◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
相棒としばしのお別れをして、待ちに待った“寄り道”に向かう。
「あの子達は第一階層かな? 良いペースだねえ」
なるべく鉢合わせないように、こちらもなるべく正規ルートを外れて移動する。
瓦礫まみれの塔の中。ほとんど壊しきったからか、もう防衛機の皆様からの歓迎は無いようだ。
だから警報も聞こえてこないし、何かが壊れるような音もしない。なんとなく、外から雨の音が聞こえてくるだけ。
その静けさがあまりに寂しいので──つい、気晴らしに歌でも口ずさみたくなってしまう。
さて、何を歌おうか。
長いことリアルワールドにいたくせに、ポップカルチャーな曲はあまり知らないし。
────そうだ、そういえば。
「……いーつのー、ことーだかー」
養護施設や学校やらで、やたらと歌わされた曲があったっけ。
「おもいだしてごーらん」
あんなこと、こんなこと、あったでしょう。
「うれしかったこーとー、……」
うっわあ、全然気晴らしにならない。完全に選曲間違えた。デスメタルとかにすればよかった。
……まあ、でも。久しぶりの一人の時間だ。
歌のように、色々と思い出してみるのも悪くない。
なーんて。
ちょっぴりセンチメンタルになってみる、(元)みちるちゃんなのでした!
*The End of Prayers*
第三十三話
「Memoria」
◆ ◆ ◆
自分の世界が好きかと問われれば、実の所はそうではない。
戦う事は得意だし楽しいけれど──知恵を持つ生命体のくせに、戦って強くならなきゃ生き残れない。そんな世界である事に、どこか矛盾を感じてしまうから。
ただ、自分がいるコミュニティは好きだ。
友達も好きだし、家族も好き。アタシの大切で、小さな世界。
家族と言っても、電脳生命体であるデジモンに血縁の概念は無いのだけど。データの塊が孵る卵だって、母体から産み落とされるわけではない。
そもそもデジタマが生まれる理由なんてものは、ほとんどが『転生』『継承』『眷属の増殖』、そして『無からの発生』だ。
アタシ達の関係はとても曖昧。良く言えば、ひたすらに自由とも言える。
だから自分達のように、盃を交わして誓い合うだけで────ほら、簡単に『家族』になれてしまうのだ。
「────我らオリンポス十二神。我らが神域の繁栄と自由の為、共に在り、共に戦い、共に生きる事を此処に誓おう」
オリンポス十二神。
リアルワールドのとある神話をモチーフとした、特定の究極体デジモン達によるコミュニティ。十二神と名乗りながら、まだ六柱しか発見されていないのだが。
各々が自ら統治するエリアを持っていて、気儘に、けれどそれなりの秩序を保つ。それがこの世界で自分達に与えられた役割だった。
誰がそんな役割を、自分達という種族の“設定”を決めたのかは知らない。──きっと、神様だなんて呼ばれる存在がお決めになったのだろう。
しかし家族だ誓いだと言っても、別にいつも和気藹々と仲良しごっこをしているわけではない。堅固な協力関係にある、とでも思ってもらえれば。
「そういうわけで、ネプトゥーン兄の堅苦しいお話はさて置き! 平和に仲良くしようってことでオーケー?」
◆ ◆ ◆
青い空と青い海。
緑の草地に賑やかな街並み。ああ、なんて美しいデジタルワールド!
────さて。
そんなデジタルワールドから、本日の天気をお伝えします。
残念ながら青い空と言うのは嘘っぱち。どんよりとした曇天が続いて、既に早数週間。
別に梅雨入りしたわけではない。
ただ、おバグりあそばされたのだ。このデジタルな世界とやらは。
その盛大なバグとやらに、我々オリンポスの六柱も盛大に頭を悩ませていた。──自分達だけではない。あらゆるコミュニティの長達は全員、この事態の対応に追われていたことだろう。
「──報告です! 報告……!」
世界に突如として現れた「黒い水」の存在。
それは、毒だった。地面から湧き出るのではなく、空から降ってくるそうだ。
デジモン達は溺れて死んで暴れ回って、おかげで世界中は大惨事。世紀末とはこういう事を言うのだろう。
「数刻前、■■■モン様の神殿跡地に黒い水が発現! お力添えを……」
「では、このディアナモンが向かいましょう。我が片割れの兄の地へ」
ああ、悲しいかな。見境なく降る黒い水に、自分達の領地も例外なく汚染されていく。
仲間達の各神殿、各領地は壊滅状態。海底に在るネプトゥーンモンの深海神殿だけが、辛うじて難を逃れている状態だった。
何故、どうして。そんな事は知らない。原因を探る技術も余裕も無い。
毎日、毎日、眷属から毒の報告を受けては向かう日々の繰り返し。
「────報告です! 報告……! 山岳地帯で汚染デジモン達が暴走を!」
「ネプトゥーンモン、君の加護を僕に。僕の脚ならすぐ辿り着ける」
「承知した■■■■モン。急いで向かってくれ。私とマルスモンもすぐに追う」
自分達にできる事は限られていた。ただ、起きてしまった事態への対応だけ。広がってしまった毒を焼くだけ。
既に死んだ誰かや、既に破壊された何かを守る事はできない。だって事前に察知するなんてできないもの。
……自分達の“世界”を侵されるのは、胸が張り裂けそうになる程に悲しい。
それでも下を向いてはいられない。オリンポスの神々は毒を焼く為に、奮闘していた。
────このアタシを除いては。
「あー、今日もなんて雨日和」
何とこの毒、ウイルス種とは非常に相性が悪いらしい。ばっちりウイルス種である自分は、容易に地上へ出られなくなってしまった。
「でも海の中は平和です。……はぁ」
暇すぎて独り言。
世界がピンチなのは理解しているが、やれる事が無いのだから仕方ない。ささやかな領地もとっくに壊滅してしまったので、残念ながら守るべきものもとうに無かった。
幸い、悲観はしない主義だ。楽観視しているわけでもないのだが。
「────やあ、ミネルヴァ。退屈そうだね」
聞こえてきたのは、抑揚も緊張感も込められていない淡白な声。
石柱の影からこちらを覗く、栗色のフクロウが一匹。
「……アウルモン。兄さん達なら毒を焼きに行ったよ」
「皆に用事があるわけじゃないんだ。ただ、キミが時間を持て余してるんじゃないかと思って」
アウルモンはオリンポスの眷属ではない。皆からはアタシの従者だと思われているが、いわゆる竹馬の友という間柄だ。
「で、楽しいお話でも持ってきてくれたの?」
「楽しくはないけど、外の状況程度なら報告できるよ」
種族としての性質上か、アウルモンは偵察というものに長けている。毒焼きに忙しい仲間や箱入り娘のアタシに、世の中の情勢を集めて報告してくれるのだ。
「メタルエンパイアは半分が稼働停止。機能の一部を切り離して各地へ分散させたって話だよ。これでデジタルワールドの物流ネットワークも壊滅だ」
当然だが、暗いニュースしかない。知らないよりはまだマシ、そんなレベルの話だ。たまには心踊るような大発見をしてきて欲しい──なんて、他力本願をしたくなる程には。
「それと──三大天使がロイヤルナイツに救援を要請するのも、もう何回目になるか分からない。今回もダメだった。いい加減、自分達で何かを企もうとしてるみたいだよ」
「やっぱりかー。マジで上の連中は何で動かないんですかね?」
デジタルワールドの創生に関わったらしい存在は、どういうわけか傍観を決め込んでいる。そこそこ人数いる筈なんだから、少しくらい下界の惨事に人員を割いてもバチは当たらないだろうに。
「事態は悪くなるばかりだし、毒は焼いてもキリがないし、アタシは家にいろって言われるし。あーあ。兄さんは外に出てるのにさ」
「なら、ボクと一緒に行けばいいじゃないか。少しは役に立てると思うけど」
「いや、アタシも再三お願いしてるのよ? 加護よこせって。アウルモンとウイルス種ペア組んでるから、無駄死にするって思われてるのかしら」
「流石にボクだって、外に出る時は進化してるさ」
そう言って、不満そうに羽を膨らませた。
「せっかく究極体になれるのに、どうしてキミはボクに『アウルモンでいろ』って言うんだい?」
「そりゃあ、まあ」
手招きをして、呼び寄せる。
アウルモンは栗色の羽を散らかしながら、差し出した腕に止まってきた。
昔からの習慣だ。互いが究極体にまで進化する、ずっとずっと前から、アウルモンを自分の体に止まらせてきた。
「こうしてアタシの腕に居る方が合ってるからさ」
アウルモンと書いて安心毛布と読む。
笑顔でそう言ってあげると──アウルモンは照れるどころか、自身の羽毛を庇うように丸まってしまった。
◆ ◆ ◆
「三大天使がリアライズゲートを開いたそうだ」
ある日。
平和でない世界の中、決して穏やかではない昼下がり。
兄弟の一人、マルスモンがそんな噂話を小耳に挟んできた。
「もう自分達だけではお手上げだと。いよいよ人間の力を頼るのだとさ」
人間と言えば、アタシ達デジモンの生みの親みたいなものだ。
お上連中のロイヤルナイツが動いてくれないから、今度はそっち方向にシフトしたらしい。
「そうか。さぞかし優秀なエンジニアが来てくれるのだろうな。世界のシステムを全て、書き換えてくれるような」
と、ネプトゥーンモンが冗談混じりに言う。しかしマルスモンは神妙な面持ちで
「それが……連れて来られた者の中には、幼い子供が大勢いると聞いた」
これには驚いた。およそ天使がしていい行動とは思えない。恐ろしいなあ、世の中は怖いなあ、なんて思ってみる。子供達だって、まさか天使に誘拐されるとは思わないだろう。
空気が不穏に包まれていく。すると今度はアウルモンが神殿に駆け込んできた。慌てた様子で、一枚の小綺麗な羊皮紙を足に掴みながら。
フクロウ郵便が持ってきたのは勿論お手紙だ。それもなんと、三大天使の皆様からオリンポスの神々へ。
なんでも大聖堂への召集のお知らせらしい。今後の泥への対策について検討したい、と書かれていたが──それが建前だろうと誰もが想像できた。
「────私は向かうが、他に来る者は」
ネプトゥーンモンは兄弟達に呼び掛ける。
「身どもは行くぞ。まさかこの話が真実などと思いたくないが……」
「僕は残るよ。皆が行くなら尚更、各領地を見回って毒を祓わないと。……ヴァルキリモン、よければ手伝ってくれるかい?」
「もちろん、ボクで役立てるなら喜んで」
「俺は先回りして、道中に毒があれば焼いておく。……ディアナモン、ミネルヴァモン、君達は」
「アタシはどうせお留守番ですよー。足の遅いウイルス種ですからねー!」
「兄様、ディアナはミネルヴァと神殿に残ります」
こうして、男性型陣は各地へ出立。女性型陣は神殿にて華麗に彼らの帰還を待つ事になった。──ディアナモンは、無理して残らなくても良かったのに。
「……ディアナモンは気にならないの? 天使の奴らの事」
「気にはなるけど、大丈夫ですよ。兄様達が行くんですもの。私の領地の毒も、今は停滞しているようだし……」
「ま、アタシは寂しくなくて嬉しいけどね!」
毎日お留守番の妹を気遣ってなのだろう。お優しいことだ。
久しぶりに水入らずのティータイムを楽しんでいると──ふと、ディアナモンがこんな事を口にした。
「──実は、相談したい事があって」
「ん?」
「今度ね、マルスモンと領地の奪還を試みようと思っているの」
声には、僅かに不安の色が見えた。
「……奪還って、毒から?」
「私の神殿は空の上。取り戻せれば、地上を追われたデジモン達を避難させられるでしょう? この神殿はあまりに海深くに在るから、逃げ込めるデジモンも限られてしまう」
「領地はともかく、神殿はとっくに毒のプールなんでしょ? 勝算あるの?」
「付近の地上から全員を避難させてから、一気に毒を焼き払います。ある程度の形は残る筈です」
「わあ、それって領地まるごと焼け野原にするってこと!? そういうの大好き!」
と、冗談は置いておいて。
「でもそれ、■■■モンは止めると思うよ。『危ないからダメだ』って」
「だから、兄様には秘密です。貴女にアリバイ工作をお願いしたくて」
ああ、相談ってそういう事。
ディアナモンと二人、いたずらを考えている時のような顔で笑い合う。
「きっと成功したら、兄さんも褒めてくれるね」
「ええ、きっと……」
────その話を聞いて。
外に出ないアタシは、アウルモンからの話でしか外の事を知らなかったアタシは。
共に戦おうと言わなかった。他の仲間達に相談する事をしなかった。
究極体が二人もいれば大丈夫だと────本当にそう、思っていたから。
◆ ◆ ◆
夕刻。
海底神殿に、主が戻ってきた知らせが鳴る。
可愛い妹達は飛び上がってお出迎え。神殿の入り口まで駆けて行った。
──だが、
「兄さん?」
どうしたの、毒でももらった?
