はじめに
本作「聖夜の迷い猫のブルース」は、マダラマゼラン一号の作品の中で特に「鰆町」という架空の街を舞台にした作品群である「鰆町奇譚」のうちの一作です
そしてまた同時に、高校生探偵:春川早苗とその相棒のデジタル・モンスター:マミーモンを主人公とし、「奇譚」の中核をなす一連の物語「#CoffeeTownTrilogy」の番外編でもあります
舞台となる鰆町の季節は「木乃伊は甘い珈琲がお好き」と「ブルー・ジーンズの花嫁」のちょうど真ん中。12月の末、「木乃伊」の二ヶ月後です。
本作は一つの独立した短編になっておりますが、シリーズものであるために作中でのキャラクターの説明に不親切な部分が多々あります。また、登場人物を同じくし、時系列的にも後に位置する関係で「木乃伊」の重大なネタバレが含まれます。そのため、本作は「木乃伊は甘い珈琲がお好き」の後に読んでいただくことを強く推奨しております。
それでは、聖夜の鰆街に起きた小さな奇跡の物語を、お楽しみください。
東北の学校は休みが短いなんて話をよく聞く。それが単によく聞くだけの噂話ならまあまだ許せるのだけれど、少なくとも僕たちの住む町に置いて、残念ながらそれは完璧な、100メートル先だって見通せそうなほどに透き通った真実だった。
僕──つまりは春川早苗。やあ、また会ったね──の過ごしてきた学校では夏休みは八月の半ばを待たずに終わり、冬休みも年末年始の一週間ほどに小さくまとまっている。
北東北の学生たちは、関東を舞台とした──あるいは、関東から出たことがないにもかかわらず自分の想像力は無知を補うに足ると勘違いしている作家が地方を舞台にして書いた──作品で、あたかも八月の三十一日が夏休みの最終日であるかのように語られるたびに、小さく舌打ちをしながら現実を飲み下し、盆と正月の親戚の集まりが数少ない余暇を削っていくのを厭世的な笑みと共に眺めるのだ。
その後少年少女たちは、生まれた地で朽ちたり、或いはネオンと摩天楼を夢見て旅立つ。しかし、子ども時代に授かったその笑みの一そろいは誰の口の上でも緩い弧を描いている。そう簡単に隠せるものではないのだ。
僕は生まれ持ったその笑みを誰よりも生産的に使っている。事件を終えた探偵のお決まりの表情として、それはうってつけなのだ。シカゴやLAで育った探偵たちよりも、僕が唯一勝っている点だ。
ところで、そんな僕が、そのとっておきの笑みを出血大サービスで常時浮かべる時期がある。雪が降り、街がざわつく時期──クリスマスだ。
この時期は本当は学校も休みの筈なのだが、まったく残念なことにこの国には大学受験という、ブードゥー教の生贄の儀式にとても良く似た風習があって、そのために僕らは冬の東北の寒い朝に白い息を吐きながら集まり、冬期講習という名の呪術的手法でパパ・レグバへの祈りをささげるのだ。
実際、冬の朝に頬を赤くしながら集まった学生たちがホールに集められ、古文の動詞の活用やあの吐き気を催す三角関数についての話に熱心に耳を傾ける様子は、どこかキリスト教のミサのような厳粛さがあって、そんな雰囲気を僕はそこまで嫌ってはいなかった。いやまあ、大体寝てるんだけど。
「どうしたんだ? 考え事?」
「いや、トーキ・コーシューってなんか妙な儀式の名前みたいだよなって」
僕の言葉に、聞いて損したという言いたげな表情を浮かべて、青年──富田昴は手元の資料に視線を戻した。僕も関わった二か月前のあの事件で父親が不名誉極まる罪状で逮捕されたことが、月末の彼の生徒会長選にどう響くか僕には不安だったのだが、結局のところ、生徒会長になるために学園内の有力者がしのぎを削るというのは少年誌の漫画の中だけの話で、その肩書は現実においては単なる貧乏くじの変名なのだ。
化け物憑きがうようよしているこの学校でも、それは変わらなかったらしく、昴は順当に生徒会長の座に収まった。そして、彼の友人である僕はそのおかげで、冬期講習の終わった午後を、金がかからず、暖房器具と電気ケトルがある生徒会室で過ごすことができるというわけなのだ。
「コーヒーが切れた。お湯、まだ残ってる?」
「ああ」
「コーヒー作るなら、俺の分も頼むぜ」
グレーのマグカップを持って立ち上がる僕の向かいの席からとんでもなく長い腕が伸びて、僕に黒いカップを差し出してくる。深々と息を吐いて、僕は彼の方を向いた。相棒の木乃伊男──マミーモンだ。彼についての説明も省こう、どこかの誰かが、或いはいつかの僕がやってくれてるはずだ。
「マミーモン、お前人が勉強してる時に散々茶々入れてきて、まだこき使う気かよ」
「あれが勉強なら、レイモンドの小説の題も『大いなる勉強』に変えるべきだな」
「……一本取られたね」
「おいおい、推理小説の名前なんて。マミーモンまで春川に毒されたのか?」
呆れた口調の富田の隣で、僕はインスタント・コーヒーの粉を二つのカップに振り入れ、湯を注ぎ入れた。彼の後ろ側にある窓からは普段なら並び立つ家と、その背景の山々が見えるが、今日の窓は一面に結露していて、何も見えはしない。仕方なく僕は昴の机の方に視線を向けた。
「それ、生徒総会の資料? ごくろうなこったね」
「俺たちは皆の見えないところでいつも働いてるのさ。そんな俺の横で、お前は何を?」
「あ……」
僕が制止する暇もなく、彼が身を乗り出して、僕の使っていた机を覗き込んだ。そこに置かれた何枚かの写真に、彼の顔が見る見るうちに歪んだ。マミーモンのため息を皮切りに始まった沈黙を破るべく、僕はおずおずと口を出す。
「一応言っとくけど、誤解だぞ。事件の……」
「春川がエロ写真専門の探偵だったとはね。それも今度は同年代だ」
そこに置かれていたのは制服の少女のあられもない写真だった。僕は首を振って、早口で言葉を重ねる。
「未成年であることに変わりはないさ。ホントに違うぞ。頭の中がどうしようもなくピンク色なのは僕じゃない。世の中の男子高校生ども、この場合は西高三年のミウラ・トモキだ。奴は西高の体育倉庫とか空いた部室を使って……」
