Episode.2 "トラベラー"
「悪いが、てめえらの冒険はここで終わりだ」
渡はその言葉の意味がすぐには理解できなかった。
突如見知らぬ世界に飛ばされて野性の脅威に殺されかけたと思いきや今度は同じ人間から宣戦布告。一時の思いでトラベラーになったものの、渡はまだ人間相手に戦う理由も覚悟も持ち合わせてはいない。
「耳悪いのか? お前もそこのモンスターもここで始末するって言ってんだ」
「なんでそんなことを言うんだ?」
「俺は優しいからな。人によっちゃあ気づく前に殺されてるぞ」
「そういう意味じゃない」
ようやく相手の意思を理解しても口に出たのはそんな言葉。見た目からして男の素行は良くなさそうだが、ただチンピラが因縁をつけているのとは訳が違うことは理解できた。奴は間違いなく明確な理由を携えて目の前に立ちはだかっている。
「んなことは分かってる。てめえが知りたいのは理由だろ。つってもそんな複雑なことじゃねえよ。――お前がここに居て、そいつと契約(ペアリング)している。理由なんざそれで十分だ」
「待て、まだ納得はしてない」
「知ったことか。――やれ」
渡の思惑を無視して対話の時間は一方的に打ち切られた。男の一言で傍らの黒竜が動き出す。その標的は未だ状況に納得していない渡とその契約相手であるカイン。
「カイン!」
初手は低空飛行で距離を詰めてからの長い腕でのスイング。渡が名を呼びながら右方に飛びのいたのとほぼ同時にカインは逆方向へとステップを踏んで退避。彼らの間を黒い腕が通った直後、カインはその腕に向けて鉄球を放つ。今できる反撃としては上出来。しかし、正確に肘を直撃しても黒竜の動きを止めるには軽すぎる。
「くそ、軽いか」
「ハッ、切り替え速いじゃねえか。……まあこれくらいしてくれないと何も賭けられねえけどな」
男の立場やスタンスは未だに分からない。それでも敵として立っている以上はできる限り抵抗はする。それはカインに対しての指示であり端末の操作によるサポートだ。前者は契約時に繋がったパスを使えば口にせずとも伝わる。だが後者はできることをぶっつけ本番で模索するしかない。
「こいつ……何なんだ」
「ん? もしかしてお前こいつの使い方も知らねえのか。チュートリアル終わったんじゃねえのかよ」
「ああ、聞いてない。契約だけは頭に浮かんだけど、それきりだ」
戦いを少しでも有利にするには黒竜の情報が必要だ。ボットがゴブリモンやオーガモンを解説したのだから、端末には同じように対象のデジモンを知る術があるはず。ただ今の渡はそれを知らず、その術も込みで教えるのがチュートリアルだろうと怒鳴りたくなった。もしここで帰還の術も教えられてないことも思い出していたら我慢の限界は越えていただろう。
「んだよ、本当に訳分かんねえ奴だなお前。ここまでフェアじゃねえと流石に白けるぜ」
「チュートリアルで言われはしたけど、本当にゲームみたいな言い回しする奴が居るとは思わなかったな」
「それ煽りのつもりか? ゲーム……上等じゃねえか。何かを賭けた戦いこそ、俺の性に合ってる」
やれることは戦場の調整と同じ人間に対する場外戦術。空中からのヒットアンドアウェイの合間にカインを前進させ、崖から離れて横の移動範囲は広がりつつある。相手よりも小回りの利く身体のお陰でアウトレンジからの急襲にも対応できている。いや、そう見えていると言った方が的確だろう。安い挑発に乗らない男の余裕がその証拠だ。
「X-Passの使い方くらい教えてやってもいいぜ。ゲームも賭けもある程度フェアな方がおもしろいからな」
「断る」
寧ろ逆に挑発してくる辺り、やはり相手もまだ本気を出させてはいないらしい。それが相手の言うフェアの考えによるものなのか、それとももっと非情な姿勢による揺さぶりなのかは分からない。
「ハッ、本当に変なところで意地張る奴だな」
「お前に意地を張ってる訳じゃない」
それでも渡が挑発に乗っていないことは事実だった。相手との力量差も場数の差も理解している。男の誘いに乗らなかったのも独りよがりの意地ではなく、男の言葉に真摯に応えるためのもの。
「ここで借りを作ったりしたら、それが気になって集中できない。それこそフェアじゃないだろう」
借りができたら必ず返す。それは敵として現れた相手だろうと変わらない。フェアな状況を作るために借りを作ることは渡にしてみれば本末転倒としか考えられなかった。
「何だ、それ? ……おもしろいじゃねぇか。ここで殺すには惜しいくらいおもしれぇよ、弟切渡ッ!」
男が笑うのも当然だ。渡自身この決断が自分に不利益しかもたらさないことは分かっている。それでも渡には頑固者らしく譲れない一線があった。挑発には乗っていない。だが間違いなく意地は張っている。渡は誰でもない自分自身に意地を張っていた。
「で、具体的にどうすんだ? こっちのこと何も知らなくても分かるだろ。今の力量の差ってやつがよ」
実際この決断は悪手だった。渡のスタンスを理解したからか相手も興が乗ってしまったようだ。男が端末に指を滑らせた直後から黒竜の動きは段違いに変わる。
