
Episode.13 "天沢履"
あの日のことを思い出す度に将吾の頭は熱を帯びる。まるであの日の感覚までも無意識に思いだそうとするかのように。
本当にあの日はうだるように暑かった。直視しようものなら瞳を焦がしそうな陽射しが身体を貫き、熱気で汗が吹きだすのを自覚する度に嫌々手伝いに駆り出された屋台での調理を思い出す。尤も感情移入できるのは雰囲気に流されて少し陽気になれたあの時の自分ではなく、目の前で焼かれていた小麦粉とたこ足の方だが。
冷える要素があるとすれば入念に散布した制汗剤がどれだけ効果を発揮しているかという疑念と心労くらいだ。尤も、たこ焼きと違って自分が焼かれても出るのは香ばしい臭いではなく男くさい汗で、柄にもなく心配したところで冷や汗が出て堂々巡りが加速するだけだが。遂には手汗が気になって、ゆるく繋いでいた手を離しそうになる。
「どしたん?」
「いや、なんでもない」
「そっか、そっか」
大野大河がずいと顔を近づける。鶴見将吾が逃げるように顎を引く。何度も繰り返したこのやり取りだけで二人の関係性を表すには十分だ。一週間前の金曜日を境に以前より距離感の近いステップに進んだ歩幅も完全には揃っていない。その自覚は将吾にもあったが対応するには経験値があまりに不足していた。
前より距離感が掴めなくなっている自分がいる。対等に向き合えるのは部活で竹刀を向け合ったときだけ。表立って公言はしていないが剣道部の連中に隠しきれている自信もない。
なまじ認識だけは出来ているから精神的ダメージはハイペースで蓄積される。恋は盲目どころか猛毒。それも随分依存性の高いタチの悪いやつだ。
「いやーそれにしても本当暑いね。手汗が酷いのなんのって」
「あ……やっぱりそうか」
「えー、バレるほど酷かった私?」
「あ、いや、悪い。違うんだ」
「冗談だってば」
そんな自分と違って飄々とからかってくる大河が少し恨めしく、その何倍も愛おしい。どう足掻いても叶わないと思い知らされる度に、そういう大河だからこそ好きになったのだと再確認させられる。
「どこか入って休もっか。今日ばかしは奢るのも吝かではないので」
「面子を真っ先に潰そうとするのはやめてくれ」
「いやいや気にしなさんなって。私もこんな日に私情で連れ回して悪いなーと思ってたし」
「妹さんの誕生日だろ。俺も世話になってるから貸しにはならない」
「やや。意外と強情だねぇ、旦那」
「そっちも大概だろ。せめて割り勘な」
「おけおけ」
そもそも勝ち負けなどどうでもいい。乗り掛かった舟の船頭の指示は守るべきものだ。涼しいところでゆっくりしたいことに異存はないし、最低限プライドが守られる点まで譲歩できたのなら十分だ。
本当に暑い。隣に恥部を晒したくない相手がいなかったらおかしくなっていた。そう確信する程に思考が鈍って仕方ない。
「……んん?」
「どうした?」
「いや、あそこの人……ちょっと見てくる」
大河の視線の先には地面に蹲って低い呻き声を上げている男が一人。どうやら暑さにやられている輩は他にもいるらしい。無駄に面倒見のいい大河はスポーツドリンク片手に駆けていく。――そこから先の数秒間は後の将吾にはコマ送りでしか再生できない。
しゃがんで肩を叩く大河。男はその手を乱暴に払いのけ、彼女が突き出したスポーツドリンクは内容物をまき散らしながら地面を転がる。とくとくと流れる清涼飲料水。どくどくと流れる大河の血。フォーカスを戻せば蹲っているのは大河の方で、立ち上がった男は血塗れの包丁を片手に奇声を上げながらどこかへと走っていく。
事態を認識するのに十秒。身体を動かすのに二十秒。駆け寄った先には息も絶え絶えな中で必死に口を動かす大事な人がいて、その人を助けたくとも実際は何もできない自分がいた。そんな自分には自分以外の誰が何をしているのかも分からずただ状況に流されていくしかなかった。
明確に意識が戻ったのは葬儀から三日後。休みを取って半ば引き籠っていた自宅に鳴り響いたインターホンが嫌に耳に残る。あいにく両親ともに仕事に出ているため自分がいくしかない。
重い溜息を吐いて渋々玄関を開けた先で待っていたのは一人の女子小学生だった。ただ短く切り詰めた髪や少し赤らんだ顔の輪郭には嫌でも見覚えがある。何より前髪を留める黄色のヘアピンはそれを真剣に選ぶ姿を間近で見ている。
「もしかして……寧子ちゃん」
