
朝、鵺でありこっくりさんであったキメラの結末を幽谷から聞いた尾池は、今日は何もめぼしい噂はないという言質を取り、昼休みに旧校舎の理科準備室に向かった。
尾池が部屋に入ると、制服を着てニット帽を被った男子と、黒松がいた。
「やぁ、来たネ」
「なんで黒松先輩がいるんですか?」
「私の中学の後輩で妹が通ってた空手道場の先輩なのヨ。二人の共通の知り合いってことネ」
「……えと、二年の食野半步(メシノ ハンポ)です」
「一年の尾池 礼奈です」
お互いにぺこりと頭を下げた辺りでかなり固いなと黒松は思った。
黒松はこの二人に関してどちらにも一定の理解があった。
黒松の分析によれば、尾池はよくわからないけど先生に頼まれたから来ている。ある程度先生がリードしてくれると捉えているので待ちの姿勢である。
そして食野もまた待ちの姿勢である。去年の半ばから教室にたどり着けなくなった彼は、他人とコミニュケーションを取ることに躊躇いがある。
黒松がここで話のきっかけを振るのは容易い。が、手は出さなかった。
そもそもこの集まりは、理解が及んでいない人ともある程度コミュニケーションを取ることで、元々の知り合いもそれなりにいる教室への復帰がしやすくなるだろうという狙いだと、黒松は聞いていた。
そうなると、過度な気遣いは無用、するにしても助けを求められてから。特に食野の方は先に手札を用意している筈。
黒松はそう見ていたが、尾池は困惑していた。どうして二見はいないのかという思いでいっぱいだった。ついでに気になったのは、部屋の中に不自然に置かれたクーラーボックス。昼休みに集めたことを考えると食べ物か、それとも動物の死骸か何かか、気になって仕方がなかった。
食野もそう、話のきっかけは用意してしていたが、二見がいないと切り出していいものかわからなかったのである。加えて持ってきたバケツと魚、触れていいのかよくわからなかった。
いきなり二人がちらちらっと黒松の方を見出したので黒松は早くないかと少し困った。
「いやー、遅れてごめんねー」
小脇に箱を抱えた二見が来たのは、ちょっと早い気もするけど助け舟を出そうかと黒松が口を開きかけた時だった。
「朝持ってくるの忘れてね。今、車から持ってきたんの、ホットプレート」
「……何の為に持ってきたんですか?」
尾池がそう聞くと、二見は首を傾げた。
「あれ? 昨日言わなかったっけ? じゃあ、食野くん、説明お願いね」
「あ、はい。えと、僕は料理が趣味で……ハンバーガーを用意して来たんです。バンズとパティと、その他もろもろ、ホットプレートはバンズとパティを温め直すのに使います」
「……先生って家庭科教師でもないのにいいんですか?」
尾池が怪訝な顔をすると、二見はにこっと笑った。
「最近気づいたんだけどね。校長とか教頭とかに前科学部顧問の話を出すとね……判断力がバグってね。わかりました調べるのはやめにしますがその代わりになになにをやります。と言うと、それならいいだろうって絶対返ってくるの」
やたらたくましいなと尾池は思ったが、黒松と食野は少し引いていた。
「じゃあ、鉄板が温まったらパティとパン焼いてバーガーパーティーを始めるよ」
構わずにホットプレートの準備をしながら、二見はそう言った。
それを聞いて食野もいそいそとクーラーボックスを開け、中の見えないタッパと使い捨てのビニール手袋、アルコールスプレーなどを取り出した。
開けられたタッパの中の食材は、パティも含めて尾池には既に調理済みの様に見えた。
「これからまた焼くんですか?」
「生のままだと痛むの早いから、先に火を通しておいたものを焼いて温めようかと」
へぇと相槌を打ちながらさらに見ていると、尾池はパティというテープの貼られたタッパが二種類があることに気づいた。
「パティ二種類あるんですか?」
「あ、パティは、普通の以外に、尾池さんは色々な生き物が好きだって黒松さんや二見センセから聞いたので……変わり種を。嫌だったら普通のも用意してあるけど」
そう言って食野が一つそれまで開けていなかったタッパを開けると、カレーの香りがふわっとしてワニの手の肉が目に入って来た。
「いいですね! ワニ肉!」
できれば生で見たかったとも尾池は思ったが、それで衛生的に問題が生じてはどうしようもない。
「その、バーガーでは食べにくいから、ホットプレートで温めた後、ちょっとバラして骨とって挟む予定だけど……よかったら尾池さん自分でバラす?」
いいんですかとさらに目を輝かせる尾池に、少し戸惑いながら食野は頷いた。正直ちょっと引かれることも食野は覚悟していたし、実を言うと二見の提案したそれはもっとえぐかった。それを受けてせめてこれぐらいにというのがワニ肉だったのである。
少しほっとしながら食野は人数分のバンズと三人分のパティ、そしてワニ肉を温め出した。
「あれ、ミルワームはやめたの?」
二見が言うと、食野はこくりと神妙に頷いた。
「いや、ミルワームは、流石にちょっと刺激が強いかと思って」
「そだネ、うん、そこは普通ならブレーキかけて正解ヨ。普通はネ」
黒松も食野の言葉にうんうんと頷いたが、尾池はミルワームも一回食べたいですねとボソリと呟いた。
「あれ、そういえばこの人数だとパンもパティと一組あまりますけどどうするんですか?」
その言葉に、食野は二見をちらっと見て、二見は大丈夫と答えた。
「アリ、おいで」
食野がそう言うと、ワニ肉に夢中だった尾池はそこでやっとなぜ自分と会わせているのかの理由の一端を思い出した。
呼ばれて衝立の奥から出て来たのは、ウーパールーパーが立ち上がった様な生き物だった。先まで丸い尻尾の形や、猫のような形の口は哺乳類を思わせる形で、頭に被ったバンズ形の帽子が可愛らしい雰囲気を作っていた。
アリは、短い足でとてとてと歩くと、ホットプレートと尾池の弁当箱を覗き込んだ。
尾池はアリの観察をしながらも、少し黒松の反応が気になったが、黒松も当然という感じで見ていた。
