今になって思えば、あいつと初めて遭ったあのときから私は自分の底が見えていた。
進んだ先は行き止まり。どれだけ探求をしても世界の深淵なんて知ることはできず、どれだけ研鑽をしたところで新たな神秘なんて得られない。世界を守るなんて大それたことはそれこそ論外。
結局できることは目の前の一つを繋ぎとめることだけ。それも自分の持ちうるすべてを犠牲にしても確実性のない大博打。抜きんでた傑物でもなく、臆病さを隠して意地を張っている私にはそれが精一杯。
これはその癪な事実を受け止めるための話であって、他に壮大な意味なんてない。
ソウの拳がサラマンダモンの顔面に深く食い込む。炎を纏うその身体は普通なら触ることすらできないもの。けれど、両手を覆うように渦巻く風がグローブの代わりをしているお陰でソウの拳が炎の影響を受けることはない。寧ろ風圧によるインパクトの増大によって赤蜥蜴の身体の方が殴り飛ばされている始末。
攻防一体の拳を産みだす風の加護。それはソウの両手だけでなく両足にも施されている。地面と近い場所で風が産む恩恵は脚力の増強。そして、移動速度の向上だ。
最初の一歩。左足で地面を強く踏みしめた直後、ソウの身体がジェット噴射もかくやという速度で飛び出す。一気に縮まる距離。サラマンダモンは未だ着地すらできずに空を見上げている。必然、ソウの目の前にはその無防備な腹がある。
特大の的に突き刺さる右の健脚。これだけで重い一撃だけれど、ソウは油断することなく即座に二撃目の準備に移る。右足が刺さった赤い腹を足場に、他の三点で渦巻く風が上体を強引に持ち上げる。跳躍。回転。ソウの身体はサラマンダモンの真上を滞空。そして降下へと移った瞬間、サラマンダモンの腹に今度は左足が叩きつけられる。
揃って地に落ちる二種の怪物(モンスター)。しかしその勝敗は明白だ。敗者は無様に背中を地に着け、勝者は静かに息を吐いて悠然と立っている。
「終わったぞ、アコ」
そして、勝者(ソウ)のパートナーである私はただ彼が生きていることに安堵する。他に出来ることがあるとすれば、無力感という小さな棘をなんとか嚥下することくらいだろう。
体表から採れる発火性の体液。ソウがサラマンダモンを殴り倒した目的はそれだ。けれど、別に私達も追剥ぎのように一方的に殴り掛かった訳ではない。最初は下手に出て協力してもらおうとしたのだけれど、対価に命を含めたすべてを吹っ掛けられた。交渉はどこまでいっても平行線で、先にあちらがしびれを切らして実力行使。そうなった以上はこちらも黙っている訳にはいかず、ソウの拳に頼ることになったわけだ。
「いつも悪いな」
「こっちの台詞」
サラマンダモンを昏倒させることはできたもののソウの方も無傷という訳ではない。最後は優勢に進められたとはいえ、やはりサラマンダモンの炎は彼にとっては脅威で火傷を負っている箇所がかなりあった。今回は私の治療でもカバーできるが、もし次に同じようなことがあったらどうなるかは想像したくない。そうならないために手を打っている筈なのに、戦いの後に痛感するのはいつも私自身の未熟さだ。
「気にするな」
「……気にするわよ」
不意に私の心を見透かされたような言葉を吐かれた。彼なりの気遣いなのだろうが、今の私にとってその言葉は抜き身の刃のようなものなので止めて欲しい。「気にしなくていい様にしなさい」なんて言えればいいのだけれどそのための手を打つのは結局私の役割なのだ。口にしたところで自傷行為にしかならないのは目に見えている。
流水で患部を冷やしながら、手持ちの薬で使えそうな物を選別。水自体に微弱な魔力が浸透しているから、その刺激で自然治癒力も平常時よりは活性化しているはず。薬の持ち合わせも今回の分は足りている。とはいえ今後を考えるともう少し確保しておきたいところ。
「遺跡の近くに小さな町があったの覚えてる?」
「いや、まず地図を見ていない」
「アンタの物なんだから確認しなさいよ。処置が終わったら、進路を東にずらしてそこに向かうから」
「いいのか?」
「目的地を前に準備を整えるにはちょうどいいじゃない」
「なるほど。そういうものか」
「そういうものよ」
整えるのは物資だけでないということをこの男は分かっているのだろうか。その類いの言葉が飛び出すのをこらえる間に治療そのものは終了。片付けが終わったら、更新された行程を速やかに実行しよう。
「ちょっと。盛り上がってるところ悪いけど、わたし達も町まで同行していい?」
不意に声を掛けてきたのは私達と同じ人間とデジモンのコンビ。人間の方はゆるいウェーブの茶髪を肩まで流した小柄な女。デジモンの方は四肢にタービンのような装置が組み込まれた獅子の獣人。分かりやすい程の武闘派デジモンで、偏見ではあるけれどソウとは気が合いそうだ。
「名乗りもせずに頼むのは失礼か。わたしは梶隅(カジクマ)梨子(リコ)。リコとでも呼んで。こっちはグラップレオモンのデンカ」
「別に気にしないで。わたしはアコ。こっちはソウ」
噂で聞いたゆるふわ系とやらの見た目に反して、冷静さと決断力の両立した振る舞いのリコ。近くにいるだけで静かに伝わる程の闘気を秘めたデンカ。互いの関係性も至って良好。第一印象ではあるけれど、自分達とは違って実直で優秀なコンビだろう。
「同行してもらうのは構わないけれど、戦力としてはあまり期待しないでね」
そんなコンビが私達の同行を求める理由は何だろう。強いて上げるなら、ソウの珍しさくらいか。
「その治療の手際で十分よ。でもまあ遠距離からでもサポートしてくれたらありがたいけど」
「私に戦えってこと?」
「うん、そうね。極力戦いは避けるけど、戦うときには攻撃してもらわないと。大丈夫。成熟期でも戦力としては問題ないから」
どうやら過大評価に加えて誤解もされているらしい。同行すると言った以上、認識の齟齬は解消しなくてはならないだろう。
「ごめんなさい、リコ。あのね」
「アコって言ったか。急で悪いが俺の推測が合ってるか確認させてくれ。――デジモンのお前じゃなくて、人間のソウが戦っているのか?」
尤も、私が話す前にデンカによって真実は曝された訳なのだけど。
「少し長くなるから歩きながら話してあげる。暇潰しにはちょうどいいでしょ」
ウィッチモン。成熟期。データ種の魔人型デジモン。それが私ことアコが属する種族のプロフィール。
人間。体毛の少ない二足歩行の生物でデジモン以上の知能を持つ。デジモンではないため、デジモンとしてのカテゴリ分けは不可能。それが一機(カズキ)湊太(ソウタ)ことソウが属する種族のプロフィール。
私達が出会ったのはおよそ三ヶ月ほど前。魔術の実験に使う植物を求め、一人で山に潜っていたときのことだった。あのときも私はうっかりヘマをして、怒り狂ったグリズモンに追いかけられていた。
せめて落ち着いて手心を加えてくれないだろうか。半ば諦めかけたそのときソウが私の前にふらっと現れた。
「熊なんて飼うもんじゃないぞ」
開口一番の言葉がそれ。何から何までずれている言葉に思考が止まったのを覚えている。けれど、その疑問の波に数秒前までの恐怖や諦観が洗い流されたのも事実だった。
「こんなの飼ってる訳ないでしょ!!」
「そうか」
本当に理解しているのかという疑問が沸き立つ間に、彼は私とグリズモンの間にふらりと割ってきた。あまりに自然な動きで、私がそれに気づいたのはグリズモンが標的を彼に変えたと感づいた直後だった。
既に声を上げることすら間に合わない。間合いはもうグリズモンの爪の圏内だ。二秒後に何も知らない彼の腹が裂かれるのは揺るがない必然。私にはその現実から目を逸らすことすらできなかった。
「え?」
だからこそ、私は目の前で起こったことを現実として認識するしかなかった。
グリズモンが左の豪腕を力強く振るう。先端の大きく硬い爪が鋭い角度で迫る。それを前に彼が取ったのは、左方への僅かな前進と腰を落とすかたちの体重移動。あまりに最小限の行動だ。けれど、それが最大限の効果を産んでいたことを私はすぐに理解する。
グリズモンの爪は彼の右後方を通過。慌てて次の攻撃に移ろうとするグリズモンだが、既に間合いは一歩前に踏み込んでいる彼のものへと変わっている。無論、反撃の準備も整っている。
けれど、彼はあくまで人間だ。デジモンと人間ではどちらの方が頑丈な身体を持っているかは明白。ましてやグリズモンとなれば、攻撃を仕掛ける彼の手が無事で済むとは思えない。
その予想は半分当たっていた。至近距離で掌底を打った結果、彼の右腕は限界を迎えて折れてしまった。けれど、限界を迎えたのは彼の右腕だけではない。腹の内まで浸透する衝撃によって、グリズモンの身体も限界を迎えていた。予想が半分当たったということはもう半分は外れている訳で、このとき外れたのは闘いそのものの勝敗だった。
「む。やはり一筋縄ではいかないか」
折れた右腕を眺めつつ彼は敗者に背を向ける。そうなると必然的に目が合うのは何もできずに腰を抜かした私になる。それに気づいてずんずん近づいてくる彼を前に、私ができることなどありはしない。
「大丈夫か?」
