
Episode.9 "Good bye , Good day"
霞上(カスガミ)響花(キョウカ)は自分の親の顔を忘れた。自分が勘当同然に飛び出した母親とホスト崩れのヒモ以下の男の間に産まれたという事実は知っている。それ以上のことは出来るだけ覚えないようにしていた。彼女にとって、肉親に対する記憶も後で情報を拾い集めて想像で欠落を埋めたものでしかない。
夜の街で出会ってから数か月で響花を授かり、なし崩し的に結婚した二人だったがまともに同居生活をしていたのは三年未満だったらしい。父親は家を空ける日が多くなり、彼がたまに帰ってくる度に言うことを聞かない響花を叩く母親の声量は大きくなった。
四歳になる頃には響花自身もその環境に慣れていた。自分のことは自分で出来るようになっていたし、母親の機嫌を損ねないように彼女の体面を保つ行動も身についていた。だが母親が響花を叩くことが無くなったのは彼女の努力の結果ではない。ただ父親が殺され、怒りを産みだす相手が居なくなっただけの話だった。
父親の死因は一酸化炭素中毒。家を空けることが多かった彼は他の女と不倫しており、なかなか関係を進展させようともせずに居座る彼に対して愛憎を膨らませた不倫相手に捕縛されともに心中させられたらしい。
遺された家族にとっては彼の死因はどうでもよかった。寧ろ不倫が事実として確定したことが響花の母親にとっては重要だったのだろう。事後処理を終えてからは今度は彼女が家を空けることが多くなったのだから。毎夜着飾って街へ繰り出し、金に糸目をつけずに享楽に自ら溺れていた。それでも彼女の心が本当に修復されることはなく、借金を作っても満たされない現状に絶望し、最後には響花を残して首を吊った。
響花は借金共々母親の親戚をたらい回しにされ遠縁の家族に引き取られた。養父母に二つ上の義兄と一つ上の義姉。親戚間のパワーゲームと取引で押しつけられた一族の恥部などに、四人で成り立つ家の居場所などない。見下す視線と理不尽を受け入れ、顔色を窺って奉仕することでようやく存在することを許された。何をされても悪いのは自分で、生まれたところから間違えた自分は家族に対して間違えたことをすればその分だけ罰を与えられるのは当然だった。懲罰房にはプライバシーなどないようなもので、外聞に影響が出ないように工夫を凝らした辱めを受けた。荒い息を浴びながら素肌を触られたのが同級生よりも早いことは間違いない。自分のものでない体液をシャワーで洗い流す度に意味の無さに自嘲していた。元から汚いものをどれだけ洗ってもきれいになることなんてないのに、と。
別に自分の人生を嫌悪していた訳ではない。ただ事実として自分が汚いものだと認識していた。汚く生まれ落ちた自分はきれいに終わることはない。いつどのように死んだところでそれは変わらない。だから希望を胸に現状を打破する気にも、絶望して自殺する気にもならなかった。存在意義などない人形――それが十代に確立された霞上響花の自己評価だった。
十八歳の誕生日から一週間後、家族に言われるまま組み立てられた響花の進路はその家族に捻じ曲げられた。原因は奇しくもこの家族に引き取られた理由である借金。長男は援助交際の中心人物として、長姉は大学に潜んでいた宗教団体に取り込まれて詐欺に関与したことで逮捕。心を病んだ母親はホストに騙されて貢ぎ、父親は家族絡みの風評に耐えられずに心労から運転中に人身事故を起こした。連鎖的に積み重なる罪と借金を見て、響花は自分は人形でも呪いの人形だったらしいと他人事のように思った。
響花にとってこの家族はただ自分の運命を握っているだけの他人に過ぎない。運命に奉仕する奴隷がその未来を切り捨てられるのは当然のことで、響花は高校を辞めて夜の街で仕事をすることになった。かつて自分の母親の借金を肩代わりしたことをしつこく言う元同居人の姿を奇妙だと思ったのがあの家での最後の思い出だった。そんなものは免罪符にはならないのに彼らは何がしたかったのだろう。
青春を捨てて働くことも忌避すべき仕事内容も響花にとってはどうでもよかった。業務内容に似た経験は散々してきたし、奉仕する相手が日ごとに変わることにも慣れていた。結局のところ自分が人形であることは変わらない。操る相手が違うだけで、寧ろ女としての商品価値を維持するためにまだマシな扱いをされていたともいえる。整えられた顔と儚げで妖しい雰囲気は男を惹きつけるには十分で、丁寧な技術と接待が合わさり、積み重なる高評価で早いペースでランクは上がっていった。そんな日々で自分という人形は使い潰されるものだと思っていた。
