
Episode.8 "紫髪の吸血姫"
ネオンが妖しく光るホテル街も陽の光を浴びるうちはそのなりを潜める。寂寥感すら覚える静かな通りを曲がればさらに音のない路地裏に出る。その片隅で響くのは,
腰を下ろして溜息をつくモッズコートの二人組の小言だけだ。
「これで何件目だ」
「捜索願いが出ている分で今月は二十六件ですね」
「三十は見積もれってか。一日一人消えるとか笑えんぞ」
体型からしてタヌキ親父という印象の似合う中年男性はぼやきながら懐からシガレットケースを取り出して気休めの一本を咥える。
「仕事中ですよ」
「駄菓子だよ……ちょっ、取るな」
「なんでしょうもない嘘ついたんですか」
呆れ顔で没収する堅物な後輩を恨めしそうに見つめるのに飽きたところで、彼は煙が昇るはずだった空を見上げる。
「お前の後釜なんて御免だったのに……ミイラになってどうすんだよ、斑目」
どれだけ視線を動かしたところで探し相手が見つからないことは分かっていた。
「同じものばかり食べてよく飽きないな」
自身と似て非なるシルエットの死骸を貪るカインを眺めながら渡は溜め息を吐く。デクスの生産工場への調査を後に控えていてもその間もカインは腹を空かせる訳で、トラベラーとして契約した分の役割を果たしに行くのが最早日課になっていた。
「単純に足りないんでしょ。選り好みもできないし」
同行した真魚の方は既にパートナーの空腹を満たしているらしい。同じ食事でも図体の分だけ消費するエネルギー量が違うのだろう。
食事の頻度が増えたのは獲れる獲物が変化したからだ。生のデジモンよりもデクスを見ることの方が多くなり、必然的に奴らを餌とすることも増えた。幸い現在のカインと酷似した姿の個体も単体のスペックはカインに劣っているため、はぐれた個体を狙えば難なく捕食することもできている。それでも喜べないのは黒木場秋人らが関わっていること以前に単純に生のデジモンと比べて栄養価が低いらしいこと。戦闘の負担と栄養価のトレードオフが発生している訳だが、選択肢が限られているから実質的には狩りの方針変更を余儀なくされているようなものだった。
「食えるときに食っておけということか」
それでも糧に出来るのなら今はそれでいい。生産工場(プラント)への潜入調査を明日に控えた今、些事に文句を言っている余裕はない。
「物騒な青春の一ページですね」
「人のことは言えないだろう」
ぼやきに対する将吾の返答に椎奈は曖昧な笑みを浮かべたまま首肯する。ふざけた未来に渡り、契約した化け物が他者を貪る様をただただ見つめる。そんなものを自分達の青春であると認めたのは自分自身だ。それだけの理由がただ死にたくない以外にも各々の中にあるのだろう。
「――ひ、人だ! 助けてくれぇ」
だから、ただ生存を望むその声は自分達からは遠いもののように思えてしまった。
それでも聞いてしまった以上は見捨てられないと思える心は残っている。心の一割程度は警戒心の居場所を作って声のする方へ目を向ける。その先には若い男が両膝と片手を地面についてこちらに潤んだ瞳を向けていた。
「周囲にモンスターは居ないな。行こう」
「言ってる場合?」
渡の警戒は間違ってはいない。反射的に口をついてしまった真魚もそれは分かっていたが、訂正の言葉を口にする気にはなれなかった。
「大丈夫。ここには敵が居ません。お水でもどうぞ」
「あ、ああ。……助かる」
年は二十台前半。丁寧にセットされていたであろう金髪は無様に乱れて、上等そうな白いスーツは砂に塗れている。女性と酒を酌み交わして夢を見せる仕事でもしていたのだろうが、今の彼からは他人に何かを与えられるだけの余裕は微塵も見えなかった。黒木場達とつるんで囮役をしているという可能性も考えはしたが、それにしてはあまりに迫真の演技過ぎる。
「腕にX-Passがないな。トラベラーじゃないのか」
「パス? トラベラー? 何のことだ。何なんだよここは?」
「私達は『特異点F』と呼んでいます。……何というか、モンスターが跋扈する世界で、理由なく居ちゃいけないところ」
