
Episode.7 "血と縁のバックログ"
「ここで死んでくれる?」
そう告げて真魚はアキをけしかけてきた。真魚の感情を乗せるような絶叫は質量弾へと変貌して渡に襲いかかる。言葉の真意を推測する猶予はない。咄嗟にカインに鉄球を迎撃を目の前に落として防壁とする。
思考が混乱の迷路に入るより先に、最優先のタスクを真魚の思惑を把握することから目の前の戦闘への対処へと移すことはできた。できることなら倒すことなく、あまり激化させずに終わらせたいのが本音だ。先に仕掛けてきた件についてはここで返さずとも貸し借りの計算要素に回せばいい。すぐにケリをつけられずとも、せめてある程度話が通じる状況には持っていきたい。
「腹立つほどに良い反応。結局あんたも死にたくないんだ」
「仕方ないだろ。今死ぬわけにはいかないんだから」
「そういうところ、本当に嫌い」
その困難さはこのやり取りと直後に飛んでくる音波弾で嫌というほど分かる。防壁代わりの鉄球も限界を迎えつつある。球という形状ゆえ、度重なる攻撃で圧されたそれはゆっくりと転がり始めて守るべき相手に牙を剝き始める。
「この」
流石にそのまま無様に圧し潰されることはない。ドルグレモンという種が発現させられる金属の形状は球以外もある。地面から突き出される杭がその一つ。波のように連続で飛び出すそれらは自身を犠牲にして大球を視線の先の相手に押し返す。
転がる大玉。杭の後押しもあって砂に足を取られることなく進むそれは音の弾の波に真正面から晒される。だが、それでも容易に押し返される程でもない。鉄球の特性を理解しているうえに元々の出力もカインの方が上。それでもアキは逆に一歩ずつ前進しながら声を上げる。
距離は十センチほどまで来た瞬間、鉄球は砕けて相対する二組に再度互いの姿を見せさせる。体積のわりに予想より早く砕けたのは鉄球に中身がなかったから。
「いったい何のつもりだ」
「二分前の自分に聞けば?」
当然の質問に返ってくる言葉は刺々しさを隠す気もない。前回のトラベルで多少はましな関係性になれたのは気のせいだったのか。渡が真魚に呼び出され、ともに特異点Fに飛んだのはほんの数分前のことで、そこから軽く話しただけだというのに、何故曲がりなりにも仲間の自分に牙を剝くのか。
せめての温情は言葉通りに受け取れば彼女の態度に繋がるヒントを混ぜてくれたこと。ひとまず素直に戦況の監視と平行して記憶を遡ってみる。
その日、渡は真魚に呼び出されて彼女のバイトが終わるまで洋菓子店パトリモワーヌで時間を潰していた。個人的な呼び出しは初めてのこと。心当たりはすぐには思いつかないが、前回のトラベルを経て彼女にも何か思うところがあったのかもしれない。次のコミュニティとして取り組む作戦には日があるため、カインの空腹も前日までに満たしてきたが、先んじて調べておきたいことがあるのならそれに付き合うのも悪くはないだろう。
「お待たせ」
「お疲れ」
バイト終わりまで女性を待つという様は傍から見ればそれなりに親し気なものに見えるのだろうか。そんな思考は自意識過剰だと頭から消して、真魚とともにパトリモワーヌから出る。店の中で話をしないのは真魚からの希望。つまりこれは他の面々とは関係ないもの、或いは聞かせたくない類のものだろう。
「ちょっと付き合ってくれる」
少なくともこの世界で気軽に話せるようなことではないようだ。渡にだけ見えるようにX-Passをちらつかせる姿は調査に誘うにしては幾分か挑戦的な印象を与えられた。おかげで逆に彼女の口調とは対照的に、あまり軽い気持ちで応えられないようなものだと感じる。
「ああ」
だが、そもそも渡は軽い気持ちで応えられる人間ではない。真魚には大きな借りがあるからだ。前回の秋人との戦いで渡を助けたのは巽恭介だが、彼に渡の危機を誰よりも早く伝えたのは、秋人の挑発に従って渡が帰還させた真魚だった。真魚を逃がしたことを渡が貸しにする気がない以上、後に自己判断で増援を呼び寄せてくれた相手の頼みを反故にすることはできない。特に迷うような素振りも見せることなく、慣れた手つきで特異点Fへと飛ぶ。