その夜の客は店の元締めと太い繋がりのある一族の放蕩息子だった。顔立ちは整っている癖に言動や振る舞いは薄っぺらい所為か、顔を見ているだけで響花は珍しく胸の奥に棘が刺さるような錯覚を覚えた。そのレアな兆候が柄にもなく表に出てしまったのが相手の癪に触ったらしい。
間違いなく今までで最低の客だった。自分のバックに居る力を誇示して、店の規約を違反したプレイを強要して思いやりのない暴力を振るった。何より最悪なのはその客が自分の行動に対する反応にやけに敏感だったこと。悦びの表現も痛みに対する悲鳴もすべてが嘘っぽいと唾を吐かれた。それらしい反応をしているだけだと見ぬかれた。
本物のリアクションを返せたのは十何回目の殴打のとき。ぎらついた笑みを半ばぼやけた視界で見上げた一瞬、粉々に砕いたはずの幼い記憶の一シーンが鮮明にフラッシュバックした。
自分を見下ろして野蛮な笑みを浮かべる人擬きの獣。それを響花は知っていた。始まりから自分を間違えさせた両親(ふたり)の中でも先に死んだ方だ。四歳の誕生日、珍しく帰ってきた父親は自分を見るなり、声を荒げて頬や胸を叩いた。「親に対してその目は何だ」とかそんなことを言っていた気がする。癪に障る視線を向けられるだけのことをしてきたのは誰だったのか。自分が環境に期待しなくなったのは多分そのときからだったと響花は思い出した。
遥か昔に置いてきた筈の理不尽に対する怒り。大人になってもその発散方法を知らなかった響花は最も原始的な行動に訴えた。
それはあの日父親がしたことであり母親が散々してきたこと。客の手を振り払うように飛び出した手はその頬を鋭く叩いた。
相手にとって肉体的な痛みなど無いに等しいものだろう。だが、反応の薄さが気に食わない相手がようやく見せた感情的な行動が拒絶の意思によるものだったという事実こそ、男の心の奥のトリガーを引くには十分だったらしい。
飢えた獣が貪るように滅茶苦茶に襲われた。抵抗する意思をみせればそれをねじ伏せるのを喜ぶように性差と筋力の差を見せつけられた。顔を殴るのを平手に留めたのは、獣なりに僅かに残った理性があからさまな傷を店から指摘されるのを避けただけの話。その分の拳は首より下を襲った。汗以外の体液がどれだけ流れても満足するまで捕食を止める様子はなかった。
ここに来てまた自分は間違えてしまったのだと響花は理解した。だから諦めて自分で自分の心をもう一度殺そうとした。それなのに涙も声も止まらず、体力の限界を超えてもこれ以上の陵辱から逃れるようにもがいた。
運命が別れる時は十数秒のやりとり。回転するように身体を捻って男の下から逃れ、追いすがるその顎を蹴り上げる。ベッドから転がり落ちたところで引っかけたのは男の鞄。ジッパーからこぼれ落ちる手帳や財布に紛れて一枚のカードが響花の目の前に転がった。何かを期待した訳ではない。ただ朦朧としつつある意識の中で伸ばした手がそれを掴んだ瞬間、彼女の身体を忌避すべき未来へと逃れさせた。
心身ともに傷だらけで死後の世界と錯覚しつつあった響花の目が初めに捉えたのは瀕死の小さな生命だった。犬耳が生えた饅頭のような汚らしいぬいぐるみのような生物の、その閉じかけた瞳に響花は見入った。
経緯は知らずとも誰が見ても先のない命で、そのことを何よりも彼自身が理解している。それでも生きていたいという意思だけは消えずにある。それは先ほどまで響花を突き動かしていた彼女自身が言語化できない感情に近いものだと思った。そう思いたかった。だから、目の前の命をどうしても助けたかった。それが最初から間違え続けた自分が初めて自分の意思で掴んだ揺るぎない決意だった。誰が間違いだと言おうとどうでもいい。尽きかけている命を救うことほど、自分で自分の価値を認められることなどありはしないのだから。
――ナーダ、あなたは私が絶対に助ける。だから、何があってもずっと一緒にいてね。
幸い助ける術は腕と一体化したあのカードが教えてくれた。名前を与えるとともに繋いだ経路(パス)は二十年以上の人生で関わった誰よりも暖かかった。
――きっと、この子は自分を裏切らないだろう
そんな確信が胸に浮かんだ瞬間からナーダとの繋がりは絶対に手放したくないものに変わった。思わず口をついた言葉もそれを変わることのない現実にしたいと思える決意となった。
