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3-1 幽玄無音のASTAROT

「キング・イン・イェロゥ……!」
キング・イン・イェロゥ――黄衣の王。なるほど目の前の超常存在に相応しい名だろう。しかし。
「進化やモードチェンジでは、ない……?」
アスタモンはデジタル・モンスターだ。ならば姿の変化として最も考えうる可能性は進化。次点でモードチェンジ、あるいは退化でもいい。あの呪文がそうした効果を持っている可能性も、デジタル・モンスターが都市伝説として顕現している以上、オカルトも効果を持つだろうしあり得るだろう。
「そうとも――彼の者の名は、Hastur」
希望的観測は覆される。
「ツェーン、私は先日、和弘少年の部屋の前でこの名を口にしたことと思う」
過去回想は必要ない。あの時の気味悪さと共に、未だ鮮明に覚えている。だが、ウェンディゴとは違い、ハスターなんて俺は聞いたこともない。
「ハスターはね。太古の昔、この地球に飛来した神性のひとつ――とされている。イグドラシルの最奥に眠っていた遥か昔のログによれば、四大元素の内、風を司る神性存在だと。そして、眷属にウェンディゴ、ロイガーとツァールなる謎の神性、バイアクヘーなる異形の怪物を従える」
無貌の仮面でこちらを見つめる王を前に、武器を構えながらJは講釈を開始した。
「奴らは――太古よりこの惑星に潜む外宇宙の存在は、深く深く我々の人類史に食い込んでいる」
その表情に、昨晩の様な錯乱した様子はない。となれば、これは"大いなる理"の一端ではないのだろうか。
「その結果、奴らの幾ばくかはデジタル・モンスター化している。その最たる例がウェンディモン」
途端に、黄衣の王がその衣をこちらへ伸ばした。その動きから確信する。これは衣ではない、王の臓器・器官――肉体の延長だ。触腕を回避し、王の背後の悲鳴に視線を移す。
黄色いローブの人間[cultist]どもが、貪り食われている。一目には、黄色い布に包まれただけ。しかし苦悶の舞踏を踊るそのシルエットが、明らかに「食われている」のだと直感させる。
「本来ならば、カルティスト共の誓願ごときで、ハスターは招来しない筈だ。だが――」
仮面より伸びてきた触手をスパイラルマスカレードで細切れにした。
「――ハスターは怒っている。何故なら自らの眷属であるウェンディモンを滅した我々が目の前にいるからだ」
黄金の剣は、相手が理解の外側の存在でも容赦しない。黄衣の王の奇妙な踊り、その魅了効果をレジストし、こちらを圧殺しうる極太の触手を両断する。
「それは分かった。だが、どうしてアスタモンがこうなる!」
ウェンディゴはともかく、アスタロトとハスターなる神性には、いささかの関係もないはずだ。
「おや、まだわからないのかい」
「勿体付けるな」
黄衣の王が両腕を大きく広げた。一拍遅れて、無数のデビドラモン――いやさビヤーキーが召喚される。その間も触手の猛攻は続いていて、間隙を縫って攻撃するなど不可能だった。
「こちらに来たまえ――何故、私がチャットで横文字をスペルのまま発言していたと思う、この時の為さ」
にやりと笑うJの手には聖盾ニフルヘイム。言葉通りにその背後に陣取れば、極寒世界の名に相応しいブリザードが、殺到するビヤーキーを凍結させた。
「フランス語には、有音のh、無音のhという概念がある」
語るJの表情は、これ以上ない絶好の舞台であると言わんばかりに喜悦に満ちていた。ここで黄衣の王を仕留めるのがシナリオ通りであると、雄弁に語っていた。
「――そうか」
ここまで言われれば理解できる。
アスタロトはASTAROT。ならばアスタモンはASTAMONであろう。そしてハスター――HUSTARがデジタル・モンスター化するならば、強いて言うならばHUSTAMONだ。
もしもASTAMONの頭に、無音のHが着いていたとしたら。
歴史を伝播する上で、HASTAROTがASTAROTになっていたとしたら。あるいは、そういう後付けの歴史がひょんなことから一説でも生まれていたとしたら。
AとUの差異なんて、音遊びをする上では些末なものだ。
ハスター召喚の儀に合わせ、HASTAMONがHUSTAMONに変貌したとて、何の不思議があるというのか。
「ハスターは、未だデジタル・モンスター化していなかった。奴ら地球外の生命に通常の攻撃は通用しないが、デジタル・モンスター化してしまえば、我々でも傷付けることができる。だから私は、アスタモンがその依り代となることを期待していた――まさか、ここまでうまくいくとはね。アルマデル奥義書を見た時、興奮を抑えるのが大変だったよ」
Jが照準を定める。
ガルルキャノンの連射。一発一発が究極体を滅殺して余りある大砲が、推定・ハスタモンの触腕を凍らせる。しかし相手もさるもの、ナイツ最強の遠距離攻撃による凍結が、瞬時に解除される――だが!
