見えていた。
「オイラも今回ばかりは気張ってやる。一回ぐらい、婆さんを飲み込んだこの世界に目にモノ見せてやりたいからな」
決意と共に、ブラックテイルモンが背負っていた赤色のバッグの中に収納していた食物を平らげて。
腹を満たし、活力を可能な限り回復させた二人は、牛鬼と化した元人間を追って迷路の奥へと進んでいく。
牛鬼が何処へ逃げて行ったのか、普通に考えれば正確に把握することなど出来ないはずだったのだが、迷路の中に不自然に奥へと伸びている青色の糸を見つけると、豊はその出所を即座に看破した。
つい少し前に見た、覚えがあったのだ。
これは、牛鬼と化した双骨銀示の胸から謎に生じていた糸。
彼自身の内にある人間としての何かが、おそらくは形を成したもの。
そう推測して、何やかんや考え方が非現実寄りになってきたなと笑ってしまいながら、豊は通路に野放しとなっている青色の糸を辿るように迷路の中を駆けていく。
今の体であるディアトリモンの脚力は、ポームモンの体のそれよりも遥かに高いものらしく、走る速度はそれまでの比ではなくなっていた――うっかり一度、ブラックテイルモンのことを置いてけぼりにしてしまったほどに。
ともあれ、道中現れた怪物達さえも走りついでに文字通り蹴散らしながら突き進み、そうして彼等は辿り着く。
見捨てないと決めた、人間だった怪物のいる場所へ。
《9》
彩りの死んだ、石造りの広間。
灰色が視界の大半を占めるその空間には、青色の糸が導く通り牛鬼の怪物――双骨銀示が立っていた。
辺りには、彼を襲おうとして逆に返り討ちにされたと思わしき、怪物達の残骸が惨たらしく残されており、それ等は豊とブラックテイルモンが視認すると共に形を崩して塵と化していた。
あとに残るのは、毒々しい紫色の霧と、それを発生させたと思わしき牛鬼の怪物のみ。
彼はこの場に足を踏み入れた豊とブラックテイルモンの存在に気付くと、何かに耐えるように右手を額に押し付けながら唸っていた。
襲い掛かって来る。
「――迂闊に吸い込むなよ。イヤにゃニオイがする」
「……毒ガスか……」
必要最低限の注意だけをして、ブラックテイルモンは我先にと駆け出して行く。
豊もまた、ディアトリモンとしての足を駆け出させ、牛鬼の怪物に近付いていく。
当然のように、牛鬼の怪物からの攻撃があった。
最初に戦った時と同じ、下半身の蜘蛛の大口から放たれる大量の糸だ。
「八束染縛《やつかせんばく》!!」
糸で縛り上げて、必殺の攻撃で仕留める。
それが恐らくは牛鬼の怪物の基礎戦法――もとい、本能のマニュアルだろうと、豊は事前に予想していた。
だから、最初の行動は織り込み済み。
出来るという事を、それを最初にやるという事を知ってさえいれば、対応は出来る。
「そう何度もかかってたまるか!! ブラックテイルモン!!」
「解ってらぁ!!」
爪で、切り裂く。
強い粘性を有する牛鬼の蜘蛛の糸だが、それ等は自分達の力でも切断可能なものである事を、二人は牛鬼が去った後で糸を抜け出そうとした際に知ることが出来ていた。
ディアトリモンが両翼に備わった爪で、ブラックテイルモンが両手のグローブに備わった爪で、各々自らに降りかかる白糸を切り裂き進む。
直後に放たれる猛毒液も、豊が大咆哮で吹き散らす。
そして、ある程度の間合いが詰まった事を確認すると、豊は行動に出た。
「双骨銀示!!」
「……?」
ただ名前を呼んでも、応答は無い。
疑問符でも浮かべるように首を傾げるだけで、告げた名前の事など記憶に無いとでも言うような様子だった。
が、そのぐらいは想定内。
続けざまに豊は、名前以外の情報を口にした。
恐らく、双骨銀示という人間にとって、今最も直面したくない現実を。
「――お前の家族が放火魔に焼き殺された事は、本当に最悪だと俺だって思ってる!!」
「――――」
「いきなり家族を失ったりなんかしたら、当たり前に続くと思ってた日常が壊されたら、そりゃあこれからどうすれば良いか解らなくなるだろうさ!! 親ってのは、俺やお前みたいなガキにとって、何をどうするべきかを知る道しるべの一つだしな!!」
