◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
────別に、ご立派な大義名分なんて無いんだ。
それを頼まれた訳でもないし、成し遂げたからって感謝される訳でもない。
余計なお節介だって、否定される事さえあるだろう。
詰まる所はただのエゴ。
一方通行な気持ちの押し付けだ。
──ああ、分かっているとも。
「それでも約束したんだ」
勝手に交わした願い事。
果たす為にここまで生きて、そして今、此処に在る。
*The End of Prayers*
第二十九話
「約束」
前編 ― 星に願いを ―
◆ ◆ ◆
宿舎棟の二階。食堂として使われていた大広間。
いつも出迎えてくれる温かな食事達は無く、今はテーブルクロスさえ片付けられている。
子供達は緊張した面持ちで着席した。──宿舎に戻ってきた理由は、休息ではなく作戦会議だ。マグナモンが遅れて戻ってくるまでの時間も、どこかソワソワして休む事などできなかった。
「……ホーリーエンジェモンさんたちは?」
蒼太が尋ねる。
「都市の皆は来ないの?」
棟の出入口にはレオモンが待機しているが、天使達の姿は無い。通信も柚子達としか繋げていない。此処にいるのは自分達だけだ。
「彼らには、彼らのやるべき事がありますので」
「……そっか」
「……先程の騒動を気に病んでいるのかもしれませんが……元を言えば小生が原因だ。各々方が負い目を感じる必要はありません」
あらゆる責任の所在は自分達なのだと、マグナモンは頑なに主張する。──そう言われたからといって、早々に切り替えられるものでもない。気を落として俯くユキアグモンに、誠司は「終わったら一緒に謝りに行こう」と、そっと声を掛けた。
「────では、各々方。こちらをご覧下さい」
円を描くようにテーブルをなぞる。指で辿った跡が発光し、回転する。──その空間に、とある立体映像が投影された。
映っているのは白い塔だ。リアルワールドにおける創世記に登場するものと、よく似ている。
その外壁は巨大な水晶の樹によって覆われていた。最上部では、透き通る枝葉が空に向けて広がり伸びて──何も知らずに見れば、ただただ美しい建築物だ。
「これが、天の塔。我らの創造主イグドラシルが座し、デジタルワールドを運営する管理塔です」
だが、この場所こそが毒の泉であり、リアルワールドから誘拐された子供達の監獄。あらゆる諸悪の根源に他ならない。
「各々方には、第二層に御座します我が主を、最上部の座までお連れいただきたい」
塔の内部は大きく四つの層で構成されている。
創造主が本来在るべき最上部、天の座。そして第一層から三層。
イグドラシルを宿したカノンという少女は第二層に、一方、未帰還の子供達は第三層に収容されているとマグナモンは言う。
「各層同士は直接繋がっておりません。今目の前に居る各々方とワイズモン達とのように、空間そのものが異なっている」
つまり、単純に天井を突き破っても最上部には進めないという事だ。
普段であれば、各層を往来する際には専用の移送機を用いるらしい。カノンが騎士らと乗ったエレベーターらしき機械がそれだ。
『移送機が破壊された場合の対処は?』
「別途デジタルゲートを開く必要がありますが、貴女が付いていれば問題無いでしょう」
──と、なれば。一行が取るべき作戦は単純明解だ。
マグナモンが一行を天の塔へ送り届けた後。自分達を迎撃するであろう、クレニアムモンなるデジモンを撃破。
並行してカノンとイグドラシルを捜索し、共に最上階の天の座へ。
作戦が完了したら、カノンと第三層に収容された子供達を連れて地上へ帰還する。
「ああ、ウチみたいな馬鹿にも分かりやすくて結構だ」
明るく言いながらも、テイルモンは苦い顔を浮かべていた。
「でも驚くほど上手くいく気がしない。簡単に言うなって逆ギレしそうな位だよ」
『不本意ながら尤もですわ。そもそも塔の周囲一帯には、外部侵入を防ぐ為のファイアウォールが設定されている筈。……これ、生半可な物ではないですわよね?』
いわば、フェレスモン城の結界の上位互換だ。そのまま突っ込めば全員が即死、良くて致命傷。どちらにしても最悪な結果となる。
「仰る通りですが、各々方には事前にライトオーラバリアを施しますので」
──そう。いくら強固な結界とは言え、不可侵の障壁を纏っているなら話は別だ。しかも塔のデジモンが作り上げる物となれば、突入時の安全性はほぼ約束されると思って良い。
『それは、侵入後も? 貴方の障壁を纏ったままでは、戦闘どころか物質に触れる事さえ出来ないでしょう』
「ええ。ですので侵入後、小生の障壁は解かれるものと思って下さい」
『分かりました。では内部のファイアウォールに関しては、今回は貴方の権限で全て停止する、という認識で間違いないですね?』
すると、それまで事務手続きのように淡々と進められてきた会話が止まる。
僅かな沈黙の後。マグナモンは若干、目を逸らしながら──小さな声で「いいえ」と答えた。
「……突入後は、内部の防御機構が作動し……各々方を排除にかかるかと」
『────は?』
ワイズモンは思わず声を上げた。
『は??』
もう一度、声を上げた。
『作動するのですか?』
「ええ、作動します」
『排除にかかるのですか?』
「ええ、かかります」
『貴方、塔の管理者なのでしょう?』
「……セキュリティ解除の権限は我が主のみに……ですがイグドラシルには最早、塔を管理できる力は残されていないので……」
『……ちなみに、内部セキュリティとはどのようなものなのですか』
「外部バリアのようなエネルギー体ではなく、複数の形状と質量を持った物体が直接排除にかかります。ただ、これまで作動させた実績がない為、どのようになるかまでは……」
『…………』
ワイズモンは言葉を失った。……そりゃあ、侵入者がいたって塔に入る前に消されるのだから、内部セキュリティなど余程でなければ作動しないだろう。侵入者が内部に到達する事自体、想定されていないのだ。
と、いう事は。
彼らが侵入を遂げた瞬間、防御機構がフル稼働。それと同時にクレニアムモンも仲良く襲い掛かってくる。──なんとも素晴らしい、涙が出そうになるほど手厚い歓迎だ。
『…………あの、我々にどうしろと仰るの? 死ねと?』
『で、でもさ……! マグナモンも一緒に行ってくれるんだし、そこで皆を守ってくれれば問題ないよね? 襲って来るセキュリティだけでも、バリアで包んでくれればいいんだもん』
『……確かに、そうですわね。貴方が彼らの守護に努めてくれるなら……』
「……。……いいえ、残念ですが……小生は各々方に、同行する事ができません」
「コイツ今すぐぶっ飛ばしていい?」
テイルモンがナイフを掲げる。それを手鞠が慌てて制止した。
「ご、ご安心下さい。防御機構に関しては、各々方の突入前にある程度、破壊しておきます。……それは、ツテがありますので。恐らく大丈夫です」
「ぎー……。命懸けなのは今に越しだこどじゃないけど、不安がすごい」
「アンタ、何かあったら騎士らしく腹を切りなよ。介錯はしてあげるから」
それは騎士でなく侍だ。──漂う気まずさの中、子供達は心の中でこっそりと口を挟んだ。
◆ ◆ ◆
美しい白い塔、外壁を這う水晶の枝と根。
映像として見ているだけで、コロナモンとガルルモンは胸騒ぎを覚える。
「────仮に、君が言う“ツテ”で、塔の防御機構を壊してもらえるとして」
どこか嫌悪感にも近いそれを噛み締めて、ガルルモンが口を開いた。
「それより厄介な問題が残ったままだ。……そもそも、僕らはどう頑張っても完全体までにしかなれないのに、君は勝算があると思ってる」
「……ええ。成功の可能性は、高いと思っています。各々方のそれは正当な進化であり、かつパートナーとの回路によって強化されていますので……」
「そうは言っても、君の仲間は究極体だろう? こっちの戦力は完全体が四体と……彼は、少し微妙な立ち位置だけど……」
「……データ上、ベルゼブモンという種族は究極体に属しますが、彼は毒に依る変異のせいで不完全な状態です。本来の力は、出し切れないかと」
よって戦力としては、完全体が四体、“半”究極体が一体、という事になる。
仮に総力戦をしたところで、真っ当な究極体を相手に倒せる確証はない。足止めが精一杯だとして──果たして、どれだけ時間を稼げるか。
『……それ以前に、クレニアムモン相手に全員では戦えません。イグドラシルを見つけなければならない以上、誰かは探索に回さなければ』