それでも差しのべられた左手を掴むことができた理由は今でも分からない。人間にしては大きなごつごつとした手。これならば確かにある程度のデジモンには自力で対応できるだろう。今回のように犠牲を払うことが前提だけれど。
「その腕……」
「ん、ああ。普通の熊ならもう少し抑えられたが、それでは通用しないと思った。これでも生き残るための駄賃としては安い方だろう」
「そういうことじゃない!!」
思わず飛び出した叫びに私自身が一番驚いた。一人で旅をしてきたのに、ここに来て他人の心配をするとはどういう気紛れだろうか。けれど私以上に馬鹿げた気紛れを前にしては、この気紛れも何てことのない平常運転に思えてくる。
「なんで私のために腕を犠牲にしたの?」
逃げるタイミングなんていくらでもあったはずだ。最初に私を見つけた段階で声を掛けずに立ち去ればよかった。グリズモンを認識した段階で逃亡を始めればよかった。私とグリズモンの間に入らなければよかった。爪を避けた後に反撃に移らず走ればよかった。
そうすれば少なくとも彼が右腕の骨を折ることはなかったはずだ。代わりに私の身体に危害が加えられるけれどそれは彼には関係のない話。当事者としてその仮定は認めたくないけれどそれが私と彼が辿る当然の末路だった。
「危なそうだったから」
頬を掻いて出た言葉は声量とは裏腹に確固たる意思が籠ったもの。それを聞いてしまった以上、問い詰める言葉は出なかった。どれだけアプローチを変えたところで納得できる答えは得られそうにないと分かってしまった。
天性のお人好しかただの馬鹿か。間違いなく後者だと判断した後、何の気まぐれか自分も後者になろうと思ってしまった。
「もういいわ。……ひとまず病院に行きましょう。その腕が治るまで付き合ってあげる」
「いいのか?」
「私以上に危なっかしい奴を放っておける訳ないでしょ」
「確かに。それもそうだな」
「アンタのことよ。アンタの」
自分を助けてくれたのがこんな危機管理のできない奴ではいつどこで野垂れ死ぬのか不安になる。その遠因が自分にあるのではないかと胃が痛くなるのは御免だ。
ならばせめて、私のせいで死んだと思わなくて済むまで行動を共にした方が精神衛生上健全だろう。
ソウの退院が決まったのは三か月後のことだった。腕の骨折だけならその半分以下で済んだけれど、肩や足、内臓など他の箇所で目に見えない深い傷を負っていたため治療は想定以上に困難だったらしい。
その間は私も旅を中断してソウの面倒を看ていた。収集したい素材は既に集まっていたし、じっくり腰を落ち着けるタイミングとしても適当だった。……正直、それが取り繕うためのささやかな言い訳だという自覚はありました、はい。
面倒を看ていたといっても身元保証のために近くに居ただけのようなもので、私は特に治療には関与していない。応急処置や治癒魔術は心得ているけれど、その道のプロフェッショナルが居るのなら任せた方が良い。
結局のところ私が二ヶ月の間していたことは試料の整理やレポートの執筆。そして最も時間を割いた、ソウの暇潰しのための雑談くらいだった。以下はその中で一番印象に残っている一幕。
「つまりここは俺が居た世界とは別の世界なんだな」
「そ。で、アンタが熊だと思ってたグリズモンも私もデジモンという生物。アンタの世界の生物と一緒と思わないように。血気盛んな問題児もゴロゴロいるから、この世界には治安の悪い場所もかなり多いわ」
「なるほど。気をつける」
丁寧に説明してもこの相変わらずの反応。これでは分かっているのか分かっていないのか私の方が分からなくなる。教師としては非常に困る相手だけれど私は話を続けるしかない。
「この世界には稀にアンタみたいに紛れ込む人間が居る。ただでさえ非力な人間達には可哀相なことに、この世界には『人間と契約できれば活力を吸い上げて力を得られる』なんて話が広がっているの。おかげで人間を探しては捕まえようとしている連中も居るわ。――要するに、哀れな迷い子が長生きできるほどこの世界は甘くないってこと」
「まるで俺が生きていることが幸運みたいな言い方だな」
「実際幸運以外の何物でもないから」
タチの悪い組織に捕まって、エネルギータンクとして売られる未来もあったかもしれない。彼らにとって重要なのは話の真偽ではなく売れるかどうか。売られた後は結果に関わらず使い潰されて捨てられるのがオチ。ネガティブなifなんて考えるだけで精神力が削られるのでここまでにするけれど、私達の想像よりも酷いオチが待っている未来もあるだろう。
「うん、その通りだ。初めて遭ったデジモンがアコでよかった」
「な、何よ急に。今さら褒めても何も出ないわよ」
その言葉はまさに不意打ちだった。あのとき助けられたのは寧ろ私の方だ。笑える程あっさり死ぬはずだった私を自分の身体を顧みずに守ってくれた。その借りくらい返さなければ、胸を張って見送ることができない。今ここでソウと話しているのも結局は自分が納得するための行動なのだ。
魔女(ウィッチモン)らしくない性格だとは散々言われた。けれど、これが私なのだからどうしようもない。
「む。これからも世話になりたいと思うのも駄目か」
「嫌な冗談言わないで。契約でもするつもり?」
想像するだけで気が滅入る。そう言葉を繋げながらも内心はそんなことは無いだろうと笑っていた。そんな自分を殴りたくなるのは三十秒後の話。
「その契約はどうやるんだ?」
「それを今聞く? 悪いけど知らない。そもそも任意でするものじゃなくて、相性が合えば勝手にされているものらしいし」
「なるほど。ところで急に力が抜けてきたんだが」
「妙なタイミングね。寧ろ私は急に力が湧いてきたんだけど」
渇いた笑いが思わず零れる。同じタイミングで真逆の現象が起きるなんてなかなかない偶然だ。この現状が先ほどの契約の話と一致していることが一番奇妙な話。これではまるで私とソウの間に契約が結ばれたようなものではないか。
信じられなかった。信じたくなかった。心労で倒れそうだった。
「契約されてたようだな。……何かまずかったか」
「まずいというか、変人とハズレが組むって事実が辛い」
「変人とは失礼な。……ん、アコがハズレ?」
「ええ。ハズレもハズレ。こと戦闘においては落ちこぼれの筆頭よ」
あまり口にしたくはないけど、契約が結ばれた以上は隠すことはできない。事実を打ち明けたら人畜無害そうな顔がどう変わるのか。他人から侮蔑の表情を向けられるのは慣れた筈なのに、彼の顔にその表情が浮かぶのが怖くて仕方ない。それでも、今ここで打ち明けなくてはいけない。
「私ね、攻撃できないの。生物に向けて魔術を使えないのよ」
トラウマのきっかけは至ってシンプルな事件。荒くれ者に襲われた窮地に私はウィッチモンへと進化し、その溢れんばかりの力で向かってきた敵を一発で撃退した。けれども未熟な私に自分の力は扱いきれず、荒くれ者だけを狙うなんて器用な真似はできはしなかった。結果、私の旅に同行していた仲間にもその牙を剥いてしまった。
その日から私は魔術を攻撃手段として使うことができなくなっていた。指を向ければその先端が震え、手元は不自然に揺れ、動悸は激しくなる。立つことも危うい状態をしのいだ頃には既に魔力は四方に霧散して術としてのかたちを保つこともない。
「分かったでしょ? 私はアンタを守れない。パートナーの人間を守れないデジモンがハズレでなくて何なのよ」
打ち明けた。洗いざらい話してやった。思う存分絶望して、その呑気な顔を曇らせばいい。未来の不安から緊張感を持ってくれれば、私も自分がハズレという事実を笑えるというもの。
「なるほど。自衛の手段が無いのは大変だな。――なら、俺が戦おう」
「何を、言ってるの?」
様々なパターンを想定していた。どんな言葉が飛んできても良いように心の準備もしていた。それでも自分の耳が信じられなかった。あんな目に遭ったのにそんな妄言を言える彼の神経が理解できなかった。
「アコが戦えないのなら、代わりに俺が戦えばいい。腕っぷしには自信がある」
「ふざけないで!」
ここが病院だということを忘れるほどに、ソウの言葉は私の感情を乱暴に逆撫でした。自分の身体を何だと思っているのか。なぜ自分がここに居るかも理解していないのか。そんな馬鹿が私の代わりに戦うなんてこちらから願い下げだ。
「戦えない奴の代わりに戦える奴が戦う。合理的だと思うが」
「どこが合理的? 誰が戦える奴って? 腕一本折っておいてよくそんなこと言えるわね」
「でも、グリズモンとやらは倒せた」
「ええ、そうね。で、代償に今度はどこを折るつもり? それとも何かの器官を潰す? そんな真似をしてたらすぐに死ぬわよ。死んだら私の代わりなんてできないでしょ」
「う……ああ、確かにそうだな。いや俺も無駄に死ぬ気は無い」
自然と語気は強く、語調は説教じみたものになっていく。いや、説教でも足らないくらいだ。最後に薄っぺらい生への執着を見せなければ本気で一時間は説教が止まらなかっただろう。
