はじめに
本作は2018年に、サロンの前身であるオリジナルデジモンストーリー掲示板NEXTでへりこにあん先生が主催していた企画「Human metamorphoses into a digimon」への参加作品です。卯年を迎えたということでこちらに再投稿させていただきます。テーマは企画名そのまんま「人間がデジモンになる」小説でした。そのあたりも踏まえてお楽しみいただけると幸いです。
卒業証書をもらった帰りみちのことを、あなたは覚えているでしょうか。
少女にとっては、それは桜のみちでした。しずかなしずかなみちでした。
卒業式でどれだけ別れのなみだを流しても、その帰りみちは案外と孤独なものです。むせかえるようなももいろの連なりに誘われて、少女の足が自然と桜並木に向いたとしても、それは決しておかしいことではありませんでした。
そのみちは、川沿いにあるらしいアスファルトの道路らしく、彼女の向かって左側には、土手に沿っていくつもの桜が並んでいました。
右側はというと、歩いても歩いても灰色の塀があらわれるだけでしたが、その塀の向こうはやっぱり桜で、派手に着飾った枝を自慢げに少女の前に垂らしていました。そしてその花の奥には、見たこともないような大きな家の瓦屋根が覗いているのでした。
桜並木は、いつもその外側に何かがいるような感覚をわたしたちに与えます。少女もそんな感覚に、心地よく身を預けていました。
ぎらぎらとした刃物を持った男がふいに飛び出してきて首を掻き切られても、あるいはかつて教科書で見たようなとうの昔に死んだ誰かが立派な青毛の馬に乗って目の前を通り過ぎていっても、彼女はきっと驚きの声一つ上げなかったでしょう。だってそこは彼女の知らないどこかと、薄いはなびらの簾一枚でへだたれた場所なのですから。
だから、気が付いたときには周りをだれも歩いていなくても、そこが今まで通ったこともないみちでも、少女は気にも留めませんでした。長い学生生活を過ごした街で、あっさりとみちを見失ってしまったのが、彼女にはこの上なく愉快なことに思えたのです。
それにそのときの少女はできることなら一人で歩きたい気分でしたから、かえって好都合とばかりに鼻歌などうたってみるのでした。
どれだけ前に進んでも、目の前にはももいろの雨と、見慣れない家々がつづくだけでした。
ほんとうなら、少女はそこで泣き出すべきだったのでしょう。卒業式の後の校舎裏で、彼女とあの艶めいた黒の学生服を着た少年との間に起った恋愛にまつわる一幕は、彼女がその黒い瞳から涙を流すのにふさわしいもので、終わらない桜並木のまんなかは、制服の袖を濡らすのにはうってつけの舞台でした。
でも、少女は泣きませんでした。泣けませんでした。
だから、彼女は気づけたのでしょう。
突然右手にあらわれた小さな公園と、そこで遊びまわる小さなこどもたち。
そして、彼らの中に立つ、大きな、背の高いうさぎに。
卒業証書をもらった帰りみち、少女はうさぎに会いました。
肩に桜のはなびらが厚く積もっても、うさぎはぼおっと立っていました。
少女がいくらじいっと見つめても、うさぎはぴくりとも動きませんでした。。
足元で遊んでいるこどもたちにも、うさぎは気にも留めない様子です。
彼らの一人など、それがまるで遊び道具の一つであるかのように、うさぎの長く大きいうでにぶらさがって笑い声をあげていたのですが、うさぎはやはり動かないままでした。
それでも、うさぎは少女の視線に気づいているようでした。彼女にはそれがわかりました。
うさぎはなにも見ていないような小さな赤い瞳で、それでもちゃんと少女に気づいているのです。そのうるんだ瞳の輝きに、彼女は思わず肩にさげたスクール・バッグの持ち手をぎゅっと握りしめました。
やがて、うさぎの足元で走りまわっていたこどもたちの内のひとり、幾分時代遅れなシャツに袴、学生帽という服装の男の子が少女に気が付いてふっと立ち止まりました。
彼が隣にいたセーラー服の女の子の耳に口を近づけ、ひそひそと何かを話すと、その子も目を少女に向けました。
そんなことをくりかえすうちに、きがつけば、色々な時代のかっこうをした幼いこどもたちの目は、すべて少女に注がれていました。彼らの目はどれも大きく真っ黒で、いかなる表情も浮かんではいませんでした。
そんなふうにただただじいっと見つめられることに耐えきれず、少女はそっと公園の中に足を踏み入れました。
アスファルトの道から一歩をふみだして公園の土を踏んだ瞬間、こどもたちはその口を大きくひらいて真っ赤な笑みをうかべると、またぴたりと動きを止めました。
少女が次の一歩を踏み出したときには、こどもたちはもう音もなくどこかにいなくなっていました。そうして、公園には少女とうさぎだけが残されました。
少女はもう、うさぎに近づくことをためらいませんでした。うさぎの足元まで近づくと、彼女にはうさぎが中華風の、上等な服を身につけていることがわかりました。
彼女は手をのばし、その茶色い毛におおわれた腕にそっと触れました。うさぎの毛並みは滑らかで美しく、それでいてたまらなくなるほどにやわらかいものでした。
少女はうさぎのその腕の毛にそっと顔を埋めました。あたたかい感触が優しく少女の心を満たします。彼女の目に、今になってようやく涙があふれました。
涙が出た、そう思った瞬間に、もう少女はうさぎでした!