渡の目論み通りに全員の位置は崖から離れ、戦闘の中心も大きくより内側へと移動した。それに伴ってカインの動ける範囲も方向も自由度が高くなった。しかしその身に傷が刻まれる間隔は以前よりも短くなっていた。
上空から黒い竜が仕掛けて腕を振るう度に紅の爪が地をえぐり、カインの身体から毛と血が舞い上がる。そのシーンを見るのはここまでで六度。その間に蓄積されたダメージは動きが鈍るには十分過ぎた。その隙を逃すはずもなく、蹲って動かないカインの真上から黒い竜が仕留めに掛かる。
「こうするんだ」
渡の口からその声が出たのとカインの口から鉄球が放たれたのは同時だった。直前に身体を翻して撃ち出された鉄球の進路には一直線に迫る黒竜が居て、着弾予測地点はその左目に定められていた。既に攻撃のモーションに入っているため気づいたところで対処できない。寧ろ反射的に対応しようとした結果、振り下ろされるはずの黒腕は中途半端に空をかく。決死の反撃は渡とカインの狙い通りの成果をもたらした。
「ハん、いい狙いじゃねえか。だが、片方だけじゃ詰めが甘いんだよなぁ」
だがそこから反撃がつながることはない。その理由は端末に手を掛けた男の未だ余裕の残るその言葉が示していた。
カインの動きがピタリと止まっていたのだ。負傷に耐えられずに倒れたわけでもなく指示を無視した様子もない。つまり原因は外的なもの。事実としてその答えはカインの視線とぶつかり合う黒竜の右眼にあった。
「気づいたみてえだな。その眼で見た相手を拘束する魔眼――『レッドアイ』だ」
「隠してたってことか」
「そうじゃなきゃ奥の手の意味がないからな」
カインの鉄球のような種族固有の力。それを知る術はあった筈だが渡はその術自体を知らなかった。もし予め知っていれば何かしらの手を打つことができたはず。いや、知る術がないことを明かしてしまったこと自体が悪手だった。モンスターの力量差だけでなくトラベラーとしての戦闘経験の差が大きくあることを渡は最悪のタイミングで思い知った。
「一矢報いたことは称賛してやるよ。だが、ここまでみてえだな」
動けないカインの上に黒竜の右足が圧しつけられる。逃げ場のない完全な詰み。カインの未来は圧死するか、爪で丁寧に切り裂かれるかの二択に定まった。それが終われば渡の命もすぐに刈り取られるだろう。
「俺達がここまでだと……」
「俺はてめえのこと嫌いじゃなかったぜ――やれ」
その言葉とともに渡の視線は地に落ちる。右手は痛みを抑えるように左手首に被さり、死にかけているカインの姿はその目に映っていない。この程度か。そう結論づけて男は黒竜に最後の命令を下す。
「……あン?」
だがカインは潰されない。十秒経っても、二十秒経っても、その軟弱なはずの身体から内側のものが押し出されることはない。寧ろその小さな身体は力強い唸り声を上げて黒い足を押し返していた。
「てめえ、何をした」
「X-Pass(これ)の光ってる球を一つ使って力を与えた。おかげで残り一つだ」
「『ブラスト』か。さっきのは名演技だったぜ。騙された」
「悪いな。使い方も知らないのかって言われる前に偶然探り当ててたんだよ。奥の手は隠すものだろ」
「ハッ、違いねえ。これは一本取られた」
最初に見たときはすべて透明だった球が二つ光っていることに気づいたのもその時だ。点灯したのは契約(ペアリング)した後かオーガモンを食ったときだろう。何を要因として点灯し、何を意味するのか。それは分からないが今重要なことではない。カインがまた立ち上がれた理由も今は知らなくていい。重要なのは渡がそれを使ってカインに力をもたらしたということだけだ。
「俺達はここまでじゃない。このまま終われない。そうだろ、カイン」
渡の声に応えるようにカインが力強く立ち上がる。その身体からは光が迸り、右足の焼け焦げるような熱に黒竜は慌てて飛び退いた。
「だってまだ何もできていないんだから――」
光は瞬く度に強くなり全員の視界を奪う白光となる。視覚から情報を得ることができなくても渡にはその光の中でカインに何が起こっているのかは分かっていた。最初に会ったゴブリモンがオーガモンになったのと同じ現象。――あのボットはそれを「進化」と呼んでいた。
「俺達の冒険は今ここから始まるんだ!」
光が晴れる。その中心に居たのは今までのカインとは似て非なる存在だった。全体のシルエットはほぼそのままに身体が一回り成長。濃紺の体毛に覆われたその身体で以前と最も大きく違うのは背中に生えた翼だろう。それはより幅広い敵に対応して様々な角度から獲物を狩るための翼。そして、この苦境を脱してもっと遠い場所へ行くための翼だ。
「『進化』か。これを見越しての『ブラスト』だったってのかよ」
「さあどうだろうな」
無論、偶然の産物だ。だがその偶然を引き当てられたのは渡自身の模索と決断があってこそ。ならばこれは必然と同等だ。いつだって勝利はそれを諦めない者にのみ手にする権利がある。
「いいねえ。これでやっと、こいつ相手でも何かしら賭ける価値のある相手になったってもんだ。勝利の報酬に何が欲しい? 与えられるもんなら与えてやるよ。ただ何を求めるにしても殺す気で掛かってこい!」