「――ぅ―ー」
「だけど、だからってこんな世界で怪物に成り果てたって仕方無いだろ!! 親の助けを借りられない、高校通いで独り立ちする心の準備もまだ全然出来ていない、それでも自分がどういう人間なのかまで忘れちまったら、それこそお前の両親に申し訳無いだろ!?」
「――ぅ……る、さィ……!!」
初めて。
人の言葉による、反応があった。
直面したくない現実の情報を、大咆哮を可能とするディアトリモンの喉から浴びせ聞かせたのだ――どんなに夢心地で言葉を認識しづらい状態であっても、脳髄まで響かせる事が出来る。
怪物としての、痛みに対する防衛本能か、即座に牛鬼は左腕の筒を向け、砲弾を放っていく。
「――千砲土蜘蛛《せんほうつちぐも》――!!」
「させねぇって!!」
が、発射の直前にブラックテイルモンが滑り込み、牛鬼の筒を右斜め下から蹴り上げる。
蹴りの衝撃で筒の狙いが逸れ、放たれた真っ黒な砲弾は豊の体を掠めもせず、後方の天井に突き刺さる。
攻撃の邪魔をしたブラックテイルモンに向けて、下半身の蜘蛛の足が動き、その大口で直接喰らいつこうとしたが、ブラックテイルモンは即座に後方へ勢いよく飛び退いていく。
そして、
「――メガダッシュインパクト!!」
「――ぅぐ……!!」
攻撃の意思がブラックテイルモンのほうへと向けられた瞬間を狙い、豊が恐るべき速度で体当たりを仕掛けていく。
強い衝撃に牛鬼から声が漏れ、その体は後方へと押されて止まる。
例え姿が変わっても、攻撃を放つ相手を決める基準が変わっていないのであれば、解りきった隙を突かない理由など無い。
一つ一つの衝撃が、一つ一つの言葉が、戦う力を殺ぐには足りずとも、牛鬼の内にある双骨銀示としての意識を呼び起こさせる。
そう確信出来たのは、まさしく彼が豊を殺せるタイミングで、他ならぬ彼の胸から生じて、この場への道しるべにもなってくれた青色の糸のお陰。
詳しい原理など知る由も無いが、結果としてあの糸に触れたことで豊は牛鬼の中に双骨銀示の存在を感じ取ることが出来ていた。
が、それが触れた者にのみ幻覚を見せるものであれば、牛鬼があのタイミングで苦しみ、逃げ出す理由には繋がらない。
きっと、豊があの糸に触れたことを切っ掛けに幻覚を垣間見たのと同時に、牛鬼もまた似たような幻覚を垣間見てしまったのだ。
即ち、ディアトリモンの顔に重なるように浮かぶ、知り合いである綱木豊の顔。
どんなに細い繋がりであろうと、知り合いの顔は怪物に人間だった頃の記憶を呼び起こさせるに足るものなのだと、そう判断させるのにあの突然の逃走は十分な証拠だった。
隙を作れ、言葉を放て、それを繰り返せ。
たとえ理解出来ない法則であろうと無理やり飲み込み、信じた選択にただ貫け。
「お前はさぁ!! いっつもいっつも興味本位でゲテモノばっか食べてたよなぁ!! その度に毎回こっちに感想振るからさ、何やかんやこっちも試しちまって痛い目見まくったよ!!」
「――ぐ――」
「テスト直前の時期だってそうだ!! 保健体育の授業の時だけはやけに元気に受けやがるくせに、苦手な数学だの科学だのの授業の時は意味わかんねぇって顔でノートすら取らないでよ!! 俺の社会科の点数笑ってる場合じゃなかっただろお前はお前で!!」
「――う、あァ――」
「そんな適当ブラブラやってっから彼女だって出来ないんだろ!! 進路どうするか聞いたことも無かったが、クソ童貞ヤローの事だ。どうせ決まってなかったに決まってる!! おら、悔しかったらちゃんと言葉のキャッチボールぐらい投げてみろ!! うーうー言ってるだけじゃ何も響かないぞ!!」
……途中からただ馬鹿にしてるだけになってね? と思わず疑問符を浮かべるブラックテイルモン。
説得と呼ぶには、途中からあまりにも暴言の度合いが高くなっている。
これでは殆ど、一方的にケンカを売っているだけだ。
しかし、
「――う、る、せええええええええええええッ!!」
「!!」
意外にも。