「……その子は食野くんのとこでよくご飯ご馳走になるケド、見つけたのうちの妹だしネ。基本うちの子ヨ」
なんで尾池がアリを見ていると、アリは尾池の弁当からレンコンの煮物を取って食べた。
「あ、アリ! 人のものを取ったらダメだって!」
「いいですよ、ワニ肉貰いますし」
ごめんねと謝る食野に、尾池は大丈夫と返しながら、アリの食べ方を見ていた。
哺乳類は食肉目の生き物はそれなりの比率で餌をのむ。切歯や犬歯、臼歯といった歯を使って飲み込めるサイズに肉を切り裂き、飲み込むのだ。その為、ネコの様に特に肉食傾向が強い場合、ヒトや草食動物の様にすり潰す役割を臼歯は持たずピッタリとは噛み合わない。さらに、のむ為か口にエサを含む時間も短い。
逆に草食動物の場合、切歯で噛み切り臼歯ですり潰す。馬などが顕著だがその為に切歯の集まる顎の前部と臼歯の集まる顎の後部との間には時としてひどく隙間もあったりする。本来消化し難いものを餌にしている為、牛の反芻に代表される様に口の中でもよくすり潰す。
アリを見ているとき、尾池は普通に食べているなと感じた。その第一印象が出てくるのは、人間に近い食べ方をして見える為、尾池はそれを見てあまり偏りのない雑食なのだと結論付けた。
「ところでサ、尾池ちゃんとこにもいるよネ?」
黒松に言われて尾池は一瞬驚いたが、考えればこの場で明かすということはそういうことである。
「黒松先輩、七美のことは部長から聞いたんですか?」
「いや、二見先生からヨ」
なるほどと頷いて尾池は二見をちょっとじとっとした目で見た。言葉足らずだったのは適当なのかわざとなのか。
とはいえちゃんと考えれば、食野からアリの話を聞くならば尾池も七美の話をするのは自明、わかっている筈と思われても仕方ないといえば仕方ない。
尾池が七美の入ったバケツを前に持ってくると、アリはそのバケツを覗き込んでツンツンと指で七美をつつこうとした。
「この子は七美って言います」
ところでワニ肉ってそろそろほぐしてもいいですか?と尾池が聞くと、食野はこくこくと頷いた。
それから少しの間、普通に食事が続いた。尾池はワニの手を鱗の内側のプルプルとした部分まで堪能して、調理前の写真ももらって連絡先を交換した。
「さて、大体食べたところで、黒木先生について話をしようか」
尾池はその名前を聞いた時不思議な体験をした。聞き覚えがない様な気がするのに明確に知っているしわかっている様な気がしたのである。
他の反応を見てみれば、黒松は少し固い表情になり、食野は急にびくりと肩を震わせた。
「黒木先生は、前の科学部の顧問の先生で、食野君の一年時の担任の先生。そして、食野君が学校に来なくなった理由、そうだったよね?」
食野はゆっくりと少し辛そうに頷き、黒松は食野にそうさせたことを責める様な目を二見に向けていた。
「食野くん、大丈夫だよ。ここにいるのは君の話をおかしいと思わない人達じゃない」
だから話してみてと、二見は食野に話をする様促した。
「……その前日まで、僕は、風邪を引いて学校を休んでいたんだ。教室に行ったら朝礼で入ってきた先生は担任の先生じゃなくって、誰もそれに触れなかった」
食野の声は少し震えていた。
「僕がいない昨日何かあったんだと思って友達に聞いて回っても何もなかったって言われて、黒木先生は? と聞くとみんなもういないよって返してくる。なんで? と理由を聞いてももういないからいないんだよって返してくる。それ以上追求してもみんな僕のことが変だって言ってきて、おかしいって言って来た。まるで、僕一人だけが違う世界に迷い込んだみたいだった。先生に聞いても同じ様な返事で、クラスメイト達の間で風邪引いてる間に僕がおかしくなったって言われ始めた。それで……僕は学校に行けなくなった」
そう言った後、食野は黒松の方をチラリと見た。
「最初に話を聞いてくれたのは、細工さんだった。細工さんも、僕が言うことが変だったことは実感できないみたいだったけど、妹のかいちゃんを同席してくれて、自分が変だと実感しないのは変だってそう言ってくれた。その後、三月ぐらいにはアリを連れてきてくれたり、四月から新任の先生が、二見先生がいるって教えてくれて……もしかしたらって話してみたら話が通じて、それで僕はクラスにはまだ行けないけど学校には来れる様に」
二見の方をちらっと食野が見ると、二見はありがとうと穏やかに微笑んだ。
「尾池ちゃんが気にしているのは黒木先生と当時の科学部。食野君は科学部の知り合いがいなかったからよく知らなかったみたいだけど、確かにその日からいなくなった科学部の人数と一致する数の生徒の記録がなくなっているね」
その子達の名前は調べてもわからないのよねと二見は残念そうに呟いた。
「尾池ちゃんは、この話を聞いてどう思った?」
「え?いやぁ……普通にやっぱこれおかしいなって……」
それ以外の感想なんてあるだろうかときょとんとしながら尾池が呟くと、食野は少し目に涙を浮かべながら深く頷いた。
尾池はその食野の反応に少し引いた。
「……食野くんは今までずっと、本当は自分がおかしいんじゃないかと疑い続けたたの。黒松さんやその妹さんは元から懇意にしているし、私は先生という立場があるでしょ? 科学部の尾池ちゃんならわかると思うけれど、私達は皆、客観的な第三者と言うには私情や立場が入る余地がある」
なるほどと尾池は頷いた。正直想像はし難いけれども、納得はできる。
よほど気にかかっていたのだろう。それから昼休みが終わるまでの間、食野はずっと今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
放課後になって、尾池はまた旧理科準備室を訪れた。
そこには当然の様に二見がいて、尾池が何か言う前に話し出した。
