Episode.20 "Re:Pairing"
いい加減に痺れてきた尻を渡は隠れるように後ろ手で擦る。数十分座っていても他所の家の木造椅子には慣れないものだ。別に拘束されている訳でもないのに腰は一ミリも上がらない。テーブルに置かれた麦茶にも手を出せず、落ち着かない視線は戦場を把握するために目まぐるしく動く。
シンプルな食器棚には飾り気のない食器が並び、その中段に置かれたレンジは熱を失ってから久しい。隣の冷蔵庫にはスーパーの割引チラシが貼り付けられており、書いてある日付が今日でなければと何度思ったことか。
流し台でUターンしようとした視線は無意識にコンロまで到達し、そこで忙しなく動く少女の背中に固定される。それほどにシャツとショートパンツの上にエプロンをつけた姿が様になっていた。というより着慣れていた。無駄のない動きで彼女がこのキッチンをどれだけ使っているかが分かる。
「ほら、出来たよ」
「ああ……うん」
椅子から一歩も動けない渡の前に置かれたのは二枚の皿に盛られた海鮮塩焼きそば。エプロンを置いた少女――小川真魚は正面の椅子に座り、両肘をついて渡を見つめる。居心地の悪いその視線から目を逸らすこともできず、渡の背中には嫌な汗が絶え間なく流れていた。
「ほら、食べないの?」
「……なんのつもりだ?」
パトリモワーヌでの予期せぬ再会から何をどうして彼女の家に招かれて手料理を振る舞われているのか。「ウチ来る?」なんて言われて素直についてきている自分も自分だが、それ以上にそんな自分を気軽にアパートに招く真魚の行動が渡には分からなかった。今日は親の帰りも遅いと言われたのが僅かな心の拠り所になると思っていたがそんなことはあるはずもなかった。
「お腹空いてたんでしょ。出会って早々お腹を鳴らされたら言いたいことも引っ込むって」
「忘れたかった……忘れてくれ」
ぐうううう~。そんな間抜けな音が自分の腹から鳴った記憶を思い出して、渡の居心地はさらに悪くなった。空腹なのは本当で家族に夕飯は不要だと既に言ってしまっているので無駄な金を使わずに腹を満たせるのはありがたい。
「冷めないうちに食べたら。味には自信あるから」
「いや……でも……」
「じゃ、取引しましょ」
それでも渡が何の見返りも無しに施しを受けられる性分ではないことは真魚も分かっているはず。ずっと背筋にこびりついてた寒さの正体がそれだということに渡はようやく気が付いた。
「食べながらでいいから渡の口で教えてよ。あんたがどれだけ無様に敗北したかを」
そう意地悪く笑った後に口にした「いただきます」という言葉が、渡の耳には嫌に粘っこくこびりついた。
「モンスターを作ったのは未来のあんたで、Xの正体はその責任を取ろうとした孫だった。コミュニティの中にはいい子ちゃんの孫の方についた連中も居て、あんたが自棄を起こして残った連中引き連れて真正面から戦った結果がこの様って訳ね」
汚れを洗い落とした皿を乾燥機に並べながら真魚は鼻歌のように、弟切渡が辿った顛末を要約する。未来の人類を危機に追い込んだ原因は自分で、X――弟切拓真はその尻ぬぐいをしているだけ。ルートに味方している連中は彼らを敵に回してでも願いや望みを叶えるために我を通していた。――その中で自分だけは代償行為などという後付けの理屈でXの敵になろうとした。その段階で弟切渡の戦いの結末は最初から決まっていたのだろう。
「どうだ。笑えるだろ」
「あんただけが無様になってたならね。バイト先まで潰されたら流石に笑えない」
「……巽さんがやられたのか」
「らしいわ」
巽恭介の暗躍も感づいてはいた。それでも見逃していたのは彼を含めて巻き込んだトラベラーに対する気後れで、その中途半端な姿勢が彼の末路を決めてしまった。今の渡にはそうとしか考えられなかった。
「そうか……いや……俺のせいだな。本当に悪かった。どう償えばいいかももう分からないけど」
最後の言葉は自分でも分かるほどにか細く、自然と視線は落ちて無地の机の一点を目的もなくただ見つめる。処刑人の前に首を差し出した罪人のように、対面の机に座った真魚の反応をただ待つ。
「ふざけんな」
「あだっ」
おでこに響く軽い衝撃。反射的に出た声とは裏腹に後に残る痛みは一切ない。ただ折れ曲がった背筋は伸ばされて、呆れかえったような真魚の視線の矢面に立たされる。そこには罪を咎める意思も無いどころか何の期待も籠ってはいなかった。
「私に謝るのは筋違い。罪悪感なんか勝手に抱えて潰れてろ」
「ああ……その通りだな」
安易な許しすら与えない厳しさが今の渡には寧ろありがたかった。ここで罵倒されるならまだしも「自分のせいではない」と言われでもしたら、食べたばかりの焼きそばをぶちまけていただろう。
「いや、ちょっと待て? なんで真魚がそんなことを知っているんだ」
「どこぞの眼鏡に散々聞かされてたからよ」
「鈴音さんが?」
「ええ。それはそれはとっても楽しそうにね」
容易に想像できる姿に頭が痛くなる。真魚なら乗ってくると分かったうえで、嬉々として話を持ち掛けてきたのだろう。どう転んでもおもしろい実験と称して。或いは確信を持っていた上での確認事項として。
「今さら俺が言うのもなんだが大丈夫だったか?」
「なに。脱落者らしく手痛いペナルティでも喰らってればよかったとでも」
「俺も自分はそこまで性格は悪くないと思ってるが」
「同感。あの人に比べたらあんたは随分マシよ」
元々トラベラーとして無関係な現代人に口外することは両者を巻き込んだ強制的な転送という形でのペナルティが設定されていた。口外する理由もなかったため頭の片隅に置いておくだけのルールだったが、リタイアして記憶を保持した人間に対しては明記されていなかった。
