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第29話:倒すべき敵~『闇』~
それは数日前の出来事。
『ぐっ……も、もう駄目だ……!』
死んだ。目の前の状況に、彼――園田靖史は確信した。
状況がさっぱり掴めなかった。いきなり東京に飛ばされたのかと思ったら、町中には人っ子一人いなくなり、反対に立ち並ぶ高層ビルの合間を巨大な生物が徘徊しているのだから。八雲や朱実がしたのと同じように、靖史もまた自分が陥っている状況が夢ではないかと疑って、最終的には肉が削ぎ取れるのではないかと思うぐらいに強く頬を抓ってみたものだ。
だが起きているのは紛れも無い現実だった。肉食獣が吼え、草食獣が立ち向かう。既にそこは捕食者の領域。
『マジかよ……!』
元々、自分はインドア派だ。外に出ることを好むタイプではない。
アロサウルスみたいな化け物に追われ、プテラノドンのような怪物に遭遇し、散々逃げ回った挙句、遂に体力が限界を迎えて路地裏に倒れ伏した。何故かわからないが、この状況に陥ってから体力の消費が激しい気がする。何度コンビニで食料を調達しても、あっという間に疲れてしまう。体力が無いことは自他共に認めるところだが、これは早すぎる。まるで自分の体が何かに蝕まれているようだった。
無論、彼を蝕んでいたのは【反転】による変革の中で生じた世界との摩擦であり、契約を交わしていない靖史は既に生存できないほどに身体機能が弱体化していたのだが、彼自身がそんな世界のメカニズムを知るはずも無い。故に彼にとって死は必然。避け様のない黄泉の国への扉が開いていた。
最早その体の存在さえ希薄だ。まるで自分が透明人間になったような気さえしてくる。
『アイツらは……上手くやってんだろうな……』
不意に思い返されたのは、怪物と戦う二人の男女の姿。
その内の片方は、自分が生涯の親友と認めた男だ。だが彼があんなに強いということを、自分は全く知らなかった。この自分では鉄パイプを用いても怯ませることしかできなかった怪物を、彼は殆ど生身で打ち倒したのだ。その勇姿は惚れ惚れとするほど格好良かった。そう、靖史が昔から憧れていたヒーローの姿が、そこにはあったのだ。
だが次の瞬間、彼は僅かながらも怒りを覚えた。それは当然、自身の親友に対してだ。
彼は、渡会八雲は全てにおいて自分、つまり園田靖史よりも優れていた。運動神経は抜群で勉強はそれなり、困っている人を放っておけないお人好しで女の子にもモテる癖に、それに驕ることもなく、他者には極めて下手に接する奴。そんな彼の完璧さが羨ましかったと同時に、そんな人間がどこまでも平凡な自分を親友だと思ってくれていることが、靖史には何よりも嬉しかったのだ。
そのはずなのに、あの木偶の坊との戦いの中で八雲に助けられたという事実を思い出し、彼は憤っていた。
自分の力を見せびらかすこと無く、必要な時のみ力を振るう。それは確かに靖史が考えるヒーローの姿そのものだ。だがヒーローなど存在しないということを、既に大人になりつつある彼は知っている。渡会八雲はヒーローではない。勿体ぶって自分の力を出そうとしない、ただの臆病者だ。そして、そんな彼に助けられた自分が情けなくて仕方ない。彼よりも弱い自分のことが、情けなくて仕方ない。
何気ない会話の中で、八雲はいつも「俺はそんな大した奴じゃないよ」とため息混じりに笑う。誰よりも強い癖に、誰よりも優しい癖に、彼はそんな自分を卑下し、高みに立つことを拒否する。それが許せなかった。強い奴は強い奴がいる場所にいなければ、優しい奴は優しい奴と同じ土俵に立たなければ嘘だ。如何に卑下することで自分を下に置いたとしても、その存在は同じく下にいる者にとっては嫉妬と羨望の対象にしかなり得ない。
だから許せない。今度顔を合わせたらぶん殴ってやりたいが、奴には軽く捻られてしまうだろう。
『ま、いいか……』
尤も、そんなことは今となってはどうでもいいことだ。
だって、俺はこれから死ぬのだから――。
『……ん?』
そんな時、不意に自分の体に影が差した。
どうやら何かが頭の上に立っているらしい。そっか、これで俺は殺されるんだろうなと、園田靖史は他人事のように思った。実際、こんな感覚の無い体では剣や槍で貫かれようが生きながら丸呑みにされようが、何の痛みも知覚しないだろう。痛みも苦しみも感じずに死ねるというのなら、それに勝る喜びは無い。
だが投げ掛けられた言葉は、僅かながらの哀愁に満ちていた。
『人間、こんな場所で何をしている?』
涼やかな声。男の口調でありながら、声音は女性のように感じられた。
『見ての通りだ。……これから死ぬのさ、俺』
『……それは流石に嘘だろう。お前は怒っていた。既に死を受け入れた人間が、あんな顔をできるものか』
そこで初めて、靖史は頭上に立つ者を視認した。
その場に超然と立ち尽くしていた存在は、漆黒の鎧に身を包んだ戦士。鎧の各所に目玉のような文様があるのが気になるが、何か意味があるのだろうか。背後に同じく漆黒のドラゴンを控えさせたその存在は、哀愁に満ちた声とは無縁の無機質な瞳で、仰向けの園田靖史の姿を見下ろしていた。