「……尾池ちゃんには言ってなかったけど、食野君のことも私が調べてた理由の一つだったの。そして、校長先生と教頭先生のバグみたいなルールがわかったことでやっと調べられた事がある」
二見が話そうとするのを、尾池は手で制した。
「……食野先輩が風邪を引いていた日に、普段は学校にちゃんと通っているのに休んでいた人が一人だけいて、それが部長……ってですか?」
その日、学校にいたかどうかが鍵ならば、部長もいなかったというのは当然の事だ。
「そう、だから食野君と引き合わせたい気もするの、でも……幽谷さんは信用していいのかどうかよくわからないというのも私の本音」
二見はそう言って、困った様に笑った。
「それってどういうことですか?」
「私への態度から、幽谷さんが食野君と似た立場にあると考えることもできるけれど……科学部で一人だけ休んでいたというのが都合良過ぎる様にも感じるのよね」
尾池はそうですねとは頷かなかった。幽谷と硯石に不信感はあっても、この考え方の行き着く先は少し認めたくなかった。
「それって、何が起こるかあらかじめ知っていて、自分だけ避難したって事じゃない? そうなると伝えるのが間に合わなかったか取り合ってもらえなかったか、あるいは、幽谷さんが、それを行った側であえて知らせなかった。ということになるわね」
「そうだとしたら、新任じゃない顧問を認めなかったりした辻褄が……」
「影響から逃れた人間の存在を危惧していたのかもしれない。やっていること自体よくわからないけどなんかすごいことの割に、学校を休んでいたら効果範囲の外側にとなる雑さもあるしね」
それでと二見は言うと、旧理科準備室の扉をがらりと開けた。
「黒松さんは、どう思う?」
「アラ、見つかっちゃいましたカ」
扉の外で聞き耳を立てていたらしい黒松はそう言って、わざとらしく笑ったが表情は少し不機嫌そうに尾池には見えた。
「……雅火は科学部大好きだったんで、私はたまたまだと思いますけれど」
そう言った声は少し低く、二見を非難するようだった。
「ちなみに、どこから聞いててなんで聞き耳立ててたのかも教えてもらっていい?」
「そうですネ、最近雅火がピリピリしてるのは知ってたからですカネ。私に言えない話をしてるんじゃないカナ……なんて」
黒松はそう言って、目だけ笑ってない笑顔のまま二見を見つめた。二見は少し困った風ではあったが悪い事をしたつもりはないらしかった。
そんな二人を見て、尾池は正直ちょっと居心地の悪さを感じていた。
「……あの、私としては色々わからないことも多いですし、黒松さんにも話聞いて欲しいんですけれど。昨日も色々ありましたし」
少しでも話題を変えたくて尾池はそう口に出した。でも、それがそこまで離れた話題に移ってないことには気づかなかった。
「鵺の件? 雅火は尾池ちゃんは連れていかなかったって言ってたケド……」
黒松が怪訝そうな顔をしたので、尾池は鞄の中から白い台座と繋がっている水色の球体を取り出して、ことと机の上に置いた。
それを黒松や二見が手に取ったのを見て、尾池は話し出した。
「昨日、もみあげグレープゼリーから仲間にならないかと誘われたんです」
「もみ……なんて?」
「尾池ちゃん、最初から説明しないと……」
黒松の怪訝そうな顔が困惑に変わり、少し微笑んだ二見にそう言われて、尾池は最初から黒松に説明した。
科学部が都市伝説や怪談話を聞いてその原因となっている超常的な力を持つ生き物達を駆除している事、その活動の中で出会った二体の言語を操る個体の話。そして、聖剣の言うそうした生き物達をこの世界にばら撒いている魔王の存在。
「で、ここからが昨日の話なんですけれど、昨日もみあげグレープゼリーと仲良くしていて普通の人間の動きじゃない人に英語を教えてもらって……なんやかんやあってもみあげグレープゼリーに幾らか質問できたんですけれど」
「ボケてはないのよネ?」
尾池は困惑する黒松の言葉によくわからないと首を傾げた。黒松はこの子雅火よりやばいワとボソッと呟きながら話の続きを手で促した。
「で、魔王がそうした子達をばら撒いた理由は、魔王と敵対する聖騎士みたいな存在がいるらしくて、撹乱の為にばら撒いたらしいんです。どうやら、今は薔薇騎士というのがこの世界まで追って来ているらしいです」
「そういうの同士が戦ったらやばいんじゃないノ? さっき聞いた話だとサ」
「そこは大丈夫そうです。そのもみグレ曰く、薔薇騎士は人間を蔑ろにしないので住宅地にもみグレがいる限り大量殺戮が匂わされるから派手に戦えないそうです」
それ大丈夫なのかなと二見が呟くと、黒松もうんうんと頷いた。とても大丈夫には聞こえない。薔薇騎士がやむを得ないと判断したら即殺戮されてしまう。
「それで、少なくともそのもみグレはもう撹乱の必要はないだろうという事で、そうしたのを回収しに行っているみたいです」
「んー……じゃあ、この世界にばら撒かれている子達の問題は時期収束するってこと?」
二見の言葉に尾池は首を振った。
「いや、もみグレは十数体いるらしくて、そのもみグレは一緒にいる人間の考え方に則った結果が回収という行為みたいなので……」
「他の水虎将軍がどうするかはわからないのネ」
「そうです。で、昨日あったそのもみグレから帰り際にこれを……」
尾池はそう言って、さっき出した台座付きの水色の球体を指差した。
「もしも、自分達の仲間になるならばこれを使うといいって……」
それは帰り際、メリーに見えない位置で渡されたものだった。
「その文句と渡し方はすごく怪しいわネ」
「それを使うとどうなるって?」
「七美が強くなるって。部長の持っている卵とか、私が副部長からもらったお守りみたいな類の道具だとは思うんですけれど」
尾池は、携帯についたお守りを触りながらそう答えた。あの時は中身の塊がなくなっていたが、今はまた袋の中に塊を感じる、ただ、少し形が歪になった様な気もしていた。
「セールスのテクニックかなんかで、試供品とかでいいものを先に渡しておいて、断りにくくするみたいなのがあったと思うけれど……」