「もし今度俺を体育倉庫にけしかけるときは、最初にそう言ってくれよ」
「水を差すな。とにかく、奴はある一人の女の子をかかえこんで、ポン引きをしてるってわけだ」
「なんだって? ポン……」
「売春の斡旋だよ」
僕は不機嫌な声で昴の疑問を遮る。“あばずれ”だの“ポン引き”だの“売女”という言葉は翻訳物以外では、いや、翻訳物の中でも絶滅してしまって久しい。“売春の斡旋”、大仰な言葉だと思うけれど、多分僕はそう思った自分を恥じるべきなのだろう。ミウラ・トモキの罪にそれ以下の名前は付けられない。昴が僕の言葉を大げさだと茶化さなかったことは、僕には嬉しかった。
「欲求不満なクソッタレ男子どもは更衣室の硬いベンチの上でその子と寝て、なぜかミウラに金を払って帰る。僕は依頼を受けて、奴を潰すべく調査中ってわけ」
今回の件の問題は──そしてそれは同時にこの手の事件が抱える一般的な問題でもあるのだけれど──当事者であるその少女が自ら進んで身体を売っていることだった。複雑な家庭環境で育った彼女にとって、それは反抗のつもりなのか、他に何もできることがないと思っているのか。
とにかく彼女のことを心配した友人がアルバイト先でパートをしている年長の女性に相談し、たまたまその女性──坂本弥生が同居人の警察官である伊藤に相談し(坂本トキオが死んでまだ日が浅い。今の二人の同居関係は生活に困る弥生に伊藤が手を差し伸べたというだけのことであり、二人が深い仲になるには早すぎる。まあ、そうなるのも時間の問題だろうけど)、彼がまるで便利に使える子どもの使いっぱしりを呼ぶシャーロック・ホームズのように僕を呼び出したというわけだ。確かに僕は非正規の私立探偵(プライベート・アイ)だけれど、誰かの非正規隊(イレギュラーズ)では断じてないというのに。
伊藤がどう考えているのか知らないが、僕が同じ学生としてクラスメートや他校の高校生たちから自然に話を聞けると思っているのだとしたらそれは大きな間違いだ。だがそこで引き下がるのは探偵としての名折れだと、僕は皆から大いに怪しまれながら情報を仕入れ、最終的にはミウラ・トモキに接触できた。僕の自信も女性経験もない男子高校生の必死な演技に(演技だよ、演技だってば)にミウラは完璧に騙され、僕に三十分一万円で彼女をあてがうことに同意したというわけだ。まったく、あの時の奴ときたら、まるで世界の飢餓でも救っている気でいるような顔だった。
とにかく、ミウラからの電話で日時を聞いたらあとは伊藤の仕事だ。僕が駆けずり回っている間に、彼も性搾取の被害者に真摯な態度で接する器量のあるカウンセラーの一人くらいは見繕っているはずだ。
「……」
僕の話に、昴は足を机の上に跳ね上げて座っているマミーモンに目を向けた。彼は息を吐いて肩をすくめていみせる。
「全部本当だよ」
「分かった」
「昴が僕のことを深く信じてくれてて嬉しいよ」
僕が激しい口調で放った皮肉に、彼は目を伏せる。僕が渡したマグカップにぞっとするような量の砂糖を振り入れながら、マミーモンが僕と昴に交互に鋭い目をやるのが分かった。富田は息をついて、最近ではめったにお目にかからないくらいに綺麗に頭を下げた。
「悪かったよ。こういう話題に敏感になる俺の気持ちも分かってくれ。こんな風に気を使われなくちゃいけない人間にはならないように気をつけてはいるんだが、その……」
「いいよ。僕も無神経だった。話題を変えよう」
「そんな堂々とした話題の変え方があるかよ」
「マミーモンは黙ってろ。こういうのは苦手なんだ」
「知ってる」
「即答かよ」
「まあ、春川にそういう面があるのは確かかもしれないけど、俺としてはそれも……」
「富田も気を使うんじゃない。いいからさっさと話題を変えてくれ」
その言葉に昴はコーヒーを啜りながら、小首をかしげ、やがて口を開いた。
「春川、クリスマスは予定あるのか?」
その言葉に僕は盛大にコーヒーを噴き出した。マミーモンが悪態を吐いて、伸ばした包帯で掴んだ雑巾で机を拭きとる。僕はハンカチで口を拭きながら、焦りの余り裏返った声で率直な非難を口に出した。
「正気か? 口喧嘩の代わりに戦争始める気かよ?」
「なんでそうなるんだよ。別に俺は……」
「なんだ。別に探偵にはクリスマスを一緒に過ごす相手なんかいなくていいんだよ。えーと、えーと」
「一生懸命探しても、役に立ちそうな引用元はないだろ」
愉快そうに茶々を入れるマミーモンを睨みつけて、僕は舌打ちをする。
「とにかく、僕には彼女もいないし、予定も何もないよ。悪いか? 悪いのか?」
「俺は何も言ってないぞ。クリスマスだからって恋人と一緒じゃなきゃいけないわけもないじゃないか」
「正論だな」
「正論だね。でも僕は正論聞きたくて探偵やってるんじゃないんだ」
「別にいいだろ」昴は困ったように頭を掻く。
「俺だって彼女とかいないし」
その言葉に僕は大げさにひゅっと息を吸い込み、空の上で見ている聖霊か何かに裁判の閉廷を告げるように大きく手をふった。話は終わり。クリスマス・キャロルは中止だ。
「言ったな。もう戦争だぞ」
「ええ……別にいいけど」
「なんだよ。すぐにでもカタは作ってか?」
「その通りだろうが」
「マミーモンは黙っててくれ。とにかく喧嘩だぞ喧嘩」
そう言いながら僕は椅子の背に掛けた藍色のフリース・ジャケットを羽織る。少し早いクリスマス・プレゼントとして実家から送られてきた、いわくもスタイルもおよそハードボイルドとは言えない代物だが、そんなことは言わなければバレないし、これまで年がら年中着ていたウィンド・ブレーカーがこれより探偵らしく、また厳しい冬を越すのに向いているというわけでもないのも確かだった。学ランの上から茶色のトレンチ・コートを着た時のみっともなさを考えるとマスターからコートを借りるのもどうにもいけない(なんで分かるかって? うちには据えつけの無駄に立派な姿見がある。それだけで説明には十分だ。軽く試しただけなのに、マミーモンの奴、一晩中笑い転げてやがった)。