「前のときはその……ありがと」
そこで何が来るのかと内心警戒していたところで、投げかけられたのは予想外の感謝だった。不意打ち極まりないそれに渡はすぐに反応することができず、感情と記憶を整理するのに数秒消費した。
「前って……秋人とのことか。それなら、寧ろ感謝するのは俺の方だ。素直に俺の提案に乗ってくれたし、巽さんを寄越してくれたのも小川だろ。お前にも巽さんにも大きな貸しだよ」
結局渡の口から出たのは、彼にとっては謙遜などない本音。状況が状況だったとはいえ、渡からすれば真魚は自分の望みを聞いてくれた上にフォローまでしてくれた。見栄を切って見送った癖に、あの助けが無ければ渡は危ない状況だったのだ。
「止めてよ。私は頼んだだけで何もしていない。あんたを置いて逃げた卑怯者でしかないんだから」
「お前が頼んでくれたから巽さんは来てくれた。借りは借りだ。だから今日呼ばれたのも、それを返すいい機会だと思ったんだが」
謙遜が籠ったように思える言葉で返されれば、真魚も同じだけの謙遜に満ちた言葉で返してしまう。最初から謙遜のつもりもない渡は真魚少し自分を卑下し過ぎではないかと思っていた。だが、出来ることは結局本音を偽る気はないと示すことだけ。端から見てもどれだけ奇妙な意思の押しつけであっても、その根底にあるものが渡に根付いた価値観だった。
「……何それ。いっつもそんな面倒くさいこと考えてるの」
「借りは返す。当たり前のことだろ。まあ今ある借りを返そうにもまだ時間かかりそうだが」
ならばここで真魚が嫌悪感らしきものを見せたのは、渡の言動から染み出るその価値観に対してということになるだろう。
「馬鹿みたい。……よりによって、なんでこんな奴なの」
「こんな奴ってなんだよ」
「そう言いたくもなるっての」
或いは抱いていた期待を裏切られたから。何を思い、何を望み、どう裏切ったことになったのかは彼女にしか分からない。少なくとも、ここまでのやり取りを遡ったところで渡が真魚の変化の原因を特定することができなかった程に、彼女はこれまで明確な言葉として表に出さなかったものだ。
「あのシェルターに行こうかと思ったけど……止めた。あんた私に借りを返したいのよね。だったら一つ聞いてよ。――ここで死んでくれる?」
だから渡からすれば、真魚の急襲は意味が分からず、数十秒は対処に戸惑うものだった。
「悪い。思い当たることがない」
「馬鹿じゃないの? 抵抗する気がないなら、おとなしく私の望み通りになれば」
女心は分からないと素直に言ったところで返ってくるのは当然の罵倒と呆れたような溜息で、アキの攻撃が止まることもない。ならば渡も応戦しつつ、言葉でも真魚に応えることしかできない。
「悪いけどお前の望みを今聞くことはできない。今抱えてる借りが無くなったら……せめて二年は待ってくれ。目の前で殺されてやるから」
「ふざけるのもいい加減にして!」
尤も渡なりに答えたつもりでもそれが受け入れられるかはまた別の話。怯える様子もない予想外の返答は真魚からすれば煽りにしか聞こえず、彼女の感情をただ逆撫でする。
連続で飛んでくる音波弾。最初の一発よりも単発の重みが軽くなったと判断したところで、カインは突進。咄嗟にアキは口にしている曲を変更し、攻撃手段を音の弾ではなく、低周波による感覚阻害に変更。だが、それでもカインは止まらない。飛翔する前に一時的にキャストで筋力と耐久力、持久力を強化する方向で渡は性能(パラメータ)を振りなおした。その差がカインの動きを鈍らせることのない、歌い手へと迫る地力へと変えた。
一直線の突進を辛うじて躱すアキ。だがそれで終わるほどカインは甘くなく、地に足を着けるよりも空中への上昇を優先。同時に鉄球を再度生成して、アキへと墜とす。
