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第19話:暴食の魔王
激突し、鬩ぎ合う光と水の闘士。
「タイタニックチャージ!」
「リヒト・クーゲル!」
高速回転するカルマーラモンに光の弾丸を撃ち込み、その動きを停止させる。
間髪入れずに接近すると、一気に光の刃を振り抜く。それで初めて、先程コンクリートさえも容易く砕いたカルマーラモンの触手が、軽々と切り落とされた。振り下ろされるヴォルフモンの太刀筋は一切の迷いを持たぬ。単純な意味でも速すぎる上、更に穢れが無さすぎるのだ。
「ハッ、少しはやるザマスね! それなら、私も本気で行くザマス!」
口から出る言葉は全て虚勢だ。
内心、カルマーラモンは焦っていた。人型形態をも遥かに上回るパワーを有する獣型形態。だがその力を以ってしても、自分は人型のヴォルフモンにさえ及ばないのだから。
確かに彼女は知っている。炎の闘士と光の闘士。十闘士の筆頭に位置する彼らには、何らかの特別な力があるということを。けれど悔しかったのだ。十闘士と称される存在の中で最も単純な戦闘力に劣る者は、間違い無く水のラーナモンか風のフェアリモンだろう。そんなことはわかっていた。自分が弱いことを知っていたからこそ、彼女は力を求めたのだから。ジャンヌが強いことを知っていたからこそ、ラーナモンは彼女を覚醒前に潰そうと画策したのだから。
故に敗北は許されない。彼女が十闘士で在り続けるためには、同じ十闘士たるヴォルフモンに負けるわけにはいかないのだ。
だから彼女は、言ってはならぬ言葉を口にしてしまった。
「何故十闘士ともあろう者が、あんな何の価値も無い人間を守ろうとするザマス!」
それはどうしようもない感情。誰もが強者に一度は抱く、確かな嫉妬。
「……なに?」
「それほどの力を持ちながら、そんな人間のガキを守るために躍起になるなんて、堕ちたもんザマスね! 光の闘士の名が泣くザマスよ!」
所詮、それは負け惜しみにすぎず、ヴォルフモンにとっても取るに足らぬ言葉のはず。
「堕ちた……か。確かにそうかもしれないな」
だが、そんな言葉に何か思うところがあったのか、ヴォルフモンがその暴風のような動きを止めた。それを好機と見やり、カルマーラモンは一気に無数のイカ墨を吐き掛ける。全てが全て直撃コース。如何にヴォルフモンとて、喰らえば一瞬で溶解してしまう。
それを、ヴォルフモンは避けなかった。その胸部にイカ墨が次々と着弾する。
「なっ、何を――!?」
「……だが何の価値も無い人間と言ったな、カルマーラモン」
それまで清流のように何の気も発していなかったヴォルフモンに、純粋な殺気が宿る。
微かに震えたようにも見える白銀の騎士は、胸部の装甲をドロドロに溶解させながら決して力強さを失わない。そこに明確な殺意が現れた今、既にカルマーラモンに勝ち目は無かった。だというのに、何たる不幸か彼女自身はそれに気付かない。
十闘士の筆頭格に位置する光の闘士、名前をジャンヌ。彼女は常に清く穏やかな少女だったはずだ。そんな彼女のことを、水の闘士であるカルマーラモンは知り尽くしている。そう、本当に彼女ならこのような顔をするはずがないではないか――!
だからこそ、一瞬だけ浮かんだ恐怖という感情に蓋をして、ヴォルフモンに襲い掛かる。
「下手な脅しを! 覚悟するザマス!」
触手をハンマーのように振るい、白銀の騎士に叩き付けようとしたその瞬間、事は起きた。
「殺す気は無かった……などと綺麗事を口にする気は無い。だが今の貴様の言葉、我が怒りを静めるには細切れにしても余りある!」
「なっ……?」
「愚かしき水の闘士、カルマーラモンよ。覚えておくがいい。仙川八雲……否、渡会八雲は穢れ切った我が魂を救いし人間であり、また我が魂が存在する理由でもある。故に貴様如きが彼の者の存在を否定しようなどと、分不相応にも程があるわ――!」
瞬間、ヴォルフモンの体が激しく発光する。
その光に対して本能的な脅威を覚え、カルマーラモンは僅かに後退する。だが遅い。既にその領域は光の闘士のテリトリー。そもそも、あの言葉を放った時点で水の闘士からは生き残る資格など失われていたのだ。
それに気付かなかったこと、また自らの恐怖を認めなかったことこそが彼女の敗因になる。
目にも留まらぬ凄まじいスピードで閃光の中から飛び出してきた野獣が、容赦無くカルマーラモンの触手を切り裂き、間髪入れず飛び掛かってくる。何の感慨も見せず、獲物の命を刈り取ろうとするその様は、神々しい白銀の体躯とは異なり、どこかギリシア神話の地獄の番犬、ケルベロスを思わせるものがあった。
この雄々しさ、この凶暴性。まさに、光の闘士のビーストスピリット――!
