「ねえ、今なんて言った?」
”コレクティブ”本部ビルの最上階。エレベーターから降りたヴァンデモンの耳に最初に飛び込んできたのは、怒気を含んだ甲高い声だった。目の前のドア一枚を隔てて聞こえてくるその声に、全身が泡立つのを感じる。
「あら、タイミングが悪かったわね。ボス」
艶っぽい女性の声を投げかけられ、彼は肩をすくめながら振り返る。
”コレクティブ”本部ビルの最上階、エレベーターから出てきたヴァンデモンに、艶っぽい女性の声が投げられた。彼は肩をすくめながらくびを振る。
「君のボスは私じゃないだろうに。親友」
「私はあなたの親友じゃないわ」
そう答えると、声の主はぎらりぎらりと光るかぎ爪を口元に当てて笑って見せた。その手元は派手な紅色の装束に包まれ見えないが、他のあらわになった身体も針金のように細く、骨だけの方が幾分ましに思える。戦い方に見どころを感じたのはもちろんだが、彼女を不死者にしたのには、エサとしての食いでが有りそうには思えなかったからという理由もあったな、と彼は思い出した。
「だったら、ボスなんて風情のない呼び方もやめてもらおうか、マタドゥルモン。彼はご立腹かい?」
「ええ、そうなの。彼の気に障ることを言ったバカな悪魔がいたのね。仕事の邪魔よ。彼の承認が必要な仕事がいくつもあるのに」
それを聞いて、ヴァンデモンはさもおかしそうにけらけらと笑った。
「承認だって? あの男に、物事の善し悪しなんて判別できないだろう」
「ほら、ちゃんともう一回言えよ。ぼくの身体が、半分なにで出来てるって!?」
ヴァンデモンの言葉と同時に、そんな声が扉の向こうから響き、廊下をかすかに揺らした。ほらね、と小声で言う彼に、マタドゥルモンも呆れたように首を振る。
「あんたの言う通りよ。元天使の軍団長で、居もしない神に弓を引いた豪傑のくせに、馬鹿で屑で、腐った犬の血にも劣る奴。おまけに臆病者と来ている」
「でも、君はそんな男に仕えている。そうだろう、レディ?」
そう言うヴァンデモンをにらみつけ、マタドゥルモンは両手のかぎ爪を打ち鳴らす。
「笑えない冗談はよしなさいな。私は誰に仕えてもいない」
「君をよみがえらせ、配下にする契約を結んだのは私だ」
「ええ。でもあなたは、私の生き方までは縛らなかった。私も言ったでしょう。一度は負けたあなたの寝首を掻くためなら、終わらない二度目の生を受け入れる、って」
マタドゥルモンはそう言いながら横を向き、大げさにため息をつく。
「確かにあの頃のあなたは強かったわ。おまけに理知的で、情熱に満ちていた。今目の前にいる、真っ白な燃えさしみたいな隠居老人とは違った」
「まったく、傷つくね」
「あなたは古い戦争には勝ったかも知れないけれど、でも全てを奪われて、ぬけがらになった。だから私は張り付く相手を変えたのよ」
「私を同盟に引き込んで、全てが終わったらはしごを外した相手──ルーチェモンにかい」
マタドゥルモンはうっとりとした声音でそれを肯定する。
「あなたはそれに何かやり返した? 彼は卑怯な臆病者だけど、とにかく強い、反則級に強い」
「そしてそれが、君の好みでもある、というわけだ」
「殺しがいがある、ってこと」
「それならきっと、君のお眼鏡にかなわなかったことを幸運に思うべきなんだろうね」
「あー、そういうとこよ。そういうところ。聞いてるこっちまで惨めになるわ」
うんざりしたようにもう一度首を振って、マタドゥルモンは彼の前を通り過ぎていった。
ヴァンデモンはため息をつく。彼女のような理由で自分の元を去った不死者は決して少なくない。結局、どれだけご託を並べ立てても、彼らは悪魔で、亡霊で、けだものだ。そんな彼らを引き付けておくのに必要なのは、正しさではない、力だ。
それでも昔は、あの始まりの堕天使相手にはかなわないと分かっていても、自分の力を信じてついてきてくれる配下たちがいた。そんな者たちも去ったということは、彼らを引き付けておくだけのカリスマが、もう自分にはないということなのだろう
「それでも、あの屑に魅力で負けたと思うと、やりきれないものだな」
ヴァンデモンは誰に言うでもなく肩をすくめ、歩みをさらに進めた。
”ヴァリス製薬”社屋の裏口にたどり着くのは思っていたほどに難しくはなかった。「先生」を差し向けてきた連中はよほどあの化け物に信頼をおいていたのか、二の矢を放ってくる気配は無い。それでも警察が僕の居所を突き止めるのは時間の問題だったし、こちらとしてもこれ以上この場所に用は無かった。
