辻音楽師は温い春をばら撒いた乞食見たいな天使。天使は雀の様に痩せた天使を連れて歩く。
天使の蛇の様な鞭で天使を擲つ。
天使は笑ふ、天使は風船玉の様に膨れる。
天使の興行は人目を惹く。
人々は天使の貞操の面影を留めると云はれる原色写真版のエハガキを買ふ。
天使は履物を落して逃走する。
天使は一度に十以上のワナを投げ出す。
──李箱「興行物天使――或る後日譚として――」より
「ねえ、明日死んじゃうとしたら、ハルキはどうする?」
ある秋の日のことだった。いつものライブハウスの階段で、つばめは僕に話し掛けた。顔に強く照り付ける西日から目を背けるのを言い訳に、僕たちは互いの顔ばかりを見ていた。
「急に何さ」
「べつにー。ただ気になったの」
つばめはそう言いながら、ライブハウスのカウンターから拝借してきたとおぼしき氷水を、ずずずと音を立ててすすった。
「みんなさ、自分で死ぬことばかり言ってるじゃない?」
ライブハウスの扉の向こうからは、今日もまた、自殺志願者たちの歌声が漏れ聞こえていた。曲はオンリー・ワンズの「アナザー・ガール・アナザー・プラネット」。今日のバンドはそれなりに聴ける演奏をしていた。
「”君と一緒に別の星にいるみたいだ”」僕は口ずさんだ。
「なに、それ?」
「いま演ってる曲の歌詞」
「ふうん。いや、そうじゃなくてさ」
ちゃんと聞いてよ、とつばめは唇をとがらせた。
「明日世界がひっくり返って終わっちゃうかも知れない、それがいやなら、自分で死ぬしかない」
「そういう世界になったんだ」
「でもさ、それって、とんでもないぜいたくなんじゃないかって、時々思うの」
「バカなことだとは思うけどさ」
つばめが自分で考え出した小難しいことを脈絡なく話すのはいつものことだったから、僕は話半分に相づちを打ちながら、緩い弧を描く彼女の眉を見つめていた。
「自分で死ぬ時を選べるか、選べないときはみんなが一緒に死んでくれるなんてさ。都合が良すぎるよ」
言われてみればまったくその通りだった。
「普通はさ、ある日突然わたしが死んで、あとにハルキやみんなが残されたり、ハルキが死んで、わたしが残ったりする」
「……」
僕は彼女の目を見つめた。その目が潤んで夕日の色を飲み込んでいたから、彼女が本気でそんなことを考えて、涙目になっているのだと分かった。
そういう日が来るのだと思った。汽笛は遠くへと去り、僕だけが夜に取り残される。そう思うと、何だかたまらない気持ちになった。
「でも、しかたないことだよ。避けられないし、何かができるわけでもない」
「でも、例えばの話で聞いてるの。明日死んじゃうなら、ハルキはどうする?」
僕は考えた、母さんにはもう、僕の不在は関係のない話だった。学校にいたはずの友達も、もう半年近く学校に行っていないと他人と大差はない。今の僕にとっては、つばめだけがかろうじて何らかの意味のあるつながりだった。
「つばめに、元気で、って書き残すな。きっと」
「それだけ?」
「長々書いたり、『それでも生きて』とか鼻持ちならないこと言うよりは、僕らしくて良い」
「そっか」
彼女は納得したような、していないような調子で頷いた。どうにも期待に添えなかったらしい。
「つばめは?」
「それなんだよね」
彼女はなぜか、良く聴いてくれましたといわんばかりに自慢げな顔をした。
「わたしはね。自分が明日生きてたらどうするか、まとめて書いておくよ」
「未練とか、心残りってこと?」
「それもあるけど」
彼女は夕焼けに目を向けた。
「朝早くに起きて、少しベッドの中でうとうとして、ラジオ体操をする、とか、外に出て、冷たい朝露が靴にしみて、ちぇっ、て言うとか、そういうこと」
「そんなことを書いて、何に……」
「わかんない。でも、わたしよりずっと頭が良くて、いろいろ知ってるハルキがそれを読んだら、きっと、なにかになるでしょ?」
「僕に丸投げするなよ」
「いらない?」
「そもそも、こんな話、していたくないよ」
そっぽを向いた僕の背中に、確かな熱と重みがもたれかかってくる。