「いや、なんで喧嘩するのに上着羽織るんだよ」
「羽織った上着の前を引っ張るポーズをしたいだけだから気にするな」
マミーモンの台詞に、僕はまさに今行おうとしていた仕草を取り消して、代わりに軽く咳払いをした。
「とにかくこうなれば戦争だね」
「考え直さないか?」
「いいや。どうせ暇だったし」合気道の名人にひっくり返されるのも、このぬるい空気がこもった部屋の中でなら、いい気分転換になりそうだった。
呆れた様子で深々と息を吐いた富田に僕が飛び掛かろうとした瞬間、生徒会室の扉が勢いよく開いた。
その瞬間に僕の目に映ったモノは三つだった。一つ目はぽかんとした顔で部屋の中を見渡す初瀬奈由、二つ目は突然の侵入者に咄嗟に霊体となって浮かび上がったマミーモン、そして気を利かせた彼が掴んだ少女の写真。マミーモンが身に着けたコートなどの現実の物品は、どういう仕組みかマミーモンと共に霊体になることができるが、ただ持っただけのものは不可視になるのに時間がかかるらしい。何も知らない少女の目の前で写真がみるみるうちに宙に消えていくのはマズいと、彼は結局は、写真を掴んだ手を放すことを選んだようだった。
そんなわけで、僕が見た三つ目の事象は、初瀬奈由の目の前でぱらぱらと舞い散る、社会的にマズい少女の写真の数々だった。自分の社会性と少女の名誉の為にそれに飛びついて、風の速さで背中にそれを隠す僕に、奈由は何か言おうと口を開きかけて、また閉じた。
「ああ、えーと、どうかした?」
冷や汗をかきながらそう言った僕の頭の裏で、かすかにマミーモンの申し訳なさそうな声が響く。
──いや、悪かった。悪かったとは思ってるが、事実は事実だ。あの女が全部見たのは間違いないし、このままだとあの女、見なかったふりするぞ、そりゃあ至極まっとうな対応だが、お前は一生釈明の機会を失うことになる。できる言い訳はできるうちにしとけ。
「……」
僕は深々とため息をついた。まったく頼りになる木乃伊だ。ちらりと背後の昴を目の端で見ると、彼も少し顔を蒼くしながらも、名誉を守るためなら火の輪だってくぐりそうほど悲壮な決意に満ちた顔で唇を噛んで見せた。
「あー、えっと、これには訳があって……」
意を決して話し始めた僕の後ろで、マミーモンが大きく一つ息を吐いた。それがくすくす笑いを誤魔化すためなのは分かりきっていた。
エロ写真の釈明だけで済む話ではない。その件の詳細を話すということは、僕の探偵としての活動を彼女に明かすことだったのだ。
*****
「それで、早苗くんがその件を解決したってこと?」
「そういうことだ」
「待てよ富田。本当に必要なことをするのは警察だし、ミウラを捕まえただけじゃ解決なんて言えない」
昴の言葉を鋭く否定したすぐ後で、保つべきはそんな謙虚さではないことに気づき、僕は奈由の方を向いた。ココアで満たされた暖かなマグカップを持つ彼女の両手の大部分は、制服の下から覗くえんじ色のカーディガンのいささか長めの袖で覆われている。彼女の座る椅子の横にはギターのケースが置かれていて、彼女が冬期講習後の部活を抜けてここに来たことが察せた。軽音部はかなり緩い部活だと聞いてはいるが、それでも予定を返上してわざわざ部室棟から遠く離れた本校舎四階の生徒会室に来るにはそれなりの理由があるに違いない。
「……というか、驚かないんだ」
「え?」
小首をかしげてこちらを見てくる奈由から目を逸らし、僕は頬を掻く
「あ、いや、だって普通は引くでしょ。探偵って」
──わざわざ反応に困る質問をするなよ。
一体全体どこから湧く自信がマミーモンに恋愛問題に関してこんなに知った口を利かせるのかは分からなかったが、それでも今の僕の質問が悪手なのは確かだった。奈由があの困ったような笑みを浮かべて僕の言葉を優し気に否定などしたりしたら、僕は二度と立ち直れないだろう。
「ああ、それはもう昴くんから聞いてたから」
しかし、彼女の口から放たれたのは予想のどれとも違う言葉で、僕は裏切られたことを訴えるような鋭い視線を背後の昴に送った。彼はと言えばにぱにぱとあの人好きのする笑みを浮かべたままで、自分の行いにマズいところがあったとは微塵も思っていないらしい。
「昴くんのことがあったときも、すごく力になったって聞いたの。すごいと思う」
その言葉に、僕は昴への視線をいくらか和らげる。よくやったぞ。いやでも“探偵”ってとこまで言わなくていいだろ。
──まあ別に、今更落ちるようなイメージも元々ないだろうし、セーフだろ。
僕がマミーモンののっぽの身体でクリスマス・ツリーを作ることを考え始めた時、奈由がおずおずと口を開いた。
「とにかく、そういうことを聞いてたから、今日は早苗君に相談があって……講習の後昴くんと一緒だったし、いるならここかなって」
「え?」
僕は素っ頓狂な声をあげる。てっきり用がある相手は昴だとばかり思っていたのだ。確かに冬期講習にて行われる成績のレベルに応じた無慈悲なクラス分けに置いて、僕と昴と奈由は同じクラスだった──自慢じゃないけど一応文系のクラスじゃいちばん上だ──けれど、わざわざ僕のことを目で追うほどの理由が普段の彼女にあるとは思えなかった。でも先ほどまでの話を合わせて考えると、僕の中の何が彼女に例外を強いたのかもおのずと見えてくる。つまるところ彼女は──。
「依頼人ってこと?」
そう言ったのは僕ではなく昴だ。こんちくしょうめ、誰にでもそうやって僕の活動とか日ごろの言動を吹聴して回ってるんじゃないだろうな。
それでも、僕のいささか常軌を逸した活動と、その使命に僕自らつけたいささか常軌を逸した名前を聞いた彼女が、件の困ったような笑みを浮かべて僕と距離を取る代わりに、困りごとを相談しに来てくれたというのは、純粋にうれしかった。
「別にお金儲けでやってるわけじゃないし、“相談”でいいよ」
──「友人として」って言え。「友人として」って言って距離を詰めるんだよ! おい!
