ひゅう。はじめに聞こえたのはそんな風の音だった。
それが何かが風を切る落下音だと分かるまえに、耳をつんざく程の轟音が続いた。
思わず目をつむって、そして開く。土煙が晴れるのと同時に、それは折りたたんだ羽根を広げ、ゆらりと立ち上がった。
一足先に我に返ったのだろう。ケンキモンがそのショベルアームを模した巨大な腕を振り上げ、そこにいる何かに向けて振り下ろす。重量も何もかも、人間の考える重機のそれと変わらない。そんなものをたたきつけられたら、デジモンでもただではすまないはずだ。しかし。
「片手で……?」
僕は呟く。そいつは、アンバランスな程に長い腕を伸ばしただけだった。力を込めた様子すらなかった。ただそれだけで、ケンキモンのアームは受け止められてしまった。
次いで響くのは轟音。ケンキモンの周りに立ち上る砂ぼこりで、僕は彼がキャタピラを全速で動かしていることが分かった。彼は逃げようとしていて、それなのに逃げられないのだ。ケンキモンのアームを受け止めた腕の一本で、そいつは、逆にその動きを止めてしまっていた。
「何を遊んでる」
僕の隣で、静かに夜鷹が言う。
「さっさと決めろ。ネオデビモン」
その言葉に、そいつは、金色の仮面をかぶせられた悪魔は顔をあげた。
ケンキモンは自分をつかむ手から逃れるのを諦めたように、もう片方のアームをネオデビモンめがけ振る。しかし、その腕は空を切った。
いつの間に移動したのか、ケンキモンの背後に立ったネオデビモンが、かぎ爪でその体を貫く。
〈ギルティ・クロウ〉
機械音の混じった慟哭が、ネオン街に響いた。
「ネオデビモン。鉄仮面の悪意。”完全体”のデジタル・モンスター」
僕がぽつりと呟く横で、夜鷹は手元のスマートフォンを操作する。するとネオデビモンの体は何かの信号を受け取ったかのように振動し、大きく翼を広げると、強い風を巻き起こしながら羽ばたいた。まさしく空に落下するようなスピードで夜空に消えていくそれを見送り、僕は夜鷹の方を向く。
「あんなデジモンが、どうして人間の指示に従う?」
「人間の指示に従うわけじゃない。誰の指示にも従う」
夜鷹は元々細い目をさらに細めて笑った。
「あれの出自はちょっと特殊なんです。”コレクティブ”のデビモンを素体としてはいるが、体に施された改造には”カンパニー”の技術が用いられています」
「サイボーグの悪魔ってわけ?」
「どちらかといえば、悪魔をパーツに使ったロボットです。素体の意識は残されていない。電子的な権限を付与されたものの指示に従って戦う、それだけが彼の役目です」
同族を相手にあまりに非人道的じゃないか。そう考えてから僕は笑いを漏らす。我ながらバカなことを考えるものだ。彼らは悪魔だというのに。
「それで、今はその権限を君が?」
「正確には、俺が秘書を務める議員が。ボディーガード用に”コレクティブ”から貸し出されているんですが、不気味がって使いたがらないので、たまにこうして借りているんです」
と、彼のスマートフォンから声が聞こえる。
『兄さん、誰かが通報したみたいだ。早くそこから離れた方がいい』
「ああ、ありがとう、からす、あひるも、よくやってくれたね」
『ふふー。それよりにいさま、大丈夫? ソメノハルキになにもされてないよね』
「大丈夫だよ」
緩い笑みを唇に浮かべて話した後、彼は僕の視線に気付き。少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「才原からす、あひる。”選ばれし子ども達の会”の一員で、俺の仕事を手伝ってくれる弟と妹です。どっちも、つばめのいたコミューン時代からの仲ですよ」
「スナイパーの子がいるなんて、随分層の厚い教団だ」
『それ、褒めてないでしょ! ソメノハルキの意地悪なんて効かないんだから! 何にも知らないくせに!』
スマートフォンからあひるのとげとげしい声がする。夜鷹は苦笑して、通りの真反対にあるビルの屋上を指さした。そちらをよく見てみれば、赤と緑の小さな光が宙に浮かんで瞬いている
「ドローン?」
僕の言葉に夜鷹は頷いた。
「二人はまだ25歳に達していません。無許可で外には出られない。だから今は都内にある教団の寮から遠隔でサポートをしてくれてます」
「麻酔銃付きのドローンなんて、違法に決まってる」
「何のことだか」
くすくす笑う夜鷹を僕はにらみ付ける。