奴は不気味な存在だった。だが殺気は感じられない。
『……その憤りの出所を教えてもらおうか?』
『別に。ただ、殴りたい奴がいるだけさ。……尤も、俺なんかじゃ到底敵わない奴だけどな』
そんな靖史の言葉に、漆黒の戦士は僅かに微笑んだようだった。
『ならば問おう。……力が欲しい? 園田靖史君』
『なっ――』
刹那、キィィィィンという耳鳴りが響き、靖史は力の入らない腕で耳を押さえた。
聞こえてきた声は相変わらず女性にも似た色を纏っている。それは今まで男性的な口調だった漆黒の戦士が数秒の沈黙を経て発した声だ。けれど、その声が宿す色は先程と全く変わらない。男なのか女なのかすらわからない戦士の声が、まるで呪詛のように園田靖史の心を蝕んでいく。
『なっ、何で俺の名前を……?』
『……だから力が欲しいのかと聞いているの』
その言葉に打ち震える。体は否定しているのに、心が奴の言葉を受け入れんとしている。
響く耳鳴りは次第に激しくなり、最早自分が何を聞いているのか、誰と相対しているのかさえわからなくなるほど。だが崩れていく心の中でも、少しずつ芽生え始めた親友への嫉妬と羨望だけは決して消えることは無かった。八雲が羨ましい、八雲が憎たらしい、八雲を殴り飛ばしたい、八雲を――。
だから迷い無く答えた。
『……ああ、欲しい。アイツに負けない力が』
見れば、自分の腕が頭上に立つ戦士のものに変化している。続けて、足や体までもが同様の変化を始めた。
その様にも、また闇の戦士の姿が次第に透明化していく様にも、彼は何の感慨も覚えなかった。その心にあるのは、ただ自分の親友より強くなりたいという強い思いのみ。故にその思いが靖史の力を高める。今や自分の契約者となった漆黒の竜が黙っている様が妙に気になるが、ひょっとして気を遣っているのだろうか。
消え行く闇の戦士に、既に奴と同じ存在と化した靖史は静かに問い掛ける。
『最後に聞いとくが。……お前は誰だ?』
『……言うまでも無いことだけど、まあ聞きたいのなら……』
仮面の下で笑ったように見えた漆黒の戦士は、消滅の寸前に己が名を告げる。それは――。
「闇の闘士、ダスクモン!」
高らかに名乗りを上げる闇の闘士。
それは運命のあの日、香坂神社で遭遇した漆黒の騎士だ。闇の黒鳥から変化し、恐れず立ち向かってくる八雲と朱実の姿を前に薄く微笑んだ、背徳の騎士の名。奴との邂逅こそが、自分達がこの奇妙な騒動に巻き込まれる要因になったというのに、何故そんな奴に靖史が進化するというのか――?
だが闇に染まる漆黒の体は、間違い無くあの夜に見た魔人に相違無い。
「お前、本当に靖史なのか……」
「……馬鹿な。園田君が十闘士だというのですか……」
流石の八雲とミスティモンでさえ、それには狼狽を隠し切れない。
だが放たれる波動、邪悪な雰囲気は明らかに八雲の知る闇の闘士そのもの。見間違えるはずもない。始まりのあの日、朱実と自分の前に現れた、白骨鳥というもう一つの姿を持つ漆黒の魔人。アグニモンやヴォルフモン以上の威容を持って、奴はそこに佇んでいる。
「な、ならあの時のダスクモンは靖史、お前なのか……?」
「……あの時? ああ、俺達がグロットモンやアルボルモンに襲われた前の日のことか」
そう呟きながら、奴はその瞳を愉悦の色へと変えていく。
「だが残念だな、それは違う。その時のダスクモンは、まあ要するに幽霊みたいなもんだ」
「……どういうことだ?」
その意味がわからず、思わず問い質す。
あの時に戦ったベルグモン、またはダスクモンには自分や朱実の攻撃が確かに通用したし、相手の攻撃もまた確かな現実だった。奴の固い腹を蹴り飛ばした感触は、未だに八雲の足に残っている。幽霊などということがあるはずがないのだ。
だが、それすらもダスクモンは見透かしたかのように嘲笑い。
「前にも言ったろ? お前やあの女が人間界で戦ったダスクモンやグロットモン、アルボルモンは本来よりも弱体化した存在だって」
そういえば、確かに靖史はそんなことを言っていた気がするが。
「簡単に言えば、お前らと戦った時の十闘士は本来の六割程度の力しか持ってなかったわけだ。……だが闇の闘士だけは違う。奴は元々、どの世界にいようと全力を出すことはできない。何故かって言えば、奴は最初から実体を持たなかったからだ。人間がスピリットを使って進化するのが十闘士だろ? その人間としての姿を持たないのが闇の闘士、ダスクモンだったのさ」
「てことは靖史、お前はそのダスクモンから――」
「……ご名答さ。偶然奴と出会えたのは運が良かったよな。こんなにも強い力と、最高の相棒を与えてくれたんだから」
そう言って、ダスクモンは背後のメフィスモンを振り返る。その彼の瞳には狂気にも似た愉悦の色が浮かんでいるように見えて、八雲は思わず目を逸らした。単なる殺戮のための協定。そんな関係の彼らが互いを最高の相棒と呼ぶのは、何か違和感があった。
ダスクモンと八雲の距離は8メートルほど。当然その程度の距離なら八雲は一秒以内に詰められるだろう。――だが。
「だから言ってやるよ、八雲。十闘士の本来の力を前にしたら、お前なんて相手にもならないんだぜ。下手に歯向かえば死ぬだけだ。自分でもわかってるよな? 俺がいなけりゃ、お前はヴリトラモンにもペタルドラモンにも勝てなかったんだ」