「『デジタル・モンスター』は、奴らがこの街に介入・接触したときに、デジタル・モンスター化させるためのトラップでもあったのさ――今だ、ツェーン!」
「任せろォ!」
一瞬あれば事足りる。
アスタモンの時とは逆だ。その懐へ潜り込む。
「トゥエニストよ――斬り裂けぇッッ!!」
あらゆるものを断ち切る斬撃が、黄衣の王をも引き裂いた。
●
ビヤーキーの残骸も、ハスターの残骸も全て朽ち果てた。既にデジタル・モンスター化していたためか、そのまま粒子となって消えていく。
「礼を言いつつ、君に非礼を詫びよう。私は意図的に、敵の存在を伏せていた」
「いや……」
帽子を手に取り、優雅に一礼するJ。その仕草を眺めつつ、敵手たる存在に思いを馳せる。
カルト教団がアスタロトを召喚し、その上で呼び水としてモノリス――きっと、アスタモン自身も呼び水だろう――を設置し、祝詞でもってハスターを招来させた。
それは、アスタロトが召喚されたのは、決して偶然ではないだろう。なにせアスタロトもアスタモンも、そんな逸話は持っていない。天使の存在理由と、その堕天についてを納めた、40の悪魔の軍団を率いる強壮なる大公爵。悪魔デジモンの軍団を率いるダークエリアの貴公子。
となれば必然、誰かがその絵図を描いたことになる。『同一性のあるものは呪術的には同じものである』のだから、名前の相似性でもってハスターを召喚しようと画策したものがいる。
そしてその最大の容疑者は、Jだ。
「……?」
まじまじと彼女の翠瞳を見つめ、その深謀遠慮の一端に迫らねばと確信する。どこまでが真実で、どこまでが虚偽なのか。ともすれば、真に迫った昨晩の混乱さえも、あるいはJとしてサロン・ド・パラディで接触して以来の全てが演技なのではないか。無論、不可思議に向けられる俺への好意とて、残念ながら疑わざるを得ない。
「ツェーン、どうした? どこか痛めたかい……?」
とは言え、真っ向聞いたところで素直に返ってくるような容易い相手でもなし、か。
しかし、心細げに揺れている上目遣いを見ていると、全てが真実の様な気にもさせられる。Jを否定したり、疑ったりする気持ちが自然、掻き消えていく。
胸の裡には、猜疑の火が燻るだけだ。
「なんでもないさ。これで、今回の目標は達成でいいか?」
「ああ、君のおかげだ。これで奴らの一角を打ち砕くことができた」
「奴ら……?」
言っていることは分かる。戦闘中に口にした、"太古よりこの惑星に潜む外宇宙の存在"という言葉。"奴ら"とはきっと、その生き物たちを指すのだろう。
だが、それらは結局、何なのか。Jはどこまで知っているのか。少なくとも、そうした秘された情報についてだけでも問いたださねばなるまい。
「J、それは――」
意を決し、目の前の女の深淵に踏み込もうとした時、その決意はけたたましい携帯の着信音に遮られた。定光だ。
『オイオイオイオイ、オタクらなんかした? 目の前で"黄の印の兄弟団"のフィクサー、悶え苦しんで消えやがったぜ? 跡形も残らねえ』
電話口から聞こえる定光の声は、しかし文面や出来事ほど驚いたようには聞こえなかった。こちらが驚かされるほど冷静におちゃらけている。
フィクサーということは、黄色いローブのカルティスト達の、裏の顔役と言ったところか。その人物もまた、ここで黄衣の王に食われた彼らと同じ末路を辿ったのだろう。
「それは――」
なんと説明したものか。逡巡していると、耳を寄せてきていたJが俺の口元で話し出した。
「――さて、噂のデジタル・モンスターの仕業かもしれないよ? それはともかく、ありがとう宮里君。おかげでツェーンと廃墟探索デートと洒落込めたよ」
『おう、そいつぁ重畳。俺は先に帰らせてもらうが、気ぃ付けて帰れよ?』
電話はそれだけで終わった。
いくら怪奇現象に慣れているとはいえ、流石にあっけらかんと受け入れるには限度があるだろう。
この男もまた、今回の事件に、何らかの形で一枚嚙んでいる。でなければこうも都合よく、ウェンディモンとアスタモンに関与する切っ掛けを持って来れるものか。