ワイズモンは頭を抱えた。──前途多難にも程がある。下手をすれば、メタルティラノモン戦の二の舞どころでは済まないだろう。マグナモンが言う『ツテ』だって、本当に頼って良いのか分からない状況だ。
「……──別に。全部、殺せばいいだけの話だろう」
その時だった。隅に立ったままのベルゼブモンが、吐き捨てるように呟いた。
単純な話なのに、何をブツブツ話し合う必要がある? とでも言いたそうな顔で。
「殺して喰う。それだけだ。お前達が怖いなら、俺だけでそいつを殺す。好きに上まで登ればいい」
『……貴方、塔に侵入したら真っ先にパートナーの探索に向かうと思っていましたが……よろしいのですか?』
「ああ」
ベルゼブモンは躊躇わずに答えた。
「カノンを見つけるのに、そいつが邪魔だ」
到底、許せない相手というのもある。だが、殺さずに残しておいて、カノンがまた巻き込まれたらたまらない。だから先に消しておこうと言うのだ。
男の思考はあまりに単純。清々しい程、自分の欲望に忠実だ。故に不安要素といったものに縛られる事もなく、憂う必要も無い。……ワイズモンには、それがどこか羨ましく思えてしまった。
『……では、彼を含めた四体を戦闘に。探索には一体を回しましょう』
「あーあ、こいつだけでクレニアムモンとかいう奴、倒せたら楽なのにさ」
「うん、気持ちはすごぐ分がる」
『子供達も、同行する場合は探索に回ってもらいますので……彼らを抱えて退避する可能性も考えれば……体格が大きく飛行能力もある、フレアモンが適任かと思うのですが。──マグナモン、これに対する貴方の見解は?』
ワイズモンはマグナモンに意見を乞う。クレニアムモンの事を、誰よりも知っているのは彼だ。
────すると、
「概ね、賛成です。しかし盟友との戦闘に関しては、ひとつ小生から提案があるのですが────」
◆ ◆ ◆
マグナモンが彼らに切り出した提案。
それは、あまりに耳を疑う内容であった。
『────貴方、今……何と仰ったの?』
「ですから、デジタル化です。選ばれし子供たちの」
遺伝子と細胞で構成された人間を、デジタル生命体として変換する。
今までマグナモンが、多くの子供達に対し施してきた行為そのもの。
「それを今回、選ばれし子供たちに応用したいと考えています」
そもそもそんな事が可能な事自体、彼らにとっては初耳だ。中身が中身だけに、到底すぐには納得できない。
『…………理解しかねますわ。それは彼らの存在を歪める行為に他ならない。そんな危険な事をする理由がどこに?』
「理由は二つ。ひとつは──今回の作戦では恐らく、子供達の肉体に掛かる負荷があまりに大きい」
天の塔は神の御座。デジタルワールドにおいても極めて特殊な空間だ。
何も施さないまま上層階、それも最上部まで挑めば──肉体への甚大な負荷により、人間としての存在そのものが変質しかねない。その負荷量は、生身のまま回路の摘出処置を受ける以上だ。
「収容している子供達に関しては、空間を遮蔽した場に安置しているので問題ありません。ですがこの子達はそうはいかない。変質すれば、元の体のままリアルワールドに帰還する事が困難となる」
かつてカノンに説明した時と同じ。一時的にデジタル化してしまった方が、総合的な負荷量は少なく済むのだ。──確かに理には適っていると、ワイズモンは渋々ながら受け入れる。
「二つ目の理由は戦力の強化です。
パートナーとの同調によるデジモンの強化は、肌や義体といった物質を介する接触が一番、効率が良い。なので、これも応用となるのですが……君達をデジタル化し、一時的にパートナーの内部へと統合させれば────」
「合体!? オレたちが!?」
デジモン達は目を丸くさせ、子供達は顔を見合わせる。子供達の中では、特撮ドラマのロボットの合体シーンが再生されていた。
「──ええ。子供達がパートナーの第二の核、コアと成るのです。同調している者同士であれば、パートナーデジモン達の更なる強化が期待できましょう」
とは言え、あくまでも提案だ。
いずれも自分の身に関わる事だ。選択権はそれぞれに在り、強制はされない。
「ですが、もし肉体のデジタル化を希望されないなら……」
『……天の塔には、行かない方がいいと』
「この子らの、安全を考えるのであれば」
当然、デジタル化に伴うリスクが無いわけではない。
一体化することによってダメージも少なからず伝播する。何より前提として、人間がデジタル化できる時間だって限られているのだ。それを超過すれば、データ化された肉体の復元が困難になる。
しかし逆を言えば、その間であれば問題ない、という事でもある。
マグナモンは、それまで多くの子供達を“施術”してきた手で──選ばれし子供たちに向け、指を三本立てて見せた。
「三時間。──小生が、子供達から回路を摘出するのに要した平均時間です。少なくともこの時間内であれば、君達という存在は保証される。
……デジタル化は作戦実行直前に行いますので。決定は急がれず、その時までに」
デジタル化せず、此処に残って帰りを待つか。
デジタル化して、塔の中を探索し駆け巡るか。
それとも、パートナーと一体となり戦闘に参加するか。
与えられた選択に困惑する子供達と、リスクを危惧するパートナー達。そしてマグナモンはパートナーデジモン達に対し、“万が一”の際の対応についてを提案した。
「もしも作戦の継続が困難と判断された場合──もしくは、各々方が戦闘不能となった場合。その際は緊急避難プログラムを起動して離脱して下さい」
作戦の失敗は、デジタルワールド救済の失敗と同義だ。
だが、それでも。例え世界を救えなくとも────そうすれば、子供達だけは生きて帰してあげられる。
「だから安心して、戦いに臨んで下さい」
マグナモンは言い切った。
それを聞いたコロナモンとガルルモンは顔を歪めた。一瞬、頭の中を焼き付くような痛みが走り抜けた。
◆ ◆ ◆
この状況下で会社も学校も大変なことになっている中、投稿されたとなれば来るしかあるまい夏P(ナッピー)です。オイ待てみちる女史のイラスト来てるじゃねーか!(歓喜)
開幕の時点で「私達を殺す気かー!」と内なるサクラになりかけましたが、なんだよ対抗策用意してるんじゃねーかマグナモン。これはマトリクスエボリューション来るぜ!? しかし同時にこのタイミングで対抗策を明かしてしまったってことは、これだけではどうしようもない展開が来るのだろうと思えてしまい戦々恐々。
というわけで、やたら最後の夜最後の夜と繰り返されるのでどこかで不意打ちで最期の夜になってねーだろーなと震えましたが、なんかもう全員死亡フラグ建築を始めて驚愕にして戦慄。やめろお前ら皆して死ぬ気か。現実世界への展望を語り出したテイル姐さん落ち着け、その台詞はあと半日ぐらい待ってから言うんだ。アンタが死んだらツッコミ役おらんくなるでしょ!?
四人のイラスト、思えば遠くに来たものだと感慨深いですが、これもう「だがこの写真が使われることはなかった。イグドラシルとの戦いに全ての力を出し尽くした彼らは、続く愛和学院に嘘のようにぼろ負けした──」と湘北高校バスケットボール部になる奴ですよね……レオモンとユキアグモンのシーンにほっこり来たものですが、コイツらだけは両者とも無事にいてくれ。
ベルゼブモン氏は無自覚の惚気も知らず知らずの内にカノンちゃんと通じ合ってる感も良いですが頼むから死ぬなよ。
ではこの辺りで感想とさせて頂きます。
作者あとがき
(+ちょっとしたイラスト)
少し時間が空きました投稿。
第29話、お読み下さりありがとうございます!!
この頃、あとがきがやたら長めになってしまったので今回は手短に……。
今回のサブタイトル、最初は「最後の晩餐」にしようか迷ってのですが、ちょっと物騒なので不採用に。もうちょっと綺麗な感じの字面にしました。
RPGバトルものでは恒例?な決戦前夜のお話です。せめて前夜は穏やかでありたい。今回は血も肉も飛ばしませんでした!
選ばれし子供たちとパートナーデジモン、それぞれのやり取りは、彼らの出会いを思い出しながら書いていきました。蒼太達に至っては10年前ですからね、懐かしいですね!(遠い目)
そして優しいレオモンは死なない! ベルゼブモンはなんだかんだ一匹狼。
ウィッチモンはマグナモンに胃薬を分けてあげてください。
さて、今回の決戦前夜のお話ですが、(全員分を書こうとしたら1話でおさまらなくなってしまったので)前編と後編に分けての投稿となります。
後編はチーム亜空間のパートとなります。更新は今回よりは早めにいけそう。
関連イラストも少しずつ増やしていきたいなー、と思いつつ。世の情勢は大変ですが頑張っていきます。
どうぞ次回もお楽しみに!