「何も。ただお前は邪魔だ」
第二ラウンド開始。カインは天高く飛翔し、黒竜もそれに遅れることなく空を翔る。
濃紺の獣竜と黒い邪竜が空を踊る。それが交差する寸前には鉄球の雨と漆黒の突風が地に落ちる。渡と男の元にもそれらは飛来するが本人に届く寸前に見えない壁に弾かれたように軌道が逸れた。これも契約(ペアリング)の恩恵ということか。空中の戦況が手に取るように分かるのも同じような恩恵なのだろう。
繋がっているから分かる。戦況はカインの方が有利だ。「進化」によって底上げされた地力は黒竜を上回っている。「進化」以前と同じように吐き出せる鉄球は強烈な突風も鋭利な爪も寄せ付けず、ただ着実に黒竜の身体を痛めつけている。逆に仕掛けられる突風は軽々と乗りこなし、振るわれる爪は身軽に避けてその手首に食らいつく。妙なことに、経験の差が渡と男のそれとは正反対に感じ取れる光景がそこにはあった。
「これはまずそうだな」
男が端末を操作しながら漏らした言葉はブラフか本音か。それを見抜くことは渡にはできない。だが仮に分かったとしても些細なことだ。今はこの有利な状況の間に畳み掛けて一気に仕留めるだけ。
渡の思いに呼応するようにカインの動きがより素早く的確になる。勢いよく飛び上がって陣取るのは黒竜の真上。その背中に照準を定めつつ、とどめの一撃のために一瞬溜める。
「ハッ、隙を見せたか」
その瞬間、黒竜が不意にカインの方を振り向いた。だが攻撃のモーションに入る様子はない。しかし、間違いなく男の指示である以上は何か仕掛けているはずだ。
「『レッドアイ』か」
「ご名答」
それはかつてカインの動きを完全に止めた赤い魔眼。ここでカインの動きが止まるのは戦況が逆転するには十分過ぎる一手。ましてやカインが今いる場所は空中だ。黒竜が何もせずとも自由落下という大自然からの攻撃が待っている。
「確かにそれには一度苦しめられた」
カインの両翼が動く。身体が空を掴み、高度を現在地で固定する。口が開き、その奥に生成した特大の鉄球を覗かせる。
「けど、それはもう通じない。片目だけで止まるほど今のあいつは弱くない」
勢いよく飛び出す鉄球は重力という加護を得て黒竜の身体を大きく抉る。二つに別れた身体はそれぞれ落下。十秒ほど遅れて舞い降りたカインのクッションにして今回の報酬へと変わった。
「俺達の勝ちだ。悪いが先に喧嘩を売ったのはそっちだ。覚悟くらいはあっただろう」
黒竜は死んだ。男とそいつとの契約も断たれた。男の望む勝負には応えたのだ。彼がこの後どうなるかなど渡の知るところではない。渡がどれだけ義理堅くても、男に対してアフターケアをするほどお人好しではないのだから。
「ああ、俺の負けだ。惨敗だ。認めるよ、くそったれ」
「気持ちは察する。だが、こっちも色々聞く権利はあるはずだ。洗いざらい答えてもらう」
視線を落として名残惜しそうに端末に手を掛ける男に渡は極めて冷静に言葉を投げる。喧嘩を売ってきて殺しあった相手でも今の彼は貴重な情報源だ。非情だとしても対抗する術のない今この状況で知っていることすべてを吐いてもらう。そうでなければ渡も流石に納得ができない。
「聞く権利か。確かにあるな。それを賭けの対価として求められてたら応えるのが矜持ってもんだ。……でも、てめえはそうしなかったよな」
「何を言っ」
男の言葉の意味は最後まで問い質すまでもなく渡自身の目で理解した。
男の身体は少しずつ透けつつあった。まるでこの場から居なくなるような現象。何が起こっているのか渡はすぐに理解できず、その混乱に時間を費やしたせいで既に打てる手は尽きていた。
「別に死ぬ訳じゃねえから安心しろ。ただ俺ん家に帰るだけだ」
「逃げるのか」
「そういうこった」
なんてことはない帰還。そう、契約(ペアリング)したトラベラーには自分達の世界へ帰還する術があるとボットも言っていた。そうモンスターと契約(ペアリング)しているトラベラーならば。
「待て。あの黒い竜は死んで契約(ペアリング)は切れたはずだ」
「デビドラモンのことか。……さあな。自分で考えろ」
「お前っ……」
「俺の名前くらいは教えてやるよ。――黒木場(クロキバ)秋人(アキト)。覚えといてくれよ、渡」
「待てっ、おい!」
こうして柄の悪い男――黒木場秋人は言いたいことだけ言って、その姿を跡形もなくかき消した。戦いに勝利はした。だが、達成感の無いやりきれない思いだけが渡の胸中で渦巻いていた。
「くそっ」
何とも後味の良くない結末に渡は足下の石を蹴り飛ばす。その石が放物線を描いて地を蹴ること二度。最終の着地点はカインの足元で、黒竜を食い終えた直後のカインは視線をその石に向けていた。
「あ」
何の指示を出す間もなくカインはその石を手で弾く。再び勢いよく転がる石。何を思ったのかそれを追いかけるカイン。追いついたと思いきやまた弾き飛ばしてはその石を追いかける。
「何やってんだか」
時間の無駄にしか思えない行動のループ。だが、その様を眺めるのも意外と悪くはない。ちょっとした無駄な余暇が張りつめた心にゆとりを持たせてくれたようだった。