「そ、それは――」
わかっている。そんなこと、最初からわかっている。
常人の身で異世界を救った英雄を打倒しようとすること自体、自惚れにも程があるということなど、言われなくてもわかっている。だがそれでも八雲はあのクラウドという男にだけは負けたくなかった。自分を完膚なきまでに叩きのめした炎の闘士。彼にだけは負けっ放しでいてはならないのだと、八雲の中に存在する本能にも似た部分が告げていたのだ。
だが靖史は違う。彼は自分の親友だ。如何に十闘士とはいえ、そんな彼と戦うことなどできるはずがないのだ。
「……お前に戦う気が無いんなら、俺がその気にさせてやるよ」
ダスクモンが身を低くする。突撃してくる気か。
「剣を構えろよ、八雲。下手したら死ぬ……ていうか、殺す気で行くからな」
まるでジェット機かと錯覚するスピードを以って、ダスクモンは突進を仕掛けてきた。
正直、八雲は今まで十闘士の戦闘力を甘く見ていた。奴が何をする気なのかは理解できていたのに、その凄まじいスピードに体が追従できない。故に回避することなど叶わずに奴の体当たりを受け、八雲は為す術も無く数メートル後方に吹き飛んだ。
息が止まり、体が宙に浮く。
「がっ――――!」
「や、八雲君!」
大地に叩き付けられた彼は、激しく転がり回る。
受身など取れるはずも無い。それぐらい強力な一撃だった。そもそも、十闘士を前に人間風情が勝ち得るはずが無いのだ。運命のあの日、グロットモンとアルボルモンに対して朱実と八雲が優勢に戦いを進め得たのは、全て靖史の言う通り、単に戦いの場所が人間界だったというだけのこと。融合世界にて当初、朱実や八雲が身体能力の低下を受けたのと同じように、奴らもまた人間界で能力が下がっていたからこそ、朱実と八雲は十闘士とも互角に渡り合えたというだけのことなのだ。
だから彼が万全の状態のダスクモンを相手に回した時点で、生き残れる可能性など皆無だ。
「……おいおい、その剣は飾りか? 本気で来いよ、それを俺は叩き潰してやる!」
「靖史……」
顔を顰めて立ち上がりながらも、八雲は腰の龍斬丸を見やる。今の一撃で口の中を切ったのか、下手をすれば歯が一本折れたのかもしれない。口の中に甘いような苦いような味が広がっていく感触が走る。
そんな彼の視線の先でダスクモンが両手に出現させたのは、二本の剣。まるで獲物の返り血を浴びたかのように真紅に染め上げられたそれは、剣として使い勝手がいいようには見えないが、奴の武器には相応しいようにも思える。
剣を振り翳して突進してくるダスクモン。その速さは八雲の知る限りでの最速、朱実よりも速い。
「消えろぉーっ!」
「チッ――――!」
だが剣は抜けない。心も体も否定している。自分がここで剣を抜くことは違うのだと。如何に相手が闇の闘士であるダスクモンだろうとも、自分が今この場で龍斬丸を引き抜いた瞬間、渡会八雲としての自分自身は跡形も無く崩壊するのだと。
そう、この龍斬丸は己の進むべき道を見据えるためのもの。そうだとしたら、迷いがある今の自分には相応しくない武器だった。
「八雲君、下がって――」
「……させねえよ。お前の相手は、この俺だ」
「くっ、メフィスモン……!」
飽く迄も八雲とダスクモンを一騎打ちさせようと、メフィスモンはミスティモンの前に立ち塞がる。
如何に完全体に進化したミスティモンとて、同じく完全体のメフィスモンは決して無視できる相手ではない。繰り出された強烈な拳を剣で受け止めることこそできたが、八雲の援護には行けそうにない。歯軋りする。何故こんな状況に自分達は陥っているのか。
八雲は動かない――否、動けない。
「戦えよ、戦わなきゃ死ぬんだぞ……!」
「お、俺は……俺は……」
迷いが消えない。ダスクモンの方にも躊躇があるのか、一瞬だけ剣先が鈍った。その隙を突き、八雲は後方に飛び退いて距離を取ろうとするが、そんなものはダスクモンにとって距離を取ったことにすらならなかったのか、まるで呼吸をするような自然さで一気に肉薄された。
それが信じられない。自惚れでなく、運動神経には何よりも自信を持っていたというのに。
「なっ――」
「……甘ぇよ」
剣を振るまでも無い。そう言わんがばかりの強靭な足での廻し蹴り。
まるで己の体が紙切れのように宙に浮いた。再度大地に叩き付けられるが、先程ほどの痛みは無い。既に痛覚が麻痺しているのか、それとも本能的に受身を取れたのかは知らないが、これならまだ立てないことも無い。
だがそれでも剣は抜かない――否、抜けない。それがダスクモンには不満だったのか。
「何でだ……何で剣を抜かない。俺は殺す気で攻撃してるってのに、何でお前は反撃しないんだ、八雲!」
「彼の言う通りです! その者は既に園田君ではない……戦ってください!」
ミスティモンの言葉が耳に痛い。人のことは言えないのだが、あのメフィスモンとの戦いの中で他人のことを心配するなんて、お人好しな奴だよなと心底思う。ジュレイモンを容易く葬った相手との戦闘なのだ。油断すれば一撃で勝負が決してしまうほどの死闘のどこに、渡会八雲の身を気遣う余裕があるのだろう――?