「さて、それじゃあ帰ろうか」
「ああ……」
Jに手を引かれ、釈然としない思いを抱えつつ帰路に就いた。
コンサートホールを出て振り返る。九本目のモノリスは、影も形も存在しなかった。
●
黄衣の王との戦闘からおよそ半日。昨夜のJは「防犯グッズ物色デート」の約束をマジに取り付け、何事もなく通学路に出た。
家の前でウェンディモンが暴れた跡は残っていない。昨日のモノリスが消失していたように、デジタル・モンスターの暴れた痕跡は一切残っていない。『デジタル・モンスター』の設定とは異なる状況だ。
俺の知っている常識が、そのまま通用する訳ではないようだ。
「よっ、やけに疲れた顔してるな」
背後から肩を叩かれる。昨夜俺の混乱を助長してくれた宮里定光がそこにいた。
「まあな。ミステリアス美女に振り回されるのは疲れるのさ」
「死ね」
「お前が死ね」
暫しガンを飛ばし合い、どちらともなく視線を外す。
「で、まあこの際お前でもいいや、何をどこまで知ってるんだ」
睨みを利かせてやれば、帰ってきたのはキザな動きだ。
「いいや、何も?」
唇で息を噴き上げ、前髪を浮かせて。
あくまでも柳に風と言わんばかりに、定光は笑って見せる。
「少なくとも俺だって、この街にデジタル・モンスターが介入するなんて想定しちゃいねぇーよ。逆に聞くが、お前たちこそ何なんだ」
そのバサバサの前髪の下で、眼は一切笑っていなかった。
「利用はさせてもらったさ。ああ、何かの足しにはなるかと思って、ウェンディゴの話を持って行ったし、カルト教団から買収した魔導書だって見せに行った」
やはり、コイツから攻めるのは間違っていなかった――少しばかり気圧されながら確信する。この男、古い付き合いということもあり、Jを相手にしたとき程、全てが霧の中にあるような感覚は覚えない。
「俺だって暗中模索だっつの。正直お前の正体もわからねえし……。いやまあ、今の発言からある程度立ち位置について予想はついたけどよ」
「おうよ。正直に言って、お前たちとは今の所、行動"だけ"見れば協力できるとは思ってる」
「けれどそれは、信頼じゃなくて信用だろう?」
「当たり前田のクラッカー。お前のことは多少なりとも信じられるが、あの貧乳はまーだ怪しいな。お前が心酔してるってんなら、悪いこと言うとは思うけどよ」
外宇宙の怪異を打倒する立ち位置。成程Jの言葉を真に受けるのなら、俺や彼女と、定光は敵対しない。
そしてその戦力として、使える札としてならともかく、こちらを当てにするつもりは一切ないということか。無論それを悪いと言うつもりはないし、むしろJに対し不信感を抱く者がいることは、あるいは光明になり得るだろう。
とは言え不安や猜疑は残る。俺たちがウェンディゴやハスターを討滅しなければ、定光は彼自身、奴らをどうにかする算段を有していたということになる。それはそれで、率先して怪異存在に殴りかかっていた彼らしいと言えなくもないが……。
「んでんで、お前今日フリーで動けるかよ。ちとウチ来いや、この件に関して、あの女のいないところで見せたいものが――」
俺の肩に腕を載せ、耳元で囁く定光。話はこう転がるか。しくじった、既に俺は時間の大半をJに裂くと宣言してしまっているし、昨夜は勢いに負けて防犯グッズを買い漁る愚挙に出ると約束してしまった。
「いや、今日は――?」
ズバイガーモンが、何かを訴えるように震えた気がした。このパートナーデジモンを、俺は物理的に持ち歩いているわけではない。言葉一つ発さぬLegend-Armsたる彼が、この世界の裏面たるデジタル空間から俺に何かを訴えるなど、一体どうしたというのだろうか。
「――おはよう二人とも、朝から男の子二人で、何をひそひそ話しているの?」
俺の疑問符に一拍遅れて、底抜けに明るい魔性の声音が背後からかけられた。
「ッ――ちぇっ、恋人のお出ましか。なァに、かわいい彼女がいる男は羨ましいねって話さ」