「ほんとにいいの?」
「もちろん」
──ったく。ま、ライブハウスに払う金で毎月かつかつの女にコーヒー奢らせるわけにもいかないしな。
仮に奢らせたとしてもお前の分はないよ。そんなことを口の中で呟く僕の前で、奈由の顔がぱあっと明るくなった。そりゃあまあ、“探偵”なんて名乗る方も名乗る方だけど“依頼”をする方もする方だ。マミーモンの助言に従うようで腹が立つけど。とりあえずそういう面倒な言葉を取り払って「友人に相談」という形になれば彼女も話しやすいだろう。
「それで事情を聞かせてもらうことになるんだけど……」
「ひょっとして、俺はいなくなった方がいいかな」
「ううん、大丈夫」
「居てくれ」
内密な話かもしれないと、気を利かせた昴の言葉に、僕と奈由の返事が重なる。富田は怪訝そうに僕の方を見て、マミーモンも茶々を入れる気も失せたとでも言いたげに深々とため息を吐いた。いや、だって無理だろ。二人きりとか、いやマジで。
とにかく、僕のそんな葛藤をよそに、奈由は胸に手を置いて、口を開いた
「そ、それじゃあ……変な話なんだけどね」
彼女のその前置きに嘘はなかった。トゥー・マッチ。奇妙に過ぎるケース。話が終わるころには、何かに物怖じする気も余裕も僕の中から消え失せていた。彼女に必要なのは、確かに探偵だった。物わかりのいい友人などでは、決してなく。
*****
初瀬奈由が住んでいるのは鰆町から少し離れた地区で、冬の期間には、普段は自転車
を使うところをバスを使って登校する。どんなに雪が積もっていようと地面が凍っていようと自転車を飛ばして登校をする思慮の浅い学生はこの高校にも多いが、奈由は違ったということだ。彼女はいつも、家近くのバス・ターミナルから学校前行のバスに乗るのだという。
そのターミナルに並ぶベンチには、毎朝早い時間に決まった顔ぶれがどんなサラリーマンたちよりも勤勉に集まることで有名だ。彼らはバスを待っているわけではないし、やってきたバスに乗って行きたいところなんてない。ただ人生という糸をつむぐ中で、不本意に特大の結び目を作ってしまい、それがたまたまそのターミナルにあったというだけのことなのだ。
明らかにその骨ばった腕には重く大きい傘をどんな天気の時も携え、ベンチに並んで夫の病気の話に興じる老いた女たち。その横でバスを待つ人々に不機嫌な顔でぶつぶつと不明瞭な言葉をまき散らす中年の男。みょうちきりんな服を着て、カゴに二つの旭日旗と大音量のラジオをつけた自転車で走り回るあたまのおかしい男──彼には広い世代に親しまれるあだ名がある。“トランジスタ・オジサン”だ。僕も彼についてはこの名前を採用しようと思う。
そんな人々のことを、奈由はそれなりに愉快そうに語った。ひとりひとりを取り出して真昼の太陽に照らして見てみたら狂人コレクションのような有様に見えるのかもしれないが、それでも皆学生たちの朝を彩る愛すべき仲間たちだ。人々がブーツに雪をつけてバスに乗り込む時期になると、人でぎゅうぎゅうになったバスの車内は解けた雪と過剰な暖房、そして学生たちが無意味にべたべたと塗りたくった制汗剤の臭いのせいで人知を超えた不快指数を示す。そんな地獄のただなかに突き進んでいくことを思えば、きりりと冷えた空気に満たされたバス停はまさに天国だろう。自転車男がカゴに括りつけたトランジスタ・ラジオの大音響も天使の歌声に聞こえるかもしれない。
「そんな人達の中に一人、綺麗なおばあちゃんがいてね」
そんなバス停お決まりのメンバーの一人でありながら、その老婦人は他の連中とは一線を画した雰囲気を持っていた。少なくとも、奈由にはそう思えたのだという。
豊かな銀色の髪に、紫がかったやさしげな瞳。どう若く見積もっても70半ばは過ぎているということだったが。体つきは見事に均衡がとれていて、老いた女性の常として身体についた肉もだらしなさや堕落の象徴ではなく、品の良い絹の衣のように見えた。着ているものはいつも上等で趣味のいいもので、そんな服と周囲の雰囲気との強烈なミス・マッチが、かえって彼女もあのバス停の一員であるという事実に説得力を持たせているのだった。
そしてそんな老婦人の常として、彼女は話し上手で、話し上手な老人の常として、彼女は道行く若者と話すのが好きだった。彼女のことを他のバス停の連中と同列に考えている学生は、いつもベンチににこにこと座っている彼女のことを気にも留めなかったが、奈由や他数人の学生は彼女との会話を楽しみにしていたのだという。
「素敵な人だよ」奈由はにこにことその思い出を語った。
「いつも笑顔だし、着ている者もすっきりしてて、いやなご老人って感じは全然ないの。髪はすっかり白くなってるけど雰囲気はものすごく若くて、でも死ぬことも全然怖がってない感じ。よく、お迎えがくるとかそんな話を笑い話にしてた。こういう人が天国に行くんだろうなって、私良く思ってたんだ」
マミーモンは首をひねっているが、僕と昴はその言葉だけでその老婦人のイメージをかなり正確なところまで脳内で結ぶことができた。奈由の語るように完璧なものは珍しいとはいえ、そのような老婦人を形成するピースは誰の周囲にも転がっているものだ。
「おばあさんの名前は?」
「わかんない」
僕の問いに奈由はあっさりと首を振った。まあそれも頷ける。そのごく小さいコミュニティにおいて、老婦人自身にとっても奈由たちに取っても、名前はきっと不必要だったろう。何せ彼女たちは平日は毎朝のように顔を合わせているのだ。
──ちょっと危険じゃないか?