タチバナは協力的だった。本気で人が殺し合うのを目と鼻の先で見て腹をくくったのかもしれない。唇は震えていたが、動揺を態度に出すようなことも無かった。警備員が前方からやってくると、僕に物陰に隠れるよういい、堂々と彼らのことをあしらって見せた。
「もう大丈夫です。このまま行けば裏口で、職員向けの駐車場があります。……大丈夫ですか?」
タチバナが僕に声を掛ける。彼からどう見えているのかは分からなかったが、僕の方から見る景色はひどくかすんでいた。少し血を流しすぎたのかもしれない。べたつく前髪がひどく不愉快で手を伸ばすと、ぱっくりと割れた額の傷口に触れてしまい、激痛が走った。
「手当てをした方が。多少ならできますよ」
「そんな時間はない。とりあえずはここを動かないと」
「それなら、これから行く先は?」
それが目下の大問題だった。つまり、どこに行くべきか、僕にはさっぱり分からなくなってしまったのだ。事件は明らかに重要な局面を迎えていた。死者の配ったカードで、探偵は見事に役を作って見せた。その手札を見せびらかしても、どの勝負にも勝てないことが問題なのだった。
「行けるところに行くよ。どうしたって、そういうことになるはずだ」
だから僕はそう答えた。どうせ行きたいところをあれこれ並べたところで、捜査網に阻まれ行けない可能性の方が高いのだ。行ける場所は世界の方で決めてくれるだろう。どんなリスクをとり、良心のどの部分を殺すかは、そこがどこか分かってから考えればいい。
「運転は?」
僕はタチバナの方を振り返った。
「できますが、通勤にはトレイル・ラインを使ってます。社用の車のキーはありますが」
「立派な追跡装置つき、ってわけだ」
僕は装置を外す方法を考え、それから適当な車を盗む手間に思いを巡らせた。どっちもやらない方が幾らかましだった。
──運転、ぶぎさん任せにしてるからだよ。
正論しか言わないんだったら頭からたたき出すよ、と僕は口の中でつぶやいた。
──できないくせに。
まさしく彼女の言うとおりだった。
「車は避けた方がいい。とにかくここを出よう」
それだけ告げて歩き出す僕の後を追いながら、タチバナはつぶやく。
「どこに行くか分からないのはいいですけれど、何をするべきなのかくらいは教えてもらわないと」
「君の話を裏付ける証拠を見つけ出す。”天使殺し”と“塔”の関係。それを隠すために人を何人殺しても構わないって連中がいるんだ」
「”選友会”」タチバナは言った。「あの大男をテレビで見たことがあります」
「そうだ。奴らは直ぐに、僕らの口をふさげなかったことに気付く、いつまでもは逃げられない。動かぬ証拠をつかんで、奴らの首根っこをつかまなきゃ」
そこまで言って閃いた。ナノモンが僕を雇おうとした理由だ。
ずっと引っかかっていたのだ。仮に彼女の言うとおり、僕がサイハラヒナノにつながる唯一の手がかりだったとして、わざわざ僕に事情を話して取り込むことなんてせずに、自慢の捜査網で監視を続けていればいい。事実、彼女はある時点まで僕に対してそうしていた。
それが僕を取り込もうとして、逃げられたらこんな大騒ぎまで起こしているのは、僕がキタミアカネと接触し、”天使殺し”の真相に近づいたからだ。この場合、サイハラヒナノの話はエサの一つでしかない。彼女は僕にうさぎを追い掛けることだけを考えていてほしかったのだ。”天使殺し”から目を離させたかったのだ。
ともあれ、”カンパニー”にとってサイハラヒナノが重要なのは間違いない。ヒナノと接触したのが僕だけだという
のも本当だろう。だからナノモンはすぐに僕を殺そうとはしなかった。試したのだ。僕にとっては幸運な話だ。
けれど、それでも腑に落ちないことはある。「先生」はタチバナの口を塞ぎに来ていた。”選友会”は警察とも”カンパニー”とも関係がない。教団の後ろ盾が”コレクティブ”であることも考えれば、緊張関係にあると言えるほどだ。両者が同じ目的を持って動くことは考えづらい。
──9年前、機械も悪魔も、わたしを狙っていたよ。
それにしてもだ。
──それによく考えて、先生が狙ってたのはハルキじゃない。
そうだ。彼は明確にタチバナを殺しに来ていた。それは順番の前後の違いでしかないだろうか。それとも、「先生」の目的ははじめからタチバナ1人で、僕がいたのは想定外だった?