契約により息を吹き返したナーダを撫でながら、響花は痛みから遠ざかって冷えた思考を稼働させて、自分が初めて本心から愛を向ける存在に何が出来るのかを探った。機械的なチュートリアルとマニュアルで得た知識を元にまず取った行動はナーダを生かすための餌の捕獲。ナーダが出会ったときに傷だらけだったのはモンスターと相対していたからだ。モンスターの中でもまだ非力な部類に属するナーダを危険な目に遭わせるわけにはいかない。ならばその生命を保ち、より力強い姿へと変えるために何を与えればいいのか。――その答えは数分前の響花の記憶にあった。
「がッ……なんだ。どこだここ! お前、何しやがった!」
「元気なのね。これは見込みが甘かったかしら」
「何言ってるんだ? 元に戻せよ! こんなことしてただで済むと思ってんのか!?」
一分後、一度現代へと戻った響花は餌を持ち込んだ。無造作に投げ捨てられたそれは哀れなホモサピエンスの雄。彼は数分前まで支配していたはずの女によってもたらされた非現実な展開についていけず、転移前の獣性のまま響花を探して勢いのままに掴みかかる。だが当の彼女の興味は既に彼になく、真正面から見据える目には男の存在は映っていない。反応の薄さに苛立って引き出した動物的な悲鳴とは違う。特別な興味を持っている対象が初めて明確化したことで、霞上響花という人間の本性が初めて表に出てきた。
「ああ、本当にうるさい人。でもこれくらい活きがいい方がいいのかしら」
「答えろって言ってぅゴブッ!?」
男の声を遮ったのは不意に腹に食い込んだ響花の右手。指からはみ出る程の石が握られたその拳は非力な女でも男を怯ませるには十分だった。掴みかかった腕の力が緩んだところで真正面から蹴り飛ばして彼の背中を大地という皿に叩きつける。
「いっ……何しふがふぐっ?」
振る舞う相手は愛すべきナーダ。待ってましたとばかりに大口を開いて男の顔へとダイブ。そのまま逃れるようにもがく頭を地面に押しつけて待ち望んだ食事をじっくりと堪能する。
「あ、ガ……ハハ」
自我を失うまでに男が唯一できたこと。それは人の皮を被った怪物を解き放ってしまった罪を自覚することだけだった。
「どうかしら? 選り好みはできなかったのだけれど」
「ビミ、ダッタ」
「そう、それは……ええ、とてもよいことだわ」
男だった肉塊が完全に機能を停止する。その顔から離れたナーダの姿は灰色の犬に似た姿へと変わっていた。進化という現象らしいが響花にとってはそれはさして重要なことではなかった。
ナーダは血塗れの顔で満面の笑みを見せてくれたのだ。その笑顔だけで響花はモンスターのために生きることへの躊躇を捨て去ることができた。
毒の吐息と落とし穴。進化によって目覚めた新たな捕獲手段を携えて、響花は自分の周囲から狩猟を始めた。手始めに自分の借金を握って閉じ込めていた店や組織の支部で関わりのあった男を与えると同時に響花自身を縛る枷を外した。次に与えたのは十年以上同じ家に居ただけの親戚達。特に長男はナーダの口に合ったらしく、響花に見せつけるようにじっくりと味わっていた。響花が理解できる言葉を話す際に詰まることが無くなったのもその頃だった。
直接的な繋がりのある人間を一通り餌として与えた後は、ある程度ほとぼりが収まるまで特異点Fに潜み、時折現代に赴いてはしつこい部類の刺客をナーダへの手土産とする生活をした。サングルゥモンという鋭い刃と影に潜む能力を持つ狼に進化したのはその最中で、調理も後始末の速度も飛躍的に向上したことを喜び、日本語で互いの感謝と愛を語らった。顔の傷が化粧で隠れる程度に癒える頃には餌志願者も現れなくなってしまったので、足のつかないホームレスに一夜の夢を与える代わりに命を捧げてもらうことにした。
ナーダと同じモンスターを餌としなかったのは戦闘でのリスクを避けるためだけではない。それ以前の話として、ナーダが人間しか食べられない食性になってしまったからだ。度重なる偏食で趣向という癖に深いところに人間の味が染み付いてしまったのだろう。ナーダ自身が口にしたその分析を否定することは響花には不可能だ。ならば彼女らに残された道は一つしかなく、仕方ないと自分に言い聞かせながら凶行を重ねた。
ここ二か月は夏根市で「御手洗(ミタライ)明日香(アスカ)」という偽名を使って自分が磨かされた技術が使える店で働き、アスタモンへと進化したナーダに目星を付けた男やしつこく近寄る男を捧げる暮らしをしていた。場所や手段が多少変わろうとも、そんな日々が続けばそれだけで良いと思っていた。――ケチがついたのは、そろそろ新天地に移ろうかと思った矢先のことだった。