「仲間になるなら使え、とは繋がらないですネ。中毒性がある道具とかカモ?」
「なんにしても使わない方がいいですかね」
尾池がそう言うと、二見も黒松もつんうんと頷いた。
「それにしても、全体的にわからないことばっかネ。魔王の目的がわからないから何に行き着くのかもわからないシ、ばら撒いているのが撹乱なら本命としては何が起きてるのかもわからないシ、ついでに言えば魔王側でもそれに敵対する側でもなく怪我ぐらいで誰かがいなくなったみたいな被害に遭ってない尾池ちゃんがなんで関わってるのかもよくわからないワ」
「えと、面白い生き物がいるところに行くのにそれ以上の理由っているんですか……?」
「あー……うん、尾池ちゃんはそういう子なのネ……」
「黒松さんは、幽谷さんが関わる理由はわかるの?」
二見に聞かれて、黒松は一応頷いた。
「……十中八九が科学部絡み、そして科学部絡みってことは鮟呈惠先生絡みヨ」
黒松の口から出た言葉はもう黒木と言っているとわかっているのにやはり不明瞭な様に感じた。
「……雅火はね、高校上がるまでは割と鼻につくタイプだったノ。今も自分勝手だケド、もっと勝手で強引で自分について来れないやつが悪いって感じだった。私と仲良くなる前はもっと酷くて、他人との折り合いは私が付けてくれるからと自分は他人に譲らなかった。科学部に入って本当によく変わったノ」
しみじみと黒松は言った。
「それじゃあ、部長が科学部に何かしたっていうのは……」
「ないわ。雅火は科学部に何があったか調べて、それで……復讐をしようとしているんだと思う、ワ」
黒松はそう断言した。最後だけ取ってつけたように変な発声をしたが、それまではかなり真剣なトーンに聞こえた。
「復讐って……」
「食野くんの話を聞く内に、雅火からも同じような話を一度だけされたのを思い出して、科学部の子達の家族について調べたノ」
尤も、雅火はその後聞きに来なかったけどと黒松は自嘲気味に呟いた。
「どうやって? 私が調べた時は部員の情報は学校とかで調べられる範囲にはどこにも……」
二見の言葉に、黒松は自分の頭を指差した。
「私は、多分その神隠しに伴う洗脳状態の影響下に置かれているからかわからないですケド、それを変だなと思う事はできない代わりネ、私の記憶の範囲内でその人達の情報はあるんデス」
そう言いながら頭をトントンと叩いた。
「つまり、学内にいる他の知ってる筈の人に聞こうとすると、無条件で反発されますケド、私自身が既に知ってる情報を元に調べる分には問題なかったノ」
なにそのバグみたいな挙動と二見が呟いたが、黒松は反応しなかった。
「結論から言うと、家族もいなかったワ」
「え……」
尾池の口から変な声が漏れた。
「雅火の一家を除いて、ネ。近所の人はおかしいとは思っているみたいだったワ。夜逃げする理由もないのにって、でも、抵抗したような痕跡とかもなく、まるで皆ふと思い立っていなくなったとしか考えられない消え方をしているみたいなノ」
「私が調べた限り、部員は幽谷さん以外に五人いたみたいだけれど、その全員の家を調べたの?」
二見の言葉に黒松は頷いた。
「生徒は全員調べましたヨ。うちの高校は入学直前に引っ越してきたとかでなければ、大体近所の幾つかの中学のどこかしらの卒業生ですし、それと雅火から聞いて知っている名前がわかれば中学の後輩トカ、伝手を辿って住所を調べるぐらいはまぁ二週間もあれば……」
「黒木先生も?」
今度は黒松は首を横に振った。
「先生は無理デス。車通勤の範囲は広いですシ、私の知り合いを辿っていくには年齢も離れ過ぎているワ」
「そう……ちなみに、家の中に手がかりとかがあったかは……」
「私にはなんともデス。調べているとすれば警察の資料にあるかどうかってとこでしょうし……雅火ならわかるかもですけれど」
黒松も幽谷が警察関係の情報をリークさせていること知ってるんだと尾池は思ったが、ふと冷静になると、なんで会って二か月の自分にも知らせているんだろうという気がした。
「部長は、どこまで何を知っているんでしょう……」
「わからないケド、実は噂の中には雅火には伝えてなかった噂が幾つかあるのよネ」
「どんな噂ですか?」
果たしてそれが役に立つのだろうかと思いながらも、尾池はそう黒松に聞いた。
「神隠しに繋がりそうな噂。だけど、信頼が置けるかがわりと怪しくて伝えなかった噂」
思ったより関わっていそうな噂に、ごくりと尾池は唾を飲み込んだ。
「一つはきさらぎ駅の噂、これは実に有名な怪談で都市伝説だけど、その駅への行き方って噂がある。体験談は……本人のものはなし、帰ってこられない系の話であるから、当然なんだけど」
「もう一つは?」
「ファッションセンターしまむらはエルフのいる異世界に繋がっている」
「ふざけてるんですか?」
もみあげグレープとか言ってた人がそれを言うかと黒松は思ったが、とりあえずその言葉は呑み込んだ。
「ふざけてはないんだケド、これは元のネタが既にちょっと特殊なのよネ。都市伝説や怪談話は、基本的に中高生以上の間で主に広まるものでしょ? だから、一定の信じられる理屈や何かがありがちなのヨ。でも、この話は、2000年代に小学生の間で広まった噂を雑誌か何かが拾ったものがネットで広まったものデ。つまり、子供達が発祥の噂であり、今回のも例に漏れず子供達からの噂なノ」
「よく子供達の噂なんて拾えましたね」
クラスメイトに毎週金曜は学童でバイトしてる子がいて、子供達の話に付き合うためもあって私に話を聞くんだと黒松は説明した。
「さて、今回のそれなんだけども、私が聞く限りは体験談はめちゃくちゃあるワ。でも小学生の男の子って張り合う子も少なくないから……自分も知っているんだぞと見栄を張っているのかもしれなくテ、だから信憑性がわからないノ。大人の体験談が見つからないしネ」
