がちゃり。
そっと閉めようとしたはずのドアは、思ったよりも大きな音を立てた。肩がびくりと跳ねる。
本当だったら心配することなんて無いはずなのだ。“天使の日”が起きてそろそろ一年、父さんが死んで9カ月。あの人は、僕がもっと大きな音を立てても、ぴくりともしなかった。いつだって僕は何も気にせず、何時かも気にせず、外に出て、帰ってきたはずだ。
けれど、旅支度を済ませて、部屋の外に出て、ふわりと香ってきたのは、柔らかなバターの匂いだった。
「春樹」
ずいぶん久しぶりに聞こえたその声に、僕は喉の奥に何か詰まって、息が出来なくなった。
「ね、ねえ、春樹」
「……まだ、喋れたんだ」
口を突いて出るのはそんな皮肉だった。そんな皮肉でさえ、声に出して後悔した。きっと何も言わずに外に出てしまうべきだったのだ。暗い廊下で、居間から出てきた母の顔は見えなかった。
「今日も出掛けるの? あの、ね、ちょっとがんばって料理してみたの、今日、クリスマスでしょう? だから……」
「昨日だったら」
僕はほとんど叫ぶようにして、母の言葉を遮った。彼女が一歩一歩近付いて、その顔がだんだんはっきりしていくる。
「昨日までだったら、よかったのに」
「春樹、ごめんなさい、私、ずっと」
「もういい、何も聞きたくないんだ」
「ねえ、どこに行くの」
「……」
「帰って、くるのよね?」
「母さんには関係ない」
母さんには関係ない。
ドアが閉まった。
母さんには関係がない。
「しっかり別れは済ませられたのか」
「あなたには関係が無いよ。アンドロモン」
「ン、その通りだ」
アンドロモンはただうなずいて、そして沈黙した。黒いハットに、しんしんと雪が降り積もっていた。
街は僕が想像していたよりもずっと、ずっと賑わっていた。なんといってもクリスマスなのだ。僕は頭の中で「世界の終わり」と「クリスマス」を交互に唱えた。何度やってみても、クリスマスの方が重要に感じられた。僕でさえそうなのだから、きっとみんなそうなのだろう。
僕とアンドロモンは、古いデパートの北口にある古い路地で、白い車に二人で並んで寄り掛かって、つばめを待っていた。車をどこで調達したのかという問いには「ン、私の良心が痛まないルートだ」という答えが返ってきた。アンドロモンの良心が僕のものよりの高潔なのは疑いようもないが、わざわざ口に出して言うには及ばない場所、ということなのだろう。
そのデパートは随分古い建物だった。
何度かの改築を経ており、東と西にある入口、それとアーケードに面した南口はそれなりに綺麗な見た目をしていたが、その虚飾は裏路地に通じる北口には及んでいなかった。無数の錆ついたダクトと、排気口があちこちにのぞいていて、まるで現代に置き忘れられた恐竜のようだった。むかしはこんな風には生き物は滅びなかったものさ、隕石で潔く、一度に滅びたんだと、ブリキの恐竜が言った。白亜紀生まれの老人は頭が固くて困る。僕は思った。
北口は通常は職員しか使わないような、ほとんど裏口で、薄汚れた自販機と灰皿、ペットボトルと缶でぱんぱんになったゴミ箱が置いてある。道をまっすぐ行くとパチンコ屋の裏口、さらに行くと風俗店の入り口があって、そこに用があると思しき人が時たま通る程度だった。世界の終わりの、それもクリスマスにも、そういう人はいるのだ。それは不気味なレプリカントと共に女の子をカルトから救出するのと比べて、どちらが非現実的だろうか、僕は考えてみたが、一向に答えは出なかった。
「つばめは大丈夫だろうか」
「ちゃんとあなたが言ったとおりにしましたよ。この間の終わりに、“先生”に見られるようなタイミングで僕とつばめで言い争いをした。ちゃんとつばめにひっぱたいてもらって、そして別れた。このデパートはつばめも教団の社会科見学で訪れたことがあるらしいし、僕と喧嘩をして、他に外で知っている場所に行こうとしたように見えるはずだ」
「ン、暴力までは勧めていない」
「僕もね。彼女、意外と芸達者なんです」
平手打ちをくらった時は僕も面食らったが、それは僕の頬でぺちん、と音を立てただけで何も痛くなかったし、その後「もう、知らない!」と言いながら僕にだけ見えるように満面の笑みを浮かべて去って行く姿があまりに可憐すぎて、頬の僅かな感触も何も気にならなかった。
「ン、いついかなる時も芸達者だと願おう。結局、彼女が怪しまれてしまっては私たちにはどうすることもできないからな」
そういってアンドロモンは左の手首を見る。そこには時計なんてついていないが、彼曰く、人間社会に適応するため、人と同じ仕草をコマンドとして登録している、らしい。今のは体内時計を確かめるコマンドなのだろう。律儀なレプリカントだ。
「ン、少し遅いか」
「あなたの気が急いているだけですよ。らしくない」
そういってから、僕は無意識にスマートフォンを開き、時刻を確認している自分に気づいた。
「そういえば、聞いていなかった」
「どうした」
スマートフォンをしまい、少し薄暗くなり始めた空を眺めながら僕は冷え切った手と手を擦り合わせた。こんなことなら手袋をしてくればよかった。つばめは手袋やマフラーをしてきているだろうか。
「つばめはもう外に連れ出されて、自由時間にはいってるはずだ。それなのにどうして彼女との合流を遅めに指定したんです? 彼女がどれだけ上手に誤魔化せる、としても。怪しむ余裕を与えるのは危険です」
アンドロモンが作戦の決行時刻──つまり、つばめが“先生”の目を盗んで僕たちに合流する時刻に設定したのは16時だった。彼女のいつもの門限は17時、山の上の“選友会”のコロニーまで30分と少しかかると考えると、彼女が町にいられるぎりぎりの時間だ。
「つばめを芸達者、と呼んだのは君だぞ、ハルキ」
「冗談ですよ。彼女、どっちかというと分かりやすいタイプだ。そわそわして、百面相をしていないか気が気じゃないよ」
「彼女がそのように素直に内面をさらけ出す相手が、世界に自分一人かもしれないとは考えないのか?」
僕はため息を付いた。
「あなたは僕たちのキューピッドじゃないでしょう」
「その通り、ただのハネムーンのガイド役だ」
「それなら、その役をしっかり果たせばいい。彼女が挙動不審なことをして、お目付け役の”先生”に怪しまれるリスクをとる必要はなんですか」
「落ち着け」
少し強めの口調で僕が投げかけた問いに、アンドロモンはあいも変わらず平坦な口調で答える。けれどその表情はどことなく辛そうだった。別に罪の意識でも自分がこれから背負う責任の重みのためでもないだろう。彼は英国紳士風の帽子とコートとマフラーに身を包み、おまけにアンドロイドだったが、それでも、いや、機械の体だからこそ、この寒さはこたえるようだった。
「大丈夫ですか」
「ン、心配無用だ。ここで風邪を引いてみせたところで、先程の問いから開放してくれるわけでもないだろう」
少し自嘲の色を含んだ声でそう呟いて、アンドロモンは僕の方を見た。
「ハルキ、君の疑問はもっともだ。本来なら、一刻も早く、つばめを連れ去るべきところを、私はそうしていない。その理由は2つの悪いニュースにある」
「いいニュースはないんですか」
「残念だが、悪いニュース以外に、君たちに対し誠実である術がない」
実に彼らしい答えだった
「それなら、せめて上手に聞かせてください」
「それなら、比較的マシなニュースから」
彼は言った。彼の電子頭脳は、それが上手な語り方だとはじき出したのだ。これからは僕もそんなふうに、2つの悪いニュースを語ろうと思った。
「”コレクティブ”はやはり、戦力をこの街に回してきている。今日という日に、つばめを誰にも渡すつもりはないらしい」
「誰から聞いたんです。公安の刑事? あなたの機械仲間?」
「それよりは少し悪い」