あと本編の内容とはあまり関係ないのですが、みちる女史のイラストをば。
よくやってるダブルピーステヘペロウィンクのやつ
◆ ◆ ◆
夜は深く、どこまでも深く。
棟の中は静まり返って、廊下に灯されていた蝋燭も消えた。
誰も居ない食堂で、ベルゼブモンは頬杖をついている。
窓から僅かに明かりが差し込んで、彼と白いテーブルクロスを照らしていた。
テーブルには彼が食い散らかした夕飯の跡が、そのままの状態で残されている。彼がいつまでも隅に座っているものだから、レオモンは最後まで食器を片すことが出来なかった。
「……」
──やはり、昼に大量のデータを捕食したからだろうか。男の意識は明瞭なまま、空腹で本能に溺れる気配も今はない。
ぼんやりする、という久しぶりの行為の中、男は珍しく疲労感を覚えていた。肉体の損傷は修復されているのにも関わらずだ。
彼自身に自覚はないが、ベルゼブモンが抱く疲労は精神的なものである。
カノンを救い出す道が拓けた安堵感。そして、突如得た多数の“協力者”達との、単純なコミュニケーション疲れ。カノンもベルゼブモンも、元々そこまでパーソナルエリアが広い方ではない。
故に、可能であればベッドで安眠するのが望ましい状態ではあるのだが。とてもそんな気分になれず、こうして時間を浪費する事しかできなかった。
──時間が経つにつれ、音は消え、灯りも消え。けれど決して暗闇ではない。
窓の外に目をやると、空に何かが散らばっている事に気付いた。ゆっくりと、椅子から立ち上がる。
見上げた先には仮初の星空。灰の空の下で生きてきた彼は、それが何か知らなかった。
黒の海に点在する白い光────この先に、彼女が居るのだろうか。
「カノン」
名前を呼んだ。夜の向こうに、少女を探そうとする。
顔を、声を浮かべて。思い出を巡り、想いを紡いで──気付けば手を翳していた。
黒い手は光を遮り、男の視界が暗がりに淀む。
「…………」
ああ、この手は、やはり嫌いだ。
毒と同じ色。命を奪う為だけのもの。今までもこれからも、喰らう為に振るうもの。──そう思っていたし、変えようのない事実である事も分かっている。
奪ってばかりで、大切なものはちっとも守れない。そんな役立たずの手。使えない身体。……嫌いだ。何もかも。
けれど。
この手には、確かに少女の温もりが在ったのだ。
穢れた不完全な身体でも、生き抜いて、記憶を重ねていった────その事こそが、カノンと過ごした証なのだと。
……それを彼らが気付かせてくれた。あの小さくて騒がしい、人間とデジモン達が。
────“ 彼らは仲間です。貴方の……貴方とカノンの、仲間となる筈だった者達です。 ”
マグナモンの言葉が過る。
騒がしいのは得意ではない。静けさの方が自分に馴染んでいるからだ。だが──彼らが、彼らも、カノンを探してくれる。見つけてくれる。その意味をやっと理解してから、どこか安心している自分がいた。
だから、「大丈夫だ」と。カノンに伝えてあげたかった。
だが、叶わない。伝えたい事がたくさんあるのに。
遠い空の果て。星明かりの先。届かないと分かっていても、手を伸ばしたくなる。
「────」
毒に溺れた意識の中で見た、最初の情景が浮かぶ。
無機物の街と廃棄物の山の上。そこに見つけた、生きている白い花。
手に取りたくて、掴もうとしても届かなくて、そのまま飲まれて堕ちていった。そんな、ある日の事を。
それは毒に微睡む夢の話であり、もう自分ではない誰かの記憶。
けれど目にする度、そこにいる誰かの姿が────不思議と自分に重なるのだ。
『──今度も、そうなるかもしれないよ』
頭の中で声がする。
『届かないのに手を伸ばして──君はきっと、また溺れて。
昔の様に、いつかは仲間さえ喰らうかもしれない』
銀の男の残滓の声は、今日も穏やかに忠告する。
『だから、君。どうか気を付けて往くといい』
そこに個としての意志は無く、ただ直感の代弁をしているだけ。
事あるごとに囁いてくる、それはいつだって煩わしくて────
「──大丈夫だ」
だが、男は声に応えた。
拒絶も否定もすることなく、初めて、真っ直ぐに向き合ったのだ。
「俺はもう、大丈夫だ。────アスタモン」
その時。
一人きりの食堂の中。ベルゼブモンは一瞬、背後に誰かが居るような感覚を抱いた。
けれどそれは錯覚で、そこには誰も居やしないのだと──分かった上で言葉を繋ぐ。
「……だから……、……お前も、もう休んでいい」
『────そうか。……ああ。それは、良かった』
声が消える。
頭の中が、不思議なくらい静かになった。
硝子を開けた。冷えた風が流れ込んでくる。短く結んだ腕のスカーフが、少しだけ揺れた。
「……もうすぐだ。カノン」
零した声は夜に消えた。男の濁った瞳に、白い光が僅かに映り込む。
「俺は、もうすぐ────」
◆ ◆ ◆
『────もうすぐだわ、“おかあさん”』
鈴の音の様な声が鳴る。
それは反響する事なく、白い空間に吸い込まれた。
『世界<イグドラシル>が完成するわ。もう、この涙で世界を汚す事も無くなる』
そう語る水晶の電脳人形は、何も無い空間に顔を向けている。
「……ねえ、あなた。そこに私はいないのよ」
すぐ後ろでは、美しい少女が目を伏せていた。
人形は虚空に語り続ける。少女がそっと手を触れても、それに気付くことは無い。
イグドラシルの本体は少女の体内に在り、人形は蜃気楼の様な偶像だ。
けれども今までは、互いを認識し合う事が出来ていたのに。時折、偶像にノイズが混ざる事が増えてきた。
「……ねえ、あなた。声はまだ、聞こえているの?」
『──。────ええ、ええ。けれど、とても遠い』
イグドラシルにおける母体との接続が、目に見えて困難になっている。
このまま目も耳も、声さえも使えなくなって、いずれは消えてしまうのだろう。──そう、思わずにはいられない。
異変は人形だけではなく、この天の塔そのものにも起こっていた。カノン達が過ごしている部屋の構造が、何度もその姿を変えていくのだ。
何も無いシンプルな部屋から、学校の教室、公園、住宅街の一角へ。不思議と真っ白な空間として現れた。──今は、マンションの一室のような間取りに姿を変えている。
でも、どうして。
瞬きの間に移ろいゆく景色は、どれも、記憶の中のそれとよく似ていた。
「…………」
これらの異変は、イグドラシルが存在そのものを変質させようとしている証でもある。
新たな神へと成り果てて、新たな世界を創造する為に。きっと、その通過儀礼だろう。
「……ねえ。私、ここにいるわ」
そんな様々な憶測が不安を煽る中、少女は人形に声をかけ続ける。
「あなたも、ここにいるのよ」
手を強く握ると、ようやくイグドラシルが反応を見せた。
美しくも虚ろな瞳が、ぼやけた輪郭で少女を捉える。
「……大丈夫。マグナモンが助けを呼んでくれる。あなたを、きっと助けてくれるから」
クレニアムモンを止めて、イグドラシルを天の座へ。
自分だけでは叶わない。マグナモンだけでも敵わない。だから、外部からの助力に頼る他なかった。そうしなければイグドラシルの変質は止められない。
──尤も、助力を得たところで間に合う確証も無いのだが。
それこそ、クレニアムモンが自分と義体達を繋ぐより以前に、イグドラシルの変質が完了してしまう可能性だってある。
けれど、とにかく今は──どうかマグナモンが、それが可能な“誰か”を連れて来る事を信じて祈るばかりだった。今の自分達には、そうして待つ事しか出来ないのだから。
……ああ、でも。その“誰か”の中に、あの人が入っていないと良いのだけど。
『──、──……』
「……どうしたの?」
イグドラシルが何かを言ったような気がして、カノンは耳を近付ける。
「何て、言ったの?」
陶器の様に滑らかな唇が僅かに動いた。『ごめんなさい』と。
「それは、どうして」
『──、……あなた、を────かえして、あげら、れなくて──』
「…………」
少女は一度、口を噤む。
それから細い指で、水晶の髪をそっと撫でた。
「……いいのよ」
いつか夢に見ていた未来は、ポロポロ零れてとうに消えた。
「だって此処で、少しでも叶えられるって……あなた言ったわ。私には、それで十分」
何も出来ずに、成さずに、残せずに、怖い思いをしながら消えていく事に比べたら。
ほんの少しの夢を叶えて。懐かしい思い出と──紡いだ想いをそっと胸にしまって。
そうして最期まで生きられる、なんて幸せな事。
──そう、言い聞かせて。
自分を抱きしめてあげるように、自分と同じ顔の人形を抱きしめる。
「だから、どうか────産まれておいで、イグドラシル。私が、抱いていてあげるから」
水晶の人形にノイズが混ざる。触れていた感触が、無くなっていく。
『…………ありがとう。……“おかあさん”……』
それを最後に、イグドラシルの声は聞こえなくなった。
自分の家とよく似た空間で、一人きり。
白い壁紙とホワイトウッドの床。母の写真が入っていた筈のフォトフレームは空っぽ。
誰も帰ってこない部屋で過ごす、いつもの日常が戻ってきた錯覚をする。──ひどく静かで、とても穏やかだ。
乳白色のカーテンが揺れる。作り物の陽射しが眩しくて、思わず涙が出そうになった。
そっと、窓際へ。
硝子に額を当てて、光にまみれた外を望む。
窓の向こうは思い出の風景。懐かしい景色。季節外れの、鮮やかな黄色のイチョウ並木。
胸が苦しくて、目を閉じる。
──身体が熱い。それなのに、ひどく寒い。
血管は波打ち、鼓動の音が鈍く響いて聞こえてくる。
「……。……お母さん……」
心が切なくて、苦しくなって瞼を開けた。
差し込む光が焼き付いて、思わず瞬きを繰り返す。
目に映した窓の外には────
「────」
無機物で構成された街並。モノクロームの世界。
彼と出逢い、一緒に外の世界へ抜け出した場所。
「ベルゼブモン」
名前を呼んだ。
咄嗟に窓を開け、手を伸ばす。そこに在るのはただの虚像で、何も無い空間だと分かっているのに。
……それなのに、どうして。
窓の向こうから────やわらかな風が、吹き込んだ気がしたのだろう。