「望んで来た訳ないだろ!」
モンスターに人間が駆逐された未来であることを伏せたのは脱線を避けてのことだった。その代わりに男の疑問が完全に晴れた訳ではないのは当然だが、そもそもトラベラーですらないからまともなチュートリアルも受けられてはいない。それは身を守るためにモンスターと契約する術も無く、一時的な帰還すらできないということでもある。状況的にはこの場の誰よりも最悪のものだ。
「なら、あんたはどうして来たんだ?」
そうなるだけの過程と理由には心当たりがあった。そこまで難しくもなんともないが、あまり受け入れたくはない類のことだ。
「キョウカって女に連れて来られたんだよ。――そいつが連れてるバケモンに食わせるためだって」
トラベラーは特異点Fから新たに物を持ち出すことはできないが、一方的に物を持ち込むことができる。その対象に生物は含まれていないということはない。野良の小動物を持ち込んで食わせているトラベラーも居たと恭介から聞いたこともある。ならば同様に人間を持ち込むことができてもおかしくはない。おかしくはないが、トラベラーといえどそれを実行する精神性を持ち合わせているものはあまりに稀有だった。
「よく生きて逃げられましたね」
「偶然だよ。近くで爆発が起こって、他のバケモンが乱入してきたからそのどさくさに紛れてなんとかなっただけ。ちょうどそこの赤いのと似てる奴らだったな」
それくらいの外部要因と物にするだけの機転と運が投げれば死んでいた。男もそれくらいは分かる程度に落ち着いたようだ。
「帰る方法は無いのか? 何でもするから助けてくれ」
「お話を聞いていただけるのなら、先に謝っておきますね。ごめんなさい」
「なんでだ? 君が謝ることなんて何もないだろう」
「この世界から根本的に助かる手段は私達にも無いんです。私が提示できる手段を使っても一時的に帰れるだけで、私達のように定期的にこの世界に行かなければならなくなります。……それでも私の案に乗りますか」
それには椎奈の穏やかに諭すような口調も影響している。柔らかに下手に出ながらも、口にする事実は覆しようのないもの。理性が戻りつつある男の頭は安易な退路がないという現実を理解しつつあった。
「それでもその手しかないんだろ。選択肢が無いのにもったいぶらないでくれ」
「分かりました」
男の覚悟は椎奈が仲間としての笑みを浮かべるには十分だった。上手くいった場合に集団に属する可能性のある相手を丁重に扱うのが彼女のやり方だ。彼を救える手段は集団が超えてきた忌むべき過去の一つなのだから。
「X-Pass――これがないと現代に帰ることはできません。だから、使われなくなったX-Passを探してリサイクルします」
「そうか。で、それはどこに」
「運よく死に場所に足を踏み入れるか、墓荒しして見つけるかってとこか」
「そういうことですが急に口を挟まないでくれます、将吾さん。別にもう話しづらいとも思いませんし」
「冗談じゃ……ないのか」
死体のX-Passは契約切れ扱いとなり、それを回収して別の人間をトラベラーにすることは可能だ。椎奈はその現場を見たか、或いは居合わせた人間に聞いたのだろう。淡々と語る言葉にはそれが可能な事実を受け止めてきただけの重みがあった。
「といっても使えるものの場所が分かればさして難しいことではありません」
椎奈の契約相手たるピッさん――ピッコロモンというモンスターにはあらゆる場所に出現できるという能力がある。別の場所で回収だけしてその能力で相良の元へと運べばいいという話だ。
「寧ろ考慮すべきは別の危険でしょう。あなたを連れて来た女は逃した獲物に執着する類の人間ですか」
「……多分、ない」
「ね、難しいでしょう」
相良が気を張るべきはそれまで命を繋げること。それまで実行犯がおとなしくしているという保証もない。デクスに襲われたといってもそこでくたばったとは限らない。寧ろ可能性は低いと考えるべきだ。
「一度戻ります。備品持ってこないと」
「一緒に連れ帰ってくれ」