「敵自身の口から?」
「いや、もう少しマシだ」
「なんなんです」
「観客だよ」
「観客?」僕は素っ頓狂な声を上げた。
「そういうのがいるんだ。手品師の格好をしてはいるが、自分では手品はしない。人の芸を見て笑っているだけのやつが」
「それで、僕たちを笑いに来て、そのついでにあなたに”コレクティブ”に関する情報をくれたと。チケット代は徴収しましたか?」
「ン、ユーモアは君の強い武器だ」
「自分で笑えてないんだから話になりませんよ」
僕は首を振った。このアンドロイドのジョークには時々ついていけなくなる。ともあれ、そういう世界に僕たちは足を踏み入れたのだ。観客がいると彼が言うのなら、きっといるのだろう。僕はそう思うことにした。
「その手品師とやらの情報は、どれくらい信用できるんです。それに彼が、”選民会”や”コレクティブ”に情報を流す可能性は?」
「どちらの可能性もあるな。だが私は、彼を信用することにした」
「どうして」
「言っただろう。彼は観客なんだ。観客は面白い見世物を望む。既に絶望的な挑戦を余儀なくされている我々に、さらに鞭打つような真似はしないはずだ」
僕としては匿名の害意をそこまで信用する気にはなれなかった。その手品師とやらはとびきりセンスのない悪役で、僕たちに希望を与えて、それが絶望に変わる瞬間を見たいのかもしれない。けれど、それを口に出すのはやめておいた。アンドロモンの顔を見れば、彼がその可能性を念頭に置いているのは分かったし、それに──。
「もし我々の計画が知られていたら、つばめは施設の外にも連れ出されないはずだ。ここに彼女は来ない。そもそもの計画が破綻して、我々は寒空のもとに離散することになる」
──その通り、だから、考える意味のある可能性だけを考えようというわけだ。素晴らしい、惚れ惚れとするほど理知的だ。
「そうしたら、つばめはどうなるんですか」
「なに、私一人でもプランBを実行するさ」
「プランB?」
「第三次世界大戦だ」
「見苦しいよ、アンドロモン」
「見苦しいくらいがちょうどいいだろう。ハネムーンのガイドは引き立て役だ」
僕は緊張にこわばった喉の奥で、それでもくつくつと笑った。
「それで? 2つめの悪いニュースは? 今のよりひどいんでしょう。どんな地獄の釜の蓋が開くんです」
僕が精いっぱいの思いで吐き出した冗談に、アンドロモンは、冗談どころではない悲壮な顔しか返してはくれなかった。
「ン、君の言うとおりだ。ハルキ。本当にひどい話だ。なによりひどいのは、これから起こることに対して私がたてたプランでね」
「何が来るって言うんです。それに、あなたは何をするっているんです」
「せめて夏であれば、他の策もたてられたんだが。冬の日没は早い。この天気を考慮するなら、闇の到来はもっと早い」
「もったいぶるな、日没がなんなんですか」
「ン、それは──すまない、中断らしいな」
僕の問いにアンドロモンが渋々と言った雰囲気で答えようとしたその時、デパートの裏口の扉がきい、と開いた。
「おまたせ」
そんな簡潔な言葉と共にあらわれたつばめは、簡素ないつものシャツの上に、同じく生成色のコートを着ていた。頬を真っ赤に染め、同じく真っ赤になった手に白い息を吹きかけている。浮き足だった騒がしさと、きらきらとした白に染まった町並みの中で、彼女は相対的に落ち着いているように見えた。幻想よりも現実に、非日常よりも日常に近いところで彼女を認識したのは初めてで、僕はなんだか気恥ずかしいような、いてもたってもいられないような気分になった。
「つばめ」
僕は思わず彼女に何かを言おうとしたが、思いつく気の利いた言葉は冬の空気に凍り付いた喉につかえてしまい、結局ただ名前を呼んだ。
それはつばめも同様らしかった。僕の目の前にぱたぱた駆けてくると、いつも通りころころ表情を変えて頭を巡らせながら、僕とアンドロモンを交互に見た。
「ハルキ、それに、あなたが、あんどろさん?」
「アンドロモンだ」
「あんどろさんでいいよ」
「そ、そうなんだ」
彼女はアンドロモンの見た目に狼狽えたようだったが、悲鳴は上げなかった。アンドロモンのことは僕が話していたし、様々なデジタル・モンスターの姿は日々メディアで報じられていた。それにしたって立派な対応だ。
「え、あ、あの、わたし、つばめっていいます。よろしくお願いします。えっと、先生は表の入口の方の喫茶店にいて、自由にはさせてもらってるけど、あんまり時間たつと気づかれるかもしれなくて、えっと」
「つばめ」
あたふたとぐちゃぐちゃになったシナプスの接続を始めたつばめの肩に、僕は手を置く。
「逃げるんだ」
その言葉に、落ち着かなさげだったつばめも僕の目をまっすぐ見て、ゆっくりと呼吸を落ち着けた。
「逃げるんだね?」
僕はこくりと頷く。
「逃げるんだ」
そうだ。逃げるのだ。今までの全てを捨てて、彼女とどこかへ行く。どこか、違う空の下に行くのだ。
「……一応、2人に聞いておくが」
アンドロモンが帽子の雪を払って、僕たち二人に向き直った。
「ここから先は命懸けになる。私は君たちを守るために全力を尽くすと誓うが、守れる、という確証はどこにもない」
「随分弱気なんだね」
「先ほど君に言ったとおりだ。ハルキ。絶望的観測を語るより他に、君たちに誠実である手段がない」
「それはつまり、わたしが生きるのは、絶望的ってこと?」
「ン、ある意味では、そうだ」
「アンドロモン、そんな言い方……」
「ううん、いいの」
アンドロモンを睨む僕を制止して、つばめは緊張のために早くなった呼吸を抑えるように、胸元に手を当てて、数度深呼吸をした。彼女の小さな肩が大きく上下する。
「あの、わたし、ずっと考えてたの、ハルキが話した、わたしがこのままだと、死ぬって話。正直、ずっと、半信半疑だったけどさっき、先生はわたしをここに連れてきて『今日は何でも頼んでいいですよ』って言った『特別な日ですから』って」
彼女は胸に当てた手をぎゅっと強く握りこむ。
「なんとなくわかった、わたし、死ぬんだね」
「つばめ」
「正直なところね、あんまりイヤじゃなかった。それが、みんなや先生のためなら、最初に死ぬって言われてても、死ねたと思う。それに、世界はもう、一度終わったんでしょ。この半年、みんなずっとその話をしてた。終わることと、死ぬこと、そればっかり。だから、死ぬのは嫌だけど、今さら怖くない。私の命は、もう落っこちたの」
つばめの肩は震えていたが、それが恐怖のためだと思うほど、僕は彼女を知らないわけではなかった。大好きな女の子の勇気を認められないほど、僕は愚かではないらしかった。
「だから、あとはわたしの命がどこに落ちるってことだよね。わたしの家族や、先生や、信じてきた預言のためか、ハルキと一緒に逃げるためかってこと」
「……」
「だから、えっと、あんどろさん、少し待ってくれますか」
「少しなら」アンドロモンは簡潔に即答した。
「ありがとう」
アンドロモンに仰々しく頭を下げ、つばめはまた僕の方に向き直る。先ほどまでの気丈な表情はそのままで、彼女はいつもの、何か言葉をひねり出そうとする時の百面相を浮かべていた。
「あ、あの、えっと、ね、ハルキ?」
「何?」
「その、きょう、ここに来るまでずっと考えてたんだけど」
「うん」
「えーっと」
「うん」
「うー、ぐるぐるしちゃってる」
「ゆっくりでいい」
「ン、あまり時間は無いぞ」
「ゆっくりでいいから」
背後で口を挟んでくるアンドロモンを遮って、僕は彼女に言葉を促す。
「えっと、いってもらってない」
「え?」
「わたし、ハルキから言ってもらってない」
「それは……」
もう、とつぶやいて、つばめは困ったような顔を僕に向けた。
「ハルキは、なんでもない女の子と一緒に、世界の果てまで行くの?」