そう茶化す事さえできない程、帰還した兄達の空気は張り詰めていたのだ。
話があるんだ────険しい顔で兄は言う。
それから一歩だけ、横にずれて──背後に佇むネプトゥーンモンの姿を見せた。
「……え?」
アタシ達は目を疑った。ネプトゥーンモンの隣に、小さな人間の女の子が立っている。
薄い色の、ウェーブがかった髪を揺らして──神殿を見回していた。ネプトゥーンモンの指を握りながら。
「三大天使が連れてきた『選ばれし子供たち』だ」
神殿でどんなやり取りがあったのかは知らない、──が、とにかくネプトゥーンモンの声は酷く重たかった。
「天使達は本当に、子供達を連れて来ていた。……人間の中の回路を使って、我々デジモンを強化するのが目的らしい。各地の究極体に宛がって、世界を救う為の手段にするんだと……」
「……アタシらの触媒にする為に、誘拐したって事?」
噂には聞いていた、電脳生命体の創造種族である人間が我々にもたらす恩恵。……天使達はそれを信じて、ここまでして世界を救おうとしているのか。
想定外の事態と現実。立ち会った兄達でさえ、未だ受け止められていない様子だった。
すると、
「ねーねー、ネプちん。ここ、おうち?」
可愛らしい声が、とんでもない愛称で兄を呼んだ。
「あ、ああ……。そうだよ。ここなら安全だ」
「広いねー!」
小さな身体が、くるくると踊るように回る。初めて見る建築物が珍しいのだろう。
その姿を呆然と見つめるアタシ達に気付いたのか────少女はパタパタ駆け寄って来て、興味深そうに顔を覗いてきた。
目が、合った。
「こんにちは!」
元気な声で、アタシ達の手を取った。
「わあー女の子! あなたたちも『でじもん』? すごーい!」
「ちょ、ちょっと……」
「お名前は? 私は未春! ミハルっていうの!」
未春と名乗った人間は、自分が置かれた状況を悲観する様子もなく、笑っていた。
「……。……アタシはミネルヴァモンだよ。よろしくね、可哀想なミハル」
◆ ◆ ◆
来たか! 待ってたぜ! というわけで速攻で感想を書かせて頂きます。
心地良いぐらい一気に今まで張られてきた前振りと繋がっていく……これは今回だけ限定でOPがArmor Zoneになる奴やな!? カノンちゃんは生んだ子に千の翼……とか名付けちゃアカンからな! 怖いお父さんが殺しに来るぞ!
みちる見た時のネプトゥーンモンの反応はそういうことであったか。海神様の「???」な気持ちも今ここに来てようやくわかる。そりゃそうなるわな。そして今更ながらディアナモンがウイルス種じゃなくてデータ種だったことに気付く俺。
刺突切断死亡ノルマ的に、回想全部こなした途端にみちる改めミネルヴァ女史は後ろから何者かにドスェされて死ぬんじゃないかと戦々恐々としていましたが生き延びた。敢えて伏字で示されていた三文字と四文字の兄者二人はまあそういうことなんでしょうが、作者が作者なだけに「もう一度ぐらいは会えるだろう」ってホントか~? ホントに再会できるのか~? 目の前で死ぬんじゃねえか~?
いやそうなると兄者以上にネプトゥーンモンがマジで救われねえことになるのか……。ワトソン氏の義体の少年の正体もどこかで明かされるのかと思ったが不明なまま扱いとあとがきで明言されてダメだった。
それでは次回もお待ちしておりますのです。
作者あとがき&イラスト
お久しぶりです作者です。
33話、お読みいただきありがとうございました!!
前回の投稿からしばらく時間が空いてしまいました。今回は(元)みちるちゃんの過去ストーリー。これで第22話あたりとだいぶ繋がります。挿絵イラストの向日葵については第30話の冒頭でワトソン氏が回想してますね。
パートナー(ネプトゥーンモンの)、ミハルちゃんの設定は10年前の構想時にはまだ無く、22話執筆時点で生まれた割と新しいキャラクターです。
名前は敢えて「みちる」と「ミハル」で似せました。みちる+はるか=みはる、的な感じですね。
ミネルヴァモン時代はみちる時代ほどテンション高くない仕様。
台詞内では伏字■■になっているデジモン達に関しては、デジモンクラスタな読者の皆様には本当なら隠さずともお分かりなのだとは思いますが、こちらも敢えての伏字でございます。
アウルモンが会話の中でDWとRWの時間の流れについて言及しています。当時の流れの違いは10倍。今は6倍です。毒のせいで歪みまくり。
ちなみに旧選ばれし子供たちのDW滞在期間は約10か月。蒼太たち新メンバーが現在2か月弱の滞在なのに比べるとかなり長期です。
そして本編では書いてませんが、設定上この子たちの何人かはマグナモンが回路を引き抜かなかったとしても外傷と衰弱でお亡くなりになるのでした。無念。
さてさて終盤に切り込んだ回想ストーリーも無事に終了いたしまして、
そして第6話(2012年投稿)ぶりにみちるとカノンも再会できまして、
残すところあと数話です。どうぞ今後とも見守りいただければと思います!
最後に未春ちゃんの設定イラストを載せておさらばです。
それではまた次回。ありがとうございました!
ミハル(風無未春)
ネプトゥーンモンのかつてのパートナー。
リアルワールドの養護施設で暮らしていた小学2年生。みちるの義体のベース。
名前の由来は、彼女の世界に風は無く、未だ春は訪れない事から。
『みちる』は基本、前髪をポンパドールにして三つ編みにして、未春との外見を区別していますが、髪を全て下ろすと今でも未春の面影が見えるそうな。
ちなみにワトソン氏の義体のベースになった男の子は、その名前さえ不明なまま。
◆ ◆ ◆
白い部屋を抜け出して、カノンは水晶の迷宮を往く。
目指すは最上部、神が座するべき場所。
自身の体内で育んだ電脳生命体が、歪に変質してしまう前に。
育ち切った子は、体外へ産まれなければならないのだから。
自分の身に起きている異変は、カノン自身が誰より理解していた。
急がねば。鉛のように重く感じる身体を懸命に進める。空間を割る力も、転移する力も持たない以上、彼女はひたすら歩いて行くしかなかった。
そして、探すしかなかった。かつて自分をマグナモンの部屋へ導いた移送機を。どこまでも昇っていける昇降機を。
しかし、一度しか通ったことのない道など鮮明に覚えている筈もない。それどころか自分がイグドラシルと繋がっていた所為で、道も内装も何もかもが変わってしまった。──今は、落ち着いているようだが。
「ねえ、ねえ。イグドラシル。どっちに行けばいいの」
体内に呼びかけるが、返事はない。
「どうやったら上に行けるの。わからないわ」
返事はない。
──だが、理解している。この行為に意味は無い。答えはもう返ってこない。
今、イグドラシルは蛹のような状態なのだろう。カノンはそう感じていた。
静かに眠り、羽化を待つ。だからもう塔の内装も変わらない。これ以上は歪まない。
……もしも次に変化が起きるとすれば、それはイグドラシルが『完成』を遂げ、羽を広げる時だろう。
「どんな姿かしら」
腹部を撫でる。
「きっと、蝶みたいに綺麗になるわ」
本気で思ったわけではないが、なんとなく、神様に声をかける。
でも、もしそうなら哀れな話だ。羽化をしても羽ばたけず、自由に動くことも叶わないまま──ただ人間の中で抱かれているしかないなんて。
「────ここは、違う」
均等に並ぶ白い玄関ドアを、ひとつずつ、ひとつずつ、開けていく。
「ここも、違う」
気付けば息が上がっていた。額に滲む汗を袖で拭った。……動くのが、苦しい。
「この部屋は」
身体が熱い。痛い。重い。
「……違う」
深く息を吐けば、そのまま意識も飛んでしまいそうになる。
なんとか保とうとして────ふと目線を落とすと、足元に散らばる煌めきに気が付いた。
汗が零れたのか、それとも無自覚のまま泣いていたのか、分からないけれど。
零れた水晶の欠片が、少女の後を辿るように散らばっていた。
童話みたいだと思った。彷徨う森の中、月に光る小石を辿った兄妹の話。
「──あなたが本当に子供だったら、いつか絵本を読んであげたのに」
冗談混じりに言ってみせる。
返事は、やはりなかった。
それから、どれだけの時が経過しただろう。
体感時間と経過時間はひどく解離していて、自分の感覚などあてにならないのだが。
「……、……?」
少女は気付く。
それまで自分の足音ぐらいしか聞こえなかった空間に、気付けば他の音が混ざって聞こえてくる事に。
ゴゥン、ゴゥン──と、大きな機械が動くような轟音。
どこか懐かしさを覚えながら、音の方向を目指して進んでいく。
──この音は、何だったか。
そうだ。これは、工場の音だ。
彼と出会った場所で、よく聞こえた音だ。
無意識に腹部を撫でた。
あなたも彼に会わせてあげたいなんて思って。
けれど会ったら喧嘩になるかしら、なんて思って。
自分の思考が、自分でも理解できなくなっていた。
だからこそ思い、想う。
────きっと、この音を辿れば。
「……ベルゼブモン……」
きっと、きっと。
「────ああ」
見つけた。
やっと見つけた。間違いない、あの時のエレベーターだ。
かつての美しい水晶の外壁は消え、錆びた鉄で囲われているけれど。
まるで古いマンションに設置されているような、そんな姿になってしまっているけれど。
カノンは身体を引き摺りながら、押ボタンに手を伸ばす。触れて、力を込めた。
表示灯が光り、小さな音を立てて扉が開く。
だが、──中は薄暗く、静かだった。
何も書かれていない、真っ白なボタンを全て押しても動かなかった。
塔に誰かが侵入した際か、あるいは少女が部屋を出ていった際か。
クレニアムモンの手によって、塔の電気系統が停止させられていたのだ。少女が聞いた懐かしい音は、非常電源の稼働音だった。
ここにあるのはただの箱。どこにも連れていってはくれない。
……なんとなく、予想はしていたのだが。
「────」
握り締めた手で内壁を叩く。力の無い手は衝撃に負け、赤みを帯びた。
悔しかった。今でも遠く聞こえてくる轟音に、ひたすら空しくなった。
恨めしそうに天井を見上げながら、「エレベーターなら、天井裏のケーブルを掴んで登れば」──なんて思ってみたが、すぐに現実的ではないと察する。そもそもエレベーターの外観をしているだけで、移送機の本質はそれとは異なるのだ。
別の道を探すしかないだろう。
仮にもマンション内部の形状を装っているのだから、非常階段のひとつくらいはあるかもしれない。
カノンは俯き、自身に言い聞かせる。無理にでも鼓舞しなければ本当に心が折れそうだった。ふらつく足がちゃんと動くように、何度も叩いた。
諦めるわけにはいかなかった。最後まで足掻かなければならないのだから。
「…………私は」
この子が救われる為に。
この子が救われた世界で、彼が生きていけるように。
だから────