「はい。髪を切ったんで分からないかもですけど……少しでも似合うようにって。どうですかね。いいですかね。いいといいなぁ」
おどおどしている姿は家に招待されたときに何度も見た印象と変わらない。それでも口調は前に見た時よりもいくらか明るく、彼女なりに割り切ろうとしているように見えた。
その上で参考にした理想像が誰であるかは考えないようにした。どうあれ彼女は自分よりもずっと前を向いている。それは三年経っても変わらなかった事実なのだから。
辺りに乱立するビルだったものを見上げて将吾は溜息を漏らす。折れた高層階は瓦礫と化しているため、最早どれだけの階層があったのかも分からない。その様が多くの事実が明らかになったにも関わらず、未だにどこか先の見えない自分に重なっているように思えた。
このビルの残骸でもまだマシな方なのだろう。建造物の多くが瓦礫に変えられ、アスファルト舗装が砂地に思える程に徹底的に踏み砕かれた。人類の大半が地上から追放されたこの未来に、自分はどの面を下げて立っているのだろうか。
「廃墟マニアとは意外な趣味だね」
「あんたは趣味が悪いな。監視の真似事か」
気遣いとも思えない冗談めいた言葉に剥き出しの嫌悪感で返す。いつから鈴音は自分を見ていたのか。将吾自身、自分は好奇心で動いているような物好きに目をつけられる愉快な性格はしていないと思っている。
「忠告しに来ただけだよ。選択したことも迷うことも間違いじゃない。ただ覚悟は決めておいた方がいいってね」
「どの立場で物を言ってるんだ」
「そうだね……監視の真似事ってところかな」
監視されるべきはお前だろうと悪態をつく気にもなれない。その神経の太さがあれば楽になるだろうが、不思議と羨ましくも見習いたいとも思わなかった。
それでも忠告も介入も拒みはしない。見透かされているような視線があるおかげで意識せずとも襟を正せる。
「――どこの女狐かと思いましたけど、鈴音さんならいいですよ。サルミアッキの借りってことで」
寧ろ今向き合うべき相手にはこれくらいのハンデは許して欲しいと思うくらいだった。
「覚悟があるなら明日の十八時、ここに来て欲しい」
Xに見逃されて逃げ帰ったあの日、パトリモワーヌに再招集されたトラベラー達の前で巽恭介はそう告げた。己の立ち位置を再定義したうえでのXと同じ問い掛け。その言葉にはまとめ役として慕っていた人格者のものとは思えぬほどに圧があり、彼の選択に対する疑問も現実逃避の泣き言も口にすることは許されなかった。
「分かっていたけど、随分寂しくなったね」
翌日、指定時間。パトリモワーヌに訪れたのは巽恭介含めて八名。
ここに来ないことが自殺行為になる弟切渡。恋人の死を無かったことにしたい鶴見将吾。報酬に興味がない筈の逢坂鈴音。慕っていた組長殺害の罪を擦り付けられた元ヤクザの射場正道。弟の死を覆したい真壁悠介。目の前で飛び降り自殺した後輩の真意を知りたい天宮悠翔。トラベラーとなった幼なじみを止めたいと願っていた瞳に黒い炎を灯す星埜静流。
「こんなもんでしょ。集まるのはエゴイストと自殺志願者くらいだ」
「残りの内何人がリタイアを選んでいたとしてもまともにやり合える数が残るとは思えないからな」
今ここではなくレジスタンスの元に居る面子にはリタイアを選んで欲しいと思うのも結局はエゴでしかない。短い時間でも協力して行動をともにした相手と命がけで戦うのを嬉々として待ち望むような戦闘狂はおらず、未来の人々を守るという大義の元に振るわれる怒りと正論に自ら身を晒せるマゾヒストも居なかった。それでも悪役じみた立ち位置に身を置く理由と覚悟なら持ち合わせているつもりだ。
「戦うのなら頭数は居るでしょうね。合流できる他のトラベラーに当ては?」
「心当たりがないわけではないけど……ルートとやらも黙ってはいないと思いたいね」
数日前まで仲間だった相手と戦わなければならないと言うには戦力差は対等からは程遠い。対抗するのならコミュニティの枠を超えてでも他のトラベラーを集めるべきだ。とはいえ、コミュニティの外のトラベラーは顔役であった恭介の人脈だけでは決定的な戦力の補強にはならなさそうだ。
アウェイな世界でゲリラ的に首を狙うしか無くなるのは避けたいが、自分達の人脈以外に頼れるのは最早この件の黒幕――自分達を呼び寄せて「X」と敵対させた「ルート」しかない。「X」を前に自分達を煽動する程度には意思があるのなら、自分の手駒が如何に貧弱かも分かっているはず。それでも手が無いのならそれこそ潔く全員リタイアさせてもらうしかなくなる。尤も敵がそれを許してくれるかは別問題だが。