彼女がそう言い終わらないうちに僕は、彼女の腕をつかんで、ぐいと自分の胸に引き寄せた。倒れこんできたあたたかいそれを、両の腕でつつみ、ぐうと力を込める。
それはひどくへたくそな抱擁だった。する方もされる方も、母に抱かれた記憶などとうに忘れたかのように、変なところにばかり力がこもっていた。でも、とにかく抱擁だ。自分にそんなことができるなんて驚きだったけれど、ともかくできたのだ。こういうことをしないのが僕の信条だった気がしないでもなかったけれど、それはきっとすでに滅びた世界での話だったのだ。ここしばらく雪の日続きなのに、彼女の首元は太陽のにおいがした。
「好きだよ。つばめ」
つばめは脳天から針金を通されたように固まってしまっていて、それが僕の身体全体を通して伝わってきた。それでもやがて、彼女はおずおずと腕を僕の背中に回してくれた。彼女の体温は、いつもそうなのだけれど、僕よりも少し高かった。
「ン、そろそろ、いい、だろうか」
後ろで無粋なアンドロイドの声がした。まあでも、彼はこの状況で自分に出せる慎み深さの全てを身にまとい、心底申し訳なさそうな顔をしていたので、僕もさすがに責めることはできなかった。
「大丈夫です。つばめ」
「うん」
つばめは頬を真っ赤に上気させながら頷く。
「いける」
そう短くきっぱりと言って、つばめはその小さな手を僕の手に滑り込ませる。僕はそれを強く握り返した。手をつなぐっていうのは、こんな感じだったっけ。と思った。
アンドロモンは僕たちをもう一度交互に見つめ、深くうなずいた。
「なら、やるぞ、どうせ見られている。こちらから勝負の時間だということを知らせてやろう」
「見られている、だって?」
驚いた声をあげる僕の前で、アンドロモンはその腕を、丁度つばめの頭上に向けた。
と、その腕からライムグリーンの針のような光線が放たれる。ぼくとつばめが思わず目でその光を追うと、ぷすん、という間抜けな音と共に、レーザー針は“それ”に突き刺さった。
「──コウモリ?」
「ン、そう見えるが、違う」
そのアンドロモンの言葉の通りだった。それは、コウモリと呼ぶには、一個の原形質と呼ぶには、あまりにも“黒かった”。
その黒は、夜闇の黒は、僕たちの頭上で、だんだんと膨らんでいった、やがて、路地いっぱいにその夜闇が広がって、僕たちがすっぽりと影に覆われたころ。
それは、咆哮をあげた。闇に、二対の真っ赤な切れ込みが走る。それが目だった。
僕も、つばめも、悲鳴さえ上げられず、その場に立ち尽くすだけだった。きっとこれが、世界の終わりなのだと思った。
「“スパイラル・ソード”」
刹那、グリーンの光が、再び閃いた。
そして咆哮、しかし今度は、僕たちを恐怖させるためのものではない。それは、痛みのためか、熱さのためか。
いや、僕たちの真上で、それはきっと、痛みも熱も感じることなく、一瞬で両断されたのだ。
どさり、僕たちの前にアンドロモンは軽やかに着地して、それで僕たちははじめて彼が、その腕に光の刃を宿して地面を蹴ったのだと分かった。その動きがあまり速いものだから、彼の帽子とマフラーは、未だにふわりと宙を舞ったままだった。
「せかいのおわり、死んじゃった……」
ぽつりとつばめが呟いた。
アンドロモンは落下してくるマフラーと帽子をで受け止め、右手でつばめにマフラーをまき、そして、左手で僕に帽子をかぶせた。
「ン、行くぞ。恋人たち。クリスマスの冒険だ。心が躍るな」
僕とつばめ、交際一日目の午後のことだった。
「この車、あんどろさんの?」
「ン、違う」
「じゃあどこから……」
「僕もさっきから聞いてるんだけど、教えてくれないんだ」
「ン、私の良心は痛んでいない」
「つばめはあなたの良心のことまで知らないよ。アンドロモン」
「それもそうだな。なら、ただノーコメントと言うのが誠実なのか。それよりつばめ、身をかがめていたまえ」
「う、うん」
「無理するなよ。後部座席に隠れてろなんて言ったって、この運転じゃ無理だ。アンドロイドの、しかも警察官が運転が下手ってどういうことだよ」
「ン、完璧な存在などいない。法定速度を大幅に超過しながら、ワクチン種としての良心プログラムと戦っているのだ」
わけの分からないことを言うアンドロイドへの返事の代わりに、僕は舌打ちをした。アンドロモンの運転は土曜日の朝のむくどりの合唱のようだった。がさつで、お粗末で、あらゆる気分を台無しにしてくる災害だ。それが雪の詰まった路面と織り成す和音は悲劇としか形容の使用がなく。身を隠すために後部座席に上体を横たえたつばめは、車体と一緒にぐわぐわと上下に跳ねて、この狂気のオーケストラのパーカッションを務める羽目になっていた。
「ハルキ、後ろはどうなっている?」
その言葉に僕は窓を開け、車の後ろに目を向ける。危険運転にクラクションを鳴らす車も多かったが、それ以上に僕の目を引いたのは、その上空にあるものだ。
それは巨大な蚊柱に見えた。けれど、蚊柱にしてはいやに黒く、それでいて、薄暗い空のもとでもはっきりと見える。
「コウモリの群れだ」
「それって、全部、さっきの……?」つばめがさっと顔を青ざめさせる。
「ン、“コレクティブ”も衆目の中で下手なことはできないだろうと市街地を選択したが、ああ追ってくるとは予想外だった」
「早速トラブル? 冗談はよしてほしいな」
「ン、このくらいはトラブルに入らない。想定の範囲内だ」
「この運転も?」
つばめが後ろから心底つらそうな声を投げかける。
「がんばってくれ、つばめ、殺される前に死ぬなよ」
「む、むりかも」
「そう言うな。じき駅だ」
「駅?」
僕は弾かれたように身を起す。その瞬間、アンドロモンがハンドルを切って、僕は頭を窓にぶつける羽目になった。
「大丈夫か」
「大丈夫か、じゃない。駅ってどういうことです。このまま逃げるんじゃ」
「そうは言っていない」
「今から駅を降りて、切符を買って、電車を待って、乗り込むんですか? 追っ手が許してくれるとは思えません」
「人数分のパスを購入済みだ。切符を買わずとも改札は通り抜けられる」
「そういう問題じゃない」
「無茶なのは承知の上だが、それ以外にやりようはないんだ。このまま車で逃げ続けられるわけでもないしな」
「今は逃げられてる」
「いつまでもノンストップで走れるわけでもない。それに、この状況を持たせられるのも日が暮れるまでだ」
「また日没、ですか? 日が暮れたら一体なんだっていうんです」
「吸血鬼が来るんだ」
「何を……」
「ン、言葉通りだ」
車内に沈黙が下りる。何とか起き上がったつばめが、重い空気を打ち破るために声をあげる。
「ねえ、これが、ハルキが言ってた、外の世──」
「違う、こういうのを言ったんじゃない」
「あれ、そうなの?」
きょとんとしたかわいらしい声にため息を返し、僕は隣のアンドロモンに目を向ける。
「聞いてないですよ、そんなの。ドラゴンに吸血鬼、なんて」
「言ったら面白くないだろう」
「それ、本気で言ってないですよね」
「ン、当然冗談だ」
僕が特大の舌打ちをすると、カーブミラーの中のつばめが驚いたように眉を顰める。
「どうしたの、ハルキ、怒った?」
「何でもないよ。冒険が楽しみで仕方がないんだ」
「ン、そうだ、心が躍るな」
僕はもう一度舌打ちをした。もう、とつばめが言った。
夕方の駅前、人はまばらで、あたりには闇が落ちようとしている。
そんな駅前のタクシー乗り場に、一台の乗用車が飛び込んできた。駅舎に突っ込むのではないかという勢いで突き刺さった。居並ぶタクシーがクラクションを鳴らし、乗り場に並んでいた人々はぽかんとして見つめる中、車から三人の影がとびだした。運転席から出てきた長身の男は、周囲の目などどうでもいいとでも言いたげに上空を見上げる。助手席の少年が、後部座席の少女の手を取って、2人は駅舎の中に飛び込んだ。