「────あ! やっと見つけた!」
突如、聞こえてきた軽快な声。驚いたカノンは思わず顔を上げる。
振り向くと、一人のデジモンがいた。
長い三つ編み。少女の様な容姿。
どこか聞き覚えのある声で、ひらひらと手を振っていた。
◆ ◆ ◆
「久しぶりだねえ」
今では懐かしいとさえ感じる、リアルワールドでのとある夕暮れ。
どこかの公園で出会った美しい少女。ミネルヴァモンは、久々の再会を果たす。
カノンはきょとんとした顔でミネルヴァモンを見つめていた。そんな彼女の反応を、ミネルヴァモンは「まあ、仕方ないか」と割り切る。
こちらはしっかり覚えているが、向こうからすれば初めて出会うデジモンだ。それ以前に『みちる』の事さえ、彼女の記憶の中にあるか怪しい。
「……」
「いーのいーの、気にしないで! 別に変なことしないから!」
そう言いながら、ミネルヴァモンはまじまじとカノンの身体を凝視する。
一度だけ出会い、それからは写真でしか姿を見ていなかったが────違和感と異変をはっきり感じ取った。
血と肉で構成されている肉体に、僅かにかかって見えるデジタルノイズ。それはミネルヴァモン達が、かつてパートナーの少女に見たものと同じ。
デジタルワールドに生きる期間は、蒼太や花那達と大きく変わらない筈。デジタルワールドに連れて来たのがブギーモンの一体なら、恐らく誠司、手鞠と同期間だ。
にも関わらず、彼女の肉体は変質しきっていた。
「いやー、中々アレだね。びっくりですよアタシは。だってキミから後光が差してるように見えるもの」
冗談ではない。ミネルヴァモンには本当にそう見えたのだ。
その最もたる要因は──やはり、高位の電脳体を体内に宿した事にあるのだろう。
なんて事だ。これではこの子はもう、リアルワールドに帰れないじゃないか。ミネルヴァモンは、この美しく輝かしい少女をひどく哀れんだ。
すると
「あなた、前に会ったわ」
カノンの言葉に、今度はミネルヴァモンが目を丸くさせる。
「……何、マジで? アタシの事わかる!?」
「……ずっと前、公園で……」
「そうそうそう!! わー、びっくり! 嬉しー!!」
ミネルヴァモンは飛び跳ねて喜んだ。けれど義体時代のリアクションはすぐに落ち着き、
「こんな見た目になったのにねえ」
普通なら気付くわけがない。しかしカノンは、憔悴した顔に戸惑いの色を浮かべながら
「変わった子だったから」
「え、それだけ?」
「……髪が伸びた?」
「ぷっ」
どうしてそこなんだ──ミネルヴァモンは声を我慢しながら笑う。というか、声と三つ編み以外に共通点なんて無いだろうに。
「いやいや、キミも随分と変わってる」
カノンは顔をきょとんとさせた後、「そうかもしれない」と言って、自嘲気味に小さく笑った。
「それより貴女、デジモンだったのね。あの人と同じね。あなたの方が人間みたいに見えたけど」
「でしょー、違和感ゼロだったでしょ!」
マグナモンの義体は精巧なんだ。それも未春の一部を使った、とっておきの力作だったのだから。……消化器以外は。
「──それでキミ。こんな危ない所で何してるの? てっきり囚われのお姫様してると思ってたのに」
「上に行きたいのに、行けなくて」
「あー、なるほど」
すぐに納得するが、同時に苦笑する。この子の足じゃ無理だろうなあ。
「でもほら、多分ここに居たら巻き込まれるよ? いつドカーンってなっても変じゃないんだから」
「そうだけど、これに乗らないと昇れないもの」
「まあねー。動かなそうだけどねえ」
二人で、沈黙する昇降機を眺める。
「……何もかも……思い通りにいかなくて、嫌になるわ」
ぽつりと零れた声。ミネルヴァモンは少女の横顔を覗いて、それからわざとらしく歯を見せて笑った。
「それでこそ人生は面白いのさ。だから必死になって戦うんだよ。アタシもキミも」
「……」
カノンは自身の腹部に目線を落として、俯く。
「……どんな選択をしても、必死に戦ったって……頑張ったんだって、言えるかしら」
「言えるよ。どんな手段を使ったって良いし、どんな姿になったって良い。自分の命を、自分が信じた道で精一杯に生きて行くなら。──アタシはそう思ってる」
愚かなアタシが、律儀なマグナモンが、憐れなクレニアムモンがそうしたように。
それが正しいかは、全くの別問題だけれど。
すると、カノンは何かを決意したように顔を上げた。振り向いて、真っ直ぐにミネルヴァモンの瞳を見つめる。
「……あなたに、お願いがあるの」
「ん?」
「イグドラシルが完成するわ。でも……そのまま私の中にいたら、この子はおかしくなる」
「知ってるよ。だから上に行きたいんでしょう?」
「私の足じゃ間に合わない。だから、この子だけでも連れて行って欲しくて」
「……その事なんだけどねえ」
ミネルヴァモンはバツが悪そうに頭を掻いた。
「アタシは天の座までは行かないんだ。少なくとも、神様なんて大層なものを抱えた状態じゃ行けない」
クレニアムモンに目を付けられるからダメです! とは、言わないでおく。
「それに、残念ながらキミを助けに来たわけでもない。元々は別件でね」
「……それなら、どうして私を見つけてくれたの?」
「単純な話さ。アタシの、ただの自己満足だよ」
そう言って、服のデータからあるものを取り出した。
「──だってほら。落とし物を拾ったら、持ち主に返してあげないと」
差し出したのは、少し古いタイプの音楽プレイヤー。
「────、」
カノンは目を見開く。
震える手でそっと触れて、それが確かに自分のものであることを自覚すると────両目から、涙を溢れさせた。
「もしかして宝物だった?」
「……うん。もう、失くしたと思っていたのに」
胸に抱くように、握りしめた。
「ありがとう。ずっと持っててくれたのね」
「キミが、ここまで頑張って生きてくれたからだよ」
それにちゃんと動くんだぜ? 何故なら充電してきたからね!
得意気に言ってみせると、カノンは更に涙を零した。そこは笑って欲しかったのだが──本人の感情なので仕方ない。
「────ねえ、どうだった?」
そしてミネルヴァモンは、少女に最後の問いかけをする。
「この世界は、アタシ達のデジタルワールドは」
それは──もしも未春が生きていたなら、一緒に未来を、歩むことが出来ていたなら。
“あの時”、ちゃんとリアルワールドへ帰してあげられたなら──聞きたかった事だった。
自分達のせいで巻き込まれた子供達。どうしようもなく傷つけてしまった子供達。
望まずに連れられた世界で生きた彼らの目に、この世界はどう映っていたのだろう。
アタシ達の世界。こんなにも、汚れてしまったけれど
「連れて来られて良かったって、思ってるわ」
カノンはそう、言い切った。
「彼と生きられた、この世界は綺麗だった。私──幸せだったのよ」
かつてイグドラシルに語った時よりも、はっきりと。胸を張って言えたのだ。
「……そっか。……──うん。なら、良かった」
ミネルヴァモンは微笑んだ。
それが、かつて愛した少女からの言葉でなかったとしても、十分だったのだ。それだけで十分────自分があと少しだけ、抗う為の原動力になる。
「なら、幸せなキミに朗報だ。アタシはキミを救えないけど、これから正義の味方達が来てくれる。きっとキミを見つけるし、その光を空まで届けてくれるよ」
「……本当?」
「うん。だからもう少しだけ頑張って。あとちょっとだから。キミも、アタシも」
「……。……そうね。確かに、あと少しだわ」
電脳体から人間擬きに成った少女も、人間と電脳体の間で揺れる少女も。
自身が迎えるであろう未来は、察している。
「でも、あなたもなの?」
「アタシは兄さん達のリプレイ回数次第かなあ。期待はしてないけどね。この戦いが終わったらリアルワールドのおしゃれなカフェでお祝いといこう!」
──そんな、叶わない約束を口にしてみた。
「まあ、無理だけど」
「ええ、無理だけど」
「残念だねー」
お互い、分かっている。
「そういえば、あなたの名前……まだ聞いてない」
「あ、言い忘れてた! どっちがいいのかなー。もう人間じゃないからなあ」
人間のような姿で、人間のような暮らし。
それも終わった。もう、戻ることもない。
だから自分は、青空の下で目覚めた最初の日と同じ──かつての名では名乗れない。名乗る必要もない。
けれど──少しだけ思ってしまう。
あの世界でもっと早くに、あの子達やこの子と、皆と出会えていたら──
「アタシは」
なーんて。
「────アタシはミネルヴァ。ミネルヴァモンだ」
「私、カノン。カノンっていうの」
「ああ、ずっと知ってたよ。いい名前だね」
カノンの顔に嬉しさが滲み出る。「お母さんが付けてくれたの」と、やつれた頬を綻ばせた。──大人びた容姿に一瞬だけ、年相応の少女の面影が見えた。
「頑張ろう。アタシ達はあとちょっとだけど、あと一度くらいはきっと、会いたい人に逢えると思うから。……ねえ、そのくらいは神様だって許してくれるよね?」
「きっと、許してくれる。赦してくれるわ。そうなって欲しい。あなたも、私も」
残された僅かな時間。互いを、自分を、励まして、励まし合って。
「──じゃあアタシ、そろそろ行くね。待たせてる奴がいるんだ」
「いってらっしゃい。私に、会いに来てくれてありがとう」
別れの挨拶はしっかりと。
心残りなんてないように。全ての人にさよならを。
「ばいばいカノン。どうか元気で」
少女に背を向け、三つ編みを揺らして去っていく。
「────さようなら、ミネルヴァモン」
その背中を見送りながら、カノンはそう呟いた。
「……聞いた? ねえ、お迎えがあるんですって」
昇降機の前に座り、カノンは語り掛ける。
「良かった。きっと空の上まで行けるわ」
誰もいない腹部を撫でる、白い腕にノイズがかかる。そんな錯覚をした。
「……。…………」
身体が熱い。熱くて苦しい。ミネルヴァモンとの時間で紛れていた分が、一気に押し寄せたように感じられた。両腕で自分を抱きしめ、蹲る。
「…………大丈夫」
そう、呟いた。誰に向けてでもなく、自分に向けた、おまじないの言葉。
「大丈夫。……大丈夫、あと少し」
言い聞かせて、それまで自分の身体がもつように願って。
それまで────身体の中で羽化する“我が子”が歪に変わってしまわないよう、ひたすらに祈り続けた。
白い牢獄の中で、ひとり。
少女は静かに、名も知らぬ来訪者を待つ。
第三十三話 終
◆ ◆ ◆
────とは言え。
天の結界という存在が、騎士達にモラトリアムを与えたのは事実だった。
毒が天上で堰き止められている間に、確かな対処と解決を。失敗は許されない。
しかし時間さえかければ勝算はあるのか? ヴァルキリモンが問うと、黒紫は力強く頷いた。
「全ては我らがイグドラシルの涙。神の嘆きを止めれば、あの毒は」
「具体的に言ってくれないかな。そういうの、聞いてて腹が立つ」