「それは無理です。人間が戻るのだけは不便なんですよ、ここ」
「……そうだよな。できるならこんな話はしないよな」
まるで人間をこの未来に縛りつけようとしているようだ。椎奈と相良の話は渡達にそんな印象を抱かせる。自分達にX-Passを与えた者はトラベラーが増えることを推奨しているのだろう。ならばいっそここで落としてくれれば話はすぐに終わるのに。そのぼやきは口にする必要もない程の共通認識だった。
「諦めて真魚さん達に匿われてください。まだマシなところしかないでしょうけど」
「そうするよ。見た目と口調に反して辛辣だね」
「ふふふ。真魚さん、後はお願いします」
「ええ。保存食と水、後は防寒着くらいはお願い」
強張った笑みを浮かべながら椎奈が一時帰還した後、渡達は男を連れてまだ丈夫そうな廃墟を探す。襲撃を警戒して三人が残るかたちになったがそれは杞憂に終わる。
「戻りましたよっと」
椎奈がリュックサックを抱えて戻ってきたのは、相良(サガラ)啓太(ケイタ)と改めてそう名乗った男を草木に侵食された遺跡じみた廃ビルに押し込めて五分後のこと。中には相良の命を数日繋ぐための消耗品や備品が詰まっている。これが持つ間に帰還の手段を確立する。
「みなさんも一旦戻ってください。巽さんには先に一応話は通してますから」
何にせよコミュニティとして相良の身を預かるのなら、巽恭介や他のメンバーの意見ととも帳尻を合わせる必要があるだろう。椎奈がどう話したかは知らないが、高校生数人が独断で扱っていい問題ではない。それでも公権力ではなくトラベラーが対処できる問題だ。
「キョウカという女に連れされた男を保護したから帰るまでの面倒を見る。要点をまとめるとこういうことかな」
「そうですね。面倒事を持ち込んで悪いとは思ってます。でも、放置はできなかったんで」
現代へと戻り洋菓子店パトリモワーヌに赴く。店内で待っていたのは店長の巽恭介と射場正道、そして店の片隅で文庫本越しにこちらを観察している斑目ラン。真魚が恭介と話している間、手持無沙汰になった渡と将吾はその視線が気になって仕方なかった。
「斑目、何か用か?」
「ああ……ごめん。悪気はないんだ。ただ僕にもその話を聞かせてもらえないか」
ついには将吾が大股で詰め寄り、二割増しに不機嫌な顔を近づけた。気の強くない同学年くらいならすぐに怯むような迫力にも負けず、務めて冷静かつ穏便に答えているのはランも相応の修羅場を乗り越えているということだろう。そう関心する渡はランの膝が僅かに震えていることを見逃していた。
「そういうことなら別に構わない。いいだろ、巽さん」
「問題ないよ。その点は私も了承済みだ」
正当に許可を得られればランとしてもカモフラージュと趣味の両立に勤しむ必要はない。本を閉じて渡達の元へと歩み寄る一歩に震えがあるとしても、その根源は恐怖と異なるものだろう。
「先に綿貫さんから提案を受けていてね。明日生産工場(プラント)に潜入するメンバーを一部入れ替えてでも、何人かはあの人に割いてもいいんじゃないかって」
「いいんですか?」
恭介の言葉は帰還したばかりの三人には予想外のものだった。以前に将吾や正道の調査で見つけたデクスの生産工場(プラント)への調査は間近で、それに向けた準備のために今日も餌やりに勤しんでいた。だがその準備の目的を蔑ろにしてもいいと言っているのだ。
「数人減らしたところで支障はないだろうし、元々非番の人間も居たからね。それに斑目くんのように相良さんとやらの方に意地でも一枚噛みたい人もいるから」
「流石にばれてましたか」
ランの今までの挙動の理由が相良啓太にある。厳密には彼が巻き込まれた事件とあの状況にまで追い込まれた過程にある。
「相良さんと知り合いって訳じゃないだろ」
「キョウカ」
「あ?」
「その男、キョウカという女に連れられてきたんだろう。――おそらくそいつが『紫髪の吸血姫』だろうから」