驚愕を押し殺した自分と定光を表彰してやりたい。なにせ、その接近に一切気付かなかったのだ。振り向いた視線の先で弓形の翠眼を覆う、眼窩に嵌めた片眼鏡が怪しく光っているような気さえした。
●
「お邪魔虫はさっさと退場しますかね」などと嘯き、定光は通学路を駆けて行った。
「酷いじゃないかツェーン、私が迎えに行った時、家の中はもぬけの殻だったぞ」
「朝っぱらからお前の好き好きコールに応えるのは荷が勝ちすぎる」
「Hmmm、そんなものか。照れが残っているのか、それとも私の魅力が足りていないのか……」
リアルでJと出会ってから、まだ日は浅い。それでも、これは平時と変わらぬやり取りだ。彼女を心より信じ切れず、しかしそんな下らぬ会話に、どこか安心感を覚える俺もいた。
下らぬ会話を続けること暫く、校舎に近付くにつれ葬列じみた学生の黒服が増えていく。俺たちがデジタル・モンスターとの戦いを忘れているかのように、チャットと同様のコントのような会話をしていると。
「――あ、あの、ロウ、さん……」
その内の一人が、J――転校生レイラ・ロウにおずおずと近寄ってきた。
「あぁ、おはよう、宗宮さん」
「ッ――お、はよう」
自分から話しかけておいて、随分と委縮した様子だ。その視線は、気まずそうに俺とJを左右していた。
そして間もなく、ここ二日間学校で態度の豹変したJと、急にJに接近した俺に不可解な目線を向けてきた内の一人だと気付く。背後の方には、顛末を見届けようとこちらを遠巻きに見つめる女学生のグループがいる。ご苦労なことだ。
「ぁ、そ、の……だいじょう、ぶ?」
「ん? 何がかな?」
白々しさマックス。宗宮なる女学生の視線の先に気付いているだろうに、Jは恍けたフリをしたままだ。
黒セーラーの袖口から覗く細い手首に、包帯が巻かれている。そう言えば、昨日は体育もあったから、着替えるレイラ・ロウの素肌に巻かれた包帯にでも気付いたのだろう。
「別に、俺は何もしちゃいないさ。事故だよ、事故」
その下手人が隣にいる男だと邪推するのも無理はない。信じるかどうかは知らないが、一応の弁明はしておいた。
「十三君の言っていることは本当よ、あなたたちが心配することじゃないわ」
しかしその上で、怯えた様子一つなく優し気な声色で名前呼びなどするから、あーほら宗宮某、石化しちゃったじゃん。かわいそうに……。
3-2 ギリシア神性ヒュプノス
冬の日差しは、どうにも温かい。紫外線の有害さはむしろ増すだろうが、夏のそれほど熱を持たず、冬の大気ほど肌を刺さない。
授業中、俺は自らの身体が宙に浮かぶのを見た。周囲は教室でもなく、俺以外の生命の影形もない。目の前に渺と聳え立つ、濃密にして不快な暗黒の霧としか表現不能なその障壁の様なものを突破すると、不思議な光を浴びて燦然と輝く星々がまるで意志を持つかのように遍在していた。
柔らかな午睡が魅せる幻覚。
その現と夢の狭間の空間で、俺は見知った男の顔を認めた。俺と定光の距離は隣合うこともあれば定光が遥か前方にいることもある。視認できる距離ではないはずだがその人型を俺が定光だと認識できるのは、ひとえにその茶色い、肩までの髪の毛によるものだった。
濃密な障壁を幾つも突破、あるいは飛翔、あるいは潜行する中で、俺は前方に定光の顔を認めていた。その表情は読み取れないが、これまで目印となっていたブラウンのヘアーカラーが急速にその色彩を失い、ぼんやりとした輪郭を持ったまま俺の視界から消滅した。
この時点で、俺は過去幾度もこの夢界へと誘われていたということを自ら思い出した。そうして定光の姿を見失った時点で、俺では進行不可能な領域がこの茫洋としたエーテルの大海に存在するのだと諦観を抱いていたことを思い出した。
俺の身体の自動的な飛翔は止まらず、普段とは全く異なる、まるで招かれているかのような気安さで、その濃密不快、粘着性のある冷たくて湿っぽい塊と表現すべき最後の障壁を通り抜けた。
「と――やっぱ、来れるようになったか」