「俺も帰るか」
X-Passを操作すること五分。それらしき文言が小さな画面に表示された。「OK」にカーソルを合わせて左端のボタンを押した瞬間、自分の存在に変化が起こりはじめたことに気づく。意識はあるのに存在が薄れつつある奇妙な感覚は正に先ほど黒木場秋人に起きた現象を体感しているイメージに等しい。どうやらコマンドは正しく機能したようだ。
「あれ、カイン?」
帰還できる実感に安心したところで契約相手の扱いに思考が回る。この世界に置いてけぼりになるのか、はたまた一緒に慣れ親しんだ世界に戻ってしまうのか。しかし、当のカインの姿はいつのまにか消失していて、渡がその理由を考えようとする頃には渡自身の存在がこの世界から消えていた。
渡が自分自身の存在を再び知覚できたとき、その身体は慣れ親しんだ最寄り駅の改札前にあった。視覚から入った情報から現在地を理解したタイミングで背中を強く押される。振り向いた先には不機嫌そうなサラリーマンが居て、怒られるより早く逃げるように脇に逸れた。
窓から覗く外の空は暗くなりつつあり、それはちょうど渡がこの駅から一度姿を消す前に見た空から一時間ほど経った後の風景とするのが妥当だった。
一時間。異界での濃厚な時間は実際それくらいだったのだろう。その一時間で二度死にかけたのだから、今までの日常がどれだけ安全に整備されたものなのかを思い知った。
「やっぱりか」
端の壁に寄り添って自分の姿を鑑みると、そこにはあの異界での自分がそのまま居た。学生服は砂にまみれてローファーの底はいつもよりも減っている。
ただ一点違うことは左腕に固定されていた端末が消失し、代わりに白銀の背景に青いXの文字という端末を想起させる配色のカードが右手に握られていることだけ。無論、デザインの傾向は異界に飛ばされる前に手にしたものと酷似している。
やはり端末はあのとき手にしたカードが変化したものだった。X-Passは異界では端末であり、この世界ではカードであると認めなくてはいけないらしい。「異界への通行証」にはそれをばらまく裏組織が居るという、寛治が口にした仮説を信じそうになり頭が痛くなった。
「ん」
カードに関して気になる事項がもう一つ。それは大きく刻まれたXの文字の左横。そこには薄紫のタイルを並べたような奇妙な模様があった。配色と同じく契約(ペアリング)によって起こった変化だろうか。それにしても初めて見た気がしない。遠目で見ると何かの怪獣を象っているようにも見える。記憶の中で一番近いのは「進化」以前のカインの姿だが、果たして本当にカインそのものなのか。
「カインか?」
思わず出た声に模様が動いたように見えた。渡の気が触れていないのならばおそらくビンゴだろう。原理はさっぱり分からない。渡にできるのは、近い場所で目立たない姿で居てくれることに感謝することだけだった。
「はぁ……帰ろう」
この一時間で三日分は一気に疲れた気がする。未だに分からないことも多く今後のことも不明瞭。それでも今日一日の残り時間くらいはゆるりとした日常を取り戻したい。軽くトラウマになりそうな改札から背を向けて駅の出口目指して歩き出す。
「あ」
その歩みは二歩目で止まった。ついでに渡の思考も二秒ほど止まった。
理由はある衝撃的なシルエットを目にしたから。それは白衣の女。駅では異質な出で立ちの彼女は紛れもなく渡の一時間を地獄に変えたカードの落とし主だった。
「あいつ……おい! そこの女、待てっ!!」
冷静さも気遣いも一瞬で吹っ飛んだ。通報されかねない怒鳴り声とともに襲いかかる勢いで一直線。その背中に突き刺すような勢いで右手に握りしめたカードを突き出す。
「お前っ、これはどういう……」
そこまでで渡の蛮行は止まった。女の反撃が強かったわけでも、勇敢な第三者が介入したわけでもない。ただ渡自身の思考が勝手にフリーズして動きが止まっただけだ。
無理もない。怒りを向けていた筈の白衣の女はいつのまにか消えていて、代わりに同じくらいの背丈のスタイルの良い女が顎に手を当ててこちらを見ていたのだから。
ベージュのベレー帽に黄色のカーディガンと黒のロングスカートといった装い。背丈と服装から近隣の大学に通う女子大生と推測するのが妥当だろうか。彼女は赤いフレームの眼鏡越しにこちらに視線を注いでいるが睨んでいるようでもなかった。しかし、こちらをねっとりと観察するような視線を向けられるのはあまり居心地がよくない。まるで先程の暴走を糾弾されているようだ。
「――なるほど、君もトラベラーか。何故怒鳴られたのかは分からないけれど、その辺りも含めてじっくり話を聞きたいね。ただここでは話がしづらそうかな……ちょうどいい。場所を移そう」
彼女なりに結論を出したところでその女は渡を先導するように背を向けて歩き出す。一切怒ることもなく、最後に向けられたのは悪意は無いがどこか怪しい笑み。彼女の思惑は分からないが渡にはその後をついていくことしかできなかった。