そこまで考えて、八雲は朦朧とし始めた頭の中で自嘲した。
そう、ミスティモンのことは笑えない。それは自分も同じだったか――。
ここまで来ても、八雲の頭の中に死への恐怖は無かった。彼の脳裏を占めるのは全て靖史のことだ。どうしたら彼を救えるのか、どうしたら彼を元通りの園田靖史へ戻すことができるのか。自分の命など二の次だ。
だから救う相手に剣を向けることなどできない。それが渡会八雲の結論だった。
「ふざけるなよ、八雲……俺が、俺がここまで本気だってのに! それでもお前は俺を見ないってのかよ!」
「――――――」
その言葉が耳に突き刺さる。そう、八雲はダスクモンに進化した今の靖史など見ていない。
だから自分の体をダスクモンの拳が幾度と無く捉えようと、そんなことは些事でしかない。確かに強烈で痛い。しかしこの程度の痛みなら耐えられる。彼を本当に救いたいのであれば、そんな痛みぐらい耐え切れずしてどうする――。
だがダスクモンの苛立ちは止まらない。
「殺されるんだぞ? 死ぬんだぞ? それなのに、何で反撃しようとしないんだよ!」
ダスクモンは力を一割か二割程度に抑えている。だから如何に直撃だろうと、人間である渡会八雲の命すら奪うことはできまい。それでも人間にとっては、プロボクサーのジャブ程度のダメージは与えているはずなのに。それなのに、渡会八雲はそれを全て甘んじて受け止める。
それはまるでサンドバック。数日前、デビドラモンの攻撃を同じようにして受け続けた闘士がいたのだが、既にダスクモンはそんなことなど忘れている。
だが如何に殴られようとも反応が無い。それに苛立ったダスクモンは、少年の胸倉を掴み、高々と持ち上げる。
「何でだ、俺は……俺はそんなにも戦うに値しない男か!?」
「俺は……お前とは戦えない」
血を吐くようなダスクモンの言葉にも、渡会八雲の答えは揺るがず。
故に苛立ちのままにその体を大きく投げ飛ばす。彼の身体は最早満身創痍。今までの打撃を鑑みれば既に立つことすらままならない状態のはずだった。それでも八雲は立ち上がる。その足元を激しくふらつかせながらも、彼は飽く迄も毅然とした表情で、ダスクモンの姿を見据え続ける。
その様がダスクモンには無性に癪に障った。如何に打撃を与え続けようとも揺るがぬ八雲に対して、彼は本能的な恐怖を覚えていたのかもしれない。
「そうかよ、そういうことなのかよ……結局、お前はどこまでも、俺を馬鹿にするしかしないんだよな……!」
その瞬間に彼の中の嫉妬心は爆発した。
そう、渡会八雲は園田靖史にとっては憧れであり、同時に憎悪の対象であった。誰よりも高い位置にいながら、誰よりも低い位置に自分を置こうとする存在。靖史はそんな凄い奴と自分が付き合えていることを喜ぶのと共に、常に超えられぬ壁を間近で見せ付けられ続けられてきた。それ故に靖史が八雲に嫉妬を抱くことも無理はあるまい。
「興が冷めた。……今日は止めだ」
決して届かぬ高みから突き放された時、人は最も絶望するのだから。
「けどお前は必ず俺が……この闇の闘士、ダスクモンが倒す。そうして、俺を認めさせてみせるからな……」
「――――――」
「だからその時は、必ずあの女と来い。……まとめて殺してやるからよ」
そう呟き、ダスクモンはその場を後にした。足止めの任を果たした故か、メフィスモンも不敵な笑みを零して彼に続く。静かに粒子化を始め、ダスクモンが園田靖史の姿へと戻っていく様を、八雲はただ呆けたように見つめていた。何も言うべきことは無い。自分達はたった今決別したのだと、なんとなく把握していた。
自分達の進む道は捻じ曲がっている。交わるようでいて、いつの間にか遠く離れてしまう、何か螺旋のようだと思う。
「八雲君、しっかり!」
「あっ……ミスティモンか……」
そこまで来て緊張の糸が切れたのか、八雲は静かに崩れ落ちる。
その体を駆け寄ってきたミスティモンに抱き留められながらも、彼の目はただ一点、歩き去っていく園田靖史の後頭部にしか向けられていなかった。自分への嫉妬から闇の闘士のスピリットを受け入れ、ダスクモンとしての力を手に入れた少年。
八雲の心を占めていたのは、どうすれば彼を救えるかという、ただそれだけのことだった。
結局、その日は殆ど進めなかった。
ナイトモン自身、この朱実という少女と行動を共にするようになって最も驚かされた事柄と言えば、彼女がいつでもどこでも寝られる体質だったことだろうか。普通、人間の少女とはデリケート、悪く言うなら神経質な性格が多いと聞いている。だが彼女からはそんな印象など微塵も感じられない。今日もまた、ビル街にあるベンチで呑気に眠ろうとしているのだから。
それは頼もしい点でもあるのだが、今日ばかりは勝手が違った。