最後の霧を突破すれば、広大無限の壮大なる宇宙に、対面するように設えられた、彫刻じみた大理石のギリシャ風のスロノス――背もたれのある椅子が二つ。その片方に、ここまで俺を導いた張本人が座っていた。
「ま、座れよ」
異論はない。摩訶不思議な現状ではあるが、しかしこの機を逃す手もあるまいと思う。幾度となく経験した記憶があり、今日この時になってようやく掴めたこの夢幻だ。目覚めれば塵と消える夢界の出来事であればこそ実感はなかったが、必ず定光が登場する。常同的に見る夢など、何らかの糸口になるに決まっている。また現状、Jとかかわりなく定光と会話できるチャンスと言える。
「お前が呼んでるのか? それともお前も俺も呼ばれてて、俺に資格がなかっただけなのか?」
「両方だ。まあそうカッカするなよ。時間は無限じゃないが、俺はお前に何があったのかは把握してるんだ」
何だと。読心か、記憶を覗かれているのか、はたまた昨日の劇場での一件も含め、知らんふりをしながら俺たちを監視でもしていたのか。まあそのどれであっても驚きはない。デジタル・モンスターの実在を目の当たりにした以上、どんな"ありえない"だって起こり得ることへと成り下がっている。
訝しむ気持ちを抑え込み、視線で話の続きを促した。
すると定光は右手を中空に掲げる。ぬらりと恐怖心を煽るかのような、それでいて吹けば飛ぶ影絵のように捉え所のない存在の出現。
一切の人的感情を解さぬことが否が応にも理解できてしまうそのヒトガタには、両肩と両腿に備わる硬質にして柔軟さを伴ったぬらぬらとした毒々しい紫色の鎧の表面に、蠢く"眼"が計四つ備わっていた。
身体の至る所から伸びる蔦が、各々意志を持った触手であるかのように動き回っている。それはさながら、昨日戦闘したハスターを連想させる。
「そいつは――ッ!」
遥か嘗て、地球に飛来した侵略者。その一味であろうと推察し、黄金のLegend-Armsの柄に手を掛ける。
「待て待て。コイツは俺のパートナーデジモンさ。名を聞けば、お前も一先ず戦闘の意志を収める筈だって」
「名前……?」
「よく見てみろ。『デジタル・モンスター』に詳しいお前なら、きっと分かるぜ」
無数の蔦。赤い角に青白い肌、そして人間の容姿を模していながら、異形の証として兜が瞳を隠している。
「……アルゴモンか」
「ご名答~」定光は茶化すように笑って続ける。
「尤も、既にお前たちに曰く"変質"しているらしいがね。俺はこの状態になってから出会ったから、本当のアルゴモンがどんななのかは知らねえ。が、少なくとも俺たちに害を与えるつもりはないらしい」
Jの使っていた"変質"という言葉。ウェンディモン=ウェンディゴ。デビドラモン≒ビヤーキー。アスタモン→ハスター。
これらの法則を鑑みるに、"変質"とはデジタル・モンスターが、太古よりこの惑星に潜むという外宇宙の存在に変貌する――先のJの言を信ずるならば逆か。外宇宙の神性がデジタル・モンスターと同一化し、その結果更なる異形と化すことだろう。
「アルゴリズムのバグから発生したアルゴモン。眠りを司るそれは、ギシリアの眠りの神ヒュプノスと同一化した。ヒュプノスは、外宇宙から飛来した"ヤツら"と長きに渡り生存競争を続けていて、"ヤツら"――"旧支配者"とその眷属ども――からは"旧神"と呼ばれている神性の一角に値するらしい」
「待て、お前はあいつら――ハスターやウェンディゴについても知ってるのか」
「応とも。で、なんでお前が戦ったそんな奴らの事まで知ってるのかというと――」
「――君の脳波。それを私が操作できるからだ」
定光の言葉を、アルゴモン・ヒュプノスが引き継いだ。
「安静閉眼時のα波、覚醒時のβ波、そして睡眠時のより周波数の低い徐波。これらを自在に組み合わせれば、眠りに堕ちながらにして自己を自覚する明晰夢を維持することは容易だ。今、君の脳波は4~12Hzを行き来している。