そもそもモンスターだけが排除されてトラベラーだけが現代に送り返されるケースなど想定していなかったのだろう。ましてやそのレアケース二人が情報交換するケースなどルートはその可能性すら浮かばなかったらしい。
「知ってたならなんで話させた」
「言ったでしょ。『渡の口で聞かせてよ』って」
「やっぱり俺の性格はいいんだな」
「お前も大概いい性格をしているな」と言いそうになるのをぐっと堪えてその言葉を選べた事実こそが、が急に芽生えた自己肯定感の高いその発言の証明だ。ここまでコケにされると笑うしかなくなり、地の底に埋まっていた自尊心も「ああはなりたくない」と墓から這い出て二度目の産声を上げる。
「少しはマシな顔になったじゃない」
「お陰様で」
どこまでが本気でどこまでが励ましだったのか。少なくとも真魚のお眼鏡に適う歯応えのある話し相手にはなれたらしい。
「で、どうするの?」
「どうもこうも今さらないだろ」
無様な敗北者二人。互いに机に置いていたX-Passももはやただの物言わぬカードでしかなく、褪せた灰色は契約が失効している証明に思えて、既に自分達の戦いは終わったのだと突き付けられているようだった。傷の舐め合いが一区切りついたところで、その先を求めても今さらあの未来に戻れる訳もなく、あの未来が現在から分岐した未来の一つとして確定しているのなら何か伏線を張っておくこともできない。それでも真魚が問い質さずにはいられないくらいには、再会した瞬間の顔は酷かったのだろう。
「なら質問を変えよっか。――あんたは結局どうしたかったの?」
「それは……」
フラットな精神状態になったからこそ真魚のその言葉は今の渡には鋭く刺さった。そもそも渡には最初からあの戦いに挑む理由はなかった。それなのにここまで逃げる選択肢を一度も浮かぶことがなかったのは、ただ退路を断たれていたからだけではないだけの動機があることは渡自身が一番分かっているはずだ。
「どうせ終わったんだしさ。理屈っぽいのは抜きにして、情けなくぶちまけてよ」
自分を助けたドルモンに抱いた恩義への代償行為としてカインを生かすこと。そんなものは言ってしまえば自分を納得させるためにでっち上げた建前だ。実の孫を除いて個人的な恨みをぶつけてきた目の前の女はそんなものでは納得しない。
「期待はするなよ。どうせたいしたものじゃない」
自嘲するように笑って渡は肘をついて右手のこめかみに軽く爪を立てる。まだ純粋にカインの生存だけを望んだと言えればよかった。何ならもっと単純に「死にたくない」の六文字だけで十分だった。それなのに自分があの未来を作った張本人だと知ってしまった途端に足元がぐらついて拓真達と戦うための理屈を求めてしまった。この未来が嫌だと思う気持ちが少しでもあるのなら、それこそ戦いが終わってからでも手を打てばいいだけの話だったのに。
「きっとすぐに見失ってしまう程度のものなんだ」
未来の罪は自分の芯を支える根底が揺らぐには十分な衝撃だったのは事実だ。たいていの人間だってそうだろう。だが自分にとっては少し違うと今の渡なら分かる。――あれは事実だけなら早急な自死も戦いへの迷いも頭に浮かべることはない程度の些事だった。
あのときまでの義理と理屈だけで考える弟切渡なら、現在抱えている借りというツケを清算したうえで、喜んで自害を選んだだろう。カインに対するツケや代償行為も己の命を差し出すという形であれば自己満足できたはず。
弟切渡という人間が貼り付けていた仮面は自分の命惜しさだけでその選択肢が思考から除外される程度のものではない。その仮面があっさり砕けて脆弱な中身が表出してしまうだけの理由が別にある。――それが何なのかはカインを失った時にはもう分かっていた。
「ああ、そうか」
答えは最期の衝突に垣間見た過去の幻視の中にあった。生き苦しい煙に包まれて人の住める空間でなくなった我が家。床に倒れて既に意識を失った母親。そして、自分の首を子供の仇を見据えるような形相で締め上げる実の父親。恩義を感じるモンスターは未だ影も形も見えない。死が間近に迫ったあのときに浮かんだ言葉は今まさに自分を殺そうとしている相手の言葉だった。
――義理は返すもので約束は守るもの。そうやって信用される人になれ
「本当にくだらないものだった」
あの日から何度も思い返した幻聴に対するざわつきが純粋な嫌悪感だったのだと理解した瞬間、あの日の記憶と今まで燻っていた熱量がフラッシュバックする。それは失望することしかできなかったあの日から確かにあった怒りだった。
義理は返すべきものだとして不義理も返されて当然なのか。つまり父さんの罪をリークしたことに対する報復も受けるべきものだったのか。……ふざけるな。人を裏切っておいて何が約束だ。人の心を弄んでおいて何が信用だ。自分の息子に義理を通さなかった相手の言葉なんかくそ食らえだ。お前のような人間の血が流れていると思うと全身から噴き出して死んだ方がマシだ。どうせ死ぬなら俺の血で全身真っ赤に染めてやる。
「ちょっ、バカバカバカ! あんた何してるの?」
「んえ……あー、その……悪い」
慌てたような真魚の声で顔を上げればいつの間にか彼女は自分の右手を掴んでいた。怒りが三割で心配が七割ほどでブレンドしたその視線に射すくめられて、勝手にヒートアップしていた頭は冷えていく。掴まれた右手には乱雑に抜かれた自分の髪の毛があり、視界の右半分にも毟る勢いで抜けた髪の毛が辛うじて引っ掛かっていた。こめかみ周辺に残る自分が引っ掻いた痛みが、真魚の予想以上に情けない姿を晒したことを証明している。