「────、あ……」
風は少女の頬を撫でて、溢れる涙を連れて行く。
涙は水晶の欠片となり、散らばった。少女がとうに“まとも”でなくなってしまった事を、祝福するように煌めきながら。
──けれど、カノンはもう嘆かなかった。セーラー服の袖で、自身の顔を乱暴に拭った。
顔を上げる。唇を噛みしめる。それから──誰もいない痩せた下腹部を、優しく撫でた。
スカートを揺らして踵を返す。
見慣れた形の玄関に手を掛け、誰も居ない家の中を、一度だけ振り返って────
「────いってきます」
愛おしかった日常に最後の別れを告げる。
カノンは、部屋を抜け出した。
第二十九話 終
◆ ◆ ◆
都市を一望できる塔の屋上。
フェンスは透明で、俯瞰する景色を邪魔しない。
仮初めの星空の下。寝静まった都市の上で、蒼太はひとり体育座り。ぼんやりと虚空を仰いでいる。
既に子供は寝る時間だ。食後の歓談も入浴も、枕投げだって済ませている。あとは眠って朝を迎えるだけ。
けれど蒼太は部屋を抜け出して、こんな場所へとやって来た。──なんとなく眠れない。それだけの理由だった。
少し肌寒くなった空気のせいだろう。皆が近くに居るのに、どこか寂しい気持になった。
「────あれ? 蒼太?」
後方から声がして、振り返る。
そこには花那が、扉を半分だけ開けたまま目を丸くさせていた。
「何してるの?」
「……花那こそ」
「私は……なんとなく、外に出たくなっただけで」
語尾を小さくさせる。大方、彼女も寝付けなくて部屋を出たのだろう。
「蒼太がひとりになりたいとかなら、戻るけど」
「そういうわけじゃないよ」
蒼太は体を向けて花那を呼んだ。花那は遠慮がちに、そのまま蒼太の近くに座り込む。
同じように体育座り。少しだけ伏し目がちに、膝に顔を乗せていた。
「……」
「……」
沈黙が続く。
冷えた風が、二人の間を頬をそっと撫でた。
「……宮古とチューモンは?」
「先に寝てる。……誠司くんは?」
「ぐっすりだよ。ユキアグモンも一緒。あいつ、あんま色んなこと気にしないタイプだから」
「……手鞠は、チューモンと色々話したみたいで……多分、明日のことは大丈夫なんだと思う」
「そっか。……じゃあ、あとは俺たちだけだなぁ」
蒼太の言葉に、花那は黙って頷いた。
……都市に戻って来てから、まだパートナーときちんと話せていない。明日の事も、彼らの事も。
「ねえ。明日は私たち、あの上に行くんだよね」
話題を少しだけ逸らして、満天の星空を見上げる
「なんか、すっごく遠くまで来ちゃったね」
家から、学校から、廃墟のビルから。思えば随分と遠くに来たものだ。まさかこんな事になるだなんて、誰が予想できただろう。
「……結局俺たち、どのくらいデジタルワールドにいるんだろう」
「わかんない。数えてないもん。でも、夏休みくらいはいたんじゃない? 長いけどあっという間な感じ、ちょっと似てるかも」
花那の目に映る、作り物の星が瞬く。
これが、明日には本物になるのだ。自分達がやり遂げれば──この毒まみれの日々が、ようやく終わる。
「……早く皆で笑えるようになりたい」
花那の口から、抱えていた気持ちが零れた。
「ごめん。……今、変なこと言った」
「……変じゃないよ。……言わないでモヤモヤするくらいならさ、ここで吐き出しちゃえばいいのに」
「……それは、そうだけど……」
そう言いつつも、花那はもごもごと言葉を転がしている。
「大丈夫だよ。俺しか、ここにいないんだから」
「……。……なら……今だけお願い。少しだけだから」
蒼太が頷くと、花那は立ち上がった。
見えないフェンスの向こう、夜に眠る都市に向けて──
「あーあ!」
叫ぶまではいかない。
それでも大きな声で、花那は自分の心の中を吐露していく。
「デジタルワールドって、もっともっと楽しいと思ってたのになー。
すごくドキドキで、ワクワクで、そんな冒険が待ってると思ってたのになー!」
見知らぬ土地。見知らぬ生き物。胸が高鳴るような出会いと出来事。
本当なら──命の危機が伴う旅ではなく、大好きな友人達と、そんな楽しい旅をしたかったのに。
「もー、何でこんな事になってんだー!」
でも、それは仕方のない事だ。誰が悪いわけでもない。
分かっている。最初から分かっていた。だからこそ、言えなかった。
「……うん。……本当に」
「でも……! ……でも、ここまで来れた! 来れたんだ! だからあと少し……っ……早く、遊びたいよー!!」
決して理想的ではなかった旅。
それでも、後悔だけはしていない。ここまで来られた自分達を褒めてあげたい程だ。
「────っ……、はーっ」
声を出して満足したのか、花那は荒くなった息を深呼吸して整える。
「……スッキリした?」
「うん。した! もう平気!」
「なら良かっ……え、何で泣いてんの!? スッキリしたんでしょ!?」
「……なんか、大きな声だしたら気が緩んじゃって……」
「バカだなあ」
「……ごめん。少ししたら多分、止まるから。ちょっと待って」
必死に涙を拭いながら弁明する。別に、急かしているわけではないのだが。
「なんかさー、明日が来て欲しいのに、来て欲しくない感じ」
「どっちだよ。……まあ、気持ちは分かるけど」
「……蒼太、何でそんな平気そうなの」
「平気じゃないよ。だからここに来てるんだし。……多分、緊張してるんだと思う。明日どうなるんだろうって……全然、落ち着けない」
そうして、眠れもせずに時間だけが過ぎていく。夜が明けるまであとどれくらいだろう──そんな事を考えながら。
「……でもさ。やっぱり俺は、早く明日が来て欲しい。明日で全部終わらせて……そうしたら、本当の夏休みが来るから……今度こそ、皆で楽しく冒険するんだ。
毒が無くなったらきっと平和になるよ。色んなデジモンと会って、色んな場所を探検してさ。──コロナモンとガルルモンが一緒なら、俺たちきっと、どこへだって行ける気がする」
それは、初めてデジタルワールドの話を聞いた時に抱いた夢。
空想していた未知の世界。希望と期待に満ちたデジタルワールド──それを取り戻して、今度こそ。
「だから明日も……明後日も、ずっと、皆で生きて……」
言葉が喉につっかえた。
蒼太は思わず顔を下に向け、花那から見えないように背ける。
「……やばい。なんか俺まで泣きそうになってきた」
「あーあ、やっぱり蒼太もダメだったじゃん」
「なんか、怖いのと不安とが一気に来た。どうしよ」
「私はもうすぐ復活するもんね」
「うわ、ずりー。どうせなら巻き込みたかったのに」
二人は泣きながら笑っていた。
「泣き止むの、見ててあげる」
「うるせー」
「いいじゃん。私みたいにスッキリできたら……きっと、コロナモンたちの所に行けるよ」
「……。……でも、もう寝てるかもしれないし」
「……私は、まだ起きてると思うな。多分あれこれ悩んでるよ。私たちと同じで」
なんだかんだ、似てるのかもしれない。そう言って、花那は最後の涙を拭った。
「二人の所に行こうよ。最初に会った時みたいに」
花那は蒼太に手を伸ばす。
「……おばけビルじゃ、俺についてくるのも大変なくらいビビってたくせに」
そんな事を思い出して、笑いながら握り返し────蒼太は立ち上がった。
「サンキュー、花那」
「うん。こちらこそ」
◆ ◆ ◆
──暗がりの寝室。
宛がわれたベッドの上で、コロナモンは枕を抱えてうずくまっていた。窓際では、床に伏せたガルルモンが呆然と外を眺めている。
ユキアグモンとチューモンが居ないからだろうか。部屋の中は広くて、やけに静かに感じられた。
暗い部屋。窓から望む夜空。
まるで、リアルワールドで初めて迎えた夜のような。
けれど、あの時とは何もかもが変わっている。
見上げる空の色も。仲間が増えた事も。
自分達が強くなれた事。そして今、毒の厄災を終わらせる一歩手前まで、足を踏み入れている事。──そんな、何もかもが。
「……実感、できないなあ」
零れた声に、ガルルモンは「何がだ?」と顔を上げた。
「だって俺達……もしかしたら、明日世界を変えられるかもしれないんだよ」
冗談交じりに言ってみる。ガルルモンも、少しだけ笑ってくれた。
「明日が終わったら、どうしようか。コロナモン」
「……そうだなあ」
思い浮かべてみる。あくまでも、非現実的な未来の話を。
「取り敢えず、何日かお休みが欲しいかな」
「なんだそれ」
想定外の答えに、ガルルモンは喉を鳴らした。
「昔のお前なら、もっと夢のある事を言ったのに」
「……今は……色々と思うと、なんか切なくなっちゃうからさ」
明日は全てが決まる日だ。全てが終わって、全てが始まる日だ。
どのような結末を迎えるかは、自分達の手に掛かっている。
──正直、かなりのプレッシャーだ。
マグナモンは、最後の戦いを自分達に託した。やっと完全体に進化できたばかりの自分達に、究極体との決戦を託したのだ。
押し潰されそうで、無理矢理にだって上手く笑えない。
本当ならパートナー達と時間を過ごしたかったのに────こんな様子では、二人を余計に不安にさせるだけだろう。
「もっと上手く、やりたいのになあ。俺達」
「……本当に。こればっかりは成長できなかったな」
「でも、ひとつだけ前向きになれる事もあるんだ。マグナモンが言ってた事……」
「…………もしもの時の、脱出プログラム?」
「うん。……どうなっても、あの子達だけは帰してあげられるんだと思うと、安心する」
自分達がずっと切望していた事。蒼太と花那を、子供達を、無事に家まで帰してあげる事。
マグナモンの言った事が本当なら、それだけは確約される。
「でも……もしそうなったら、あの子達は悲しむよ。あの日の僕達と、同じ思いをさせる事になるんだよ」
「……分かってる。俺だって、負けたくないよ。……生きていたいに決まってる」
子供達を守り抜いて、毒の消えた世界で。今度こそ笑って生きていたい。
今、願うとしたらそれだけだ。多くを望みはしないから──せめて、それだけでも。
「ああ、でも、どっちにしろ……毒は、無くなるんだっけ。イグドラシルが新しくなったら、デジタルワールドも創り直されて……」