ふいに自分の身体を襲った新鮮な感触に、少女はぶるりと身震いをします。厚く積もっていた桜のはなびらが、ひらりひらりと自分の肩から舞い落ちていくのを見て、少女は自分があのうさぎになったことを理解しました。
うさぎになるのは思っていたよりも悪くない気分でしたが、少女はうさぎになった自分が何をすればいいのかわかりませんでした。
それでも少し考えて、少女は跳ぶことにしました。彼女がちいさな頃読まされた絵本の中では、うさぎはぴょんぴょんと跳び跳ねるものだったからです。
少女は、うさぎは、その身をかがめ、力強く地面を蹴りました。
次の瞬間、少女は空高く舞っていました。春がすみでぼやけた自分の住む街を、彼女はうさぎの赤くうるんだ瞳でゆっくりと見渡しました。
見慣れているはずのその街は、桜に彩られた今はどこか新しく見えました。それは少女には、自分の流した涙の一滴が桜のはなびらとなって、ももいろの波紋を起こして街を飲み込んだように思えました。
すべてが新しく、美しい街。濃ゆい香りの春風の吹く、桜の街。その景色の前で、少女はこの上なく幸せでした。
そんなももいろの街では、黒い一点はとてもよく目立ちます。地上で動くその点を目にとめた少女は、不快そうに顔をしかめるとその身をひるがえして黒点のもとに降り立ちました。
果たしてその黒は、あの艶めいた学生服の黒でした。少女が彼への恋のために流した涙にのみ込まれた街で、その少年はどこか居心地が悪そうに頬をかいていました。
そしてもうひとつ、少年の隣に、うさぎになる前の少女とおんなじ制服を着た女学生が、ぴったりと寄り添っていました。
そんなもののすべてを赤い瞳で見て、最後に少女は自分のうでに目を落としました。先ほどまでは影も形もなかった、扇の形の刃が、その手にしっかりと握られて、ぎらぎらと光っていました。
それから少女のしたことに取り立てて意味はありません。刃についた朱色を拭いながら、こっちの色のほうが黒よりもずっと桜に似合うと彼女は思いました。
そして彼女は背の高いその身をかがめ、みちにへたり込んで震える女学生の顔、その目に浮かぶ涙を覗き込みました。
涙は、桜の色、もらっていきましょう。彼女はそう呟くと、女学生の首だけをそっと、優しく切り取りました。
それからも少女は街を跳び回り、桜に合わないすべての色彩を、ひとつ、またひとつと取り去っていきました。刃を持った右手を振るそのたびに、左手で抱える首の数も、また増えていきました。
そうして気がつくと、少女は最初の公園の、あのうさぎが立っていたのとちょうどおんなじ場所に立っていました。
彼女の街はすっかり桜にのみ込まれて、その儚いももいろにそぐわないものは何一つ残っていません。
少女の目の前には、いくつもの生首が転がっています。
彼女がそれをじっと眺めていると、それらはやがてふわりとうかびあがり、小さなこどもくらいの身体を何処からか手に入れて走り回り始めました。そのどの首にも、いかにも楽しそうな笑みが浮かんでいます。
その中のひとつの首、あの学生服の少年の首が、よそ見をしながら走っていたせいで勢いよく少女の体にぶつかりました。しかし彼は少女には見向きもせずに、また遊びに戻っていきます。ほかのどの首も同じように、彼女のことを気にも留めていません。
少女は声をあげようとしました。でも、なぜだかどんな声も出ませんでした。
少女は手を振ろうとしました。でも、なぜだかぴくりとも動けませんでした。
なにかをしようとすると、その瞬間にすることがたまらなく億劫になってしまうような、そんな感じでした。
こういうわけで、少女は、誰かに自分を気づいてもらおうとすることができなくなってしまったのです。おまけに、他の人たちは誰一人彼女に気づこうとすらしません。
でも実際のところ、少女はそのことをそんなに悲しんではいないのです。
だって彼女は知っています。いつか誰かが彼女に気づくということを。
桜並木に迷い込んで、流すべき涙を流し忘れた誰かが、いつか、この公園と、無邪気に遊びまわるこどもたちと、そして背の高いうさぎを、見つけ出すだろうということを。
卒業証書をもらった帰りみち、少女はうさぎになりました。
うさぎは今でも、肩に桜のはなびらが厚く積もっても、ぼおっと、立っています。
そうやって卒業証書をもらった帰りの、だれかを待っているのです。
おしまい
おおう卯年……というか正月からこれか! 夏P(ナッピー)です。
なんだか懐かしい企画名を拝見した気がしますが、火の鳥異形偏と言うべきか魔探偵ロキとでも言うべきか結構な幻想的な地の文から始まる導入からのまさかのマミる連発。すげー淡々と「大した意味はありません」理論で大した凶行が行われていってしまう。恋愛的な意味での甘酸っぱいイベントどころか生首祭りじゃ!
数分は即アンティラモンと把握できて「ほっほ卯年の正月でウサギとは素晴らしいぜ」とか微笑ましく思っていたのにまさかのこんなことに。というか、当初アンティラモンの周りを遊んでいた子供達が一斉に振り返ってくるところが終わった後から考えると怖い。あそこで少女自身がアンティラモンになったってことは、元からいた少女“だったはずの”アンティラモンって……?
これさては毎年デーヴァに誰かがデジモン化して血の海を築き上げてるな!?
それではこの辺りで感想とさせて頂きます。