「君は僕との何らかの協力関係を結びにここまで来た。その夜にちょうど暴漢がクララの店に来て、君たちは自分の力を示した。こんなことがあるか?」
「俺が全部仕組んだと考える方が、世の中が堕落したと考えるより楽でしょうね」
「だとしたらバカだ。クララやクラモンに何かあったら、この場で僕が君たちを許さなかった」
僕の言葉をひらりと交わすように、彼は肩をすくめる。
「そうかもしれません。でも、とにかく、俺達のデモンストレーションは成功です。あなたの目的に必要なものを、俺たちは差し出せる。それが証明できたんですから。組織力、調査力、武力……」
「武力は不用だよ」僕は口を挟む。
「そうでしょうか? この世界で、人間が一人で銃を振り回すだけでは何もかもが足りないはずだ」
「それが通じなくなったら、そこが僕の限界なんだ」
「それでいいんですか? 仮に真実が分かったとして、つばめをあんなにした犯人になすすべもなかったら? それでも、あなたは自分を慰められると?」
「君は、少し勘違いしてる」
僕は街の灯りで照らされた夜空を見上げた。
「僕は、別に復讐がしたいわけじゃない。何かがしたいわけじゃないんだ」
夜鷹は一瞬、僕が何を言ったか分からない、というふうに眉を寄せ、それから、薄く目を開いた。
「それなら、ずっとそうしているといい」
「ご忠告ありがとう。そうだ。僕はずっとそうするよ」
「でも、覚えていてください、”選ばれし子ども達の会”は、いつでもあなたに協力する準備ができています」
乾いた声で笑う僕に、夜鷹は真剣な口調で続ける。
「俺は本気で言ってます。俺たちと組むべきだ。さもないと、誰かがあなたを傷つける。あなたに何を傷つけるつもりもなくたって」
「どうして?」
「どうして、って」
夜鷹はあきれ顔をうかべ、至極当然のことのように言った。
「あなたの周りにいる連中は、どいつもこいつも信用ならないじゃないですか」
それじゃ。そう言って夜鷹はチェスターコートのポケットに手を差し込み、雑踏の仲に消えていく。やがてパトカ―のサイレンの音が聞こえるまで、僕はネオデビモンがアスファルトにあけた穴を、じっと眺めていた。
目を開けると、太陽は橙色のぼやけた球だった。それはゆらゆらと左右に動き、世界には小刻みに昼と夜が訪れた。
濁流のような音がする、それは、鼓膜の内側を流れる血液の音だった。どくどくどく、という音の刻むリズムは、太陽の揺れるリズムと微妙に異なっていて、それが僕をひどく不快な気分にさせた。
いい加減にしろ、足並みをそろえるか、そうじゃなきゃいっそ止まってしまえ。そう叫ぼうとして、喉からはがらがらのうめき声が漏れる。思わず手を首元に伸ばすと、視界がぐるりと一回転して、直後に鈍い痛みが半身に走った。
「ン、目が覚めたか。ハルキ」
聞き慣れたレプリカントの声がした。
「……アンドロモン」
「昨晩どうやって帰ってきたか、覚えているか」
「クララに礼に一杯おごるって言われて、それから……」
そこで僕は、ここが自分の探偵事務所だということに気が付いた。僕が横になっているのは来客用のソファで、ゆらゆら揺れる太陽は古びたつり下げ式の電灯だ。とすれば、耳元でするどくどくという音と、言いようのない不快感が何か、考えるまでもなかった。
「ン、死体を見たことには同情するが、意識が飛ぶほどの飲酒は褒められたものじゃないな」
明確な非難のニュアンスが込められたレプリカントの言葉に声にならない声を漏らしながら、僕はこめかみを押さえて起き上がる。
「あなたにいつ合鍵を渡したかな、アンドロモン」
「君がこの事務所を初めてすぐに、だ。この問答をするのは三回目だぞ。ハルキ」
「死体のことは、吹雪から聞いたのかい」
「都内で起こる事件にはすべて目を通している。二日酔いの程度は?」
「世界の終わりくらい」
「笑えないな」
そう言いながら、彼は本当に表情一つ変えずに僕のいるソファへ寄ってくる。と、やわらかなにおいが鼻をついた。彼が先ほどまでいたのが、事務所の小さなキッチンであることもそれで分かった。僕はコーヒーの湯を沸かすのにしか使わない場所だ。
「朝食を?」
「ン、ほとんど昼食だ。ハルキ」
そう言われて時計を見てみれば、時刻は昼の11時30分過ぎだった。
「そんなこと。わざわざよかったのに」
「だが食べるべきだ。そうでない場合は私が食べることになる。私にはその手の栄養は不要だ。これを無駄ととるかは君しだいだが」
「わかったわかった、食べるよ」