いつものように相良啓太を連れ去ってナーダがその味を堪能しようとしたところでデクスの群れが現れ、そちらに意識が向いた隙を突かれて彼に逃げられてしまった。後を追おうにもまずは数の暴力を捌かなくてはならない。一つ一つの質は大したことなくても骨が折れると思ったところで、群れの中から一人の男が姿を見せた。
空軍パイロットのような合成皮革の衣装に身を包み目元もゴーグルで隠したその男は響花に一つの問いを投げた。
――トラベラーを辞めるつもりはないか。
すべてをナーダに捧げる覚悟が出来ていた響花にとって、それは何があったとしても答えが変わることのないもの。ただそんなことを問いかけるということは抱える答えを口にすればデクスの群れとの戦闘が再開することは目に見えていた。だから、出来る限り自然な動きで撤退の準備をしつつ、誤魔化すことのできない拒絶の意思を静かに伝えた。
――そうか。まあお前はそうだろうな。アレに近い部類の人間だからな。
だがその男は攻撃指示を出すことなく、デクスの群れを連れて踵を返した。
――どうせ末路は知れているんだ。邪魔しないさ。最期まで好きにやればいい。
それが男が去り際に残した最後の言葉だった。
獣の咆哮に似た発射音とともに薬莢が涎のように雪崩落ちる。放たれる多数の弾丸はその一つ一つが猟犬の如き意思を携え、撃ち出したリーダーの指令に従って獲物をその存在を賭けて追い詰める。
成熟期(下のレベル)であるビリーとマーリニが居る以上、追尾性能に優れた弾丸に対して散らばって回避を取るのは寧ろ悪手だ。迎撃の弾丸も進路上に落ちる雷も完全に打ち消すには至らない。それでも微妙にそれた軌道修正に掛かる数秒も数が重なれば十分利用価値が出る。ナーダ本体を視界に収めながら大回りな軌道で走っていた二体が足を止めたのはカインとアキの脇をすり抜けた後。振り返ったその目が捉えるのは自分達を貪ろうとする多数の弾丸。
それらすべてを圧し潰さんと響くアキの第二曲(アリア)。組成そのものから崩さんと迸る低周波動も勢いを殺すに留まっている。結局カインが巨大鉄球で叩き潰してようやく沈黙した。その数秒後に鉄球を割ったナーダが近づいてきたことで今度は渡達の方が沈黙することになったが。
「同族の肉は食えないが、戦闘経験(こういうかたち)なら糧にするのも悪くないか」
「人の言葉を話していても結局は怪物か」
「好きに言え。俺に知り合いを食われたようだからな。キョウカに汚い言葉を投げられるよりかはましだ」
「そうか。主思いの言葉はしっかり憶えておくよ」
一度攻撃をしのいだだけで分かる力量差。ナーダは完全体(同レベル)のモンスター二体掛かりであっさり潰せるようなものではない。糧としてきたものの質も積み重ねてきた経験の量も自分たちのそれとは大きく隔絶している。
事態の収拾のための障害(ナーダ)はあまりにも分厚い壁。そこまでのものになったのは手段を選ばず自分の時間すべてを捧げた響花という存在があってこそ。ただ生きる(いかす)ために戦い続けた怪物には良識も躊躇もない。
「同族嫌悪か。キョウカもあのモンスターに入れ込む理由はあるんだろうな」
「それでも人を殺すのに多少忌避感を覚えるのが普通だ。そうだろ、キョウカさんよ」
「黙れ。貴様らごときにキョウカの何が分かる!」
「その本人から同族嫌悪とか言われたんだが」
ランの安い挑発はナーダを動かすトリガーたり得た。自慢の脚で弾き飛ばした身体が向かう先はランの契約相手であるマーリニ。真正面から一対一であれば瞬殺できる相手だろう。だが、標的の周りには彼と行動をともにするモンスターが居る。大きなアドバンテージにならずとも、数という要素は彼らがナーダに唯一勝る要素だ。向かってくる対象が分かっていればアドリブで策を組み立てるのも難しくはない。
ナーダの足が止まる。右足の甲から突き出るのは地面から生える鉄杭の一つ。痛みで冴える目で起点の隙間を捉え、もう一つの足で地を蹴り身体ごと宙に逃げる。瞬間的に自由を失った状態は無防備に見えるだろう。頭上には雷雲。落下予測地点には特大の杭を生やすための下準備が整っている。
「そうかもしれない。でもナーダのためには仕方ないでしょう。だから私は別に普通じゃなくていい」
「好きな子のために頑張る少女か。それとも子を思う母親のつもりか。今さら人間面するなよ気持ち悪い」
「人間面? 面白いことを言うのね。普通じゃないのなら当然でしょう。――私にとってはナーダがすべて。唯一の光なのだから」