「分からないな」
「どれのことですか」
「あなたですよ。タチバナさん。命を狙われる理由に心当たりは?」
駐車場を抜け、通りを経過しながら問いかける。彼はびくびくと僕の後を追いながら息をついた。
「さっき言ったことが全てですよ。私はアカネと知り合いだったし、彼女はリスクのある職場にいた。あとは、警察に頼まれてデータ解析に協力もしてはいましたが、名前は公表されていません」
「北見さんとは親密だった?」
「……そう言って差し支えないと思います。周囲が想像していたようなものではありませんが」
彼は少し恥ずかしそうに鼻の付け根をこすった。
「あなたと彼女の専門は何?」
「急ごしらえで付けられた横文字の名前はありますけど」
「”ヴァリス”で何をしていたかだけでけっこうです」
「人体に作用するプログラムの研究ですよ。”ランダマイザ”手術を受けた人間向けの薬品の開発が、うちの主な業務ですから」
「ニュースを見たことがある、花粉症の治療から、向精神薬まで。通常の薬より確実な効果が望めて、それが目的で”ランダマイザ”になる人もいると聞いた」
タチバナは頷く。
「肉体に作用する薬は俺が主に請け負っていました。アカネは精神面の担当を」
「会社は急成長中だった。彼女はなぜヴァリスを去ったんですか」
僕の問いに、彼はその顔を露骨に曇らせた。
「”カンパニー”からヘッドハンティングがあったんです。”塔”の解析のために必要な人材だと言ってね」
「向こうから?」
「ええ。”カンパニー”はいまや薬品の認可にも口出しできる立場だ。アカネは得がたい人材でしたが、ここで軋轢を生んだら会社自体の存続に関わる。研究を続けたがる彼女に、上の連中は必死に頭を下げてましたよ」
それほどの圧力がかかっていたなら、ナノモンがあのでかい脳みそで彼女を指名したということだ。”塔”の解析に、精神に作用するプログラムを作っていた研究者がどう関係したというのだろう。
「最終的にアカネは折れました。”塔”の研究は、世界中の研究者がやろうと思ってできないことだ、貴重な機会には違いないと」
「けれど、君たちの友情は続いた?」
「僕にとっても彼女にとっても、研究について同じレベルで話せる人は少ない。新しい職場では職員同士の交流も制限されていたようですから、愚痴を聞かされる機会はかえって増えました」
きっとそのころに、彼はキタミアカネへの気持ちを自覚したのだ。これまで仕事上の付き合いだった相手の他の面を知り、好きになってしまう。惨めなほどによくある話で、こんなことになりさえしなければ、聞くに堪えないメロドラマで済んだはずだった。
「君は、天使の羽のことを、キタミさんに話した」
「……」
彼は少し押し黙り、やがて頷いた。
「ええ。話しましたよ。規則では禁じられていましたが」
「社内の規則の話だけじゃないですよ。捜査情報の漏洩だ。君だけではなく彼女にも火の粉が及ぶ」
「俺は責められているんですか」
「違う。それだけのリスクを冒して、君が彼女に情報を漏らした理由を知りたい」
「……」
「頼む。重要なんだ」
タチバナはうつむいたまま歩調を緩めた。
「警察から提供された天使の羽の構成データを見たとき、見覚えがあるな、と思ったんです」
「見覚え?」
「アカネの作成していたプログラムによく似ていた。もっと荒削りではあったけれど」
「それは、つまり……」
「ええ」
タチバナは前を見たまま、まるで独り言のように答えてくる。
「あの天使の羽は──人間の精神に働き掛けるタイプのプログラムのように、俺には思えました」
それには黙り込んだまま、僕は表通りを外れ、かすむ目でつぶれた居酒屋が並ぶ裏通りを見渡す。監視カメラはそう多くなく、しばらくの間であれば休めそうだった。視界はほとんど灰色で、壁に背中を預けたが、自分の血でぬるりとすべってしまい、僕はそのまま座り込んだ。
「染野さん」
「申し訳ない。少し」
「大丈夫。いいですか?」
そう言いながら彼は僕の側にしゃがみ込み、持ち出してきたであろう手当の道具を並べつつ、ペットボトルのミネラルウォーターを飲ませてくる。唇を湿らせるだけで少しましな気分になる自分が、まるで死人みたいに思えた。
「ひどいですね」
「知ってる」
「静かに、傷口は見ない方が良いです」
そう言いながら彼は僕の腹に手を当てる。鋭い痛みが走り、僕は歯を食い縛ってうめき声を抑えた。気を紛らわせがてら状況をつかもうと端末を取り出したが、いつ壊れたのだろうか、画面にはいくつものヒビが入り、ぴくりともしなくなっていた。