「心臓に悪いから止めてよね」
「悪かった。できるなら忘れてくれ」
「忘れたくても忘れられなさそうなんだけど」
「そうだよな。忘れられなかったんだよな」
解放された右手で撫でたところで痛みはすぐに引くことはない。寧ろ今はそれでいいと薄っぺらな意地を張って、渡は真魚と正面から相対する。すべてを失った今だからこそ今までの自分が見ないふりをしていた本質に気づくことができた。
「何の話?」
「お陰でようやく俺は俺が分かったってこと」
それは真魚のお眼鏡に適うであろう、あまりに情けなくて独りよがりの思考基準。そこには最初からカインもあの時助けてくれたドルモンも介在していない。何故なら自分のルーツはあのドルモンによって生き延びた瞬間の希望ではなく、それまでの死に瀕していた時間に熟成された、かつて憧れた信条に裏切られたことに対する絶望だったのだから。
「――俺はただ、父さんのようにはなりたくなかっただけなんだ」
ああはなりたくなかった。あんな風には死にたくなかった。だからあの人が目の前で破り捨てた信条を道標に生きることで遠ざかろうとした。あの人によって育てられたあの人と同じ血が流れている人間だという事実から少しでも逃げようとした。
「だから俺は拓真には勝てるはずもなかったんだ」
父親のエゴによって死の淵に立たされた。同じ無様は晒したくないと走った未来で、自分のエゴが人類の文明を壊した責任を取って孫が戦っている。そんな事実を突き付けられて、代償行為という建前を振りかざせただけよくやった方だろう。
「話してくれてありがと。ちゃんと情けない理由で安心した」
「返す言葉もない」
リタイアして何も背負うものが無くなったからこそ、弟切拓真と相対して抉られた傷を自分の手でほじくり返すことができた。両手を自分の血で染めて手に入れた答えは毒にしかならなかった無価値なものだったけれど。
「――なるほど。それがルートがいつの間にか見失った、弟切渡という人間の本質なんだね」
その答えに価値を認める声がこの場に一つだけ存在した。いや、今この瞬間に出現した。
「え、誰? というかどこから聞こえてるの?」
「……久しぶりだな。カインとの契約以来か?」
この場に居ない何者かの声に対する反応はきれいに二分されている。真魚は困惑と恐怖を隠しきれずに視線を右往左往させるが、渡は机の一点を見つめたまま静かにその声に応えた。
「だから何なのか教えてって」
「俺のチュートリアル用のボットだ」
「正確には弟切渡と逢坂鈴音のね」
初めて未来の世界に飛ばされたとき訳も分からない渡にチュートリアルらしくモンスターとの契約まで案内したのがこのボットだった。出会いはあの一度切りだったが鬱陶しかったことだけは渡も色濃く覚えている。声の正体を看破したところで、真魚はインチキな霊能力者を見るような目で見つめるばかり。コミュニティに参加した当初にチュートリアルのボットの話を持ち出したときもこんな感じの視線で貫かれたことを思い出した。
「真魚の目が厳しいんだが。なんとかしてくれないか」
「そうだね。声だけというのもそろそろ失礼かな」
「自覚があるなら姿を現せっての」
いたたまれない視線に対する渡の解決策。人の心が分からないボットの心にもない礼儀。恐怖と興味と疎外感がごちゃ混ぜになった真魚の苛立ち。三者三様の思惑はあれど話を進めるための結論は一つだけ。
「では、君のを拝借するよ。小川真魚」
「え、何を?」
その術を知り実行できるのはボットだけ。その行動がなんであろうと遮る術は他の二人にはなく、疑問符を抱く頃には既に手遅れになっている。
「期限切れの通行証なんて、君にはもう不要だろう」
最後通告とともに机に置いていた真魚のX-Passの表面に特大のノイズが走る。ただの板切れになって久しいその表面の変化に反応するより早く、真魚のX-Passだったものはついに板切れであることすら放棄する。
「は?」
真魚のX-Passが一瞬で砂の山に変わった。まるでX-Passという形態を維持するための魔法が解けたように脆く崩れて、風が吹けば無くなってしまいそうな塵が机に盛られているだけ。
「え、ちょ……え……」
現代において自信がトラベラーだったことを示す証拠品。それがあまりに呆気なく失われた事実に真魚は力なく椅子に体重を預けることしかできない。
そもそも既に契約が切れた残骸の扱いに彼女の意思など関与できる筈もなかった。その砂粒に契約のカードとしての役割を与える魔法があるのだとしたら、それを解体し別の媒体にするための魔法を掛けられる存在の立ち位置はトラベラーやレジスタンスとも異なるのだから。
「これで少しは様になったかな」
机の上で腕を組む小さな人型は赤い眼鏡を掛けた白衣を羽織った女性だった。細身の体格ながら出るところは出ていたシルエットには重力に逆らうだけの力は落ちているのが見えて、肌も白いというよりは病的な方向に進化している。黒の長髪には少しパサつきが目立つようになり、目元には隠しきれない皺や隈が刻まれている。
それでもなお若さという全盛期から劣ったという印象を受けないのはそれ以上に尖った印象を与えるからだろう。伸びなくなった背筋も、眼鏡の奥の陰が強くなった視線も、蠱惑的というよりは嗜虐的にも一歩踏み込んだ人でなしの表情を彩るスパイスになっている。二回り以上年齢を重ねればこうなるのだろうと納得できる程に、白衣の女の表情はあまりにも二人にとっては馴染みのあるものだった。
「あんたまさか……」
「鈴音さんか!?」