デジモン同士の戦いでも当然負傷する。皮膚(テクスチャ)が欠損したり、骨格(ワイヤーフレーム)が折れたりなんてこともざらだ。自分の攻撃の反動で傷つく程度の人間に、それだけのダメージを何度も生身で受ける私(デジモン)の代わりが務まる訳がない。
治安が安定しているエリアも多くはなってきても、私達デジモンは元々が闘争本能を宿した獣。野蛮な性を暴力に変える賊が少なくないのも事実で、そういう輩に限って弱ったところを突くのに長けている。奴らからすれば一度の戦いで必ず重症を追う相手は格好の獲物だ。
この世界において生きるために足掻くことは大前提。出来る限り負傷せずに弱味を見せないことこそが最適だ。
「流石にアンタも死にたくないのね。よかった、そこまでの馬鹿じゃなくて」
「もしかして心配してくれているのか?」
「……は?」
心配している? こんな馬鹿をなんで私が。ただ私は成り行きでもパートナーとなった人間が自分の身体を大事にしないのが気に食わないだけ。無駄に命を散らした理由が私の代わりに戦った結果なんてことになれば、私のプライドや精神(メンタル)まで無残に散ることになる。あくまで私はソウのパートナーとして彼にもパートナーとしての自覚を持たせて、私の精神に少しでも安寧をもたらしたいだけ。
「俺のことを心配してくれるなら、俺が死なないようにアコが上手いことやってくれ」
「なんでそんなことを頼むの。面倒事を私に投げてまで、なんで私の代わりに身体を張ろうとするのよ」
本当に馬鹿だ。自分の身は自分で護る意識くらい持ってほしい。自分を蔑ろにしてまで私は守って欲しくない。そもそもいくらパートナーだからといっても自ら危険な役割を担おうとするのがおかしい。
「理由なんて大層な物は無い。――ただアコのために何かしたいだけだ。でも、俺には戦うことくらいしかできないから」
思わず声を失った。ソウが口にした言葉は具体的な返答としても不十分な、それ単体では信用に値しないもの。けれど、その瞳はあまりに純粋な光を灯していた。それはソウがその言葉を本気で言っているという証明に他ならない。
「はぁ、分かったわよ。好きにしなさい。――けど、死ぬことは絶対に許さないし、そんなことにはさせない」
本当に馬鹿だと思う。それもかなり強情で無駄に意思の固いタイプの馬鹿だ。そんな馬鹿はこれ以上何を言ったとしても意見を曲げないだろう。ならばせめてソウには好きなようにやってもらって、私は彼の命が少しでも長く伸びるための準備をした方がいい。馬鹿の言葉通りに動くのは癪だけど、人間にただ護られるなんてのは私自身が許せない。――だから、いずれは私がソウを護るのだと口には出さずに誓った。
「ようやく納得してくれたか」
「納得はしてない。許容しただけ。……デジモンじゃなくて人間が戦うなんて滅茶苦茶よ」
「滅茶苦茶でいいだろう。何事にも例外は付き物だ」
例外――戦うことのできないデジモンと戦うことしかできない人間のコンビにこれ以上的確な言葉は無いと思う。
ソウがデジモンと戦う。そう決まった上で、身体を張る彼を護るために私が打った手は主に二つ。
一つ目は薬による内側からの強化。大まかな効能は心肺機能や筋肉の増強、加えて魔術への耐性の付与。ドーピングといえばドーピングだけれどあまり手段は選べないのも事実。当然、ソウが人間としていられる範囲内だけれど。
二つ目はアクセサリによる外側からの強化。私が得意とする風や水の魔術の術式を籠めた腕輪(ブレスレット)や足輪(アンクレット)を付けさせることで、移動速度や格闘技をデジモン相手でも通用するものへと昇華させることに成功した。当然ただそれらを付けるだけではソウの身体がアクセサリの魔術に耐えられない。けれど、元々ソウが鍛えていたことや薬で肉体を強化していたこともあって、ソウは何の負担も無く使いこなすことができた。
私が薬や道具を作ることが得意だったのは本当に幸いだった。ソウはもう並大抵のデジモンの攻撃じゃ簡単にはくたばらない。流石に無傷で終えられる戦いは無かったけれど、ここまで大怪我を負うことなく旅を進めることができたのもまた事実だった。
「話はここまで。長時間に関わらずご清聴ありがとうございました」
「ふーん。とりあえずソウが馬鹿だってことはよく分かった」
「それだけ理解してくれれば十分よ」
あまり語りが上手くない自覚はあったけれど、リコもデンカも退屈そうな顔をしないでくれたのはよかった。一方でソウが口を尖らせながら頬を掻いている点に関しては一切考えないこととする。
視線の先に建物らしきものが見えてきた。長話でも時間潰しとしては適当な長さだったらしい。それはつまり、町までの同行者との別れが近いということ。昔話を語っていたせいか、想像していたより寂しく感じてしまう。こんな気持ちになるのなら無闇に自分達のことを話さない方が良かったとも思えてきた。
「アコ達はこれからどうするの?」
「一息ついたら近くの遺跡に行くつもり。文明を支えた古代の魔術の調査ってところかな。……あ、地下迷宮なんてのもあったかな」
寂しさを誤魔化そうとした結果、話の中心は町に着いた後のことに移る。
私達の目的地はかつてクレノソスという名の都市だった遺跡。二千年ほど前、ウィッチェルニー由来の魔術師を中心に魔術による高度な文明を築いたらしい。けれど、世の中栄枯盛衰が必定。魔術によって栄えたその都市は同じ魔術によって滅びた。けれど、その当時の奇跡の残滓や魔力の痕跡――手付かずのもの含めて――が現在も遺跡の中に残っていると噂されている。
古代の魔術には一人の魔術師として興味がある。それ以上にソウを護るために魔術の知識がより必要だった。
「そっか。……面白そうね。このままわたし達もついてっていい?」
「別にいいけど……いいの」
「いいの。これからの方針も決まってなかったし」
それはあくまで私達の都合。魔術の素養のないリコ達には関係のない話。そう思ってまた二人旅になると考えていたのはこちらだけだった。単純な興味であってもまだリコ達と旅を続けられるのは素直に嬉しい。ソウの奇行に頭を痛める役割が分割できると思うと心底ほっとする。
「じゃあ、これからもよろしく」
「こっちこそ。ま、ひとまずのんびり休みましょ」
町はもうすぐそこ。後は宿を手配してシャワーと食事と睡眠で一日の残りを消化する。それから先は何も決まっていないけれど、おそらくニ三日を休養と準備に使うことになるだろう。準備期間の間にできれば遺跡に詳しい案内役を確保しておきたいところ。
落ち着ける目処が立ったからか今後について色々な想像が閃光のように巡る。そこにソウのことを踏まえたものが無いあたり、私もまだ彼の扱いが未熟だということだったらしい。
ありがとうございます。強いて言うなら恋愛未満の信頼関係の話ですかね。
まほよ要素というのはぶっちゃけ二組のルーツがそこに出てくる連中だったことです。ただ今思うと良くも悪くも剥離してる面があるなと思ったり。
ソウのルーツは草の字なので、ルーツを同じくするアサシンのマスターのキャスターのマスターであるティーチャーと同様に初見なら怪物を殴り殺せるスペックです。一方でアコの方は青子のような破壊の才能というよりは姉貴や有珠のように小技の知識に長けた感じになりましたが、さっぱりしつつもお人好しなところは根底に残したつもりです。彼女の詠唱も最後の台詞も褒めていただき、ありがとうございます。
ヤンキー殿下(デンカ)くま「りこ」じかは完全にイメージと手癖で書いている部分がありますが、ただ似た関係のCPを書きたかっただけということで。……それにしてもデジモンに当てはめようとしたら死亡フラグを背負いかけるのはらしいというかなんというか。
ピトスは言ってしまえば一線を越える舞台装置なので、傷んだ赤色的なムーブをさせました。……ハンプティダンプティ? まあ、草の字を殺す気でストーキングしてたので、登場シーン的に敵と言えば敵なので。
マトリクスエボリューションではなくアコ単体ではありますが、メディーバルデュークモンに進化するケースも考えてはいました。が、せっかくならデジモンと人間と根本的に異なる種族関係だから出来る覚悟の決め方はないかと思い。それを入れ替える形になりました。
これはラブなのか、はたまたデジモン化に属する作品なのか。そんなわけで夏P(ナッピー)です。
最初に名前が明かされた時点で「き、貴様まさか」と思いましたがソウ君の「見誤ったなセイバー。私のように前に出るしか能のないテイマーもいるということだ」と言わんばかりの葛木先生ぶりに戦慄。選択肢ミスったら遠坂の首から上吹き飛んでたぜ。アコは拳の強化魔術を先に覚えるべきだったな……最終的に収まるべきところに収まったので良かったのかもしれないけれど。というか、途中の詠唱もそうですが何より最後の一文が素敵。
同行者お二人はグラップレオモンという時点で凶悪な死相が見えておりましたが、いや実際にアーチャーの如く殿を務めようとした時点でオイ待て死んだろコレと思ったので「息はあるが」の五文字だけで安心してしまった俺ガイル。ちゅーか、オメーまほよ要素ということでハンプティダンプティみたいな見た目しといて敵役だったのかよォーッ!