「ぎっ……ぎぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっーーーー!?」
その瞬間、この世のものとは思えないほどにおぞましい悲鳴を耳にした気がして、八雲とウィザーモンは振り返った。
そこには、一体の銀狼がカルマーラモンの体をズタズタに引き裂いている様が見えた。つまり、今の奇声は水の闘士自身のもの。肩口のブレードで全身を蹂躙された挙句、躊躇い無く喉笛を食い破られた水の闘士の体は、何の感慨も見せずに一瞬にして霧散した。その姿は僅かながらも哀れである。
如何に敵だった者の死に様だとはいえ、決してざまあみろなどと言える状況ではない。今この瞬間、自分の前で何かが命を奪われて死んだのだ。その事実自体を八雲は嫌悪する。死なせたくなかったし、何よりも殺すつもりなど微塵も無かったのだから。
だが言ったところで後の祭りだ。つまり、最大の問題はその銀狼の正体であって――。
「ジャンヌって子……なのか?」
「……私の本能もそう告げています」
瞬間、彼らの背後からシードラモンが飛び出した。
標的は言うまでも無く、静かに唸り声を上げる謎の狼。主を失ったことで単純な本能から、恐らくシードラモンはこの場で一番強いと目される存在を見極めたのだろう。その長大な体を捻りながら突撃を仕掛ける。
その口から放たれるは氷の刃、アイスアロー。
「なっ――!?」
それを、砕いた。否、押さえ込んだと言うべきか。
あの氷刃は下手に触れられるものではない。それがわかったからこそ、八雲も龍斬丸で砕くという手段を取ったわけで、また触れてしまえば一瞬で全身を凍り付かされる。先程の八雲とてD-CASで受け止めなければ片腕は容易く凍り付き、今頃は壊死して肩口から崩れ落ちていたかもしれない。
それを牙で砕いた。触れた時点で効力を発揮するその技を、完全に無効化したのだ。
「……化け物か」
そう呼ぶに相応しい存在だ。
その銀狼の名は光の闘士、ガルムモン。人型のヴォルフモンに対する獣型、ビースト形態。北欧神話に語り継がれし伝説の猛犬の名を持つ彼の獣は、その圧倒的な存在感を以って大地に降り立つ。尚も迫り来るシードラモンのことなど相手にもならない。
周囲の光がガルムモンの口内に集束する。そして、放たれしエネルギーは太陽光線に等しき光量。
「ソーラーレーザー!」
「うわっ!?」
一瞬だった。奴が口を開いたように見えた瞬間、シードラモンの姿が掻き消えていた。
圧倒的すぎる。十闘士が他の姿に変身するという特徴は、ギガスモンの時点で既に知っている。だが奴の力は桁違いだ。ギガスモン以上のパワー、カルマーラモン以上の威圧感を誇示している。この感覚は、確か曖昧な意識の中で見た紅蓮の竜に似ているような気がした。
ふと脳裏を過ぎった姿に首を振る。今はそんなことを考えている場合ではない。
自分達は獲物なのだ。ガルムモンにとっては目に映る全てが敵。理性を失っているであろうことは、その血走った瞳を見るだけで明らかだ。そう、如何に銀狼の正体があの愛らしい少女だったとしても、今のガルムモンの中にジャンヌはいない。
何はともあれ、厄介な存在であることに変わりはあるまい。
「……正直、あれを相手取るのは厳しいですね」
「チッ、ただでさえ腕がイッちまってるってのに……」
数分前にシードラモンの攻撃を受けたこともあり、現在八雲の左腕はまともに機能しない。一種の麻痺状態という奴だ。そんなわけで、今の八雲は右腕一本で龍斬丸を保持している状態なのだ。とてもではないが、まともに戦える状態ではない。
無論、ジャンヌが理性を取り戻してくれるという確率も無いわけでは無い。だが楽観はできない。それが渡会八雲の気質だ。
「くっ!」
突っ込んできたガルムモンのブレードを、辛うじて龍斬丸で往なした。
自分より遥かに大柄な獣の攻撃を受け止めた衝撃に、思わず手が千切れそうになる。少なくとも体は大きく横に流される羽目になる。まあ、それでも曲がりなりにも奴の攻撃を受け流すことができただけで僥倖だと言えよう。現時点で最大の問題は、相対している怪物が八雲を守らんと戦ってくれた、あの黄金の少女だということだ。
痛みとは別の意味で思わず顔を顰める。
「……大丈夫ですか、八雲君」
「マジでやるしかないのかよ……」
苦言を呈するのも無理は無い。
眼前で猛々しい唸り声を上げる銀狼に、どうしてもジャンヌと名乗った少女の姿が重なってしまう。自分でも甘いと思うが、あの女の子とは戦いたくないと八雲は思っている。少なくとも、他の十闘士とはどこか違う感じがしたし、彼女となら理解し合える気もしたのだ。
だが今こうして向けられているのは、飽く迄も獣としての殺意。ジャンヌのものではない。
「ウィザーモン、手を貸してくれ!」
「……またですか。君と出会ってから、私は厄介事に巻き込まれてばかりですよ」
大きくため息を吐きながらも、ウィザーモンは杖を掲げて八雲と並んで立つ。
彼らは既に理解していた。ガルムモンが自分達を襲ってきたのは、ジャンヌが望んだからではないということを。これほどの剥き出しの殺気は、年端も行かぬ少女が発せられるものではない。だとすれば答えは一つ。
今の奴は、単なる獣だ。
「知っていることでいい。今の状況の説明を頼む」
「……噂話ですが、十闘士には人型と獣型の二つの形態が存在するという話を聞いたことがあります」
人型と獣型。八雲は先程の戦闘で垣間見た水の闘士の姿を思い出す。
人型と言うのであれば、あのラーナモンは間違い無く人型だと言えよう。つまり、彼女が姿を変えた形態、カルマーラモンが獣型ということになる。同様に考えれば、グロットモンやダスクモンは人型の闘士であり、ギガスモンやベルグモンは獣型の闘士だと推測できる。
不意に思い浮かべたのはアグニモンの姿。確か戦いの最後、奴は人型から強大な竜へと変貌を遂げたような――?