鉄球は即席ゆえに体積も密度もしれている。真下から少ない音符の弾で砕けさせるにはさして手間はかからない。それでも仕切り直しの時間稼ぎには十分だ。
「なんで俺に死んでほしいんだ? 得することでもあるのか?」
鉄の雨をバックに渡は真魚に改めて問いかける。良かろうが悪かろうが借りは返すべきだ。だが、渡には真魚から死を願われるほどの悪行を為した記憶はない。ならば結局は彼女に聞いてみなければ分からない。仮に過去の理由がなくとも、せめて今後の答えになる本音くらいは聞き出さねば。渡としては秋人の場合と違い、真魚をただ歯向かってくるからと排除すべき敵だと認識したくはなかった。
「別に。ただ気に食わなかっただけ」
「なるほど。気は晴れるのか」
「そうなったら万々歳ね。――ずっとあんたのことは嫌いだったんだから」
ようやく聞き出せたのは今までの態度からか納得は出来てしまう本音。だが、それだけで殺意を向けられるのも堪ったものではない。それに最後の言葉についても渡は少し引っ掛かっていた。本音であることに変わりはなくとも、解釈によっては彼女がその言葉を口にして自分を狙う理由に迫れる気がした。
「会ってまだ一か月も経ってないだろ。そんなに嫌われることしたか」
「さあ? あんたを嫌いになるのに二日も要らなかったし。何しても関係なかったでしょうね」
あまりに辛辣な拒絶は急に始めたものではないと真魚は言う。初めてパトリモワーヌでまともに話したあの日から、彼女は渡に対して複雑な執着心を持っていた。それが殺意となって表出したに過ぎないのだと彼女は冷ややかに笑う。
「それは嘘だな」
それでも渡は今日までに交わしたやり取りがすべて殺意に結びつくようなものではないと感じていた。確かにあからさまに不審な視線や挙動を向けることはあったが、それらがすべて刺々しい感情によるものだったとは渡には思えなかった。
「何を根拠に」
「俺とカインがまだ生きていることだ。もし本気でずっと前から俺のことが気に食わなくて、今日この時に仕留める気だったなら、俺に礼なんか言わずに仕掛ければよかったはずだ」
この戦いだってそうだ。真魚に殺意があったとしても、まだ手段を選んでいる。セイレーンモンという種が持つ三種類の曲のうち、第一曲――精神操作の「ポリフォニー」が使われていなかった。操作時間がどれほどのものかは分からないが、一対一においては戦局を変えて勝敗を決めかねない劇薬になりかねない。
「結局はあの時の俺の会話で何かがキレたんだろう。俺にそういう姿を見せて、何かを伝えたかったんだろう」
渡の推察は結局はそうあって欲しいという願いに過ぎない。恩義を感じている相手に無自覚な理由で死を望まれるのを受け入れられるほど面の皮は厚くない。そういうかたちでしか義理を返すことができないのなら、彼女にとって自分にその程度の価値しかないことになる。それだけはまだ認められなかった。独りよがりかもしれないが、生を望む理由は得てしてそうあるものだ。
「あのさ、気持ち悪いこと言ってる自覚ある? そういうところが本当に嫌いだった」
真魚自身も何度目か分からない溜め息。だが先ほどまでと意味合いが少し違うように感じるのは気のせいか。
「あんたが口にした通り……ってことにしておいてあげる。――他の人を巻き込んでまでやりたくはないし」
少なくともこれ以上仲間同士の戦いを続けるつもりはないようだ。渡は安堵の裏で分かり合えたのかと邪推してみたが、そこまで簡単になるほど真魚のことを理解していなかった。単純に渡にとって都合の良い部外者が現れただけだった。
「盗み聞きなんて趣味が悪い。同性から嫌われてたりしない、逢坂さん?」
「生憎と、そういう手合いの対処には慣れてしまったよ」
逢坂鈴音――初めて渡と共同戦線を張ったトラベラーが居ては真魚も迂闊には戦闘を続行できない。休戦の理由なんてただそれだけのことだ。
「過保護なのはあんたなのか、巽さんなのか」