詰まるところ、トラベラーに未来などないのだ。それでも捨てきれないもののために僅かな希望にしがみつく、楽観と諦観にまみれた生きる屍。いずれ正義の元に倒されることを薄々分かりながら戦いに臨むことになるだろう。
その覚悟を試される機会が早々に訪れることをこの時の将吾は知りもしなかった。――否、その可能性を考えることすら無意識に避けていたのだ。
容易に想像がつくだけの事実が揃っていたのに。誰よりもこの場に居てほしかった相手の姿はここに無かったのに。
だから、相手の方が痺れを切らして呼び出した。ここに至って将吾は自分にそれを拒む度胸すらない臆病者だと自覚することになる。
「三日ぶりですかね、将吾さん」
「……寧子ちゃんはそっちで戦うつもりなんだな」
「はい。将吾さん居なくて一昨日は心細かったんですよ」
「それは悪いことをしたな」
「いいんです。ちゃんと来てくれましたから」
「流石に場所を指定してすっぽかしはしないよ」
前髪のヘアピンを弄りながら親し気に話す言葉が冗談に思える程に、寧子の声音の奥には芯が通っている。そこに自分と姉を慕ってその背中に引っ付いてきた少女の面影はなく、一皮剥けた立ち振る舞いは鈴音に忠告される程度の自分とは一線を画していた。――実の姉の救済よりも未来の人々を選んだ正しく高潔な少女の覚悟。それこそが今後自分達に牙を剥く敵の本質だと身に染みて理解した。
「で、俺をリタイアさせに来てくれたってわけか?」
「ええ、『X-Commander』も借りれたんで、真魚さんみたいに安全に帰れますよ」
「そっか。タマも随分と様変わりしたんだな」
「これからの戦いに備えて鍛えたんで」
寧子の右手にはXが小川真魚の強制送還に使ったガジェット。左隣には全身の肉を代償に図体が二回りほど大きくなった骨の獣。その数メートル後ろでは天城晴彦とタマと同様に進化したらしい契約相手が、五体の[[rb:成熟期 > アダルト)相当のデクスを引き連れてこちらを眺めている。
「まだ詐欺神父がお守りについてくれるなら安心か」
「失敬な。だが今日は許そう。私はあくまでお目付け役だから、君らの事情が終わるまでは手を出さないよ」
聖女というよりは女天使に近しい姿の契約相手の肢体に自分の身体を押し付けながら晴彦は笑う。まるで悪辣なデスゲームを眺める悪役の富豪のようだ。片手にワインを呑んでいたらさぞ似合っただろう。そのワイングラスを奪って殴り掛かりたくなるほどに。
「信用すると思うか?」
「私が手を出させません」
だが今向き合うべき相手は奴ではない。こちらが外野を気にせずに済むのなら寧ろその方が助かる。
「今すぐモンスターとの契約を切ってください」
「もし断ったら?」
「今ここで将吾さんの契約相手を殺します」
寧子の前に出る骨の獣は彼女の声音のように冷ややかな空気を纏い、伽藍に赤く灯る双眸には彼女の言葉に一切の迷いがないことを証明する。相対する月丹の身体の震えが武者震いでないのは明白で、現状の力量も覚悟も寧子の方が上なのは間違いない。分かり切った現実を再確認したうえで将吾は大きな溜息を吐いた。
「俺は間違っているのか」
「それを正すために私はここに居ます」
「そいつはありがたいことだ」
力も道理も相手に分があるが故の好待遇。そもそも罠を覚悟で来た自分を奇襲して物量で蹂躙することも出来たはずだ。それでも真正面から正々堂々と向き合ってくれたことに感謝はできても苦言を呈する権利はない。
「けどお門違いだ。俺はまだ土俵にも立てていないんだよ」
「立つ必要なんてないんです。何もしなくていいんです」
「そんな訳にはいかないだろ」
「それでいいんです!」
自分には分不相応なほどの思い。それでも今の自分は彼女の望むように応えることはできない。だからこそ、初めて失望の視線を向けられたとき将吾は安堵に似た笑みを浮かべていた。
「結局分からず屋には力づくで教えるしかないんですね。――行って、タマ」
契約相手の声に従って骨の獣は進撃を始める。一歩踏み出すごとに地面が抉れ、冷気のような黒い靄が地面に染み入る。距離があっても寒気を覚える死の足音。月丹は奥歯を噛んで自身の体の震えを抑えて空へと舞い上がる。