つまりどうなっても、忌まわしき毒は明日で終わり、世界には平和が訪れるのだ。
それならそれで、文句はない。毒が無くなってくれるのなら。
────けれど。
世界が変わったらどうなるだろう。自分達は、仲間達はどうなるだろう。
きっと、新しい何かに生まれ変わるのだろう。そして──蒼太と花那の事も、仲間達の事も、思い出も、失った記憶だって、多分、二度と思い出せなくなる。
よくも悪くも一区切りだ。
そうなったら、とても寂しいというだけで。
「──嫌だなあ。ただでさえ昔の事も思い出せないのに。これ以上、思い出が無くなるのは」
目を閉じて、枕に顔を埋める。
瞼の裏に焼き付く痛みが走り、星ではない光が瞬く錯覚をした。
その、瞬きの中に
「コロナモン。……今、何か見えてる?」
「────え」
顔を離した。目を見開くと錯覚が消えた。
──ガルルモンが、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「……ガルルモン……」
「僕はね。頭が痛くなると、知らない誰かが見えるんだよ」
「…………それは」
「でも、それが誰なのか……僕は知らない。なのに一瞬だけ浮かぶんだ。
僕はおかしくなったんじゃないかって……。……こんな事、あの子達には言えなかった」
コロナモンは、そっとベッドから降りる。
「本当に、知らないのに……」
窓際へ。ガルルモンの前へ。
「────ガルルモン。きっと俺達は知ってるよ。ただ、覚えてないだけで」
それは多分、遠い過去に置き去りにした誓いと約束。
自分達が道を進む程、頭の中に突き刺さる──失った記憶の欠片なのだろう。
ガルルモンは顔を上げた。
そして──目の前のコロナモンの姿に、初めて出会った日の夕焼けを思い出した。
「……ああ、────僕は……本当に、ずっと前から……お前とも、出会ってたのかもしれないね」
そして昔も今も、同じ人間の友達を持っていたのかもしれない。
根拠はなく、そう感じた。しかし目に映る『誰か』は、もう彼らの前にはいない。どこにもいない。最後に、どんな言葉を交わしたのかも思い出せない。
いつか蒼太と花那との思い出も、こんな形になってしまうくらいなら──
「なあコロナモン。やっぱり僕は……心残りは、少ない方がいいと思うんだ」
かつて、伝えられなかった想いがあった。
それを後悔している。もしかしたら遠い過去の記憶の中でも、そんな後悔があったのかもしれない。
コロナモンは「そうだね」と微笑んで、立ち上がる。
────負けるつもりはない。それでも今度こそ、いつか来るであろう別れの日を、笑顔で迎えられるように。
「二人に会いに行こう。俺達の、大事な友達に」
◆ ◆ ◆
コロナモン達がドアの前に立つと、その向こう側からノックする音が聞こえてきた。
向こうに居るのが誰なのか、ガルルモンはにおいですぐに理解する。
顔を見合わせて、少し嬉しそうに扉を開けると────
「──あれ、どこか行くとこだった?」
慌てた様子の蒼太がいた。その後ろには、花那が。
「ううん。僕らも、二人の所に行こうとしてたんだ」
「じゃあ丁度よかった。……えっと」
「お、お菓子! ……持ってきたの。一緒に食べようと思って」
星空が望める窓際で、特別な夜食の時間。
蒼太と花那が食べ物を広げる様子を、ガルルモンは目を細めて眺める。
「……前にも、こうして僕らに食事を持ってきてくれたね」
「そういえば、サンドイッチ持ってったっけ。また作って来てあげるよ」
「ちょっと、作ったの蒼太じゃなくて私とママ! ……ねえ、次は皆でピクニックしようね。もっとたくさん、今度は豪華なお弁当作るから」
──そんな懐かしい話をしているうちに、用意したお菓子はあっという間になくなってしまった。
部屋を訪ねる口実にと持ってきたのだが──花那は少し残念そうに、もっとたくさん持ってくればよかったと呟く。
「花那、お腹空いたの?」
「ち、違うよコロナモン。そうじゃなくって……」
「ははっ。大食いキャラになったのかって心配されてる」
蒼太が意地悪く笑うと、花那は頬を膨らませて怒る。それを見て、コロナモンとガルルモンが笑う。──四人でこんなやり取りをするのも久しぶりだ。
「お菓子がなくても、ここにいればいいのに。僕らも元々そのつもりだったんだから」
「……。……寝るのも、ここでいい?」
「もちろんだよ。ベッドもあるし」
「……やだ! ここがいい!」
花那はガルルモンの腹に顔を埋めた。
ガルルモンは少しだけ驚いて、それから嬉しそうに花那へ鼻を擦り寄せる。
「そうだ。蒼太がね、すっごく楽しそうな事、考えてきたんだよ」
「え、ちょっと」
先程の話を振られて、蒼太は困惑する。コロナモンとガルルモンは興味深そうに蒼太を見た。
「いや、でも、明日の事でもないし……もっと先の事っていうか……」
すると、コロナモンは嬉しそうに「聞かせて」と──花那の隣に座り、蒼太も自分の横に座るよう手招いた。
三人でガルルモンの側に並ぶ。蒼太は少し恥ずかしそうにしながら、花那と抱いていた夢の話を二人に語った。
いつかデジタルワールドで、心躍るような冒険を。
ガルルモンの背に乗って、どこまでも駆けて行く。そんなひと夏の冒険を。
明日が終わってもずっと、一緒に未来を生きていきたい。少年と少女が抱く、小さな夢。
「「…………」」
コロナモンとガルルモンは言葉を失った。
ああ、この子達は本当に────自分達との未来を、夢に見てくれていたのか。
「でもその前にしっかり休まなきゃ! なんか今日、二人とも具合悪そうなんだもん」
「明日が大変になっちゃうからな。俺、聞いた事あるよ。二人のそういうの、『へんずつう』って言うんでしょ?」
蒼太はコロナモンの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「そ、蒼太……」
「……無理に言うことないよ。ただ、元気でいて欲しいだけ」
「もし辛くなったらね、私と蒼太が、一緒にいるからね」
「────」
暗い部屋を照らす夜空の明かり。無邪気で優しいふたつの笑顔。
懐かしく短かった廃墟の日々を思い出して、喉の奥が熱くなる。
「……蒼太、花那。……少しだけ、手を」
コロナモンが言い切る前に、蒼太と花那は彼の手をそっと握った。
────ああ。肌を伝わる、ピリピリとした感触が心地好い。
「……あったかい」
花那はそのままガルルモンにもたれ掛かって、鼻先を撫でる。ガルルモンは目を細めながら、二人に「ありがとう」と言った。
「……お礼なんて、言わないで。そんなの……明日に取っておいてよ」
「俺たち頑張るよ。だからさ、……コロナモン、ガルルモン……」
「……約束だよ、二人とも。
きっと明日を乗り越えて……そうしたら、今度こそ楽しい冒険をしよう。一緒に、僕らのデジタルワールドを」
愛おしい温もり達を感じながら、ガルルモンは彼らを照らす星空に祈る。
どうか自分達を見守って。明日も明後日も、ずっと一緒に生きていられますように。
どうか、どうか。────ダルクモン。僕達を、見守っていてくれ。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
人工の空が紺色に染まる頃。レオモンとマグナモンが、大きなサービスワゴンを手に宿舎棟へと戻って来た。
二人はそのまま食堂へ。ワゴンにはいくつもの大鍋が乗せられており、どれも食欲をそそるような匂いを漂わせている。それを見た子供達は、期待に満ちた表情で後を追った。
都市での滞在中、食事の時間は一行にとって楽しみの一つだった。
振る舞われる食事はいつだって美味しくて、かつ栄養バランスに配慮されている。選ばれし一行が浄化活動をこなす為にと、色々細かく考えられているのだ。
しかし、今日テーブルに並べられた食事は────
「見ろよ誠司! ナポリタンの中にミートボール入ってる!」
「こ、こっちはチーズたっぷりのハンバーグだ……すげー!」
「わあ、オムライスにケチャップでお花かいてある!」
「け、ケーキもいっぱいあるよ……! ……あ、ユキアグモン、まだ食べるの待ってなきゃ。柚子さんたちもうすぐ着くからね」
「早ぐ食べだい!」
豪勢に、炭水化物と肉だらけ。子供の好きな食べ物ランキング上位に食い込みそうなメニューばかり。子供達はもちろん、デジモン達も今まで以上に目を輝かせていた。
「これ、レオモンが作っでくれだの?」
「いや、大部分はこの騎士殿が作ったそうだ」
「……小生が、各々方に出来る事は限られてますので……せめてもと思い」
「あー……ちょっとはアンタのこと見直したけど、ここでも罪滅ぼしとは……」
テイルモンは思わず苦笑した。
「ベルゼブモン。こっちに来て僕らと食べればいいのに」
男はテーブルの奥の壁に、立ったままもたれかかっている。ガルルモンが声を掛けたが、席に着く様子はない。
「そっか。まだお腹が空いてないんだな」
「…………」
「じゃあガルルモン、あいつの分は残しておいてあげよう。……レオモンは? せっかくだし、今日くらい俺達と食べようよ」
「! い、いや……大丈夫だコロナモン。その……流石に、この距離は……」
レオモンは僅かにベルゼブモンに目を向ける。──ベルゼブモンがじろりと睨んで、レオモンは思わず後退った。
「……すまない、害が無いとは、分かっているんだが。…………君達は凄いな……」
「ま、まあ。俺達はわりと、毒を見慣れてるっていうのもあるから……」
頭で理解していても、心と生理的な反応はどうしようもないものだ。レオモンは遠慮する体で食堂から退散しようとした────その時。
「────え、なになにー!? めっちゃ良い匂いすんじゃーん!」
廊下から、やけに甲高い歓声が聞こえてきた。
慌ただしい足音。そして数秒後、食堂の扉は勢い良く開けられた。
「やっほーエブリワン! しばらくぶりの亜空間チームですよー!! ……ってアレ?」
扉の前ではレオモンが額を押さえていた。自分が開けたドアと交互に見比べて、みちるは舌を出して謝る。
「みちる、もっと誠意を込めて」