「今回は私だから安心するといい。私は気に入った相手には親身だからね。――小川真魚、もちろん君に対してもだ」
「どこまで知った?」
「一通りは調べたよ」
逢坂鈴音がこの場において最悪の部外者だと真魚は改めて理解した。この女は単純な共同戦線だけを理由に来た訳ではない。自分の――自分と弟切渡のろくでもない繋がりを知ったうえでこの場に立っている。
「私はフェアに事実を伝えに来たつもりさ。知らなかったことや見なかったことを、ね」
そのための場所にここは相応しくないだろう。そう言って帰還の準備を始める鈴音。真魚も何か覚悟を決めたように頷いて後に続く。渡は未だに状況を掴めないまま、とりあえず二人についていくことにした。
鈴音が選んだのは夏根市のカラオケボックスの一室。その場所が話に関係あるのかというとそういう訳でもなく、ただ話をするのに都合の良い密室だったから。それこそ移動中に真魚が一瞬立ち止まったマンションの方がまだ所縁があるだろう。
「ではそろそろ始めようか」
「何をだ?」
ここまで来ても渡が状況を正確に把握できていないのはまともな会話が無かったから。疑問を持ってはいたが、どうにも口に出せずに流された結果がこれだ。迂闊なことは口に出せない雰囲気がここまで纏わりついていた。
「そうだね。ここはフェアにしたいところだと私は思うのだけれど……どうかな、真魚君」
疑問の答えはここに来て丸投げ。流石の渡も口を尖らせそうになったが、真魚の今日一番真剣な瞳を見ればそんな挙動は許されない。
「分かった。話せばいいんでしょ。――私の願いと昔話を」
今からもたらされるものが、疑問のすべてを氷解させるものになると確信したからだ。
小川真魚は六年前まで両親と三人で夏根市のマンションで暮らしていた。両親共働きではあったけれど、それでも三人の時間を何よりも優先してくれる親だった。真魚は父親のつまらない冗談を母親が穏やかな表情で切り捨てるのを見るのが好きだった。お酒を飲む年齢になってもこんなやり取りができれば良いとずっと思っていた。
八年前、十歳の真魚が重い病気に罹った。当時の彼女はそこまで身体が強くはなく、生存確率も著しく低いと通告されていた。何よりも娘を愛していた二人にとってそれは到底受け入れられることではなく、娘が助かる術を血眼になって探した。特に母親は普段の凪のような印象からは想像できない程に豹変し、冷静に見れば非科学的で迷信じみたものでも手を伸ばさずにはいられないほどになっていた。
病気についてはご存知の通り、特に後遺症を負うことなく完治した。その回復力には担当医も驚くほどで、病院を出る頃には寧ろ病気に罹る前よりもたくましくなったのではないかと級友に思われたこともある。――これで終われば良かったのだが、この奇跡をきっかけに真魚の家族は食い潰されることになる。
治療の成功は両親の願いが通じたこと……ではなく、担当医と真魚自身の生きたい意思による結果に過ぎない。そこに真魚の母が仕入れた民間療法も新興宗教の祈祷は一切関与していない。それでも彼女に薦めた者は、真魚の完治は自分達の手柄だと擦り込んでいく。また同じようなことが起こるだろうからもっと貢ぎなさい。お布施を止めれば加護が消えるだけでなく、今まで抑えてきたものの反動も来ることになる。そんな言葉を忍ばせては毒のように母親の心を侵していった。
母親の帰宅時間が一時間ずつ遅くなっていった。家から父親がプレゼントしたブランド品や趣味の恋愛小説が消え、代わりによく分からない置物や冊子が占拠するようになっていた。真魚がそれに触ろうとすると、自分を殺した相手でも見るのかと思うほどの形相で睨みつけられた。
家庭環境は目に見えておかしくなっていった。母親は既に手遅れで父親が何を言ってもヒステリックを起こすだけ。まともに話が通じるような状況でもない。彼には真魚を引き離そうとする素振りを見せて大人しくさせつつ、それを実現するために行動するので精いっぱいだった。