八塚駅近くのモール。時間が時間だけに、平日であっても家族連れを中心に夕食を求める人々でそれなりの人口密度がある。かくいう渡自身もモール内に店を構えるカフェに腰を落ち着けていた。だが夕食は家で用意されていることもあり、彼自身はコーヒーをスローペースで啜っているだけだ。健康的な男子高校生である渡もいつもならメニューに目が眩んでついつい遅い間食を取りそうになるもの。しかし、今この時だけは渡の食欲はゼロ。いや軽い吐き気に似たものも抱えているためマイナスと言っていい程の状況だった。
「君も何か頼めばいい。流石にお腹が空く時間だろう」
「いや……結構です」
理由は目の前で淡々と食事をする女性とその食事内容だった。彼女が口にしているのはこの店自慢のハワイアンパンケーキ。小ぶりで薄いパンケーキ三枚の上にはココナッツとマンゴー、そして大迫力のホイップクリーム。それだけなら渡も同じものを頼むこともあっただろう。だがそこに三種類のシロップを一瓶ずつ――ここでの瓶は一般的な牛乳瓶と同程度の容量とする――注がれたらどうだろうか。結論から言うとそこにはシロップで味に深みが出たパンケーキではなく、シロップに侵食されてぐずぐずになったパンケーキの成れの果てがあった。
確かに「お好みのシロップをかけてください」というメッセージは書いてある。三種類それぞれをブレンドするのも多目に見よう。しかし三種類の瓶すべてが空になるまで使うのはやり過ぎだ。彼女の味覚が狂っているのか。そもそも頭がおかしいのか。
「うん、糖分が身体に染み渡る。君も一口どうかな。お姉さんがあーんしてあげよう」
「謹んでお断りします」
「そうか。ならば代わりにそのコーヒーをもっと美味しくしてあげよう」
「ゲル状になるまで紅茶に角砂糖入れた人間の味覚を信用しろと?」
前者は確実だろう。後者は何とも言えないが、少なくとも人の顔を伺うことがないのは確実だ。それは渡の姿勢に一切動じない姿からも感じ取れるし、何より店長の奇異と怒りに満ちた視線を完全にシャットアウトしていることからも分かる。
「やはりそれが君の素(す)か」
「あ……すみません」
「別に敬語は使わなくて構わないよ。私はただ君に興味があるだけなのだから」
「分かった。こっちも隠し事は無しだ」
「それはありがたい。いや話が通じる相手で良かったよ」
ただ一方で人を観察する力には長けているようだ。コントのようなやり取りすら渡の本音を引き出すためのアプローチ。ファーストコンタクトの段階から既に術中に嵌まっていたようなものなのだから話術では相手の方が上手だと認めるしかない。情報面のアドバンテージを推し量って有利に進めるなど無理な話だろう。
「まずは自己紹介かな。――私は逢坂(アイサカ)鈴音(スズネ)。気軽にスズ姉さんとでも呼んでくれ」
「弟切渡だ。よろしく、逢坂さん」
「渡君はどうもノリが悪いね。まあいいや。同じトラベラーとしてよろしく」
軽い雰囲気は思考の深さによる余裕か。口にはしつつもこちらのノリの悪さで対応を変えることもなく、鈴音は渡が持つものによく似たカードを取り出してこちらに向ける。黄色の背景に黒いX。これが鈴音のX-Passで、Xの横に描かれた羽虫のような模様が彼女の契約相手らしい。
「遅くなったけど、さっきは悪かった」
「別にいいよ。私は過去にはあまり拘らない性格なんだ。今はそれよりするべき話があるだろう」
渡も同じように自分のX-Passを提示。トラベラーなりの挨拶というところだろう。互いをトラベラーとして扱うという示し合わせはつまり、これから話す内容もその立場に準ずるものであるという宣言だ。
「先に言っておくとこっちが知ってることはたいしたことないぞ。それこそ実際に笑われるくらいだから」
「なるほど。ならば君が知っていることを先に聞こう。私がそこに補足を入れるというかたちで問題ないね」
やるべきことは情報交換。とはいってもおそらくは一方的なものになるだろう。口も上手く情報量のある相手でもここは素直にしておく。鈴音は性格の癖は強く頭もまわるようだが、ここで自分を騙すような人間ではないという点には確信に近いものがあった。
「すべてはこのX-Passとそこから話しかけてきた不愉快なボットから始まった」
そう切り出して渡は異界で過ごした一時間について話し出す。話せる情報の大半はボットの説明不十分なチュートリアル。モンスターの存在と自分たちを繋ぐ契約(ペアリング)。あとは秋人が「ブラスト」と呼んでいたモンスターに力を与える手段と、モンスター自身がより強大な存在へと変わる「進化」。
「なるほど。確かに戦闘面での基本情報がところどころ抜けている。まあX-Passで後から閲覧できるんだけれ
「聞いてない。一番重要なところを抜かすチュートリアルがあるか」
「ごもっとも。それを抜きにしても本当に癖のあるガイドだったよ」
マニュアルがあるのならそれをさっさと提示しろ。その怒りとともにX-Passをテーブルに叩きつけたくなった。実際X-Passを握った右腕は頭上高くまで振りかぶられていた。鈴音が同調してくれなければおそらくその腕は振り下ろされていただろう。