僕はそう言って、ローテーブルに置かれた盆に目をやる。豆腐とわかめの味噌汁とふわりとした白飯。ミョウガの入った卵焼きが几帳面に並べられている。胃酸がせりあがてくるような感覚は不思議と引っ込み、僕は代わりに、昨晩からろくにものを食べていなかったことを思い出した。
「トマト・ジュースは君の好みのメーカーのものだ。飲めば味覚がリセットされる。他の食材と併せて冷蔵庫に入れているから、悪くなる前に食べるように」
「分かった。分かったよ。いただきます」
僕はそう言いながら、塩気のあるトマト・ジュースを一息に飲み干すと、箸を手に取り、卵焼きを口に放り込んだ。こうしてアンドロモンが食事を作ってくれる機会は年に何回もなかったが、それでもすっかり慣れ親しんだ味だ。
──いいな、わたしもあんどろさんのごはん、食べてみたかった。
脳みその裏側でつばめが言う。僕の心の一側面に過ぎないくせに、彼女はたまに僕が悲しくなるようなことを言う。
「で、本庁の警視正がこんな時間に探偵事務所にいていいのかい?」
「そのあたりは融通が利くんだ。立場があると言っても、私の場合は特殊でね」
そう言ってアンドロモンは申し訳なさそうに顔をゆがめた。9年前のつばめの一件の後、失意に打ちひしがれながら東京に戻ったアンドロモンを待っていたのは、新体制の警察における重要なポストだった。彼はつばめがコレクティブに渡るのを“殺してでも”止めてみせた。カンパニーはその働きに報いたのだ。警視正の肩書きは、アンドロモンが固辞に固辞をかさねた後に残った、望みうる最低の立場だった。
「まだまだ現場を退く気は無い、と」
「今のこの国では、人間の刑事はそれだけで命の危険と隣り合わせだ。私がそばにいたほうが、助かる命は多い」
「警察学校の教官は?」
「“天使殺し”が起きてからは昔のように付きっ切りで見ることはしていない。週に一回か二回授業を持つ程度だ。みんな真面目にやっているよ。君たちのころは問題児だらけだった」
「あのころ警官になろうってやつらはみんな、“天使の日”の混乱で自分の無力をいやというほど味わった連中だ。僕も含めてね」
「ン、だからみんな野心的で、それを十分に結果につなげてくれている。同期の皆と連絡は取っているのか?」
「まさか。吹雪がたまに向こうからちょっかいをかけてくるくらいだ。みんな僕のことを軽蔑してる」
アンドロモンは悲しそうな顔をした。デジモンでも人間でも、僕は彼以上に感情豊かな人物に会ったことが無かった。
僕は味噌汁を飲みほし、ごちそうさま、と言う。それからスマートフォンを操作し、ニュースサイトを開いた。
「昨日の件、ニュースには?」
「なっている。とはいえ、犯人は例の吐かせ屋ではっきりしているし、事を荒立てないのがカンパニーの信条だ。どのニュースも、被害者の名前を報じるだけにとどまっている」
それでも、探偵相手に必死に匿名を貫いていた彼女には不本意だろう。そう思いながら、僕はその事件を報じたと思われるニュースを開く。
「被害者の名前は北見茜(キタミ・アカネ)。32歳。カンパニーで“塔”の観測所に務めていた、と」
「想像通り、といった口ぶりだな。ハルキ」
「まあ、それくらいはね。それ以前の経歴が知りたいな」
「ン、既に調べた」
「教えてくれるの?」
「ここで私が秘密にしても、どうせネットに出ている」
そう言いながら、アンドロモンが自分の端末を見せる。それはとある週刊誌の電子版で、よく言えば他より少し踏み込んだ、悪く言えば節操のない記事を書くことで有名だった。
「『元製薬会社エリート研究員が抱えた”裏社会とのつながり”』だって?」
僕は舌打ちをする。殺したのがそこらのチンピラだというだけで随分大げさな物言いをするものだ。
「内容は、今回の事件を入り口にいつもの陰謀論を述べただけの愚にもつかないものだ。だが、被害者の経歴はそこそこよく調べられている」
「”ヴァリス製薬”」
「ン、2年前まで彼女はそこのラボで働いていた」
それはここ数年でよく耳にするようになった名前だった。もとは9年前、人間の敗北からほどなく設立された、デジモン向けのさまざまなサービスを行う会社だった。やがてランダマイザ手術が一般化されると、ターゲットをデータ化した人間達に切り替え、事業を製薬部門に一本化。カンパニーと提携し、従来の病気から精神疾患、恐怖症にまで効果のある薬を次々と発表している。
──どうかな。あそこの薬飲んだら、わたしもハルキの頭から消えると思う?