「……来たね」
「そのようですね」
夜空を見上げて小さく呟き、朱実は跳ね起きるようにして立ち上がる。
彼女が目を向けた先には、既に来客がいた。それは全身を鋼と鏡で覆い尽くした異形の者。瞳の無い表情ながら、奴から感じられるのは侮蔑と嘲笑のみ。たった一体にも関わらず、奴が放つ異様な雰囲気はあのベルゼブモンにも決して劣るものではない。
というより、奴は明らかに突然変異体ミュータントであるため、それだけ異質さはベルゼブモンを上回っているとも言えよう。
その立ち居振る舞いだけでも、朱実は「できる」と直感した。彼女がそう感じたということは、奴はその手のモンスター染みた強さだけでなく、朱実が求める強さにも通じており、またその強さも半端ではないということか。
一度だけ、朱実は強く目を擦った。何故かわからないが、やはり奴の姿が自分の良く知る人間のものと被ってしまうのだ。
「……チッ。何を今更なことを考えているんよ、アタシってば……!」
「ほう、何が今更なのだ?」
その声が聞こえていたのか、奴の口の端が愉悦で持ち上げられる。
大仰に肩を竦める奴の仕草は陰険にして尊大。だが劣悪な雰囲気を持ちながらも、彼はそんな空気を容易く振り払うだけの高貴さをも持ち合わせている。あのグロットモンやアルボルモンが小物に見えてしまうほどに、奴の纏う空気は純粋だった。
そうして奴は静かに名乗りを上げる。
「自己紹介が遅れたな。……私は伝説の十闘士が一人、鋼のメルキューレモン」
風に消え去るような声で呟いた奴の額が、妖しく輝いた。
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第30話:倒すべき敵~『鋼』~
鋼の闘士、メルキューレモン。それが奴の名か。
「……良い面構えだな。流石はベルゼブモンを唸らせるだけのことはある」
「アイツのこと、知ってんのね。……でも、そう言うアンタも只者じゃないみたいだけど?」
飽く迄も挑発的な言葉を奴に向ける朱実。
だがそれは普段ほどの覇気が含まれた言葉ではなく、むしろ虚勢に近いもの。それも当然のことかもしれない。目の前に立つ闘士からは、絶対的な死の気配を感じる。無論、単純な戦闘力なら七大魔王の一角であるベルゼブモンの方が遥かに上だろう。メルキューレモンとベルゼブモンが直接対峙すれば、鋼の闘士は一瞬にして倒される。
だが強さとは違う理由で、長内朱実が長内朱実である限り、絶対に勝てない相手だと実感できる。
それはナイトモンも理解している。だからこそ、朱実よりも一歩前に出て相手の出方を窺っているのだろう。正直、この状況ではナイトモンのその判断は朱実にとっても嬉しいもの。だが懸案事項がまだ一つ残されている。
残る問題は周囲から油断無く放たれているこの殺気。奴は目の前にいるというのに、他の場所からも自分達へと向けられているその殺気は、紛れも無く絶大な殺意を纏っている。無論、その殺気は決して鋼の闘士に引けを取らぬ。
だがそれを。
「ああ、心配は要らんぞ。奇襲などという姑息な真似はせん。私が望むのは飽く迄も一対一の真剣勝負なのでな。……意表を突いた攻撃などで決してしまっては、つまらぬだろう?」
「……つまり、この敵意はお前の手の者ではないということか、鋼のメルキューレモン」
相変わらず周囲を警戒するように見回しながら、ナイトモンが問う。
だが朱実にとっては、それこそが無用な質問だと思う。奴の考えは驚くほどに自分と同じ。奇襲など弱者の用いる姑息な戦法にすぎん。本当の強者であるのなら、挑むのは正面から向き合った状態で開始される白兵戦。それこそが真に自分と相手の強さを推し量れる戦いだと、朱実は信じて疑わぬ。それと全く同じ考えを、この鋼の闘士は持っていた。
ナイトモンの問いに鋼の闘士は僅かながらも困ったような表情を見せた。
「言ったであろう? 私が望むのは、一対一の戦いだと」
刹那、周囲の闇から何かが放たれた。
「なっ――!?」
鋭い刃物のように見えるそれは、ナイトモン目掛けて飛来する。だが鈍重なその外見にも似合わず、ナイトモンとて並大抵の戦士ではない。素早く身を翻して後方へと飛ぶことで、飛来したそれを辛くも回避する。
結果的にナイトモンの足元に突き刺さったそれは、暗器だった。
「な、何奴!?」
ナイトモンが思わず叫んだ瞬間、鋼の闘士の隣には闇から這い出たような存在が片膝を付く形で佇んでいた。
「……紹介が遅れてすまない。彼が私の契約者だ」
「お初にお目見え仕りますねぇ。私の名はドウモン。……鋼の闘士、メルキューレモン様の契約者」
その声は歌うように涼やか。彼の姿は闇夜を吹き抜ける一陣の風を思わせる。