「じゃあ、ないんじゃないですか?」
「かもネ。子供の目線と大人の目線は大きく違うワ。大人は吊り下げられた大人用の服があってもその上からものを見られるけれど、子供はそれに遮られてしまうシ、大人にとってはただ吊るされた服でも、子供はその間に挟まり切ってしまうこともできるカラ。広い店舗はちょっとした迷路の様に感じる、のカモ。」
でも、と黒松は続けた。
「私達があまり目を向けない低いところにその異世界への入り口があった場合、子供だからこそ見つけられル、という事も考えられるデショ? 常識的に考えてあり得ない、はもう私達には疑う理由にはならないワ」
確かにと尾池は頷いた。
「白亜紀の恐竜について、火山の近辺から頭が低い位置にある恐竜は火山ガスを吸い込んで死ぬことがあり、ティラノサウルスに代表される二足歩行の恐竜は頭が高い位置にあるのでそうしたガスの影響を受け難く、ガスで死んだ恐竜の屍肉を喰らっていたこともあったのではないか。みたいな話は何かで聞いたことがあります」
まぁうん身長が影響する事柄としては同じネと黒松が返すと尾池はさらに続けた。
「閉じ切った店内で気を失わせる類のガスを出していた場合、そのガスが低いところに溜まるものであれば、それを子供が吸い込んで、エルフ……多分、七美達の同類が眠っている内に一度連れ去り、なにかの処置をして戻した。みたいなことは起こり得る……のかも」
「……雅火に内緒で調べてみる?」
「ん? 黒松さんは幽谷さんを信じる立場じゃなかった?」
二見がそう言うと、黒松は少し嫌そうな顔をした。
「それはそうですケド、雅火は元々自分が自分がってタイプだから、打ち明けてもらうには餌がいるんデス」
「今までみたいに協力しないじゃダメなんですか?」
尾池が言うと、黒松は絶対だめヨと返した。
「それ、やられる側の立場だと印象悪いわヨ。いつものやつは継続しつつ、別で手に入れた有益な話で交渉するノ。交渉に失敗しても関係は残るしネ」
「さて、つまりはそういうことでいいの? しまむらってどこにあったっけ、車なら出せるよ」
「それは願ってもないんですけれど、行き先はしまむらじゃないんです。元々しまむらが入ってたところに居抜きみたいな形で入った。地元の洋服店なんです。地元の人からはしまむらって呼ばれているだけで」
黒松の言葉にややこしいと二見はつぶやいた。
妖精ってそいつかー! というわけで夏P(ナッピー)です。
バトルが無いとか起伏が無いとか言われつつ、話の展開がむっちゃ不穏だったので、買い物に出かけて妖精さんを見かけた時はアカンまた血を見ると思いましたがそんなことはなかった。というか、またここにも現れたか水虎将軍。サイバイマンばりに量産されてるな!? 地味に相関図の×十数体がその文字列だけで面白過ぎてダメだった。
黒松パイセンはやっぱり話の広げ役としては有能過ぎますが、ここは一撃で当たらずとも遠からずなヒントというか正解ズバリを雑談で引き出した尾池クンが有能だったのかもしれない。なるほど恐竜の絶滅の原因からの異世界に繋がるしま〇ら……感服いたしました。メリーちゃん(?)も登場したばっかなのにさっそく呼び出されて活躍、お役立ちキャラじゃないか!
ではこの辺りで。次回もお待ちしています。
あとがき
今回はバトルなしの回だったので、ちょっと起伏が少ない感じではあると思うんですが、へりこは尾池ちゃんにワニ肉食べさせられたので一定の満足感があります。
内容に関してはそもそも説明回ですからね、アリも七美と同じに3月に拾われているが、将くんとよばれている水虎将軍は一年前にいるとか一年と少し前にばらまかれたと言われているとか、まぁ色々時期のそれが次回は関係してくるところではあります。
次回こそは、きさらぎ駅、の予定です。
おまけ
相関図と、現時点で出ているそこそこ主要人間キャラ達です。
では、また次回お会いできることを楽しみにしております。
「そういえば、この辺りには隙間女の話もあるのヨ」
二見が車を駐車場に停めると、ふと黒松がそんな話を始めた。
「隙間女、ですか?」
「そう、本来人が入れるはずのない狭い隙間に収まっている女の怪談、類話には隙間男もある。とは言っても、これは人がいるはずのない場所から視線を感じるという恐怖体験からのだからサ、本当にそういう存在がいたというよりはストーカーとか統合失調症とかそういう超常的なそれよりも現実的な理由が疑われるパターンネ」
「なるほど……でも、服屋さんなら、服と服の間にということもあり得ない話じゃなさそうですよね」
尾池の言葉に黒松は頷いた。
「確かに、全くあり得ないとは言えないわネ。子供と同じ目線にはなれない分、子供の目が届きそうな低い場所の隙間を見ていこうかしらネ」
「じゃあ、二人が調べている間、私は車で七美とアリと待っていればいいのかな?」
二見がそう聞くと黒松は首を横に振った。
「いえ、アリは変装用の子供服あるので……」
高校連れてくる時にも使ったからと言いながら、黒松はアリに子供服のシャツやスカート、靴を履かせていった。
「スカートなんですね」
「それはね、ズボンだと尻尾が隠せないし足の長さも合わないからヨ。それでも頭と体、足の大きさのバランスが合わないから基本的には抱きかかえていくつもリ」
黒松が抱きかかえると、アリは小さな手で黒松の服を掴んだ。
「……そういえばなんですけれど、アリって戦えるんですか?」
「ん……それは、やったことはないわネ。なんか不思議パワーで塊肉をミンチ肉で包み込んでミンチ肉にしているのは見たことあるケド……」
パティで包めない相手とは戦えないかもと黒松が言うと、尾池はちょっと唸った。七美は水から離せない、つまり服屋の中では当然無理で、やはり戦力にならない。
「硯石君呼ぶ?」
二見の言葉に尾池はちょっと複雑な顔をした。
「副部長は……部長との関係がよくわからないので、部長に対しての交渉材料を手に入れに行くと考えると避けたいです」