それを見届けると、彼は上空に目を向ける、そこには黒い霧──無数のコウモリの群れがあった。男が腕を掲げると、そこから光が照射され、焼けるような煙と共にコウモリは地面に落ちていく。。
周囲の人々はクラクションを鳴らしたり、呆気にとられて目の前の状況にスマートフォンのカメラを向けたり、通報でもするのか電話を耳に当てた。
しかし、そうしているうち、スマートフォンを構えた一人がぱたりと倒れた。それからクラクションが鳴らなくなり、ベンチに座っていたものも身を倒す。波が引くように、彼らはみなばたばたと倒れていく。
倒れる人々を見た長身の男は首を振り、なおもコウモリを打ち落としながら、ゆっくりと駅舎に向けて後退を始めた。そうして、時計を確認するように左腕を見て、やがてコウモリたちに見切りをつけたように背を向けて、駅舎に歩き出した。
それから少しして、そこに一台の車が着く。しかし、それは自動車ではなく、黒い何かに引かれた、巨大な棺だった。
点滅、暗転、三度の暗闇。駅前のきらびやかな街灯がかい消える。
ごとり、と、何かが開く音がした。
「こっちだ、つばめ!」
「う、うん!」
僕はつばめの手を引いて、人でごった返した駅の構内を駆け抜けていく、気は誰よりも急いていたが、それに反して思うほど速くは走れなかった。人々の足から溶け落ちた雪で構内の床はうっかり足を滑らせてしまいそうなほどぬれていたし、何より僕の手の先で、つばめが現れる一つ一つの物事に対して目を輝かせていたからだ。
「すごい、こんなに人がたくさんで、川の流れみたい」
「それなら上手に泳ぐんだ、つばめ」
「ご、ごめん。わかった!」
僕は彼女の向こうに目を向ける。あのコウモリたちも、後から追いつくと言ったアンドロモンも、どちらも見えなかった。
おぼつかない四本の足で、僕たちは改札にさしかかる。ここばかりは周囲の流れを無視するわけにもいかず、僕はゆっくりとパスを改札にかざした。次いでつばめの方を振り返れば、彼女はおっかなびっくり僕のまねをする。耳鳴りがして、周囲の景色が全てゆっくりに流れていくように思えた。何も緊張することはない。何も難しいことはないのだが、彼女が何か手順と違うことをしても、準備の段階でアンドロモンがなにか手違いをしていても、きっと改札は止まって僕たちは終わってしまうのだ。
軽い電子音がして、改札機が彼女のパスを認証し、僕は彼女をこちらに引っ張った。
「今ので通って良いの?」
「そうだよ」
「なんか、あっさり」
「コウモリの手続きはもっとあっさりだ。急いで」
「う、うん」
僕とつばめはアンドロモンと示し合わせたとおりのホームへ向かって走る。時計を見た。当然計画の電車に乗り込んでゆっくりするつもりはない。アンドロモンの計算は完璧で、すぐに電車が発車するように計画は組み立てられていた。
「あんどろさん、大丈夫かな」
「ぎりぎりまで引き付けてくれてるんだ。そういう手はずだ」
「でも」
「さっきも見ただろ、あのドラゴンを簡単に倒してた」
「そ、そうだね」
口ではそう言ったが、僕も内心では焦っていた。アンドロモンは強い。僕が思っていたよりもずっとずっと強い。でも、今度は、そのアンドロモンが最強と称した相手なのだ。
ホームへの連絡通路にあいた小さな窓から外の様子を見る。もうかなり薄暗い。これでまだ夜ではないとは、きっとそのヴァンでモンというのは相当な几帳面か、かなりの怠け者なんだろう。
エスカレーターを駆け上がり、目当ての車両に飛び込む。扉が閉まると、つばめは体から力が抜けたように僕の腕の中に倒れ込んできた。先ほどと同じで人に抱きしめられるのに慣れていない、全体重と心と尊厳の全てを委ねてくるような身の任せ方で、熱い体温があまりにも無防備に僕に伝わってくる。当然、ただのハグと言うにはあまりにも不審な姿勢になり、側を通った乗客は僕に白い目を向けた。
「つ、つばめ!」
「ごめん、でも大変で。これで大丈夫なの?」
「どうだろう」
僕たちがこうして車両に逃げ込んだくらいで、先ほどのドラゴン、そしてアンドロモンの言っていた吸血鬼の追跡を振り切れるとは思えなかった。
「でも、これで計画通りだ」
「そっか」
「大丈夫?」
「うん。でも、あっつい。心臓すごくはやくなってる」
「あれだけ走ったんだし。当然だ。コート持つよ」
「ありがとう」
そう言って彼女はコートを脱いで、そのままシャツの首元のボタンを外した。彼女がそうするのを見るのは初めてのことだったから、僕は驚いて声を上げた。
「それ、いいの?」
「ん?」
「いや、いつもボタン閉めてたから」
僕の言葉に、つばめは、ああ、と得心した表情を浮かべた。
「あんまり肌を見せちゃいけないって決まりでね、人前ではずっと閉めてなきゃいけなかったんだけど、もう関係ないし」
「そ、そう」
「だから、はい、もう一回」
そう言ってつばめはまた腕を広げて、僕に抱きついた。
「あ、おい!」
「ふふふー」
声では元気そうにしているが、体はまだ震えている。不安なのだ。僕はゆっくりと彼女のことを抱きしめ返して、車両の外に注意を向けた。ホームでは発車を告げる音楽が流れているが、追手の現れる気配はなかった。
ふと、僕は彼女のあらわになった首筋に目を向けて、眉をひそめた。
「ねえ、つばめ」
「ん?」
「首のそれ、なに?」
「え?」
そういって彼女が手を回す、そのうなじに、ほそくかすかな緑色の線で、それは刻まれていた。
「天使の羽の、タトゥー、なのかな」
「羽? そんなのあるの?」
「知らなかった? 誰かに言われたりは?」
「うん。お風呂もみんなと別々だったし。羽っておっきいの? 広げてる感じ?」
「いや、一枚だけだよ。よくある羽だ」
「一枚だけ」
その言葉に、つばめは首を傾げた。
「ねえ、ハルキ」
「うん」
「一枚だけなら、どうしてそれが、“天使の羽“だと思ったの?」
注意を呼び掛ける扉が閉まる寸前に、アンドロモンはその電車に飛び込んだ。飛び込みとしては手遅れで、ほとんど扉に足を挟まれていたが、鋼鉄の身体には少しの痛みも走らなかった。
ホームから怒声と笛の音が聞こえる。乗客たちも、ものすごい足音と共に駆け込み乗車をしてきた不審な長身の男を呆気にとられて見つめていた。
「ン、失礼した。急いでいたもので」
車内全体に聞こえる声で彼は言って、律儀に一礼をしたが、周囲に用心深く注意を払っていたままだったので、彼にしてはおざなりなお辞儀だった。
やがて車内アナウンスが響き、電車がゆっくりと動き出す。追手を振り切ったはずにもかかわらず、アンドロモンに安心した様子は少しも見えない。むしろ先ほど以上に落ち着かなさげに周囲にその眼のレンズを向けて──何より妙なのは、彼の眼は、染野春樹も才原つばめも探していないことだった。
「どうしたんだ。レプリカント、何を恐れている?」
どこからか聞こえたその声に彼ははっとしたように身体を固くする。構えを取り、その腕からはライムグリーンの光の刃が飛び出す。
その姿に驚きの声をあげる乗客が一人くらいいてもいいはずだったが、何も聞こえなかった。
来たれ。
ふいに声が聞こえる。アンドロモンは今度は慌ただしく周囲を見回したりはしなかった。その声は人間のものだ。乗客たちのものだ。彼らは霧のかかったように虚ろな目で、それをひたすらに呟いているのだ。
来たれ、来たれ、来たれ。
刹那、彼らの眼に浮かんだぼんやりとした霧が、現実のものとしてふきだした。人々が皆、その眼と耳と鼻から吐き出される白くどろりとした霧が、車内を満たしていく。それでも口だけはなおも渇望の言葉を唱え続けていた。
来たれ! 来たれ! 来たれ!