「使いますか」
タチバナが差し出してくる端末を礼を言って受け取り、ブラウザを開けば、くだらないネットニュースがずらりと並ぶ上に、赤文字の「速報」の文字が──。
二つ、踊っていた。
「なんだ……?」
「どうしたんですか」
「ニュース速報だ。一つは『殺人事件の容疑者が逃亡し緊急手配』、”ヴァリス製薬”のタチバナ研究員を人質に取ってることになってる」
「……もう一つは」」
「『都内ビルで立てこもり』……待って。中継映像を配信しているみたいだ」
画面を開くと、報道ヘリがビルの屋上を映している映像が飛び込んできた。目の焦点が合わず、脳がうまく情報を処理できない。
それでもかろうじて、ビルの屋上、フェンスの外に、一人の男が立っているのが分かった。見覚えのない若い男、けれど、その麻のシャツは、どこか出会った頃のつばめを思い起こさせた。
「あれは……」
次の瞬間、映像が止まる。端末に着信が入ったのだ、と気付いた。
「非通知の番号だ。”カンパニー”からの接触の可能性もある。切るよ」
そう言ってタチバナを見上げようとして、今度は左胸の辺りに、これまでのどれよりも鋭い痛みが走った。治療のためとはいえ、僕は眉をしかめてタチバナに訴える。
「……ッ! ちょっと、もうすこし」
ごぽり。
瞬間、のどの奥がひとかたまりの血を吐き出した。年度を持った生暖かい液体が、不快感を持って僕の膝を塗らす。
「え」
言葉を詰まらせて、僕はいましがた痛みの走った左胸に目を落とす。
そこには、無骨な木製の柄のナイフが、深々と突き刺さっていた。
「タチバ……」
さらに目の前の相手の名前を呼ぶが、代わりに出るのは、止めどない血と、ごぼごぼと言う空気の音のみ。
急速に身体の芯が冷えていく。感覚のなくなった手が、今も着信を告げて震える端末を取り落とす。
その端末を片手で受け止めて、タチバナは先ほどと同じ、疲れ切った弱々しい目のまま、僕の目を見た。
目の前の相手の顔が3つにも5つにも見える。こちらから目をそらさないまま、タチバナは右手で端末を操作し、耳に当てた。
「もしもし……はい」
「お……い」
「ええ。終わりました。ちょうど、いま」
それだけ聞いたところで、僕の身体は自分を支える力を失い、横に倒れ込んだ。
*****
「やあやあヴァンデモン! 良かった! 来てくれたんだね!」
「少しは静かに出来ないのか、塔京中に聞こえそうな声だ」
甲高い早口の声に、ヴァンデモンはうんざりしたように答える。 目の前に立つ筋肉質な身体の悪魔──”コレクティブ”の盟主・ルーチェモンはヴァンデモンに抱きつかんばかりににじり寄ってくるが、その寸前で思いとどまったように立ち止まる。
「いやあ、久しぶりに出会った盟友を抱きしめることも出来ないなんて!」
そう言いながら、彼は均衡の取れた美しい顔に物憂げな色を浮かべ、自分の右半身をなでる。そこにきらめく白銀の翼を忌々しげに見つめ、ヴァンデモンはため息をついた。それを聞き逃さなかったのかルーチェモンが鋭い目で彼のことを射貫く。
「今のため息は、君だから許すんだよ。ヴァンデモン」
「さっきの悲鳴は、君の半身を愚劣する悪魔でもいたのかい」
「そのとおりさ! だから灰にしてやった!」
自慢げに筋肉を見せ付けるポーズを取るルーチェモンに、吸血鬼はまた侮蔑のまなざしを投げかけた。
神代に起きた戦争の発端。存在しない”神”に弓を引いたデジタル・ワールド最古で最大の愚か者。その傲慢で鼻持ちならない性格には誰もが辟易しているのにも関わらず、かつて彼がそうしたように反乱を起こす者はいない。
単純に、彼が強すぎるのだ。”完全体”でありながら、その力は既に伝説となった”究極体”の中でも飛び抜けていたという。おまけに臆病で卑怯者と来れば、どれだけ嫌われていたとしても、反乱分子がつけいる隙などない。
何より恐ろしいのは、彼の半身に残る天使の身体だ。天使が滅びた今、天使の軍団長を超える聖性を備えたものなど世界のどこにもない。悪なる者たちのリーダーでありながら、彼らの最大の弱点をその身体に備えている。ヴァンデモンの配下の不死者たちも、あの手で触れられたら為す術なく物言わぬ死体に戻されてしまうことだろう。
一番始末に負えないのは、その天使の力に、かつて根絶やしにした同胞の影に、ルーチェモン自身が誰よりおびえていることだ。彼の前で少しでも彼に流れる天使の血のことをほのめかして、生きていた者はいない。