そして、REM期の夢という形でその記憶を見せてもらったよ。賞賛を贈らせてくれ。デジタル・モンスター化しているとはいえ、風の神性たる旧支配者を討つなどそうそうできることではない」
「そうかい。お褒めに預かり光栄だよ」
夢を覗ける。他者を眠らせられる。この上なく情報収集に向いた能力だ。しかし、だとすれば同じ教室にいるJの内心もコイツらには調べがついているんじゃないだろうか。
さて、そうなるとJを同席させずに用意したこの会合の意味も変わってくる。彼女の目的、それと定光、アルゴモンの目的が一致していない――同じ軸線状に存在しない可能性が高い。
何故なら同じ目標に向かってひた走るならば、その過程に人的被害や物的被害、手段の許容範囲の差などはあれど互いにすり合わせぐらいはして然るべきだ……コイツらとJが、共に俺を謀っている可能性もあるが、それは考えたとしてもどうしようもないので思考の片隅に追いやる。
無論この想定は推論に推論が重なった状態だ。アルゴモン・ヒュプノスに読心能力が備わっていれば確定的だが、そうでなかったとしても"旧神"がハスター達と敵対しているならば、基本的にはJと目的を同じくするはずだ。
「おっと、そう険しい顔すんなって。流石に黒歴史まで拝んじゃいねえよ。ここ数日、Jサンがやってきた前後からの記憶だけさ」
「我らとしては、"旧支配者"を打倒し得る君と敵対するつもりはない。口約束でしかないのは重々承知だが、その証左として受け取って貰えまいか」
この言動からは、目の前の二人もまた、外宇宙より飛来した"彼ら"を討ち滅ぼすために動いていると考えるべきか。
「その点について問い質さない代わり、いくつか質問に答えてくれよ」
鷹揚に首肯するアルゴモンに、何を問うべきか。
先に定光に言われた"見せたいもの"とは、アルゴモンのことで間違いないだろう。ここから導かれる会話を考えろ――そこに関する質問、例えば彼らの目的などについては、わざわざこの機に問う内容でもない。
まず、俺にここまで譲歩する理由は何か。一つはJとのパイプが最も太いからだろう。無論彼らから見て、俺がひょっとすればJの傀儡と化しているという想定もあるだろうが。他に考えられるとすれば、俺を――Legend-Armsを戦力として取り込みたいのか。
そこまで考えて、通学路での定光の台詞がフラッシュバックする。
――利用はさせてもらったさ。ああ、何かの足しにはなるかと思って、ウェンディゴの話を持って行ったし、カルト教団から買収した魔導書だって見せに行った。
『何かの足しになるかと思って』だ。つまり、彼らは彼らで旧支配者と討つに足る手段がある。十中八九が"旧神アルゴモン・ヒュプノス"の存在か。
「――ん、あぁ。案ずることはない。読心など、全知全能の称号もなければ不可能だよ」
思索にふける中、思わず仮面の上の瞳に向けた視線に何を感じたか。
だが戦力自体があるのなら、こうして俺と会話をする理由など一つだろう。
俺は意を決し、問いを固める。
「……Jに関して、お前たちの所見を教えろ」
「……いいだろう」
●
彼女については、一言で述べるなら「何故ここにいる」。そこに尽きる。
と言うのも、だ。私がアルゴモン・ヒュプノスとなって以降――君もハスター化したアスタモンに理性が失われているのを見たように、そこに最早アルゴモンの意志はないのだが――私は真っ先に"アルゴモン"のデータを解析・閲覧した。そして驚愕に慄いた。
それは強固なプロテクトだった。己がデジタル・モンスターという存在になったことは理解していたからこの表現をしよう。尤も"ヒュプノス"が知らぬ間に、この惑星に表裏一体の裏世界が生まれているなど思いも寄らなかったがね。
私の困惑はさておき、自らの素体となったアルゴモンの記憶を読み解き、せめても依り代の使命や望みを代わりに果たしてやろうと考えていた私は、記憶領域からはアクセスできないように厳重にプロテクトを掛けられたブラックボックスに遭遇した。