マミーモンがそんなことを言うなんて意外だ。毎朝顔を合わせる人と親しくなったって、別に大したことじゃないだろうに。
──お前が考えてることはなんとなくわかるぞ。だが、二か月前にこの女が誰かのせいでヤバい組織に目をつけられたことを、もう忘れたらしいな。
忘れられるもんか。心の中でマミーモンに言い返しながら僕は頬の内側を強く噛む。こうやって彼女の悩みを聞く資格だって本当は僕にはないのだ。けれど、それ以上に、他の人間に憑いたのデジタル・モンスターを見ることができるのは知る限り僕だけという事実の方が重要だった。守りたい人がいるのなら出来る限り傍にいるべきだ。ま、まあ。できる、限りね。
「おばあさんはいつからそこに?」
「わたしもはっきりとは覚えてないけど、割と最近だと思う。そのせいか、他のおばあさん達とはそりが合わなかったみたい。まあ、好きな話題も全然違ったしね」
その言葉には俗っぽい話題を好む他の老人たちへの軽蔑が感じ取れた。奈由も誰かを軽蔑したりするらしい。
──安心しろ、お前の脳内の皮肉大辞典に比べれば誰だってかわいいもんだ。
「どんな話をしてたの?」
マミーモンの言葉を聞き流し、僕はなおも質問を重ねる。さっさと核心を聞くべきではとでも言いたげにこちらを見てくる昴に、僕はしたり顔で首を振った。『それより早く要点を』は、マーロウやアーチャーも事件の冒頭でしょっちゅう使う決め台詞だが、それは相手が大体腹に一物を抱え、下手な作り話で探偵を歩えこめると思っている信用ならない連中だからだ。奈由相手には不要な台詞だろう。相手が信頼できるときには、相手の好きなように語らせた方が入る情報は多かったりするのだ。
──お前がこの女のことをそこまで知ってるかは大いに疑問だけどな。
マミーモンの言葉を無視し、僕は奈由の言葉に耳を傾けた。
「話はちょっとしたことだよ。大体は私たちが話す側で、おばあさんは聞いてばっかり。学校のこととか、友達のこととか」
彼女は無意識にだろうか、楽しそうな表情を浮かべている。それだけその朝の時間は愉快なものだったのだろう。
「おばあさんの方から話すことは?」
「たまに。でも大体は昔のこと。家は鰆町の呉服屋さんだったこととか、ターミナルのあたりの昔の街並みの話。最近のことは全然話さなかった。昔のことばっかり。娘さんの名前と、飼ってた猫の名前しか話さなかった。その猫は昔に死んじゃったんだって」
その歳の婦人にとっての“昔”が果たして何年前のことなのか、僕には測りかねたし、それは奈由にとっても同じことらしかった。
「自分の名前は名乗らないのにそういう話はするのか?」富田が眉をあげる。
「うん、お年寄りってそういうものでしょ」
奈由はこともなげにそう答えて、ふっと顔を暗くした。その表情に僕は眉をあげ、背後のマミーモンも僕に茶々を入れるのをやめる。大切なことを語り始める人物の顔。人間はそんな顔を毎日のように、笑えるくらいわかりやすい形で見せている。人々は皆暢気なもので、毎日親しく話す相手の顔のソレだけを辛うじて読み取って、それが親密さや愛の証だと勘違いをする。頭の回らない高校生の僕と銃を振り回す半生を送ってきたマミーモンが、本格的な探偵として過ごした僅かな二か月だけで、もう簡単に見分けられるようになった程度の代物だというのに。
とにもかくにも、そんな表情を見せて、奈由は話を続けた。
「今回の件にも、その娘さんと猫が関係してるの……関係してるんだと、思う」
『ジョナちゃんが、最近、うちに帰ってきたの』
二週間前あたりから、婦人はそんなことを口走るようになったという。
「ジョナっていうのが、猫の名前か」昴は眉をあげる
「俺の聞き間違いじゃないよな。その猫は……」
「うん、死んだはず。私も気になって聞いた。やっぱりジョナちゃんはおばあさんが飼ってて、昔に死んだ猫で間違いないって」
「おばあさんは“死んだ”って言ったんだね? どこかにいったとか、いなくなったとかじゃなく?」
僕の問いに、彼女は真っ直ぐこちらの目を見て頷いた。
「間違いない。私も同じことを聞いたから。ジョナちゃんは昔に病気にかかって、おばあちゃんたちに看取られて死んだ。火葬にも立ち会って、骨も拾ったって」
──なあ、それってつまり……。
マミーモンの言いたいことは分かっていたが、僕は軽く首を横に振ってその言葉を止めると、奈由に話の続きを促した。
「それから?」
「『アカネもよく話しかけてくるようになった』って」
「それは……」
「娘さんの名前」
「娘が話しかけてきたっておかしいことはないんじゃないか?」
「うん、そうなんだけど」奈由は少し口ごもって、逡巡するように部屋をぐるりと見回すと、また口を開いた。
「アカネさんは、“若かった”って。そんなはずない。おかしいって」
もし奈由の推測通りの年頃なら、娘も“若い”と言うには無理のある年齢に達しているはずだ。
「つまり、娘さんが若返って、よく話しかけてくるようになったと?」
「うん、二週間前あたりからそんなことを言い出すようになって、妙にそわそわしてた。普段は全然そんなことないのに」
──なあ、言わせろよ。
僕の背後で、マミーモンがじれったそうに頭を掻いた。まあ、彼の言いたいことは分かりきっている。つまり──。
──ばあさん、ボケちまったんじゃねえの?