「いやあ、思い出すね! 僕たちが肩を並べて戦った神代の戦役を! あれ以来、誰も僕たちをあれほどには追い込めなかった。まさしく世の春だ」
「“バスターズ”は人造神を戴いてまだ存続している。“カンパニー”だって、我々を追い抜く勢いだろう」
そこには触れられたくなかったのだろう。彼は露骨に不機嫌そうにもごもごと口ごもった。
「いやなに……そいつらは問題じゃないんだ。問題なのは、あの戦いを生き残って今生きているのは、君と私だけだという事実だ。君が不死であることに感謝しているよ! かつては、天使と悪魔たる僕が当たり前に備える不死性を自らの強さのように語る君のことが可笑しくてしようがなかったけれど」
これで褒めたつもりなのだから笑わせる。ルーチェモンの性質の悪いのは、無邪気にこちらの神経を逆撫でしている”わけではない”ところだ。彼は明確に悪意を持って目の前の相手を愚弄している。そうしたくてしかたないし、そうしても皆が自分を好きでいてくれると頭から信じ込んでいるのだ。
「……あ、でも君はもう覚えてないんだっけ。悲しいなあ」
──だからこうして、なんのためらいもなくこちらのトラウマに踏みこんでくる。
「本題に移ってもいいか」
「いいや、その前に僕に悲しませておくれよ! 君はあの戦争の最大の功労者だったんだよ? 天使どもの聖なる力は悪魔にとっては猛毒だった。君たち不死者は、まさしく僕らの切り札だった。」
「……」
「中でも君は素晴らしかった! なんと言ったって、天使のほとんどを殺したのは君だ! 素晴らしい大立ち回りだったよ。あんな見るに堪えない”獣”の姿まで晒してさ!」
ヴァンデモンが拳を握りしめる。皮の手袋が音を立てるのが聞こえたのか聞こえなかったのか、ルーチェモンは上機嫌で話し続ける。
「君は天使どもを喰らったんだ! 為す術もない奴らをその手で捕まえて、ばきばきとかみ砕いた! 思い出すだけでほれぼれするよ。──でも、笑っちゃうよねえ」
そして話はお気に入りのクライマックスに差し掛かり、ルーチェモンはにんまりと笑みを浮かべる。
「そうやって自分で飲み込んだ天使の毒のせいで、君は力と記憶を失った。もう究極に至ることは出来ないし、戦争後の権力闘争にもろくに参加できずに、僕に全部持って行かれたもんね」
「本人が言うことかい」
「あっはっは! いや、ほんとに思い出してほしいな。あのときの君といったら!」
「……本題を」
「ええ? これが本題だよ」
「いい加減にしろ。私をいらだたせるためにわざわざ呼んだわけでもあるまい」
「──いいや、今日に限っては、そうだよ」
その言葉と同時に、ル―チェモンの顔から表情がすっと引いた。周囲の温度が一気に下がったような感覚に、ヴァンデモンは思わず肩をこわばらせる。
「今日は君に敗北を突き付けるために呼んだんだってば。またこそこそ何かしてるみたいだけど、無駄だよ」
「私が何を?」
「9年前の失態に、さらに恥を上塗ろうっていうんだろう。──ソメノ・ハルキは、じき死ぬよ」
「……」
ヴァンデモンは表情を変えなかった。けれどその内心の驚きを読み取ったのか、ルーチェモンは白磁の彫刻の様な顔を彼に近づける。
「どこでしくじったか考えているね? 君はうまくやったよ。ただ運が悪かっただけだ。僕は君が思うほど愚かじゃない。”カンパニー”にも目を光らせていたよ。連中のつくった”塔”の研究所の本当の目的が、”塔”から採取した成分を使って何か──薬を作ることだってのも突き止めた。君、しらなかっただろう?」
ルーチェモンは表情を変えないまま語り続ける。
「奴らは”ヴァリス製薬”の研究者をひとり抱き込んで、薬の生成をしてた。“ランダマイザ”化した人間の精神に作用して、ある種類の感情を殺す薬」
その言葉に、ヴァンデモンも目を見開いた。
「それは、まさか。冗談はよせ」
「笑えない。全然笑えないよ。──”悪意を殺す薬”。奴らが作ってたのはそれだ。ほとんどの人間はその作用に耐えられずに死んでしまう。でも、もし適応する者が現れたら?」
「悪意を持たない、人の姿をした電脳体が生まれる。それは、まるで──」
「ルーチェモン様!」
瞬間、ヴァンデモンの背後で扉が開いた。ルーチェモン配下の堕天使デジモン・フェレスモンが血相を変えて駆け込んでくる。
「新宿、新宿に”天使”が!」
*****
「……”ヴァリス”での研究には制約も多かった。電脳化した人間への精神干渉。理屈で言えば何でも出来るのに、倫理上の理由で許可が下りない。申請しては却下されての繰り返しでした」