ニ秒後、月丹が立っていた地点から間欠泉のように噴き出す黒い靄。蛇のように追いすがるそれを振り払った先で待っていたのは飛び上がってきたタマの右足。骨の翼が張りぼてではないのならば骨で象られた爪も獣が持ちうる原初の武器だ。
研ぎ澄まされた一撃を前に月丹は爪の軌道と並行になるように鎧の角度を調整して受け流す。否、厳密にはそれを試みただけ。現実は純粋な質量で弾き飛ばされて隕石のように落ちたに過ぎない。
「月丹!」
「分かったでしょう。どうせその調子じゃ先はないんです」
将吾の声に応える様に月丹は砂を吐きながら立ち上がる。だがその足の震えを誤魔化すことはできていない。心身を侵すのは生命が持つ死に対する本能的な恐怖。スカルバルキモンが纏う黒い靄に触れたモンスターは否が応でもそれを呼び起こされ、肉体と精神の両側から響く痛みは下手に重い一撃よりも後を引く。
それでも立ち上がる彼らの根性を讃えることなく寧子はその無力さを嘲笑う。その挑発に乗るには将吾は寧子のことを知り過ぎていた。
「分からない」
ただ未だに分からないことが一つだけある。問わずにはいられないことがある。
「何がとは聞きませんよ。いい加減諦めてください」
「なんで諦められるんだ」
「聞かないと言ったでしょう」
「どうやったら諦められるんだ」
「だから……」
「寧子ちゃんにとってお姉さんは……大河は諦めきれるものなのか」
「うるさい……」
それは世界の存亡とか関係のない将吾と寧子と彼女の問題。一時でも同じ方向を向いていた事実と分かたれた決定的な違いの確認。同じだけ固執していたうえで今の選択が異なっている。戦いの結果がどうあれその理由だけは知っておきたかった。
「あの人が死んだのは三年前なんですよ。いい加減前を向いてください! ……ぁ」
初めて感情を露わに叫んだ寧子は自分が口にした筈の言葉をすぐには理解できず、気づいてから隠すように口元を押さえた手は僅かに震えている。彼女にとってその回答は一番口に出したくない都合の悪い本音(もの)。それが表に出てしまった以上、もう後戻りはできない。
「もういい……潰して、タマ。今すぐに!
寧子の殺意を表すように洞のような口から強烈な風圧を伴った雄たけびが響く。これ以上の会話は不能で不要。巨体の一歩は今までよりも大きく速く、滲み出す薄い黒煙は将吾達の足元まで伸びるように地を這う。先ほどまでの軽いジャブとは訳が違う本気の力量。煙に触れたモンスターは本能的な恐怖に囚われ、じきに迫りくる骨の巨体に圧殺されるのを待つしかない。
「どうした月丹! 動け! 早く!」
それは月丹も例外ではなく、逃げるための足も身を守るために鎧を動かす筋肉も凍ったように固まっていた。身も心も凍る絶対的な拘束は肉声での指示でもキャストによるバフでも跳ねのけられはしない。
一歩ずつ確実に近づく死。それを前にしても動くことすらできない被捕食者。骨の獣は確実に息の根を止めるため、真下に見下ろせる位置まで近づいたうえで巨大な右前足を振り上げる。
降ろされる裁きの槌。砂煙とともに巻き上がる煙。戦いの行く末を見据える契約相手が瞬きをしていなければ、結果は変わっていたかもしれない。
「……本当に鬱陶しい羽虫ですね」
「失敬な。そんな態度を取られるなら、もっとマシな飴でもあげるべきだったかな」
タマの足元には月丹は居らず、その肉体は数秒前の地点から十数メートルほど離れたところを転がっていた。月丹自身に肉体を動かす術がないのならそれは別の誰かによるもの。文字通りの援護射撃を撃てる者もその理由を持つ者もこの場では一組に限られる。
「自分が何したか分かってます?」
「いちいち言葉にしなくてはいけないのかな。そこの神父と違って私は傍観を決めるとは言ってなかったのだけど」
「相変わらず無駄に口が回りますね」
寧子が睨む先には鈴音の姿しかいない。ただ寧子はアハトの動向にも見当がついている。居場所は散在する倒壊したビル群のどこか。ただ先の虚を突いた一発だけでは判別はつかない。これだけ冷静に立ち回っていると思いたくない程に軽薄で飄々とした鈴音の言い回しが尚更癪に障る。
「流石に戦力が減るのは困りますか。ただでさえ頭数足りてなさそうですし」
「それだけの冷血な女と思われてるのは心外だね。見ての通り、迷える男の子の未来を照らす優しいお姉さんだよ」
「反吐が出そうな程に気持ち悪い」
「清々しい程に素が出てるね」