「……んで、それがどうした」
「ええ。獣型の形態は制御が難しく、下手をすれば暴走すると」
「なら今のアイツは暴走しているってことなのか?」
「……恐らくは」
言葉を濁してはいるが、ウィザーモンの中では既にそれは確信に変わりつつある。
あのジャンヌという少女を初めて見た時、彼は本能的に不信感を抱いた。古の十闘士の魂を受け継ぐ者として、ジャンヌはあまりにも幼く見えたのだ。実際、闘士としての実力は別としても、覚醒直後に八雲を一目見た時の様子からして、精神的にもかなり未成熟な少女だと容易に予測できた。
だから最初から暴走の危険性を彼女は孕んでいたのだ。それなのに、ジャンヌは敢えてガルムモンへ進化を遂げた。その理由はわからないが、きっと重要なことなのだろう。
「……ブイドラモンがいれば、もっと詳しい対処法が聞けるんだろうが――」
八雲も同じことを考えていたらしい。ウィザーモンも思わず苦笑する。
「そうですね。ですが、今は叶わぬ夢ですが」
「……相変わらず嫌な言い方するな、お前」
だが事は簡単だ。相手が単なる獣の本能に振り回されているのなら、それを叩き潰してやればいい。カルマーラモンを相手にするより容易なことだ。知性を持たぬ獣を相手にするなど、八雲にとっては児戯にも等しい。
瞬時に脳内をトレースする。勝負を一撃で決めるべく、意識を思考に埋没させる。
「では八雲君、どうするのです?」
「作戦は単純だ。奴が動いた瞬間、その進行方向にお前が雷を叩き込め。……俺がその隙に意識を刈り取ってやる」
「……そんなことができるのですか?」
それは当然の疑問だ。ザンバモンとの一件以来、ウィザーモンも八雲の実力には相応の期待と信頼を寄せているが、それでも十闘士を打倒できるとは思えない。それはカルマーラモンとの戦いを見る限り明らかだ。ましてや、相手はそのカルマーラモンを容易く倒したガルムモンなのだから。
そんな不安を、渡会八雲は一笑に伏した。
「できなきゃ言わないさ。……俺を育ててくれた恩人が、何年も前に教えてくれた。戦闘ってのは要は将棋と同じだってな」
「将棋……?」
「ああ。自分が動き、また相手がどう動くのか、それらを含めてどこまで先を読めるかで勝負は決まるんだよ。……実際、俺もそう思っているしな」
落ち着いた表情で答えると、八雲は龍斬丸を鞘に戻し、静かにガルムモンと相対した。
その頃、無人の高速道路を軽快に走り抜ける二つの影があった。
片方は腰まではあろうポニーテールを靡かせてバイクを駆る少女、長内朱実。ヘルメットが異様なほど似合っているのは気の所為だろうか。そして、もう片方は雄々しい四肢で悠然と大地を踏み締めて疾走する気高き獣人、ケンタルモン。互いに強さを認め合い、結果的に契りを交わした二人は東京を目指して時速数十kmで高速道を駆け抜けていた。
既に横浜は通過した。東京までは残り僅かだろう。
「……結構走るの速いじゃない、アンタ」
「まあ、曲がりなりにも足には自信がありますからね」
軽く苦笑を返しながらも、ケンタルモンには微塵も辛そうな様子は見えない。
その姿を見ていると、やはりこいつと契約して良かったのかもしれぬと朱実は思う。何匹か他のモンスターとの戦いも経験してきたが、ケンタルモンは如何なる敵が相手であろうと須らく勝利を収めてきた。また、たとえ敗者であろうと無意味に命を奪おうとしない彼の考えが朱実の抱く正義に合致したという理由もあり、出会って数日の間に、二人は随分と打ち解けていたと言えよう。
そんな中、何気なくケンタルモンが問うてくる。
「ところで、朱実殿は東京に戻って何をする気なのです?」
「ふむ。改めて聞かれると、パッとは思い付かないねぇ。……まあ、そんなことは着いてから考えればいいっしょ」
「……はあ、了解です」
呆れたように呟きながらも、獣人の顔から苦笑は消えない。
彼もまた、己が契約主となった少女に対して好感を抱いていたのかもしれない。騎士道に深く通じたケンタルモンは無益に他者を傷付けることを好まぬ。確かに長内朱実という少女は粗野で乱暴な性格だが、それでも自分なりの正義に則って行動している。文字通り、主として従うに足る存在だったと言えよう。
その時だった。不意にエキゾーストの音が聞こえたと思った瞬間、突如として二人の左横に一台のバイクが現れたのだ。
「「何奴!?」」
二人は同時に問うが、答えが返ってくるはずも無い。
仮にも運転中で、ヘルメットも被っている今の状況では、そのバイクに跨っている者が何者なのか、朱実は判別することができないでいた。ただ、チラッと見やった限りでは極めて人間に近い体躯を持つ存在だと感じ取れた。だが敵か味方かと問われれば、当然前者に位置する存在だろう。並ばれただけというのに、冷や汗が背中を伝う。
二人にピッタリと並走しながら、奴は何気なく口を開いた。
「……楽しそうだな、俺も混ぜてくれよ」
いや、並走するどころではない。
即座に前方に向き直った奴は、時速100キロ近く出しているはずの朱実とケンタルモンを容易に抜き去り、朱実ですら驚愕するほどのハンドル捌きでドリフトを掛け、前方に回り込んだ。奴の駆るバイクのタイヤが激しく軋み、エキゾーストが鼠色の煙を吐き出す。そして、更にスピードを上げて突っ込んでくる。所謂、正面衝突の形だ。
その姿を本能的に敵だと感知したのだろう。ケンタルモンが蹄を振り上げて突進する。
「くっ、おのれ!」
彼のスピードもまた、先程の比ではない。大柄な体躯には似合わぬほどの敏捷性だ。何故かわからないが、朱実は自分と契約してからケンタルモンの力が増しているように感じていた。パワーとスピード、その全てが初めて出会った時の彼とは段違いなのだ。