「ごめんね。でも話しておきたかったの」
「……」
「ねえ、ハルキ」
「何」
「わたしに『元気で』って書くならさ、一緒に書いておいてよ。ハルキがいない世界では、どうやって息を吸って、どうやって吐けばいいのか」
「……」
「じゃないと、元気でとか、ムリ」
「……考えとく」
「大好き」
彼女は僕のことをぎゅうと抱きしめた。確かな重みと匂いに、明日死んでもいい、と思った。
*****
目を覚ますと、そこは薄暗い部屋の椅子の上だった。
自分が息をしているかいないのか、まるで分からなかった。でも別に良い。これまでだって息をしていないようなものだった。つばめがいない世界での呼吸の仕方を、僕は聞き忘れてしまったのだ。
「起きたかね」
薄暗い部屋に声が響き渡る。見れば、僕の座る椅子の、テーブルを挟んだ向かいに、陶製の椅子がもう一つ置かれており、僕の座る場所よりいっとう暗いその場所に、長身のデジタル・モンスター・ヴァンデモンが腰掛けていた。
ヴァンデモン。
「ふむ、覚えていてくれたとは、光栄に思うべきだろうな。親友」
なんで、僕は生きてる?
「それは私に会うまでの君に聞きたいところだね! 血に流れる記憶から、あの場所に至るまでの君の数日間を見させてもらったが、君が何をしたいのか、どうして生きているのか不思議で仕方なかったよ。あの悪運に比べれば、今君が私と話せているのは、ただの当然でしかない」
礼を言うべき?
「どうだろうね。私が君にしたことの内実を聞いたら、君はそうは思えなくなるんじゃないかな」
じゃあ聞かないことにするよ。ありがとう、出て行ってもいいかい?
「どこに行こうというのだね」
やらなきゃいけないことがある。
「刈りに君が本気でそう言っていたとして。その身体で外に出て、どうするつもりだね。また同じ事を繰り返すか」
その必要があるなら。
「今だって別に必要に駆られてそうなったわけでもあるまい。ただ君が愚かで、いつ死んでも良いと思っていただけだろう。これを渡したのはとんだ見込み違いだったようだ」
その銃は……。
「ああ、私が作った。君にあげた。そんな無謀をさせるためではなかったがね」
じゃあ、最初にそう言ってくれ。
「まあ、そう怒るなよ。親友。私はまだ、君の味方だよ。君に選択肢をあげよう」
そう言いながら、彼は銃の隣に束ねられた白い羽を置く。つばめの遺した羽。この数日間でずいぶん銃を使って目減りしてしまっているが、それでもまだそれなりの量があった。
「弾の無駄遣いをしてこなかったのは正しい判断だ。これにはまだ使い道がある」
そう言いながら、ヴァンデモンが羽に手をかざすと、白い羽の一枚一枚が、どろりと溶け始めた。溶けて粘性の高い液体になると、それはまるで血のように赤く、やがて他の羽とも一緒くたになって、机の上に大きな血だまりを形作る。
ヴァンデモンが指を一つ鳴らすと、その血だまりは一瞬で机上の一つの点にめがけて収縮した。からん、と音がして、そこには一錠の赤い錠剤が転がっていた。かれは注意深くそれを手のひらにのせ、僕に差し出してくる。
これは……。
「君の恋人だった者のかけら。その残り全てだよ」
どうしろと?
「君の身体はまだ生きていると言うにはほど遠い、どこかで療養をする必要があるだろう。私に一つ心当たりがある。しかもそこ行くのははきみにとってただの足踏みじゃない。君が街をどれだけ駆け回っても分からないものを、うまくやれば手に入れられるだろう」
そこは……。
「ともあれ、君が”うまくやる”のがへたくそだと言うことはよく分かったからね。これを飲みたまえ。きっと助けになる」
身体に良いものには見えないな。
「そうだな。高確率で精神に異常を来すだろう。しかし飲まなければ何も出来ず死ぬだけだ。あいにく全てを忘れて日常に戻れる様な青い薬は用意できなくてね。そんな状況に自分を追い込んだのは、もちろん君なわけだが」
いやに親切だな。むかしからずっと。どうして僕にそんなに世話を焼いてくれる?