響花の指が動く。それが視界の端に映るナーダに向けた援護(キャスト)なのは分かった。その配分の質までは読み切れてはいなかったことをラン達は後に思い知ることになる。
「感謝する」
落ちる雷に怯むことなくナーダはマシンガンを掃射して真下から迫る杭を削る。完全に崩すことを目的としているのではない。先端の棘を削って一瞬でも足場を作れれば十分。その瞬間を捉えた蹴りで自分の身体を再度打ちはなつ。ただし方向は上ではなく前に調整。そのまま既に生えている杭を新たな足場として駆ける。
狙う一点は変わらない。だがその進路にはすぐに巨大鉄球が落ちてナーダに動きを止めさせる。苛立ちから次の進路を探るべく左を向いた目が捉えるのは、数十メートル先で自身に向けられたビリーの腹と一体化した拳銃。ノーモーションで放たれた弾丸を反射的に振り上げた右足で蹴り飛ばす。渾身の一発でも所詮は格下の一撃。それが無意味でないことは自分の足が止まったことと耳元で響く心地よい不協和音が教えてくれる。
セイレーンモンの第一曲(ポリフォニー)。それは聞いた者の自由意思を麻痺させて操る問答無用の降伏勧告だ。ナーダがどれだけ強かろうとその猛威さえ振るわれなければ問題ない。
「これで詰みよ」
「あ……ガ、やめ……」
自我の消失に必死に抗う声はナーダが初めて漏らした悲鳴。速度と格闘術を担っていたはずの健脚が怯えるようにがくがくと震える様は生まれたての小鹿のようだ。両手はマシンガンを取り落とし、逆に銃を向けられた際にする降伏表示のように頭の高さまで持ちあがる。そして、その人差し指はそれぞれ近い方の耳穴に深く突き刺さった。
「え」
真っ先に動揺の声を漏らしたのは真魚。その事実が意味することを理解した瞬間、全員が勝利の確信とともに無意識に生まれた僅かな緩みを自覚した。それが彼女らの本当の狙いであることに気づくのも遅かった。
聴覚を潰すことで第一曲(ポリフォニー)は遮断され、枷の外れたナーダは響花のブラストにより瞬間的な加速力を得て飛び出す。その健脚で狙うのは一点。自分の愛すべき契約相手を虚仮にして煽ってきた斑目ラン――その生命線であるマーリニだ。
「……ぎりぎり、か」
「足でやったのは失敗だったか」
ランの足下に転がる契約相手。反射的に突き出した杖を代償に命が薄皮一枚繋がっただけ。キャストで大雑把にパラメータを振り直しただけではしのぎきれなかった。ナーダは他の敵からの反撃から逃れながら既に距離を射程圏内まで詰めている。定まった次の一手は耐えきれないだろう。
「まあいい。失せろ」
ナーダが自分の血が滴る指で引き金を引く。アキの音波弾が届くよりも早く、ランが生命力向上を望んでブラストを叩き込んでも僅かに時間が足りない。ただ後者については不意に身体を押しのけられて操作がぶれたことも原因だった。
「は」
尻餅を着いたランの目の前で一番無防備な人間が倒れる。その映像は誰にとっても予想外なものだった。動いてしまった当の本人も例外ではない。
「しくった、か」
彼には銃口が正確にどこを向いているかなんて分からなかったから、斑目ランという非力な人間が狙われているのだと思った。だが自分は契約予定のモンスターを失ったために防護壁など持ち得ないから、彼はただその身体を盾にすることにした。突発的に柄でもないことをしでかしたことに一番驚いていたのは彼自身だったが、それを表現するだけの余力も残ってはいなかった。
砂まみれのスーツに一カ所だけ赤が滲む。留まることなく漏れ出るその色は被弾箇所が悪かったことをこれ以上なく分かりやすいかたちで伝えてくれる。
「相良さん、何して……なんで」
「そうか……契約すれば身を護れるんだっけ。でも、君のは瀕死だから正解だった、ってことで、頼むよ」
「何言ってるんですか。やめてください。ねえ。ふざけるな……おい!」
致命傷だった。何の特別な力を持たない人間にはその先の運命を覆す手などない。彼を匿えてもこの状況から生かすための手を持つ者は存在しなかった。
「ああ、くそ……無駄死には、嫌だ、な……」
「……クソ」
命が消える。自我が消える。そこにあるのは血と砂にまみれた布に覆われた肉塊でしかない。守ったつもりで満足げな顔で逝ったことがここ一日のやり取りで一番許せなかった。
「馬鹿が」
「ええ。本当に残念ね」
ナーダと響花はただ報酬が消えた事実に対して言葉を漏らす。ただ食べ物を無駄にしたことをもったいないと嘆くような口振りには他者の死を悼む気持ちなど存在しない。