「……人間が抱く回路の接続によって、世界樹イグドラシルのプログラム修復を」
────なんだ、やっぱり。
世界中を巻き込んだ諸悪の根源は神様で。その尻拭いのおかげで皆、死んだのか。
馬鹿みたいだ。思わず、乾いた笑いが込み上げた。
「……力を、貸してはいただけないでしょうか」
すると突然、黄金はそんな事をのたまった。
「この事実を、知ったのは貴女達だけです。他のデジモン達は知らない。何も知らぬまま、これから訪れる安寧を消費していく」
「……そんなの、アタシ達が言いふらして回ってあげる。皆が死んで、世界がこんな事になったのは神様のせいだって」
「伝える訳にはいかないのです。そうすればデジモン達は此処を落とそうとする」
「いいじゃん。世界中から恨まれて、何もかも背負って、苦しんで死んで行けよ。自分で首を切らないように、アタシが両手を落としてあげるから」
口を開けば憎悪が溢れていく。自身の無力さを責任転嫁しながら。
「ええ、ええ。そうなればいいと思っています。しかしイグドラシルを救えなければ、世界も救えない」
「だからボク達に協力しろって? ミネルヴァ達にここまでの事をしておいて?」
「……弁解する余地もありません。貴方達のパートナーを死なせたのは……殺したのは小生だ。
しかしあの二体は……オリンポスの二柱は……肉体はもう崩れてしまったけれど、デジコアはまだ機能している……!」
「────!!」
子供達と共に連れ去られたデジモン達と異なり、兄達が水晶に眠ったのはつい先刻。
だから、デジコアはまだ水晶と一体化する事なく『個』として存在しているのだと。
「今すぐに──は、不可能です。時間はかかりますが、未来に必ず……あの二人を貴女達に返すと誓います。ですから、どうか」
「……、……兄さん達……元に、戻るの?」
「理論上は。同個体として目覚める筈です」
それを聞いて────アタシは一切の判断力を失った。
甘い誘惑とさえ思える告白。家族を人質に取られただけの、決して対等とは言えない要求。
断るわけがない。選ばないわけがない。まだ間に合うと言うのなら。
「残酷なマグナモン。お前の偽善で、彼女に我らの罪を塗り付けるのか」
分かっている。こいつらに加担する事が、何を意味するのか。
結界の補填、イグドラシルの修復。これからも誰かの命を犠牲にしていく行為。
「だが、友よ。それが世界を、イグドラシルを救う道と成るのなら……これまでの散華が無に帰さず、全てが実を結ぶのなら。私はどんな手段も選ばない」
結局アタシも、忌々しいロイヤルナイツと本質は変わらない。自分の大切なものを守る為なら、自身の手を汚す事など厭わないのだ。
ミハルが、兄姉達が知ったら、怒るだろうか。糾弾されるだろうか。
いっそ、そうして欲しいとさえ思うけれど。
「────条件を言え。アタシの『世界』を救う為なら、お前達と一緒に地獄にだって堕ちてやる」
最後まできっと、怒ってはもらえないのだろう。
そして黄金は、兄達の電脳核と世界樹との接続を断つ。
二人の『個』たる核の中枢が現存している事を確認する。
兄達のデジコアは、肉体を壊した本人達の手で保護された。
◆ ◆ ◆
こうして。
アタシはロイヤルナイツと同じく、世界の為に外道と成り果てる事になりました。
めでたし、めでたし。
────いいえちっとも、めでたくなんてないですが。
新しい仲間、もとい協力者に対し、高貴な騎士様が出してきた条件は三つ。
ひとつは、兄達の空白分も含めてデジコアの回収に加担する事。
ひとつは、人間の回路──今度はデジモンとパートナーになる前の純粋なもの──を、定期的に収集する事。
そして、それらをイグドラシルの救済まで継続する事。
無事に成功した暁には、めでたく兄達が復活し、帰還する。ハッピーエンドというヤツだ。
しかし黄金──マグナモンが言ったように、彼らの肉体をすぐに用意する事は出来なかった。
既に分解してしまったから、データが溶け込んだ水晶ごと再構築して、タマゴからやり直しとなったのだ。
本当ならそのデジタマを保護して、面倒を見るのが理想的なのだろう。
だが、デジモンは戦いを繰り返して強くなっていく存在。修行をつけたとしても、庇護していたら強くなれない。命を懸けなければ生き残れない。
アタシが成長期だった頃も、ヴァルキリモンがアウルモンだった頃も──互いに死ぬ気で駆け抜けて、やっとの思いで究極体にまで進化したのだ。誰にも守ってなんてもらわなかった。
究極体に成れないのなら、オリンポス十二神にだって戻れない。それでは駄目だ。
「だからロイヤルナイツ。アタシからも要望がある」
再構築した二人の体には、ひとまずダミーの電脳核を。
二人は生きなければ。戦わなければ。でも、こんなに厳しい世の中だ。毒だって溢れているのに、幼年期がまともに生きていける筈がない。そもそもオリンポス十二神の電脳核なんて埋めたら、未熟な肉体はそれだけで崩壊しかねない。
せっかく生まれ直しても、すぐ死んだら意味無いでしょう?
うっかり死んでしまってもいいように、保険を掛けたかったのだ。
しかしマグナモンは、アタシの提案をすぐに承諾しなかった。
「それでは……彼らは別個体として生まれ変わる事になります。記憶だって、ダミーの電脳核では継承されない。貴女の事を認識できなくなりますよ」
別に構わないさ。記憶なんてもの、一番最後にでも戻ればいい。
全部終わって、毒のない世界で元に戻って、思い出して──ネプトゥーンモンの所に帰ってくれるなら、それでいいんだ。
「では、二人が肉体を取り戻すまではダミーのデジコアを。最後は貴女達で、再びこの場所へ連れて来て下さい。元のデジコアと統合させ、本来の彼らに戻します。
……ただ、人工核は単体で起動しないので、誰かと繋いでおかなければ……何より耐久性能にも限度があります。損傷データが蓄積すれば壊れてしまう」
それも、問題ないだろう。アタシに繋げばいいんだから。
損傷データだってアタシの核に転送したらいい。成長期や成熟期が死ぬ程度のダメージなんて大したことはない。偽の核は残したまま、肉体の再生だけを繰り返すのだ。
「むしろ、ダミーだからこそ出来るでしょ?」
マグナモンは再び渋る。協力要請をしてきたのはそっちなのに、「でも、二体分ですよ」だなんて言っている。
すると、
「……何でミネルヴァモンひとりが全部やる話になってるの? 二体分なら、繋ぐデジコアだって二つなきゃおかしいでしょ」
突然、ヴァルキリモンがそんな事を言い出した。
アタシは目を丸くする。マグナモンも同様だった。
「……よろしいのですか? 貴方も」
「むしろボクだけ帰ると思ってたの?」
「いえ……しかし貴方はオリンポスでない」
「そうだね。けど彼らと交流はあったし、何よりミネルヴァモンの大切な家族だから」
理由なんて、それで十分。
……なんて奴だろう。それだけの理由で、自身を穢すつもりだなんて。
お前が背負う必要は無いんだよ。それよりもネプトゥーンモンを元気づけてやってくれ。兄さん達はいつか戻るって、伝えてやってくれ。
だが、ヴァルキリモンは頷いてくれなかった。
「ボクはただ、自分が後悔しない道を選ぶだけだよ」
長い付き合いなのに今更だけど、彼は思いのほか頑固だったようだ。
アタシの聖鳥は、アタシと共に堕ちていく道を選んでしまった。
────ああ、本当に
「馬鹿だね、アウル」
そう言うと彼は笑った。胸の中が、ちくりと痛くなる。
◆ ◆ ◆
その後。呼び出されたアタシ達は、交わした契約内容が急遽変更された旨を告げられる。
「デジコアの回収は、やはり我々の方で行います」
幸い、悪い方向にという訳ではなかった。マグナモンの良心の呵責故か、それともクレニアムモンが効率性を重視した故かは不明だが──善良な同族を手にかける必要が無くなったのは、ありがたい事だ。
まあ、残されたもう一方の条件も、だいぶ酷いものではあるが。
「ならアタシ達は、リアルワールドから回路を……人間を連れてくればいいって事?」
未春や他の子達のように。集めて、こいつらに渡して、死なせていくのか。
しかしマグナモンもクレニアムモンも、どういうわけかそれを否定した。
「現状は、我らの手元にある回路のみで結界の補填を行う」
「……それは結構。ボクらもなるべく手を汚したくない」
「だが、『今は』だ。……いずれは必要になる。それまでに我らは、回路を正確に摘出する術を持たなければならない」
今のまま子供達を迎えても、技術が追い付かないから無駄に死なせるだけ。まずは環境を整える事から始めるらしい。
「同時に、人間達がデジタルワールドの干渉を受けないよう……肉体が変質しないように、専用の空間も設ける必要がありますので」
「……これからの子供達は、随分と丁寧に扱ってもらえるんだね」
皮肉を込めて言った。
「私達とて、無抵抗の命が不必要に消える事は望んでいない」
そうだろう。望んでるなんて言われたら、今以上に軽蔑する。
「その間、アタシ達は何するの?」
「──来るべき時までに、良質な回路の取集を」
「言ってる事、矛盾してるけど」
「回路の質はその個体差があまりに大きかった。イグドラシルへの接続に利用するなら、少しでも優秀な回路を集めておかなければ」
「だから、それも。……収容環境が整ってないなら意味ないんでしょ」
クレニアムモンと会話が噛み合わずに苛立っていると、マグナモンが解説を始めてくれた。
「いつでも迎えられるよう、リアルワールドの特定地域に子供達を集めておくのです。
環境が整い次第、デジタルワールドに連れて行き……回路を精査し、必要最低限の子供達だけを選ぶ。そういう方針にすると、クレニアムモンと決定しました」
回路とやらに優劣があるとは知らなかったが、成程。そういう事なら理解できる。
闇雲に連れて来てハズレばかり引くより、予め一定以上の質の回路を持つ子供を集めて連れて来た方が良い。
でもそれ、どうやってやるの?
「……二人にはリアルワールドに滞在し、そこで子供達を集めてもらいたい」
マグナモンが平然とそんな事を口にするものだから、アタシ達は耳を疑った。
「貴女達は、リアルワールドで『座標』と成る。……ただ、居るだけでいい。そこに生きているだけでいい。回路は自ずと、貴女達という存在に惹かれ、導かれ、集まって来るでしょう」
デジタルワールドから出ていって、未春のいないリアルワールドで生きて。
「リアルワールドからの『回収』も、我らの方で行う事とした。お前達がその瞬間を見る事は、そう無いだろうが」
未春と同じ子供達を、捧げる。
「…………ああ、そう。わかったよ」
酷い話だ、何もかも。
でも、デジタルワールドを追い出されるというのは──こんな自分に課せられるには、ぴったりの罰なのだとも思った。
しかし大丈夫なのだろうか?