弟切渡が人でなしの道を選ぼうとも味方で居てくれた人でなしの、完全に人ですらなくなった姿がそこにあった。
「過去の私よりも素直なリアクションをありがとう。――厳密には渡くんの残骸がルートになった世界線の逢坂鈴音の末路だ」
年甲斐もない大仰な拍手のモーションに若干の苛立ちを覚える感覚は逢坂鈴音と相対したときに覚えたそれと重なり、煽るような言い回しは渡に見知らぬ世界で初めての話し相手に喧嘩腰になったときの感覚を思い出させる。
「というかその白衣、俺がX-Passを拾ったときの」
「名演技だっただろう。あのサイズのアバターを出せる時間は限られていたけど奮発した甲斐があったよ」
頼りになるが癪に障る戦友と同時に渡の脳に過ったのはそもそものトラベラーになるきっかけ。X-Passを交通系のICカードか何かと勘違いしたのは今になると笑い話にもならないが、わざわざ拾わせるためにひと手間掛けられたことを語られても何一つ笑えない。
「ところで……あんたどういう状態?」
「意識だけの情報体とでも言うのかな。ただモンスターよりもさらに抽象的なレイヤーに属する概念だろうね。お陰様でセルを経由した時空間移動にも不便はないけれどセルによる事象再現は不得手でね。『神の触手』に接触した際に転写した当時の姿を持ってくるのが精いっぱいだったよ。いやあ、あの時は流石の私もやらかしたかと思ったね。前処理を徹底していたから、『神の触手』そのものに干渉しないようにはできたけれど、一歩間違えれば大惨事だったんだろうね。あっはっは」
「さっきから何の話をしてるんだ?」
「私については幽霊みたいなものだと思ってくれってことだよ。あ、ルートを名乗ってる君の残骸も似たようなものか。本来は冷静沈着なお姉さんだった私でこれなんだから、最後まで拗らせた君は盛大にやらかす訳だね」
デリカシー皆無の言葉の羅列を前にして、渡の脳内には二重の失望が渦巻いていた。一つは白衣の女というアバターに対するもの。白状すると、渡はトラベラーになった日のことを大事な分岐点だと記憶していた。そこにはきっかけとなったあの白衣の女も含まれており、再会して正体を突き止める日が来るのを期待していた。今日までの熟成期間の間に理想化していたのはこちらの勝手だが、しらけるような種明かしをされると砕かれた理想の捨て方すら分からなくなる。
もう一つは中身の素性に対するもの。これが逢坂鈴音の末路だと言われて薄々納得できてしまううえで、致命的な破綻が悪化している事実に涙が零れそうになる。年を重ねて何か吹っ切れたのか、白衣の女は現代の逢坂鈴音よりどこかテンションが高く、おちょくるような言い回しは人を辞めるタイミングで人として大事なものを失ったことを痛感させた。それに彼女自身が自覚したうえでこの振る舞いなのがなおさらタチが悪い。
「さっきからお前は俺の残骸がルートだと言っていたが、あれはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ」
いくら要領の掴めない専門的な話であっても、話している相手の素性のせいでメンタルがゴリゴリに削られていても、聞き逃してはいけない言葉を判別する力だけは渡には残っている。弟切拓真はルートの正体を弟切渡の成れの果てだと推測した。そして目の前の白衣の女も残骸という酷似した表現を使った。彼女自身が逢坂鈴音の末路を自称している以上その言葉の重みも段違いだ。
「やっぱり俺の未来の姿がルートなのか」
「私個人としては否定したいけど、そういった見方もできなくもないね」
「なんだその言い回しは……結局違うのか?」
ここまで饒舌に話しておいて急に歯切れが悪くなるのが癪に障るが、それだけ重要なことだと白衣の女は認識してくれているようだ。そこまで言葉を慎重に選ぶ理由は彼女にしか分からないが。
「そうだね。流石に正確な解答をしよう。――ルートは試作型モンスター第三十一号が弟切渡を捕食し、私達のチームが作成したタイムマシンを取り込んで生まれた存在だ」
四十秒の沈黙の後、白衣の女は先に答えを提示したうえでそこに至る未来の末路を語り始めた。
特異点Fに至る世界線において、逢坂鈴音が弟切渡と出会ったのは二〇四五年。「神の触手」が出現して研究対象となった頃のことだ。逢坂鈴音は精神のデータ化、弟切渡は自己組織化ロボットの研究におけるアプローチとして「神の触手」に可能性を感じて共同研究に取り組んだのがきっかけだった。
研究者仲間からも時折奇異な目で見られる偏屈者どうし気が合ったのか、鈴音はドライな渡の交友関係の中では比較的親しい立ち位置に居座っていた。そんな彼女だからこそ渡の研究に掛ける異常性には感づいていたが、性分故に別段それを咎めることもしなかった。せいぜい口を挟むとしても、奥方から向けられる不満の矢面に立たされた苛立ちが限界を迎えたときだったらしい。
「神の触手」が不可思議な脅威から人類の可能性を広げる研究対象に変わるのに五年。その性質を自己組織化ロボットに応用するのに五年。さらに弟切渡が真に求める要件を満たした自己組織化ロボット――セルが生まれるまでに三年。それまでの期間をある一念のために費やしたのは最早妄念と言ってよいだろう。だが一番近くで見ていた鈴音からすれば、耳障りの良い言葉を並べた計画に見合った成果を上げて研究を継続させるだけの手腕と、そこに潜む個人的な思惑の介在を感知させない理性の方が恐ろしく思えた。