意地悪な声音でたずねるつばめを僕は無視した。その微妙な表情の変化を読み取ったのか、アンドロモンは息をついて僕の向かいの椅子に座る。
「まだ、つばめの声が聞こえるのか」
「あなたはいつも鋭い」
冗談めかした僕の返答に、彼は首を振る。
「ハルキ、君の供述は見た。あそこで本当は何があったにせよ。キタミアカネは君の依頼人ですらなかった。この事件にまで首を──」
「あんどろさん」
僕は少しだけ語気を強めて彼の言葉を遮った。
「僕だって手当たり次第に事件に首を突っ込んでるわけじゃない。自暴自棄になって無軌道な行いをしてるのでもないし、仕事をしていないと余計なことを考えてしまうわけでもないよ。それでも、昨日の事件は”天使殺しに”関係してる」
疑わしげにこちらを見るアンドロモンに。僕はなるべく丁寧に、昨日あったことを彼に話した。その間に、二人合わせて四杯のコーヒーがからになった。僕が語り終えると、たっぷりコーヒー一杯分の沈黙をはさんで、アンドロモンが口を開いた。
「警察で供述したよりも、随分長い一日だったらしいな」
「酔いつぶれるのも無理はないだろ?」
僕の冗談に、彼は律儀に首を横に振った。
「”天使殺し”に関係のある殺人、謎のうさぎ、つばめの兄、か」
「あんどろさんはどれから掘り下げたい?」
「私の見解は昔から変わらないよ」
「全部を忘れて、普通に生きろって?」
「そうだ」
僕は喉の奥で笑った。アンドロモンは悲しい表情を浮かべる。何を言っても届かないと分かっていて、それでも彼は僕と会う度にそれを言う。
「復讐ならまだよかった。でもハルキ、君は……。君はつばめの死の真相を知ったとして、満足するのか? 君の人生は、それで変わるのか?」
「きっと変わらない」
「それなら君は」
「わからないんです。でも、まだだと思う」
僕はゆっくりと言った。煙草でもあればこの間をもっとスマートに埋めることができたのだろうけれど、税金の味がする煙を吸う趣味は僕にはなかった。
「まだ、僕は”これ”から目をそらしちゃいけないと思うんです」
「……」
アンドロモンは無言のまま立ち上がり、コートを羽織った。つばめの死はお前のせいだ、と僕が一回でも言えば、彼は少しは救われるのかも知れない。けれど僕には思ってもいないことを言うことはできなかったし、彼も嘘と分かりきった嘘を信じることはできなかった。
「それならせめて、例の銃を使うのはよしたらどうだ」
「他により有用な武器があるわけじゃない。ソウルモンも”ホーリー・アロー”でなくちゃ仕留められなかった。それに、あれをくれたのは……」
「そうだ。君にあれを渡した奴は、つばめの死について深く知っている。そしてそれを黙っているんだ」
「僕だって彼を信用しちゃいない。でも──」
僕は鞄からずっしりと重い拳銃を取り出した。
「だからこそ、真実を話してくれるまでは、彼──ヴァンデモンとの縁も絶ちきれません。それが銃でも何でもね」
沈黙。コンピューターで計ったような永遠が過ぎて、アンドロモンはまたため息を一つついた。
「ン。降参だ。思えば君に勝てたことがないな」
アンドロモンがコートのポケットから封筒を取り出し、僕に差し出した。
「これは……」
「君が寝ている間にブギーモンが来てね。それをおいていった。さっきの話に出てきた写真だろう?」
「警察で押収しなくていいんですか?」
「警察は例の事件をたたんだよ。殺した実行犯は分かっている。吹雪くんは疑問を呈しているが、遠からず解決、ということになりそうだ」
「カンパニーの圧力ですか」
「ン、だから、君が持っていろ」
「あなたも中は見た?」
「当然」
「所感は?」
「ほとんどはラボの中を写したなんてことのない写真だった。もちろん機密ではあるんだろうが、人を殺す理由にはならない」
僕は眉を上げる。
「それはおかしいでしょう。現にこの写真を巡って彼女は殺されているのに」
「ああ。だがこの写真から私はそういう印象を抱いた。おそらくなんだが、何枚もある写真の重要ではない一部なんじゃないか。ラボ内の監視体制は分からないが、カンパニーのことだ。おおっぴらに写真を撮って回ることはできないだろう。手当たり次第にとって、重要な部分はどこかに隠した」
「自分の死を悟って?」