「それを君が気にする必要はない。趣味みたいなものさ。さて、飲むかい」
飲む。
「死ぬかもしれないぞ」
いいさ、どのみち、死んだようなものだしね。
ヴァンデモンは唇を引きあげ、その長い腕を伸ばし、僕の口に錠剤を押し込んだ。
「それなら、行ってくるといい。親友。──良い名前が残っているといいね」
──どのみち、死んだようなものだ、とか。
つばめ?
──そういうこと、二度と、いうな、こらーーーーーーーーーーーっ!!!
ひどい味の錠剤が口の中でわずかに溶けたのを感じた瞬間、今まで聞いたどの幻聴よりも大きなつばめの声が、脳の裏で聞こえた。
ちょっと、つばめ、声が……。
──だいたい、だいたいさ。
つばめ?
──バカ!!!!!
今度は肩を叩かれたような衝撃、次いで、からだの内側に激痛が走った。血球の一つ一つがやまあらしになったような、ひどい痛みだった。
僕は痛みにのたうち回る。呼吸が出来ず、従って悲鳴も上げられない。
ぼくはそのへやでおおきくなったり、ちいさくなったり、して、それから──。
*****
「おはよう、かささぎ」
そんな声が聞こえて、僕は白いベッドで目を覚ました。
身を起こし、窓を見れば外は夜で、おはようなんてへんだな。と思った。美しい月が、きらきらと白く輝いていた。
「ぼくは、だれ……?」
自分が誰か、分からなかった。ここがどこか、わからなかった。僕の居場所はどこか遠くにあって、ここは別の星のような気がした。
「あちゃあ、やっぱり」
「兄さんの言っていたとおりですね」
「まあ、かえってやりやすい、のかな……」
ベッドの脇から聞こえた二つの声に目を向ければ、男の子と女の子が、不安そうに僕の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫? かささぎ」男の子が問いかけてくる。
「”かささぎ”、僕が?」
「そう、サイハラ・カササギ」
「とりあえず起きて。案内するから」女の子が言った。
「ここは、君たちは?」
「私達は”あひる”と”からす”。あなたのきょうだいだよ」
少女はぱっと顔を明るくして、僕に手をさしのべた。
「ようこそ、かささぎ。私達の”庭”へ」
めちゃくちゃ殺人事件が起きそうな名前になってしまったぁ……夏P(ナッピー)です。
前回の時点で「いやこれどうなんの!?」でしたが、すぐに投稿されたのに幕間か……この始まり方的に過去回想がしばらく続く奴なのかな……と思っていたらめっちゃ進んだ。前回の終わり方でしばらく途切れると悶絶しそうだったので、これは温情かもしれない。ヴァンデモン様も温情かけてくれてたしな、自明の理と言える。あと過去回想でめっちゃイチャコラしおってた。あんな記憶あったらそら10年経ってもその死を昇華し切れませんわ。でも母に言及されると現状を鑑みて辛くなる。ちゅーか、母の日だこれ投稿されたの。
よく考えたらつばめ(だったもの)が全部錠剤になったのなら、もう羽が無いじゃないか! そしてヴァンデモン様がさりげなく前振りしてくれたので、全てを忘れる青い薬もいずれ出てくるのでしょう。名前が残ってるといいねってそういうことかよ! アポトキシン4869か!?
精神に異常をきたすと言われながら、目が覚めて最初にどこか別の星のよう~が出てくる辺り、ハルキ君(なのかアレは!?)は根っからのロッカーな気がするぜ!
>「どこに行こうというのだね」
突然のムスカ。
何の末裔なんだろうヴァンデモン様。め、目が~目がぁ~!
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。