敵意も殺意も無い。ただ命じられたからそこにいる。ドウモンからはその程度の気しか感じられぬ。故にナイトモンとしては不快感を覚えざるを得まい。この敵を相手にしたところで、自分なら数秒ほどで片付けられる。敵と認識することすら馬鹿馬鹿しいとも感じられるのだ。戦闘力の違いは明らか。無論、自分の圧勝だ。
だというのに、ドウモンはナイトモンの姿を認めると興味深そうに目を細める。
「……ナイトモン。フッ、相手にとって不足はありませんねぇ」
「ぬっ――?」
不敵な笑みで佇むドウモンに対し、ナイトモンは怪訝そうな表情を浮かべる。
ドウモンが使用するのは暗殺術。呪術から投擲武器の使用まで、恐らく他者の命を奪うという行為に突出したスキルを保有しているはずだ。無論、ナイトモンとて能力値で劣っていることは決してない。そもそも、近接戦となればナイトモンはドウモンを相手に呪術による遠距離戦を行うつもりなどは更々無いのだ。そうなれば、必然的に格闘戦。
ドウモンの武器は暗器。これは文字通り暗殺に主眼を置く武器で、保持することを標的に悟られないよう小型のものが多い。しかし一対一での戦闘で暗器を使うのは上手くない。小型であるという利点が生かせない上、元々が殺傷能力の低い武器である故に強固な鎧で武装したナイトモンを相手にするには非常に分が悪いのだ。
呪術を以ってしても、ナイトモンの強固な鎧は貫けまい。それ故に状況は圧倒的に朱実とナイトモンに有利なのだが――。
「ぐっ……!」
それは、朱実がメルキューレモンと互角に戦えれば、の話であった。
吹き飛ばされた朱実の体が、ナイトモンの足元で止まる。それに気付いた時、既にメルキューレモンは腕を振り上げ、彼女を踏み潰さんと襲い掛かってきていた。その動きは速すぎる。ベルゼブモンには劣る。だからこそ朱実にも回避できている。だが従来のモンスターとは段違いのスピードは、かつての自分では避けられまいと直感する。
「どうしたのです、ナイトモン。……いつまでも呆けたように立ち尽くしていては、勝負になりませんよぉ?」
そんな時、相変わらず雅やかな声でドウモンが口を開いた。
「見れば随分と思案していた様子ですねぇ。邪魔をするのも無粋だったので、少々観察させてもらいましたがねぇ……既に彼らの戦いが始まってから五分以上経過しているようですが、己が契約者の危機を前にして、あなたは果たして何を考えていたのですかなぁ?」
「なっ……五分以上だと?」
そんなつもりはない。自分がドウモンの戦闘力を推し量っていたのは僅か数秒だ。
だが違うと騎士の本能が告げている。朱実とメルキューレモンの戦いは佳境に入っている。無論、人間の彼女にメルキューレモンを倒し得るダメージを与えられるはずが無いのだから、彼女はひたすら逃げに回るのみだ。そんな彼女が息切れしている様子から見ても、明らかに時間の感覚が違っている。
ということは、まさか――?
「……ご名答。我が目的はメルキューレモン様をあの小娘との戦いに専念させることでしてねぇ。ご推察の通り、私の戦闘力はそう高いものではないのでねぇ。今のあなたを倒し切るほどの力は持たぬと存じますが……しかしナイトモン。単なる戦闘力の競い合いだけが戦いではないと、あなたは知らなかったのですかなぁ?」
「貴様、わざと敵意を抑え、私に自分を過小評価させたというのか……!」
それは自身の呪術をも利用した見事な作戦だった。
ドウモンの敵意や殺意を持たぬ雰囲気から、ナイトモンは直感で奴を「大したことのない」存在として認識した。それこそがドウモンの狙い。その「大したことのない」存在を自分にぶつけてくることをナイトモンが訝しんだ時点で彼の勝ちだ。己が呪術を以ってナイトモンの時間感覚を狂わせ、長らく自身に注意を向けさせた。その隙にメルキューレモンは彼の契約者である朱実を倒す。
「敵ながら……見事だ」
そう呟くしかなかった。
対峙した瞬間から、何か違和感があった。
「アンタ、何者よ……!」
敵は答えない。その鏡を備えた両腕で自分を弾き飛ばさんと突進してくる。
確かに速いがベルゼブモンほどじゃない。何故かはわからないが、ケンタルモンがナイトモンに進化して以降、自分の身体能力が飛躍的に向上していることを朱実は感じていた。契約者の力が流れ込んできているというか、要するにそんな感覚だ。
咄嗟に横っ飛びして避けると、素早く立ち上がって拳を一撃。――だが。
「……我がイロニーの盾、人間風情に打ち砕ける物ではない」
「あっそ!」
奴は嘲笑うように朱実の拳を腕の盾で受けた。ガンという音が響く。
一旦離れて拳を庇う。如何に強固な盾とて壊れぬはずは無い。だが奴の鏡は固すぎる。下手に一撃を見舞ったところで、このままでは拳の方が先に壊れる。現に今の一撃で右の拳は殺された。ならば残る左手に全てを賭ける――!