それは見慣れない術式だったが、同時に見慣れた系統のモノだった――ああつまり、惑星外を跋扈する異形共の御業だった。
だから解除も容易だった。プロテクト・ウォールを掻い潜り、そこで見たのは歴史書の数冊では及ばぬほどの激動の時代だ。その全てが、一切、整合性に不備を持たず「なかったこと」にされていた。
有り得ん、有り得ん話なのだ。その後、多くの人間の記憶も覗いてみた――その全てが、全く同じように、リアルワールドすら激震させた幾つもの事変を記憶より隠されていた。
そして、その中心にいたのが、あの銀髪の女――Jと名乗る一人の人間だ。彼女は共に引き連れた金色のパートナーデジモンと共に、あらゆる争乱を沈めて見せた。だが、零落した熾天のなれの果ての怪物に挑んだところで、どの記憶も終わっている。ああ、そうだ。黄金のデジモンの名も、アルゴモンも、人間たちも識らなかったか。
いずれにせよ、二つの世界を巻き込んだ災禍の中心人物だ。その末路――行く末を誰も知らぬとはいえ、タダで済んだということもないだろう。
それが何故、この場この時に現れる。定光という"アルゴモン"本来のパートナーを見つけ出し、いざ"J"の代役として――そして"ヒュプノス"としての使命を果たすため、"旧支配者"と戦っている最中に、だ。
●
「"アルゴモン"や幾人もの人間の記憶を追体験したに過ぎぬ身なれど、私ことアルゴモン・ヒュプノスは銀髪のJと名乗る女が救世に一役買ったことを知っている、君の他におそらく唯一の存在だ。その立場から言わせてもらえば、両世界を脅かした傲慢の魔王型デジタル・モンスターとの決闘に何らかの決着を着け、彼女もまた"旧支配者"との戦いに身を投じた――と、好意的に考えられなくもない」
アルゴモン・ヒュプノスは躊躇いがちに言い切った。
ただし、それはあくまでもJが、"二代目J"本人であるという前提に基づく。
「傲慢の魔王に立ち向かい、そして銀髪の"二代目J"はどうなったのか。ともすれば、彼女は砕け散り、今この蛙噛市に現れた彼女は、邪神共の象った甘い罠なのではないか。そうなれば彼女自身の証言に信は置けず、私は疑心を抱かずにいられない」
「なるほど……聞かせてくれてありがとう。感謝する。記憶のブラックボックス化については、俺がJ本人から聞いた情報がある。役に立つかはわからないけど、後で提供――ああいや、俺とJの会話自体は知っているんだよな。じゃあ端折ろう。まあその前に……」
スロノスに深く腰掛け足を組んだまま、にやけ面で俺の表情の変化を楽しんでいるかのような宮里定光。彼に視線を向け、その内心を窺った。
「お前の意見も聞きたいね、宮里家の四男」
「あえてヒトの気に食わない呼び方をする反骨心は嫌いじゃないぜ……そうだな、美少女だと思う」
飄々とした調子だが、渋面を隠そうともしない。これに関してはいつも通りのやり取りだ。俺も彼も、互いのウィークポイントを把握してそれをつっついてコミュニケーションを取っている。
「んで、ほかに質問は?」
「答える気はない……と」
「オイオイ、おっかねえな。別に思うところはない……ってのが本音さ。お前に春が来たね、おめでとう……ってぐらい? 別段俺とアルゴモンに敵対する様子はなさそうだし? 有羽クンがパイプとしてその行動を教えてくれるなら、このまま二陣営、別方向から攻めてってもいいんじゃないかと思ってる」
「よく言うよ。教えてくれも何も、そちらにアルゴモンが付いている以上、俺とJの会話は筒抜けってことだろ?」
「まぁな」
悪びれもせずに。結局のところ、俺は後手に回らざるを得ない。
「他の質問はいい。情報交換はこんなとこだろ。今後の話を始めてくれ」
ゆえに、後手は後手なりに、場当たりで対処するほかない。高度な柔軟性を維持し臨機応変に――という訳だ。何がという訳なのか俺自身説明できないが、という訳なのだ。
「承知した。我らはかねてより――とは言っても、さほど長い付き合いではないのだが――この市に根付いたダゴン秘密教団の一派を炙り出そうと動いてきた。旧支配者の数だけ、カルトも存在するのでね。君たちが昨日対処した、ハスターを擁する黄の印の兄弟団に接触していたのもその一環だ。