効果はテキメンだったらしい。
牛鬼の口から、苛立ちを帯びた声で言葉が漏れ出てくる。
「さっきから頭に響く声ばかり……何なんだオマエは!!」
「言わなきゃわかんねぇか!! 綱木豊だって!!」
「――ミノ……ぐっ、そんなヤツ、俺は……俺は……!!」
粗暴な訴えと共に牛鬼の怒気が増大していく中、一方で野生の直感を持つブラックテイルモンは感付いていた。
怪物特有の殺気が、衰えつつある。
まるで、呼び起こされたそれ以外の感情に、打ち消されているかのように。
元々有していた人間性が、怪物としての性質を上書きする。
「いつまでも怪物のフリなんかしてんな!! お前は、どちらかと言えばヒーロー物の話が好きだっただろ!! しつこくお前も観ようとか誘ってたもんなぁ!! 俺はどちらかと言えばロボット物が好きでそっち誘っても興味無さげだったもんなああああああ!!」
「ッ!! ぐ、あああああああああああああああああああああッ!!」
いいや、むしろケンカだからこそか、とブラックテイルモンは理解した。
当たり前に続いていたやり取り、人間であった頃の習慣そのもの。
彼等自身が、人間として生きてきた証。
感動的な名言だの、綺麗事にまみれた訴えだの、そんなものは彼が自分という人間を思い出すためには必要無い。
ただ、繰り返せばいい。
たとえ、意識的には重要だと感じていない記憶であっても。
長く続けてきたそれ等は、他の何よりも彼等に過ごしてきた日常を想起させる。
「いい加減に思い出せ!! こんな所で終わって、俺の思い出に傷跡なんか残すなぁ!!」
「――俺は、俺は……!!」
「――メガダッシュインパクトォォォッ!!」
言葉をぶつけて。
体でもぶつかり合って。
「――豊……」
そうして、やがて。
牛鬼の口から、呆れたような声が零れた。
「――お前、自分勝手なやつだな、本当に」
「お前にだけは、言われたくないよ」
それが、この戦いの決着だった。
弱肉強食のルールが支配する世界で、殺さずをして勝利とする。
怪物ではなく、人間らしい決着の着け方に、途中から加勢の必要無しと判断して蚊帳の外で眺めていたブラックテイルモンはこんな感想を述べていた。
「……言葉の力、か。まったくアテにした事は無かったな……」
《10》
戦いは終わった。
牛鬼の怪物――双骨銀示は人間としての自覚を取り戻し、綱木豊――ディアトリモンとブラックテイルモンのどちらも欠けることなく。
色の薄い広間に佇んだまま、それまでの印象を覆すように右手の爪で頭を掻き、銀示は二人に向かってこんな言葉を発していた。
「……その、悪かったな。正気じゃなくなってたとはいえ、殺しそうになっちまって」
「……ん? ギンジお前、今まで自分がやってた事を覚えてるのか?」
「何とか。今でもめっちゃくちゃ頭痛えんだけど、今の自分の体の事もお前等と戦ったことも、大体は覚えてる。解ってないのは、そもそもここがどういう場所かって事ぐらいだ」
言われてみれば、そもそもこの――ブラックテイルモンが言うには『迷界《ダンジョン》』と呼ぶらしい――世界について、説明を受けているのはブラックテイルモンと情報交換をした豊だけだ。
彼のような情報持ちと関われていない時点で、銀示がこの世界について何の知見も得ていないのは必然であり、これからどうするべきかの判断のためにも説明が求められた。
「かくかくしかじか」
「……いや、何言ってんの妙な格好のネコちゃん……?」
「え、一度説明した事はこれで説明したことに出来るって、風の噂で聞いてたんだが」
「ブラックテイルモン、それはな、文字通り気のせいだよ。ちゃんと説明してやってくれ」
ひとまず、必要最低限に。
この世界は迷いが集う世界であり、そこに迷い込んだ人間は各所に点在する迷路の奥へ自然と向かってしまい、どんどん怪物化していく――そうした話を伝えると、銀示は釈然としないような反応を見せながらも、状況を飲み込んではくれたらしい。
うーん、うーんと上半身と下半身で揃って考え事をしている銀示に対し、豊は一つの問いを出す。