「……猪突猛進なのはいい。けど、それが過ぎるのが朱実の悪いところだね」
「えっ?」
瞬間、懐かしい声を聞いた気がした。
「もっと頭を使うんだ、朱実。お前ならきっと、このイロニーの盾を打ち砕けるから……!」
「な、何で……?」
何故そんな言葉が鋼の闘士の口から漏れるのか。思わず顔を見上げた朱実であったが、そこに彼女の思い描くような人間の顔があるはずもなく。無機質に輝く鋼の闘士の顔があるだけ。奴は嘲笑うかのように口の端を上げていた。この程度で動揺するなど未熟だと。貴様は私には勝てないと。その口しかない顔で、ハッキリと愚弄の表情を浮かべていた。
それに反応した所為か、朱実には確かな隙ができた。
「未熟だな。……その程度では私には勝てんよ、長内朱実」
次の瞬間には既に朱実の体は高々と舞い上がっていた。
鋼の闘士の拳は彼女の体など一撃で粉砕してもおかしくない一撃だった。それを吹き飛ぶだけで持ち堪えてみせたのは、咄嗟に身を捩らせた朱実の執念があればこそ。だがそれでも脇腹に食い込んだ拳は肋骨の二、三本は持っていったと見える。
飛び出したナイトモンが朱実の体を抱き止めた。
「朱実殿! 無事ですか!?」
「……これが無事に見えんの、アンタ」
契約者の腕の中で、朱実は無様に喘ぐ。
命に別状こそ無いが、最早戦闘の継続は不可能。つまり、この戦いは彼女の敗北。ナイトモンは彼女と出会って以来の初めての敗北に戸惑いを隠せない。それは鋼の闘士の見せた強さにではなく、朱実が負けたという事実自体にである。
メルキューレモンはその様を見やり、ただ一言。
「……ドウモン。お前にはナイトモンの相手を任せたはずだが?」
「申し訳ありませんな。しかし、私とて戦う気の無い者の相手をするつもりは無いのでねぇ。見れば、彼は己が契約者の身を案じてばかり。騎士の鏡と言えばいいのでしょうが、その者を倒したところで何の得がありましょうかねぇ」
「……食えん奴だ。良かろう、今日のところはここで退く。命拾いしたな?」
飽く迄も冷淡に語り、鋼の闘士とドウモンは相次いで闇の中に姿を消す。
それを追い掛けられるはずも無い。ナイトモンは直接の手傷こそ負っていないが、既にこちらは満身創痍に近い状態。何よりもあの長内朱実が敗れ去った。あのベルゼブモンに対しても堂々と渡り合った彼女が、彼の者より遥かに劣るはずの鋼の闘士に、こうも容易く。
それが信じられない。そして、その感情は朱実とて同じらしかった。
「……甘かった。アタシは、甘かった」
彼女は怒りのままに、その拳をナイトモンの胸元に叩き付ける。
「くっそぉぉぉぉ!」
その叫びは、慟哭に似ていた。
ドウモンを従えて歩く中。
「……何でトドメを刺さずに退いちゃうわけ?」
不意に聞こえてきた声に、メルキューレモンは怪訝そうに振り返る。
まるで自分達を待ち構えるかのように路地裏に立っていたのは、黄金の頭髪を持つ光の闘士と一体の蒼き竜。その竜はメルキューレモンも良く知るブイドラモンと似ていたが、その背中に備わった一対の翼から見るに、明らかに彼の者とは明らかに趣を違えていた。エアロブイドラモン、完全体に進化したということか。
竜に守られる少女というのは、どうにも絵になる。そんな関係の無いことを思う鋼の闘士である。
「あの女、やっぱり私が殺しとくべきだったかなぁ」
「……ジャンヌ、女の子が殺すなんて軽々しく言わないでよね」
「うっさいわねぇ、黙ってなさい」
嗜めるように言うエアロブイドラモンをぴしゃりと黙らせ、ジャンヌは鋼の闘士を見据えている。
その姿にはかつての狼狽や躊躇いは微塵も無い。今戦えば前のようにはならないと、勝つのは自分だと確信したかのようなその姿。以前は目覚めたばかりで覚束無かったその心に確固たる信念が芽生えたとでもいうのだろうか。
何はともあれ、己を貫く少女の視線は鋭い。
「ねえメルキューレモン、アンタは随分とあの長内朱実に甘いみたいだけど……何か理由でもあるわけ?」
「……理由か。それを聞いてどうする?」
「別にぃ。ただ、なんとなく気になっただけよ」
それはそうだろう。だが答える気にもならないので、軽く「そうか」とだけ返してやる。
ジャンヌは年相応の慇懃無礼さと不相応の凛々しさを共有させた表情で、ジッと鋼の闘士を見つめている。不思議とその目が似ていると思った。誰に似ているかなど、言うまでもない。鋼の闘士、要するに自分の息子にそっくりなのだ、彼女の目元は。
「私達十闘士ってさぁ……本当なら世界を守るために外敵を殺して回ることが使命よね?」
「……そう聞いているし、実際私もそう在るつもりだが?」
それが自分達の使命。だがジャンヌはそんな鋼の闘士の言葉を無視して。
「そうだっていうのに、私は八雲のために長内朱実を狙ってる。クラウドは自分の憂さ晴らしのために八雲を消そうとしてる。そして、アンタは……長内朱実のために、あの女に倒されようとしている」
「なっ……」
「世界を守る以前に、あんな女に倒されるなんて論外よ。……そうでしょ、鋼の闘士さん?」