"ダゴン"とは、古くは聖書によって古代パレスチナにおいてペリシテ人が信奉していた神格だが、遥かな昔にゾス星系より飛来し、ムー大陸を支配したクルウルウに敗北した後、その奉仕種族と化している水の神格だ。
クルウルウ自身は星辰の配置により、大陸ルルイエごと海底に沈み、今に至るまで封印されている。
この地のダゴン教団員がクルウルウ復活を目指しているのか、それとも読んで字のごとくダゴンに信仰を捧げているだけなのかは分からないが、どちらにしろ神性クルウルウと風の神性ハスターは敵対関係にあった」
「だから、黄の印の教団員を吸収して降臨したハスターが討滅された今、ダゴン秘密教団の動きを阻害するものはいないっつースンポーよ」
定光のニヒルな笑みに少々イラっときた。
「で、だ。俺らはヒュプノスの能力で、街に起こった出来事を鋭敏に察知できる。ダゴン秘密教団と思しき動きがあれば、いい感じに偶然を装ってお前らに伝える。あとは場当たりだ。お前ら二人と共に行動するほど信は置けないが、ハスターを討った手腕については信用させてもらう」
「ああ、わかったよ」
そう、色々なことが分かった。ウェンディゴ症候群、黄の印の兄弟団、ダゴン秘密教団。この分には、もっと多くのカルト教団が蠢いていることだろう。
それらの事象がこれほど蛙噛市に集中しているのは、先に聞いていた通りJの狙い通りなのだ。
他にも、"旧支配者"の存在に"旧神"の存在。そして震えるJの口から聞いた、世界全体のテクスチャを張り替え得る超越的存在の実在も、アルゴモン・ヒュプノスとの会話で確証が取れた。
――ふと、引っ掛かりを覚えた。
「そう言えば、抜け目のないお前のことだ。『デジタル・モンスター』についてはどうせもう二人とも呼んでるんだろ?」
「? ん、あぁ、読んだぜ」
先程、ヒュプノスはアルゴモンの記憶の中から、黄金のパートナーデジモンの存在を話題に挙げた。
J著『デジタル・モンスター』の中でも、Jの相棒の名は巧妙に隠されたままだった。だが、あの動乱を目の当たりにしたデジタル・モンスターの記憶の中ならば、その名がはっきりする可能性がある。
「そのデジタル・モンスターの名前、アルゴモンの記憶の中にはなかったか? ひょっとすると、この――」
黄金の剣、Legend-Armsと何かかかわりがあるかもしれない。Jが俺に執心しているのも、ひょっとしたら……。そう言いかけつつズバイガーモンを彼らの前に提示しようとして――。
『……君。…三君、十三君!』
俺の意識は、眠りの神が齎す夢の中から急速に引き戻された。
●
潜行時にはいたく苦労した幾層ものエーテル壁を瞬時に飛び越えて、俺の意識は覚醒した。いきはこわいがかえりはよいよい、と言わんばかりの急速浮上。
薄明りに瞼を開けば、目の前には黒セーラー服に身を包んだレイラ・ロウの薄い胴と、俺の机にかけられた白く繊細な指先が。
頭を少し上に向ける。
「おはよう、十三君。ふふ、よーく眠ってた」
イタリア男を一瞬で求婚に持って行かせそうな微笑みで、Jが周囲の視線やひそひそ声を意に介さぬまま待っていた。
「……ぉう」
細心の注意を払い、寝起きの不機嫌な声を演出しつつ定光の方を盗み見る。彼が小さく舌打ちしたのを見逃さない。
このタイミングで俺を目覚めさせたのが、意図的な妨害であると確信できる。そもそもイグドラシルの端末であると言え、神の御業による脳波の調律を、こうまで乱せるものなのか。ともすれば、"二代目J"は魔王戦役の後に没しており、彼女は本当に――イグドラシルの端末を名乗っているだけの、邪神の触覚なのではないか。
「この前約束した通り、今からデートに行きましょう?」
疑心暗鬼は加速する。
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