「あんた達はどこまで……」
「ぶっ殺すぞ、てめえら!」
それに怒るのが常人として妥当な反応で、真魚と一道は分かりやすくそれらしい表情を見せていた。
「くそ、落ち着け……落ち着け。絶対に無駄死になんてことにさせない」
「そうだな。死んで借りが返せないなら、せめてそれくらいはしないと」
「あら、それは素晴らしい心掛けね」
ただ他の二人は意識的に思考をクリアにして頭を回していた。せめて響花の鼻を明かす。それが相良啓太の死を少しでも無駄にしないための一歩に思えた。
「気持ちだけの問題じゃない。実際俺はあの人のお陰で分かったことがある。――キョウカ、お前は同族嫌悪というには私情を優先しすぎている。だから俺は気にくわなかったんだ」
「私情、ですって」
先に解を導いたのは渡。響花から同族嫌悪だと言われた彼だからこそ得たそれはランが掲げる武器の最後のパーツとなる。その効力は今この瞬間に響花自身が示してくれた。
「ああ、確かに弟切の言うとおりだ。――だってあなたは何より自分のために食わせてるんだから」
「私が私のために? そんなことあるはずがないでしょう」
初めて響花の目に動揺の色が見えた。反論の声にも不自然な震えを隠しきれていない。触れられたくない急所は丸裸も同然だ。今なら何故そこが急所たりえるかも容易に看破できる。
彼女はナーダのために在ることを、彼のために人間を食わせてきたのだと散々言ってきたのだから。その根底を否定されることが何よりの屈辱なのだろう。
「あなたがそんなきれいな人間じゃないことはもう分かっている。――これからあなたを暴く」
低い声とともにランはブラストを発動させる。もう出し惜しみはしない。ランプを一つ残して消して可能な限り投資する。そこに瀕死という経験値が積み重なったとき次の段階への扉が開かれる。
マーリニのぬいぐるみのような縫製が解けて衣装も身体も糸へと変わり新たな形へと織られていく。ウィザーモンだった不定形がより長身のシルエットを象る頃、糸は白い包帯となってその身体を覆い尽くす。ならば新たな姿が意味するものはただ一つ。折れた杖の代わりにマシンガンを構える紫ターバンのそいつは死の淵から蘇った木乃伊男(マミーモン)だ。
「頼むよ、マーリニ。僕の話の邪魔はさせないでくれ」
ランの声に応じるように新たな姿のマーリニが走る。狙うのは奇しくも自分と同じくマシンガンを構えた闇の住人(アスタモン)。薬莢をまき散らしながら足場を乱し、退避先に包帯を腕の延長として伸ばす。絡め取られるのが目に見えているから蹴り飛ばしも出来ずにみのがす敵の顔に嘲笑を向ける。第二ラウンドはここからだと。
「改めて言う。あなたはナーダのためではなく。自分のために生きているんだ」
「それはあり得ないわ。私はナーダのために食べ物を持ってきているだけなの」
「そうか。なら下級のモンスターでも食わせれば良かったんじゃないか。手間は省けるし、足もつかないから」
「あの子はモンスターを食べられないと言ったはず」
契約相手の闘いをバックにランと響花は詰問という名の舌戦を始める。ランの勝利条件は響花が自分に課した存在理由を否定すること。そして響花の勝利条件は自分の行動原理に迷いを持たないでいること。
「根拠は?」
「あの子が自分でそう言ったもの」
「自己申告ね。そんなもの、ただの食わず嫌いじゃないか」
「だとしても食べたくないものを無理に食べさせるつもりはないわ」
「とんだモンスターペアレントだ。それとも何とかは盲目か」
ナーダのすべてを肯定することが響花の存在理由に繋がっているから彼が何を言っても裏の意図を図るようなことはしない。それが彼女の強さであり逆に弱さでもある。ナーダの真意さえ暴けばそれを否定することも出来なくなるのだから。
「あなたはナーダのことを何一つ分かっていないんだよ」
「……ぇ?」
「キョウカ、どうした? 何を言われている」
不意にナーダの声が聞こえた。耳は聞こえずとも戦闘中に盗み見た響花の表情やパスを通して伝わる感情の機微から何かしら察したらしい。まったく忠誠心の高さには感心する。
「本当に考えたことがあるのか。――ナーダがなぜモンスターを食べたくないのか」
「お前、何を言っているんだ。止めろ」
「言い方を変えるべきか。――ナーダはなぜ人間だけを食おうとするのか」
「まさか……違う。出任せだ。それ以上言うな!」