人間とデジモンの立場が入れ替わってしまったので、最後は愛と共にマトリクスエボリューションしてメディ―バルデュークモンになるのかと思ったのは内緒だ!!
それでは。
〇後書き
あけましておめでとうございます。新年早々の投稿ですが、別に休日を賭して書いたわけでもなく、上げ損ねていた五年ほど前の過去作を上げただけだったりします。
そんなものを何故上げたのかという理由については、年末に鬼〇見てたらある作品のアニメ映画化が発表され、その作品に少なからず影響を受けていた本作を久しぶりに読み返したからです。いろんな意味で痛々しい記憶を思い出すものの、本作の内容自体は今でも気に入っています。
最後に補足というか言い訳を。アコが唱えていた呪文については当時の自分にはウィッチェルニーとかマジカルウィッチーズの呪文の情報を探り当てられなかったため完全なオリジナルです。つまり当時の私の趣味です。
町で宿さえ確保できればゆっくり準備を整えられる。そう考えていた一週間前の私の顔面に鉄砲水をぶち当てたい。当初想定していた期間の倍も町で過ごす羽目になるとは流石の私も思わなかった。
物資の調達や傷の手当はほんの二日で終わった。ならば何に時間が掛かったかというと、遺跡の案内役の手配だ。
哀しいほどに捕まらなかった。募集を掛けてもらっても驚く程に音沙汰がなかった。観光協会の方から手配してもらおうと思ったら苦笑いを浮かべながら追い返された。
理由は別に指名手配されているとかそういうことではない。強いて言うなら現行犯という表現の方が近い。
原因はソウの奇行だ。二か月の経験のおかげで学習してくれているとはいえ、一般的な人間ともデジモンともずれた彼の言動は嫌でも目立った。敷地内の池で泳いでいたデジマスを捕まえて捌こうとしたり、町主催の格闘大会に何食わぬ顔でエントリーしようとしたりと、両手の指では足りない数の妙な行動を見せてくれた。……リコ、デンカ、うちのパートナーが迷惑を掛けて本当にごめんなさい。
トラブルメーカーに同行する物好きはそうそう居ないわけで、気づけば観光協会からも白い目で見られる羽目に。正直、私自身は彼らの行動を薄情だとは思わないし、同じ立場であったら間違いなく同じ行動を取ると宣言できる。安定。平和。万歳。
「ありがとう、ピトス」
「ギブアンドテイク、デス」
そんな私達に救いの手――手がない種族だけれど――を差し伸べてくれたのがデジタマモンのピトスだった。
その名の通りデジタマを加工したかのようなシルエットのようなデジモンだ。デジタマの下方から二本の足を伸ばし、中央の亀裂から目を光らせているビジュアルは不気味極まりない。でも、今となってはそのビジュアルが完成された慈愛の化身に思える。
案内役を受けてくれたときは、騙されているのではないかと思ったこともあった。けれど、実際のところピトスにもピトスなりの理由があるとのこと。それは依頼者――つまり私に魔術の素養があったからだという。種族的に縁が無さそうだけど、個体として魔術に興味があるのだろう。
「案内役の仕事でも道中くらいは快適に過ごしたいものですシ」
まあ、業務上の必要経費として特殊なかたちのおひねり(チップ)が欲しかったこともあるらしいけれど。
本日の天気は憎らしい程の快晴。下級の炎魔術に相当する熱線が容赦なく私達に突き刺さる。私お手製の護符が無ければ怨嗟の声が響いていただろう。
陽光を反射する白色の砂と石。極端に言えばこの場にはそれしか無い。けれど、それらが組み立てているものはただの砂と石と形容するには浪漫がありすぎた。
頑丈に組まれた三階建ての巨大な建築物。角石(ブロック)で組み立てた直方体(ブロック)を組み合わせた複合体。千を超える部屋数を確保しながら一階には、私と同じ背丈のデジモンを二千ほど収納して余りある広場が設けられている。きっと全盛期にはこの中で多くのデジモンが過ごしていたことだろう。
けれど、現在の姿は先の表現とは離れている。かつての整ったシルエットは既に無い。均整の取れた四角柱は大きく抉られて内部に熱風を吸い込んでいる。施設内にある筈の広場が確認できるのも三階から一階まで掛けて斜めに大きく削り取られているためだ。
感じる浪漫は建築物の美麗さだけでなく、長い間を風雪に耐え多くの往来を見通してきた年季によるもの。この場所こそが私の目的地にして調査対象であるクレノソス宮殿だ。
「王座は三階、デスが魔術絡みとなれば真反対カト」
一階から三階とは真反対。つまりは地下。この宮殿の主役は地上の突き出ている建物に非ず。本命は地下に作られた迷宮。近辺の民間伝承の中にはこの迷宮にまつわるものもある。その中でメジャーなものの共通項は凶悪な怪物が迷宮に封じられているというもの。私達の目的はその怪物や迷宮にまつわる魔術的要素だ。
「デハ、参りましょうか。あ、一度迷ったら冗談抜きで出られないノデ」
余計な一言を吐いて進む案内役(ピトス)の後に私達も続く。宮殿の広間の脇を抜けて少し歩けば、地下迷宮への階段が私達に手を招いていた。ここに来てピトスの余計な一言が再度心にちくりと刺さる。
「蛇や蜥蜴が居たらありがたい」
「思ったより雰囲気あるじゃない」
「横道ずれずについていけばいいんだろ。問題ない」
しかし、私以外にその程度の脅しに表情を変える正直者は居なかった。仮に正直者が居たとしても、感性がずれているためリアクションも変な方向に走ったと解釈できる有り様。これではまるで私だけが怯えているみたいだ。……いや別に怯えていはいないけれども。
奇形の案内役の背を追うこと半刻。一度迷ったら出られない大迷宮。その意味を思い知るのには十分な時間だった。地上を明るく照らしていた陽光の恩恵は既に途絶え、手元の灯りだけが私達の視界を確保している。当然気温も一気に下がり、私の護符はすぐに無用の長物と化した。
狭い視界に移るのは通路と石壁と分岐点の三択。かれこれ分岐点を何度曲がったことか。記憶領域に刻んでいたここまでの経路も既にあやふや。今から自力で地上に戻れと言われたら、どんな手を使ってでも撤回させると思う。
「暗い。狭い。目ぼしいものが無い」
「アコが望んだんだろう」
「わ、分かってるわよ。何よ、ちょっとくらい愚痴漏らしてもいいでしょ」
身に迫る三重苦を口にしたらソウからは厳しい正論が返ってきた。辛辣な言葉が硝子のハートに刺さる。けれど、それ以上にきついのはその言葉がソウによって吐かれたこと。ソウ相手に言い負かされたことが何より癪に触る。
「リコ、大丈夫か」
「ん、全然。こういう方向もわりと好きよ」
リコとデンカも弱音は口にしていない。見習いたいほどのタフさ。これで私が弱音を吐くのも妙な話で、誰に言われるでもなく意地を張る羽目に。あれ、なんで私が一番疲れているんだろう。
「あほらしい。そうよ、私だって来たくて来たんだから」
目的があるのは私。指針を決めたのも私。ならば尚更弱音を吐くのは馬鹿馬鹿しい。ここは初心に戻るというか、目的を再度確認してモチベーションを復活させる。
私の目的は遺跡に刻まれた古代の神秘の調査。その結果によって私自身の魔術知識に新風を吹かせること。しかしそれはあくまで過程。本当の目的は蓄えた知識でソウに彼自身を護る力を与えること。調査結果そのものにも価値はあるけれど、その恩恵を私達が享受することの方が価値がある。魔術を研鑽する身としては異端な考えかもしれなくてもその一点だけは譲れない。それが魔術を抜きにした私の信条(スタンス)なのだから。
「そろそろ中心部に出マス」
ピトスがその言葉を口にする頃には、私のモチベーションは平常時より少し高いレベルに高まっていた。最高潮に高まっていないことが寧ろいい。変に力むことのない程度に前向きな今の精神状態こそ最高のモチベーションだと思う。
少しの思考の整理でここまで良い状態に持っていけるとは流石に思っていなかったので、今後も不満が溜まったら実践するようにしよう。そういう経験が得られたことこそが今回の思考の一番の成果だった。
「あ――凄い」
中心部に足を踏み入れた瞬間、私の身体は歓喜に打ち震えた。意識も先ほどの自己暗示が必要でないと思うほどに完全に覚醒させられた。