「もういい」アンドロモンは刃を構え、淡々と言った。「さっさと出てこい」
「もういい、なんてことがあるものか。形式、儀式というのは重要だ」
「ここは闇貴族の館じゃない。こんなことに何の意味がある。ノスフェラトゥ」
「悪い癖だよ。レプリカント」
霧の向こうから、靴音が響く。薄靄のかかった人型の輪郭が浮かぶ。
「君たち機械の、昔からの悪い癖だ。意味なんてものを問うのは」
やがてそこに姿を現したのは、夜闇の色の貴族衣装に身を包み、血で染め抜いたように紅い仮面で蒼白な顔を隠した、長身の麗人だった。
「──意味なんて。そんなもの、最初からないのだからね」
「ン、つまりただの雰囲気づくりか。私が怯えるわけもなし、お前の言う通り無意味だな」
「そう言うな! 不感症の機械人形め! “ウィルス・バスターズ”の尖兵として、私のかわいい不死者たちを一騎で平らげた時から何も変わらないな、君は」
「殺せてはいないだろう」
「その通りだ。なんといっても、不死なのが取り柄の軍団だからね。それ以外には愛嬌くらいしかないのだから、困ったものだよ」
気安くも聞こえるやり取りをしながらも、アンドロモンは右手の刃をしまうことはない。不死者王、夜を歩く者、始まりの獣、“闇貴族の館”に据えられた空の棺の主たるヴァンデモン。間違いなく、今人間界に降りてきているデジタル・モンスターの中でも最強格だ。どれだけ用心をしても足りず、結果としてどんな用心も無意味な相手だ。
しかし、目の前に立つ“想定通りの最悪”を前に、アンドロモンは内心で舌打ちをした。或いは、染野春樹ならきっと舌打ちをしたくなるような気分だと、電子頭脳で思考した。
「どうした。前の小競り合いからずいぶん経つ。久しぶりの再会に涙を流してくれてもいいんだ。アンドロイドが泣くというシチュエーションは陳腐だが、劇的だからな」
アンドロモンは内心にとどめていた舌打ちを実際にやってみた。初めてだったがそこそこいい音が鳴る。次があれば、もっと内心のいら立ちを伝えられるようにハルキにレクチャーしてもらおう。
「おお、機械には珍しい形での感情表現だ。涙には及ばないが、感動的だな」
「トラファマドールといい、どうしてお前たち“コレクティブ”はそう人の神経をさかなでするのがうまいんだ」
「トラファマドール? ああ、メフィストがまた改名したんだったな。悪魔のくせに、名を軽んじる愚か者め。奴はとうに“コレクティブ”とは縁が切れている。一緒にするな」
「ン、お前だってそうだろう。神代に天使を滅ぼした獣だか知らないが、今では組織の運営からは引き離された“コレクティブ”の一分派の首魁に過ぎない。北国の風は死体にはさぞ冷えるだろう。悪魔どもの使い走り、ご苦労だな」
「老人に向けて昔のことを知ったように話すのは愚かというものだ。ともあれ、使い走りと言われては、その通りとしか返せないが。しかも、私は無能な使い走りらしい」
そう呟いてヴァンデモンは愉快そうに窓の外に目を向ける。夜闇の中を走る電車は既にいくつかの駅を通過していた。
「あの少女をどこにやった?」
「ここ以外のどこかだ」
「別の車両にでも乗ったか。私が君の機械油のにおいを追ってくると分かっていて、あえて自分と彼女を引き離したな?」
アンドロモンは無言の肯定を返す。
「ン、お前が来ることはわかっていた。厄介な相手だ。夜が来る前に逃げきれればなんということはないが、つばめを連れ去ることができるチャンスは夜の間近、彼女がそばにいる時にお前に見つかっては守り切れない」
「だから、君は日が落ちる寸前に行動した」
「そうだ。お前の怠けぶりは有名だからな。日が落ちなくとも十分に強いが、完全に夜が来るまでは仕事は手下にさせるだろうと思った。まもなく夜が訪れる前の追跡程度の仕事なら、特に」
「デビドラモンたちなど君には物の数ではない。結果として君は彼女を安全に送りきったというわけだ」
「ン、教団の追手が駅で張っている可能性は十分にあったが、それもお前が眠らせてくれた。礼を言うよ」
淡々とお前を利用したと言ってのけるアンドロモンに、ヴァンデモンは腹を立てるでもなく笑う。
「それで? 今は夜だ。たとえ何に乗って去ったとしても、わたしは彼女を追えるぞ。駅を発った電車は何本だ? それとも駅舎に隠れているだろうか。市内では教団の人間が血眼で捜索に当たっているし、小細工を弄したところで無駄なことだ」
「ン、問題ない。コウモリどもに割くリソースを、お前は今から戦いに使うことになる」
戦闘の構えを取り続けながらアンドロモンが放った台詞に、ヴァンデモンは三日月のような笑みを浮かべる。
「私と闘おうというのか。勝敗は知れていよう」
「するのは時間稼ぎだ」
「少しの時間も稼げやしないさ」
「そうか、ならこれならどうだ?」
その言葉とともに、車内の空気がふっと変わった。車体がスピードを上げ、同時にどこからか無数の気配がヴァンデモンを取り囲む。
「……誰を呼んだ」
「シールズドラモンの分隊だ」
「 “カンパニー”に協力を要請したか。肩書上の所属と言うだけで、君の魂は“バスターズ”にあると思っていたが」
「その通りだ。しかし、闇貴族を相手にするわけだからな。使える戦力は使わなければ」
「おまけにこの電車はトレイルモンの偽装か? してやられたものだ。田舎町の可憐な少女一匹に、いささか全力を尽くし過ぎではないかね」
「ノー、だ。理由は二つ。第一に、最初にお前というたった一人の軍団を寄こしたのは“コレクティブ”だ。第二に、つばめには死力を尽くす価値がある」
「それは、全ての人間がそうであるのと同じように?」
「ン、そうだ。それに、私以外にも彼女の自由を願う人間がいる」
その言葉に、ヴァンデモンはぱちぱちと気のない拍手をする。
「王子様がいる、というわけだ。君は損な騎士の役割を買って出たと?」
「世界にひとりだけの役回りだ。損とは思わないさ。」
ヴァンデモンは肩をすくめ、値踏みをするように問い続ける
「あの機械どもが、君のプランにただ賛同したとも思えない、“カンパニー”は半端は許さない。“コレクティブ”の手に渡らなければそれでいい、なんて甘いことがあるものか。──君に下った指令はそうじゃないだろう」
アンドロモンは息をついて、頷いた
「『確保してカンパニーに連れ帰るか、それが叶わないなら殺せ』それが私の本来の仕事だ」
「ナノモン女史の考えそうなことだな。それで、君は、サイハラツバメがなぜ重要なのか、その理由も知らずに彼女を二大勢力から逃がそうとした。ここで運よく私から逃れても、”カンパニー” から殺されるな」
「分からないぞ。希望は美徳だ。目の前に不死者の王がいるときは特に」