タチバナは倒れこもうとした僕の肩をつかんで、そのまま話し続けていた。口からごぼごぼとあふれる血が手に掛かるのもお構いなしのようだった。
「そんな中、アカネがカンパニーに引き抜かれた。向こうは自由がないと言っていましたけれど。俺にはうらやましかった。”カンパニー”から非公式な仕事の依頼が来たときにはそりゃあ嬉しかったですよ。”悪意を殺す薬”、それは、俺がずっとやりたいことだったから。アカネに追いつけたような気もしましたしね」
キタミ・アカネはきっと、”塔”の研究所から何かが持ち出されていることに気付いたのだろう。それが”天使殺し”の起こった日と符合していたのか、とにかく彼女は二つの事件の関連を疑い、調べ始めた。あの近辺で薬の話題を出せば、行き着くのは薬物を扱うソウルモンの一味だ。きっとシマを荒らされたとでも思われたのだろう。彼女は殺され、ソウルモンは薬と“天使殺し”の関連を僕に尋ねてきた。
「そっか」僕の焦点の合わない目から何を読み取ったのか、彼は呟く。
「俺のせいで、アカネは殺されたんですね」
僕の頭ががくりと力を失いかける。彼は片手を伸ばし、僕の顔を押さえた。その目は弱々しく迷っていて、自分で刺した男に罪の告白をしているとは思えなかった。
「俺にあんたを殺すように言ってきたのは、“コレクティブ”のリーダーを名乗るデジモンです。関係者をみんな殺して、あの薬や天使を全部なかったことにしたいんだそうです。めちゃくちゃな頼みで、向こうは一度断らせた後に脅す気だったみたいですが、俺は引き受けました。どうせ、裏切りは“カンパニー”にも気づかれかけていましたし、もう、何がどうなっても良かったので」
その通りなら、きっと彼もこの後殺されるのだろう。それを全て承知で、彼は何でも良いと思ったのだ。彼の世界は、きっともう終わったのだろう。
「ねえ染野さん。中継見ましょう。この男、この後“悪意を殺す薬”を打つんです。聞いた話だと、これまでで一番の有力株らしいですよ。ずっと田舎の施設育ちで、あまり強い悪意を抱いてこなかった。薬に耐えて悪意を完全に殺せる確率が極めて高いんです。彼は、きっと天使になる」
彼は淡々と呟きながら、懐から小さなピルケースを取り出し、何かを口に含んだ。
「俺は、そんなのごめんです」
瞬間、彼は目を大きく見開き、倒れた。僕の薄ぼんやりとした視界の中で、彼の手足は数回びくびくとけいれんし、動かなくなった。
賢い男だ。と僕は思った。余計な血はすべて抜けきっていた。僕の思考は身体と別離して、凪いだように巡り始めていた。
”悪意を殺す薬”をつくり、それに耐えられる人間を探しているという連中。”カンパニー”ではない。もしそうなら社内で全てを完結させれば良い。”コレクティブ”でもない。連中は全てが始まった後で首を突っ込んできただけだ。
機械でもなく、悪魔でもない。
とすれば、だれだ。
もう自由に動かなくなった瞳で端末に映された映像を見る。ビルの上に立った男は飛び立つように手を広げ、そして右手に何かを持っていた。
あれは、なんだ?
*****
「からす、ハルキさんは?」
『ごめん兄さん、見失った』
「そうだよなあ、やっぱり」
『まずい?』
「ああ、うまくやっているといいんだが」
『おにいちゃん! 大変!』
「どうした、あひる」
『テレビ見て、ひばり……ひばり兄さんが……!』
「ひばり? あいつがどうした?」
『ビルの上に……あれ、なにするの?』
「……なんだって!」
『ねえ、あれなに』
「……」
『ひばり兄さん、何しようとしてるの?』
*****
「おい、どういうことだ!」
”カンパニー”の社長室。”選ばれし子どもたちの会”に窓を破られたその部屋で、しかしナノモンはそれどころではないとでも言うように、目の前の人物に向かって腕を振り回していた。
「サイハラヒナノもソメノハルキもどうでもいいさ! 死んでたって生きてたってな! この男が例の薬に適合したってしなくたって、究極的にはウチにはなんの関係もない。だが……だが……」
彼女が振り回すアームが当たり、テーブルの上のグラスが音を立てて砕けた。
「それがテレビで中継されてるってのはどういうわけだ! 内密にしろって言ったはずだよな。報道管制も敷いた。だれがアタシの命令を無視している?」
目の前に立つその人物は何も言わない。
「……まあ、それはあとでいい。とにかく、今すぐやめさせろ! このままだと、サイハラヒナノが中継のカメラに映るぞ。それはあんたにもアタシにもまずいだろう」