アタシとヴァルキリモンは、デジモンの中でも人間に近い形状、いわゆるヒューマンタイプだが──それでも人間の容貌とはかけ離れている。子供達は集まるどころか、恐怖で散開するかもしれない。
「対策は取ってあります。──二人共、こちらへ」
マグナモンが案内した先は彼の工房。黄金の身なりに似合わない、質素で薄暗い空間だった。
工房の中央には、艶やかな絹の布が敷かれていて。
未春と、見知らぬ少年の身体が寝かされていた。
何だこれは、と聞くより先にマグナモンが答える。──「これは人間ではありません」
「子供達の肉体データを元に造形したものです」
人間の容をした、空っぽの入れ物。電脳生命体が現実世界で生きる為の手段。
──元々、協力者となり得るデジモンをリアルワールドへ送る為、誘拐時点から設計はしていたらしい。
「ベースに出来たのが、この二名だけでした。他の子供達は……元々の外傷と内部損傷が目立っていたので……」
恐らくこれまでの戦闘に依るものでしょう、という彼の言葉に胸が痛む。
きっとその子達はパートナーの側で、パートナーと共に、ずっと戦ってきたのだろう。
疲れたろうに。痛たかっただろうに。帰れないまま終わってしまったなんて。
「だが、ただの人形にデジコアを埋めた所で、人間の様に生きる事は叶わない。一部のみだが、彼らの肉体組織を流用させてもらった」
毛髪や皮膚の一部、回路摘出時に触れた血液と肉。それらをほんの僅か、人形の中に埋め込んだという。実際の遺伝子情報を組み込んで、義体そのものを時間と共に成長させるのだと。
大層な話だ。そこまで徹底して、騎士共はデジモンの人間界侵攻を目論んでいたわけだ。
「ゲートの通過時に、電脳体と義体とを一体化させます。通常のデジモンなら拒否反応を起こすでしょうが、究極体の貴方達なら問題ない筈です」
──リアルワールドに行った後。どうやらアタシ達は野放しらしい。義体の調整が必要なら連絡を寄越す程度。本当にただ「生きている」だけでいいのだという。
「出発は、すぐにでも可能です。……ですが先に、済ませたい事があれば言って下さい。少しの時間なら下界にも連れて行ける」
例えば、別れの挨拶とか。
「しばらくの間は、デジタルワールドに戻らないでしょうから」
────残してきたネプトゥーンモンの顔が浮かぶ。
彼はきっと今も戦いながら、未春を探しながら──アタシ達の帰りを待っているだろう。
でも、
「…………いい。下には降りない」
「……ネプトゥーンモンには何も言わないの? 彼は……」
「理由を伝えなくても、兄さんなら絶対『自分も協力する』ってついて来ようとする。……駄目だよ。デジタルワールドには……これだけ究極体が死んでいった世界には、ネプトゥーンモンの加護が必要だ」
だから、今は言えない。
「兄さん達を連れて帰ったら、その時に話して、謝るから」
「……キミがそう決めたなら、ボクは止めないよ」
「そう言うヴァルキリモンはいいの? 何かしておく事、あるんじゃない?」
「ボクは……。……出発までに少しだけ、休息を取らせてもらえれば」
それからヴァルキリモンは僅かに俯き、憐憫を込めて人形を見つめた。
「あとは、子供達の弔いを」
彼の言葉にマグナモンは目を赤くさせ、声を詰まらせる。
「……ええ。小生も、それを望んでおりました」
けれど、どうしたらいいのか分からないのです。
──そう言って騎士は、泣き崩れた。
◆ ◆ ◆
与えられた僅かな休息。その残りを、水晶の墓標の前で過ごす。
「……ねえ、本当に良かったの」
「……何が?」
「アタシについて来ること」
「逆に駄目だと思うの?」
「……」
「ひとりでデジタルワールドに残っても楽しくないし」
ネプトゥーンモンには悪いけど、と。少しだけ冗談めいて言った。
「キミが気にする事じゃないよ。今までだって、突っ走るキミを追って飛んで、掴まってきたんだ。それと同じさ」
「……向こうじゃもう、アウルモンにはなれないねえ」
フクロウさんとはしばらくお別れだ。──アタシは、眠る未春を静かに抱き上げる。
他の子供達は既に弔った。でもこの子だけは、一緒に連れて行く事にした。
ゲートを越えた瞬間、分解するだろうと言われたけれど、最期の瞬間まで抱いて、見届けて、見送りたかった。まったくひどいエゴだ。
「…………」
冷たくなってきた身体を、ぎゅっと抱きしめる。
たくさんたくさん抱きしめても、温かくはならなかった。
「……ミハル」
呼びかける。意味が無いと分かっていても。
「大丈夫。ちゃんと皆を、ミハルの家族を助けるからね」
誓いを立てる。届かないと分かっていても。
「……──だからおやすみ。アタシ達の、大切なパートナー」
別れを告げた。
◆ ◆ ◆
────そして。
騎士らの手にとって、リアライズゲートが開かれる。
眩しさの中に道が続く。アタシは光に飲まれていく。
隣には相棒を、腕の中には妹を。
進んで、進んで、生まれ育った世界を振り返る事なく。
進んで、進んで、やがて終わりに辿り着く。
光が溢れた。
腕に感じていた重さは、零れるように消えて行ってしまった。
◆ ◆ ◆
「────」
最初に見たのは、青空。
「…………」
晴れた空を見るのがあまりに久しぶりで、目が眩んだ。
隣には、少しだけ見覚えのある男の子が横たわっている。
それが人間ではなく、肉と皮を被った紛い者だとすぐに理解した。
「……、……アウルモン?」
ぱち、と瞼を開いた。少年は、慣れない身体を不便そうに動かす。
それからアタシを見て、アタシが纏う身体を見て、
「ああ……キミは、よりによってその姿に」
そう言って静かに涙する彼を、アタシは他人事のようにぼんやりと眺めた。
静かな時の流れに身を任せていると──ふと、遠くから声が聞こえてきた。
知らない声だ。敵意は感じなかった。
「────どうして、こんな場所に子供だけでいるんだ……!?」
人間だ。“大人”だろうか。ミハルよりもずっと大きい。
「お父さんとお母さんは!?」
「裸足じゃないか! そんな薄着で……おい、警察、警察!」
「君。名前は? 名字と名前、言える?」
名前を聞かれた。口にしようとした。
けれどその瞬間──自分がこれから、どんな世界で生きて行くのかを、理解して。
もう、“ミネルヴァモン”と名乗る事は出来ないのだと知った。
「……アタシの名前……」
やわらかな春の風が吹く。
あの子が二度と感じることのできない、あたたかな風が。
もう、あの笑顔で満ちることのない心を通り過ぎた。
「────アタシは、みちる。春風みちる」
さようなら。
アタシの愛した、小さな世界。
◆ ◆ ◆
──そうして紆余曲折、長くて短い人生の走馬灯もここまで。
「いーつにーなーってもー、わーすれーないー」
在りし日を想いながら、引き続き口ずさんでみたりして。やはり選曲は間違えたと思う。
いっそ皮肉を込めて大地を讃頌する歌の方が良かったかしら? 嘘だけど。
けれど、デジタルワールドを讃えたいのは半分本音。
こんな有様だけど、故郷の空気は肺に馴染む。と言うより自由で気楽なのだ。
リアルワールドの暮らしは思ってたより自由じゃなかったし。
人間だって、思ってたよりも「いい子」ばかりじゃなかった。
相棒と二人、慎ましく暮らしながら──いつか“お迎え”が来て、
『もう終わったから帰っておいで。家族に会わせてあげる』
なんて、言ってくれる日を望んだ事もあったけれど。
結局、マグナモン達は最後までリアルワールドに現れなかった。
だからアタシ達は、静かに穏やかに、いつか訪れる終わりを夢に見ながら。
テレビ画面に流れる子供の失踪事件のニュースに、ちょっぴり胸を痛めながら。
生きていた。
ここまで生きてきた。
そして────今、ここにいる。
アタシ達が巻き込んだ子供達のおかげで。アタシ達が死なせてきた子供達のおかげで。
兄さん達を救ってくれた子供達のおかげで。アタシ達の願いは今日、遂げられる。
もうすぐだ。
「嬉しいなあ」
やれる事は全てやった。ここから先は運と気合いだ。きっと大丈夫だと信じている。
後は──少しでも後悔の無いように、駆け回るだけ。
だからアタシは、最後の偽善を振りまく為に、ひとり向かう。
あの子達と同じ、アタシという『座標』に導かれてしまったであろう、哀れな仔羊の元へ。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
声が聞こえた。
聞き覚えのある、中性的な声。
凛々しくて、震えていて。
それを口から零す、黄金を身に纏った騎士は
「────、────」
泣いていた。
背中を震わせて泣いていた。
白くて、白くて、白い空間に。
居たのはその黄金と、虚空を呆然と見上げる黒紫。
その、白くて、あまりに白くて、気持ちが悪いくらい真っ白な空間に。
散らばっているのは何だろう。
「────、────また、駄目だった」
人形が落ちている。
人間の形をした何かが落ちている。いくつも。
「小生が、至らないせいだ。何もかも」
そう、あれは人形だ。
だってあんなにも、誰一人動かない。
だから“落ちている”──その表現が相応しいのだ。
そうじゃなかったら、
「許してくれ……赦してくれ……」
あの、ミハルによく似た、アレは。
「ねえ」
あれ、何?
どうして、
ミハルが落ちてる。
「────ああああああ!!!!」
後ろで、ヴァルキリモンが叫んで、駆け出した。剣を抜いて飛び掛かった。
でも騎士様は二人共、微動だにしなくて。ヴァルキリモンの剣を避けようともしなくて。
かと言ってそれは、彼を侮った訳でもないのだろう。きっと、そんな心の余裕さえ無かったのだ。
ヴァルキリモンは黄金の騎士の腕を切りつける。
騎士の胸に抱かれていた、ミハルを奪った。
「ミハル!!!」
何て事だ。どうしてこんな事に。ヴァルキリモンはそう叫んで、必死に未春を介抱しようとする。
アタシは、息をするのも忘れて、身体の動かし方さえ分からなくなって。
眼球を回す。転がる子供達を見る。
「────回路を使えば、イグドラシルは治る、筈なんだ」
霞む視界の端、黒紫の騎士が声を漏らした。
「人間の回路……育った回路が、我が君を」
「……嗚呼……何故、だって今度は、焼き切れないように……パートナーのデジコアだって介したのに……!!」
二人の騎士の会話。
内容が、理解できない。分かりたくもない。
「……! オリンポス十二神……」
今更こちらに気付いた騎士は、よりによって縋るような目を向けてきた。
「その子供は貴様のパートナーか……? ああ、こんな場所まで来たのだ。今度こそきっとそうだろう。あの二体でなく貴様のデジコアを使えば……『回路』はきっと我が君と繋げられる」
「……、……は?」
こいつは何を言っているのだろう。
それは、どういう
「ミネルヴァ!! ──ミハルは生きてる! まだ息がある!」
「……!!」
相棒の声にハッとして、騎士を無視してミハルを抱き上げる。
まだ、温かかった。か細いけれど息があった。
「連れて行こう! リアルワールドに……! 此処じゃ人間の治療は無理だ!」
危険な状態であろう事は、目に見えて理解できた。
たった一晩の間で、未春はあまりに衰弱している。────何が、あったのか。
すると、
「無駄だ。もう、間に合わない」
黒紫の騎士が、こちらに向けて何かを抜かす。
「回路の摘出に耐え切れなかった。この人間達は……いずれ果てる」
「──黙れロイヤルナイツ。それはただ、ボクらデジモンが無力なだけだ。お前達が何をしたのかは知らない、でも……何て事を!」
ヴァルキリモンは憤り、糾弾した。
「この子達は死なせない。絶対に生き延びさせる! ……だからリアライズゲートを開け。すぐに!! お前達なら出来る筈だ!!」
けれど騎士は弁解する素振りも見せず、ただ、告げる。
「駄目だ、駄目だ。その子達は帰れない。リアルワールドに帰したところで肉体が分解する」
「「────!?」」
「嗚呼、何故こんな事に。子供達はどれほど長い間デジタルワールドで生きていたのだ? 彼らの肉体はとうに変質した。人間のものとは明らかに異質な構成だ。……もっと肉体が正常であったなら、耐えられたかもしれないというのに……!」
「……違います、クレニアムモン。小生が……正しく回路を摘出できていれば、こんな事にはならなかった!!」
騎士の言葉に青ざめたのは、ヴァルキリモンも一緒だった。
つまり奴らはこう言いたいのだ。──『デジタルワールドに長くいすぎたせいで、子供達はヒトでなくなった』──。
────アタシ達が。
ねえ、もっと早くに答えを出して、この子を帰してあげていれば。
「…………」
兄さん。アタシ達は未春に、取り返しのつかない事をしていたんだね。
「……ミハル……」
頬を撫でる。
「……。……ごめんね……」
細く柔らかい髪を、撫でる。
「────……みぃ、ちゃ……ん」
すると瞼が微かに動いて、僅かに開いて──零れた声は、アタシの呼吸で掻き消されそうなほど小さかった。
「……ミハル、迎えに来たよ」
「……、……あの、ね? ……■■■、モンたち……」
「……え?」
「きて……くれた、から……みんなで……」
思わず耳を疑った。兄達が、此処に来ているのか?
兄達が来ていると言うなら──何故ミハルの側にいないのかは分からないが──とても心強い。加護を再び宿してもらえればアタシも帰れる。天使達の元まで行って、リアライズゲートを開いて──……!