都市伝説曰く、昨今の夏根市周辺で報告される行方不明者――特に男はある女の手によって葬られているという。男を路地裏誘い込み、人ならざる力で悲鳴一つ上げさせずに殺しその血を啜る。奴の手に掛けられたものは死体すらこの現代に残らない。ある被害者に寄り添っていた後ろ姿を目撃したという説が濃厚だが、理由はどうあれ紫髪という枕詞は後からつけられたという意見が大勢だ。
「あの人は真面目で優秀な警察官だったらしい。最近では行方不明事件……とりわけ『紫髪の吸血姫』絡みの事件なんかを調べて……最後は自分が行方不明になった」
ランがトラベラーになった動機もその叔父に絡んだことだろう。仮に叔父との再会を願いとして掲げていたとしても、叔父の行方不明までの過程についても執念を抱いているのは間違いない。だから似たような手口で相良を未来に追いやったキョウカとやらをみすみす見逃す気にはなれなかったというところか。ランの話を聞いた今では渡達も正直なところキョウカが『紫髪の吸血姫』である可能性が低くないと思っていた。
「私としては斑目くんはこの件に回ってもらって構わないと思う。無論、君達も自由に選べばいい」
明日の予定は二択。相良啓太の護衛をしつつ彼の帰還の手助けをするか。デクスの生産工場(プラント)への潜入調査に参加するか。それは求める観点で言い換えれば、比較的危険から遠い可能性か、価値ある情報を得る機会かの二択というところだろう。
「俺は生産工場(プラント)の方に行かせてもらいます。人の面倒まで見切れないんで」
それはトラベラーとしての願いにどれだけ執着し優先するかの指標でもある。将吾が初対面の他者よりも身近な相手との再会の可能性を優先しても文句は言えない。生産工場(プラント)そのものが「X」に関与していると確定していなくても、得るべき情報には手を伸ばさずにはいられないのが執着するが故の副作用。一方でそんな自分を堂々と肯定できるのは自分より人道を優先できる仲間を多少は信頼しているからでもある。
「なら私は相良さんの方に行きます」
その一人が真魚で、彼女がその選択をするであろうことを将吾も薄々感づいていた。初対面時は自分よりも執着している印象を受けていたが、ここ数日はどこかの誰かよりも落ち着いて見えていた。
「渡、あんたは?」
「俺は……」
寧ろ将吾から見て分からないのは渡の方だった。渡には将吾ほど執着する願いもなければ、相良啓太に対して返さなくてはいけない恩義がある訳でもない。
「相良さんの方にする。別に寄り道しても問題ないから」
理由が何であれ将吾としてはどちらを選んでも問題はない。だから答えを口にした渡の顔が少し強張っているように見えたのも気のせいだと思うことにした。
「決まりだな。綿貫と俺もそいつの面倒を見ることになってる。よろしくな!」
「それで射場さんも居たんですね」
「流石に高校生だけにやらせるのは気が引けるからね」
最後のメンバー兼保護者役として正道を恭介が推薦した理由は考えるまでも無かった。あれは冷静さを取り戻した大人の男性が変なことを考えないようにするための抑止力だ。現代の裏社会で生きていてもおかしくない面構えと無駄に大きい声を目の当たりにすればしょうもない悪巧みに至るまでの色々なものが萎えるだろう。
翌日の午前十一時。渡はパトリモワーヌで真魚とランと合流し、相良啓太の居る未来へとトラベルした。正道は夜からトラベルして相良の護衛に回り、椎奈は別行動でX-Passの回収を担当している。将吾や恭介らの方も生産工場(プラント)への侵入作戦を始めた頃だろう。順当に早く終わったのならそのまま合流することを進言したが、相良を確実に助けるのを優先するように言われた。
相良に提供するX-Passの回収候補として以前に渡達の前でオオクワモンの犠牲となった男性のものを流用することも上がったが、その墓地から相良の隠れ家までの距離がピーコロさんの能力では無理だと椎奈が却下した。代わりに提示されたのが二日前に別のメンバーが遭遇した手遅れの現場。加害者たるモンスターは直後現れたデクスの群れとの戦闘になだれ込み、メンバーはその隙に離脱したという。