「てへっ」
「もー、何してるんですか。レオモンさん、大丈夫?」
「……あ、ああ。大丈夫だ。でも額にコブができた……」
「ぎー。ウィッチモン、ブギーモンまだ起ぎ上がれないの?」
「……ええ。でも大丈夫、彼の分は持ち帰りマスので。だからワタクシ達も頂きまショウね。────ああ、それとその前に」
ウィッチモンはマグナモンの前へ。硬い表情のまま挨拶を交わす。
「マグナモン。今夜は、どうぞ宜しく」
「……ええ、こちらこそウィッチモン。そしてそのパートナー。……その、後ろの二人は」
「どうも、初めまして」
ワトソンが、これまた淡白な表情で頭を下げた。
「ほら、みちるも挨拶して」
「はじめましてー! みちるちゃんですっ!」
「…………。……初めまして。二人も、どうぞよろしく」
マグナモンはたどたどしく答えると、子供達とは少し離れた場所に腰を下ろす。
そしてようやく、待ちに待った食事の時間が訪れた。
世界を救う長い旅路、最後の夜。それに相応しい、なんとも賑やかな食事風景。
「──え、山吹さん、冷食とゼリーばっか食べてたんスか!? オレらも成長期なのに!」
「あはは……なかなか外に買いに行くタイミングもなくて……」
「じゃ、じゃあ柚子さんも、ここでしっかり食べておかないと!」
「そうだよ柚子ちゃん。前みたいにしっかりがっつりハンバーグ定食を食べておくんだ。キミはちゃんと食べる子だってボクは知ってるからね」
「なんか嫌ですその言い方……。あと前に食べたのは定食じゃなくてランチです」
「おいしーねー! 蒼太くん花那ちゃんもっと食べー! コロちゃんガルちゃんもしっかり食べー! 明日は体力ゴリゴリ使うんだからね!」
「私はデザート用にちょっと余裕もたせてるんです。だからそれ以上は! いいです大丈夫ですから!」
「みちるさんって、食べ放題とか行ったら人のお皿にばっか盛るタイプですよね」
「えーっ、そんなことないよう」
「……俺達を気にしてくれるのは嬉しいけど、君もしっかり食べた方がいいよ。前にここに来た時だって、スープばっかり飲んでたじゃない」
「コロちゃん覚えててくれたの? 嬉しー! でも安心して鍋ごと飲み尽くすから。カロリーは足りてます!
それに、ゆーてアタシら見てるだけだし? 柚子ちゃんみたいに体力割いてモニタリングしてるわけでもないし。がっつり食べなくても大丈夫よ」
「でも──何だかんだ僕らの事、最初から見守ってくれてるじゃないか。ずっとあの場所にいるんだ。君らだって疲れてるだろ?」
「え?」
ガルルモンの言葉に、みちるは思わず口をポカンと開ける。
「──まさかここまでお気遣いされるとは! 新鮮すぎて調子狂っちゃうわあ」
そう言って、誤魔化すようにおどけて笑った。
選ばれし子供たちの様子を、マグナモンは食事に手を付けることなく眺めていた。
ベルゼブモンも同様に、相変わらず立ったまま眺めるだけ。食事には手を付けていない。
「……小生はともかく、貴方は食べた方がいいでしょう」
「…………」
「……彼らと共にするのが気後れするなら……良ければ持って来ましょうか?」
「……いいや、いい」
和気藹々とした子供達に対し、こちらは非常に重たい空気が流れている。マグナモンの近くに座るテイルモンは、敢えて二人から視線を逸らしていた
マグナモンはひとり静かに狼狽える。……これは、あまりに気まずい。いっそこの場で孤立してしまった方がマシだとさえ思う程に。
──すると突然、男が壁から身を離した。僅かにマグナモンとの距離を縮め、「おい」と声を掛ける。
「…………な、何でしょう」
「それは、治さないのか」
「え?」
ベルゼブモンは、マグナモンの切断された尾部を指差していた。
「……治す事も出来ますが、必要が無いので……」
困惑しながら答える。しかし、それは男が期待した答えではなかったのか──ベルゼブモンは再び黙ってしまった。
「……。……あの」
「…………」
「…………」
「……いや、アンタ食べる気だね?」
テイルモンが我慢できずに口を挟んだ。
「ちょっと、何『バレたか』みたいな顔してんのアンタ。まぁ元々それ喰わせたのウチだからあんま言えないけど!」
「…………」
「マグナモンさんの尻尾って生え変わるの!? すげートカゲと一緒じゃん!」
「ぎぎ、違うと思う」
「…………いえ、それで彼の空腹が満たされるなら……」
「というか貴方、デジモン以外は食べられないのデスか?」
ベルゼブモンは「いいや」と首を振った。
「カノンと、食べたことがある」
「なら、きちんと召し上がッテ下サイね。流石に残り物は嫌でショウ?」
「……構わない。食えれば、何でも」
「そんな悠長なこと言ってるとアタシらが食べ尽くしちゃうぞ! 食べ盛りなめないで!」
「あの、俺たちもう結構お腹いっぱいですけど……」
みちるはスープ鍋を抱えるような仕草を取る。彼女の声に、ベルゼブモンは荒野での一件を思い出した。
「お前」
「んにゃ? アタシ?」
「……どうして、知ってた。カノンの……あの音を、鳴らしたのはお前だろう」
「あー」
そういえば、と。自分が軽率に流してしまった音楽プレイヤーの事を思い出す。
「まあ、偶然って事で? リラクゼーションメロディー的な?」
「……カノンを、知っていたのか?」
「可能性は大いにアリなんだけど、同一人物って確証は無いのよねえ」
だって近頃は同姓同名の子が増えているのだ。とは言え、九割程度の自信はあるのだが。
はっきりしない答えに、ベルゼブモンは更に表情を歪ませた。「まあまあ」とガルルモンが男を宥める。
「それなら、どうだろう。君のパートナーがどんな見た目か教えてくれないか? みちると本当に知り合いか分かるし、僕らも探しやすくなる」
「ガルちゃん賢ーい! では海棠少年、何か書くものを探してきたまえ!」
「うっす! さっき遊んでた紙と鉛筆があるっス!」
誠司はベルゼブモンの前に筆記用具を並べた。そして一切の遠慮を見せず、「これに描いてよ!」と男にせがむ。
「…………何をだ?」
「何って、似顔絵」
──ベルゼブモンは硬直した。顔も体も思考も見事に停止した。
そもそも、絵どころか筆記用具を持つのだって初めてなのだ。誠司の言動に戸惑っていると、みちるとテイルモンがニヤニヤと視線を向けている事に気付く。──無性に腹立たしい。
一方で、少女を知っている筈のマグナモンは、口を挟めず気まずそうに男を見守っていた。
男は鉛筆に触れようと手を上げてみる。しかし躊躇った後、膝の上に下ろす。それを何度か繰り返して────
「…………、…………いや……。……無理だ」
思えばどんな過酷な状況にだって、血と毒を吐きながらも立ち向かっていったが、これは流石に無理があったようだ。
「ねえ、それならわたしたちで描いて、一番似てるのを選んでもらおうよ!」
「……その、一応、彼女の容姿は小生が知って……」
「パートナーさんの特徴とか、教えて欲しいなあ」
「……」
「マグナモン貴方、騎士とは思えない不憫さデスわね」
「…………カノンの……」
今度は特徴を問われ、男は困惑が止まらない。こんな経験は初めてだ。
それでも、自分でペンを取るより断然マシであろう事は理解できる。カノンの姿を浮かべ、渋々と口を開いた。
「…………白い」
拙い語彙力で、少女の外見を説明しようと努める。
「……えっと、肌が、かな……? 髪の毛は?」
「お前達より長い」
「じゃあ、色とか、服とかは……」
「俺は、色が見えない。服も……あれを何と呼ぶのか、俺は知らない。
……だが……これは、“おそろい”だと、あいつは言った」
腕のスカーフを指差す。朽ちた遊園地での会話を、思い返しながら。
そして、思い出そうとする。あの時、自分の頬を撫でた白い手の感触を。
──それは「……あたたかくて。柔らかくて」────何より、その時の少女の表情が
「……とても……綺麗、だった」
口を噤む。
結局、大して役立ちそうもない抽象的な特徴ばかりを並べて、男は表情を曇らせた。
「────え? 今ウチら何聞かされたの?」
テイルモンはこの世の終わりのような顔で言い放つ。手鞠は恥ずかしそうに花那と顔を見合わせていた。
当然、男にはその理由など理解できない。
「……?」
「いや『?』じゃなくてさ? 今のって何、惚気? 惚気か? 無自覚??」
「……聞かれたから、答えただけだ」
「うわーやだコイツ羞恥心ゼロじゃん。ちょっとウィッチモン!」
「どうしてそこでワタクシに振るんデスか。……塔の子供達の外見であれバ、今夜中にマグナモンとリストを作ッテおきマスから。明日それで確認して下サイ」
「……ウィッチモンそれ、最初に言ってあげればよかったのに」
柚子は苦笑する。──ふと、パートナーが放った言葉が胸に引っかかり、少しだけ目を伏せた。
「……。……今夜、か。……」
仲間達と楽し気に語らう、みちるとワトソンの二人。彼らが隠しているであろう何かを語ってくれる──その時が、近付いている。
もう、とっくに夜は迎えている。しかし二人がそれについて口を開く様子はない。……それもそうだ。ワトソンはあの時、柚子とウィッチモンにだけ伝えると言ったのだから。
「柚子さん、どうしました?」
顔を覗いてくる手鞠にハッとして、「何でもないよ」と笑顔を作る。
明日、戦いに行く大事な仲間達。
彼らを動揺させてはならない。怖がらせてはならない。悲しませてはならない。
そんな名目で、自分達は──ブギーモンの死を始め、多くの事を彼らに隠してきている。今までも、そして今夜も。
「そうだ柚子さん。レオモンさんがね、今夜は特別に……寝る前にお菓子、食べて良いよって言ってくれたんです! 夜更かしはダメだけど……」
「なんだろうなーオレたち今日めっちゃ甘やかされてる気がする。おにーさんたちも今日は遊んでくでしょ?」
「……えっと、その。二人は……」
「あ、ボクらはパスで」
すっぱり断る青年に、誠司が「えー」と声を上げた。
「ごめんごめん。ボクら、夕飯たかりに来ただけなんだよ。まだ亜空間チームには仕事が残ってるからね」
「いやー残念よ。アタシらも長居したかったんだけどさ!