「しかしまぁ、正気に戻ったからこそ聞きたいんだが、お前なんで迷路の奥に進んでたんだ? いくら馬鹿が絶望して更に馬鹿になったからって、よく解らない場所を奥に進んでしまうもんなのか?」
「……俺にはそもそも『奥に進んでいる』って認識自体が無かったわけだが、まぁいいか。誰かに呼ばれているような気がしたってのはあるな。それで、気付けば意識ごと体を引っ張られてた感じ。何だったんだろうな、アレ?」
「俺に聞かれても。ブラックテイルモンは何か知ってる?」
「知ってたら伝えてる。オイラからしても、一度ああなった奴等が正気に戻るなんてのは初めての発見なんだ。貴重な情報だよ」
これまで人間が終わるのを見届けることしか出来なかったブラックテイルモンからすれば、銀示の存在は言葉通り貴重な情報であり、同時に貴重な成功体験なのだろう。
その表情は、出会った時と比べても明るくなっている。
もう大丈夫だと思ってか、安堵の表情のまま、ブラックテイルモンは続けざまに問いを飛ばしていた。
「ちなみに、その誰かの呼びかけってのは今も聞こえてるのか?」
「……聞こえてるというより、耳鳴りって感じな気もするが、あっちのほう、に……?」
だから、予想なんかしていなかった。
問いに答えるため、銀示が『呼びかけ』の聞こえた方――つまり、迷路の更に奥の方――を指差した時。
そこから、何か黒いもやのようなものが吹き出てくる、など。
「「「………………」」」
思わず沈黙する三名の目の前で、黒の内側から何かが生えてくる。
幾多の輪が連なり合い、糸よりも頑丈な縛り手として作られるもの――鎖。
黒い炎のようなものを帯びたそれが、群れを成した生き物のように揺れ動きながら、少しずつ豊と銀示、そしてブラックテイルモンのいる方へ寄ってきている。
それの持ち主が銀示を呼びかけた『誰か』であるか、など知る由も無いが。
とにかく、三名の怪物としての本能は速やかに直感を奔らせた。
――アレは、ヤバい。
と。
「な、なななななな……!!」
「――逃げろぉ二人共!!」
「言われるまでもねぇっ!! ネコちゃん、掴まれ!!」
即断即決。
牛鬼の銀示がブラックテイルモンの体を掴んで右肩に無理やり乗せ、それを確認した巨鳥の豊が全力で迷路を後戻りしていく。
その、駆ける速度の上昇に合わせてか、迫る鎖の速度も上がる。
今まで見たことなんて無い、と言わんばかりに恐怖を帯びた声で、ブラックテイルモンは言う。
「――何だ、アレは!? 迷路には何度か来た事があるが、あんなモノ見たことが無いぞ!?」
「奥の奥にしか無い、虎の子のトラップか何かかね!? お前等絶対逃がさねえぞって感じの!!」
「クソったれ、俺ってばあんな意味解んないモノに呼ばれていたってのかよ!? あんなのに捕まってたまるか、監禁プレイなんて趣味じゃねぇんだよ!!」
「息を吸うようにゲスい事言ってんじゃねぇ!!」
「全体的に何を言ってんだって感じなんだが真面目に走れよお前等!!」
道順は覚えているはずだが、何故か道そのものが坂道のようになって前進を遅めてくる。
ディアトリモンの豊も牛鬼――ギュウキモンの銀示も、自分の足を動かして全力で走っているはずなのに、鎖との間合いが全然離れない。
しかも、
「ッ!! 嘘だろ、迷路そのものが崩れているのか!?」
「マジかよ、自爆オチ!? いつの時代にダンジョンゲーに自爆要素盛り込む馬鹿がいるんだよ!! アイテム回収とかする暇も与えてくれねぇの!?」
「ゲームじゃねぇんだよもう一つの現実だよ此処は!!」
迷路がどんどん形を崩していく。
まるで、迷路そのものが生き物と化したように。
その全身でもって、獲物を咀嚼せんとしているように。
迷いを脱した者を逃がさんとする、巨大な意思を三人は強く感じた。
今までブラックテイルモンが目の当たりにする事が無かったのは、単に彼が『こうなる』域にまで進む前に退いでいたからか。
少なくとも、この巨大な何かは今の自分達に対抗出来る類の脅威では無い……!!