遺体とX-Passについては可否が確定次第椎奈の方からアクションがあるだろう。それまでは一旦落ち着いて待機しておけばいい訳で、その余暇を潰す手には満ち足りていた。
「身長は百六十から百七十の間、年齢は二十台前半で間違いないと」
「ああ。サバ呼んでも分かるからな。間違いない」
キョウカについての情報収集はランが率先して行っていた。畳み掛けるような質問に答える相良は荒廃した未来で一夜を過ごしたとは思えない程に落ち着いていた。必要な物資と強面の護衛を与えたとはいえ随分神経が太いものだ。だからランも遠慮なく聞いているのだが。
「髪の色は?」
「黒と言えなくもないけどそうでもないような」
「紫に見えたりはしましたか」
疑念の核心に切り込むのにも躊躇はない。これは相良啓太が「紫髪の吸血姫」の――その原型たる殺人鬼の遺した足跡かが確定するものだ。だからこそランに我慢できるはずはなかった。
「言われてみれば……そうだ。車のヘッドライトからあいつが顔を背けたとき確かに紫に見えた。毛先なんか鮮やかなものだったよ」
曖昧な印象も光に透かしてみれば真実として照らされる。暗めの髪は強い光に翳すと艶やかな紫を返したという。それが自分の追い求めていた相手の毛髪であることをランは喜べなかった。その時間も髪の持ち主に近づくために使わなければ意味がないのだから。
「――すみません。キョウカのことをもっと教えてもらえますか」
「蠱惑的っていうのはああいうのを言うんだろうな。君らが入れないような店に勤めててて指名率も高かった。俺からすればテクニックはあったが感度は微妙だったと思うけど」
「随分余裕ありますね」
「悪いね。本気でからかうつもりがあったんじゃない。ただ、そういう仕事とは別に妙な色気のある女だった」
「へえ、大人の男としてどう違いを感じたんですか」
「虫には他の虫に麻酔毒を打ち込んで無防備に動けなくなったところを食べたり、卵を産みつけたりする種が居るだろう。その麻酔毒みたいな感じといえば分かるか」
「恍惚感に誘われて殺されるまで無抵抗になってしまうと」
「そう。食われそうになる直前まで俺の頭もふわふわしていた」
男を貪り続けていたに相応しい危うい妖しさ。その色気は情欲を誘う女の魅力というよりはある種の魅了(カリスマ)めいたものと言うべきだろう。何せ己の命まで無抵抗に貢がせようと思わせるのだから。餌やりという名の殺人よりもその在り方こそがいっそ都市伝説じみている。
「――おでましですが」
聞く前よりもキョウカに対してミステリアスな印象を抱いてしまったところで質問時間は終わった。ビルの壁や窓など関係ないかのように桃色の球体が出現し、そこから四肢と羽が生える頃にはそれが椎奈の契約相手のピーコロさんであることは分かった。
「このざまです」
「予定通りだよ。ご苦労さん」
ピッさんが両手に掲げるのはこの未来で見ることのなかった灰色のカード。それはX-Passが現代において取る姿だ。この形状を特異点Fで使えるのか。相良啓太を新たなトラベラーとすることができるのか。情報としては可能だと聞いていてもこの目で見なければ不安なもの。実際に彼の左腕に載せたカードから唐突にバンドのようなものが伸びてその腕を縛り上げて一体化するまでは確信を持てなかった。
「これで戻れるのか」
「モンスターと契約しないとな。そしたら俺達の仲間だ」
左腕に張り付いたX-Passを様々な角度から眺める相良の背中を正道は叩く。彼にとって軽くても見た目チャラ男にはそこそこのダメージで思わずつんのめるが、地面とキスする前にランが腕を取ってくれたので彼の商売道具が傷つくことはなかった。
「あいあむほーむしっく」
「ありがとう。椎奈にもそう言っておいて」
役目を終えたピッさんは来た時の逆再生のような演出でこの場から姿を消す。椎奈もこのモンスターも十分役目を果たしてくれた。人を喰らったモンスターが人を助ける重要な役割を担うこともある。
「契約するモンスターってあれでいいのか」