寧子と食べ物でからかわれていた頃とはもう違う。対等な挑発の応酬はその証明であり、鈴音がノータイムに返す言葉は彼女なりの賞賛だ。脅威として認めたからこそ、正義の敵対者に相応しい言葉を吐くのに遠慮はいらない。
「将吾くんの思いも迷いも仕方のないことだ。大事な人というのは早々に諦めきれないものだろう」
「こっちも別にそれを否定する気はないんですけど。でも割り切ってもらわないと困るんですよ」
「寧ろそれが出来た君を私は凄いと思うよ」
「リタ達の……あの現状を見れば当然です」
寧子の言葉は正しく未来を見ているものの模範解答だ。彼女なりの葛藤を越えて得た正論に間違いなどない。
「知識として知るだけでは不十分という訳か」
「知ったところで貴女は考えを変えるタチじゃないでしょ」
「それは否定できない。でも将吾くんは変わるかもしれないよ」
「こっちは安易に考えを変えるような人間を受け入れるほど緩くないんです」
「本当に将吾くんに優しいね、君は」
毒虫が巣くうに足る僅かな綻びを先程自分の口で作ってしまったことを除けばだが。
「まあ仮に彼が君と同じものを見ても意外とすぐ割り切れないかもね」
「何が言いたいんですか」
「寧ろ君がうまく割り切れた方だってことだ。よほど上手く自分を誤魔化したのか――そこまで大事に思ってはいなかったのか」
心の底からの賞賛とともに鈴音は虎の尾を踏む。最後の一瞬に見せた誰かを嘲るような薄い笑みも、それを見せないように顔を背ける様も、仕草の一つ一つが刺激物。
「あー、はいはい。――すぐ死ね」
寧子の標的と目的が変わった。凍てつくように鋭い視線とそこに籠る熱線のような殺意がそれだけで射殺さんと鈴音に突き刺さる。どこまでが彼女の本心なのかを推し量る気すら失せた。計算も真意もどうでもいい。ただ口にした言葉が許せなかった。その足であの場所に立っていることが認められなかった。
骸の翼を翻して骨の怪物が舞い上がる。黒い風をまき散らしながら向かう先は射手が潜むビル群。どれだけ憎かろうと契約相手が存在している以上は直接殺せない。怒りで思考を溶かすことなく冷静に冷酷に。タマが持つ力を十全に把握したうえで、寧子は引き摺り出すための算段を整える。
一番高いビルの屋上に陣取った骨の怪物の身体から暴風雪のように黒い靄が溢れ出す。他のビルに伝播するように広がっても薄いとは思えないほどの密度。それらすべてが重力に従ってビルの内部を侵していく。どこに隠れていようと関係ない。触れたものがどうなるかは先ほど月丹が分かりやすい検体になっている。
「悲鳴の一つでも上げてくれると楽なんですけどね」
じきに響くモンスター達の苦悶と悲鳴のオーケストラ。標的以外に野良のモンスターが潜伏していたのは寧子としては想定外ではあるが些事だ。外に炙り出せれば僥倖。屋内でのたうち回っているのなら多少は面倒だが、一つ一つ潰していけばいいだけの話。
「さーて、どこにいるんでしょうかねぇー」
いたずらな猫が積み木を崩すように拳が突き出してビルを乱暴に抉っていく。一棟が根元から崩れるのに拳は二桁も要らず、崩壊する建物から哀れに巻き込まれたモンスターが逃げ惑う。二棟、三棟崩しても本命は出てこないがビルの倒壊作業は淡々と続ける。時間の問題というのが明らかな状況でサボるような気の緩みなどありはしない。
「ィ……ヤ」
「みーつけた」
「……アハト?」
そうして辿り着く標的の第一声はまるで怪物に食われる寸前の女性の悲鳴のようだ。だがその正体は機械的なモンスターに過ぎない。抉れたビルの一室で見上げて怯えている様を想像するだけで寧子の心はさらに冷えていく。
「やって」
「イィイヤァアアアッ!!」
寧子の声をかき消す金切り音のような悲鳴。それに耳を抑える間もなく光弾が無造作に飛び出す。いや、アハト自身がゴムボールのように跳ねて飛び出していった。そこに鈴音の指令を淡々と実行していた面影はなく、まるで何かしらのバグが発生して暴走したかのようだ。
「は?」
だが結果的にその暴走で救われた。悲鳴に紛れた寧子の指示はスカルバルキモンに届いていて、骨の槌は全霊を持って振り下ろされていた。渾身の一撃はビルを跡形もなく倒壊させ、潜んでいた他のモンスターは瓦礫とともに地に落ちている。怯えたまま動かないことを選択していれば同じような末路を辿っていたことだろう。
「イヤ、アッ! スズ……チガッ!?」
「急にやんちゃになりましたね。蠅のように鬱陶しい」