理由は一つ。その空間に魔力が溢れんばかりに充満していたからだ。それもただの魔力ではない。まるで長い間外部からの干渉も受けることが無かったかのような、一切混じりけの無い純粋な魔力。何にも染まることがなかったからこそ、何にでも染められる無色。これだけのものが文明崩壊から現在まで、ずっとこの空間の中に保存されていること自体が奇跡だった。
「眉唾の噂だと思っていたけど……よくここまでの道のりを知っていたわね、ピトス」
「ちょっとしたコネですヨ。この広間こそが神殿の、いや迷宮の深奥というわけデス」
広間そのものも非常に興味をそそる。
まず注目すべきは石畳だろう。石畳全体に刻まれているのは奇妙な紋様。何かしらの術式のようだけれど、私の知識には術式の解読に使えそうなものはなかった。そもそもこの術式は体系からして現在のメジャーどころのどれにも該当しないと思う。既に失われた古代の言語で記されたものだろうか。
広間の奥、紋様から伸びる線の先にはあからさまな祭壇が建てられている。石畳と同種の紋様が刻まれている祭壇には様々な形の祭具が配置されていた。いずれも私には解読不能な術式が仕込まれたもので、魔術抜きにしても歴史家からすれば垂涎ものばかりだ。
現在の魔術と断絶された過去の遺物(ロストテクノロジー)。未だ明かされていない神秘がここにあった。
「やっぱりついてきて良かった」
「リコにも分かるの、ここの凄さが?」
「馬鹿にしてるの? 魔術を知らなくても、凄いところだってことは分かる」
「素人目に見ても貴重な品が多いからな。祭壇に置いてある物なんかは残ってることがまず奇跡だろ」
古代の神秘はリコ達のお眼鏡にも叶った様子。ここにあるのは滅多に御目にかかれない貴重な物ばかりだということは流石に一般の素人でも分かるらしい。
「なあ、アコ。ここに並べられてる物は何に使うんだ? コップにしては変な形してるぞ」
逆説的に言えば、非常識で物の価値が分からないソウはある意味一般の素人ではないということ。納得できるあたりソウらしいというかなんというか。
「ピトス、これ写真に撮っていい?」
「すみまセン。見る分にはいくらでも構いませんガ」
「撮るのは心のシャッターでってことか」
「そんないいものあったかねえ」
リコとデンカは貴重な体験を満喫中。わりと楽しんでるようなので、リコ達にはそのまま好きにしてもらえばいい。
「そもそもなんでこんなところに置いているんだ?」
問題はうちのソウ。今も幼年期デジモンのように頼りない視線に乗せて些細な疑問符をぶつけてきているけど、私にはいちいち疑問に答えるために使える時間は無い。ここは心を鋼鉄にして本来の目的に準ずる。それが私やソウのためになると信じているから。
「なあ、ここは何かを封印していたんだろう。こんな貴重そうな物をなんで……」
「っさい! 分かったわよ。説明するからそこで待ってなさい」
我ながら本当に甘いと思う。こんなんだからソウとコンビを組む羽目になったし、こんなんだから大事なところでポカをやらかす。
「アコ!」
「――え」
不意に轟くソウの声に思わず顔を上げる。視界に割り込む彼の表情は驚きと怯え、そして怒り。何を言いたいのかと考えようとしたその瞬間、私の右脇腹に激痛が走った。
反射的に痛みを訴える場所に右手を伸ばす。手袋越しでも伝わる違和感。どろりとした液体が手首にまで伝ったところで、私はそれが自分自身の血なのだとようやく理解した。
全身から力が抜ける。自分の身体のはずなのに立つことすらままならなくなる。自重に従って倒れる先には石組みの祭壇。……このまま頭からぶつかったらすごく痛いだろうな。
身体に掛かる衝撃は予想よりも柔らかかった。前面から伝わる温かさと臭いはソウのもの。私の身体を受け止めた彼がどんな表情をしているかは分からない。けれど、彼にすごく悪いことをしてしまったことは分かった。
「大丈夫か、アコ」
「そう言いたいところだけど無理」
「ごめん。今は応急処置と君の薬しかない」
「情けない私には十分過ぎる」
迂闊だった。警戒を怠った結果がこの始末。この本番の弱さや甘さが本当に嫌になる。その尻拭いをしてくれたのはいつもソウだった。
こんな風に後悔ばかりが募るのは、安静のために祭壇に背中を預けていることでソウの姿が嫌でも見えてしまうからだろう。本当に情けない。今さら後悔したところで仕方ない。余分な思考なんて意味が無い。私にできることなんて元から限られている。自分がなぜこんなことになった理由と犯人の目的くらいは知らなくてはいけない。
「嘘……アコ!」
「落ち着け、リコ。アコはソウに任せろ」
アコもデンカも犯人では無いのなら答えは自ずと絞られる。単純な話、あからさまに都合のいいことには必ず裏があるということ。
「どういうことだ、ピトス」
「ギブアンドテイクと言ったでショウ、デンカさん。私の目的のために魔女の血が必要でシタ」
デンカとの会話だけでピトスの目的が推測できるのは、私なりに真面目に魔術の研鑽を積んでいたおかげか。その魔術絡みで今まさに悲惨な目に合っているわけだけれど。
魔女の血には魔力が籠っている。重要なのはその魔力を何にどう使うか。――そして、どこで使うか。
ただ私の血が欲しいだけなら広間に出る前に闇討ちして採集すれば良かった。そうしなかったのは広間のこの場所で血を流させることに意味があったから。私の血が染みていくのは件の祭壇。それが何らかのスイッチであることは明らかで、私の血はそれを起動させるために必要だったということ。
「アコさんにはだいたいお見通しのようデスネ。聡明なノカ、勘が良いノカ。――今さら逆流は止められませンガ」
祭壇に紅い光が灯る。それは内部にまで刻まれた術式が起動した証。紅い光は石畳の紋様にまで走り、広間全体に刻まれた術式も連鎖的に起動する。そこまでは私の推測の範囲内。つまりそれ以降の出来事はすべて私の予想を超えた事象。
光が入り口に到達すると、通路の壁面にも同じ色の光線が多方向に分かれて走る。術式は迷宮の通路にも刻まれていたらしい。信じがたいことにこの地下迷宮のすべてが三次元的に描かれた巨大な術式だったようだ。
迷宮中に張り巡らされた術式が広間を赤く照らす。妖しい光から逃げようと目を瞑ると目に見えない変化に気づく。空間内にあれほど満ちていた魔力が急激に薄くなっていた。これが術式と関係があることなら、迷宮の役割も検討がつく。
術式に刻まれていたのは魔力の吸収と拡散。この迷宮は対象から魔力を吸い上げて無力化する檻の役割を担っていたようだ。伝承における怪物も術式によって無力化されたからこそ迷宮の中で一生を終えることになったのだろう。
ピトスは私の血を使ってその術式を逆流させたと言った。標的から魔力を吸い上げて空間に拡散させる術式の逆。それはつまり、空間から魔力を吸収して標的に注ぎ込むという術式へと変わるということ。ここまで分かればピトスの目的は明らかだ。
奴はこの空間に残った魔力をすべて自分の物にしようとしている。
「さあ、災厄が開くときデス」
目的は分かった。けれど私達にもうそれを止める手だてはない。広間に満ちていた魔力は完全に消え、術式を通して一点へと収束する。その一点とは術式の中心で、集まった魔力はその真上で仁王立ちしているピトスの身体に一つ残らず注ぎ込まれていく。
「アア……イイィ。く、ヴぁアアアッ!」
私はまだ楽観視していたのかもしれない。広間中の古代の魔力を全て取り込んだところで、きっとどこかで許容量を超えて自滅する。そう考えていた。変化は著しく、灰白色の殻は鈍い黒色に変わってひびが四か所入っている。それは異質な魔力に耐え切れずに侵されている証だと思いたかった。
けれど、そんな甘い考えなんてあっさり打ち砕かれるのが道理な訳で、ピトスは魔力のすべてを受け止めるだけの器たりえた。
「あァ、待ってイタ。幾度の身体を乗り捨ててでもこの姿を取り戻すのヲ。奪われた力をもう一度この手にするコトヲ!!」
雷のような激しさは失っているけれど、術式は今もほのかな光を放っている。おかげで変わり果てたピトスの姿は嫌でもはっきりと見えてしまう。