「……無駄だと、言うのに」
「うるさい。お前はもう喋るな!! ──こっちを見ろ黄金、兄さん達は何処にいる」
「……、……そ、それは」
口ごもる。泳いだ瞳が上空に向いたのを、見逃さなかった。
即座にヴァルキリモンに目配せをする。彼は頷いて、アタシをミハルを抱いて飛び上がった。
「! 待ちなさい! 行ってはいけない……!」
力無き制止の声など聞こえない。
とにかく今は未春を、そして散らばった子供達を────どうにかして救う道を!
────だから、進まないといけないのに。
ミハルの声はどんどん、どんどん、小さくなっていくのだ。
「待ってて、もう少しだよ……! 兄さんが……」
「もう道がない! ミネルヴァモン、ここから先は走って探そう! ボクは向こうを!」
「……ッ! クソッ……なんで……いないんだよ誰も!! ヴァルキリモン、お前が見つけたら遣いの鳥を飛ばして! いいね!?」
飛ぶことを諦め、水晶の廊下を足で駆ける。
駆ける、駆ける、早く、速く、必死にミハルを抱えながら。
けれど。
その間にも、呼吸は浅くなって。
「頑張れミハル、頑張れ……! すぐに兄さんを見つけるから! 皆で帰ろう! アタシ達の家に帰ろう!! もう一人にしないから! だから……!!」
胸の鼓動も、遅くなっていって。
「……みぃちゃ……」
「なあに? ミハル……」
「……、……お、ねがい……ある……」
「いいよ、何でも聞いてあげる。ミハルのお願い、なんでもいっぱい聞いてあげる! 何して遊ぶのだって、どこに行くのだって、おいしいものを食べるのだって、何でも……!」
「──、んな……──を」
────皆を、どうか助けてあげて。
「ミハル」
そして、その言葉の後。
未春は深く深呼吸をした。
「ミハル?」
それから、返事をしなくなった。
「……え、……あ、」
辺りは、あまりに静かになって。
「あああ……あああぁっ……! あああああっ!!」
アタシは静寂を裂くように、叫びながら走り回った。
「誰か……!! 誰か助けて! ミハルを助けて!! ……兄さん!! どこ行ったの兄さん!!」
大切な子を抱き締めながら、必死に兄弟を探し回った。
本当にいるかも分からない彼らを、いるのだと信じて。
「ねえ!! ッ……どこに……行っちゃったの……兄さん達……」
この子を、助けて欲しかった。
「────! あ……!」
ふと、馴染みのあるにおいを感じ取る。
それが兄のものだと、すぐに分かった。ミハルを抱く手に力を込め、走る足がもつれそうになるのを必死に堪えながら走った。
辿り着いたのは暗い部屋だった。
怖いくらい静かで、けれど確かに中に兄達がいるのだと──確信を抱ける程、においが濃かった。
「兄さん!」
誰の気配も感じない空間に、声を掛ける。
「兄さん、兄さん!! ミハルが……!」
けれど、
「……兄さん?」
そこには、やっぱり誰もいなくて。
代わりに大きな水晶の柱が、いくつも立ち並んでいただけだった。
◆ ◆ ◆
水晶の中には、愛しい兄達の姿が在った。
◆ ◆ ◆
「────」
全身から力が抜け、ミハルを抱いたまま膝をつく。
体温が一気に下がり、震えと脂汗が噴き出していく。
周囲には、子供達と共に姿を消したデジモン達の姿も在った。皆同じく、水晶の中にその身を眠らせていた。
だが、どうでもいい。
そんなもの、そんな事、どうでもいい。
下で倒れていた子供達の事さえ────もう、どうでもいい。
「…………、……」
何もかも、無くなってしまった。空っぽになってしまった。
気付けば────アタシは無意識に、眠る兄達の前に少女を横たわらせていた。
小さな体の温度が下がっていく。
血と肉で構成された肉体に、何故だかノイズがかかって見えた。
その幻覚が、何を意味していたのかは分からないけれど。
この子はもう動く事も、目覚める事もないのだと、理解した。
アタシは、未春の頭を撫でた。手を握った。
顔にかかった長い前髪を、そっとかき分けてあげた。
────放心状態のまま、意味も無く部屋を出る。
美しい白の空間が出迎えた。
見上げれば、美しく煌めく光。
ああ、これはきっと神様の光だ。
だからアタシは手を伸ばして────光に乞う。
「返してくれ!」
叫ぶ。
「帰してくれ!!」
叫ぶ。
「兄弟をかえしてくれ! あの子をかえしてくれ!!
お願いだから、神様!!!」
────ああ、けれど。
どれだけ願っても、祈っても。その果てには何もない。
誰も助けてなんてくれない。誰も救ってなんてくれない。
アタシの大切なものを、アタシの小さな世界を、助けてなんてくれやしない。
そしてアタシは……何度、同じ事を思ってきただろうか。
だって、ねえ。本当に、こんな事になるんだったら、
「アタシが最初に死ねばよかった!!!!」
「────やめて、ミネルヴァ」
自らの喉に食い込ませた、剣の切っ先が止められる。
あたたかな感触。手を、体を、包み込んだ。
「それだけは、やめてくれ」
それでもアタシが剣を取ろうとするから。
ヴァルキリモンはアタシの腕に矢を突き刺す。アタシが自身の喉を裂くことができないように。
「…………なあロイヤルナイツ。どうして、あの二人が」
彼の後方には黄金と黒紫が、空っぽの瞳でこちらを眺めていた。
「お前達と同じだ。察して、気付いて、此処まで来た。────私達はそれを、受け入れて」
けれど毒の真実を。世界の真実を。子供達の現実を、惨状を。
全てを知って、激昂して、糾弾して────剣を抜いたから。
黒紫の言葉は、信じられなかった。だって兄達が敗れるはずない。
けれど現実は見ての通り。──生け捕りにされて、天に喰われた。
「ミハルが……彼らがどうして、こうならなきゃいけなかったんだ。世界を救おうとしただけじゃないか」
「────彼らは世界を、救おうとしてくれた。だからこそ……」
誰より冷静であろう黒紫は、それでも声を詰まらせていた。
「……人間の回路が、我ら電脳生命体に恩恵を……ならばそれは、創造主イグドラシルに対しても、同じ事だった」
「でも皆、死んだじゃないか」
「回路が焼き切れた。神との接続に耐え切れなかった。だから、パートナーなるデジモンの達のコアを使って、そうならないように」
「そう、なったじゃないか……!」
「まだだ!! まだ……そのオリンポスのデジコアを繋げば回路は繋げられる! あの人間も再び起動するかもしれない! もっと数が必要だ……もしくは変質する前の肉体……いいや、いっそ変質したのならば我が君の苗床に────」
「……! お前……ッ」
「クレニアムモン!!」
黄金が叫ぶ。
「もう……いい……!」
そのまま、泣きながら、地面に頭を擦り付けた。
何をしてるんだろうと思った。そんな事をしても、未春は帰って来ないのに。
「全ては……小生らの、不徳の致すところ」
「……何が、『もういい』のだ、マグナモン」
「我らのせいだ。イグドラシルを止められなんだ、我らロイヤルナイツの罪は……どうあっても贖い切れるものではない。これ以上はもう……!」
「頭を上げろマグナモン。……逃げるな!!」
黒紫は黄金の首元を掴み上げ、強引に目と目を合わせる。
「我らは盟友達を殺した。地上のデジモン達を殺した。人間達を死なせてパートナーを殺した。それを無駄になどしてたまるものか!! 何があっても何としてでも世界を! 毒の無い世界を!! イグドラシルが涙しない世界を造らねばならぬのだ!!」
演説かのように高らかに叫ぶ、黒紫の声に吐き気を催した。
黄金の瞳は虚ろだった。死んでいるという表現が正しいと思った。
「……そうだとも。回路もデジコアも、我が君と繋げないなら結界の補填に使うしかあるまい。盟友達の結界はじき完成する……!」
「そこまでの行為を盟友達が望むと……!? クレニアムモン、小生らが間違っていたのです。小生らの手段が誤っていた!」
「至らなかった事は認める。だが……他に道はないだろうマグナモン。イグドラシルの修復プログラムの目処が立たぬ以上、そして結界が永劫続く保証も無い以上……毒はいつか再び降り出すのだ! デジタルワールドは、我が君の世界は真に消滅するぞ!」
気持ちが悪い、くだらない言い争い。しかし冷え切った心には、その言葉の羅列がスッと入り込んできてしまう。
「────なら、せめてアタシを」
それ故だろうか。気付けば口を開いていた。
殺してしまいたい程、醜悪に見える騎士達に声を掛けていた。
「アタシのデータを、デジコアを使えばいい。代わりに仲間を、今すぐ解放してくれ」
だって、同じオリンポス十二神の、究極体のデータだ。取り替えたって不足はない筈。
二体が無理なら、せめて一人だけでも。どちらかなんて選べないけれど、より生存する可能性が高い方が救われればいいと思った。
アタシが生きているよりは、その方が良い。
そしてミハルの亡骸と共に、ネプトゥーンモンの所へ帰ってくれるなら。
だが、
「……駄目です、それは出来ない」
一握の期待は、その一言で容易く打ち砕かれる。
「彼らの肉体はいずれも、既にその形を保っていないのだから」
水晶の中で動かない手足も。眠るように閉じられた瞳も。
ただのデータの残滓。あの中に実在するのは、彼らの電脳核のみなのだと黄金は言った。あの水晶から出て空気に触れた瞬間、崩れていくのだと。
そうか、と思った。────ああ、そうなんだ。
それだけだった。けれどすぐ、息が詰まりそうになった。
こんなにも、現実は残酷だっただろうか。苦しかっただろうか。
『────警告、警告。天上部に空間遮蔽層の構築を確認。ロイヤルナイツ各位は直ちに対処へ当たって下さい。警告、警告────』
無機質なアナウンスが響く。
アタシの頭には、その言葉は入ってこなかった。けれど二人の騎士は目を見開いて天を仰いだ。
「…………クレニアムモン。結界が……!」
「……警報停止。それは騎士達が遺した希望である。繰り返す、警報を停止せよ」
『────声紋を認証。警報を停止します』
プツン、と何かが切れる音がして、静かになる。
黄金は両手で顔を覆っていた。黒紫は、深く深く息を吐いた。
きっと完成したのだろう。奴らの言っていた結界とやらが。毒から世界を守ってくれる光が、誰もが待ち望んでいた救いが。
──これっぽっちも、喜べやしないけれど。
だってそれは、あまりに多くの命を燃やしてようやく出来上がったのに。
そのくせ薄っぺらくて期限付き。いつまた毒を降らせるか分からない時限爆弾、だなんて。
僅かな安堵さえ抱けない。
毒が降らなくなったって、大切なものは何ひとつ戻ってこないのだから。
目の前の騎士達は少しだけ喜んでいた。
けれど、これまでとこれからの背徳へ抱く罪悪感に、顔を歪ませていた。
ああ────きっと、「救いがない」とはこういう事を言うのだろうと、アタシはぼやけた頭で思う。辺りにはただ、虚しさだけが溢れていた。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
ああ──だからさ、あの時。
アタシが無理にでも笑って、「大丈夫」って言っておけば、よかったんだよ。
なのにあんな醜態を見せて。情に深い兄が、それを聞いた優しい兄が、心配しない筈がなかった。
夜明けになって戻ってみれば、この様だ。
神殿にいたのはアタシとヴァルキリモン、そしてネプトゥーンモンの三人だけ。二人の兄は、一足先に発ってしまっていた。
──それを知ったアタシは、番をしていたヴァルキリモンに掴み掛かる。
だってお前、あの二人を見す見す行かせたって事だろう?