だが、そんなケンタルモンの全力の突進でさえも、奴は容易に回避した。
「へっ、甘ェよ!」
「ぐはっ!?」
放たれたのは単なる蹴り。すれ違い様、ケンタルモンはバイクの上から繰り出されたそれを喰らって軽々と弾き飛ばされる。
その様が信じられず、朱実は思わず目を見張った。確かに初めて出会った時に朱実もまた、ケンタルモンの体に蹴りを決めたことがある。あの時に感じたのだ。彼を蹴り飛ばすには、自分の数倍の脚力が必要なのだと。つまり、現れた謎のバイク乗りはその脚力を持っているということだ。
だが地面を転がっていくケンタルモンを気遣う暇も無い。間髪入れず撃ち掛けられたのは無数の銃弾。
バイクの前面に兆弾して襲い来るそれらから、咄嗟に左腕のD-CASを掲げることで顔面を庇う。手甲で跳ねる銃弾が火花を散らし、前方の視界が一瞬だけ遮られる。そして、奴にとってはその僅かな隙だけで十分だったのだろう。次に朱実がまともにその姿を知覚した時、奴は既に彼女の進む道を遮るかのように、自身の大型バイクを前方に停車させていたのだから。
「やってくれんじゃない……」
「……どこに行くんだ、テメエら?」
心底楽しそうな声で呟くその存在は、精悍な体付きを持つ一体の魔人。脚部と背部にはショットガンにも思える大型の拳銃が一丁ずつ納められ、それらを保持するのであろう両腕には全てを切り裂かんばかりの鋭利な爪が見える。一見して、奴は黒いジャケットを着た人間に見えないこともない。だが頭部に見える第三の目、そして奴自身が纏う殺気があればこそ奴は化け物で在り続ける。
その様は、文字通り彼らの行く手を阻む脅威。
既に夜が近い中、東京の高層ビル群を背負った魔人の姿は、それだけで悪鬼の巣窟を守護する番人の如き空気に満ち溢れている。そんなはずはないとわかっていながらも、まるで奴が自分達を待ち受けるためだけに立っていたような、そんな錯覚すら感じるほどだった。そう、奴にあるのは純粋な殺気のみ。自分達を殺そうとする強き意志しか、奴からは感じられぬ。
流石の朱実も身震いした。路肩にバイクを停車させ、静かに降り立つ。
「……ケンタルモン、無事?」
「な、なんとか……」
顔を顰める契約者を、彼女はヘルメットを取りながら無表情で見やる。
命に別状は無いようだが、蹴られた腰は大きく陥没しており、四肢は面白いぐらいに痙攣している。それだけでも奴が持っているだろう力の程が計れるというものだ。あの魔人はケンタルモンが敵う相手ではない。先制の一撃で命を奪われなかっただけで、それは僥倖と言えた。あの存在に相対すれば、自分達など一瞬で肉塊に変えられてしまうであろうことを、朱実は容易に理解することができた。
そう、直接戦闘で奴を倒す方法などありはしない。奴を倒さんとするならば、戦わずに勝つ道を探らねばならない。つまり、戦闘になった時点で既に朱実達に勝ち目は無いのだ。
「……チッ、まずいね。もしかしたらアタシ達、生きて東京には着けないかもしれない……」
それは長内朱実が生まれて初めて吐く、真の意味での弱音だった。
「精々楽しませてくれよ、この俺をなァ?」
奴の名はベルゼブモン。かつて異世界に名前を轟かせた、七大魔王の一人――。
◇
こんばんは、引越し前夜の華でございます
読んでたらアンダーテイルの「本物のヒーローとの戦い」、そのあとにポップンの「リリーゼと炎龍レーヴァテイン」が頭の中に流れてきました
本来の推奨BGMが一体なんなのかは分かりませんが、ベルちゃんが純粋な悪って珍しいですね
それでは今回はこの辺で
おやすみなさいませ
◇
第20話:最強の魔銃(ベレンヘーナ)
ベルゼブモン。蝿王の名前を冠したその存在は、異世界でも名前を知られた者である。
一概に言って奴を表する言葉は二つある。
まず一つ目、粗野なる精神を持つ魔王。つまりベルゼブモンには何かを支配するとか征服するとか、その手の魔王ならではの精神を持ち合わせてはいない。その点で彼は他の七大魔王と呼ばれる者達とは一線を画す存在であると言えるかもしれない。光を闇で覆い尽くし、世界を手中に納める。そんな魔王としての当然の思考を、ベルゼブモンは持っていないのだから。
そして二つ目、戦闘狂。これは文字通りの意味だ。彼にとっては己の全ては戦いの中でこそ発揮されるものであり、強さこそが自身の存在意義なのである。故にベルゼブモンは戦いがあれば如何なる場所、如何なる時代にも現れ、その豪腕と魔銃を以って破壊の限りを尽くす。遥か古代にはその彼と互角の戦いを演じた者がいるとさえ噂されているが、現代では有り得ない話だ。実際、この時代には彼に対抗し得る究極体の個体数が激減している。
故にベルゼブモンが現代に現れる理由は無いはずだが――
奴は動かない。不動のまま、顔に浮かぶのは下卑た笑み。
相対するだけで冷や汗が滲んでくる。魔王とはそれほどの存在だった。対抗できない。奴から感じるのは絶対的な死のイメージだけだ。それ以外には何も感じられない。だが、その死のイメージだけがとんでもなく強いのだ。
久々に鳥肌が立ったような気がする。
「……よォ、人間のガキとケンタルモンの兄ちゃんよ」
その言葉遣いは粗野な若者そのもの。朱実が最も嫌悪する口調だ。
しかし下手に相手を逆撫ですれば、瞬時に細切れにされる。そのことぐらい、朱実にはわかる。だからこそ言い返すことはできない。奴の力は自分とケンタルモンを遥かに超えている。敵わぬ相手に無謀な突撃を掛けて命を落とすことなど、愚の骨頂だ。
故に下手な言葉は紡げない。ただ、相手の出方を見るのみ。