アンドロモンの言葉に、その場に沈黙が下りる。ユーモアをはき違えたか、と彼が訂正を出そうとしたときになって、ヴァンデモンがその口から、く、と音を立てた。
「く、ははははははは!」
おかしくてたまらないといったふうに、顔に手を当てて背中を丸めながら彼は笑う。
「前に会った時よりも語るようになったじゃないか。レプリカント。しかし、こちらの世界でも変わらずの正義感だ。敬服するよ」
「お前の敬服に用はない」
「いやはや、けれどわかるよ。実際、私もサイハラツバメの確保には反対だった。進化の光、など、くだらない。完全体はそのままでパーフェクトだから完全体と呼ばれるんだ。“究極”の力など、聞こえはいいが理性を失った獣そのものだ。経験者が言うのだから間違いない」
ぴくり、とアンドロモンが動いた。
「進化の光、だと? お前、つばめが何か知っているのか」
「知らないのは貴様だけだよ。哀れなレプリカント。 “カンパニー”も彼女が邪魔なはずだ。これから人間を資源に、進化へつながるかもしれない不完全な乱数器で一儲けしようというところなのに、」
「それはつまり──」
ヴァンデモンは笑い声をおさめる。けれど笑顔はそのままで、さらに唇を引き上げた。。
「その先が知りたければ、私を倒してみろ。ちょうどいい、貴様と考えが一致しているものだから、拳のやり場に困っていたんだ」
「二大勢力の、望まない仕事をさせられている下請け同士だ。それが分かったのなら、戦う理由がどこにある」
「おいおい、アンドロモン。私は神代から生きる不死の獣だぞ」
軽い調子のその言葉、けれど、アンドロモンは周囲の温度が数度下がったような感覚に襲われた。周囲のシールズドラモンの気配も騒がしく動く。彼らも皆、戦いの時が来たと悟ったのだ。
「戦いの中、仲良くなれそうな天使も、“バスターズ”も多くいたさ。ひどく気に入ったものもいた」
「殺したか」
「ああ、殺して、丁寧に埋葬してやった。そうしてから、墓を暴いて、私の部下にしてやった。構えろ、レプリカント。一瞬で終わるぞ。墓に刻む言葉を急いで考えるといい」
その言葉と同時に、ヴァンデモンは両手を前に突き出し、真紅のマントを広げる。
闇が溢れた。
「この新幹線って、どこまでいくの?」
「栃木だよ。つばめ。昔の将軍を祀った神社とか、人が何人も飛び込んだ滝がある。そこでアンドロモンと落ち合うことになってる」
僕は隣に座るつばめにそう返し、彼から渡された紙に書かれたホテルの住所に目を落とす。いきなり東京にいっては駅前で捕まる可能性もあるだろうと、彼が手配したとりあえずの隠れ家だった。
「ふうん。トチギ。ハルキは行ったことあるの?」
「ない」
「ないんだ。ハルキは何でも、見たことあるみたいに喋るよね。わたしと同じで何も知らないくせに」
「君よりはものを知ってる」
「そう?」
「現に今、教えてるのは僕の方だ」
「むむ」
つばめは口をへの字に曲げて、それから、心配そうに頭を僕の方にたおしてくる。
「あんどろさん、大丈夫かな」
「大丈夫でいてもらわないと困る」
「わたしのために、すごい危ないことをしてる。今日初めましてだったのに」
「それが彼なんだ。たぶんね」
「なんで、わたしなんだろ」
それは僕も気になるところだった。これから世界を牛耳ろうという怪物たちが、わざわざ北国の地方都市までやってきて、そこに住むたった一人の少女のために、謀略と大怪獣のスペクタクルをしているのだ。つばめ当人がどう感じているにしろ、ひどい負担なのは間違いない。
「気にしたってしょうがないよ」
僕に言えるのは、結局それくらいのことだった。
「うん……」
そうして、つばめは窓の外に目を向ける。代わり映えしない寒々とした景色。田畑、中古車ディーラー、田畑、田畑、ラブホテル、田畑、田畑、田畑、そしてまた中古車ディーラー。
彼女はそんな景色を見ながら、沈みがちだった顔をころころと輝かせた。僕にはなんて事のない景色のすべてが珍しいのだ。
「ほんとうにずっと、教団の施設にいたんだ」
僕は、ぽつりと問いかけた。
「うん、社会科見学とか、あとは小さい頃、ひどい腫れ物ができた時は、街の病院に連れて行ってもらったらしいけど」
僕はアンドロモンが見せてくれつばめの経歴書を思い出す。皮膚科への通院の話がたしかにあった。
「それ以外はずうっと、あの場所」
「窮屈には思わなかった?」
「全然、楽しかったよ。出たがってる子もいたし、何となく、わたしたち、この庭に閉じ込められてるんだなあ、みたいなのはあったけど」
「庭?」
僕は首を傾げた。
「あ、うん。家の前にちょっとした庭があってね。夕方までなら、そこで遊べたんだ。まわりに柵があって、外の畑や牧場にも、子どもだけじゃ外に出ちゃいけなかったの」
彼女の声のトーンが少し落ち、僕は思わず後部座席を振り返った。彼女は窓の外の夕闇を見ながら、何も見ていないようにも見えた。
「広くって、先生の作ってくれたブランコやベンチがあって、そこで本を読んだり、春になるとスイートピーが咲いてね、すっごく綺麗だった」
僕はその光景を思い浮かべてみた。牧歌的な光景の中で、閉じ込められた、選ばれた子どもたち。つばめたちはそこで太陽を浴び、スイートピーの香りをかぎ、ベンチに寄り掛かって、アーサー・C・クラークを読んでいたのだ。そこでは沢山の子どもたちが、まだ、サイエンスフィクションとスイートピーと一緒に閉じ込められているのだ。僕はそこから、太陽のような一人の少女を連れ去ったのだ。
「その庭は好きだった?」
「うん、大好きだった」
「それなら、出ていきたいと思ったのはどうして」
「ハルキが『どこまでも一緒に行こう』って言ってくれたから」
つばめの不意打ちに、僕の頬は紅潮する。
「あれはほとんど誘導尋問だったじゃないか」
「なに、ハルキ、本気じゃないであんなこと言ったの?」
「い、いや、その、本気、だけど」
「それならよし」
くすくすと笑うつばめに僕は深く息をついた。これでは逃避行と言うより、ただの旅行だ。
「そういえば、例のウサギ人形は渡せたの?」
夜につばめの部屋に来るという少女にまつわる不可思議な話と、その子のために彼女が買っていた小さな白兎のマスコットを思い出して僕は言った。
「あー、それなんだけどね」
つばめはふたたび顔を曇らせて、ポケットをごそごそと漁り、件のマスコットを取りだした。
「あれから一週間、あの子来てくれなかったの。結局渡せなかった」
「そう」
「ううむ、どうしたのかな。ちょっと心配」
「きっと忙しかったんだよ」
さっきから気のない返事しかできない自分に嫌気がさすが、僕だって緊張しているのだ。あの化け物たちが今にも新幹線ごと引き倒しはしないか、不安で仕方ないのだ。
と、つばめが不意に手を伸ばし、僕の頭の上に置いた。