「ごめんね。でも、頼まれたから」
「……ッ!! ────ネプトゥーンモン!!」
怒りで揺れる視界の端では、同じく加担したであろうネプトゥーンモンが俯いていた。
「どうして二人だけで行かせた!? どうして……わざわざアタシに悟られないように……!!」
理由や経緯はどうあれ、アタシを激昂させるには十分な事実。兄達の加護を得られなければ、アタシは戦えないのに。
「……ねえ、まさか……またアタシだけ残れって? いつもみたいに此処で待ってろって言いたいの!?」
「……──」
「ディアナモンとマルスモンが死んだのも! ミハルが消えたのもアタシのせいだ!! なのにアタシは罪滅ぼしをする事さえ許されない!!」
「ミネルヴァモン、それは……」
──感情が溢れていく。言葉が、止まらない。
「それとも家族ごっこが過ぎて皆、アタシが成長期か成熟期にでも見えてたわけ!? ミハルと同じ庇護対象だった!? もしそうなら──」
違う、違う。こんな事が言いたいんじゃないのに。
「──舐めるなよネプトゥーンモン。望むならお前のキングスバイトと我が大剣オリンピア、今この場で交えてみせようか!!」
アタシは────その時ネプトゥーンモンが見せた顔を、忘れる事はないだろう。
「…………ミネルヴァモン……」
ネプトゥーンモンは槍を構えるどころか、両手を上げて敵意の無さを訴えていた。
大きな両手はアタシの肩をそっと掴む。その手も、低い声も──ひどく震えていた。
「……太陽の加護は、陽が昇れば自動的に付与される。……筈だ。お前達を死なせない為に、あいつは此処に宿していったよ。
お前は……私がお前の尊厳を傷付けていた事を、許さなくてもいい。だが、お願いだ。これだけは」
どうか生きていてくれ。
生きて帰って来てくれ。
どうか、どうか。
「……」
それは、ネプトゥーンモンの心からの懇願。
先に発った二人にも、同じ言葉をかけたのだろうか。かける事が、できたのだろうか。
「──もうすぐ日出だ。太陽の加護がキミに宿る。ミネルヴァモン、そろそろ海を上がらないと」
「……。……お前はアタシと来て。ミハルと二人を連れて帰るよ」
振りほどくように、ネプトゥーンモンの手から離れていく。
共に向かう選択肢をはね除けて、彼だけを置いて去ろうとする。
アタシは、
「ごめんね兄さん」
その、一言だけ。
なんとか絞り出したけれど、他には何一つ、伝える事ができなかった。
◆ ◆ ◆
雨が降る。
世界に、雨が降る。
美しい景色。
おぞましい景色。
命が溶けていく光景。
「ヴァルキリモン! こっちは全滅だ、次に行く!」
降り注ぐ雨の中。鎧のように加護を纏って、情報を得る為だけに駆け巡り──背中に投げ掛けられる声さえ見捨てて走った。
太陽の加護は続いても半日。それが役目を終え、海の加護へと切り替わった瞬間──ウイルス種たる自分は退避を開始しなければならない。
こんな雨の中で加護が切れたら終わりだ。時間も捜索可能範囲も、あまりに限られている。
だからこそ的は絞った。捜索対象はあくまで、人間とパートナーになった究極体──彼らが所属していたコミュニティに限定した。そうすれば、何かしらの情報が得られると踏んでいたのだ。
「──次、次だ! 誰か生きてそうな場所……!」
だが──どいつもこいつも既に亡く、究極体という柱を失った集団は悉く毒に飲まれていた。
あらゆるものが溶解して平らになった大地、人影を探すのは、それはもう楽だったとも。
辛うじて息のあるデジモンを見つけては話を聞く。が──そもそも何も知らないか、「気付かぬうちに姿を消した」と言うばかり。何の役にも立ちはしない。
時間がない。
焦燥感に潰されそうになる。時間がない、あまりに足りない。
どうして、デジタルワールドはあんなにも命で溢れかえっていたのに。
どうして皆生きていないんだ。どうして誰も知らないんだ。世界を救うなんて名目で奔走する羽目になった、可哀想な子供達を。どうして誰も────アタシは、守ってやれなかったのだろう。
「行き先を変えようミネルヴァモン! 大聖堂に向かう!」
「!? でも……天使達は何も知らないって……!」
「違う、彼らのデータを分けてもらう! 少しでもキミが動けるように!」
時間を忘れて駆け回るアタシに対し、ヴァルキリモンはしきりに加護の起動時間を気にしていた。──当然と言えば当然だ、直接毒を浴びれば、アタシは尤も厄介な「究極体の汚染個体」と成り果てる。そこから先は言わずもがな、只々地獄が待ってるだけだろう。
ヴァルキリモンはアタシを抱えて飛び上がり、聖堂都市へと方向を転換する。
空に上がっても尚、立ち込める毒のにおいが鼻を突いた。動きを止めると集中力が切れ、一気に嘔気が押し寄せる。彼の胸に嘔吐しそうになるのを必死に堪えて────ぼやけた思考を、気合で回転させていく。
「……っ……」
考えろ、休むな、考えろ。
三大天使。天使の軍団。聖なる都市に、天まで聳える大きな聖堂。アタシみたいなウイルス種はお呼びじゃない、あんなに神聖でありがたい場所でさえ子供達を守れなかった。
天使の結界も海神の結界も、意味を成さない転移の能力。
ああ、あまりにチートすぎる。ルール違反じゃないか。卑怯じゃないか。……そんな力があれば、今すぐだってミハルの所まで行けるのに。
けれど──そんな大層な力なんて、きっと、神様のお許しでもなければ手に入らないのだ。
「──……あれ?」
ふと、自分の思考に疑問を抱く。
「神様」
そう、神様。
アタシは────思い出す。以前、神殿でアウルモンに聞かされた話を。
毒で塗られていく世界。
そんな世界を救おうと、数ある勢力が敵味方の垣根を越えてまで挑む中──未だ目立った動きを見せていない奴らが、いただろう。
どれだけ三大天使が救援要請を出しても、静観を決め込んでいた彼らが。
「……ロイヤルナイツ……」
デジタルワールドを運営する、創生者の騎士達。それはそれは偉大で、強大な。
頭の中に雷が落ちるような錯覚をした。
身体の中に衝撃が走り、衝動が響いた。
どうして気付かなかったのだろう。今この時まで、浮かばなかったのだろう。例えこじつけであったとしても────子供達の失踪が彼らに由るものだとすれば、あらゆる辻褄が合ってしまうのに。
各地に構えられた結界を容易に越える力だって。それぞれ究極体に守られていただろう子供達を、襲うような力だって。
ロイヤルナイツなら、「ああそうか」と納得できてしまうじゃないか。
────それはきっと、アタシの人生における最初で最後の名推理。
「行ってみるかい、ミネルヴァモン」
ヴァルキリモンは、信じてくれた。
「聖堂よりももっと高い、空の上だ。辿り着く前にキミの加護が切れる」
「……世界で一番、特別な場所なんでしょ? きっと毒だって枯れてるよ」
「根拠は?」
「第六感」
「ああ……なら、きっと確かだろうね」
現実問題、アタシ達にはもう他に選択肢が無かった。
地上を駆ける時間が残されていないなら、ようやく掴んだ可能性に賭けるしかない。それが、無謀だったとしても。
「でも──……もしアタシが毒になったら、その時はすぐ落としてね。悪いけど、そこから先はお前に託すよ」
「検討だけしておくさ、相棒」
ヴァルキリモンは、アタシ共々その高度を上げていく。
天使達の領域よりも遥か遠く、もっと、もっと、天の上。神様の領域を目指して。
◆ ◆ ◆
空は灰色。雨模様。
兄達の加護に弾かれる毒は、高度に相関して濃度と粘度を増していく。──嫌な予感がする。
例えばアタシの理想通りに、一定以上の高度を越えた途端、空が鮮やかに晴れたなら────世界を巻き込んだ犯人は明白。神と騎士達が悪意を持って、この世界を殺そうとしているという事になる。
でも、もし神様の領域にまで毒が広がっていたら?
だから、子供達を連れ去ったりしたのだとしたら?
縁起でもないが、その時は間違いなく世界ごと全滅だ。
──こうして思考を巡らす間にも、ヴァルキリモンはどんどん空を昇っていく。
既に太陽の加護は尽きた。海の加護が発動しているが、空の上では長続きしないだろう。
地上はもう見えない。
空の先も、見えない。
早く辿り着いて欲しい気持ちと──これでミハルが居なかったら、自分達は無念にもゲームオーバーとなる、そんな不安とが胸の中でせめぎ合っていた。
そうして段々と息苦しくなり、空の中で溺れそうになった頃、
「────ミネルヴァモン、あれだ」
アタシ達は辿り着く。
遠い空の果て。究極体の翼でさえ、やっとの思いで届いた天の領域。
強固な結界を幾重にも纏いながら、美しい巨塔は浮かんでいた。
毒は見えなかった。けれど、塔の上部には真っ黒な雲が浮かんでいる。
「……で、。着いたのはいいけど、下手に飛び込んだら結界で蒸発するやつ?」
「ボク程度でも辿り着けたんだから、これで結界まで甘かったら侵入し放題だろうね」
「それもそうだ。……じゃあ、ダメもとだけど」
騎士相手に対話を望むなら、それ相応の態度を示さなければならないだろう。
彼らに届くかは分からない。防犯用の録画媒体が設置されてる事を願いながら、アタシは塔に向かって声を上げた。
「────我はオリンポス十二神が一人、戦女神ミネルヴァモンである!!