渡の研究成果はモンスターを実体化させるに足る性能を持っていた。「神の触手」に関わる最初の五年の研究の中で、人間とも「神の触手」と異なるレイヤーに属するモンスターの存在の確信と彼らを捕捉する術も掴んでいた。だからモンスターにセルという身体を与えるという目標についてはセルの完成後すぐに達成された。――それでも渡は満足できなかった。
そもそもの話として彼はモンスターにセルという身体を与えて制御することを目的にしていなかった。根底は個人的な執着にあり、それを解消するための再会のみを求めていた。ただそれが不可能なことが頭で理解できる程度には時間が掛かり過ぎていた。
それでも諦めきれなかった彼が選択したのは代償行為のための相手を生み出すこと。セルの研究と並行してモンスターの研究も独自に進めていた彼はモンスターが子孫を残すためのシステムに着目した。モンスターは寿命を迎えたタイミングでタマゴにあたるデータを残すことを利用し、用意した鋳型に収まるに相応しいモンスターをタマゴから用意することにしたのだ。
「幼き日に見たドルモン」に至るための実験体のうち成功例と呼べる個体が出来たのは新たな研究を始めてから二年経った頃。その頃にはセルの研究も一般利用に向けた段階に移行し、生産工場も稼働しつつあった。成長期(チャイルド)まで到達した実験体三十一号がドルモンという種に進化したのを見た弟切渡は満足して油断した。
カプセルから解放された三十一号が真っ先にしたのは生みの親を食い殺すことだった。不自然な程に無防備に食われた弟切渡はそのまま死亡し、その意識は三十一号に取り込まれてしまった。――それが三十一号にとっても最大の失敗だった。
モンスターは知性体の意識や知識などの情報を喰らい取り込む。捕食したものがモンスターであればその特性や経験値を元に次の進化に繋がるのだけだが、異なる知性体――言ってしまえば人間を取り込んだ場合その影響を受けるケースは多い。現代の弟切渡と小川真魚が目撃した例では霞上響花とナーダが該当し、もし渡達にまだトラベラーとしての資格があったならば綿貫椎奈という新たな一例と相対することもあっただろう。
何十年もの妄執を抱えた人間を捕食した場合、影響を受ける振れ幅が大きくなってもおかしくはない。おまけにセルに関する最上級の知識や「神の触手」に関する技術者の研究者の人脈も取り込んでしまったのならば何をしでかしてもおかしくはない。
そうして真っ先に食われたのが「神の触手」を応用してタイムマシンをほぼ完成させていた逢坂鈴音だった。彼女の意識と記憶を取り込んだことで、タイムマシンを乗っ取り同化すること――ルートとして完成することに成功してしまった。
「で、私がなんとか自我を取り戻して独立した意識の領域を確保する頃には、既に各地のセルの生産工場の権限を握られて過剰稼働で生産されたセルでモンスターが大量に実体化。セル自体に手を加えられていたのか、手綱を失った化け物に人類は追い詰められる羽目になったわけだね」
「ちょっと待って、頭がパンクしそうなんだけど」
「気持ちは分かるよ。単純なモンスターのリアライズに留まらず、私から奪ったタイムマシンで過去の人間をモンスターの成長の楔として送り込むなんて流石の私も考えつかなかったんだから。本当に参っちゃうよね。あっはっは」
「馬鹿にしてる? まったく笑えないことだけは分かるから」
長い語りの終わりは責任の一端を担う女の無責任な笑い声。話の途中から頭を抱えていた真魚は心底軽蔑したような目で白衣の女を睨みつける。それが何の意味も持たないことは互いに分かっていても、パンクした思考からの逃避も兼ねているため止められない。
「はあ……これくらい神経が太くないと自我も取り戻せないのかもね」
「『神の触手』とタイムマシンの研究の第一人者だからね。ルートが完成したタイミングで『神の触手』の側から呼び起こすシグナルを送ることくらいはできる。そこから先は私の自我が強かったのも大きいけども」
呆れ混じりの煽りを意に介さない程度の図太さは最低限必要だということだけは真魚も理解できた。さらに煽る気力もそれが効果的に働く目算もなくなったので、これ以上彼女から口を開くことはなくなった。
「結局は自我の強さが物を言うのか」
「何が言いたいのかな?」
代わりに唯一の急所を叩いたのは渡の覇気のない一言。白衣の女の言葉に僅かに棘が生えたのを見逃さず、渡は僅かに苛立ちを込めた声で吐き捨てる。
「どう言葉を変えたところで変わらないんだろ」
「そういう君こそ端的に口にすべきだ」
キャッチボールと言うには肩に力が入っている言葉の投げかけ合い。それでもその言葉に感情が乗っているのであれば互いの言葉の棘の形くらいは掴める。
「――結局ルートは俺なんじゃないのか?」
渡の苛立ちは白衣の女が語った内容に関するもの。彼女が間近で見てきた妄念は本物で、その意識と記憶を喰らって取り込まれた妄念の代行者も結局は弟切渡の成れの果てと呼ぶしかないのではないか。
「説明しただろう。ルートは弟切渡が抱えた妄執に影響を受けた思考の方向性に過ぎないと」
白衣の女の不満の矛先はそれを否定するための説明を聞いてなお、未だ渡がルートを自分と同一視しようとしている態度そのもの。彼女がこの場に現れたのも渡自身がルートとの違いを口にしたからなのに、自分が発した言葉を聞かなかったように振る舞う姿が滑稽を通り越して無様だった。
「あれはもう特定の個体に対する感傷を失ったよ。ドルモンという種すら超えて、モンスターという生命がセルという身体を持つ世界を維持するためのシステムと化したんだ」