「どうした? ビビッて口も利けねェか?」
「なら利いてやるわ。アタシ達は東京に入りたいの。端的に言う。……そこをどきな」
「へェ……言うじゃねェか、テメエ」
奴は薄く笑った。身に纏う殺気が膨れ上がり、棘となって朱実の体に突き刺さる。
ベルゼブモンの存在そのものが空気を歪ませている感じだ。それを前にしては、流石の朱実ですらも反抗することは叶わず、ただ折れていく心を支えるように強く大地を踏み締め、真っ直ぐ奴の姿を凝視することしかできない。奴はまるで抜き身の真剣。人の形を成しながらも、奴は飽く迄も獣としての本能を忘れない。
ケンタルモンを容易く蹴り飛ばすほどの奴だ。少なからず並大抵の者ではないだろう。
「あ、朱実殿……無理です。如何に貴方でも、その者には敵いません……」
「……アンタは黙って休んでな。ここはアタシが引き受けるから」
「おうおう、そいつの言う通りだぜ、嬢ちゃん。人間如きが俺に敵うはずもねェ。俺が殺したいのは、俺を無視してこの先へ行こうとする身の程知らずのモンスターだけだ。……悪いが、その兄ちゃんは運が悪いと思って死んでくれやァ!」
未だに跪いているケンタルモンに向かって、凶刃を閃かせて突進する。
このままではケンタルモンが殺される。それを直感で瞬時に感じ取った朱実は、本能的に自らの体をケンタルモンとベルゼブモンの間に滑り込ませた。ケンタルモンが息を呑んだ音が聞こえるが、そんなものは構いやしない。自分はただ、目の前では誰も殺させないという遠き日に胸に刻んだ誓いを果たすだけだ。
「させない!」
閃光のようなスピードで突っ込んでくるベルゼブモンの顔面目掛け、上体を捻りながら裏拳を放つ。
そんな攻撃など、仮にも魔王の肩書きを持つベルゼブモンには何の脅威にもならない。だが脆弱な人間如きが自分に歯向かってきたこと自体に、流石の彼も違和感を覚えたのだろう。常人なら避けることも叶わずに昏倒するほどの威力と鋭さを誇る裏拳を前にして、ベルゼブモンは大きく後方へ跳ぶ。
故に次に口から出るのは純粋な疑問。
「……おい、何の真似だ?」
「悪いけど、ケンタルモンを殺させるわけにはいかないんよね。……仮にもアタシの契約者だからね、コイツは」
そんな朱実を前にして、ベルゼブモンはその醜悪な顔を更に歪めた。
目を細めた奴が思うのは、朱実に対しての侮蔑か、それとも驚愕か。だが少なくとも、奴の纏う殺気が増大したことだけは確かだ。朱実にしても、これほどまでに自分のパンチを容易く回避されたことは生まれて初めてのことだ。かつて対峙したギガスモンでさえも、これほどではなかった。
けれど、朱実は一歩も退かない。それはある種の意地である。
「ハッ、人間風情が――」
目の前の敵は止まらない。その長身を屈め、両の爪を構える。
それだけなら朱実の知る空手の構えに似ている。だが中身は別物だ。奴は明鏡止水の心など持たぬ。ただ敵となるべき者に殺気を放ち、狩人が獲物を撃ち殺すのと同じように首を刈り取る。つまるところ、ベルゼブモンは紛れも無くハンターであると言えよう。身震いするというより、むしろ怖い。
「――死んで後悔しろやァ!」
「速……!」
薙ぎ払われた爪の軌跡は、朱実にすら感知することが叶わぬ。
一瞬前まで朱実の首があった場所をその凶刃が薙いだ。奴の攻撃は速度、範囲、威力の全てに優れている。初撃を朱実が見切ることができたのは、攻撃が単調なものだったからだろう。僅かでも変則的な筋を見せられていたら、今頃朱実は奴の凶刃の錆と消えていた。
そんな少女の姿を前にして、魔王は薄く笑った。
「ほゥ、人間にしては少しはやるじゃねェか。……面白ェ」
「……こっちは全然面白くないんだけど」
顔を顰めながらも、漏れたのは飽く迄も不敵な声色。
一閃された凶刃の勢いは凄まじく、風圧だけで顔が凄いことになる。化粧が濃い女だったならば、それだけで化粧を崩していた。そんな意味では、長内朱実が化粧っ気の薄いタイプであったことは僥倖であろう。尤も、この女にそんなデリカシーがあるのか否かは不明だが。
奴の動きは文字通り暴風、そして攻撃の一つ一つはハンマーの如き威力を持つ。長内朱実の体では、どこで受け止めてもその部分ごと持って行かれる。
「だが二発目は、そうは行かねェ!」
「チィ――――!」
再び襲い来る暴風。首を刈り取らんと迫る一撃を入り身の要領で避け、間髪入れずに放たれた蹴りに抱えていたヘルメットをぶつけると、その蹴りに身を任せて吹き飛ぶ。
そうすることで衝撃の大半を吸収したはずなのに、防具として用いたヘルメットは容易く粉砕され、信じられない痛みが全身を襲う。咄嗟に頭を抱え込みながら、コンクリートの上を転がる。目が回るほどに五回転したところで、ようやく朱実の体は静止した。
大怪我というほどのものではない。だが瞬時に立ち上がることはできない。
「……終わりだな、小娘」
「ぐっ、強い……!」
「随分と驚かされたぜ。俺の攻撃を二発も避けた奴ァ、久し振りだ」
朱実の眼前に立つベルゼブモン。
狙いを定めしは、朱実の心臓。一撃の下に貫き、命を奪わんとする魔王の爪が迫る。見切れる。その程度のスピードなら。長内朱実はあの人の娘。ならば、こんな場所で死ぬはずも無ければ、奴の攻撃を避けられないはずもない――。
「……舐めんなぁ!」
ただ、立ち上がる勢いを体の動きに合わせ、拳を放つのみ。
そうすることで魔王の爪は狙いを逸れ、ジーンズジャンバーごと朱実の肩口を鋭く削ぐ。小さく血煙が上がり、朱実は顔を顰めたものの、彼女の意識は打ち放った己が拳にしか集中しない。そう、全ての力を以って放ったこの拳で、魔王を打倒せんとするのみ。