相良が指差すのはビルを隠していた茂みの奥。こちらに近づく羽音は人体以上の質量を動かしているもので、その容姿が見えにくかったのは体色が保護色を為していたから。周辺にそんな真似ができる種が居ない隠れ家を選んだつもりだったが見逃していたらしい。
「そうですね。アキ、お願い」
どんな相手であれモンスターの契約という点においてはこれ以上有利なこともないだろう。護衛として同行していた面々には音で相手の行動を制限できるセイレーンモンのアキが居るのだ。高いソプラノが美しい第一曲を聞かせれば虫の麻酔毒のように無抵抗になる。
仮にそれが通じずとも、ドルグレモンのカインにリボルモンのビリー、ウィザーモンのマーリニと他の面々の契約相手も控えている。相手が一体の場合なら大概のケースで過剰戦力と言われても仕方のない面々だ。
「落ち着いたようね。行きましょう」
茂みを抜けた先、荒涼とした平原にそぐわないビジュアルのモンスターがそこに居た。半人半馬のようなシルエットだが茂みに溶け込める緑の甲殻が形作るのは巨大な虫という印象を与えるボディ。両手の先から生えている鋭い刃の鎌は自慢の武器だと誇示しているようだった。
「スナイモン。進化段階(ランク)は成熟期(アダルト)」
「カマキリみたいなモンスターか。意外といえば意外だな」
「何でもいい。こいつに名前をつければいいんだったよな」
自分のものとなったX-Passのボタンを叩きながら相良はスナイモンへと歩み寄る。契約の手順は先に聞いている。対象を選んで、経路(パス)を繋ぎ、名を与えてそれを確立する。それがこれまでの苦難の終わりにしてこれからの苦難のはじまり。それでも自分なら頑張れると相良は確信していた。この一日で生きることの難しさと尊さを知り、頼りになる仲間と出会えた。だからきっとこの契約で結ばれる相手とも上手くやって生き延びていける。日常の何割かがそれで侵食されても良いと思えた。
「よろしく頼むよ、ジャック」
手を伸ばし、感覚的に経路(パス)を掴み、名前で封じる。その三段階を乗り越えた瞬間、相良のX-Passが契約相手の甲殻を彷彿させるデザインに色づく。契約はここに結ばれた。後はその力を借りて現代に戻れば新たな生活がようやく始まる。
相良の指が再度X-Passに触れるより先に爆ぜるような音が聞こえた。それがどこから聞こえたものかを特定する頃には既に遅かった。
ジャックと名付けられたばかりのスナイモンの身体が沈む。アキの催眠はとうに解けているが奴には自分の身体を支えることはできなかった。それを実行する意思も命もとうに尽きていたのだから。
「――啓太さん、ようやく見つけた。勝手に逃げるなんてひどいひと」
「キョウ、カ」
「相良、下がってろ」
不意に脳を心地よく揺さぶるような声が聞こえた。確かにこれは麻酔のようなものだ。それでも正気で居られたのは相良が真っ先に彼女の恐怖を思い出して警戒心というかたちで伝播したから。今目の前に立つ女は相良啓太を殺し損ねた殺人鬼にして「紫髪の吸血姫」の正体だ。
容姿は啓太から聞いた情報と相違ない。暗い色合いの髪も陽光に照らされた部分だけは紫に透けて見える。蠱惑的な雰囲気は職業故のものではなく天性のもののようだ。動作一つ一つが男を惹きつける佇まいや超然とした雰囲気をカリスマと呼ぶのなら、それを与えたのが悪魔だと言われても驚きはしないだろう。
「キョウカ、あれは捨て置いていいか」
「ええ。放っておいてもそこのモンスター達が勝手に処分してくれるわ」
傍らには彼の契約相手らしきモンスターが立ち、銃口から煙が昇るマシンガンをこれ見よがしに掲げていた。シルエットは人のそれでもコートを突き破って生える黒翼は身体と直結したものだ。獣のマスクに隠されている素顔が人と同じであろうとなかろうとその本質は素晴らしく人でなしだろう。
「貴女がキョウカだな。いったい何人殺してきた」
「私は啓太さんに用があるの。せっかくこの子のために連れて来たのにもったいないでしょう。貴方の用はそれからにしてくれる?」
彼女の眼中には獲物とそれを与える契約相手以外存在しない。獲物に向く視線もそれを契約相手が貪る未来を見ているに過ぎない。