だがその高い忠誠心も契約相手に対する勘の良さも寧ろランにとっての利になる。X-Passによる繋がりで響花の変化をナーダが感知しているということは逆にナーダの機微は響花に流れ込むということ。契約の中だけの関係ならば波にノイズが乗ることもなかっただろうが、無遠慮な第三者の前では契約相手が互いを思う気遣いなど何も意味をなさない。
「答えは一つ。キョウカ、あなたが悦ぶ顔が見たいからだ」
響花の感情が乱れたのはランの言葉が自分にとって一番真実であってほしくないものだったから。ナーダの感情が乱れたのは響花に向けて知ってほしくない真実を突きつけられたと察してしまったから。そして、契約相手が発する波にまったく同じノイズが乗ったのを互いに感知してしまった瞬間、そのノイズこそが響花にだけ分かるけして認めたくない証拠となる。
「嘘よ。そんなことあるわけがないでしょう」
「聞いてみればいいだろう。まあ出来ない以前に答えは出ているみたいだけど」
「……私が人を殺すのを望んでいたというの?」
それでも認めるわけにはいかないと紡ぐ響花の言葉には最初の余裕も余力も見られない。舌戦というフィールドにおいて、正しい情報を束ねた結論を向けられた段階で彼女の敗北は決まっていた。
「ああ、その通りだ。――あなたは相良さんが死んだときに笑っていたんだから」
結論を得る決定打はナーダが誰も望まないはずのかたちで相良啓太を殺害したとき。響花の言葉は確かに餌にすべき相手を無駄にしたことを惜しんでいた。だがそれを発した口元には薄い笑みが浮かんでいた。それは殺害という結末を望んでいないという前提を無かったものにする。それからナーダの言い回しに違和感を覚えたことを思い出すのに時間は掛からなった。そして彼の食性に何の信憑性もないことが確定した瞬間、その理由を暴くことが響花の本質に繋がっていると確信した。
「あなたがナーダのために自分が在ると思う以上に、あいつもあなたとともに在ろうとした。あなたの望みにあなたが正当だと思える理由をつけてくれてたんだ。――本当に羨ましいくらいだ」
「……そう、ね。ええ、あの子は私にはもったいないくらいよ」
相良啓太の死を何も活かせなくては彼に申し分が立たない。ただその意地のために行った糾弾は響花に対して一番重い一撃となった。儚げな表情に隠し切れない歪みが表出しているのがその証だ。
「真実の対価はいらない。ここまで十分払ってもらったからな」
「何を……ナーダ!?」
「大丈く……大丈夫だ。キョウカ」
本当にナーダが契約相手思いで助かった。響花のメンタルを削った成果は彼女のアシストを阻害するだけでなく、彼女の変化に敏感なナーダのパフォーマンスへの影響となって現れた。コートには数分前にはなかった切り傷が目立ち、その奥からは赤い液体が滴り落ちる。息は荒く、足取りがふらつく程の痛みに顔を歪めている。
それでも戦闘を継続できるのは元のスペックかそれとも執念か。音波弾と実弾の雨を跳躍で逃れつつ中空で一回転しながら機銃の引き金を引く。空から弾をばらまきながらもそれらはすべて標的の数十センチメートル前に着弾する。それが足止め目的でなくただ狙いを間違えただけだと分かっていればマーリニ達も追撃の手をすぐに打てる。
「づッ!」
着地したナーダの左足に食い込む鉄杭は以前の彼なら間違いなく捌けていた攻撃。着地を狙うというのも容易に思いつくタイミングだ。対応できなくなっている理由がダメージによるものだけでないことは明らかで、その隙を逃す意味などないと巨大鉄球が潰しにかかる。真正面から壊すよりもマシンガンで足元の杭を撃ち砕いて逃れるがベターでそれを実行するだけの地力はまだ残っていた。だがその予測はここまで戦ってきたマーリニ達にも立てられる訳で、結局逃れた先には多様な弾丸の雨だが丁重に出迎えてくれた。
「ち……くそがあアアッ!」
ただ自分と同じタイプの完全体が一体増えただけならばまだ有利に運ぶことが出来ただろう。自ら聴覚を捨てたことを踏まえてもまだイーブンに持っていけたはずだ。やはり一番大きな原因はメンタルの崩れ。今までのナーダを支えていたものが揺らいだ途端に流れを持っていかれた。
「あなた達……酷い人ね」
「あなたほどではないさ」
「そう、ね……本当に……何をしてるのかしら」
共依存という絆は響花とナーダの強みであり一番の弱み。それを意図せずに崩すかたちになったから相手が勝手に崩れただけの話。アシストすべき響花が自分の奥底を覗かれてナーダの戦況から意識を逸らしたからそれがより酷くなった。響花のウィークポイントを突く武器を得た時点で数の力で追い込むだけの道筋が出来ていた。信じていた在り方を否定する言葉は彼女の心の奥深くに突き刺さり在り方そのものを揺らがせた。