創造神に仕えし騎士達よ! 僅かでいい……どうかお目通り願いたい!!」
声は空に吸い込まれて、消えていく。届いたのか、届いてないのか。
「ロイヤルナイツ!!」
気付いてはくれないだろうか。
もし此処にミハルが居なくても、何か一つでも手掛かりを。
「子供達はデジタルワールドを救う為に連れて来られた! デジモンの都合で連れて来られたんだ!! 世界を管理する貴方達なら何か知ってるだろう!?」
だってアタシはここまでだから。加護はとっくに消え果てて、地上へ戻る過程で毒に飲まれる。
だから──ねえ。欠片ほどでも得るものがあるなら、アタシはそれをヴァルキリモンに託して逝けるから。そしてヴァルキリモンは、兄達へそれを繋げてくれるだろう。
どうか────
『────入場を承認します。オリンポスの蛇姫』
声が聞こえた。
空間全体に響いたアナウンス。中性的で凛々しくて、けれどどこか震えている声。
静かになると、浮かぶ結界の一部が解放され始めた。一枚ずつ、ゆっくり──それを目にしたヴァルキリモンはすぐに中へ飛び込んだ。
「「……」」
あまりに易々と事が運びすぎて、思わず罠なのではと勘繰ってしまう。しかし疑ってみたところで進展もしない。アタシ達は、神の領域へと足を踏み入れた。
塔の中は、美しかった。
地上の地獄が嘘のよう。水晶と大理石で構成された無音の世界。
出迎えは無い。それどころか誰もいない。自分達の侵入を許した声の主も、姿を見せない。
「────」
好きにしろ、とでも言いたいのだろうか。
「ロイヤルナイツを探そう」
ヴァルキリモンはアタシの手を引いて、どこまでも続く螺旋階段を飛び越えていく。
塔の中はどうなっているのか。どんな構造になっているのかも分からない。声の主は何処にいるのだろう。子供達は、何処にいるのだろう。
塔の天井は続く。
空の果てに在るのに、更にその先へ。ずっと、ずっと。
だが────誰もいない。
「何処だ!!」
誰も、どこにもいない。
「ロイヤルナイツ! お前達は何処にいる!!」
此処だけ別の世界になってしまったみたいに、思った。
やがて────螺旋階段の先に、僅かな空間の揺らぎを見つけた。
そこに見たのは浮遊する水晶の鳥籠。アタシ達を迎えると、そのまま先の空間層へと連れて行く。
その先はまた綺麗な空間だった。
先程とあまり変わらない内装。階段があって、いくつもの部屋があって、扉が浮かんでいて──眩暈がする程美しい。
美しすぎて吐きそうになる。
「また、あの籠だ」
長い長い時間をかけて進み、また、空間の揺らぎまで辿り着いた。
「……あの籠はキミによく似合うね、ヴァルキリモン」
「同感。いっそボクが囚われのお姫様なら良かったのに」
上昇しすぎて頭がおかしくなったのか、相棒はそんな冗談を言ってみせた。
鳥籠はまた、アタシ達を出迎えて。
運んでいく。どこまでも、どこまでも。
そして、鳥籠がアタシ達を連れて行った先は────。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
月の神殿での一件から、ある程度の月日が経過する。
アタシは今日もお留守番。子守をしながらお留守番。
泣いてばかりだった未春も、最近ようやく笑顔を見せるようになってきた。
「姉さん達はいなくなっちゃったけど、また会えるから、悲しまなくていいんだよ」
未春にはそう話したが──実際、二人はあの場でデジタマを生成しなかった。
だから、同じ個体として発生する事はもう無いのに。「人間と違ってデジモンの命は繰り返すから、二人はちゃんと生まれ変わって会いに来るよ」なんて言っていたのだ。
嘘ばっかり。でも、薄情なアタシは涙ひとつ見せないから、きっと説得力があったのだろう。
「いつになったら戻って来るかなあ」
未春は信じて、そんな事を言い出すようになっていた。
一方、ネプトゥーンモンはひどく傷心し、塞ぎがちになってしまった。
他の二人の兄も、毎日がむしゃらに戦いに出てはボロボロになって帰ってくる。……どこか、自棄になっているようにも見えた。
こんな事なら。こんな事になるなら。
どうして──アタシは此処にいるのだろう。
「ごめんなさい」
傷を癒した直後、再び戦地へ向かう兄の背に、懺悔する。
「────どうしたんだい、急に」
振り向いた兄は、穏やかに笑ってくれていた。
「生きてるのが、アタシでごめんなさい。■■■モン、あなたの妹はディアナモンだったのに」
「……、……ミネルヴァモン」
「アタシの所為なんだ。アタシが……知ってたのに、何もしなかったから」
優しい彼はやっぱり、アタシを責めはしなかった。
それどころかアタシを抱き寄せて、震える声で
「そんなこと、言わせてごめんな」
どうして彼が謝るのか、分からなかった。
「ごめんな……」
やめて。言わないで。
どうせなら張り飛ばして、思い切り叱ってくれたら良かったのに。
もう一人の兄もまた、戦っては傷を癒して、纏う加護が続く限り無茶を繰り返す。
彼はウイルス種だから、脚が速くたって危ないのに。
今日も彼は外の浄化に向かおうとしていた。
そんな背中に、少しだけ冗談交じりに声を掛ける。
「雨合羽でも作ろうか?」
もしくは傘でもいい。そうしたら、少しでも安心だろうから。
「アウルモンの羽をむしって作ってあげるよ」
「はは。そんな事したら彼が泣いちゃうよ。……大丈夫、すぐに戻る。僕には時間制限があるからね」
この兄もまた、頑張って作った笑顔を向けてくれるのだ。
「ところで、ネプトゥーンモンはまだ部屋に?」
「……うん。塞ぎこんでる」
「…………無理もないか」
すると兄は踵を返して、石柱の側に腰を掛けた。
「これまで……領地のデジモン達が、死んでいくのが悲しかった。……でも……、……家族が死ぬのは、こんなに苦しかったんだな」
そう言って、両手で顔を覆う。
「ああ、嫌だな」
指の隙間から声が漏れた。
「大切な誰かを失くすのは、もう嫌だ」
そんな彼に、アタシは、どう声をかけたらいいか分からなくて。
けれどアタシが謝れば、むしろ彼を傷つける事は分かっていたから。
「兄さん達が泣いてるのを、見るのは辛い」
それしか、言えなかった。
「ミネルヴァ。……お前は、最後まで笑っているんだよ」
愛情深い大きな手が、アタシの頭を撫でる。
アタシは「もちろん」と答えた。意地でもそうするよと言うと、兄は、少しだけいつもの笑顔を見せてくれた。
◆ ◆ ◆
それから、更に月日が経過する。
未春がデジタルワールドに来てから、どれほど時間が過ぎただろう。
もう、それさえ曖昧だ。数か月……半年、それとも一年だろうか?
けれど残念ながら、それだけ経っても世界の情勢は改善していない。
天使を含む他の勢力も、もうだいぶ疲弊してきているらしい。
彼らもご愁傷様だ。わざわざ子供まで誘拐してきて──本当ならもっと早くに解決している予定だったろうに、
他の子供達の様子は知らない。……生きているといいのだけど。
聞くところによれば、子供達の年齢に大きな幅はないとの事。つまり未春と同様、リアルワールドでは学び舎に通う幼子の筈だ。
大丈夫なのだろうか? ──と。アタシ達はここでようやく、漠然とした懸念を抱き始めていた。
この世界に誘拐されてから、未春は一度もリアルワールドに帰っていない。
人間としての教育を受けられていない。何より、家族と会えていないのだ。
勉強に関しては、籠りがちなネプトゥーンモンが勉学を教える形でなんとかフォローできている。しかし後者はどうにもならない。
リアルワールドでの彼女の扱いはどうなっているのだろう。
この子がいなくなって、本当の家族は心配しているだろうに。
「そういえば、デジタルワールドとリアルワールドじゃ時間の流れが違うらしいよ」
ある日。アウルモンが、そんな情報を仕入れてきた。
「こっちの方が十倍は速いらしい。もっとも毒のせいでデジタルワールド自体が歪んでるから、そのうち変わってくるかもしれないけど」
「……じゃあ実際、ミハルはリアルワールドだと、一ヶ月くらいしか姿を消してないって事になるんだね」
「一ヶ月『しか』、じゃない。ミネルヴァモン、一ヶ月『も』だ。あんな小さな子がそんなに行方知れずだなんて……きっと事件になってるよ」
それ以上に──と。アウルモンは「ある事」について、何より危惧しているようだった。
「そもそも、人間がこんな長い期間デジタルワールドにいて、身体に影響とか無いのかな」
────電脳空間に、血と肉で構成された生き物が暮らす事。
考えてもみなかったが、確かにそうだ。
だが──その「何かしらの影響」を調べる為の知識も、技術も、手段も、アタシ達は持ち合わせていない。
アタシ達は怖くなった。
未春はずっと安全圏に隔離している。けれどこの世界にいる以上、この先何も起きないなんて保証はない。アウルモンが言ったように、外傷以外の要因が彼女を傷付ける可能性だってある。
この子は、生きて帰してあげなければ。
この子が無事なうちに、リアルワールドに帰してあげなければ。
──そして、後日。
オリンポス十二神は、とある一つの決断を下す。
◆ ◆ ◆
「ミィちゃん。今日もお留守番だね」
「留守電だねー」
「今日は皆、無事に帰ってきてくれるかなあ」
「もうとっくにボロボロだからねえ。……本当、アタシにも手伝わせてくれればいいのに」
「でも、ミィちゃんが怪我するのはやだよ」
「……ありがとう」
俯く未春の頭を撫でる。
ああ、未春はいい子だね。優しい子だね。アタシ達は、君の事が大好きなんだ。
「ねえ、ミハル。兄さん達と話したんだけど」
────生きていて欲しい。
「そろそろ、おうちに帰ろっか。って」
けれどこの言葉が──彼女を傷付けてしまう事は、分かっていて。
だからこそ、その役割はアタシが一番相応しいのだ。
「……私、もう家族じゃないの?」
ほら、今にも泣きそうな顔を浮かべている。
「家族だよ。アタシ達はずっと家族。皆ミハルのことが大好きだ」
「だったら、なんでそんなこと言うの……?」
「でもねミハル。デジタルワールドにキミがいつ来たのか、誰も分からないくらい……ここで長い時間が経ったの。キミには本当の家族もいるだろうし……」
「そんなのいない……帰ったって家族なんていない! つまらない『シセツ』に戻るだけ! 私は皆と一緒にいたいよ、私の家族は皆なんだよ……!」
「……っ……それにリアルワールドには、ミハルがこれから歩んでいく未来がある。このままデジタルワールドに居続けるわけにはいかないんだ。
アタシ達はミハルが大好きだから……元気に帰って、人間の世界で人間として、幸せに生きていって欲しいんだよ……!」
それは彼女を帰すための口実ではない。アタシ達全員の、紛れもない本心だった。
「でも!! ……ねえ、私……デジタルワールドを助けるために、連れてこられたんでしょ……?」
天使達が、アタシ達が、身勝手に負わせた下らない“使命”。
そんなもの投げ捨てて、自分の命を大事にすればいいのに。
「私がいなくなったら、ミィちゃんたち、どうなっちゃうの」
けれど彼女にとって、それを放棄するという事は──デジタルワールドを、デジモンを、アタシ達を見捨てる事。見殺しにする事とイコールだったのだ。
「アタシ達は」
そんな選択、この子に出来るわけがないのにね。
「いつか、会いに行くから」
「……嘘」
だからアタシは──この子の腕を引っ張ってでも、連れて行かなきゃいけない。
「私、帰らない。ずっと皆といるの! 帰れなんて言わないでよ!」
「ミハル……!」
泣き喚く未春の腕を掴もうとする。
だが、未春は振り払った。力でアタシに敵う筈がないのに、振り払って、目を真っ赤にさせて、
「どうしたら幸せかなんて、そんなの私が決めるんだから!」
────そう叫んで、走って行ってしまった。
「……ミハル……」
小さな声で、呼んでみるけれど。
「ごめん……」
あの子には届かない。
アタシは震える手を握る。
──振り払われるのも当然だ。掌には力なんて、これっぽっちも入らなかった。
◆ ◆ ◆
「失敗した」
外で待っていたネプトゥーンに、そう声をかける。
彼は予想していたのか、短く「そうか」とだけ答えた。……本当ならこのまま、未春を連れて天使の元へ向かう筈だったのだ。
「すまない。嫌な役をさせて」
兄が謝る事ではない。自分がやるべきだと思っただけだ。──結果はご覧の通りだが。
「……兄さん達……先に聖堂、行っちゃってるから……」
「呼び戻してくる。きっとまだ道中だろう」
「帰ったらミハルをフォローしてあげて。部屋に篭っちゃってるんだ」
「……、……ああ」
もう一度、今度は全員で話し合おう。
不器用すぎる兄は、それだけ言い残して去っていった。
「────」
哀愁漂う背中を、ひとり見つめる。
「……うまくいかないなあ」
何もかもが空回り。何もかもがアタシのせいで。
自由気儘に外を駆け回っていた、懐かしい時間と自分は何処へやら。
そんな自己嫌悪に溺れていく。
冷たい石のテーブルに突っ伏して──それはもう、長いこと。
────気付けば、いつの間にか眠ってしまっていた。
「──、──……! ──!!」
どのくらい眠っていたのだろう。
うなされるアタシを睡眠から引き摺り下ろしたのは、ヴァルキリモンの声だった。
「…………ん、何……」
「ミネルヴァモン!! よかった……!」
彼にしては珍しい、大きな声が神殿に響く。アタシは中途半端な覚醒に頭痛を覚えながら、彼に不機嫌を振り撒いた。
「無事だね!? 何も起きてない!?」
「……何の事かさっぱりですけど。絶賛ネガティブ中なので放っておいて──」
顔を上げて、目を疑う。
「……ヴァルキリモン。どうしたの、怪我……」
「ボクの事はいい! それよりミハルは!? 一緒じゃないのか!?」
「ミハルなら自分の部屋に……」
それだけ聞くと、ヴァルキリモンは直ぐに部屋へと向かう。彼のいた場所に、白の羽がいくつも舞った。
「ヴァルキリモン……ちょっと、アウル!」
追いかける。あの子の部屋の前で、ヴァルキリモンは大声で名前を呼んでいる。
内側から鍵がかけられているのだろう。回らない取っ手がガチャガチャと音を立てた。
「ミハル、ボクだよ!」
「ま、待って。ミハル、部屋から出てこ