その言葉に目を伏せた僕と、そして多分昴の眼にも同じ表情が浮かんでいたのだろう。奈由はかすかな失望を滲ませて息を吐いた。
「考えてることは分かるよ。でも、おばあちゃんほんとにしっかりした人で、その時までは……」
「その時まではしっかりしてた。つまりその時から始まった可能性だってあるわけだ。つまり、その……」
「認知の歪みが」富田の言葉を僕は継いだ。
「もしかしたらもっと前から始まってたのかもしれない。奈由さんが判断材料を持っていなかっただけでね。その“ジョナ”はどこかの猫──家で新しく飼い始めた猫かも、それで、最近若返って、よく喋るようになった娘の“アカネ”は──」
「私や、他の学生?」奈由は首を振る。
「二人も、そう思う? おばあちゃんがボケただけだって」
やめてくれ、そんな目で僕を見ないでくれよ。
「私もそう考えるのが自然なのは分かってる。でも……」
「ま、待って。奈由さんは変だと思ったことがあるから僕のとこに来た。話はそれで終わりじゃないね?」
僕の言葉に、彼女はこくりと頷いて、落ち着きを取り戻すために深く深呼吸をした。
「一週間前のことなの」
その日、冬休みのはじまりを前にした登校日の朝のことだった。奈由はいつものように──公正さを重視するのなら、この表現は問題ありだ。僕は彼女の“いつも”を知らないのだから。けれど彼女のことだ。期末だからって変に浮き足立ったり、それを表に出すような真似はしないだろう──バス停に立っていた。
バス停には例によって例のはみだし者クラブが集まっていて、彼女の記憶によれば誰かが欠けているということはなかったらしい、彼女が出くわす時間に通りかかるかどうかはいつもは五分五分と言ったところのトランジスタ・オジサンもその日はちゃんと通りかかったほどだ。
それとは対照的に、謎の老婦人を囲む学生はその日は奈由しかいなかった。もっとも、学生たちの集まりは普段からまちまちと言ったところだったらしい。婦人とゆっくりと話し込むには、始業時間に間に合うためにぎりぎりのバスの時間よりも大分早くにターミナルにいなければならない。彼らが冬の朝に素性も知らない人物への忠誠よりも、暖かな布団の中で過ごす時間の僅かな延長を取ったとしても、責めるわけにはいかないだろう。
とにかくそんなわけで、その朝、奈由は老婦人と二人で話していたのだという。
「その日はおばあちゃん、最初から様子がおかしかった」
彼女はその日は特にそわそわと落ち着きがなく、ベンチの前に立った奈由の持った紺色のスクールバッグがゆらゆらと揺れる些細な動きさえ、どこか目障りそうに見ていたらしい。
と、次の瞬間、彼女の眼が奈由の背後に注がれた。
驚いたような、それを通り越して恐怖するようなその瞳に、奈由は思わず振り返ったが、そこには何もなく、ただバス停沿いの道路があるだけだった。
「おばあさんは何か言った?」
「いいや、なにも、ただ何か呻いて、声が声にならない感じだった」
すうっと僕は息を吸い込んだ。「それから?」
「それから、おばあさん、急に立ち上がって、バス停に並んでた人達を押しのけて、その時来てたバスに乗り込んじゃったの。何かから逃げるみたいに」
「どこ行きのバス?」
そのすぐあとに、その質問に意味は殆どないことに気が付いて、僕は言葉を変えた。
「えっと、彼女は、そのバスの行き先に注目してた? 君の印象で良い」
僕の質問に、何故だか面食らったような表情を浮かべながらも、奈由は首を振る。
「そんなことはなかったと思う。小さいターミナルだし、どこに留まるバスがどこに行くかくらいはおばあちゃんにも分かったと思うけど、行き先はどうでもいい感じだった。その場所から離れたいだけって感じ」
「君には何か言った?」
その質問にも、彼女は首を振った。
「バスに乗ってから、後ろめたそうな感じでこっちを見てきたけど、それだけ」
「それで、その日以降──」
「うん、おばあちゃんはバス停に来てない」
──早苗、勝手に話の先を読んだ気になって、依頼人の語りを歪めるのはご法度だ。少しテンション抑えろ。
マミーモンの言葉に、僕は少し息を吐いて落ち着きながらも、彼女の話の続きに耳を傾けた。まだだ。まだただのボケ老人の話に過ぎないかもしれない。でも、彼女の眼の奥にはまだ何かある。まだ何かある。
「それから、何が起こったんだ?」
「あ、えっと、えっとね。ここからがすごい変な話なんだけど……」
その朝に起こった突然で劇的な出来事に、奈由はしかし、そこまで困惑はしていなかった。確かに妙な話ではあったが、しかしそれでもそれは朝の数十分の中だけの話なのだ。彼女にも、他の学生にも、その後に長い一日が待っている。老婦人との会話は愉快な非日常ではあるが、非日常とは彼女にとって常にレーンの外にあるものなのだ。たまにレーンを外れることは楽しいもので、けれどいずれはレーンに戻る。
とにかく、そんなわけで、彼女はちょっとした疑念を抱きながらも、その朝のことは思考の外に追いやってしまったし、そんなわけだから、僕も特別彼女のことを非情だなんて思わない。。まあ、どんなに素敵な服を着ていてもその老婦人が掛け値なしに妙な人物であることは周囲の感想を聞かずとも彼女は理解していたし、そんな人物の周りでは妙な出来事だって起こるだろうと考えたのかもしれない。
けれど、“妙な出来事”は、老婦人の周りだけにとどまらなかった。
「その日から、私の周りで変なことが起こり始めたの」
その言葉に僕は身を乗り出した。
「例えば?」