「なら、どうしよっか?」
黒松は当てがなく、二見にも当然それは期待できない。一方で尾池には心当たりがまだ一人いた。
「……メリーさんを呼びます。あの人は基本的な見た目は普通の人ですし、囮要らないなら駆除しようってもみグレに言ってた人ですから」
「信用できる相手ナノ?」
「……正直わかんないです。まだ会って程ないですし、でも、お人好しだとは思います」
尾池の言葉に、黒松はうーんと首を傾げた後勢いよく頷いた。
「よし、じゃあ呼ぼうカ」
いいんですかと尾池が聞くと私は尾池ちゃんの感覚を信じると黒松は笑った。
「それに、雅火の動きは向こうも気にしてるかもしれないシ……うまく話し合えれば雅火に提示する情報を同意アリで聞くこともできるかもしれない」
ですよねと黒松が二見に確認の視線を送ると、二見もそうだねと頷いた。
尾池がメリーにメッセージを送ると、メリーからの返信は即座に来た。
「すぐ来るそうです」
尾池がそう言って数分すると、駐車場のマンホールが一つ外れて中から水の膜に包まれたメリーが上がってきた。
「……メリーさん、いつもその移動してるんですか?」
「あ、え、いや違うの……本気で走ると車ぐらいの速さになって目立っちゃうから、将くんにお願いして匂いはつかない様にしてるし……」
メリーが中から水の膜を杭で刺すと水の膜はパンと割れて地面に落ち、一つにまとまりながらマンホールの方へと消えていった。
「えと、黒松さん。この人がメリーさん」
「で、メリーさん。この人が学校の先輩の黒松さんと、アリ」
「あ、この人もデジモン知ってる人なんだね……」
この子達ってデジモンって呼ばれているのかと尾池は思ったが、特に触れなかった。
「黒松 細工、好きに呼んでネ」
黒松が手を出すと、メリーは手を服でごしごしと擦ってから握手した。そのあと黒松がアリの手も差し出すと、にへらと笑いながらその手も掴んだ。
「細工ちゃん。よろしくね」
「車にいるのは部の顧問の先生で、今回は七美を服屋に連れて行くのは流石にちょっと場違いなので、車で見てもらいます」
車の中から二見がメリーに向けて手を振ると、メリーは少し首を傾げながら手を振り返した。
「それで……その、えと、今回私はなんで呼ばれたの?」
「……尾池ちゃん、なんて言ってメリーちゃん呼び出したノ?」
「すぐ来れますかって言って、住所送りました」
今度から用件も書こうねと諭した後、黒松が大体の経緯、デジモンに関わっていて少し暴走してる疑いがある人がいること、取り返しがつかなくなる前に止めたいから交渉材料がいること、ここで起きているかもしれないことがその交渉材料にもしかしたらなるかもしれないことをメリーに説明した。
「そっか……えと、じゃあ、成果が何もなかったら、その神隠し事件に関して私から将くんに聞いてみるよ。仲直りできないままなのは、辛いだろうし……」
「え、いいの?」
黒松が思わず素で返すと、メリーはうんと頷いた。
「で、でも、私が聞く限りは将くんの仕業ではないと思うから、情報は使えないかもしれないけど」
「そうなんですか? あんな、液体が関わればなんでもできそうなのに」
「うん、将君はね、液体ならどうにかなるけど気体は直接どうにかできないし、自分の体から離れたところで水を集めたりはできても、その水を特殊なものに変えるには直接触れてなきゃできないの」
ふむと黒松と尾池が頷くと、少し考えながらメリーは続きを話した。
「だから、えと、そもそもそれができるかわからないけれど……特定の事柄を忘れさせたり無関心にさせる液体を作ったとしても、できたとして貯水タンクに混ぜるぐらいで、水道水を飲まない人は液体の量が足りなくて洗脳できない。やろうと思えば、人を連れ去るぐらいはできると思うけど、人を連れ去る時に全く痕跡を残さないのも難しいと思う」
メリーの言葉に、これを雅火に伝えればそれだけで交渉に入れるんじゃないかと黒松は思ったが、黙っておいた。手札は多い方がいいし、メリーに関して尾池はお人好しと言っていたから、親交を深めるだけでも十分意味があると考えたのだ。
それじゃあ行きましょうと尾池が言うと、アリを抱えた黒松とメリーも続いた。
その店に入ると少し甘い香りがした。何かの花の香りだろうか、そういうアロマでも焚いているのかもしれない。
そう思いながらとりあえず尾池達は奥の方へ向かった。
「尾池ちゃん、買いたいものとかある?」
「へ?」
尾池が首を傾げると、試着室の中も調べたいでしょうと黒松は当たり前の様に告げた。
「小物や上着じゃ試着室入る必要ないから、トップスかパンツかスカートか……」
本当によかったら買ってもいいかもと、黒松と尾池は話しながらズンズンと奥に進んでいく。
「私、リアル目の動物とか鳥とか魚とかの柄がいいです」
奥に行くに連れ甘い匂いが濃くなって行くのがメリーには少し不快だった。
「そういえば雅から聞いたけど、尾池ちゃん自作のシャツよく着てるんだって?」
なんとなく視界がぼんやりとし、気分は浮き足立っていく。尾池は黒松の言葉にエルフや異世界への入り口のことなど忘れてからからと笑った。
「今も着てますよ? ほら」
ふと、尾池がシャツのボタンを外して中に着ていたダルマオコゼのイラスト入りTシャツを黒松とメリーに見せつけた。
一瞬、メリーはそれを受け入れかけたが、頭がズキズキと痛むと共にそれがおかしいことに気づいた。
「うーん、こんな強烈な柄着てるなら上着は柄とかない方がいいんじゃないカナ?」
黒松は尾池がおかしいことに気づかず、むしろもっとよく見せてと尾池のシャツのボタンを外しに行くぐらいだった。
少し遠くに見えた店員も、確かにこちらを向いていたのに二人の奇行に触れもしない。
あっという間に正気を失った二人を見て、メリーは靴紐を結ぶふりをしてしゃがみ込んだ。