「ッ!! 道が無いぞ!!」
「俺が作る!! 八束染縛《やつかせんばく》!!」
「糸の橋ってお前!!」
「――もう近いぞ!! 迷うな行けぇ!!」
走って、走って、走って。
そうして、光の差す『出口』に飛び込んで。
「――逃げきった、のか?」
「……あぁクソ、六本足で全力疾走、めっちゃ疲れるわ……」
気付けば、彼等は公園の上に帰還していた。
入り口である階段がある方へ振り返ると、そこにはもう何も無い。
在るのはただ、芝生のみ。
助かったのだと、そう知覚した巨鳥と牛鬼の二人を横目に、ブラックテイルモンは思いを馳せる。
迷路の奥の、更に奥の奥にある『何か』の存在。
今に至るまで、あるいは今後も迷いを抱える誰かがいる限り、それを誘おうとするもの。
この世界の、まだ見ぬ――いや、見ようともしなかった――脅威に対し、彼は素直に恐怖した後、こんな言葉を吐き捨てていた。
格好がつかないと思いながらも、誰かを助ける手助けが出来たという、その実感と共に。
「――今回は、逃げるが勝ちって事にさせてもらうぜ。クソったれ」
《11》
探し人と共に無事に迷路から帰還し、綱木豊はブラックテイルモンと共に荒廃した街の中を歩いていた。
二人揃って、大きな怪物の姿のまま。
「――へぇ、ネコちゃんって子供を養ってるのか。すげぇな」
「すげぇ、とまで自分で思ったことは無いが……褒められて悪い気はしにゃいな。ありがとよ」
「俺、会ってみてもいいか? 色んなモンスターを見たけど、どいつもこいつも凶暴なやつばっかりでさ……養われてる子供ってんならきっと良い子なんだろ?」
「悪いが、会わせるのはやめとく。ミノル、お前もだぞ。少なくとも、その姿じゃあな」
「「なしてそんな悲しい事言うの?」」
「ガキ共に会わせるには、ちょいと物騒な面だからな。特にギンジ」
「ネコちゃんさぁ、命の恩人に対してその言い方は酷いんじゃないか?」
「言っておくが、俺も含めて一度殺そうとした時点で恩と怨は相殺されてるからな。プラマイゼロだ」
「何だよもー!! その事についてはもう謝ったし今でも申し訳無いと思ってるって!! それとも何だ、イケメンじゃないのが悪いのか。今は人間じゃねぇんだ、何かよくわからんパワーでお子様にモテモテのやつに化けられる可能性だって粒子レベルで……」
「ねぇよ。気持ち悪さまで妖怪レベルにならなくていいから」
「妖怪に対するヘイトスピーチだろそれもう」
迷路の、息苦しさすら覚える圧迫感から開放されたためか。
出会ってからそう時間も経っていない双骨銀示とも、いつの間にかブラックテイルモンは打ち解けていた。
元より付き合いが知り合い程度にある豊と銀示もまた、あるいは知り合いを超えて友人のように。
死地を体験し、迷いを脱したその経験は、彼等の繋がりを確かに堅くしていた。
「で、人間の世界に戻れば人間に戻れるって話、本当なのか?」
「実のところ、解ってはいない。何しろ、どいつもこいつも帰れなかったわけだからな」
「……ってことは、俺達が初の脱出者になるってわけか。何か変な気分だな」
「どういう意味だよ銀示お前コラ」
「どうせ脱出するんなら、可愛い女の子が良かった。野郎に助けられるとかさぁ」
「そんなだからモテないんだよお前」
「うるせえ」
そうして、気付けば。
綱木豊は、この世界に来て最初に立っていた場所に戻ってきていた。
今度は、ブラックテイルモンや双骨銀示と共に。
目的など言うまでも無い――帰るべきと思える世界に、帰るためだ。
「…………」
短いようで、長い時間を過ごした気がした。
異世界で怪物になって、怪物と共に迷路を進み、知り合いと共に逃げ帰った。
そんな話を、人間の常識が支配する元の世界で語ったところで、誰も信じはしないだろう。
だからこれは、彼等だけの記憶。
彼等だけの、選択が紡いだ物語。
「ネコちゃん」
「ブラックテイルモンにゃ。いい加減覚えろ」
「ありがとうな。お前がミノルの奴を手伝ってくれたから、俺は帰ることが出来る」
「……ギンジは大丈夫なのか? その、ミノルの言ってた事が本当なら……」
「ああ。クソったれの放火魔のせいで、父ちゃんも母さんも殺された。悲しくて苦しくて、これからどうすればいいかなんて、何も解らなくなってた。解りたくも、なくなっていた」
「…………」
「でも、それで逃げてちゃ申し訳無いよな。それこそ、放火魔野朗の悪意に屈したみたいなモンだし。解らんことだらけだが、せいぜい生き足掻いてやるさ」