殻から覗く茶褐色の肉体は紛れもなく化け物だ。細く鋭い四肢は攻撃的な印象を与え、一対の翼としなやかな尻尾は邪竜のそれとしか思えない。何より大きな口を開けている頭には無数の目が輝き、私達を捕食対象として捉えていた。
「あんたが怪物そのものだったのね」
デビタマモン。この世の邪悪のすべてを詰め込んだ箱に例えられる、突然変異型の究極体。古代の魔術を破壊のみに使う災厄そのもの。
古代の魔術を調べていた頃に聞いた名ではあったけれど、まさかここで対面することになるとは思わなかった。けどよくよく考えてみれば魔力を吸い上げて封じこめる対象としてはこれ以上ない該当者だ。ピトスのデジタマモンという特徴的な種族で多少なりとも連想しなかったことが本当に悔やまれる。
「感謝してイマス。アナタの魔族の血があってこそ、私はこの姿に戻ることができマシタ」
「それはどうも。で、私にこんな真似して何がしたいの」
「さて、どうしまショウカ。ひとまずここから出たいですネ。……いや、この内に湧き上がる衝動に従うのが一番でしょうカ」
「見敵必殺ってところか」
デビタマモンの内にあるものは認識するすべてに対する憎悪と破壊衝動。文献通りの存在だというピトスの自白は宣戦布告以外の何物でもない。衝動の矛先が一番最初に向けられるのは当然私達。一切の容赦なく私達を殺した後に迷宮を飛び出し、残った衝動が尽きるまで古代の神秘を無作法にまき散らす。
敵は大仰な封印をされる程の究極体。こちらのまともな戦力は完全体のデンカだけ。後は自分の命さえ護れれば御の字の戦力外。
圧倒的な戦力差を前に打てる手なんて限られていて、そのすべてにはそれぞれ別種の覚悟が必要になる。逃げることを選んだとしても、この広間の出口はすべて迷路に繋がっているため迷路の中で衰弱死する可能性を受け入れなければならない。
この場所は強者が弱者を嬲り殺すには持って来いの場所。逃げることも難しく、遺体が明らかになるための条件も厳しい。ここに誘い込まれた段階で私達は既に死ぬことが確定しているようなものだ。
「リコ、ソウとアコを連れて出ろ」
「待ってよ。デンカは……」
「ぼさっとするな! 適当に時間稼ぎしたら尻尾巻いて逃げる」
できることが限られているおかげでこの場の最善策がすぐに分かるのも皮肉なものだ。一番避けたいのは全滅して地上に現状を伝えられないこと。なら現状の最大戦力を時間稼ぎに捨ててでも、あいまいな記憶を頼りに迷路を抜けて地上に出る方が確実に出る犠牲が最も少ない。
「分かった。無茶だけはしないで」
それを割り切れるかどうかはまた別の話。叶う可能性が低い希望を口にしたとしても、囮役の指示に従って私達を立たせたリコは本当に強いと思う。私がリコの立場なら絶対に同じ真似はできない。だからリコの希望が叶うことを心から望むし、デンカの意志も絶対に無駄にしてはならない。まずは痛みをこらえて広間の出口――迷路への入り口へと全力疾走することから始める。
「ヴぉおおおおおお!」
デンカの咆哮が私達の背中を急かす。彼の奮戦を知る術は先の咆哮を初めとする物騒な音の連鎖だけ。それ以上の情報を求めること――振り返って彼の身体を視界に入れることなどは許されない。今求められるのはただ最速で広間から抜け出すこと。
「っ! 次、あそこ」
たとえ不意に飛び出した光線が目の前のゴールを倒壊させたとしても、それが足を止める理由にはならない。偶然の流れ弾とは思えない以上、このゴールは諦めて次のゴールを即座に選んで進路を変更する。
次のゴールも同じように破壊されるのではないか。デンカと戦いながらあそこまで絶妙なタイミングでこちらにちょっかいを出せるのは、それ相応の余裕がピトスにはあるからではないか。そういう思考は無理やりにでも隅に追いやって、僅かな可能性を手繰るためにランアンドラン。全力疾走、ゴール手前で急旋回、そしてまたまた全力疾走。
終わりの見えない鬼ごっこ。六つ目のゴールを諦めた段階で、弄ばれているのではないかという疑念を押し殺すことに限界が見えてきた。一番最悪なのはこのタイミングで限界を迎えたのが私達だけではなかったということ。
「がはああああっ!!」
背後から響くデンカの悲鳴。それを踏み越えてでも私達は逃げることを選んだはず。けれど、頭上を越えて私達の前に落ちてきた彼の身体はその決意を挫くには充分過ぎた。身体中のプロテクターは既に役割を終えて砂へと変わり、露わになった肉体は傷と血が埋め尽くされている。辛うじて息をしてはいるものの、今は立ち上がることすら叶わないだろう。
あまりに一方的で呆気ない結末。どれだけ足掻こう逃げることすら叶わない。正真正銘の怪物が目覚めたという現実が私達の前に鎮座していた。
「そんな……嘘でしょ。頼むから起きてよ」
リコが駆け寄ってデンカの手を取るのを私は止められなかった。彼女は契約を通して生命力を与えて命を繋ごうとしている。それがデンカの言葉を無視する行動だとしてもリコは止めないだろう。
「逃げるのを諦めましタカ。ちょうどイイ。迷路を探す手間が省けマス」
だから、一歩ずつ近づく脅威から逃れることもできなくなる。どうしようもない行き詰り。一度足を止めた私達には逃げ道など最早無く、次の行動を選択した瞬間に命が絶たれるのは確実だ。
「ピトス。本当にアコ達を殺すのか?」
私達の誰もが一歩も動けない中、ソウは答えの分かり切った問いを投げかける。私にはその意図が分からなかったけれど、その言葉で変わる未来は予想できてしまった。変わらない結末が少し早まるだけ。どうしようもない絶望的な状況でも彼の判断や動きはいつもと変わらない。いつものように行動して、その結果をただ粛々と受け止める。
「他人事のように言いまスネ。この場に居る全員を始末しますヨ。皆さん遺跡の地下で私の真実とともに眠ってもらいます」
ピトスの答えは分かっていた。それを受けたソウの行動も理解していた。導かれる結果も予測できた。――私にはその後のことに関与する権利しかなかった。
「そうか。それは認められないな」
足輪(アンクレット)から噴き出す突風でソウが一気に距離を詰める。私の目ではスタートとゴールしか捉えられない閃光のような高速移動。腕には足と同等の出力を束ねた風のグローブ。最短距離を一直線に走る最速の拳。瞬きの間に距離を詰めた結果、ピトスが動くより早くにソウは自身の武器を叩き込んだ。成熟期ならノックアウト、完全体なら怯んで無様に隙を晒すこと間違いなしの剛拳だ。
「そうですか。別に残念でもありませンガ」
それでも究極体には届かなかった。古代の魔力を纏うピトスには私程度の強化付与(エンチャント)では圧倒的に足りなかった。風は止み、ソウの拳からは皮が剥がれて血が飛び出す。指の骨が何本折れたかなんて考えたくもない。ソウの腕は初めて遭ったあのときのように壊れて使い物にならなくなった。あのときと違うのは敵対者を仕留めることができず、ソウの無防備な腹には既に反撃の一手が届いていたこと。
「ブラックデスクラウド」
最初は染みかと思った。それが分解されていくソウの体細胞だと理解した頃には、彼の腹には風穴が開いていた。装備品で纏わせた魔術障壁も、薬で鍛えた魔力耐性も紙切れ同然だった。過去の私が心血注いで組み上げた守りは役に立たず、現在の私は見たくもない穴を通してピトスを睨みつけることしかできなかった。
デンカですらあっさり負けたのだ。私程度の力ではソウを護りきることなんてできるはずがなかった。ソウの身体がピトスの一撃に耐えられるはずがなかった。
「あぁ……はは」
くだらない。不意にそんな言葉が思考を走り、渇いた笑いが思わず零れる。積み上げてきた物が崩れるのがあまりに一瞬過ぎた。大事に思っていたものがこんなにもあっさり無くなるものだと理解してしまった。
だから、もう何を捨てるのも怖くない。大事なものを不条理に捨てられるくらいなら、私が自分の意思で捨ててやる。あいつが選ぶ権利も捨ててしまうことになるけれど、先に約束を破ったことと帳消しということにする。
本音を言うとあいつの行動には腹が立っている。それ以上に護ってやれなかった自分の未熟さに腹が立つ。けれど何より腹が立っているのは、こんな状況になってようやく魔女(ウィッチモン)らしい選択ができる自分の臆病さだ。