説明の際にメリーは尾池から火山ガスと恐竜の話を聞いたのを思い出したのだ。空気より重いガスで屋外だから恐竜の場合は背の高い恐竜が有利だった。子供だけが異常を感じたこの場合は、その逆、高い位置に原因となるガスが蔓延しているかもしれないと、そう思った。
しゃがみ込むと甘い香りがかなり冷めた。そして、その場で三回深呼吸をして頭を低くしたまま顔を上げるとメリーは一瞬びくりと身震いした。
立っていた時に店員に見えたのは人ではなかった。
花の妖精とでも言えばいいのだろうか。ピンク色の花を頭に被り、腕も脚も花、翼に蝶の翅の様に生えていたのも同じようなピンクの花、花が人の形を取ったという表現以上のものが難しい姿をしていた。
サイズは三メートル弱、人より一回り大きいぐらいではあったが、メリーはlevel5であると直感した。
「……エルフも、妖精だったっけ」
メリーが呟くと、そうだヨと黒松が明るい声で答えた。
ちらりちらりとメリーが見ていると、花の妖精の方から甘い香りが立ち込めていることに気づいた。
つまり、この都市伝説の正体はこうだ。
幻覚か錯乱作用のあるガスか何かを出している花の妖精が店員になりすましている服屋というのが、エルフのいる異世界へ繋がっている服屋の正体だったのだ。
出しているガスは空気より軽いのか、もしくは成人の顔の高さになる様にされていて、子供はガスの影響を受け難い。その為、子供は花の妖精の姿をある程度認識できているし、軽い錯乱陶酔体験から異世界にいた様に感じたのだ。
「……私、尾池ちゃんはワンピースとかも似合うと思う」
メリーはそう言いながら自分の口元を裾で覆い隠しながら立ち上がった。尾池と黒松がこの状態では危険過ぎて戦えない。そもそも、店員に扮しているということは、人間と共謀しているとも捉えられる。
まずは手早くこの場から去ることである。買い物を終わらせるか、無理やり中断させるか。
メリーが選んだのは買い物を終わらせる方だった。
尾池と黒松は前向きに買い物をしている。買い物の内容はそこまで壊滅的な爆買いとかでもない。買い物が楽しくて他の事が気にならないといった風にメリーには見えた。
それが花の妖精の意図した効果である場合、買い物を中断させるのはリスクがある。
「さ、早く試着室行こう?」
尾池が試着室に入るよう促すと、メリーは一緒に試着室に入って尾池の頭を下げさせた。
最初は尾池はそれに困惑していたが、一分もすると自分の状態に違和感を覚えるようになった。
「え、あの、これって何が起きてるの……?」
「と、とりあえず、後で説明はするから、一旦買い物を終わらせよ?」
メリーに言われて尾池はこくりと頷いて試着も早々に試着室を出た。
尾池は試着室を出ると、息をしないよう本人は気を遣っているつもりだったが、メリーの横でみるみる内にふんわりしていき、レジまで行く頃には既に黒松と変わらない状態になっていた。
そして、それを見ているメリーも、睡魔に誘われていくように買い物以外についての考えができなくなっていく感覚があった。
ようやっと買い物を終えて店を出た時には、メリーの手は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「ふぅ……細工ちゃんは、何が起こったかわかってる……?」
メリーにそう問いかけられて、細工はあれと首を傾げた。
「普通に買い物したのは覚えているんだケド、なんか楽しくて、他の事が全部頭から抜けてたわネ」
やっぱりそういう感じかとメリーは深呼吸しながら頷いた。
店の中に入った途端に変になるならばもっと早く気づくのだ。少しずつ思考力が奪われて、少しずつ思考力が戻ってくる。深く吸い込んでいる時にひどく異常な行動をしていたとしても、それをなんか変だなと思う時点で対処してしまう。完全に判断力が戻った時には異常行動自体を忘れてしまっている。
残るのは楽しく買い物したという実感と手元の商品のみ。人間は記憶を補正すると言われており、実感と現物があれば細かい記憶がなくてもそんなに気にすることもない。
一度車に戻り、メリーが記憶した全てを話すと、尾池達もなるほどと頷いた。
「で、どうしようか?」
二見に言われて、尾池はなぜ聞く必要があるのかわからないとカメラアプリを立ち上げながら首を傾げ、黒松はむむむと唸った。
「雅火にここの話をするならば、多分それは手付かずの方がいい、ということですよネ」
「そういうこと。尾池ちゃんは見に行きたそうだけどね」
そう言われてやっと尾池も頷いた。確かに、幽谷にこのことを説明するならば、勝手にそれに対応するよりも幽谷が望む形を実現できる方がいい。
共謀してらだろう人間と話ができたりする方がいいと考えるかもしれないし、実際見て効果の詳細を確かめたいかもしれない。トラブルを起こせばそうした可能性は失われてしまう。
「ちなみに、メリーさんはどうかな?」
「え? いや、私は付き添いだから……」
「付き添いなりの意見が聞きたいって話。別に幽谷さんに関する話じゃなくてもいいの、例えば、それを悪いことだと思うから早く止めなきゃいけないとか、これぐらいはいいんじゃないかとか」
「……私は、わからないです。私のやることはよく裏目に出ますし、変な判断をしてしまうこともあるかもしれないですし……」
これ以上は無理強いできないなと二見はオッケーと言った。
「まぁ、他人の記憶を奪う程効果が強いものを同意なく吸わせている点で倫理的にはアウトかな。甘い香りがしたから記憶を失うだろうと思う人はまずいないよね」
「なるほど、貴重な意見有り難く拝聴しました」
二見の言葉に反応するように、ふと声がした。
唯一どこから音が聞こえたのかわかったメリーが車の下を覗くと、手のひら大の水の球に目と口が付いたような生き物がいた。
「失礼、危害を加えるつもりはありません。そちらのメリーと呼ばれたお客様はこちらの店長と立場を同じくする方のようですしね。今、ドリッピンではなく本体で伺いますので」