目の前には、水面のように揺らぐ景色。
その奥に、人間がよく知る世界が見える。
「ミノル」
「ブラックテイルモン?」
当たり前の世界に一歩を踏み出す直前。
最後に、ブラックテイルモンは冒険を共にしたただ一人の人間に対し、こんな問いを飛ばしていた。
「また、会えると思うか?」
「――会うと決めたら、絶対に」
その問いに、ミノルは一秒の間も無しに回答した。
根拠なんて無い。
だけど、きっとそうなると、信じて。
「――じゃあ、その時はガキ共に笑顔ぐらい見せろよ――」
隣人のような言葉を背に。
一歩を踏み出した二人の怪物は、慣れ親しんだ感覚と共に、日常へと帰還した。
一度結ばれた縁の糸は、決して千切れない。
再会の約束はいつか、内なる迷いに誘われるのではなく、自分自身の選択でもって果たされるのだと、迷わぬ限り。
ノベコンお疲れさまでした!
感想を配信で喋らせていただきましたので、リンクを下に貼っておきます!
https://youtube.com/live/PYbfStDfQbA
(19:38~感想になります)
ノベコンお疲れさまでした~!ポームモン化はいいぞ(発作)。
ダークな部分を描いたデジモン化というユキサーンさんらしさが詰まった作品で、楽しく読ませていただきました。
ゴスゲでもそうですが、このブラックテイルモン中々便利なキャラですね。自分もいつか使ってみてぇ。世話焼きはキャラはいいぞ。
迷うものが集う世界…そして順応という形でデジモンとなり、その迷いすら忘れてしまい…なるほど、確かに行き着く先はあの罪ですね。ロジックが素晴らしく感心します。
ラスボス戦を書けなかったという話でしたが、この展開のおかげで想像の余地と得体の知れなさに対する恐怖が際立ってこれはこれで良いなと僕は思います。《8》の「知らないという事は、恐ろしい。」と繋がっていますし、それに対しての最後の一矢報いてやったって感じのブラックテイルモンの様子が恐怖と希望のバランスが丁度良く、世界に深みを持たせてくれるような…少なくとも僕はそう感じました。
で!!!!!!!!何よりもポームモン化!!!!!!!!!!!ポームモン化はいいぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
へへっ…この元の体と根本的に体の構造が変わってしまうのがTFの醍醐味なんだ…へへっ…流石アニキ…分かってらっしゃる…。
そして進化先がディアトリモンなのも良いですねぇ。あいつイケメンなんだよな。はぁ~ミノル君うらやま~。
ギンジもギンジでどちらかというとオーソドックス化のミノタルモンから化け物じみたギュウキモンになるの良いですねぇ。そしてその化け物姿で正気に戻るのもいいし、ブラックテイルモンもブラックテイルモンで、人から化け物化では中々接種できない知能の向上的な部分も少し触れられててとっても良きでした。大体のTFものってあるのは知能の低下だし、実際に今作でもギンジや名も知らぬモブ達がそうなったことが触れられてて大変良かったんですが、知能の向上というのもまた良いですねぇ。勉強になります。
最後に迷わぬ主人公の言葉で締めたのもグッとしました。楽しい作品でした。
それにしても…俺も結構人生に迷ってる筈なんだけど、一向に僕の方へ迎いが来ませんねこの世界は。どっかに迷い子にでもなってんのかな…?迷子センターでも寄ってみるか…
《後書き》
そんなわけで、ご拝読ありがとうございました。
これがノベコンに投稿した本作『一本の糸を辿って』の本文であり、合計37442文字ほどを費やして描いたデジモン化の物語でございまする。
今作のテーマは、もう読んでくれた方ならば解る通り、しつこくしつこくキーワードに用いられた『迷い』。
まぁなんというか知的生命体とは切って外せない情感で、色んな事柄を何でもかんで人外化にあてはめたがる私ユキサーンは考えちゃったわけですね。
自分のことを決められないヤツほど存在がブレブレになっちまう世界を描いてみたい、と。
ぶっちゃけ、公式のデジモン作品を見ている人なら解る通り、迷いってむしろ進化に繋がらない情感といいますか、どちらかと言えば決意とかそっち方面に進化のトリガーは集中している気がするのですが、本作の世界においては見ての通り迷い――というか未来に対する恐怖、選択を放棄したがる気持ちは強い力となって人間を怪物に変えてしまうのです。方向性としては暗黒進化寄りかも?