「さて細かい基本的なところはマニュアルに任せて、まずは生死に関わる重要なところだけ補完しておこうか。渡君は次はいつ『特異点F』へ行くつもりかな?」
「いつって……決めてない。やっぱりまたあそこに行かなきゃいけないのか」
「私に君の行動を強制する権利はないよ。ただ契約相手に餌を与えなければ君が食われるだけの話だ」
「やっぱりそういう話になるか」
生死に関わる話。契約相手に餌を与えるために異界でモンスターを殺す。そうでなければ自分が餌になる。予想していなかった訳ではない。一番最初に出会ったゴブリモンが襲い掛かったのも渡を捕食対象として認識していたという理由があった方がまだ納得できる。
「危険度はX-Passを使えばX-Levelという目安で確認できる。カードの状態ならXの文字の濃さで、端末の状態なら七つの球の点灯状態で。背景と同化してたり一つも点灯していないなんてことになったら気を付けた方がいいよ。この世界にいても『特異点F』に強制的に転送されて食べられてしまうこともあるらしい」
「あれは空腹の度数だったのか。だったら逆にモンスターを多く殺して食わせれば回復するのか。『ブラスト』はその度数を犠牲に力を増幅するってことなのか」
「一気に質問しないで欲しいね。ただそれらの質問に対しての答えは一つ。X-Levelに関しては空腹以外の要因も絡むだろうけれど、概ね君が認識している通りだ」
言うなればどれだけ命を殺めて契約相手に与えたかという指標。それをしなければ契約相手に殺されるのは自分。渡が参加したのはそういうルールで成り立つゲームで、あの異界はそれが許される世界なのだ。
このルールの一番えげつないところはリタイアという選択肢が無いことだろう。目標を達成するまではコンスタントに契約相手に餌を与えなくてはならない。仮にその契約相手が死んだ場合は餌を与えるために危険な真似を犯す必要は無くなるが、「特異点F」から帰るにはモンスターとの契約が必須という話だから帰ることもできずに野垂れ死ぬことになる。
「せっかくだから少しモンスターについて掘り下げよう。――これは私が契約したモンスター。アハトだ」
鈴音は自身のX-Passを机に置き、その表面で動く模様と化した彼女の契約相手を指差す。なんとなく寝ているように見えるのは錯覚だろうか。もしそうでないのなら本当に異界の怪物がカードに収まっているということになる。だが、この蜂も渡のカインもあの中で動いている姿は生命のそれだった。
「ここからの話は私の推測が多く含まれるものだということを前提で聞いて欲しい。渡君、私はね――モンスターは本来実体を持たない、それこそデータのような生命ではないかと考えているんだ。……君、わりと顔に出るタイプだね。モンスターはデータとして存在が定義され、その情報に則って実体化している。仮説としてはそこまでおかしいことでもないと思うのだけれど」
「いやでも、そんなこと急に言われて信じられないだろ。俺はこの手でモンスターの喉を竹刀で突いたんだ」
「少し気になるフレーズが聞こえたけれど今はスルーしよう。……君の反論に仮説で答えるなら、物質として情報に変化が加われば実体にフィードバックされる、というところかな」
「それでもあの感覚はリアルだった。あのゴブリモンだって苦しんでた」
前置きは聞いていた。それでも鈴音の言葉は渡の表情を変えるには十分な突飛さだった。実際にモンスターと戦って竹刀越しにその肉の感触に触れた渡には、モンスターが実体を持たないなどという説はあまりに受け入れがたかった。
「X-Passが肉体に直結しているトラベラーならデータに干渉できるのかもしれない。本体のデータがシミュレートした結果は定義の更新として、物質的な変化として反映されるものだろう。いや逆にX-Passが私達の認識に干渉した可能性もあるかもしれないね。『水槽の中の脳』に似たことが現実に起きているならばそれこそ興味深い」
「ノッてきたところ悪いが、脱線してるし若干オカルトの臭いがする」
「あらあら失礼。別に私も根拠もなく推測を立てたわけではないということが伝わったならそれでいいよ」
「根拠の一つがカードに映るこいつらってことか」
「そういうこと。まあ、アハトも元々の姿とは大きく違っているけれどね。ワスプモンという私より大きな蜂のマシーンがこの世界ではカードの表面で寝ている虫だ。この変化もデータを圧縮するように姿を変えたとすれば納得できないかと思ったんだよ」
X-Passに映る模様と契約相手の雄々しい姿が同一の存在であることは渡の方が痛感している。渡自身意外なことにそこに異論は一切なかった。
「『進化』の逆ってことか」
「冴えているね。『進化』はそれこそデータを基本とする生命ならではのものだろう。自身の姿を変えるなんて真似は細胞単位で柔軟に自身の構成を変えられる生命でなければ不可能だ」
「それは確かにそうだな」
「進化」に関してはもはや反論の余地がない。あんな変容をする生物は渡の人生では見たことがなかった。少なくともモンスターが渡の世界の動物とは別の原理で成り立つ生命であることは認めなければならない。