その言葉に尾池はごくりと唾を飲み込んだ。メリーがいるおかげで敵対する雰囲気ではないが、とはいってもという不安がある。
店の扉が開き、中からスーツの男性が出てくる。アレと思って見ていると、その男性は真っ直ぐに尾池達の前まで歩いて来て、ぺこりと頭を下げた。
「お待たせしました」
「へ?」
尾池が呟くと、この姿ではわかりませんかとその男性も呟き、首から上がどろりと溶けたかと思うと水虎将軍の首に変わった。
「接客するには人の姿の方が都合いいもので、普段は人に化けているのです」
その水虎将軍がそう言うと、メリーもこくこくと頷いた。
「さて、先程のお話ですが、できるならば我々の事は基本的に放置していて頂きたい」
「それは……」
「もちろん、完全に放置しろとは言いません。馴化が進めば心身のバランスを崩し判断力を損なう事も起こり得る。店長もlevel5への馴化が始まって間もない故に、判断力が低下し少し興奮した状態が続いて倫理的な問題が起きたのでしょう」
「つまり、現状から改善してくれると?」
「そういうことです。店長は親しい人からは真面目とかお人好しと呼ばれる質です。この状況を続けて何か問題が起きた後で落ち着きを取り戻したら、きっと後悔するに違いありません」
「本来はあなたがそれを諌めるべきなのでは?」
「確かに。耳が痛い話ですが、人間の倫理観を把握しきれていないもので、今回もお客様が楽しく買い物できるようにするだけだからと言われると、悪用でないならばそれでいいものなのだと、説得されてしまったぐらいです」
悪目立ちする前に修正できるならば頭を下げることぐらい安いものですと、その水虎将軍は言った。
その言葉を聞いて、メリーが動揺していることに黒松は気づいた。黒松はメリーが殺人者であることは知らないが、水虎将軍の関係者であることは知っている。きっと取り返しのつかないことをしてしまったのだろうと察するのは簡単だった。
「……これ、私の電話番号だから相談があればかけて」
黒松はメモ帳にサラサラと電話番号を書くと、その水虎将軍に向けて一ページ破いて差し出した。
「ありがとうございます」
水虎将軍がそう言って手を伸ばすと、黒松は一度その手を引っ込めた。
「最後に一つだけ聞いていい? ここを放置するには聞いておかなければいけないことだから」
「どうぞ」
「あの花粉を使って、この店の数倍ある建物の中の全員を永続的に洗脳して複雑な縛りを与える事ってできる?」
ふむ、とその水虎将軍は口元に手を当てて少し考えた後首を横に振った。
「無理でしょうね。一時的ならば複雑な洗脳で大多数でも負担はあれど可能ですが、花粉はすぐ体外に排出されてしまうので、どれだけ保たせようとしても一日でしょう。できるとすればそれを維持する為に一日おきに会わなければなりませんが、並のlevel5では花粉でなくともそうした洗脳の媒介とする物体の生成量が追いつかない」
黒松の反応を見ながら水虎将軍はさらに話を続けた。
「おそらくお探しの存在は私の様に汎用性が高いから洗脳もできるのではなく、能力が元々多数を洗脳する事に特化した上で経験豊富な個体であり準備期間も潤沢に用意したlevel5か、level6のデジモン。または、それ以上の存在です。まかりまちがっても一年と少し前にばら撒かれた卵から育った程度の個体ではない。多くこの世界に散らばった私でもない。聖騎士側の何かか我々側の追加の人員か……我々の世界側ではなくこの世界側の要因という事もあり得る」
「……この世界の?」
「えぇそうです。この世界にも伝承や何かはあるでしょう? その全てが明らかにできるものや我々が引き起こしたものとは限らないということです。我々の世界だと世界の維持機構の一部は人格を持って神を名乗り干渉してきますからね、この世界にもそうした存在がいるのかと」
そう言われて黒松は困惑した。確かに伝承の中ではそうした話は幾らでもある、ノアの方舟の逸話は神が驕り高ぶる人類を洪水で流すことを決めたから方舟を作る話である。
ふと、水虎将軍が店の方を見る。それを見て尾池も店の方を見ると入り口の方から眼帯をつけた女性がこちらの様子を伺っていた。
「では、服が要り用の際は是非また当店へとお越し下さい」
水虎将軍が去っていくと、メリーはふぅと深くため息を吐き、黒松も釣られてはぁとため息を吐いた。
「部長に言いますか? ここでの話」
尾池がそう聞くと、黒松は自身のこめかみを抑えた。
「……言うケド、切り出し方にちょっと悩むから、今日明日話す事はないと思う」
その返答に、尾池は自分はどうしようと少し考え、まぁ話す相手もいないかと考えるのをやめた。
二見の車で家まで送られながら、尾池はふと隙間女の噂のことを思い出した。
メリーはそれも幻覚がもたらしたものだと考えていたが、本当にそうだったのだろうかと。
気分が高まるのと幻覚は別の症状で、幻覚の働いた部分は、デジモンを店員として捉えるところ。つまりは何かがあるところにヒトを見出すもの。隙間という何もないところに存在しないものを見出すそれは違う様に尾池には思えた。
幾らかの動物は同種の動物を特別に認識しており、ヒトも例に漏れない。脳機能の障害によって起こる事例の一つに、人がいない場所に人がいる様に認識してしまうというものがある。そこには大抵何か別のものがある。
幻覚の性質がそうした、見えている範囲からヒトを見出す感度を異常に高めるものであれば、メリーが言ったことはあながち間違ってはおらず、一部のTシャツなんかをヒトと認識する事もあったかもしれない。
ただ、尾池にはどうしても服をヒトと認識してしまう状況で普通に楽しんで買い物できるとは思えなかった。
そう考えると、隙間女は幻覚とは別なのではと思う。
体が液状の水虎将軍か、もしかするとまた別のデジモンがいたのかもしれない。
そこまで考えて、まぁないかと尾池はその考えを振り払った。