「何がおかしいのデス」
「なんだろ。物事の無常さってやつかな。この世は本当に思い通りにならないものね」
今の私にはもう打つ手は無い。私がソウに与えた装備品は役には立たなかった。私がソウに飲ませた薬はすべてその効力を失った。結局のところ私は最後までソウに護られてばかりの傍観者だった。
「そうでスカ。遺言として受け取っておきマス」
デンカは瀕死でリコの回復は間に合わない。私は魔術で攻撃ができず、仮にできたところで奴には砂を掛けられたのと大差ないだろう。無力な弱者の前に凶暴な強者は悠然と歩み寄る。物騒な口の中には先ほどソウの身体に穴を開けた黒い霧が漏れ出している。それを目の前で吐き出されれば私達は跡形も無く消え失せるだろう。
距離はもう三十センチも無い。必要な条件が整ったと判断したピトスは機械的に口を開いてその射程圏内に私達を捉える。そして、すべてを蝕む霧が放たれた。
「……ハ」
ちぎれて海を流れる藻のようだ。黒い霧が右上に流れていく様を私は他人事のようにそう思った。私の目の前で凶器を攫ったのは一陣の風。地下で都合のいい自然風が吹く訳が無い以上、その風は人為的なもの。リコやデンカにそれを成す力はなく、唯一それらしいことができる私には自衛のために魔術を使用した記憶がない。
「そうですカ、あなたガ」
不審げな言葉を一言漏らして、ピトスはゆっくりと振り返る。その視線の先には白い人影が立っていた。
赤い鳥の下半身と白い獣の上半身を持つ人型。胸と肩には銀のプロテクター、腰にはベルト、頭にはバイザーと古代の遺跡には相応しくない出で立ちだ。――これが人間の世界でいう風の精霊(シルフィー)の名前を冠しているのだから妙な話だ。
「変わりなくて何よりだ、アコ」
「あんたは変わり過ぎよ、ソウ」
「やはりそうなのか。正直何が何だかさっぱりだ」
真実を知っているのは私だけ。困ったように頬を掻く仕草は相変わらずで、その精神のまま彼の在り方を捻じ曲げてしまったことに苦い思いを抱く。
纏わせた装備品も飲ませた薬も効果は無かった。けれど、その身に唯一刻んだ術式だけは最後に効果を発揮した。
それは二つの対象のデータ構成を互いに交換し、再構築する魔術。どうしようもない瀕死の危機に陥ったときにのみ発動する最終手段。そして、今の彼の姿こそソウの身体をデジモンに対抗できるものに仕上げるための最終段階。再構成される姿は私には予測不可能だけど、風の魔道具を多用していたソウがシルフィーモンになるのは納得だ。容姿には魔術とは真逆の文明感丸出しな点を除けば。
「交換よ、交換。私達が例外ではなくなるだけ」
交換は双方向。片方にデジモンとしてのデータを与えるならば、提供するためのリソースと経路(パス)が繋がってなくてはならない。その経路(パス)が強固でなくてはならない以上結ばれる相手は必然私になる訳で、交換の帳尻を合わせるためには私にも人間(ソウ)のデータが流れ込むことになる。
「簡単に言えば、あんたがデジモンになったってこと」
そして私は無力な人間になる。未だ服装は変わらず魔力も辛うじて残っている。けれど既に肉体の大半が置き換わっていることは分かっている。いずれは魔術を扱うこともできなくなるだろう。
絶対に後悔しないと言ったら嘘になる。きっとこれから先何度も失った力を惜しむだろう。そもそも今だって他に手段は無かったのかと未練がましい思考が脳裏(バックグラウンド)で走っている。それでも代わりに得たものを思えば我ながら馬鹿な取引をしたと笑って流せる。
無力な存在がさらに無力な存在になる。対価としてこれほど価値のない(リーズナブルな)ものもないのだから。
「そうか」
ソウのその一言で現状確認は終わり。自分がデジモンとして再構築されたことやその裏事情に関して一切質問することが無かったのは、状況が未だ優勢になっていないこと以上に、自分の身に起きた現象に悩むことが無かったからだろう。きっと肉体の在り方は変わっても、ソウはソウのままで立ち振る舞う。彼のそういうところが優しくも厳しかった。
「なるホド。アコさんは優秀な魔術師なのデスネ」
「もうすぐ寿命だけどね」
「それは残念デス」
ピトスが私とソウの会話を邪魔しなかったのは余裕の証。謎の復活を遂げたソウの秘密を知るために数分私達の命を伸ばしても問題ない。奴がそう考えたのはそれだけの猶予を与えても十分に勝算があったから。悲しいことに私にはそれを否定することができない。ソウが成ったのはデンカと同じ完全体。さっきみたいに瞬殺されることはないだろうけれど正面から戦って勝てる可能性も高くない。
「ピトス、お前をアコには触れさせない」
「そうなればよいデスネ」
それでもソウは再びピトスに戦いを挑む。それを分かっていても私には止めることはできない。
強靭な脚力で一気に詰まる距離。デビタマモンが反応するより早くソウは奴の両肩を掴み、その脚力で後方へ向けて跳躍。ピトスの抵抗で天井に埋め込む前に落ちてしまったものの私達との距離は開いた。ソウの背中が私とピトスを遮る程度には。
「こうやるのか……トップガン」
初撃から必殺技。自身の気を固めて放つその弾は一寸の狂いもなくピトスの口内に収まり爆発した。けれど、それでピトスが膝を着いてはいないことは分かりきっていた。実際ピトスは殻を突き破りそうな勢いで飛び出していて、それに対応するようにソウも真っ直ぐに飛び出した。
滑るような低空飛行からの飛び蹴り。返り討ちにせんと吐き出された霧は片腕で扇いだ風で払い、無数の目がある頭部に向けて鳥の足爪を伸ばす。けれど、それが届く直前にピトスの左腕がその足首を掴んだ。このままではその膂力で石畳に叩きつけられる。その予想が私の頭を過るより早く、ソウはもう片方の足でピトスの手首に爪を立てて両手で黒い翼を掴んだ。これには流石のピトスもたまらず手を離す。そのタイミングに合わせてソウは両足で奴の顔面に蹴りを入れて再び距離を取る。そうして着地したのも束の間、どちらともなく再度間合いを詰めて互いに敵意を振りかざす。
ぶつかり合う黒と銀。気弾は炎弾に打ち消され、濃霧は風波にかき消される。広間を絶えず動きながら、互いに凶器を振るう姿は戦闘種族としての理想形。私が歩むことのなかった道の末路は凄絶で鮮烈だった。
人の身体を捨てたソウの動きはピトスのそれを上回っている。先ほどデジモンの身体になったにも関わらず自然に動いているのは今までの薬漬けの賜物。私がしてやれたことなんて結局どれも褒められたものではないけれど、ソウは文句一つ言わずにそれを彼なりに最大活用してくれていた。
それでもピトスには届かない。健脚も鉄拳も旋風も気弾も、どれだけ叩き込んでも奴を仕留めるには至らない。一方でソウもピトスの攻撃を避けてはいるけれど、それは最低条件を果たしているだけ。奴のブラックデスクラウドは着弾がそのまま決着に繋がるのだから。
このままではじり貧。デンカと同じようにどこかで力尽きて先程の二の舞になるのがオチ。
「リコ、デンカ。逃げれるのなら逃げて」
「アコは?」
「私まで逃げたら誰があいつに付き合ってやるのよ」
私に何かできることはないのか。無力で無能な絞りかすになるのを受け入れたはずなのに早速未練が心を縛る。けれど、私もリコ達と逃げたところでソウが生き残る可能性が上がるとも思えない。それでまた死なれたら私は自分の才能をただ土の下に埋めただけになってしまう。
いや、もう御託や言い訳はいい。結局のところ、私はただあいつを助けたかった。あのとき迷わず命を救ってくれたあいつの行く道を見届けたかった。だから私はあいつに刻んだ術式の発動を受け入れた。だからこそ、私は消えつつある魔術の力をあいつのために使いきりたいと思っている。
「そうよ。このまま終われるか」
何かないか。何か使えるものはないか。その思いを乗せて彷徨っていた私の視線はある一点に留まる。そこにあるのは、ピトスをデビタマモンへと変貌させたあの術式。それが今も光を放っているということはまだ完全には停止していないということ。ならば私にだって使いようはある。この苦境を作った元凶こそが逆転の一手として相応しい。