離婚が決まるのにそこまで時間は掛からなかった。その間に母親がしていたことは、お布施のために金を求めて融資詐欺に引っ掛かることくらいだったのだから当然と言えば当然だ。
現在、真魚は父親と暮らしているが、あれ以降は必要最低限の会話しかしていない。母親に至ってはもう何年も会ってはいない。それでも真魚はこの二人が自分を育ててくれた親なのだと一切悲観することもなく愛している。
だからもし願いが叶うのなら、両親に平穏で幸せな人生を生涯を掛けてでもプレゼントするだろう。根底にあるのは生き延びてしまったがために二人の人生を犠牲にしたことへの自責。だがそれと同じくらい深いところに、二人を直接的に破滅に導いた人間への憎悪も確かにあった。
「もうだいたい予想つくでしょ。――私の家族を壊したのはあんたの父親よ」
渡を見据えて真魚はそう言った。抜き身の刃のような視線には殺意に近い意思が感じられても渡には目を逸らすことなどできない。ただゆっくりと咀嚼することだけが許されていた。
「そういうことだったのか。……父さんに代わってなんて言えないけど」
「止めて。あんたに謝られたって意味がない。それにあの男は奇妙な死に方したんでしょ。本当に良い様。人生で一番素敵なニュースだった」
弟切渡の父――弟切蔵太(クラタ)は六年前まで活動していた詐欺グループの幹部だった。表では普通の会社員にして少し気の弱い一家の大黒柱として振る舞いながら、裏では笑顔で他人を裏切ってはその幸福を摘み取る畜生。奴の獲物の中には真魚の家族も含まれていたのだ。
「だいたいは理解した。で、俺に対するあの態度は……」
「さあ、何だったんでしょうね」
弟切蔵太が死んでからは、真魚はその忌むべき原因を考えないようにしていた。だが、ここに来てその息子と出会ってしまった。彼に父親の代わりを務めさせて納得するほど真魚は自分を誤魔化せる女でもないが、それでも加害者の血縁に無関心でいられるほど割り切れてもいなかった。
「最初はただどんな奴なのか気になっただけだった」
そう多くない苗字だ。パトリモワーヌの自己紹介で聞いた時は真魚は感情を整理することができずにただ睨むことしかできなかった。それでも気になる相手が今後も関わる相手ならばいっそ探ってみるべきだと決断したのは、それこそあのトラベルの前日だった。
「まさかこんなに変なのだとは思わなかったけど」
分かったのは心の深いところで何かが壊れているということ。それが何かが分からないから苛立ち、割り切っていたはずの憎悪が鎌首をもたげた。それが爆発するのも結局は時間の問題だったに過ぎない。
「俺はただ誰かを裏切るような恩知らずになりたくないだけだ。父さんはそうなるようにと言っていた」
「酷い反面教師ね」
他人の幸福を摘み取っていた弟切蔵太の末路は無論、地獄への転落。グループをその活動記録ごと警察に売ったという疑惑で切り捨てられ、追い詰められて壊れた蔵太は一家心中を試みて、一人息子を置き去りにした。
「ああ。父さんこそそんな人であって歩しかったのに」
これはもう本人しか知らないことだが、グループの情報が警察に渡るようにしたのは何を隠そう渡だった。蔵太が不注意で放置していた端末を操作して真実を知った渡は合間合間を見てデータを抜き出しては、警察が目をつけるように仕向けたのだ。
――義理は返すもので約束は守るもの。そうやって信用される人になれ
渡はただ父親が口にしていたことを真面目に呑みこみ、それに従って行動しただけだった。そういう人であって欲しいと思っていた。偶然端末を盗み見たときは詳細まで分からなくとも何か悪いことをしているとは分かった。だから、全部表に出して仕切りなおしてくれることを望んだ。待っていたのは、望んだ結果には程遠い地獄だけだったが。
「本当に残念だった」
その一言だけを声に出す裏で渡が一人で追想するのは、今さらどうしようもない過去の結末。渡が見た父親の最期は、渡を絞め殺そうとしていたところでどこからともなく現れたモンスター――ドルモンに突き飛ばされ、そのまま体内の電気信号を貪り尽くされるという、あまりに現実離れしたもの。