少なくとも自分を捕食した生物の末路のことを自分と重ねて悩むような感性は持ち合わせていない。仮に感情が残っているとしても、それはシステムとして許容できない存在に対する敵意だけだ。そのアラートだけはXとしての弟切拓真と相対したときにX-Passを介して渡達も浴びているはずだ。
「なんで、断言できる」
「そこで頭を抱えていた人を選出するくらいには耄碌していたから……と言っても伝わらないだろうね」
「ならなんで口にした」
「これでも気を使ったつもりで……いや、あー……うん、失敬。今のは忘れてくれ」
最大の失言を口にしてようやく白衣の女は自分が久しぶりに人間らしい感情を発露したことに気づく。彼女だけが知る世界での人間関係に触れたところで意味はないのに。
「期待はするなよ」
「手厳しいね」
「ああ、そうだ……『君』相手に気を遣うのも『私』らしくないか」
今さら柄にもなく熱を持ったことに軽く笑みを浮かべ、白衣の女は渡と改めて向き合う。彼自身が見つけた答えを真正面からぶつけるために。
「『ただ父親のようにはなりたくなかった』と、君は確かに言ったね」
それが今までの自分の深奥にある脆くて腐った芯なのだと渡は自分の口で言った筈だ。数分前に吐き出したその言葉こそこの場の誰も忘れることは許されない。
「ルートの思考にはそんなくだらなくて情けない感情は存在しなかったよ」
それは一度ルートに取り込まれていた白衣の女には心当たりのない行動原理だった。
「少なくとも、今の私が対話している弟切渡は生前の私が見てきた弟切渡とはまったくの別人だ」
そして、彼女がまだ逢坂鈴音だった頃には表出しないままに腐り落ちた人間らしさだった。
「二つの世界線に跨って君に興味を持って近づいた女が保証しよう。――君は私の世界の弟切渡とは違う答えを選び取る」
「俺は選んでいいのか」
「それを選ぶのは君自身だ」
「そうか……」
体のいい理由を解体してその奥に隠した本当の軸を掘り当てる。堅物を気取る人間がようやく自分を見つめなおす第一歩を踏み出せたのなら、その足はもっと自由な道を歩けるだろう。
「存分に考えるといい。それだけで私の介入の意義はあったと言える」
これ以上エールとしての言葉を送る意味もないだろう。顎に手を置いて思索に耽る渡を一瞥して、白衣の女は静かに睨みつけている相手に向き直る。
「そろそろ君も何か言いたそうだね、小川真魚」
「聞きたそうって言わない辺り、私のこともよく分かってるじゃん」
抱えている苛立ちと不満を口角の歪みに変えて真魚は笑う。自分がトラベラーだった証拠は白衣の女がその身で奪い去った。正真正銘の部外者に落とされた立場として、堅物で口下手な当事者の代わりに言ってやらねば気が済まないことが山ほどある。
「じゃあ遠慮なく言わせてもらうけど……結局あんた何様?」
「ようやく咀嚼できたと思ったら随分口が悪いね」
「いい加減何が目的か明かせって言ってるの」
単純に態度が気に食わない。ともに仲間として戦った逢坂鈴音ならまだしも、自分の目的を明かさないまま裏で手を引いておいて、今さら何様のつもりでご高説を宣いにきたのか。
「最初からあんたは渡とこの世界のあんたを巻き込むために動いていたってことでいいのよね?」
「自らスカウトするくらいの責任と行動力はあるからね」
「二人に何をさせたかったの? 二人を使って何をしたかったの?」
白衣の女がチュートリアルとして介入したのは渡と鈴音だけ。渡が彼女の手引きでトラベラーになった以上、鈴音も詳細は違えど経緯は同じはず。ルートが無差別的にばらまいたX-Passでトラベラーになった自分達とは違い、この二人は白衣の女が何らかの思惑を持って選んだ。それも自分自身と黒幕の元となった人間となればその腹を探らない訳にはいかない。
「前者については具体的なことは別に何も期待していなかったよ。後者については……そうだね。あえて陳腐な言葉で言うのなら、『復讐』というものになるのかな」
「嘘だ」と叫ぶ声が途中で引っ込んだのは陳腐な「復讐」という言葉で真魚にとっては一番咀嚼しやすいものだったから。やけっぱちで不格好なものではあったが、真魚自身も渡に同じ動機をぶつけたことがある。
「……何それ。ただの嫌がらせってこと」
「せめてルートが想定する舞台をかき回したかったってことにしてくれないかな。別に何も仕込みをしなかった訳じゃないし」
どうやら陳腐な表現にも許容できる限度はあるらしい。真魚からして価値のないプライドは突発的な嫌がらせに留まらないだけの計画性があったということ。
「俺がカインと契約することもか」
「もちろん」
弟切渡をトラベラーに仕立て上げたのは自分だと白衣の女は白状した。ならば彼が特別思い入れのあるドルモンという種と契約したのも、彼女が用意したシナリオ通りだと考えるのが自然だ。
「そもそもカインはそこらに居るモンスターじゃない。あれは私がルートから盗み出した三十二番目の実験体だ。そこに私が少し手を加えたうえでタイミングよく解放したんだ。ちょうどいい敵役と合わせてね」
ドルモンに進化した実験体は弟切渡を捕食した三十一番目が最初だが、それで打ち止めしたとは言っていない。並行して育成していた三十二番目の実験体もドルモンに進化するために作られたのだから、その成果が現実になるのも自然なこと。自分の手の内に収めていたはずのその個体を奪って弟切渡の契約相手に仕立て上げるた所業は、確かに嫌がらせという枠組みに収めるには悪質過ぎる。
「俺がカインを見捨てるとは考えなかったのか」
「私なりの信頼の証だよ」
そしてそれは弟切渡という人間性を熟知していて、なおかつ利用することに一切躊躇いのない程度に人間性を捨てたが故のものだ。