「君らがそうしたんだろう。こんなこと予想でき……るか」
アハトは確かに重い一撃からは逃れたが、一番最初に襲った精神的なダメージには未だ苛まれている。幸いなのは挙動が寧子とタマにとっても厄介で目障りなものになっていること。不安定なまま叫び不規則なまま動く姿は飢えた獣の方がまだ理性的に思える程だ。
言ってしまえば現状は誰にとっても不都合なもの。不快そうに吐き捨てる寧子に対して鈴音も珍しく余裕なさげに睨みつける。それほどにX-Passを通じて彼女にだけ伝わるアハトの精神状態が、その乱れが異常だった。
「ミナ……ィヅキ……ゴ……サィッ!!」
「落ち着いて、アハト……後で話そう。だから」
制御できる可能性があるとすればそれは鈴音しかない。完全に意思疎通を測れるレベルはすぐには無理だ。それでも僅かに混乱を和らげるくらいはできる。一瞬動きが止まれば完全に動きを止めるには十分だ。
「ありがとうございます。動きを止めてくれて」
寧子の嫌味たっぷりなその言葉が聞こえた直後、鈴音の目前にアハトの身体が剛速球のように落下した。土煙の中を転がる様は使い潰したボールのようでX-Passでの繋がりが無ければ死を確信する程にダメージは目に見えて大きい。先ほどのように暴れていないのは冷静になったというよりはそこまでの筋力が残っていないだけ。
「運よくずれた。いや一瞬でも声は聞こえた訳ですか。――どちらにせよこれで終わりです」
籠の中に捕われたように逃れる術のないアハトの元へと骨の獣が静かに舞い降りる。その足で執拗に跡形もなく踏み砕くべく、正確な座標に一分の狂いもなく前足を叩き込む。
硬いものがより硬いものに負けて砕ける。そんな音が確かに響いた。削れて飛び散る金色。火花とともに跳ねる黒色片。振り下ろされた蒼白色の槌は真下にあるものに重厚な一撃を与え、――その代償として自らに亀裂を刻み込んだ。
「――今さら何の真似ですか」
骨の獣の足が持ち上がった。否、想定外の障害物に弾かれて浮き上がった。たかが一歩、それでも後退させられたという事実に屈辱を覚えた獣が見据える先には長大な体躯の龍が研ぎ澄まされた瞳で睨み返していた。黒い鱗が全身を鎧のように覆い、その頭には金色の角が雄々しい兜のように輝く。そして両手に握る朱と翠の珠からはそれぞれ龍自身と同等の威圧感が溢れていた。
「我を通すと決めた。だから戦力が減ると困るんだ」
武将の意匠を纏う龍――ヒシャリュウモンへと進化した月丹の背後で将吾は己の立ち位置を再定義する。その視線に迷いはなく、覚悟に躊躇はない。今意見を覆すことだけは彼らの足元に転がる数体の亡骸が許さない。
「ビルから逃げた連中を糧にした訳ですか」
「おぞましいと思ってもらって構わない」
「浅ましいとは思いますよ」
睨み合う二人の立場はもう平行線となることが確定した。言葉の説得で精神的にそれを覆すことはできない。寧子には最初からそのつもりは無いのだから関係ないことだ。だからここに来て交わすやり取りは疑問の解消と一方的な感情の吐露でしかない。
「やるって言うんですか。勝てる見込みもないのに。大義もないのに」
「諦めきれないだけだよ。寧子ちゃんの分も」
「なんですかそれ……余計なお世話なんですけど」
爪が肉に食い込む程に寧子の拳が無意識に握られる。その理由を考えることすら放棄する程に彼女の意識は将吾に、彼を変えられなかった現実に固執していた。思えば結局戦いを挑んでからここまで将吾の考えは一度も変えられていなかった。気持ちは大野大河の死を引きずったまま、それを救える可能性に縋り、遂には罪を背負う覚悟まで持ったような素振りをしだした。
「本当に……嫌になる……なんで……」
思い通りに動いてくれない相手に感情を乱される。それがどれだけ苦しいことか嫌という程知っている筈なのに、学習能力のない脳はそれを処理できずに負荷を抱える。だからオーバーヒートするのに時間は掛からない。
「なんで邪魔するんですかッ!!」
骨の獣が跳ぶ。間合いが詰まるのに一秒も掛からず、振り下ろされる右足は靄を纏って地面を抉る。だが、抉れたのは地面だけ。月丹はしなやかな身体を揺らして直撃を避け、アハトは最低限回復した筋力で跳ね上がってさらに後方へと逃れていた。アハトを追撃しようものなら既に反撃の体勢に移っている月丹の一撃を受けるのは確実。初手で二体の距離が詰まった段階で、元々のマッチアップへと引き戻されることになった。