「お、お前……何故それを――?」
「……そりゃ、あんたを見てれば普通気付くでしょ。殺そうとしてる相手にアドバイスする奴なんて、普通いないわ。いるとしたら、ソイツは正気の沙汰じゃないか、または相手に自分を超えることで何かを気付かせようとしている。大抵の奴なら、そう考えない?」
全て気付かれている。この少女には自分の考えを、全て見透かされている。だがそう語った少女の顔には何ら変化が無く、まるで悪戯をした悪ガキを咎めるぐらいの棘しかない。だからこそ寒気がした。鋼の闘士たる彼が、敵に対して確かに臆したのだ。
今まで背後に控えていたドウモンが咄嗟に戦闘態勢に入るのを、辛うじて制した。だが鋼の闘士の動悸は止まらない。目の前の光の闘士に、何よりもこの手の話題に最も疎いと思われていた彼女に、己が心を全て読まれたことに戸惑いを隠し切れない。
「……私が気付かないとでも思ったわけ? アンタの考えに。その理由までは知らないけど、アンタは朱実に対して罪の意識を持ってる。だからさっきも、戦いの途中であんな不必要な言葉を掛けた。……アンタ、朱実が今よりもっと強くなって自分を倒しに来ることを期待してんでしょ?」
少女の表情は相変わらず氷のように冷たい。
以前とは打って変わり、今や立場は完全に逆転していた。メルキューレモンは狼狽し、自らよりも遥かに小柄な少女に追い詰められている。ジャンヌはスピリットを纏うことも、また契約者に頼ることもせずに鋼の闘士の心を確実に踏み躙っていく。
そう、先程の彼女の自信は決してハッタリではなかった。今この場で戦えば、ジャンヌは鋼の闘士を一瞬で焦土と変えるだろう。それこそが光の闘士の力。十闘士の中でも炎の闘士と並び、最強と謳われ続けた闘士の真の力。今の彼女なら、ビーストスピリットなど難無く御してみせるだろう。いや、下手をすればそれ以上の進化さえも――?
だが次の瞬間、少女はその表情を満面の笑顔へと一変させていた。
「なぁんてね。冗談よ、冗談。……朱実が死ななかったから、少し気が立ってただけ」
「な……に……?」
「それじゃ私は行くね。……行こ、エアロブイドラモン」
少女そのものといった笑顔を浮かべると、ジャンヌは契約者の背に乗り、飛び去っていく。
「今まで言ってなかったけど、私はアンタに感謝してるんだから」
「感謝……だと?」
「だって、八雲があんな素敵な男の子になってくれたのは、間違い無くあんたの教育の賜物じゃない?」
心底嬉しそうな表情で、彼女は大輪の花のように笑う。
「それは……私では、ない」
震える声でなんとか言葉を紡ぐと、それに「そうだったかしら」と笑うジャンヌ。
そこに先程の冷たい少女の姿は垣間見えない。あるのは黄金の髪を風に靡かせて視界の外へと消えていく光の闘士の姿だけだ。見間違いだったのだろうか。メルキューレモンでさえも、そう思うしかないほどの劇的な変化だった。
だが不意に鋼の闘士の耳に声が届いた。それは、既に視界の外へ消えた少女のもの。
「でもねメルキューレモン。もしも朱実を肯定するっていうなら……私はアンタでも許さないから」
それは明確な殺意の篭められた、彼女ならではの冷たい声だった。
【解説】
・鋼の闘士
メルキューレモン。最強の闘士として謡われる男(最強多いな)。
飛び道具や特殊能力を用いず、その肉体のみで敵を打ち倒す錬鉄の英雄。フロンティア作中で使っていた謎ビームに技名さえあれば採用していたかもしれないが、本作では基本的に殴る蹴るのみで戦う。また最高級の防御力を持っており、イロニーの盾を構えた彼の守りを人間の身で破るのは不可能である。
徒手空拳、絶対防御と合わせて長内朱実の倒すべき敵。
・ドウモン(Da種/完全体)
鋼の闘士の契約者。暗器と呪術で武装する暗殺者。
慇懃無礼な口調と人を食ったような性格だが、本人曰く戦闘力自体はそこまで高くない。鋼の闘士には淡々と付き従うものの、気質は正反対である。
本作はテイマーズ&フロンティアオマージュが多いながら、遅れてきたレナモン枠。
【後書き】
ちと添削を図り過ぎて切腹も辞さないぐらい己との戦いを繰り広げましたが、佳境となる30話です。
メルキューレモンの登場と戦闘を以って、本作の十闘士はひとまず全員が出揃う形となります。風・雷・氷がまだ出ていないと気付いた方は鋭い。ダスクモンとメルキューレモンはそれぞれとのバトル(鋼はセフィロトモン込みだけども)がフロンティア内でもかなりの山場とされておりましたので、本作においてもそれを踏襲して炎、そして光がそれぞれ倒さなければならない敵として描いております。
結果的に最強の闘士と呼称される存在が炎・光・鋼・闇と四体もいる(ほぼ半分じゃん!)という異常事態になっておりますが、それはそれ。
ダスクモンとメルキューレモン、それぞれまるで違う形で宿敵となる存在ですが、連中を倒す時までお付き合い頂ければ幸いです。
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