それを目の当たりにした渡の胸の内にあったのは父親の末路に対する悲哀ではなく、彼を食い殺したドルモンに対する感謝だった。
首を絞められた頃には渡の中で憧れた父親は既に死んでいた。だから渡はせめて父親の言葉だけは体現することにしたのだ。本当に恩を返したい相手は、自分の意識が消えるのとほぼ同時に存在ごと消えてしまったが。
「これでようやくお互いのことをフェアに理解できたわけだ。うんうん、お姉さんは嬉しい」
本当にフェアなのかはすべての情報を手にして俯瞰する者にしか分からない。だが鈴音が間を取り持ってくれたことで酷い方向に拗れずに済んだことには間違いないだろう。
「そんなことを言うために割り込んできたって……大学生は随分暇ですね」
「いやいやこれでやっと半分だよ。――だって、真魚君の家族を壊したのは弟切蔵太ではないのだから」
だがこれで終わりではないと逢坂鈴音は告げる。軽薄な笑みは真顔よりもいっそ冷徹で平等に事実のみを伝えるだけの機械のようだった。
「……ごめん。冗談きつい」
それは真魚にとっては到底受け入れきれないものだ。今までの渡に対する行動の前提が覆る。手で抑えるだけでは隠し切れない動揺が顔に溢れていた。
「そんな訳ないでしょ。だって確かに母さんはあいつのグループに騙された。その記録だってあったはず」
「言い方を選ぶべきだったかな。確かに弟切蔵太のグループは真魚君の母親を融資詐欺で騙した。――けれど、宗教詐欺の方は別の組織だよ」
感情的な言葉をぶつけても、鈴音は薄い笑顔のまま自分が口にすることが現実だと突きつける。タブレット端末に映すのは二枚の記事のアーカイブ。一つは弟切蔵太のグループの顛末をまとめたもの。もう一つはとある宗教団体の幹部が違法薬物の取引の疑いで逮捕されたことを報じたもの。
「この二つの記事で取り上げている組織はほぼ無関係のものだ」
誰でも冷静に調べればすぐに分かることだけれどね。後に続けたその言葉が真魚には癪に障ったのは、調べて分かる程度のことを見抜くために必要なことが欠落している自覚があったから。
「ただ君の家族は偶然重なった。いや、弟切蔵太からすれば勝手に引っ掛かってくれたと言うべきか。宗教団体の方は……まあ言わずとも分かるね」
宗教団体の方は自分の家族とも無関係だと言えればどれだけよかったか。だが、その団体が掲げるシンボルや置物にも見覚えがあり、逮捕された幹部についても母親と話しているのを見た記憶がある。自分の家族を壊滅に追い込んだ大元の宗教団体が弟切蔵太のグループとは無関係だと嫌でも思い知らされる。
「そんなことって……ずっと勘違いしていたってこと」
「曖昧なまま都合よく解釈していただけだろうね。本当はあまり探りたくない記憶だったのだろう」
――真魚、もう終わったことだ
離婚から数か月後、真魚は父親にそう言われた。お母さんはもう大丈夫なの。また一緒に暮らせるの。そう返したけれど父親は頷いてくれなかった。
だったら何が終わったのだろうか。その疑念に懊悩していたときに飛び込んできたのが、弟切蔵太の不審死と詐欺グループの壊滅。父親の言う終わりとはこれだったのかと真魚は思った。思うことにした。自分の家族を壊した相手ならばこれくらい惨たらしい罰を与えられて当然だ。そうでなくては納得ができない。
「元々君は復讐目的で事件を探っていた人間ではなかったのだろう。当時の記録を精査したり、弟切蔵太の素性やグループを調べる真似はしなかった。ただ偶然にも渡君と出会ってしまっただけだ」
鈴音の言う通りだ。実際に被害者だったことが勘違いに拍車を掛けた。そのまま真実を求めることを止め、トラベラーとして願いを掲げることで完全に目を逸らしていた。その癖に憎悪の火だけは消えてはいなかった。
「誤解は解けたようだね。これ以上は君がどう受け止めても私が口を挟む権利はないよ」