「言っただろ。まだ諦められないんだ」
「そればっかり……余程あの人が大事なんですね」
「そうだ。じゃないとここまで意地は張れていない」
「そう、ですか」
真正面から向かい合うのは互いの契約相手も同じ。互いに視線を逸らさずに、代理人たるモンスターに己の思いを託す。
骨の獣の脇をすり抜けて月丹はその頭上へ回る。骨の獣が鬱陶し気に翼をはためかせようとしたところで、その翼ごと押し付けるように長大な体躯で締め上げる。進化に伴って契約相手と同等に磨き上げられた精神力は恐怖を呼び起こす黒い靄も通用しなくなった。そうなった以上、鉋で削るような音を立てて回転を始める龍を止める術はフィジカルにしかない。
肉のない両前足を何度も乱暴に叩きつける様は見た目に反して生のためにもがく獣のよう。その足掻きで開けた隙間を抜け出すには図体が大きすぎた。
「あ?」
獣の右後ろ足が――厳密にはその骨が獣から外れる。その不審な挙動に将吾は目を見張り、月丹も拘束に割く意識が緩まった。その瞬間を逃すことなく、骨の獣は黒煙を瞬間的に噴出。十分に広がった隙間を前足で押し広げて拘束から逃れる。月丹が身体から離れた獲物に意識を戻す頃には、奴は頭上で体勢を整えて、重力に従って噛み砕こうと降下していた。
「流せ!」
大地を抉る骨の顎。獲物はその内におらず、恨めしそうな表情で仰いだ頭上でこちらを見下ろしている。一方でその月丹も相対する敵を異様に感じていた。何せ骨の獣が切り捨てた筈の足はいつのまにか元通りの位置にあり、その一部として何不自由なく動いているのだから。その足に目に見えて分かる罅さえなければ、強者と相対する恐怖を再び思い出していただろう。
「あんな……思われて……本当に……ぃゃ……」
圧倒的な差が生まれているとすればそれは契約相手の方。少し前までは持てていた余裕も寧子の内から完全に消え失せた。従えるモンスターのように冷たい仮面は溶けて、赤らんだ顔の目元には暖かい雫が滴る。
「なんでこんな思いしなきゃいけないんですかッ!」
寧子の叫びの真意は彼女自身にしか分からない。王子様のように涙を拭えるような人格者がそもそもこの場に存在しない。
「それは俺が君の望むような男じゃないからだろう」
「……なんて?」
だから将吾も自分が口にできる答えが彼女の望むものだと思わない。きっと自分はこれから彼女が嫌がる選択を続ける人間だ。過去に縛られることを選んだ人間に現状と未来を憂う人間の気持ちなど分かる筈もない。その確信は今このときだけは正しかった。
「なんでそんなことを言うんですか。そんな……違う……」
泣き腫らした目で寧子が膝を着く。彼女の戦意は蠟燭の火のように揺らぎ、その不安定さが契約相手の動きに波及することに頭が回らない程に動揺が表に出ていた。
骨の獣がどれだけ爪を振るおうと、標的は泥鰌のようにすり抜ける。保険として纏わせていた黒い靄も最早通用しない。そうなれば隙を晒すのは骨の獣の方で、龍の兜から部分的に顕現した刃が文字通りの返しの太刀となって斬りつける。
似たようなやり取りは既に三度繰り返された。注意力の欠けた攻撃に対する研ぎ澄まされた会心の反撃。刻まれた裂傷のすべてがけして浅くはなく、足の一本が斬り落とされるまでに新たに刻まれる傷は二桁も要らなさそうだった。
「もう終わりにしよう。本当にごめん」
将吾の言葉をキーワードとするかのように、月丹の身体は変化を始める。身体のしなやかなさはそのままに、背中側に少し反りながら頭から尾までを豪快な一筆のように伸ばす。
尾は柄に、頭は刃に。象るは一振りの太刀。その完成を持って敵を両断せん。
「――それは困る。戦力を減らされて困るのはこちらも同じだ」
完成間近の刃に――刃になりかけていた角の一つが弾け飛ぶ。掴みどころのない黒い靄では呼び起されなくなった死に対する畏れを、肉体的な痛みを伴う確かな白い光が伝える。
それでも名刀になり損ねた龍の生命も殺意も潰えてはいない。一度無様に地に落ちてもまた優雅に舞い上がり、己の誇りを傷つけた女天使を睨みつける。
「手を出さないんじゃなかったのか」
「見世物としては十分だというだけさ。今日はここまでにするといい」
きつく睨みつける将吾を晴彦は女天使の胸に寄りかかりながら悠々と見下ろす。嘘をつく必要すらないという余裕が透けて見えるのが癪に触る。だが将吾としても悪くない提案であるのは事実だ。