「な、なに」
「ん? よしよし、えらいぞって」
「……僕は子どもじゃないよ」
「別に子どもだと思って褒めてないよ。ハルキだと思って褒めてるの」
よしよし、よしよし、とつばめに撫でられていると、恥ずかしい話だが、泣きたくなるほどにしあわせな気分になる。僕は恋人を連れて、誰も知らない町に行くのだ、という、忘れていた高揚感が戻ってくるのも感じられた。
「ありがとう」
「ふふふ。あ、ハルキ」
「何?」
「トイレ行きたい」
「ついてくよ」
僕は立ち上がって、つばめに手を差し出す。彼女もその手を取って立ち上がり、大きく一つ伸びをして、ちょっと体固くなっちゃった、と、笑った。
「ハルキ、いる?」
「いるったら」
新幹線の車両と車両の間、乗降口や自動販売機のあるスペースで、僕はつばめの入っているトイレのドアににもたれてスマートフォンを触り、熱い缶のココアを飲んでいた。張りつめていた緊張がほどけたのか、彼女のトイレは長く、時折くぐもった声で僕に話しかけてくる。折しも新幹線は数分後にどこかの駅にとまるようで、荷物を抱えた人が乗降口に集まってきている。つばめがそれに気づかず僕に話しかけてくるものだから、僕は先ほどから顔を赤くして周囲に頭を下げていた。
と、不意にスマートフォンをいじる僕の手元に影がかかった。なんだろう、と顔をあげる。
「奇遇ですね、染野くんさん、こんなところで会うとは」
小さな黒メガネをかけたシュワルツェネッガー並の大男が、表情一つ変えずにそう言った。
「どうしたの、ハル──」
背中のドアにこぶしを叩きつけて、僕はつばめの声を遮る。
「つ、つばめさんの、先生でしたっけ」
そう、少し大きな声で言えば、トイレの中で大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「はい、以前に一度会いましたね」
「え、ええ」
口がからからに乾いている。僕たちと彼のスタート地点は同じだった。僕らがつばめを連れ去ったことに彼が気づくまで、多少は時間があったはずだ。僕たちは駅まで車をぶっ飛ばし、わき目もふらず新幹線に乗り込んだのだ。彼がここに居るのは、どう考えてもおかしいことだった。
「ところで、染野くんさん」
「そ、染野だけで、いいです」
「ふむ、では、染野」
そういう彼の受け答えはどこまでも非人間的で、息遣いが聞こえてくるのが妙に感じるほどだった。
「つばめを知りませんか。はぐれてしまったのです」
「は、はぐれたって、どこで」
「町です。ライブハウスから少し離れたデパートで」
「そ、それなら」僕は必死に言葉を紡ぐ。
「ここに居るはずはないです。ここはもうあの町から100キロは離れてる。近くを探さなかったんですか」
「そうでしたか。ありがとう」
まるでもとより答えを聞くつもりはないとでも言いたげな反応だった。こっちだってそれは御同様だ。どうやってこの新幹線に乗り込んだのかは全く分からないが、ここに彼がいるからには、僕がつばめを連れ去ったと知っているに決まっているのだ。
「ところで、染野」
その手が僕の肩に置かれた。掌だけで僕の顔をすっぽりとつつめそうだ。彼の手で口と鼻をふさがれて窒息する様を思い描いてみたが、その前に僕の顔の皮が剥がされそうだった。
「なんでしょう」
「そこはトイレでしょう。寄り掛かっていては迷惑だ。マナーに反しますよ」
そう言って先生は僕の後ろのドアを指さした。
「す、すいません、順番を待っていたもので」
「それならなおさらです。中の人が出られないではないですか」
「知人なんです」
「ほう、染野の、知人」
彼はのそりと腰を落とし、顔を僕に寄せた。
「それは是非挨拶をしなくては。私もここで待っていていいですか」
「あなたには関係がない。旅行の途中で、次の駅で急いで降りるんだ。迷惑なんです」
急いで降りるんだ、を大きな声で言ったのはつばめに聞かせるためで、迷惑なんです、を少し大きな声で言ったのは、乗降口に集まりだした他の乗客のためだった。彼らは一斉にこちらを向いて、その異様さに気づいたらしい。
「そういわずに」
「いいえ、やめてください」
僕がいくらかヒステリックな響きを添えてそう言えば、一人の男性が、こちらにやってきて、声をかけた。
「あの、何をしてるんですか」
先生が大柄な体をターンさせてそちらを向いたのと、新幹線がゆっくりと停車したのと、ほぼ同時だった。
右手に持っていた熱いココアを、思い切り先生の顔にぶちまける。巨体はほとんどどうじた様子もなかったが、それでも僕の肩に添えられた手の力は緩んだ。
「行こう!」
それと同時に僕の背後のドアが開き、つばめが飛び出す。
「待ちなさい」
恐るべき俊敏さで動いた筋肉の塊を、周囲の乗客が止めてくれる。先生に振り払われた大人の男性が、驚くほど簡単に宙に舞い、壁にたたきつけられるのが見えた。でも驚いている暇はない。つばめの手を取って、僕はホームに飛び出す。
「助けてください! 男に襲われた!」
そう何度も叫びながら、僕たちはエスカレーターを駆け上り、人ごみを掻き分けて、背後に怒号を浴びながら、改札を思いきり駆け抜けた。
「ふん、他愛もないな」
地べたに這いつくばったアンドロモンの耳に、最後のシールズドラモンのヘルメットが床に落ちる音が、からんと響いた。
「……ン、泣けるな、手を抜かれてなお、この体たらくか」
「泣けもしないのにそんなことを言うのは、モラルに反さないのか。レプリカント」
ヴァンデモンはかつかつと歩みを進め、アンドロモンの傍に立つ。鋼鉄の表皮はあちこち剥がれ、電子部品は火花を吐く、無残な有様だった。その口から弱弱しく、電子音声交じりの声が漏れる
「どうせ死ぬ、教えてくれはしないか。つばめはいったい何なんだ」
「冗談はよせ。死に際に助けようと思った相手が何者かなんて考えるほど君の正義は弱くはないだろう。この期に及んで一分一秒でも稼ぐ気だな」
アンドロモンは、笑い声を漏らした。顔が動かないため、それが笑いであるとはすぐには分からないような、そんな笑いだった。
「お前には敵わないな。しかし私は時間を無駄にはしない。時間稼ぎついでに得た情報を”王子様”に送る気でもあったよ」
「アンドロイドが形見など、似合わない」
ヴァンデモンは、ゆっくりと屈み、手刀を構え、──それを床に突き刺した。
悲鳴のような声が漏れ、電車がきしみながら停止する。この電車に擬態していたトレイルモンが死んだのだ。と、アンドロモンはこの上なくはっきりと理解した。
「これで私はこの場にいるマシーンどもを皆殺しにした。目撃者はいない、君が姿を消しても、“カンパニー”には私との戦いで死んだとしか映らないだろうな、もしかしたら、死に際に“コレクティブ”の手の届かないところにサイハラツバメを逃がしたか、あるいは始末したと取ってくれるかもしれない」