「白状するとね、君がカインと契約してさえくれれば後はどう転ぼうとも構わなかったんだ。弟切渡がドルモンと行動をともにするんだ。しかも自ら設定したエネミーは弟切渡の孫である弟切拓真。君がどんな末路を迎えるとしても、その足跡で刻んだ物語はルートにとっては不快極まりないものになるだろうと確信していた」
スタートラインに立たせた段階で白衣の女の目的が果たされることは確定事項になる。チュートリアルのボットとしてのみ介入し、それ以降は役目を終えたとして沈黙を貫いていたのは、単純にすべての仕込みを既に終えていたからに過ぎなかった。
「君が敗北したことでようやくこの事態の収拾もつきそうになったからね」
「どういうことだ?」
それは舞台をかき乱して単純な不快感を与えるだけのランダム性に期待したものに限らない。事態がどう転んでもルートに致命傷を与える布石も打っていた。
「弟切拓真がカインから何かを抜き取ったのを覚えているかな?」
「……ああ」
渡にとって忘れたくとも忘れることのできない光景だ。カインを殺したのは自分の迷いだと理解しているからこそ、今日この日まで心は霧の深い湖の底に沈められ、十数分前にようやく自分の醜さとともに引き上げられたのだから。カインが死んだことで自分と向き合えたという重みと一緒に抱えていくしかない大事な記憶だ。
「あれはキーデータというものでね。あの世界線での弟切渡が隠したセルの技術に関するブラックボックスを開ける鍵だ」
ただ白衣の女の話にとって重要なのは、あの瞬間に渡に刻まれた傷ではなくあの場にあった事実そのもの。大技の撃ちあいで根負けして下半身を失ったカインの胸の奥から拓真が何かを取り出した。その何かの重要性を渡は知る権利すら持っていなかった。
「キーデータは弟切渡の死をトリガーに実験体三十二号――カインに埋め込まれるように手配されていて、ルートにはそれを取り出す術がなくカインごと幽閉するしかなかった。ルートからすれば急所以外の何物でもない代物だよ」
あの世界線の自分が何を思ってキーデータをカインに託したのかも渡には分からない。ただそれはルートにとっては何としても守り通したかったもので、白衣の女にとってはこれ以上ない秘密兵器だった。――そして弟切拓真にとっては己の悲願を叶えるための願望器になるだろう。
「要するに君とカインが負ける結末に至った段階で、レジスタンス側に大きく天秤が傾いた。ルートは慌てて対抗手段を作ろうとしているみたいだけど……まあ、私が想定していたプランの一つとしては上々の結果だね」
これが白衣の女が語った「復讐」の全容。同士の残骸と成り果てた存在に対する継続的な痛みと致命傷に至る遅効性のものによる二段構えの毒。あくまで致命傷がプランの一つだというのならば、彼女はいったい何段構えで組んでいたのか。その全容を探る気は渡にも真魚にも起きはしなかった。
「素直に話し出したと思っておとなしく聞いてたら、さっきからあんたいったい何様で……」
「終わったことだ。別にいい」
「あー……そ。勝手にすれば、もう」
あるのは二人でそれぞれ対照的な温度の感情だけ。真魚は彼女が過去に仕込んだ所業に対する怒りを燃やしていたが、渡はただ冷静に復讐譚を咀嚼したうえで静かに未来を見据えている。こうなると誰かさんの代わりに怒っている真魚の方が馬鹿らしくなっても仕方ない。
「代わりに教えろ。そのキーデータを使って弟切拓真は何をしようとしている?」
渡の矛先は天秤が傾いた側のトップ。白衣の女が想定しているプラン通りに進んでいるのなら、彼が取るであろう行動についても見当がついているだろう。少なくともキーデータを得たことによる生まれた選択肢の中で彼が最も求める答えを知っているはずだ。
「順当に行けば、あの世界線の弟切渡が保険のために想定していた終末装置――デクスモンを完成させるだろうね。すべてを費やしてもお釣りがくるほど彼にとっては魅力的なもののはずだ」
「そうか……」
白衣の女の答えはもはや未来予知と言っても過言ではない。だからこそその言葉の意味を余すことなく咀嚼したうえで、渡はまっすぐと彼女を見据えて口を開く。
「――なあ、もう一度トラベラーになれたりしないか」
それは提案であり懇願ではない。ましてや疑問でもない。確固たる根拠を持った決意だ。
「無理に決まってるでしょ」
「できるんだろ。だから今さら俺の前に来たんじゃないのか?」
「ふむ、こういうところは察しがいいね」
否定の言葉を口にした真魚も渡の推測が正しいことは理解していた。すべて白衣の女の想定通りに行って彼女が立てたプラン内に収まっているのであれば、今さらリタイアした二人の前に顔を出す理由などなかったのだから。
「そもそも君の契約は厳密にはまだ切れていない。でないと君はこの時代に戻ってこられなかったからね。君を巻き込んだ手前、生かして逃がすための仕組みも用意していたという訳だ」
それは白衣の女にごくわずかに残っていた義理という人間性が繋いだ可能性。レジスタンスがX-Passの仕様の裏を突いて安全にリタイアさせる術を持っていたのだから、白衣の女が同等の仕込みを備える技術を持っていないはずもない。
「薄々そんな気はしていた。で、カインはどうなった?」
「あっさりしてるね。まあいいや。……カインという個体は死の間際で凍結している状態だ。アクティブにした瞬間に死に、一般的なモンスターと同様に次代のタマゴを残すだろう」
だが共通しているのはそれが人間だけを守る仕組みだということ。カインにはただその役割を果たすために死を待つ実感すらない時の牢獄に閉じ込めているだけに過ぎない。
「助ける術は……」