ナノモンの声は、ひゅうひゅうと風の吹き込む社長室にむなしく響く。
「アタシたちがサイハラヒナノを探してたのもそのためだったろう! 人間にしか見つけられないうさぎ! それはシンボルだ! アタシたちがていねいにへしおった人間たちの尊厳そのものだ! 愚かな二本足ども、すぐに言い出すぞ! 『デジタル・モンスターにはあのうさぎは見つけられない。自分たちとは違う』ってさ!」
目の前の人物が何かを言った。
「……そうさ! アタシはそれが何より怖いんだ! 臆病じゃないぜ、賢明さ故にだ! 人間どもにはこのまま一生、アタシたちの家畜として」
「うるさいな」
「ちょっと、なんだいこいつら、離せよ。おい! こんなことをして良いと思っているのかい? ”カンパニー”との契約を、あんたは反故にしてるんだぜ! いまに後悔──」
銃声が二発響いた。
*****
うさぎは近くのビルから、その様子を見ていた。
男が手を広げる。今にも飛び降りそうなその仕草に、周囲の人々がざわめく。
「飛び降りないよ」
彼女は呟いた。それを証明するように、男は片手に持った棒状の何か──携帯用注射器を自身の首元に運ぶ、
あっ、と誰かが声を上げたのを合図にしたように、彼はそれを思い切り、自分の首筋に突き立てた。
「……」
沈黙。周囲のざわめきなど聞こえなくなったかのように、うさぎは男を注意深く見つめる。
刹那、男の身体が発火した。それは白い炎で、瞬く間に彼の全身を包んでいく。
「……」
なおもうさぎが見つめていれば、炎から飛び出すように、一対の羽が飛び出した。続けざまに羽を生やしながら、
もう表情もうかがえなくなった男は、火だるまのまま、右手を掲げた。円を描くようにその手を回せば、虚空に金の円盤が描かれていく。
「〈ヘブンズ・ゲート〉」うさぎは呟く。「大天使かあ」
「ヒナノ」
不意に、”少女”の背後で声がした。彼女は振り返りもせずに、うんざりした声を投げかける。
「なあにトラさん、今いいとこなんだけど」
「本当に行くのかい?」
「あれくらい、楽勝で殺せるよ」
「心配なんかしないサ、でも、報道ヘリが飛んでル、大勢がアレを見てル」
「……」
トラファマドールは、彼女を試すように、その問いを投げかける。
「もしあそこに行ったら、君は本当に、ひとりぼっちになるヨ」
「わたしは、そうしたいの。……用はそれだけ?」
「いいや。ソメノハルキだけどさ」
「なあに?」
「死んだよ」
「……言わんこっちゃない」
少女は振り替えずにそう一言呟くと、生まれたての天使を真っ直ぐに見据え、宙に舞った。
*****
僕が最期に見たのは、白いうさぎだった。
炎に包まれ現れた、紫の鎧をまとった天使が、ゆっくりと、円形の門を形作っていく。それは破滅の先触れか、審判の始まりか。誰もが固唾をのんでそれを見守っていたんだと思う。
でも、その門は開かなかった。
”それ”が、背後から天使の胸を貫いたのだ。
*****
『お兄ちゃん! あれ』
「あひる、からす、君たちも見えるんだな」
『ええ、あれは』
うさぎだ。白いうさぎだ。
*****
「あああああああああああああっ! ケルビムだ。なんであいつがあそこにいる。何であいつが生きている! ケルビム、ケルビム、ケルビム。僕に復讐しに来たのか。ばかげてるお前だってこっちガワみたいなもののくせに、おい、ヴァンデモン、ヴァンデモン! なにしてる! すぐにアイツを殺せ! おい、おい、どこにいった! ふざけるなよ! 僕を置いていくなんて!!! ああケルビムケルビムケルビムケルビムケルビムケルビム」
なんでお前は人間の格好なんかしている?
*****
「うさぎさん、かい……?」
クララ・マツモトはぽかんとテレビを見つめる。クラモンはきゅうきゅうと鳴いて、それはちがう、と伝えた。クララは目を細めて、その頭を優しく撫でた。
*****
「は、アハハハハハ」
誰も居なくなった社長室で、沈黙の時を待つだけの残骸になったナノモンは、可笑しくて仕方ないと言ったように笑う。
「ああ! ナンダイアイツハ! ナンドミタッテ、どう見たって! ニンゲンジャナイカ!」
*****
『風吹! 聞こえているか』
「アンドロモン」
『無事か、良かった』
「それよりテレビのあれ、なんなんですか」
『ン……』
「私にはあれが、白銀のうさぎに見えます」
『……』
アンドロモン、あなたにはあれが、どうみえているんですか?