「……お前、何のつもりだ」
「言ったろう、元より気の進まない任務だ。それに金属交じりは、私の不死者兵団にはふさわしくない。そこで眠っている人間どもと、偽とはいえ電車が一本立ち往生したことの始末は任せるぞ」
そう言ってヴァンデモンは闇の中に歩いていく。ぎしり、と嫌な金属音をたてて、アンドロモンは立ち上がった。
「おい、待て」
「待つとしたら、気が変わって君を殺すときだけだ」
「どうしてだ」
「説明させるな。私は気まぐれで、おまけに浪漫が好きなんだ。勇敢な騎士が王妃を助けるような、そんな奴がな」
そんな言葉を吐きながら、彼は溶けるように姿を消す。
アンドロモンは注意深く周囲を見ていたが、やがて車内の緊迫感が完全に引いて行ったことを確認して、そばに綺麗に畳んでおいていたコートのポケットからスマートフォンを取りだした。それを手慣れた様子で操作し、耳に当てる
「ああ、ハルキ、こちらは終わった。信じられないが、無事だ。それで今は……おい、ハルキ、どうした。何をしてる、どこにいる!」
「どこにいるかは、僕が聞きたいですよ。ここはどこなんだ? ……ああ、そうです。スマートフォンのGPSから調べて、こっちに来てくれればそれでいい。それまでは隠れてます」
電話を切って、僕は息をつく。先生から逃れて辿り着いたそこはどこかの町の路地裏だった。表通りはまだ賑やかな時間だったが、ここは静かなものだ。そばではつばめがおろおろしながら、電話を切った僕の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫?」
「アンドロモン、生きてた」
「よかったあ……」
数時間前に会ったばかりの化け物の安全を知って、つばめは笑えてしまうほどに分かりやすく胸をなでおろした。実際、僕も泣けそうなくらいに安心していた。彼に友情を感じていたのは確かだったし、聖ターミネーターとでも呼ぶべき先生から逃れてきた後だと、人間離れした力のアンドロモンが合流してくれることはこの上なく心強かった。
「当面追ってはきそうにないけれど、今晩はこうやって隠れながら過ごすことになりそうだ。大丈夫」
「うん、ハルキとなら楽しいよ」
「楽しんでるの? これを?」
「うん、ちょっとだけね。ひどい話だけど。ほら」
つばめが腕を広げて僕のことを見上げるから、僕も力が抜けたように彼女のことを抱きしめてしまった。
「つばめ」
「ん、なーに?」
「ずっと一緒だから。なにがあっても、僕が君を守るから」
「うん、どこまでも?」
「どこまでも、は無理だから、一緒にいたいんだ」
それは奇妙な、諦観でラッピングされた約束で、およそ恋人にはふさわしくないものだったけれど、知ったことか、今は世界の終わりで、僕は一人の、僕よりも少しだけ熱い体温を抱きしめているのだ。それがこんなに幸せなこととは、僕は知らなかった。
その時だった。ふっとつばめの手から力が抜けた。気になって体を離して見てみれば、彼女はぼおっとした瞳で僕の背中の向こう、路地の奥を見つめていた。
「どうしたんだ、つばめ?」
「あれ、あの子……」
「つばめ?」
「なんで、ここに? ごめん、ハルキ」
「誰が、って、おい、つばめ!」
僕の体を解いて、つばめは路地の奥へと走り出した。
「つばめ! おい、つばめ!」
一緒に逃げている最中は気づけなかったが、追う側に回ってみると、つばめの足はかなり速かった。おまけに始めての入り組んだ夜の道をどんどん走っていくものだから、僕が一つ角を曲がると、その道の先の角を曲がるつばめの背中が見えるという具合で、彼女を見失わないようにするのが精いっぱいだった。
それでも、だんだんとつばめのペースは落ちていって、僕の目はまたどこかの路地で彼女を捉えた。彼女は立ち止まっていて、その眼をぼんやりと、路地の先に向けていた。
「もう、なんなんだよ! つばめ!」
その言葉に彼女ははっとしたように振り返る。顔には罪悪感が浮かんでいて、自分がまずいことをしたという自覚はあるようだった。
「う、ご、ごめん」
「もう、なんだよ、急に走りだしたりして」
「だって、あの子が」
「あの子って」
「わたしの部屋に来てた、女の子」
そう言ってつばめはにっこりと笑った。
「つばめ?」
「でも、よかった。しろうさぎさん、渡せたもの」
よかったよかったと頷くつばめは、相も変わらず僕の知っている可憐な少女で、それが妙に恐ろしく思えてしまった。
「つばめ、そんなわけないだろ。ここはもう──」
ぱん、と、乾いた音が路地に響いた。
「なに、今の音?」
怪訝そうにつばめが眉を顰める。ひそめて、それから。
「え」
そんな声を出して、そのまま、前のめりに倒れた。
「つばめ!」
僕は半ば叫びながら飛び出し、彼女の身体を受け止める。彼女の胸に触れた手が、ぬるりとした生暖かい感触を覚えて、全身が粟だった。
「つばめ、おい、しっかりしろ!」
「あれ、変だな、わたし」
僕に抱きしめられた姿勢のまま、つばめはぽつりとつぶやく。その体は相も変わらず、僕より幾分熱かった。
「つばめ、大丈夫だ。大丈夫だから、しっかりしてくれ」
「ごめんね、ハルキ、ちょっと、くたってしちゃった」
「おい、つばめ!」
「ね、ね、もっと、ぎゅってして」
その言葉に頷きつつ、僕は手で必死に彼女の胸を抑える。
「やだな。わたし、もう足りなくなってる。まだちょっとしかぎゅってできてないのに」
「いくらでもできるから、できるからさ」
「キスもしたいな、それに色々。一緒に住んで、家も建てて、おっきな庭も──」
そこでひゅう、と、彼女が一息に息を吸い込んだ。
「庭、なんで、みんな、いるの」
その瞬間、僕に寄り掛かったその重みが消えた。彼女は今でもそこにいるのに。
「おい」
傷口を抑える手に思わず力を込める。
その手は、彼女を突き破って、向こう側に飛び出した。
「え」
手を見れば、彼女の肌を抑えたはずのその手に会ったのは、無数の白い、天使の羽だった。ほかにも、今の勢いで飛び散った羽が、美しく冬の路地に舞い散る。
「なに、これ」
「ハルキ」
つばめの声は、なおも軽やかに僕の耳元で響く。
「ぎゅってして、もう一回、あれ、言って」
「ダメだ」
「ダメじゃないの、聞きたいの」
「……」
「ごめんね。でも、わたしを、ここで、さよならに、しな──」
「どこまでも行こう、つばめ」
そうやって、僕は彼女を強く強く、抱きしめた。
「ね、つれだしてくれて、ありがと、ね」
満足気な声と共に、彼女の身体が無数の羽になって崩れていく。
「だいす──」
力を込めた手は空を切って、ただ、白い羽だけを、掴んだ。