「そうだ。重要でない写真をまだ持っていたことからして、君との待ち合わせ直前、吐かせ屋の尾行に気付いたんだろう。まだあの近辺にあるんじゃないか」
「それならどこに隠したかは」
分からない、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。頭の裏側を、すうっと何かが通り過ぎた。
「どうした、ハルキ。心当たりが?」
「ええ。キタミアカネは頭の良い女性だった。いざというときの備えはもうできていたんだ。その手掛かりを、僕に残してくれていた。あんどろさんも一緒に来る?」
「いや、君と共に昨日の現場に入るのを見られるのはまずい。止しておこう。また来るよ」
「ええ、いつでも来て」
僕は心の底からそう言って、それから封筒に手をつっこみ、一番上の写真を引き抜いた。うさぎの写真、少女の写真。
「ねえあんどろさん、これはどう見えました?」
「ン、セーラー服の少女、だ。ちょうどあの日の君たちくらいだな」
──人間みたいなこと言うね。あんどろさん。
人間みたいなことを言うレプリカントだ。と僕は思った。
「それで? 旦那。どういうつもりなんです」
「なんだ、ブギーモン」
「なんだじゃねえですよ。昨日ここで殺しがあって、旦那が警察に引っ張られたばかりだってのに、俺にまたあそこに行けだなんて、ぞっとしねえ」
「別に現場のすぐそばまでは行かないよ。ただその”方面”に行けっていったんだ」
「そうはいってもよお、検問が合ったらその場で引き返しますからね」
「何もやましいことはないだろう」
「ありますよ。コートの襟を立てておれの車の後部座席に乗ってます」
僕はくつくつと笑った。タクシー車両の後部座席。ブギーモンは珍しくカー・ステレオでラジオをかけていた。この街に価値はないよ。命に用があるの。どこかのバンドがそう叫んでいた。
ひんやりした車窓に額を押しつけ、音楽が止まるまで待って、僕は口を開く。
「ブギーモン、昨日ここに来たとき、僕はセブン・イレブンの話をしたよね」
「しましたっけ」
「脳神経の一本一本までデータなんだ。物忘れなんかするんじゃない」
「へいへい……たしか、道案内の時でしたっけ。依頼人が旦那の脳に間違った目印をいれてたとか」
「そうだ。本当はセブンなんかなくて、古いビルだった。でも調べてみたら、あの場所には7年前まで、ほんとうにあのビルの一階にはセブン・イレブンがあった」
「昔の記憶のまま道案内しちゃったとか?」
「依頼人がこの辺りに通い始めたのは2年前からだ。当時にはもうセブンなんて影も形もなかった」
「前に通ったのを覚えてたとか」
「そうじゃなきゃ、わざとだ。そこだよ。止まって」
ブギーモンがタクシーを止め、僕は、かつてセブン・イレブンだった建物の前に降りた。随分古びたビルで、セブンがなくなった後、長く入ったテナントはなかったらしく、今ではほとんど廃虚のようだった。
止まった自動扉を無理矢理こじ開け、中に入る。外から見てた時には何もなかったが、中に入って、あちこち探してみてもそれは変わらなかった。割れたガラスで手を切って、僕は大きく舌打ちをした。
十分ほどあちこちを見て、空振りだったかと思ったとき、上から、どしん、と言う物音が響いた。
僕ははじかれたように立ち上がり外に出る。鞄から銃を出すと、ビルの二階へと駆け上がった。
二階も一階と同じで廃虚同然だったが、僕が扉を押し開いて部屋に飛び込めば、そこには二つの影があった。
「おい!」
その光景に僕はとっさに叫ぶ。二人の人物が同時にこちらに意識を向けた。
一人は初老の男性。見るからにホームレスで、周囲には彼の衣服や段ボール、買い物カゴに似たカートに詰められた彼の荷物がある。ここを根城にしているようだったが、僕が入った時、彼は腰が抜けたようにへたり込んで、目の前に立った、もう一人の人物を見上げていた。
「動くな」
僕は拳銃をそのもう一人の人物──白銀のアンティラモンに向けた。表情のない一対の瞳が、まっすぐに僕を見返した。
「動くな」
僕はもう一度、声高に繰り返す。それをするためだけに、僕は額から一筋の汗を流さなければならなかった。うさぎの凛とした佇まいのせいだろうか、空気はぴんと音がしそうなほど張り詰めていた。