「そういえばモンスターが死ぬところも見たのだったね」
「ああ」
「ならその死体は?」
鈴音が話の対象を変えたのは次の根拠を示すためだろう。それは食事をする場所では不適切な内容だったが、彼女がそんなことを気にする人間ではないことは既に嫌というほど理解している。
「見てないよ。カインが食ったんだから」
「残骸は? 肉片や骨も見ていないのかな?」
「それは……」
そういえばカインが食事をする姿は一度もじっくり見たことはなかった。死体が最終的にどうなったかも確認した訳ではない。ただ鈴音の言うような捕食後の痕跡は一切記憶にない。
「別に君の注意力をどうこう言うつもりはないよ。モンスターの本質がデータなら食事もデータなのが自然。データを食われて定義を失った肉体は細胞単位で自壊するのが道理。そうなれば物質的な残骸も確認はできなくても仕方ない。そういう論法が組み立てられればよかっただけだから」
「話にノせただけか」
「そういうこと。ここまで話しておいて何だけれど、仮説が合っていたとしても私達がモンスターと相対したときにできることは何も変わらない。ただ今後『特異点F』を調べるうえでモンスターの性質に関しても少し考えを巡らせておいた方がいいというのが結論だ」
「頭の片隅には置いておく」
結局、鈴音が伝えたかったのは彼女が立てた仮説とその論拠。モンスターはデータのような存在で、渡が目にしたのはその定義に従って作り上げられた仮初の肉体。その仮説の真偽がどうあれ、モンスターに関わるブラックボックスが「特異点F」を深く調べるならばいずれ向き合わなくてはならない謎であることは間違いない。
「まあ私達が警戒すべき相手はモンスター以外にもいるのだけれど」
「トラベラーか」
「そうだね。場合によっては人間の方が厄介だ」
トラベラーは人間。それはつまり何かの思惑があって行動しているということに他ならない。危険な戦いに飛び込むような人間だ。きっといずれも譲れないものを抱えて戦っているだろう。ボットがもたらした情報で人間にそこまでさせるようなものは一つだけ。――現在の科学では成しえないある奇跡が報酬として与えられるということ。
「さて、渡君。君は報酬として何を望む」
「成り行きでなったようなもんだ。何も考えていない」
不躾でしかないその問いに渡は疑われる可能性の方が高い本音を返した。奇跡の内容は知らなくともそれは人一人の欲望を満たすに足るものだろう。少なくとも自分以外のトラベラーはそう信じてこの戦いに身を投じたはずだ。
「奇遇だね。私も何も考えていない。いや、今はそれに興味がないと言った方がいいかな」
だが鈴音も同じ答えを返したときには、渡は不思議とその言葉を疑うことは一切なかった。彼女ならそういうスタンスでもありだろうと納得できてしまったのだ。実は鈴音も渡に対して同じような思考で納得していたのだがそれを彼女が渡に伝えることはない。
「トラベラーとしては私達の方が異端だろう。そのことは覚えていた方がいい」
「分かってる」
代わりに口にしたのは同じ考えを持つ者としての警告。それは話す順番が逆であれば渡の方が口にしていたものだった。
「トラベラーとしての基本事項はここまでかな。後は君個人の話が聞きたいね」
その言葉を聞いたとき、渡は動揺を隠すことに全神経を使った。話を切り替えることは何度かあった。だがこの感覚と自分が無意識下に行った対応はこれが初めてだった。そのため理由も分からない。顔立ちは良い女性に興味があると言われて動揺したのか。それとも自分の内側に不用意に踏み込まれることを警戒したのか。
「……俺に興味があるのは本当だったのか」
「もちろん」
なんとか言葉を返すことはできた。鈴音はこちらの変化に触れることなくただ余裕のある笑みを浮かべるだけ。その思惑を読み取れない振る舞いに、渡は胸に短刀か何かを突きつけられているような錯覚を抱いた。
「いろいろ聞きたいよ。例えばX-Passを落とした白衣の女のことや黒木場秋人というトラベラーのこととか」
「へ?」
尤も鈴音が興味を抱いたのは渡が動揺するような領域や内容ではなく、警戒も錯覚も結局は無駄に心労を重ねることに繋がっただけだった。
「ん? 私は何かおかしなこと言ったかな」
「ああいや。何でもない。そうか。そうだよな。そいつらは怪しいよな」
渡がトラベラーになった原因といきなり襲ってきたトラベラー。それは鈴音ではなく渡自身が遭遇した存在。そもそも最初から渡から提供できる情報などこの二人のことくらいだったのだ。
「まずは白衣の女の方から聞こうかな」
「ああ。……その節は本当に悪かった」
「もう謝る必要はないよ。それより知りうる限りの情報が欲しい」
「とはいっても記憶力には自信ないぞ」
「それなのに私に怒鳴ったのか。とりあえず話してみてくれ」
白衣の女の情報なんてそれこそ最初に時系列通りに話した以上のことは特にない。