「いろんなこと。通学路を歩いてると、木や建築現場のパイプが落ちてくるようになった。私のすぐ近くに、当たったことはないけれど」
それは不可思議ではあるがあまりにも月並みで、この件について何も示唆してはくれない。僕はため息を吐きそうになったが、背後の昴が奈由に心配の言葉をかけるのを聞いてそれを引っ込めた。
「他には、果物とか魚とかそういうものが置かれてたりするの。自転車のかごとか、家の前とか、他にも私の目につくところ」
なるほどね。それはかなり特殊だ。
「それに……猫の死骸も」
その言葉に、僕は眉をあげる。
「写真は撮った?」
「え?」
「猫の死骸だよ。知りたいんだ。どんなふうに死んでたのか。そこらにある死骸を持ってきたのか、それともわざわざ殺して君のとこに……」
「撮ってないよ、近くの林に埋めて、それで終わり。ねえ……」
「じゃあ思い出せる? どんなふうに死んでた? 思い出せるはずだ」
「春川!」
昴の鋭い声に、僕は思わず口の動きを止めた。その隙を見計らって、マミーモンが話しかけてくる。
──早苗、落ち着けよ。昴の親父を問い詰めた時と同じ顔になってるぜ。その顔は誰にでも見せるもんじゃない。レベル5の事件に取っときな。
この依頼はレベル2か3程度だって? まあ、話だけ聞く限りじゃそうだけど、展開によっては……。
──お前が何を考えてるかは分かるから言うがな。そういう話じゃねえ。それは惚れてる女に向ける顔じゃないってことだ。
「え……」
マミーモンの言葉に僕は奈由を見る。彼女が向けてくる怯えた視線(相手にドン引きしても目は逸らさない器量の持ち主らしい)に、体中の血の温度が五度も下がった気がした。慌てて彼女から目を逸らし、冷めたコーヒーを一気に喉に流し込む。
「ご、ごめん。熱くなっちゃって」
「ううん、いいの。大丈夫」
──ったく、お前、自分で思ってるよりもずっと探偵向きのアタマしてるぜ。
マミーモンの言う通りだ。どうも僕は面白そうな事件のこととなると周りが見えなくなるところが多分にあるらしい。前の事件の時は主な話し相手がちょっとアレな喫茶店店主とかちょっとアレな不良警官とか、或いは数多のアレなデジタル・モンスターだったからそれでもよかったが、学校で同級生の依頼を受けていくにあたって、そういう所は改めないといつか何かやらかしかねない。というか今のがそのやらかしなんじゃないのか、およそ一番やっちゃいけない相手にやらかしてしまったんじゃないか?
“失敗するのは人の常だが、失敗を悟りて挽回できる者が偉大なのだ”とかなんとか、あのクソッタレのシャーロックは言ってたけど(彼の言葉としてはあまりに月並みに過ぎて、僕は嫌いだ)失敗から学ぶにはもうだいぶ遅いんじゃないのか。ホームズか、或いはピーター・ウィムジイ卿ならもっと女性のこともやさしく、丁重に扱うに違いない。まったく、自分にあきれてものも言えない。
「……ほんとにごめん」
「大丈夫だったら」
僕の必死の謝罪に苦笑して首を振りながらも、奈由はどこか怯えた表情のまま言葉を重ねる。
「早苗くんの言う通り。覚えてるよ。忘れられないもん。あれは──」
*****
「──大きな爪で引き裂かれたみたいだった。ねえ」
帰り道、背後で息を吐くマミーモンのことを、僕は非難がましい目で見上げる。もう奈由や昴とも別れ、僕はトレンチ・コートを着て実体化したマミーモンと共に、すっかり暗くなった学生マンション近くの道を、近くの学生向けの安食堂に向けててくてくと歩いていた。食事は自宅でなるべく簡素に済ませ、浮いた食費を喫茶店での珈琲代に当てるのが常だったが、無数の考え事と共に街灯がおとすミルク色の光が形作る、僕と相棒の影を見ているうちに、僕の貧相な脳みその中から料理に必要な空きスペースはきれいさっぱり消え去ってしまっていた。
「おい、さっきからそうやってため息ついてばっかりだ。どうしたんだよ?」
「いや、なんでもないが、あの女の話は何ともなぁ……」
僕は立ち止まってマミーモンを見上げる。彼はとても背が高く、その顔を見上げるためには、僕は顔を目いっぱい上に向けなければいけなかった。
「生徒会室では彼女を擁護してたじゃないか」
「どっかの強引な探偵の強引な聞き込みから少女を守っただけだよ。話自体は妙だ」
「僕の個人的な感情を抜きにしても、奈由さんは事件の語り手として上の上だったろ」
僕の言葉に、マミーモンは渋い顔で首をひねる。
「そうか? はっきりしない言葉が多くて、俺にはどうも、詩でも聞かされてるみたいだった。大体そのばあさんの件と、あの女に起きてるっていう妙なあれこれに関係があるなんて証拠は……」
「でも彼女はそう思った。それが大事なんだよ。確かにシャーロック・ホームズならそういう話は嫌がるだろうけど。あ、ホームズって言っても原典じゃない。“SHERLOCK”の……」
「あー、わかったわかった。依頼人の好きに話させるのは構わないが、自分まで長話する必要はねえだろ。さっさと本題に入れ」
その言葉に、僕は得意げに指を一本立てた。
「とにかく、僕にとっては彼女の“詩”こそが事件への招待状なんだ」
先の事件は僕に多くの喪失感を残していったが、それだけでなく、多くのものを与えてくれた。僕の捜査手法の確立というのも、その一つだ。先人に例えるならロジャー・シェリンガム。マーロウのようによく動く足を持ったロジャーだ。