──無理だよ。今からあのうさぎより早く動いて、わたしの羽を装填して撃つなんて、いくらハルキでもできない。撃てたとしても、”ホーリー・アロー”一発じゃあれは仕留められない。
脳の裏側で警鐘を鳴らすつばめの声に、僕は下唇を噛む。そんなこと分かっている。でも、一度銃を抜いたなら、虚勢を張り続けるしかないじゃないか。
僕は気を抜けば左右にふらふらと揺れる銃口を必死でうさぎに向け続ける。うさぎは、その感情のないガラス玉のような目で、じっと銃口を見返した。そして──。
「やっぱり、あなたじゃダメ」
「──!」
うさぎの発した、少女のような透き通った声に、僕は目を見開いた。
「僕じゃだめ? なんのことだ」
返答はない。
「僕を知っているんだな。だからあのとき助けてくれたんだ。教えてくれ。君は誰なんだ? 目的は──」
「勘違いしないで」
その声が耳に届く頃には、うさぎはもう僕の目の前にいて、僕の腹めがけてその手をぶんと振った。鈍い衝撃が走り、感じたことのない浮遊感の後に、背中全体に痛みが走る。壁に叩きつけられたのだと知覚すると同時に、うさぎが本気の半分も力を込めなかっただろうことも分かった。そうでなければ、僕が無事なはずがないのだ。
「わたしが、あなたを知っているから助けた?」
痛みにうめき咳き込む僕の身体が、また持ち上がる。ガラス玉のようなうさぎの瞳に映る、酷い有様の男が見えた。
「あなたらしいね。ハルキくん」
うさぎはあきれかえったような声音で手に力を込める。みしり、僕の体のどこかがなった。
「いつだって誰かがあなたを助けてくれる。いつでも誰かがあなたを気にかけている。そのくせ、自分は孤独だなんて思ってるんでしょ」
ぐわり、と身体が動く、僕を持った手をそのまま壁に叩きつけようとしている。そう思って目を瞑ったが、衝撃も死も僕の心臓を貫きはしなかった。壁のスレスレで僕の身体を止めたうさぎは、なおも嘲るような声で続ける。
「あなたには何もできない。きっとこれからも何人もあなたを助けて、心配して、そのどれもあなたには無駄なんだろうね。それは見てられないよ。やっぱり、ここで死ぬ?」
うさぎの手が、一層強い力で僕の胴体を握りしめた。苦痛に喘ぎながら、僕はなんとか目を開き、うさぎの眼を見据える。そこにはやはり何も映ってはいなかった。暗闇さえ無かった。きっと深淵も、いちいちこちらを覗き返すほど暇ではなくなったのだ。
だが、僕がそうやって瞳の中の暗闇を探していると、やがてうさぎは手に込められた力を緩めた。痛みが引くと同時に、同時に、体の緊張が解けたように汗が吹き出す。肺は新しい息を求めてひゅうひゅうと鳴り。僕は立っていることもできずその場にへたり込んだ。
「どうして、殺さなかった」
僕の問いにうさぎはふんと鼻を鳴らす。
「別に、どうでも良くなっただけ。あなたの死はいつかきっとわたし以外の誰かが務めるだろうし、わたしは他の誰かがやるだろうことに興味はないの」
そうして大きく破られた窓辺に近づき、うさぎはもう一度こちらを見た。
「言っとくけど、やめたほうが良いよ」
「何を」
「あなたが追ってるもの、全部を。無駄だから」
「無駄?」
「あなたはなにかにたどり着くかもしれない。あなたは何かを知るかもしれない。でも、あなたにはどうせ何もできない」
僕は壁に手をついて立ち上がる。身体の傷んだところを数えてみたが、両手の指だけでは足りなかった。
「君になら、何かができるってことかい。なあ、それは──」
刹那、うさぎが勢いよく地面を蹴った。強い風が吹いて、割れたガラスの破片が舞い飛ぶ。その勢いで、僕はまたうつ伏せに地面に倒れた。口の中で血の味がする。悪態をついて起き上がるころには、そこにはもううさぎの影も形もなかった。
「おい、にいさん、大丈夫かい」
やがてあたりが静寂を取り戻す頃、へたり込んでいたホームレスが立ち上がり、僕の方によってきた。顔を上げ、僕も同じように立とうとする。身体のあちこちに刻まれた痛みは一向におさまらなかった。どこか折れているのかもしれない。
「ええ、僕は、大丈夫です。あなたは?」
「俺は大丈夫。死ぬほど怖い思いしただけさ」
そういいながら彼は僕を助け起こす。身体に染み付いた古い垢の匂いと不自然に赤らんだ肌の感触が不快だったが、この状況ではありがたさのほうが勝った。
「ありがとう。あなたはどうしてあのデジモンに」