身長や体つきは鈴音とおおよそ同じこと。新品のように汚れ一つない白衣を着ていたこと。渡が持つX-Passを落として姿を消したこと。これくらいしか知らず、渡からすれば寧ろ情報が欲しいくらいだった。
「なるほど。重要度はこちらの方が高そうだけれど情報が少なすぎるね。長い目で調べていった方が良さそうだ。――黒木場秋人の方はどうかな」
黒木場秋人。一方的に戦いを挑んできたガラの悪い男。度々「賭ける」という言葉を口にしていた戦うために生きているような振る舞いだった。トラベラーとしての経験も実戦経験も明らかに上で、勝てたのは「ブラスト」でカインを「進化」させられた偶然があってこそ。
「トラベラーとしては多分俺達と同じタイプだと思う」
「報酬の奇跡に何かを望んでいる訳でもないということか」
その一度の戦闘と接触で抱いた印象ではあるが、秋人はトラベラーとして報酬を求めるタイプではないと直感していた。「特異点F」もトラベラーもあくまで自分の渇望を満たすための舞台装置や設定に過ぎない。仮にそれらを用意した黒幕が居てもそれに媚びを売るような人間だとは思えなかった。
「ただ何かしらの目的はあるだろうな。俺達を襲ったのもそのための手段だと思う」
一方で何の目的もない戦闘狂でもないとも感じていた。デビドラモンが倒された後にあそこまで冷静に撤退に踏み込めるということは、まだ彼にはやるべきことがありそのために機転を利かせる理性があったということ。渡とカインを襲ったのは標的としてピンポイントで狙ったのか、それともたまたま目に入ったからなのかは分からない。だが、あの襲撃も何かしらの目的を果たすために行ったことであるのは間違いないだろう。
「そういえば一つ気になることがあった。あの男、自分のモンスターがやられたのにX-Passでこっちに帰ったんだ。おかげで質問する間もなかった」
秋人に関して渡が一番不可解に思っていたのはそこだった。モンスターと契約していなければ帰還できないというのがチュートリアルで示されたルールだった。だがデビドラモンを失った秋人は渡の目の前で自力で帰還してみせた。それはボットの話とは大きく矛盾している。もしボットが嘘をついているのなら、それこそ何を信じて挑めばいいのか分からなくなる。
「確かにそれは妙な話だ。帰還に使うエネルギーは契約(ペアリング)の経路(パス)を通してモンスターから提供される。契約が切れていれば帰還できないのは間違いない。……何かカラクリがあると考えるのが自然だろうね」
「やっぱりそうか。おかげで少し安心した」
それだけは杞憂だったらしい。ただそうなるとなおさら黒木場秋人という人物の奇妙さが際立つ。どんなカラクリを持っているのか、どんな思惑で行動しているのか。トラベラーの中でも警戒すべき存在であるのは間違いない。
「結局教えられてばっかりだったな」
「いや私も要注意人物という貴重な情報が得られたのは大きいよ。ありがとう」
結局こちらから提供できた有用な情報は黒木場秋人のことだけで、情報交換と言っても一方的に与えられただけだった。成果としては十分満足だ。ただ情報交換という行動の結果としては満足には程遠かった。
「そろそろ出ようか」
「そうだな。俺が払う。情報交換のお礼だ」
「気にしなくていいよ。流石に高校生に奢らせるつもりはない」
「それじゃ俺が納得できない。一方的に教えてもらったんだからこれくらいしないと」
「そうでもないよ。だから財布を出そうとするのは止めてくれないかな」
大学生相手に奢ろうとするのもそのフラストレーションを消化するための手段に過ぎない。渡の異様な行動とそれによる周囲からの奇異な視線には流石の鈴音も困惑を隠すことができなかった。これは初めて渡が鈴音を動揺させた瞬間でもあった。
「総額は……逢坂さん、ATMってどこか分かる?」
「ここは私が持つよ。いいね」
「……分かった」
渋々彼女の面子を優先する時まで顔を伏せていたため、渡が鈴音の変化を知ることはない。一方で鈴音は財布をしまう渡の今日一番小さな背中を苦笑しながら眺めていた。
「そんなに不平等に思うのなら私の頼みを一つ聞いてくれないかな。――次は一緒に『特異点F』に行ってほしい。共同戦線という奴だね」
鈴音が渡に伸ばした救いの糸は渡の考える鈴音への借りの返し方とは少し違うものだった。借りを返すために新たな借りを作る可能性のあるものは渡にとってはあまり好ましい手段ではない。
「それとこれとは話が違うだろ。共同戦線なんて言っても、俺が手を借りることになるかもしれないし」
「別に成果は後で勘定すればいい。私はただ共同戦線を張りたいと頼んでいる。君はそれを断るのかな」
ストレートに、だが確実に退路を断つ鈴音の言葉が決定打となった。渡が鈴音のために他にできることがない以上、借りを返すには彼女の提案を飲むしかない。自分に言い訳をすれば直せる意地ならば、この場の会計を持つことも最初から考えることはないのだから。
「分かった。逢坂さんってずるい女だな」
「そうだね。私はずるい女だよ」
そのやり取りを最後に二人は店を出る。再び『特異点F』へ旅立つのはいつなのかは交換した連絡先を通して決めることとなった。