「私は……何のために……」
「――ぁぐッ……くそが!」
揺れる思考の中では周囲の声にフィルターが掛かる。それでも鮮明に聞こえるものがあるとすればそれは心の奥底から聞き逃したくないと思えるもの。一度逃してしまったからこそもう忘れてはいけないと、温かな繋がりが大事な存在を思い出させる。そうしてやっと、苦悶の声を漏らしながら立ち上がるナーダの姿を響花は真正面から見ることが出来た。
「まだ死ねない。死んでたまるかよ」
コートはズタズタで見る影もなく、内側の背広も血に塗れて本来の色が分からない。片翼は捥げ、マスクも片側が抉れて本当の左目を露出させてしまっている。それでもその瞳に闘志は潰えていない。きっと響花が死ぬそのときまで灯が消えることはないだろう。
――きっと、この子は自分を裏切らないだろう
その期待を勝手に押しつけたのは誰だったか。それを体現しているのは誰のためか。それを理解するだけで響花の心から一切の迷いは消えた。
「ナーダ、やっぱりあなたが私のすべてだった。少しでも疑った私が馬鹿だった」
「今さら立て直したのか」
「いや、違う。あの人は何かしでかすつもりだ!」
「あなただけは生き延びさせる。何があってもどんなことをしてでも」
無意識のうちに自分の欲を満たす道具としていたのかもしれない。だがそれががすべてではないことは何よりも自分が一番分かっている。まだ終われない。ナーダを勝たせるため生かすためならどんな手も使う。心の奥で燃えた灯に従って響花はX-Passに触れてナーダにすべてを捧げることをここに証明する。
「ナーダ、最期のお願い。――私を糧にして、できるだけ長く生きて」
左手を掲げて響花は出会ったときと同じ笑みで契約相手に願った。その言葉の意味はX-Passから光がすべて消えたことで全員が瞬時に悟った。
「キョウカ、何を」
「仕方ないの。ごめんなさい。……ほんとにごめんね」
ブラスト――忠誠心や満腹度を示す光球を犠牲にしてパラメータの瞬間的な向上と進化のためのエネルギーの大量獲得が可能なその手段にはある特性がある。それはブラストでエネルギーを与える際に伝える契約相手の意向に強制力を持たせること。最大数の七つまで点灯していた分すべてを投入すれば逆らうことは不可能だ。
「やめ……ぐぅゥヴゥウ……」
「あの野郎まさか……馬鹿、止めろ!」
「がアアアアッッ!!」
意思に反して飢えた獣の如く地を駆けて響花の身体を攫う。敵から距離を取って抱きしめる様は姫を護る騎士のようだがその実態は理性の失せた野獣。だが内臓を傷つけるほどのハグに血を漏らしながらも姫は満足そうな笑みを浮かべている。まるで最初からこういう終わり方を望んでいるかのようだった。
「さよなら……これで……ずっと、いっしょよ……」
「ガ……あ、あぁ、ああああああ!!」
響花の首が不自然に折れるまで十秒も掛からなかった。命令する存在が消えて意思の強制から解き放たれたナーダの目に映るのは自らが殺めた愛すべき人の亡骸。しおれた花に対する慟哭は何人たりとも介入を許さない気迫を伴って響いた。
「あぁ……あ、ガぐ、きょ……カ?」
ナーダの身に変化が起きたのはひとしきりの遠吠えを終えたそのとき。突然背中から身の丈に合わない巨大な翼が生えたと思えば、それが響花の遺体ごとナーダの身体を包み込んだ。
「きょうかナーダキョウカNADA響花ナーだKYOUKANaーダきョU花なーだ」
後に残ったのは呪詛のような言葉を流し続ける繭。それは望まない結末へと勝手に誘導させた契約者に対する恨みの歌か。それとも最優先事項のことを必ず自分の根底に刻み込もうとする愛の調べか。
「キョウカ……ナーダ……響花は俺で、ナーダは私。――ああ。うん。ずっといっしょだ。そうでしょう」
歌が終わり、繭が裂ける。中から現れたのは双頭の怪獣の下半身と貴人の上半身を持つ吸血鬼の王たる魔獣。そこに宿る魂がどちらなのかは分からない。だが両方の思いの結果として到達した究極の位階だということはそのプレッシャーでいやでも理解させられる。
「こんなものに同族嫌悪なんか出来るわけがないだろう」
渡のその言葉に感動に似たニュアンスが籠っていることは彼しか知らない。だから何故そんな感情を持ってしまったのかという疑問も彼自身しか抱くことは出来なかった。