今回はお見送りできませんので、はい。今からここがハイタッチ会場です」
突然に始まる強制イベント。一行が初めて都市を出発した朝と同じ、彼女なりの激励だ。
まずは誠司と軽やかに手を叩き合う。ユキアグモンも真似をする。手鞠は快く応じ、テイルモンも渋々とだが叩かせてくれた。──黒い男に対しては親指を立ててエールを送ってみたが、反応は微塵も無かった。
「いやあ、蒼太くん花那ちゃん、なんだか感慨深いわねえ。あの時なんとなく声かけた子達がまさかね!」
「俺たちも……夜にいきなり声かけてきた怪しいお姉さんと、今こうして一緒にいるなんて思いませんでした」
「次の日ちょうど『不審者に気を付けましょう』って朝礼で言われたんですよ」
「ほんと泣けるエピソードだわーアタシってばマジで不審者に想われてたかー!」
蒼太と花那とは、ささやかな思い出を織り交ぜながら笑い合い、握手を交わした。
──そして
「コロちゃんガルちゃーん、我が命の恩人よ!」
「……あれ。僕たち何かしてあげたっけ?」
「ガルルモン、あの時だ。ブギーモン達が襲ってきた時の」
「おかげでアタシは生きてます! いつかお礼します!」
「そんな、いいよ。前の事だし、ごめん僕も忘れてたし……」
みちるは大きく両手を広げて、コロナモンとガルルモンにハグをした。
「いいのさ、いいのさー。だってアタシが覚えてるからね!」
そして笑顔で、二人を抱く腕に少しだけ力を込めた。
どうか皆、頑張って。健闘をお祈りしています。
──ありふれた贈る言葉。みちるは、明日を迎える仲間達に捧ぐ。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
作戦会議の終了後、マグナモンは宿舎棟を後にした。
残された一行の面持ちは様々だ。
テイルモンは話の難易度についていけず呆然とし、ユキアグモンは故郷への罪悪感で気を落としたまま。
一方、誠司は合体する事にどこかワクワクした様子だ。手鞠は探索と戦闘、どちらの方が役立てるか悩んでいるようで────蒼太と花那は、様子がおかしいパートナー達を心配そうに見つめていた。
「……なあ、コロナモ──」
「そういえば、柚子達はこっちに来られるの?」
蒼太の声を遮り、コロナモンは亜空間に語り掛ける。
「マグナモンとワイズモンで、色々やる事があるって聞いたから」
『夕飯はそっちで食べるよ。マグナモンはその後ここに来るんだって』
「なら良かった。せっかくだから全員で食べたかったんだ」
──自分達の異変は、自覚している。それに蒼太と花那が気付いている事も。
それを隠し切れない自らの不甲斐なさが嫌になる。だが、それでも「大丈夫だよ」と言って笑うしかないのだ。何がどうなっているのか、自分にだって分からないのだから。
────けれど。
痛みが走る、一瞬。そこに知らない誰かの姿が浮かぶ。
それが、誰なのかは分からない。思い出せない。これは自分だけに起きているのか、それともガルルモンにも起きているのか。──確認したくても、今は出来なかった。
『てゆーかさー!』
みちるの声に驚き、ハッと顔を上げる。
いつもの大きな声が、今だけは澱む気持ちを押し流してくれた気がした。
『こんな狭いワンルームにあんなゴテゴテの奴きたら、マジで満員電車になるんですけど』
「なら、オレらのとこ来ればいいじゃないスか。こっち広いんだし」
『確かにー! ていうか今って自由時間? ご飯いつ?』
「……おで、レオモンに聞いてぐる」
ユキアグモンが静かに椅子から降りる。「ご飯いつ?」なんて気軽に聞ける状態ではないくらい、誰の目にも明らかだった。
「そんな顔で平気? ウチが代わりに行こうか?」
「ううん。おでが行く。皆はここに居ていいよ」
そう言って去って行くユキアグモンに、手鞠と花那が心配そうに顔を見合わせる。
とぼとぼ小さくなっていく白い背中を、誠司が慌てて追いかけて行った。
◆ ◆ ◆
回廊階段を下りていくと、勝手口の側で座り込んでいるユキアグモンを見つける。
ここまで来たものの、扉を開けてレオモンに話しかける勇気が出ない様子だ。
「ユキアグモーン。どーしたの」
理解しつつも、誠司はいつも通りのテンションで声をかけた。
「外、出ないの?」
「……。……ねえ。ぜーじ」
「ん?」
「ぜーじは『ごめんね』ってすれば仲直りでぎるって、言っだけど」
「うん。大体はそれで仲直りできるからな!」
「……でも、おで……レオモンにも、街の皆にも、怖い思いさせちゃっだ。仲直りでぎるか、不安なんだ」
「そりゃあ確かに、皆めちゃくちゃ怖がっちゃったけど……。ベルゼブモンだって仲間になったんだから、別行動させちゃ可哀想だよ」
「うん。それは、分かっでるんだけど……」
ユキアグモンだって、決して差別意識を持っている訳ではない。──が、都市の民であるユキアグモンにとっては、民衆も同じく大切な仲間だ。だからこそ気まずいのだろう。
まあ、そうだよなー、なんて思いつつ。誠司は項垂れるユキアグモンの肩に腕を回した。
「でもさユキアグモン。とりあえず進んでみようせ。オレも一緒にいるから」
そもそも、聖地に毒を持ち込み、混乱を招いた──その責任があるとすれば、それはマグナモンだけではない。自分達全員だ。
誠司はドアノブを掴んだ。慌てるユキアグモンに歯を見せて微笑み、扉を開けた。
扉の開く音がして。夕焼け空が二人を迎える。
そして────
「レオモンさん」
レオモンが振り返る。その顔はどこか切なそうで、怒りの感情は見受けられなかった。
「…………ああ。君か。……君達だけか?」
それは、毒のデジモンも同行しているのか否かを問うものだった。誠司は「オレたちだけだよ」と首を横に振る。
「ほら、オレの後ろに隠れちゃダメだって」
「…………ぎぃ」
「ちゃんと前に出て、な?」
誠司に背中を押され、ユキアグモンはよろめきながら前に出た。
「……。……ユキアグモン……」
「レオモン。……ごめんね」
もじもじと俯いて、それでも声を絞り出した。
「……おで、皆が怖がるの、わがっでだ。天使様の街に、毒は絶対に入れちゃいげないって……わがっでだ。それなのに……。
ベルゼブモンと一緒に、都市に戻ろうっで……最初に言ったの、おでなんだ。操られでるんじゃなくで、自分達でそう決めたんだよ。だがら……」
「ユキアグモン」
かぶせるように名前を呼ぶ。ユキアグモンが顔を上げると、レオモンは優しい顔で手招きをしていた。
「君もだ。二人とも、こっちにおいで」
顔を見合わせながら、傍まで行く。するとレオモンは、ユキアグモンの胴を持って抱き上げた。
「わ、わ。……れ、レオモン?」
「なあ。……確かに驚いたし、恐怖もあった。都市がパニックになったのも事実だ。
でも都市は無事なまま、君達にも危害はない。天使様もお許しになられた。──だから、それが全てだ。
ユキアグモン、私は怒っていないよ。謝らなくていい。それより、怪我はしていないか?」
「…………」
ユキアグモンの瞳が涙で揺れる。地面に下ろされると両手を大きく挙げて、元気な素振りを見せた。レオモンは笑いながら二人の頭を撫でた。
「……ん? 指、治ったのか? 前は欠けてたじゃないか」
「えっ。……本当だ。治っでる」
「気付かなかった! 完全体になった時かな。それともマグナモンに治してもらった時? よかったなーユキアグモン」
さりげない誠司の一言に、それまで笑顔だったレオモンの表情が固まる。
「……今、“完全体”、と?」
「ぎ?」
「……完全体に……なったのか? お前が!?」
「うん。ぜーじが、強くしでくれだんだよ」
「へへっ」