周囲の魔力を一点に吸収する術式は活きている。それにピトスがボカスカ魔術を撃ってくれたおかげで濃度の高い魔力が広間中に滲んでいる。流石に最初にこの広間に来たときと比べると著しく落ちるけれど、それでも今の私には十分過ぎる量。いや、悲しいことに魔力を失う前の私が持っていた魔力量よりも圧倒的に多い。
もしこれを一つに束ねることができれば届くかもしれない。古代の術式を使って膨大な魔力を吸収し加工する。私が生涯最後に振るう魔術としてこれ以上のものはない。
一直線に術式の中心へと滑り込む。幸い戦闘の中心はここから大きくずれていた。仕掛けるなら今。両手を術式に落とし、絶賛崩壊中のポンコツ回路にスイッチを入れる。それに連動して術式が再び火花を上げる。
「術式追加(プラグイン)――錬鉄工房(クラフトワークショップ)」
私にできるのは元からある術式の出力先に後付けすることだけ。何が入力になるのかが分かっていれば、術式の構造や仕組みを理解していなくてもなんとか組み立てることはできる。束ねる形は想像できた。造るべき武器は決まった。
「くべる色は黄 目の数は八
芯は熱く 皮は湿る」
注ぐエレメントは一つしか考えられない。私の得意とする二択のうち一つにしてソウの力の根源。一番分かりやすいものが該当したおかげで、以降の工程もスムーズに組むことができた。
「その刃は竜が仰ぐ風
その風は戦人の起こす渦
その渦は滅びを払う栄光」
広間中に遍在する魔力が術式を通して再び集う。光と音が私の周囲で踊り出す。これだけ騒がしくすればピトスに気づかれるのも時間の問題。
それがどうした。構うものか。周りがどうあろうと私のやることは変わらない。なるべく早く組み上げ、できるだけ早くここでカタチにする。
「構築(ビルド)――展開(デプロイ)――実行(ラン)――ぐぁ……このっ」
唸りを上げる追加術式。凹凸が完全に一致したように稼働状況は文句なし。我ながらいい仕事だと自画自賛したい。ただそれを維持するには私(ハード)が脆弱過ぎる。最後でなければこんなオーバーワークはやってられない。
炉が回る。収集した魔力と私の残滓が混ざりあう。できた原料を型に押し込む。そうして出力されるのは、両刃斧(ラブリュス)に近い先端を持つ魔力の槍。
「……よくやった、私」
工程を終えたことに自画自賛を送っても、すべての役割が終わった訳ではない。造った武器は使ってこそ価値がある。今はバリスタに装填して弦を引き絞った状態。その矛先を向けるべきところに向けて放つことにこそ意味がある。
標的はすぐに見つかった。それもそのはず。術式の稼働を察知して私に向かってきているのだから。けれど怯える必要はない。ピンチはチャンス。おかげで私でも狙いを容易く定められる。
距離は目算で十五メートル。これなら私にガスが届くより先にピトスに槍が届く。勝機はここにあり。後は思いきって放てばいいだけ。
「っ……」
勝機を突けると確信したこのタイミングで、自分自身の手元が震えていることに気づく。今やらなければやられる。それが明らかなのになんて様。
震えの理由は自分の攻撃が仲間を傷つけたトラウマ。おかげで魔力の槍がソウを貫くイメージが思考の中で何度もリフレインする。助けたい誰かをこの手で傷つけることの痛みはきっと計り知れない。
それでも私はそいつを助けるために今この場に存在している。トラウマの克服なんて別にできなくていい。だから、せめて今この時だけは迷わせないで。
「ああもう後のことなんて知ったことか! 飛んでけっ、旋風将の槍(デュナス)!!」
手元はぶれて最終的にどこに狙いを定めたのかも覚えていない。それでも放つことはできた。私ができる仕事は最後まで終えられた。後はその経過を見送るだけ。私にはもうそれしかできない。
「あっ……」
たとえ槍が見当違いの進路を取っていたとしても私にはどうしようもない。こんな状況でもヘマをするのはなんとも私らしいというか空気を読めていないというか。空気の抜けたゴム風船のように気の抜ける音を立てて飛んでいく姿はいっそ笑えてくる。
「不発デスカ。結局アナタはここで終わりのようデスネ」
一方でピトスはまっすぐにこちらに向かってきて私を殺しに掛かっている。対抗しているはずのソウの姿も私と奴の間には存在していない。
「――終わるのはお前だ」
それもそのはず、彼はピトスの真上に陣取っていた。その手には私謹製の魔槍が握られている。声で気づいたところでもう遅い。慌てて振り向いたピトスの口はその槍で塞がれていた。
「アな……がアアアッ!!」
捻りを加えて奥へと突き出される度に、槍から解放された魔力が内側から焼き尽くす。当然ピトスはもがいてソウを引き剥がそうとするけれど、ソウはそれを押し退けながら槍をさらに押し込む。魔力を固めた槍を強引に握ったおかげでその手は血塗れ。痛みもそうとうあるはずなのに、歯を食い縛ってさらなる痛みを受け入れる。
意地とか執念とかその辺りが勝敗を決める根競べ。その結末は槍が消滅すると同時に明らかになる。
「怪物は眠っていろ」
「それはアナタでショ……」
それがピトスの最期の言葉。ぷつりと糸が切れたように四肢を投げ出して、奴は完全に動きを止めた。
「よかった、無事で」
それは自分の身体を確認してから言えと何度思ったことか。魔力の塊を力任せに握ったおかげで手のひらはぼろぼろ。私の前まで来た道程には滴り落ちた血が轍のように残っていた。手を伸ばす彼の表情は先程までの気迫が嘘のような自然体。傷だらけの癖にいつもと変わらない盆暗(ボンクラ)っぷりで、相変わらず何を考えているのかよく分からない。
「うん、アコを助けられてよかった」
それでもこいつが私と根本的に同じ思いを抱いていたことは分かった。互いに理解していなかったから、双方向に見えて一方通行が二つあっただけ。もう少し早くそれが分かっていたら何かが変わっていたかもしれないけれど、そんな仮定は考えたところで仕方ない。私にあるのは今の現実だけなのだから。
「まず自分の手を心配しなさいよ」
「ああ悪い。これだと握れないな」
多少は私より自分を優先して欲しいけれど、やっぱりソウは口で言ってもなかなか分かってくれない。
「別に気にしないって」
だから行動で示す。衛生面のことは気になるけれど、傷口の場所さえ避ければ問題ないだろう。一瞬の迷いと判断の末、血塗れの手を掴むために私は手を伸ばす。
「え」
それが叶うことはなかった。私の手がソウに届くことはなく、私の意識は現実から乖離していく。……ああ、無茶し過ぎたみたい。
私が次に目覚めたのは病院のベッドの上。地下迷宮でピトスとともに永遠の眠りにつくなんてふざけたバッドエンドを避けられたのは、先に脱出していたリコとデンカが頭数を集めて再突入して私達を回収してくれたから。戦闘の影響は地上でも微弱ながら不自然な振動として観測されたようで、数少ない手掛かりであるリコの話は真っ向から否定されることはなかった。半信半疑だった面々もあの惨状を見てはすぐに指示に従うしかなかったはずだ。
一週間でソウの両手は無事に完治した。血は大量に流れていたけど幸い手の皮が剥がれただけで済んだとのこと。最初にあった時の大惨事と比べれば飛躍的な進歩だ。
私の方も身体の調子は悪くない。以前よりも脆くはなったし、魔力を感知する力も完全に失われた。体組成からして人間の方が近い存在になったと担当医からお墨付きも頂いた。
「なるべくしてなったというか、収まるべくして収まったというか」
かつてのソウならまだしも、今の私にデジモン相手の荒事なんてもっての外。殴った反作用で死ぬなんてのは死んでも御免だ。
「まあ踏ん切りがついただけいいか」
無力は無力なりにできることをやるだけ。結局私の指針はあまり変わらない。私達の関係やスタイルだって何も変わることはない。大きく違うのは私の中に燻っていた可能性が完全に消滅したこと。おかげで嫌でも現実を認めなくてはいけなくなった。正直かなり落ち込んだけれど、一通り後悔したら馬鹿話として笑えるようになっていた。
「元気そうだな、アコ」
「まあね」
あの時失ったものは確かに私にとって重要なもの。けれど、それよりももっと大事なものを残すことができた。
その事実が今はただ愛おしかった。