「知らんな。やつが用向きを言う前にあんたが入ってきたから。でも大方、これじゃないか」
そう言いながら、彼はゆっくりとカートに近づき、その中から丁寧に紙束を取り出した。
「それは?」
「知らん。でもあんたのだよ」
「僕の?」
「あんた探偵だろ。その紙は昨日、ここにやってきた美人に金と一緒にもらったんだ。一週間以内にここに自分か探偵が来るから、そのときはこれを渡せって」
僕は北見茜の遺体の写真をスマートフォンに表示し、彼に見せた。
「その人だ」彼はうなずいてから、顔をしかめる。「死んだのか」
「そうだね。あんたにこれを預けたってことは、そうなることを知ってたんだ」
僕はゆっくり息をつき、銃を拾い上げる。世界が再び正常に回り始めていた。
「なあ、もしいつになってもこの紙を受け取りに来る人が現れなかった時、彼女はどうすればいいか言わなかったかい?」
「ああ、ある住所に届けろと言われた」
「教えて」
そうして彼が暗唱する住所を控えて、僕は顔を上げた。
「ソラで言えるのかい。記憶力がいいんだね」
「よしてくれ。今じゃそんなの得意にしたって仕方ない。機械やら半分データの人間やらがほっつき歩いてるんだから」
彼は少し寂しそうにそう言った。
「なあ──」
「何も言うなよ。俺は金をもらってこの仕事をした。それだけだ。あんたがそれ以上何かをしてくれる必要はないし、そんなのは願い下げだ」
「憐れむつもりはないよ」
僕は自分の名刺を取り出し、裏にクララの店の住所を書き留めて彼に渡した。
「その店に営業時間の一時間前に行くんだ。名刺を見せれば食事と酒の一杯くらいは出してくれる」
男はその名刺と僕の目とを繰り返し見比べた。
「あんたってのは、本当に小説の中の探偵みたいなんだな」
「実はそうなんだ」僕は笑った。
「でも、世界の方が小説みたいじゃないから、何の役にも立たないのさ」
「十分だろう。ふつうはうさぎと追いかけっこなんかしない」
彼もにやりと笑う。その言葉で、はっとした。
「あんたには、あれがうさぎに?」
「ああ、白いデジモンだ。うさぎっぽかったが、別の動物だったりするのか?」
「これは?」
僕は懐に入れたうさぎの写真を見せる。男は何度も瞬きをしながら写真に顔を近づけ、それから首を振った。
「なにって、これは、さっきのうさぎだ。白いうさぎだよ」
ホームレスに別れを告げ、雑居ビルの階段を降りると、黒いレクサスが止まっていた。
その前に、同じくらい真っ黒いスーツを着た一人の男が立っている。青白い顔には何の表情も浮かんでいない。鼻が低く、唇が薄いため、顔全体がのっぺりして見えたが、目だけはぎょろりと大きく、それがいやに不気味だった。
「ソメノハルキさんですね」
僕の方をろくに見ずに男が言う。僕も彼の方をろくに見ず、通りを見渡した。
「ここでデジモンが運転するタクシーが待ってたと思うんだけど」
「ブギーモンさんなら、先に帰っていただきました。帰りは私と一緒に」
口調だけは慇懃だったが、彼の方に僕を尊重しようという気持ちが少しも無いのは明らかだった。男がレクサスの後部座席のドアを開く。僕はそのぴかぴかの車内をじっとみた。うさぎの目と同じくらい何も感じられなかった。
「悪いけど、見ての通りぼろぼろなんだ。血も出ている。持ち主も知れない高級車を汚すことはできないよ」
「心配は無用です。あなたはきっとこの車の持ち主を知っている。持ち主もあなたのことを知っています。その方はあなたを待っている」
「誰なんだ」
「多忙な方です。どうぞお乗りください」
「僕のことを監視していた誰かかな」
「お乗りください」
男の青白い顔をじっと見る。彼が雇い主についていったことはきっと嘘ではないだろうが、彼が僕に対して無感情で威圧的な態度を取る必要はまるでないはずだった。きっと雇い主から似たような扱いを受けているのだろう。そう考えると、雇い主が誰かすぐに分かった。
「分かった。乗るよ」
僕はわざとらしくため息をつき、車に乗り込んだ。
「いくらまねをしたって、君は奴らみたいにはなれないぜ」
そう声を掛ければ、男は黙ってこちらを見た。そしてドアを閉め、無言で運転席に入り、エンジンをかける。
「目隠しは良いのかい? 紙袋をかぶせたりは? 僕は肌が敏感なんだ。紙が茶色い奴だと蕁麻疹が──」