*****
その日、もう一度、世界は終わった。
誰もが、隣にいるそれが、自分とは別の生き物だと、気付いたのだ。
*****
聞こえるかい、染野少年。世界は蜂の巣をつついたような騒ぎだぞ。
聞こえるはずもないか。
おお、確かに冷たい。流石の君の運も、尽きたと言うことだ。
私が吸い出せるような血も、ほとんど残っていないな。
思えば、君はずっとそうだった。
9年前から何も変わらない。君が動くときは、いつも全てが手遅れになっている。
哀れな男だ。まあ、君が招いたことと言えばそうなんだがね。
……
なあ、染野少年。いいや、もう少年ではないのかな。
一つ提案だ
*****
「私の、親友になってくれるかい?」
こんにちは。
キリが良いので一旦ここらで足跡残します。
今回は群を抜いて不思議&思い切った世界観ですね。
交際〇〇日前という言葉が随所にあり、ラブ&世紀末ものなのかなと思っておりました。
デジモンが人間の世界にやってきて間もない頃で、フェレスモンこえぇええよ。
アンドロモン、どの作品でも結構な苦労人(モン)だな。
とデジモン小説ならではの感想はもちつつ、あー、報われねぇよ。
なんだってこんな悲しいお話書けちゃうのー!?
長い年月が経ち、おいおいこれどういうこと!?と思っていると、
『お冷の入ったグラスにはずした入れ歯を突っ込んで』
衝撃的過ぎて目が充血する勢いでした。
そして2次創作界隈では、まず見ない表現・・・あれ?実はよくある風景なんですか?あれ??
その後も、
『巨大な青いごみ箱が、僕に手招きをしていた』
ん、これはホラーな予感・・・予想どおり、なんだかすごい描写が!
ソウルモンの拷問シーン(?)もなかなか。
それ以降、結構キツめのシーンが続きましたが、特にハルキくん大丈夫か?
主人公補正はどうなっている!?
バイオ●ザードのタイ▲ントよろしく「先生」の2度目の襲来ももはやホラー&バイオレンス!
おっと、こちらのネタは既にかの方がおっしゃっていますね。
ここまで読むのに深呼吸する時間をどれほどとったことか。(←スポーツしている感じで)
いやでも中毒性のある不思議な魅力を感じるお話ですね。
読みながら自分の顔が、作中の百面相ヒロインのようになっていたんじゃないかと思います。
それとそれと、貴作のヴァンデモンは何か企んではいそうですが、そんなに悪いデジモンでもない?
なんて・・・甘いですかね?
結構好きな立ち位置のキャラです。
というわけで続きをお待ちしておりますー
仕事があまりに早すぎる。夏P(ナッピー)です。
平和とは平穏とは何だってぐらいに、そこまで多くない文字数の中で目まぐるしく状況が変化し、事態が動き過ぎている。艶っぽい女性の声に対する熱い拘りは何なんだぜ。というか、ナノモン女史といい思わぬ輩が女性人格(?)っぽいので不意を突かれますな。前回に続いてナイトメアソルジャーズの完全体祭り、こうして見るとナイトメアソルジャーズって完全体の時点でヤバそうな輩がいっぱいいるんだなと改めて把握する次第。
オンドゥルラギッタンディスカー!!
タチバナさん最初からそっち側かよ! タイラントに襲われたの込みでフリかよ!? まさかそう来るとは思わなかったので、ナイフという文字が出てきた途端におぞ気が走りました。こんなズタボロで車も封じられてどうやって逃げるんだと思ったら、むしろ社内から出ることもできずTHE ENDとは想定外。良くも悪くも潔い人だったのだろうかタチバナさん……途中から一人称“俺”になってきたのは、気付かない内に素が出始めていたということ? そしててっきり「最初の事件で死んだモブ依頼人」ぐらいにしか認識していなかったキタミアカネさんがどんどん重要人物になっていくッッッ。
そして待ちに待ったルーチェモン様登場。期待通りのクソ野郎ぶり、究極の力が失われてもそうか魔王とはいえ奴は完全体、しかもあしゅら男爵状態で半分は天使、重要キャラになるのは自明の理でしたか。嫌味を嫌味と理解せず煽り愚弄しからかう畜生さ、いや理解して敢えてやってるからこそタチが悪いのか。
ンなこと言ってたら、その余裕綽綽っぷりも1話の内に崩されてダメだった。展開が早いぞウサギイイイイイ!
一度変わった世界、その現状も把握し切る前にまた世界が変わるだとォーッ!?
今までの登場人物が全員出てきて一言コメント残していくのは、なんか武装錬金でカズキがヴィクターと月まで吹っ飛んでいった時を思い出しましたが、この後どうなるんだ!? 月並みですが続きが気になります。……って、もう次の来てる!? 仕事があまりに早すぎる(※最初に戻る)。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。