鈍い音が響き、右腕には確かな手応え。
「――――――!」
だが朱実の全力の拳を受けて、尚もベルゼブモンは不動だった。
「ま、マジ……?」
彼女の拳は確かに魔王の左頬に食い込んでいる。だが、それだけだ。奴の口元に血が滲むようなこともなければ、痣が残ることすらも無い。つまるところ、それは長内朱実では奴の体に傷一つ付けることも叶わないのだと、そういうことを意味していた。
死んだと思った。左肩は抉られ、自分のパンチは全く効果が無い。これを負けと言わずに何と言おう。
「……何て化け物だよ、アンタ」
「―――――」
ベルゼブモンは答えない。朱実の拳を頬に食い込ませたまま動きもしない。
本能的に何かを感じたのか、ベルゼブモンは朱実から飛び退いて距離を取る。その爪が僅かながらも自分の血で濡れているのを見て、朱実は小さく舌打ちする。戦いで血を流したことなんて、正直言っていつ以来だか覚えていない。
「……何者だ、テメエ」
「ただの人間だけどね? アンタの見立ては間違っていないと思うよ。爪で引き裂かれても、銃で穿たれても一撃で命を落とす脆弱な人間にすぎないよ、アタシはね」
「……ふざけんな。人間風情が俺の拳を三度かわすかっつーの」
奴の目にはただ、何か目にしてはならぬ存在を目にしたような、畏怖の感情だけがある。そう、魔王たる奴は目の前の少女に対して明らかな恐怖を覚えていた。人間が自分に立ち向かってきたことがではない。彼女が自分に一撃を与えたという事実自体に、魔王は驚愕したのだ。
しばし思案するように腕を組んだ奴は、やがて何かに閃いたらしい視線を朱実に向けた。
「なるほど、道理で俺の爪を見切れるわけだ。テメエ……十闘士だな?」
「十闘士……知らないね。アタシはアタシ、長内朱実でしかない」
「……そうかよ、どこまでも俺を虚仮にしてくれる女だ。そんな奴は――」
距離を離した奴の体が、再び沈む。そう見えた瞬間、奴は一瞬で間合いを詰めていた。
「――大人しく死んじまいな」
今度こそ死んだと思った。心が否定する前に、体が死を受け入れた。
既に全身は満身創痍。呼吸も全く収まらず、迫る奴の爪の軌跡を目に留めることすらできない。何て呆気無い最期。こんなところで、長内朱実は自分の夢も、また元義兄との誓いも果たせずに命を失う。それは怖いことだけれど、後悔はしない。だって、自分はとうに死んでいる存在なのだから。
ベルゼブモンが爪を振り被る。その爪が静かに振り下ろされ。
「くっ――!?」
突如として突き出された大剣によって、その動きを封じられていた。
「「なっ――!?」」
同時に疑問の声を叫ぶ朱実とベルゼブモン。魔王の首筋に突き付けられたのは、朱実の身の丈ほどもあろう長剣の先端。それは、明らかに朱実のパートナー、ケンタルモンだった者の手で握られていた。だが何かが違う。
そう、今この場にいるのは獣人ではなく、強固な鎧を纏う白亜の騎士なのだ。
「……朱実殿を死なせるわけにはいきません」
「テメエ、進化しやがったのか。成熟期にしては随分と強い力を感じると思っていたが……なるほど、そういうことかよ」
「ケンタルモン、あんた――」
だが既に彼はケンタルモンではない。
朱実と出会う以前から、彼は完全体以上に進化するためのエネルギーを有していた。だが、それを敢えて望まなかった。理由は簡単だ。騎士としての自分は、誰かに仕えるべき者として存在する。その仕えるべき誰かが見つからなかったからこそ、ケンタルモンは完全体への進化を望まなかった。
それでも今は違う。今の彼は自分が仕えるべき者を見出した。故に進化することへの躊躇いは無い。
「主の危機を前にして進化する……か。騎士の鑑って奴だな、テメエ」
勇ましく立つ騎士の姿を前にして、大剣を突き付けられた首から僅かに血を流しながらも、魔王は不敵に笑うのみ。その時のベルゼブモンの声に嘲りは無く、ただ賛辞のみが篭められていた。
つまりは、ナイトモンである。
朱実の危機に際して新たな力を目覚めさせたナイトモンは、それだけで奴にとっては賞賛に値する者。その上、この騎士は魔王たる自分に掠り傷とはいえ手傷を負わせたのだ。完全体にすぎぬ相手に対して傷を負うなど、本来この魔王にとっては恥ずべき行為。
そのはずなのに、今は不思議と心地良かった。
「へっ、面白ェ。今日のところはこの辺りで勘弁しといてやらァ」
唐突な休戦宣言に、立ち上がった朱実が目を点にする。
「アタシの聞き間違い? 何か今、戦いを中断すると聞こえたけど?」
「ああ、聞き間違いじゃねェ。……テメエらを見逃してやるって言ったのさ」
「……意図を聞かせて欲しいんだけど」
「テメエらにその権利があると思うか? この俺が見逃してやるって言ってんだから、負け犬は負け犬らしく尻尾を巻いて無様に逃げやがれ」
それは明らかな嘲りの言葉。同時に紛れも無い真実でもある。
だから朱実は悔しさに唇を噛み締めながらも、どうすることもできずにいた。ベルゼブモンが本気になれば自分達など呼吸する間も無く細切れにされる。如何にケンタルモンが進化したとて、今の自分達では奴には勝てない。そのことを認めたくないという気持ちと、同時にどこまでも冷静に敗北を認めている気持ちが、朱実の中では鬩ぎ合っていた。
「……退きましょう、朱実殿。今は彼の者の言う通り、逃げるのが得策かと」
「くっ――」
「今の朱実殿では彼には勝てません。私の力を以ってしても、それは叶わぬでしょう」
淡々としたナイトモンの言葉。けれど、不思議と震えているようにも聞こえるのは、朱実の気の所為だろうか?