「……あぁぁッ」
フォローでもするかのように締めた鈴音の言葉は真魚には届かない。ただ放心したように唇を震わせたかと思えば、両手で顔を覆って言葉にならない声をあげる。渡はどう反応すればいいのか困ったが、とりあえず鈴音がそうしているように状況を静観することにした。
「ああもう……好きにして」
「大丈夫か」
「つけ込むチャンスなのに……いやつけ込んでいるのかな」
「もう十分助かったんで黙ってくれません」
紅潮する顔を両手で隠す真魚に向ける言葉など何が安牌なのか渡には分からなかった。だからこのタイミングで弄る方向にシフトされると非常にやりづらいというか、矛先が自分と真魚のどちらに向いても対応に困る。
「弟切」
「ん?」
「あの……うん、本当になんて言えばいいのか分からないけど」
「思うように言えばいいだろ」
追撃が来るより先に真魚が真正面から向かってきた。その振る舞いには先ほどの性格の悪い女とは違って、地に足のついた人間らしい葛藤が見て取れる。だから渡もただ真っすぐに受け止めるべきだと思った。
「そうね。――本当にごめんなさい」
「分かった。――でも俺はお前を許さない」
受け止めた結果、性格の悪い女も思わず動揺が顔に出るほどの答えを返すことにした。真魚は有罪判決を下された被告人のように項垂れ、燻ぶっていた感情が火種ごと消し飛んだように薄く白く見えた。
「許さないが、これで貸し借り無しということにする」
ただ渡の答えには続きがあった。今日何をしたところで、過去に何をしたかは変わらない。その前提があったから、黒木場秋人と戦ったような冷徹な殺意までは向けなかったのだ。
「過去抜きにしても、渡のそういうところが気に食わないの分かる?」
代わりに殺意に近いだけの怒りが真魚に再点火されたのは渡の感情とは別の話。いつもの活力を取り戻したなと渡はポジティブに考えることにした。
「そう言われてもな……ん、俺のことを名前で呼んだか」
「こっちの方が言いやすいの。そっちも下の名前で呼んだらおあいこでしょ」
居心地が悪いままなのは嫌だと話を逸らしただけ。だが、そのおかげで距離が近づいた感じの言葉を引き出せたのは良かった。穏やかな雰囲気で終われるのなら渡に文句はない。
「でも覚えておいて。このままだと、あんた絶対にいつか痛い目を見るから」
胸を撫でおろした直後に襲った、心臓を握られるような錯覚を渡は生涯忘れない。
話が終わった後はせっかくなのでカラオケボックスを時間いっぱい本来の用途に使った。お陰で店を出る頃には外は暗く、視線を少しずらせば人工の極彩色が煌めく様が嫌でも目に入る。渡も真魚も気にしたら負けだと特異点Fを歩くときと同等の心持ちで闊歩する。
「……ん」
不意に渡の足が止まる。躊躇いなく振り返り、野獣のような視線を向ける先には夜の街の住人と思わしき一人の女性。彼女はその渡の熱い視線に気づくことなく、路地へと消えていった。
「うわ、きも」
「流石に今のは私も引くね」
同行者へと顔を戻せば、当たり前の反応が突き刺さる。粛々と受け止めることしかできない渡の脳裏には、先ほどの女性の髪にうっすら光る妖しい紫色がこびりついていた。
渡が電車に乗った時刻からちょうど○○年。特異点Fと呼ばれる未来で一体のモンスターが食事を終えた。
「今日のディナーも素晴らしい逸品だったよ、響香(キョウカ)」
そいつは人に似たかたちと言動をしていても本質はモンスターに変わりない。コートから突き出る一対の黒翼は享楽を愛する者の証。携える機関銃は食材を手早く調理するための道具。獣のマスクが隠すのはその異形よりもずっと醜悪な悪魔としての本性。
「気にしないで、ナーダ。私はただ連れてきただけだもの。――それにあなたは人間しか食べられないのだから、仕方のないことでしょう」
その悪魔のマスクに血濡れの指を這わせるのは互いに思い合う契約相手。彼女の左腕で端末が放つ光で、その髪は淡い紫に染まっていた。