人々に語りたいように語らせ、その言葉選びや息遣い、表情から隠された真実を読み取る。そんなアンチ・ホームズ的手法の一点において、ロジャーは僕の大好きな探偵だ。もっとも、彼が事件を奥の奥まで解決できることは少なくて、大抵は意地悪な作者であるバークリーによってずっこけ探偵に仕立て上げられてしまうのだけれど。幸いなことに僕にはそういう悪趣味な大いなる存在の影響はない(ないよね?)。
「とにかく、僕にとっては彼女の話の主観的な部分こそが大事なんだ。おばあさんの失踪と妙な事件の数々の二つを彼女は結び付けて考えた。彼女がそう考えたことこそが、いちばん大切なことだ」
熱っぽく語る僕に、マミーモンは肩をすくめて、再び歩を進めはじめた。その大きな背中に、僕は声をかける。
「とにかく。今回の依頼人は僕の知人だ」
「ポイントを稼ぎたくて仕方のない知人、だな」
「うるさい。もちろん事実確認をする必要はあるけど、当分は彼女の話が真実で、所感が当たっているという前提で調査にあたる」
「オーライ。元々そっちの方はお前の担当だ。お前が方針を決めているなら文句はねえよ」
「なら、話は決まりだね」
「ああ」
「……」
いつまでも歩き出さない僕に、マミーモンは首をかしげる。
「まだ何かあるのか?」
「いや、なんというか……」
僕はジャケットのポケットに手を突っ込んで真白い息を吐いた。
「今日みたいに僕が、奈由さんになにかダメなことをやらかしそうになったら、ぶん殴ってでも止めてくれ。頼む」
「……」
呆れたような顔でこちらを見て、マミーモンはにい、と唇を引き上げた。
「なら代わりに、今晩の夕食、俺の分も頼むぜ」
「……はあ?」
それだけ言って振り返り、大股でつかつかと歩み始める彼を、僕は慌てて追いかける。
「おい、決めただろ。お前の食事は週に一回。食わなくてもいい霊体の為に毎日のメシ代は費やせない」
「例外を認めるからボーナスになるんじゃねえか」
「だからって食堂を使う時じゃなくても……そもそもこういう外食の時はいつもお前にも分けてるだろ」
「カラアゲは食べたし、ギョーザってのも食べたから、今日は……“レバニラ”だ」
「なんで木乃伊がそう肉を食うんだよ。日本の即身仏かなにか見習って、漆でも飲んでたらどうだ?」
「とにかく今日はそれで決まりだ。いいな?」
「ああ、もう、分かったよ……」
自分の分はメニューの中で一番安いラーメンか何かにしようと、食事計画を大幅に練り直し始めた僕のポケットの中で、スマートフォンがメッセージの通知を告げるバイブ音と共に振動した。その音を耳ざとく聞き取り、マミーモンが振り返る。
「メッセージの着信をオンにしたか。ハルカワ・サナエには大きな一歩だな」
「いちいちうるさいよ。……奈由さんからだ」
そう言いながらSNSアプリを起動し、彼女から届いたメッセージを開いた瞬間、僕は大きく息を吐いて目を画面からそらした。そして、歩いてきた道を早足で引き返し始めた僕を、マミーモンは驚いて声をあげた。
「どうしたんだよ? メシ行くんじゃねえのか」
「食欲が失せた。気になるんなら、大喰いの木乃伊にもおすそ分けだよ」
僕の示した画面をまじまじと見つめ、彼は息を吐いた。
「なるほど、ばあさんの話と関係あるかどうかにしろ、あの女に起きてることはただ事じゃないってわけか」
僕の後に続いて、マミーモンが踵を返してついてくる、その足音を聞きながら、僕はもう一度、奈由の送ってきた写真に目を落とした。
無残に切り刻まれた、大きな猫の死骸、それが二匹分。赤い血と臓物から、それが最近殺されたものだと容易に推察できた。
「なあ、本当は死体をそのままにさせとくべきなんだろうが……」
「分かってる」
マミーモンの言葉を背中で聞きながら、写真を送ってくれた感謝と、死体を処分しても構わないという旨をテキストにして彼女に送り返す。画面の向こうで、奈由も同じようにげんなりした顔を浮かべているのだろうか。できることなら、傍にいてやりたかった。彼女にとってそれが意味あることかは分からないが、そう思った。
けれど、今は僕には何もできない。探偵の僕が彼女の助けになれるのは、明日の朝、捜査に取り掛かってからだ。
だから僕は、せめて死骸の写真を撮るように詰め寄った僕に写真を送り付けて食欲を奪うことがで、彼女の気分がいくらか晴れていることを祈った。
何もできない探偵が、代わりになれるものが一つだけある。ヨーロッパの逸話の中で、ぼろをまとって、自己犠牲に死んでいく聖人だ。まったく、この季節にぴったりじゃないか。そんな考えと共に僕はもう一度、冬の夜に白い息を吐き出した。
おはこんにばんは、夏P(ナッピー)です。
そういえばまだ花嫁の方は読めてなかったぜと焦りましたが、珈琲との間の話ということで安心し、こちらからまず感想を書かせて頂きます。
開幕、「また会えたね」の春川の勇姿。最後の聞き込みに関してもですが、なんか本質的に“探偵”になってきている気がする。マミーモンも指摘してたけど、それが本人にとっていいことなのか悪いことなのかはちょっとわからないな……探偵向きって言われても春川自身、あんまり喜んでないような気がする。あと久々にポン引きって単語聞いた! まあリアルな初心高校生のフリはできますよね。気持ちはわかる。
おっ、皆の初瀬奈由じゃないかァーッ! しかしそんな写真目の前でバラ撒いたら釈明しても誤解は解けない気がする……お婆ちゃんの話こわっ! 猫の死骸もこわっ! この娘、何か厄介事を惹き付ける才能があるのでは……猫ちゃんが次々とやられていくうううう。でも「奈由から聞いた情報を元に彼女の体験を脳内で想像する」描写は実に探偵で燃える!
また時間を置いて花嫁の方にも感想を書かせて頂きます。