だがナイトモンの言うことも尤もだ。ベルゼブモンの言う通り、今の自分達には無様に逃げ出す以外に道は無い。下手に奴の気を損ねるようなことがあれば、今度こそ殺されると確信できる。奴の実力は未知数。対する自分は肩から血を流した状態。
勝てっこないじゃないのよ、この状況。そう判断した。
だから小さく唾を吐き、一歩一歩を踏み締めるようにその場を後にする。あまりにも強く噛み締めた所為で奥歯が潰れそうだ。それぐらい、奴との実力差が疎ましかった。これほどまでに圧倒的な力量の差を感じたのは初めてだ。
無論、その敗北は朱実が人間である以上、必然のこと。だが彼女はそれを良しとしない。
「おう、ちょっと待てや」
「は?」
不意に掛けられた声に振り返る。
すると、振り返った先にいるベルゼブモンは薄ら笑いを浮かべながら、腰のものを投げて寄越した。奴は軽くアンダースローで放ったつもりなのだろうが、それでも時速100キロ近く出ている。思わず朱実は両手を広げて受け止める。バンッと快い音が響き、奴が放ったものが朱実の手に収まった。
少しだけ赤く染まった手に顔を顰めながら、朱実は受け取ったものを見やる。
「……何のつもり?」
「俺からの餞別さ。今のテメエじゃ速攻でくたばりそうだからな。精々それを使って上手く生き残ってくれや」
奴が投げ渡したのは、奴自身が腰に装備していた二丁のショットガンとそのガンベルト。拳銃というには少し大きすぎるそれだが、改めて掴んでみると何故か朱実の腕にしっくり馴染むような気がする。まるで以前からの自分の愛銃のような感覚だ。
そのショットガンの名はベレンヘーナ。魔王ベルゼブモンのシンボルたる魔銃。
「……アンタに情けを掛けられる筋合いは無いんだけど」
「そう言うな。テメエは随分と自分の腕に自信があるようだがな、その程度の力じゃ雑魚共は倒せたとしても、俺クラスの相手には全く通用しないぜ。……曲がりなりにも、テメエはこの俺に一撃浴びせた女なんだ。つまらないところでくたばりやがったら承知しねェぞ」
その言葉は長内朱実に対して、僅かながらも敬意を表していた。
それだけを言って満足したのか、ベルゼブモンは小さく「じゃあな」と手を挙げて自分のバイクへと踵を返していく。その背中はどうしようもなく無防備だが、隙を突いたつもりで殴り掛かりでもすれば振り向き様に心臓を抉られる。それだけの殺気が、奴の後ろ姿からは感じられる。
それがわかったからこそ、朱実は自分が思う通りの行動を取った。
「……なるほど。けどやっぱり馬鹿だね、アンタは」
冷たい声で呟きながら、何気なく上げたベレンヘーナの銃口を魔王の後頭部へ向け、躊躇い無くその引き金に指を掛ける。
瞬間、響き渡ったのは静かなる銃声。
朱実の視線の先、何気なく振り返るベルゼブモン。その顔には狂気に満ちた笑み。
頬から紫紺の血を流しながらも楽しげに笑う魔王の姿は、読んで字の如く悪鬼のように見えたろう。数秒前に彼の爪を受け止めたナイトモンでさえも、首筋にナイフを突き付けられたような錯覚を覚えたほどだ。
奴の笑みは宿命のライバルを見つけた時のような、そんな表情。
「あ、朱実殿! な、何を!?」
「聡いアンタなら端から理解しているのかもしれないけど……アタシに余計な力を与えるってことは、こういうことだよ?」
そんな魔王を前にして、朱実もまた笑う。
周囲を覆った張り詰めた空気。故に朱実とベルゼブモンの思いを理解できぬ者はナイトモンだけだ。その行為とは裏腹に、既に朱実とベルゼブモンの間には友情めいた感情が芽生え始めていた。それは、ある意味では似た者同士である彼らならではの感情である。
互いの力を認め合った彼らだからこそ、飽く迄も怜悧な笑みを浮かべて相対することができる。僅かに頭を下げると、朱実は腰に装着したガンベルトに二丁のベレンヘーナを挿す。
その凛々しい姿はまるで、かつてフロンティアと呼ばれたアメリカ西部開拓時代における保安官を思い起こさせる。16歳という年齢でこれほど銃が似合う少女も珍しいだろう。そもそも、普通の少女は拳銃など手にする機会は一生の内で一度として無いのだから。
その姿を前にして、ベルゼブモンは再び笑う。
「へっ、そう来なくちゃな。それでこそ俺の見込んだ女だぜ」
「アンタに見込まれるのは気分が悪い。だが……折角だしね、この銃はありがたく受け取っておくとするよ」
静かな笑みを消し、朱実は不敵な表情へと戻る。
「……嬢ちゃん、最後に一つだけ聞いときたいんだが」
「何? くだらないことだったら、質問ごとアンタを叩き潰すけど」
返された言葉に「おお、怖い」とでも言いたげに肩を竦める魔王だが、その実恐怖など寸分も覚えていないだろう。
「テメエは俺に勝てないこと、恐らく自分が敵わないだろうことを最初からわかっていたな。その上で俺に挑んできた……何故だ?」
「…………………」
魔王からの質問としては、その言葉は予想外だった。
朱実の流麗な横顔は、その時初めて陰りを見せた。それは思案というよりも、むしろ苦悩すると表現した方が正しく思えるほどの表情。だが普段は劇的に明るく苦悩することなど全く無い彼女だからこそ、その憂いを帯びた表情は酷く魅力的だった。どんなに朴訥で朴念仁な人間がいたとしても、思わず目を擦って見直してしまいそうなほどに。
やがて、殆ど消え入りそうな声で朱実は呟く。
「アタシは誰にも殺されないとわかっているから、って答えじゃ駄目かな?」
「……なに?」
「アタシが殺せる人間は、どの世界でもただ一人だけ。だから、アタシを殺せる人間も世界で一人だけ。……そう決めている」
静かに魔王へと向けられる視線は、どうしようもなく殺意に満ち溢れていた。
「だから……アンタにアタシは殺せない、殺させないんだ」
それだけは絶対に、譲るつもりはない。
正直、戦いは肩透かしで終わった。
八雲とウィザーモンが攻撃を仕掛けようとした寸前、ガルムモンは急に苦しみ出してジャンヌの姿に戻ってしまったのだ。彼女は精神の疲労からか、そのまま意識を失って失神状態にあったようだが、二時間後の今ではすっかり元気な様子を取り戻している。