「何人殺してきたと聞いているんだ!」
「……ごめんなさい。私だってやりたくてやってるんじゃないのよ。でもこの子は――ナーダは人間しか食べられないから。だから、仕方ないでしょう」
「仕方ないって……そんな風に言わないで! 人殺しと何が違うのよ」
「さあ。確かに対して違いはないかもしれないわ。でも、人が殺して食べることと人が死んで食われることの違いって何なのかしら」
ここまで話している間にもキョウカの視線は誰とも重なることはなかった。彼女の価値観で返ってくる言葉は質問者を逆に困惑させる。本性を曝したキョウカと相対した今なら分かる。超然とした雰囲気を感じたのも、ただ相互理解が不可能な人間と相対していたための錯覚に過ぎない。
「難儀な趣向だな」
もしその価値観を否定しない言葉が出たとしたらその意図は二択だろう。混乱しながらも彼女の価値観に表面的にでも合せようとした戯言か。それともここまで聞いた話を理解した上での率直な感想か。
「あら、君は分かってくれるのね」
「渡、何を言ってるの」
一気に視線を向けられたところで渡の表情から言葉の意図を判断することはできない。汗や表情の強張りもなければ呼吸も平常時と大差ない。ただ自然に口をついたとすれば意図は後者と考えるべきだろうが、同情するような気配もなければ戦意は維持したままだ。
「止めてくれ。お前のことを分るつもりはないんだ」
「そうね。私も私達のことを誰かに分かってほしくはないもの」
「ただ、自分でも分からないけど、気に食わないとは思う」
本人にも言語化できないのならば特定するのが容易でないのは当然だ。それを明らかにすることを望む者もこの場には居ない。最低限必要な意思という結論自体は固まっているのだからそれを翳せば十分だ。
「それは残念。薄い重なりでも同族嫌悪ってあるのかもしれないわね」
「どうだろうな。けど、前に街で見たときの直感は間違いじゃなかったみたいだ」
「……本当に残念だわ」
そのやり取りで話に使える時間は終わる。キョウカの目も渡達を敵だと明確に認識した。相互理解が不可能で互いの存在が邪魔でしかないのならやれることは一つ。ここは力のみが支配する未来なのだから。
「待て。俺達の話は終わっていない!」
言葉に反して先陣を切ったのはランとその契約相手たるウィザーモンのマーリニ。キョウカの頭上とその後方を覆う雷雲。ここまでの会話の裏でマーリニが詠唱を重ねて仕上げた魔術の結晶。開戦を告げる雷に躊躇いはない。
ナーダはキョウカを抱きかかえて落雷と踊る。大事な契約相手の身体はコートと己の身体で徹底的に隠し、少しでもダメージを受けないように気を配る。契約の経路(パス)による防御結界など当てにしていないような動きは宛ら姫を護る騎士のようだ。だが、落雷を避けながらも敵を視界に入れる目は蛮族のように血走っていた。
「何をする。何故キョウカを虐めるんだ。全員食い殺した方がいいか」
「いいのよナーダ。私なんかのために無茶しなくていいから」
「……違うんだキョウカ。俺が食いたいんだ。だって、もうお腹が空いて仕方ないから」
「そうなのね。それなら仕方ないわ。好きなだけ食べていいから」
目の色が冷静さを取り戻せるのは契約相手が与える言葉しかない。一人と一体の完結した世界。その世界で下された結論は相違する意見よりも優先される総意。ランや真魚がキョウカの言葉を受け入れられなかったのは当然だ。キョウカとナーダの間でのみ育まれた価値観なのだから。
軽やかな足取りのまま雷雲の外に抜け出て、キョウカとナーダは向かい合う。追撃を考慮すれば話し合える時間はわずかだが、彼女らにとっては十分すぎる猶予だった。
「ありがとうキョウカ。アァ、ヴ、ウォオオオオァッ! ……さて、狩りを始めるか」
「ええ。私も出来る限り助けるわ」
自分の頭に念を籠めるように両手を側頭部に寄せた後に響かせた咆哮に己がモンスターであることを恥じて隠しているような弱音は存在しない。そんな人でない背中をキョウカは愛と熱の籠った視線で送った。