そうした世界の影響で怪物になったやつを取り戻す主人公側は、まぁ当然その逆というか、迷いの無いスッキリした子として動いてもらいました。悲惨な過去も何も無い、言ってしまえば重みらしい重みの無い『普通の人間』を主人公として据えて、ただ全力で突っ走ってもらいました。大変なことがあった事に対して気にかける程度には繋がりのある、ただの知り合いとして。
作中では厳密に『迷い子』となって迷宮の最奥まで到達してしまった者がどうなるのか、明記こそしませんでしたが……まぁ最後辺りに出た『アレ』とかも合わせて想像を膨らませてくれればと。
作風のエッセンス的にはミノタウロスの迷宮のあれこれとか、不思議のダンジョンなあれこれとか混ぜ混ぜしてたつもりですが、楽しんでいただけたなら幸いです。
さて。
読了した方の中には、満足してくれた方もいれば、一方で疑問を抱いた方もいると思います。
あれ? 《9》辺りからかなり展開急ピッチじゃね? というか《10》からノンストップ過ぎるしそれまでの話と比べると内容少なすぎね? と。
はい、まぁその理由は単純で、《9》の半分ぐらいまでを書いた辺りでノベルコンペディションの締め切り時間まで残り4時間ほどを切ったのです。
本当なら、《10》で登場した黒い鎖……察しの良い方なら解る通り”あの魔王”の一部分……によって更に奥へと引きずりこまれ、ギュウキモンこと銀示が正気を取り戻すのもその後になる予定で、最大のピンチに目覚めたヤツと共に窮地を脱する――!! な流れにする予定だったのですが、締め切りまでの時間から考えてそれまで書き切るのには時間が足りないと判断し、もうなんというかがむしゃらに駆け抜けさせました。
要するに本作、シチュエーション的な意味でラスボス戦的なものを省いてしまったのですよね。もっと熱く出来たはずなのに、自分の予定管理がダメすぎて不完全燃焼な形で終わってしまったという。全ては今作の内容そのものを頭に構築して文章にし始めたのが締め切り三週間前というギリギリもギリギリの時期だったからです。もっと早く筆を手にとってもろて。
正直今回掲載する際に終盤だけ加筆しようかなとすら考えたぐらいです。ガチ反省。
もしも第二次ノベルコンペディションが開催されたら、その時こそは初日から筆を手に取っておきたいところ。具体的に言うと予備のプロットは複数持っておけという話。
こんな実質未完成話を、それでも楽しめたと言える方がいるとしたら、それだけで救いです。マジで。
『迷界』周りの設定はノベコンだけで終わらせるのも何かもったいない気がするので、機会があれば世界ごと連載作品とか短編シリーズとかに流用しようと考えてます。タイトルすら決まってませんが。
それでは、ここまでのご拝読ありがとうございました。ノベルコンペディション、次があればまた頑張ります。
PS わたしはブラックテイルモンの名前を書く欄に『Uver.』を書き忘れた馬鹿です。
PS2 実は豊くん、最初の進化案ではディアトリモンではなくキウイモンに進化して、次にアヤタラモンに進化してもらう予定だったりしました。