「不用です」運転手はうんざりしたように言った。
「行き先を隠す必要はありません。どうせあなたも知っている場所だ」
改めて、彼の雇い主が誰かに思いを巡らせた。
「確かに」僕はレクサスの窓に額をつけた。「僕もそこを知ってる」
『いつだって誰かがあなたを助けてくれる。いつでも誰かがあなたを気にかけている。そのくせ、自分は孤独だなんて思ってるんでしょ』
うさぎの言葉が脳内で繰り返し聞こえた。全くその通りだと思った。それでも、僕の孤独も喪失も、僕だけのものだった。
青白い顔の男に通された部屋には、巨大なモナリザのレプリカが掛かっていた。
まともな人間なら、部屋に何かの絵の模造品を飾ろうとするとき、モナリザなんて選ばない。”塔京”でも一、二を争うほど背の高いビルの最上階でも、それは変わらず非常識な光景だった。本物よりかなり大きく描かれたその世界一有名な絵画は、”塔京”を見下ろすこの部屋に、唯一無二の俗悪さを与えていた。ここをオフィスにしていたら、最初の三日間はアメリカン・コミックの悪役のような気分になって、それから先はアメリカン・コミックの悪役そのものになってしまうに違いなかった。
そこに、体の半分が脳でできた女が座っていた。
「座れ」
女が甲高い声で僕に告げる。
「立っている方が良い。座ると随分あちこちが痛むものでね」
「いいから座りな」
彼女とテーブルを挟んだ向いの、革張りのソファに座る。彼女は僕をなめ回すように見て、それからまた口を開いた。
「アタシが誰か知っているか」
「ナノモン。こっち側の世界における”スクルド・カンパニー”の顔役」
「”脳”役だ。アタシは顔を売ってない」
「失礼。ほとんど表に顔を出すことはないが、カンパニーの仕事は全て一度君の頭を通っているっていう話だ」
「損な役回りだよ」ナノモンは両手の指を絡ませた。
「無能な働きばかりがアタシの責任にされる」
ナノモンはアームを伸ばし、テーブルの中央に置かれたクリスタルのデキャンタを手に取った。
「コニャックを?」
「結構」
「いや、飲むんだ。今から脳を働かせてもらうことになる。痛みを感じるのに容量を割いてほしくない」
とくとくとグラスに琥珀色の液体が注がれ、僕の前に回ってくる。ナノモンのアームがすっかり引っ込んだのを確認して、僕はそれを一息に飲み干した。アルコールの匂いだけで昨日の頭痛を思い出して具合が悪くなるような有様だったが、そんな状況でも、これまで飲んだどの酒より上等だった。
「先に言っておくが」ナノモンは僕が喉を鳴らすのを見届け、言った。
「駆け引きは無用だよ。ソメノハルキ」
「そうかな」
「そうさ。あんたのほうでアタシに隠しておけることはない。アタシはあんたがこだわっている事件も、それにこだわる理由もすべて知っている。9年前からずっとね」
カンパニーのすることは全て彼女の脳を通過している。
「9年前、アンドロモンを僕の街までよこしたのは、あんたか」
「アンドロモン」ナノモンは皮肉に笑って、デキャンタのふたをしめる。きゅっという甲高い音がした。
「アイツは優秀だよ。”バスターズ”からうちに来た魂胆は見え見えだったが関係ない。アタシは結果を見るし、奴は指令に応えて、きっちりサイハラ・ツバメの死を持って帰ってきた」
──ハルキ、落ち着いてね。
脳の裏でつばめの声がしなかったら、僕はきっと高価なクリスタルグラスをそのカプセル錠型の脳みそ向けて投げつけていただろう。
「用件はなんだ」
返事の代わりに、ナノモンは手元の端末を操作した。電気が落ち、カーテンが一度に閉まり、部屋に暗闇が落ちる。すると、天井からプロジェクターが降りてきて、何かが壁に投影された。
僕が持っているのと同じ、ビルの隙間を跳ねるうさぎの写真だった。うさぎの部分が拡大されており、壁に大きく映されたために画素の荒さが目立つ。それでも、僕にはそれがうさぎに見えた。
「アタシには、これが制服を着た人間の女に見える」
ナノモンがぽつりと言った。
「これは誰だ」僕の口が、勝手に問いを放った。
「サイハラ・ヒナノ」
サイハラ、という言葉が僕の頭の奥で反響した。深い洞穴に小石を投げ込んだような。かすかな残響だった。
「あんたには、サイハラヒナノを探してもらう」
体半分が脳の女が言った。