レオモンは口をあんぐり開けていた。それじゃあ自分どころかエンジェモンよりも格上──何よりホーリーエンジェモンと同等ではないか。
ちなみに、こういう時の子供の前向きさは時に残酷だ。誠司はデジヴァイスを高々と掲げ、ユキアグモンも「ユキアグモン進化!」と言いながらジャンプしてみせた。
赤い夕焼け空に、赤い蛇竜が舞う。
誠司はメガシードラモンの頭部に乗ると、レオモンに手を差し伸べた。
「レオモンさんも一緒に乗ろうよ!」
──その姿の、なんて眩しい事。
「────」
嬉しくて、どこか胸が切なくて、それでいて誇らしい。
ああ、まさに“英雄”と呼ぶに相応しい姿だ。
レオモンは目を細めて、誠司に手を伸ばそうとする。
「……はっ、いや待て。戻りなさいユキアグモン。今の状態の君が空を散歩なんてしたら、別の意味で都市が騒ぎになってしまう」
「えー」
「ぎー」
「ただ、気持ちは嬉しい。……本当に、立派になったな」
レオモンは両手を差し伸べた。メガシードラモンは、ユキアグモンの時と同じように──その両手に鼻先の外殻を当てる。撫でられて、嬉しそうに目を閉じた。
「大丈夫。きっとお前は、君達はやり遂げられるさ。私はそう信じている。
……明日が終わったら、その時に……私や皆を乗せて、本物の空を泳いでくれないか」
きっと世界は平和になる。そう信じて、約束を交わした。
「だから────どうか、無事に帰ってきてくれ。私たちも、生き残ってみせるから」
◆ ◆ ◆
「あ! ねえテイルモン、二人とも戻ってきたよ!」
誠司達が棟に戻ると、回廊階段で手鞠とテイルモンが待っていた。
「なかなか帰ってこないから、どうしたのかなって……」
「なんだユキアグモン。随分と上機嫌じゃないの」
「うん。レオモンと仲直りできだんだ」
「えっ! わ、わたしも仲直りしに行きたかったのに……」
「……手鞠、まさか本当に飯の時間を聞きに行ってるだけだと思ってたの?」
ユキアグモンは浮かれ気味に、それもちゃんと聞いて来たと胸を張った。
「ご飯、もう少ししたら持って来でくれるっで。皆にも伝えてぐるね!」
軽い足取りで階段を駆け上がっていく。ぴょんぴょん跳ねる小さな背中を、誠司は安心したように見送った。
「よーし、じゃあご飯まで皆でトランプしようぜ」
「作戦とか考えなくていいの……?」
「マグナモン戻ってきてからでいいと思うんだ。多分!」
「……アンタたち、気楽だねえ」
「悩んでも仕方ないしさ! それにレオモンさんと仲直りできたからね。街の皆には全部終わったら、オレたち皆で謝ろう」
踵を返す。──石壁に空けられた窓の外、鮮やかな黄昏の空が目に映った。
星が少しずつ姿を見せていて、美しい。手鞠も誠司も感嘆の声を上げ、窓の面格子に顔を寄せる。
「すっげー。こんな綺麗な空、ここでも初めて見たよ」
「……あの空も、ホーリーエンジェモンさんが作ったのかな」
「本物みたいだもんなぁ。お台場に似たような店があるって母ちゃんから聞いたことあるけど、絶対こっちのが凄いよな」
「…………」
鉄柵越しに空を眺める手鞠と誠司。──そんな二人の姿に、テイルモンはどこか感慨深いものを感じる。
「……なんか、アンタたちが牢屋にいた時の事を思い出すよ」
縁起でもない悲惨な思い出だ。けれど、とても懐かしい。
痩せて汚れて怯えていた二人が、今はこんなにも────
「逞しくなったね。手鞠も、誠司も」
「え? そ、そうかなあ……」
手鞠は照れくさそうに頬を掻いた。
「チューモンも逞しくなったよな! あ、今はテイルモンか。……デジモンって何で進化すると名前変わるの?」
「海棠くん、今更……?」
「ウチが知るかそんなの。そういう風になってるの。なんなら、明日会いに行くイグドラシルとやらにでも聞いてみたらいいさ。神様なんでしょ?」
たしかに、と。二人はやや上空に目線を向けて頷いた。
「……神様かあ。どんなデジモンなんだろ。ホーリーエンジェモンさんを髭もじゃもじゃにした感じかな」
「どうだろうね。怖くないといいんだけど……」
ファミリーレストランに飾られた西洋画を思い浮かべながら、神様とやらの外見を想像してみる。──まさか自分達の人生で、そんな壮大なイベントが発生するだなんて思わなかった。話が大きくなりすぎて、マグナモンの説明を受けてもいまいち実感が湧かない。
「でも、とりあえずクリアできたら一件落着なんだよな?」
「そうだと思う……。多分、新しい毒はもう出てこないから、あとは壊れちゃった街とかを直していくんだよね。それも大変だとは思うけど……。そこも手伝えるなら、手伝いたいな」
「どうせならスッキリ安心した状態で帰りたいもんな! そういやさ、もし全部終わって平和になったら、テイルモンどうすんの? ユキアグモンは元々ここに住んでたし、コロナモンとガルルモンは……また二人で旅とか、するのかもしれないけど」
「ウチは手鞠の所に行くつもりだよ」
テイルモンは然も当然、と言わんばかりのすまし顔で答えた。
「手鞠にもウィッチモンの奴にも、散々リアルワールドの美しさとやらをプレゼンされたんだ。元々、フェレスモンの城から逃げたら向こうに行くつもりだったんだよ」
「わたし、チューモンと一緒に色んな所おでかけしたいなぁ。ここじゃ食べられないお菓子だって、いっぱいあるし!」
「えーっ、ずるい。オレらと暮らせるなら、オレだってユキアグモンと一緒に暮らしたい!」
「それなら今のウチに話しておきな。……まあ、アイツなら喜んでついていくと思うけど」
誠司は笑顔で頷くと、元気よく階段を駆け上がって行った。「行っちゃったねえ」と言って、手鞠はくすりと笑う。
そのまま、また空を眺める。
二人の間を、心地良い沈黙が流れていく。
テイルモンは尾のホーリーリングを外し、チューモンへと戻った。久しぶりに手鞠の肩へ飛び乗る。
「わっ。……チューモンに戻って大丈夫なの?」
「平気さ。ここにはウチらしかいないんだ。
あー、こっちのが目線が高くなって、色々よく見えるや」
そして、再び穏やかな時間が流れる。
風になびく少女の髪を手で避けながら、チューモンは「手鞠はさ」と静寂を破った。
「なあに?」
「明日、どうするつもり?」
「マグナモンさんが言ってた事? ……どっちがいいかなあって、ちょっと悩んでるの」
「……ここに残ったっていいんだよ。誰も咎めないし、何より怖くない」
「そうだね。でもわたし、それだけは選ばないって……チューモンだったら分かるでしょ?」
「分かってるさ。一応、聞いてみただけだよ」
「……どうしようかなあ。皆を探す人手も多い方がいいかなって思うし……けど、わたしたちを守るならフレアモンも大変になっちゃうだろうし……やっぱりチューモンを少しでも強くできるなら、とも思うし……」
「バカだね」
チューモンは手鞠の耳たぶを少しだけ引っ張った。
「アンタのやりたいようにすればいいんだよ。手鞠」
他の奴の事は気にしなくていい。考えなくていい。そう言い切った。
すると、手鞠は困ったように笑ってみせて────
「────うん、決めた」
決意を込めた瞳で、藍色に染まっていく空を見上げた。
チューモンも同じ方向を眺めて、少女の決意に最後の忠告をする。
「多分めちゃくちゃ怖いよ。いいの?」
「チューモンと、皆と一緒だから……わたしは平気だよ」
「……そうかい。じゃあ、気張っていこうじゃないの」
チューモンはそう言って、小さな手のひらを少女に向けた。
手鞠は一瞬きょとんとして、それから懐かしそうに目を細める。チューモンの手のひらに、自身の小指をそっと当てた。
「明日もよろしくね、チューモン」
「ああ、よろしく頼むよ。アタシのパートナー」
そしてチューモンは、優しい手つきでパートナーの小指を握り締めた。
◆ ◆ ◆