「待ってください天城さん!」
「安心したまえ。及第点だ」
「違う! そんなこと――」
「年上の忠言は聴くものだよ」
寧子が納得できなくても彼女にはその要請を覆す権利はない。彼女自身が身を持って理解するのには晴彦が軽く一瞥するだけで充分だった。評価通り戦力としての力と覚悟は認められた。だが、戦況をコントロールするにはまだ足りない。寧子が被った損害が涙を拭って屈辱を噛み締めるだけで済むのならその方がいい。
「子供はおとなしく帰る時間だ。そら君も」
「素直に帰ると思うか」
それでも将吾の口からは剥き出しの敵意が零れた。立場として正しくとも、こちらの理になる提案をしていても、この男の言動を素直に受け入れられるほど大人ではない。
「それは困るな。こっちも手を変えなくてはいけなくなる」
剥き出しの敵意に対して晴彦はわざとらしく視線を逸らす。その先に寧子が居るのを確認すると今度は将吾が屈辱に奥歯を噛むことになる。結局この戦況を握っているのは最初から晴彦で、一瞥で他の意見を封殺できる程度には差があった。
「早くこの戦いから抜けてください」
「それはこっちの台詞だ」
最早寧子と将吾に選択肢はなく、二人は互いをけん制しながら帰還の準備を始める。晴彦は既に二人から興味を失ったらしく、将吾に対して敵意どころか視線も向けていない。態度は癪に触るが、将吾を追い討ちするつもりはないようだ。
その理由が外れた視線を追った先にあることに気づいた頃には、新たなマッチメイクは既に確定していた。
「……ふ、ぅ」
退去シークエンスが軌道に乗って視界が白み始めたその時、将吾は自分の後ろから漏れる荒い吐息を聞いてしまった。
「……なんで戻らないんだあんた?」
「ご指名だよ。随分気に入られたらしい」
薄い視界の中で振り返ればそこには額に汗を滲ませた鈴音が居た。傍らのアハトも多くの裂傷のせいか未だ動きは鈍い。
戦いは終わり、互いに撤退する。それは将吾と寧子だけの話であって、他の二組は含まれていない。最初から晴彦は鈴音を逃がすつもりはなく、ここまでの戦いの間もエンジェウーモンに狙いをつけさせていた。
「待てよ。これ以上は無理に――」
「話をつけるよ。なんとかして、ね」
撤退の選択は覆らず、戦いを終えた者は元の時間に戻される。再び挑もうとするのなら、相応の用意を求められるだろう。
「足掻くといいさ。なんともならないがね」
晴彦が指を鳴らすと彼の後方から不規則な地鳴りが響く。それが多数の足音だと認識する頃には発生源も確認できた。十を超す成熟期相当のデクス。それらすべてがアハトと逢坂鈴音を葬るために用意した彼の手駒だ。
ゲームの観覧者は自分に圧倒的に有利な場を整えて舞台へ上がる。その目的は相手に勝つことではなく相手を弄ぶことにあることは明白だった。
毎度感想ありがとうございます。
願い叶えるために戦う系の奴の二番手は大事な人のために奮闘してる奴が鉄板だろというのが将吾の始まりな訳で。思えば印象が強いのはロンのせいだったので必然としか言いようがないですねこれは。ちなみに通り魔は今のところデジモンとは無関係の奴です。
将吾はぶれないことを選んだために、正論をぶつけているはずの寧子が吐きたくもない本音を出してキレるのも当然至極なわけで。平行線で敵対する立場が確定した以上、寧ろ互いを集中的に狙う方向性になるかもしれません。大事に思ってるから互いの契約相手をさっさと潰して逃がすのが一番安全で穏便な手段なわけで。
ワイン持ってそうな裏切り者の似非神父が自分の愉しみを逃すわけがなかったわけです。自分の信じる正義は貫いても遊び心は忘れていない大人という訳ですね。
遅くなりましたが続き来てた! そんなわけで夏P(ナッピー)です。
お、お前初めて知った、いや匂わされたはいたが、そんな秋山蓮みたいな過去持ってたんか……デジモン全く関係ない素の通り魔ってことでいいのかなこれは。そして寧子ちゃんが止めたいと思うのもまた必定、そういう意味で今回の戦いは最初から最後まで平行線(フラット)で互いに何も進展も後退も無かったと言っていいのだろうか。
しかし一段落したと見せかけ、傍観者同士かと思ったら皆大好き「手を出さないとは言ってない」の黄金理論でそのまま別の戦いが始まってしまうううう、これお姉さん死んだわ。死なないといいが。
というわけで次回もお待ちしております。