これでは拍子抜けだ。カルマーラモンとシードラモンを容易く葬り去った相手を前に、決死の覚悟で戦いを挑んだ自分達が馬鹿のようではないか。
「……ごめんね、お兄ちゃん。大丈夫だった?」
「敢えて聞くなよな……くそっ」
肩で息をしながらも、八雲は苦笑を返してやる。
女の子は特に大事にしてやれと教えてくれたのは、確か義父だっただろうか。尤も、そんな教えとは無関係に八雲はジャンヌを守ってやろうと思っていた。それは多分、一瞬だけ脳裏に垣間見た記憶の中の女の子の姿がある所為だ。
あの血だらけの女の子に見覚えは無い。けれど、何故か彼女に面影が重なるジャンヌのことは自分が守ってやらなければと思う。
未だに上手く動かせない腕を酷使してまでガルムモンと相対したのは、要はそれが理由だ。先程からウィザーモンが冷めた視線を投げ掛けてくるのが少し気になるが、それがどうしたというのだ。彼女を守ってやりたいと、その思いはどうしようもないのだから、文句を言われる筋合いも無い。
ジャンヌは飽く迄も無垢な表情を崩さないので、先程までガルムモンとして暴れ回っていた少女とは思えない。だからこそ、聞いておきたいことがあった。
「それで、一つだけ聞きたいことがあるんだが」
「なぁに? 私にわかることなら聞いて」
「……何で俺のこと、そんなに気に掛けてくれるんだ?」
それが一番気になっていた。
十闘士は須らく殺気立って人間を襲う者。八雲の中に芽生えつつあったその常識を崩してくれたのがジャンヌだ。彼女は明らかに他の闘士とは違う。何が違うのかと聞かれれば答えられないが、それでも彼女だけは信じられると思う。それは初めてウィザーモンと出会った時と同じ感覚だった。何故か自分と近しいものを感じることができるのだ。
だが八雲の質問にジャンヌは答えなかった。むしろ、僅かながらも冷ややかな声で呟く。
「……今、お兄ちゃんを苦しめてる女がいるでしょ?」
「は?」
自分を苦しめている女。聞き慣れないフレーズに首を傾げる。
当然、それは八雲には身に覚えの無い話。今まで女性に苦しめられた経験など無いし、そもそも自分はできるだけ女性とは関わらないように努めて生きてきたつもりだ。クラスの女子に話し掛けられでもしない限り、八雲は女子とは会話しない。
だが少女は僅かに目を細め、毅然とした意志を告げた。
「わかるでしょ? お兄ちゃんを苦しめてる元凶……長内朱実を殺すことが、今の私の使命」
それは、刺すように冷たい言葉だった。
◇
【解説】
・光の闘士“ガルムモン”
ジャンヌが暴走して進化した光の闘士のビースト形態。幼い少女の身では使いこなせず、カルマーラモンを惨殺すると共にやっくん達にも襲いかかったがあっさり進化が解けたことで事無きを得た。ヴリトラモンより先に全貌が登場したのはフロンティアのオマージュです。
アニメでまともな勝利シーンが無いまま出番を終えた不遇の形態だが、射撃武器満載のメタルガルルモンと対を成すレーザーブレード背負ったデザインが超好き。
・“暴食”のベルゼブモン(Vi種/究極体)
世界最強と謳われた七大魔王の一人。この【反転】世界において、愛機ベヒーモスと共に東名高速道路終点付近に陣取って強者を狩っていた。名古屋から東京まで戻ってきた朱実とケンタルモンの前に立ち塞がり、その圧倒的な力で二人を追い詰めたが、どういうわけかトドメを刺すことはなく愛銃ベレンヘーナを朱実に託して去った。お前では銃込みでも俺には勝てないと嘲るように、蔑むように。
大人気デジモン故に割と二次創作においていい奴扱いが多いベルゼブモンですが、作者が捻くれ者である為、本作におけるベルゼブモンは絶対鬼畜のクソ野郎となっております。
・ナイトモン(Da種/完全体)
ベルゼブモンとの戦いとすら呼べない蹂躙を前に、追い詰められたケンタルモンが進化した姿。元より騎士だ誇りだ言っていたが、その通りの姿へと進化を遂げた。この力を持ってしても魔王にはとても及ばなかっただろうが、結果的にベルゼブモンは矛を収めたことで事無きを得た。
・ベレンヘーナ
暴食の魔王が携える魔銃。無力な人間だてらに怯まず挑んできた朱実に投げ渡され、以降は彼女の愛銃となる。爪と足による肉弾戦を好む魔王は威嚇射撃に用いることが多く、予てより持て余していた模様。結果論ではあるが、渡会八雲が当代一の魔剣“龍斬丸”を手に入れたのと同様、長内朱実もまた世界最強の魔銃“ベレンヘーナ”を得ることとなった。しかし「銃とは命を奪う道具である」という考えを捨て切れない朱実は、敵に向けてその銃を撃つことができない。
これ以降、長内朱実のコマンドに威嚇射撃(↓↘→+P)が追加される。
【余談】
作者が様々な短編に通りすがりのクソ強いクソ野郎として登場させるベルゼブモンは、本作が初出で全て同一人物である。
【後書き】
水の闘士が思ったより生き残ったがやっと死んだな! 夏P(ナッピー)です。
今回は序盤のターニングポイントとなります。というか、今回でようやく起承転結の起が終わったというべきでしょうか。互いに導かれるように最強の剣と銃を手にした八雲と朱実、同時に八雲が出会った類い希なる刃と弾丸を使いこなす光の闘士の目的は、他でもない長内朱実を殺すこと──巻き込まれたのは偶然だったはずなのに、どうしたわけか八雲も朱実も十闘士と密接に絡み合う運命。ケンタルモンが進化したことなど作者も忘れていました。
そして満を持して登場したベルゼブモン。他の魔王は殆どが作者の別作品にて既に倒されているor姿を消しているので、このベルゼブモンが作者世界における最後の魔王となります。そして上にも書きましたが、本作におけるベルゼブモンは作者の拘りというか捻くれぶりにより一切の妥協の無いクソ野郎となっています。某短編にて言及された「強すぎて卑怯」という奴です。
それでは次回、またお会いしましょう。
◇
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