「ないよ。タマゴが遺せるだけ御の字なくらいだ」
そもそもカインは本来ならあの時に死んでいる。死の直前の数秒前を切り取って残したところで、その命を助ける術もなければ、白衣の女にはその意思すらない。
「君の選択肢は二つ。カインの時を止めたままあの未来と縁を切るか。或いは、カインを殺して次代のモンスターとともにあの未来に戻るか」
それを知ってなお渡も直情的に怒りをぶつけることはない。ただ彼女が与えた選択肢の意味と重みを汲み取って、最後に残った根本的な疑問だけをぶつける。
「なんで今さら俺に選ばせに来た?」
「さてね。――ただ、君が出した答えは私の知らないものだったよ」
不意に見せた白衣の女の笑みで渡の脳裏に過るのは、彼女の元となった逢坂鈴音の顔。今この瞬間の笑顔だけは記憶の彼女と寸分違わず重なり、彼女に言われたことのないはずの言葉が確信を持った記憶として刻まれる。――やはり彼女はどこまでいってもおかしな人なのだと。
「何よりこれから出す君の答えもおもしろそうだ。舞台をかき乱すのは今でも大歓迎だよ」
「期待に応えられるよう努力はする」
選択肢を提示されても揺れなかった段階で、渡はもう自分が後戻りできない願いを抱いていることを認めるしかなかった。その根底がどれだけくだらなくて情けないものであっても、それを果たすために人生を費やしてもいいと心の底から思ってしまったのだから。
「よろしい。X-Passに手を置いて。君の意識を儀式の場に招待しよう」
だからこれはそのための第一歩。次なる戦いの舞台に立つために負うべき一つ目の咎だ。
そこには新たな契約に必要なものだけしか存在しなかった。自分自身の意識を元に作り上げられたイメージ上の場所だから不要なものはすべてそぎ落とされているのだろう。
一つは意思を行動として示すための自分自身の輪郭。もう一つはそれを為すために白衣の女によって繋がれた存在。
それは渡の目の前で消える直前のものとほとんど同じイメージで佇んでいた。四肢も失い翼ももがれて朽ちた胸像のようにただ虚空を眺めるのは契約相手の最期の姿。
違うとすれば白衣の女が口にした凍結という言葉通りにその時間が完全に止まっていることだろう。知性体としての意識どころか生命としての活動すら行えない。ただそこにあるだけの存在に貶めたことを責める資格などない。
「こんなになるまで付き合わせてごめんな」
噛みしめるように一歩ずつ近づいていく。一切反応がないことが切なくもあり、少しありがたくもあった。これから自分がすることを察して食い殺しに来てくれたのなら、それはそれでよかったのだが。
「お前はすごい奴だった。一緒に戦えて誇らしく思うよ」
足元まで辿り着いて見上げれば、今まで自分が代償行為の相手としてしか見ておらず、ただただ契約を笠に着て力を借りるだけだった存在に圧倒される。――そして、その命を奪う重みに今さら圧し潰されそうになる。
「最悪の契約相手を掴まされたことで白衣の女を恨まないでくれよ。あんなのにはもったいないから」
それでも今さら引き下がることは許されない。その重みを背負って前に進む権利だけは手放してはならない。
「だから、なんだ……今までありがとう。俺の我儘に付き合ってくれて」
そうでなければ自分の言葉すら伝えられない。幼少期に出会ったドルモンでも、食らった相手の思念に吞まれてルートとなったドルモンでもない。トラベラーの弟切渡とともに戦ったカインにだけ向けた本音を話せる最初で最後の機会なのだから。
「おやすみ。地獄で再会するのだけは辞めてくれよ」
静かに、穴の開いた胸に触れる。刺すような冷たさを感じたのは一瞬だけ。掌から与える熱がカインの止まっていた時間を動かして死という崩壊へと進ませる。
「あ――」
熱が混ざり合って溶け合うような時間は永遠のようで一瞬だった。刹那に流れ込んだカインという生命体の本能と思考に晒されながら、渡の意識は押し流されることなくすべてを受け止める。
――悪くはなかった
最後に流れた込んだ感情をそんな言葉で咀嚼したのは願望が生み出した幻聴だろう。そう結論付けて僅かに緩んでしまった口角を持ち上げ、白い灰の中に残った未来に手を伸ばす。
それは確かにタマゴの形をしていた。薄紫の表面に三角形の文様が目立つそのタマゴを抱えてみると、なんとなく鼓動が伝わってきた気がした。
「名前、つけてやらないとな」
意識だけの特殊な状態と言えど契約(ペアリング)で必要な要素は変わらない。経路が繋がったという確信が取れたのなら、後はそれを確立させるための言葉だけ。
「――ごめんな、アベル。俺はお前のためにお前の命を使わない。それでもいいか?」
瞬間、一際強い鼓動が確かに渡の胸を叩いた。次いでタマゴに縦一線の亀裂が走り弾けるように殻が割れる。
「……そうか。ありがとう」
そうして渡の腕の中に収まるのは、あの時のドルモンやカインと同じ紫紺の毛並みの丸い生命。手足もない、ただ硬い毛で覆われただけのか弱い存在を渡は優しく抱きしめた。
ノベルコンが言い訳にならないレベルで遅くなりました。とりあえず個人的なリミットまでに投げられてよかった。
というわけで今回は18話から19話の間の渡の再起の話でした。真魚も姿かたちは違っても鈴音も関与はする形になったので、やはりこの二人がWヒロインなのかもしれない。……性格と圧はあんまりよろしくないですけど。
カインの死の運命を進めてアベルという新たな契約相手を得たことで、弟切渡は以前とは明確に違う男になりました。彼の新たな願いとその顛末まではなんとか書きあげて終わらせたいところです。
では今回はこの辺で。